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2009年7月31日金曜日

ネット空間における世論形成と「世間」について少し考えてみた


                  
 私がここ最近書評を投稿しているオンライン書店bk1のコラム「書評ポータル」の本日7月31日付の記事に、以下のコメントが載っているので転載させていただく(・・毎週更新されるコラムなので、過去の文章は消去されてしまう可能性が高いので、写真で記録しておくこととした)。 



「KY=空気が読めない」
という言葉に初めて遭遇した時、私は驚きと一種の不快感を覚えたものでした。周りの顔色をうかがうより自分の意見をしっかり持てよと、若い人たちに説教したい気持ちにかられたものです(笑)。しかし、「KY」を巡る社会的条件は実は結構複雑なのですね。日本人の対人意識をテーマにした鴻上尚史著『「空気」と「世間」』の書評の中で、“サトケン”さんはこのように書いておられます。「壊れた『世間』にかわって現在の日本人、とくに若い人たちを支配して猛威をふるっているのが『空気』だという指摘は、実に納得いくものである」「安定した状態ではその組織なり人間関係の中で『世間』が機能するが、不安定な状態では『空気』が支配しやすい。/『世間』が長期的、固定的なものであるのに対し、『空気』は瞬間的、その場限りの性格が強い」。なるほど。しがらみにがんじがらめになっているからではなく、逆に、人間関係が希薄だからこそ過剰に顔色をうかがうようになっているということですね。異論を挟むと相手が傷ついてしまったりするので言いたいことも言えなくなる・・・うーん、これはまずい。ものの言い方には気をつけなければいけませんが、言説を真摯に検討して批判的に評価することも、相手に対し敬意を払うことではないでしょうか。この書評コーナーが、自由と中身の濃さを併せ持つ「世間」形成の場になればなあ、と思ってしまうのです。

<2009.7.31 オンライン書店ビーケーワン販売部 辻和人>


 ネット空間において非難の応酬バトル、というより集中攻撃が展開される、いわゆる「ブログ炎上」については、すでによく論じられている現象であるが、リアル世界よりも匿名性が当たり前のネット空間では、より凝縮された形で発火炎上しやすい

 これを避けるためには、ある種の「節度をもった振る舞い」がネット空間においても求められる。

 bk1やamazonを含めたオンライン書店に投稿された書評は有用なものも多い一方、ただ単に著者が嫌いだとか、扱っている対象が嫌いだとか、取り上げた内容が気にくわないとか、一方的に切り捨てる形のネガティブなコメントも多々見られる。

 往々にしてこの種のコメントは、内容をまったく読まずに思い込みだけで書かれていることが多い。

 正直言ってこういうコメントは読んでいても気持ちよくならないのは確かだ。

 
 私が書評で取り上げた鴻上尚史の『「空気」と「世間」』について敷衍すれば、ネット空間における「ブログ炎上」現象とは、ある一定の秩序が形成される前のカオス状態での、瞬間風速的な「空気」の醸成と爆発炎上、とでもいえようか。

 「世間」がいいとは決していわないが、「世間」は属する人をうっとおしく拘束する反面、暗黙の掟(ルール)を、タテマエとしてであれ、侵犯さえしなければ安楽に生きていける、という両面をもっている。

 「世間」とはまあ、いってみれば日本語を母語とする日本人というコドモが、オトナとして生きるための"偽装"、"擬態"ではあるが、ネット空間ではオトナの仮面(ペルソナ)をかぶる必要がないので、内なるコドモが一気に浮上して前面にでてしまうのだろう。

 自らの内なるコドモは、あくまでも自分のココロの中にしまって飼い慣らしておかねばならないのだが・・・もっともあまり抑圧しすぎると「逆噴射」してしまうので、適度な減圧も必要ではある。


 「世間」や「空気」は、日本語を「母語」として受け入れた人間が日本語で生きていく限り、逃れ得ない宿命に近いものだと考えなくてはならない。

 母語とは英語で言えば mother tongue (ドイツ語なら Muttersprache)、つまり人間がこの世に生まれてから初めて話かけられ認識されるコトバの体系のことをさす。新生児にもっとも近い存在である母親のコトバ、すなわち母語、という。実際は出生以前、母親の胎内にいるときから母親のコトバを聴いていると考えるのが正しいだろう。

 社会言語学者でモンゴル学者の田中克彦は『言語の思想』(NHKブックス、1965)の中で、「人間は、このような不合理な運命づけによって、具体的にどれかのことばを母語としないかぎり人間になることはできない」といっている。至言である。

 これは、コンピュータ用語でいえば、日本語を母語として受け入れた人間は、日本語をOS(オペレーティング・システム)として、その上で様々なアプリケーションソフトを走らせるしか他に生きる道はない、したがって日本語世界から絶対に逃れることはできないのだ。

 もしいやなら初期化して、別の言語のOSを再インストールするしかないのだ。

 しかしこれは人間についてあてはめると、生命維持装置を解除するということなので、もちろんお奨めできません(・・いったん脳から記憶を完全消去しても、OSそのものは消去されないようである。記憶喪失から戻った人間がいきなり全く知らない言語をしゃべり出すということは観察されていない。脳科学的にどういう現象なのか知りたいものだ)。

 ネット時代においても、リアル世界と同様、「世間」についてきちんと考える必要があるのではないか。それが日本語による言説空間である限り。

 「世間」とは、福岡ハカセ的にいえば「動的平衡」の一形態といってもいいのだろうか?



PS ネット空間における「世間」について(再び) もご覧いただきたく
                
        




<ブログ内関連記事>

書評 『「空気」と「世間」』(鴻上尚史、講談社現代新書、2009)-日本人を無意識のうちに支配する「見えざる2つのチカラ」。日本人は 「空気」 と 「世間」 にどう対応して生きるべきか?

ネット空間における「世間」について(再び) 

書評 『見える日本 見えない日本-養老孟司対談集-』(養老孟司、清流出版、2003)- 「世間」 という日本人を縛っている人間関係もまた「見えない日本」の一つである

書評 『醜い日本の私』(中島義道、新潮文庫、2009)-哲学者による「反・日本文化論」とは、「世間論」のことなのだ

集団的意志決定につきまとう「グループ・シンク」という弊害 (きょうのコトバ)
・・グループシンクという「空気」がつくりだす「集団浅慮」のワナ

映画 『es(エス)』(ドイツ、2001)をDVDで初めてみた-1971年の「スタンフォード監獄実験」の映画化
・・視線という権威、権力が支配する空間が「世間」。集団同調圧力は日本人以外にも働くのである

映画 『偽りなき者』(2012、デンマーク)を 渋谷の Bunkamura ル・シネマ)で見てきた-映画にみるデンマークの「空気」と「世間」


・・「世間」も「空気」も特殊日本的現象ではない






(2014年1月9日 情報追加。なお本文には改行を増やし、太字ゴチック化など読みやすくした。内容にはいっさい手入れていない)





(2012年7月3日発売の拙著です)









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2009年7月30日木曜日

書評『「空気」と「世間」』(鴻上尚史、講談社現代新書、2009)ー 日本人を無意識のうちに支配する「見えざる2つのチカラ」。日本人は 「空気」 と 「世間」 にどう対応して生きるべきか?


日本人を無意識のうちに支配する「見えざる2つのチカラ」・・・日本人は 「空気」 と 「世間」 にどう対応して生きるべきか?


 日本人を無意識のうちに支配する「見えざる2つのチカラ」、すなわち 「世間」「空気」 について、自らのアタマで考え抜いて、しかもわかりやすくていねいな説明を試みた本。しかも処方箋つきだ。

 著者は脚本家、演出家として、長い期間にわたって、さまざまな年齢層の日本人と接してきた。

 若い人たちが「空気」を読めないために感じている苦しみにも多く接してきた。そしてまた、息が詰まる、うっとおしい 「空気」 の中でどう生きていくかとい
う、自分自身の悩みもあった。

 著者が「空気」について考える中で出会ったのが、同じく日本人を無意識に支配している「世間」についてであった。

 『「空気」と「世間」』(鴻上尚史、講談社現代新書、2009)において初めて、いままでまったく接点がないと思われていた阿部謹也山本七平が合体したのである。

 すなわち、ドイツ中世史を専門とする歴史学者であった阿部謹也の「世間」論と、評論家でかつ聖書学関連の出版社を経営していた山本七平の「空気」論である。

 これによって、しっかりとした現状分析が可能となり、また解決策と処方箋も視野に入ってきた。


 日本語を使い日本人社会に暮らす日本人は、誰もが避けて通ることのできない 「世間」 と 「空気」。これは海外にいても同じことだ。

 「世間」はその中にいるとうっとおしく思う反面、その暗黙のルールに従ってさえいれば自分を守ってくれる、という2つの側面をもっている。

 とくに経済的な安心感が精神面の安心感を約束していた時代には、「世間」は強固な存在であった。


 「しかしながら世間は壊れている、しかも中途半端な壊れ方だ」、これは著者の基本姿勢である。

 社会学者の宮台真司もフィールドワークをつうじて、すでに同様の指摘を行ってきたが、大都市だけでなく、地方都市でも「世間」はすでに壊れている。

 とくに2000年以降、「年功序列」と「終身雇用」という日本的経営の重要な要素が崩壊を始め、その結果、「世間」としての会社がもはや従業員とその家族を経済的に守ってくれる存在ではなくなっている。 また2008年のリーマンショック以降の大不況は、さらに「世間」の崩壊スピードを加速させている。


 壊れた「世間」にかわって現在の日本人、とくに若い人たちを支配して猛威をふるっているのが「空気」だという指摘は、実に納得いくものである。

 安定した状態ではその組織なり人間関係の中で「世間」が機能するが、不安定な状態では「空気」が支配しやすい。 「世間」が長期的、固定的なものであるのに対し、「空気」は瞬間的、その場限りの性格が強い。

 著者は、「空気」とは「世間」が流動化したものだ、という「仮説」を示しているが、これは卓見であろう。
 

 では日本人は 「見えざる2つのチカラ」・・・日本人は 「世間」 と 「空気」 にどう対応して生きるべきか? ここから先の処方箋は、実際に本を手にとって直接目をとおしてほしい。安易な結論を求めがちな世の中だからこそ、著者の議論に最初のページからつきあってほしいのだ。

 平易な表現で語りかけている本だからこそ、自分自身の問題として自分で考えるための「手引き」になるはずだ。

 そして自分自身の処方箋を書いてほしい、と思う。


■bk1書評「日本人を無意識のうちに支配する「見えざる2つのチカラ」・・・日本人は 「空気」 と 「世間」 にどう対応して生きるべきか?」(2009年7月27日に"サトケン"にて投稿掲載)
■amazon書評「日本人を無意識のうちに支配する「見えざる2つのチカラ」・・・日本人は 「空気」 と 「世間」 にどう対応して生きるべきか?」(2009年7月28日に"左党犬"にて投稿掲載)





<書評に関する付記>

 文中、阿部謹也と呼び捨てにしているが、これは客観性を担保するための措置であり他意はない。

 実は、私は阿部ゼミナール出身なので、本当は「阿部先生」と書きたいのだが、あえて"禁欲的"に振る舞った。以下も敬称略で記す。

 「世間論」になんらかのコメントをすることは、ある意味で、私の義務だと考えていたので、少しほっとしている。ユダヤ研究の続きを書かないのは怠慢ではあるが、現在の関心対象からは大きく外れてしまっているので、そのかわりとして今は亡き阿部先生には受け取っていただけたらと思う。

 私自身は、中世ヨーロッパ研究そのものもさることながら、「"後期"阿部謹也」における「世間論」探求がもっとも重要な仕事であったと考えている。

 私も含む日本語を母語とする日本人にとっての、実存そのものにかかわる問題だからだ。ヨーロッパ研究はそのための作業前提、別の言い方をすれば深いレベルで日本研究するための"鏡"の役割を果たしたといえるだろう。


 鴻上尚史は、本書第4章の末尾で、阿部謹也と山本七平は生前には接点はなかっただろうと書いているが、実はこの二人には共通点がある。人生のすべてにわたっていたかは別にして、一神教であるキリスト教の神を実存レベルで知っていたことである。いいかえれば、現世とは異なる「向こう側の世界」を知っていたこと、これが彼らをして、ふつうの日本人には見えていない「世間」、「空気」を発見せしめたのである。

 阿部謹也は中学生の頃、家庭の事情でカトリックの修道院に預けられ、将来は司祭になること嘱望されていたこと、山本七平は洗礼を受けたキリスト教徒で、聖書学関連の山本書店の創業者で経営者、旧約聖書にかんする知識を駆使して『日本人とユダヤ人』という本をイザヤ・ベンダサンというペンネームで出版したことは現在では周知の事実である。


 鴻上尚史は、いわゆる原理主義的な福音派キリスト教徒が多数を占めるアメリカについて言及しているが、アメリカとヨーロッパの違いは特記しておかねばならない。

 「神は死んだ」とニーチェが叫んでからすでに100年以上、日本並みにすでに世俗化が進行しているヨーロッパ(・・とくに西欧)とは違い、ヨーロッパでの迫害を逃れアメリカに渡った人たちの子孫である現在のアメリカ人は宗教的に覚醒しており、同じく宗教的に覚醒しているイスラームと同様の"熱さ"を発散している。一言で欧米というのは大きな間違いである。

 敗戦以降、アメリカの圧倒的な影響下にあった日本と日本人(・・キリスト教に限定すれば、明治以降アメリカのプロテスタンティズムの影響が強い)にとって、アメリカ的なものである宗教に言及するのは当然だといえる。しかし「世間」を一神教の神になぞらえるのが適当かどうかはわからない


 鴻上尚史は、「空気」は「世間」が流動化したものだ、といっているが、これは卓見ではあるがあくまでも検証不可能な仮説である。そもそも「世間」自体が作業仮説であり、今に至るまで実証されたことはないし、教義体系も偶像もない「見えない存在」だ。エーテルのように遍在しているわけでもない。特定の人間集団内に形成されるある種の「共通感覚(コモン・センス)」のようなものであろうか。

 一方、山本七平が「空気」といったものは、初期キリスト教におけるギリシア語「プネウマ」の援用である。風や息といった意味だが、キリスト教では重要な概念である「聖霊」を表すコトバでもある。

 山本七平による、日本人の集団における「空気」の"発見"は、特筆すべき事項である。しかし、さすがに山本七平も現在ここまで「空気」が猛威を振るうとは想像はしなかったであろう


 私の処方箋は、複数の人間関係(ネットワーク)をもち、それぞれ別個の存在として、互いに関係をもたせないことにある。若者ではないが、「スタンスをとる」ことはきわめて重要な処世術である。コミットしすぎないこと。

 発言している自分を観察するもうひとりの自分をつねに活性化させておくこと、「幽体分離」というよりも世阿弥的にいえば「離見の見」であろうか。工学的にいえば「自動制御装置」(built-in-stabilizer)の必要といってもいいかもしれない。

 キリスト教徒でもムスリムでもない仏教徒の私は、絶対他者(=至高存在、あるいは神)の存在は否定しないが、状況的に振る舞うことは決して倫理にもとることとは考えない。

(以上)



PS 読みやすくするために改行を増やし、一部を太字ゴチックとした。文章の変更はいっさい行っていない。なおこの記事の執筆後に書き続けているブログ記事のなかから参考となるものを<ブログ内関連記事>として付け加えた。

ただし、わたし自身は、鴻上氏の主張はあくまでも「仮説」であり、「世間」というコトバはあまり聞かなくなったとはいえ、実体そのものが消滅したわけではないと考えている。とくに社会を知らない学生は、いまだ「世間」には触れていないので「空気」に敏感に反応する傾向があると考える。 (2013年11月5日)



<関連サイト>

「日本社会の二元的構造」 (講師:一橋大学大学名誉教授 阿部謹也、平成15年5月13日 於:如水会館、社団法人 如水会)
・・一橋大学の同窓会である如水会での講演録

(項目新設  2017年8月14日)


<ブログ内関連記事>

書評 『見える日本 見えない日本-養老孟司対談集-』(養老孟司、清流出版、2003)- 「世間」 という日本人を縛っている人間関係もまた「見えない日本」の一つである

書評 『醜い日本の私』(中島義道、新潮文庫、2009)-哲学者による「反・日本文化論」とは、「世間論」のことなのだ

書評 『緑の資本論』(中沢新一、ちくま学芸文庫、2009)-イスラーム経済思想の宗教的バックグラウンドに見いだした『緑の資本論』
・・山本七平の「空気」論は新約聖書に使用されるギリシア語プネウマにもとづく議論。プネウマは「息」や「空気」あるいは「聖霊」を意味する。三位一体の「聖霊」である

書評 『毒婦。木嶋佳苗 100日裁判傍聴記』(北原みのり、朝日新聞出版社、2012)-これは「女の事件」である。だから「女目線」でないとその本質はわからない
・・「都会と地方の違いは、さらに大きなものもある。「世間」という視線が集中する状態は、見知らぬ人の多い都会よりも地方のほうが、より強烈に存在するからだ。つねに視線を意識しなければならない「世間」はきわめてうっとおしいものだ。しかし、そうはいっても、視線を無視する姿勢をとることが、日本という世間においていかなるリアクションを誘発するのか、これもまた木嶋佳苗という人物を考える上で重要な観点だ」

映画 『es(エス)』(ドイツ、2001)をDVDで初めてみた-1971年の「スタンフォード監獄実験」の映画化
・・視線という権威、権力が支配する空間が「世間」。集団同調圧力は日本人以外にも働くのである

米国は「熱気」の支配する国か?-「熱気」にかんして一読者の質問をきっかえに考えてみる

映画 『偽りなき者』(2012、デンマーク)を 渋谷の Bunkamura ル・シネマ)で見てきた-映画にみるデンマークの「空気」と「世間」
・・「世間」も「空気」も特殊日本的現象ではない

「プリンシプルは何と訳してよいか知らない。原則とでもいうのか」-白洲次郎の「プリンシプル」について
・・プリンシプルをもった生き方とは日本人離れしたということ。つまり世間のしばりにとらわれない生き方だ

「空気は読むものじゃない、吸うものだ」(笑)

ネット空間における世論形成と「世間」について少し考えてみた

ネット空間における「世間」について(再び)

朝青龍問題を、「世間」、「異文化」、「価値観」による経営、そして「言語力」の観点からから考えてみる

書評 『ヨーロッパ思想を読み解く-何が近代科学を生んだか-』(古田博司、ちくま新書、2014)-「向こう側の哲学」という「新哲学」
・・阿部謹也と山本七平に共通していたのは、現世とは異なる「向こう側」の世界を感知する能力であった。両者はともにキリスト教信者であった

(2013年11月5日 項目新設)
(2014年3月4日、2015年6月15日 情報追加)


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2009年7月29日水曜日

『新世紀 エヴァンゲリオン Neon Genesis Evangelion』 を14年目にして、はじめて26話すべて通しで視聴した




1995年にTV放送されてからなんと14年目にして、初めてかの有名なアニメ作品『エヴァンゲリオン』をみた。

 設定は2014年、主人公の碇(いかり)シンジは14歳の設定、意図したわけではないが、なにやら暗合めいた話ではないか。

 4日間かけて全26話を見終わった。総計13時間近くなる。どうせなら最初から28話にして14時間で設定すればよかったのでは?

 放送当時から、とくに主人公のひとりである綾波レイ(写真)のフィギュアがちまたにあふれていたが、アニメそのものはいまだ見たことがなかったし、1995年当時すでに30歳代の大人(?)がアニメについて話すのは、なんだかオタク扱いされかねないので避けていた、ということもあるような気もする。

 それまでのロボットアニメの常識を覆した難解な作品であること、はそのとおりである。その意味では大人でも十分に楽しめる。すでに古典か?


 このアニメが制作・放送された1995年は、私の認識においては、それは「終わりの始まり」の年であった。

 阪神大震災にオウム・サリン事件、キリスト教的伝統のない日本であるにもかかわらず、「終末論」的幻想が世の中にエーテルのようにみちみちていた

 1995年こそエヴァンゲリオン的にいえば、「セカンド・インパクト」の年だったように思える。

 「終わりなき日常」をむりやり終わらせるチカラとしての「終末論」、オウムの場合は「予言の自己成就」的性格が強かったのだが・・・時代の雰囲気としてはそういうものであった。

 2009年のいまは、ただひたすら生命力の衰退している日本ではあるが・・・もはや暴力的な形での終末ではなく、「終わることにない衰退」か? 宮台真司流にいえば「底が抜けてしまっている」状態だから。

 1995年の制作・放送なので、携帯電話ではなく緑の公衆電話(!)にテレホンカード、i-Podもなく、カードリーダーも非接触型というよりもかなり旧式・・・となんだか笑ってしまう。
 制作時点での考え得る限りの最新テクノロジーも、実際の開発スピードとシンクロすることは絶対にないようで、これはまあご愛嬌か。

 この作品については放送開始以来、世界中で(!)膨大なコメンタリーが作成されているようだが、こういった批評はいっさい参照せず、虚心坦懐に予備知識一切なしで見てみることとする。
 したがって、以下に書いたことはすべて私の感想であり、別に論争に参加するつもりもないし、すでに言い尽くされていることでもあろう。


 今回初めて通しで見た『新世紀 エヴァンゲリオンNeon Genesis Evangelion』は、米国版DVD Platinum Complete Set で、サブ音声の日本語+英語字幕で見た

 第21話から第24話までは、Director's Cut バージョンが別に用意されている。今回はこちらを見ることにした。どうせ見るなら、監督の意志に近いバージョンに近い方がいいだろう。

 日本語音声で英語字幕という形の視聴をしていて気になるのは、日本語で「使徒」が、英語では大文字の「Angel」になっていること。Angel のもともとの意味は「使者」だから、正確に把握した翻訳だといえようか。

 ヒト(人)とシト(使徒)は、日本語のセリフを耳で聞いてりう限り、なんだかダジャレのようなかんじもするが、あえてそういう設定にしたようにも思える。
 もちろん Evangelion とは、福音を意味する Evangel (Gospel, Good News)からつくった造語だろうが、一方、Adam に対する Eva の含みもあろう。このロボットそのものが何度も暗示さえているように、なにもかも飲み込もうとする母胎の暗示か、自他融合して一体になろうという意志か?
 
 英語版音声や、英語字幕はアメリカ人がつけているが、英語で考えるとこの作品の意味もわかってくる。日本語のわからない英語人の把握は、もしかすると若干違うのかもしれない。
 Genesis だから、「新世紀」というより「新・創世記」なのだろう・・・
 「人類補完計画」は Human Instrumentality Project ・・・Complementality ではなく Instrumentality ・・


 オープニング映像にあるユダヤ神秘主義カッバラーの生命の樹、そしてユダヤ=キリスト教的世界観に違和感なく(?)どっぷりと漬かっていながらそれと気づかない現代日本人、これはオウム真理教も同様であった。

 主人公のひとりアスカ・ラングレー惣流がいつもいらだっているが、主人公の少年シンジがやたら口にする「仕方がない」というセリフが多く、英語では It can be helped. There is no choice. となっていること。これはいかにも日本人的な発想ではないか?
 しかし、主人公の碇シンジの優柔不断さは、よくいえば誠実さといいかえることもできるだろう。いや内向的というべきか。
 14歳くらいの男の子はこんなものだ。女の子にくらべて精神年齢ははるかに低く、実は優柔不断な存在である。自分がそうだっただけに(いまもそうか?)、少なからず共感はある。割り切れない性格。自分を自分として受け止めることができない。
 しかし14歳の思考の限界を超えてしまっている、いや無意識の領域に入り込みすぎてしまっている、というべきか?

 英語のセリフをみていると "I" が自明の存在であることを前提にしているので精神病者のセリフのような奇妙な響きをもつが、日本人の発言としては、そもそも「自分」は自明の存在ではないのではないか?

 そもそも「使徒」とは何なのか?
 なぜこうまで波状攻撃をかけてくるのか?
 そしてなぜ14歳の子供なのか?

 全26話のうち前半の13話までは、ロボットアニメのカテゴリーの作品として、ある意味安心してみていることができたが、折り返しの14話以降、急速にストーリーが複雑化する。またここで14か・・14からすべてが本当に始まるという暗示なのか・・
 ある程度意味は解読可能だが、子供がみても知的に解読することは不可能だろうし、もし自分が14歳のとき見たらトートロジーの悪夢にうなされそうな感じがする。感覚的には理解できるだろうから。

 目的と存在意義が不明瞭なままの状態での自己選択、自己意識のゆらぎ、存在意義のゆらぎ、死への誘惑、潜在意識レベルの浮遊、意識の変容、自他意識境界の消滅・・・
 そもそも内面について語るのは、平安時代の日記文学以来の国文学の伝統だし、別にユングなどに言及しなくても、日本人にとっては奇妙でもなんでもない。
 そして内面において自他意識の融合、自他の消滅が起こるのも不思議ではない。
 自己啓発セミナー?

 居場所を求めて苦しむ現代の14歳の物語、といっていいのだろうか? そして成長の物語?
登場人物の大半が何らかの形でトラウマを負った存在。
 複数の現実、自分がみたいと思っている現実、他人が見ている現実・・・・・
 そもそも自分はどうして自分なのか・・・

 そもそもこの物語自体が現実だったのか、別次元の現実だったのか?



<追記>
 南極で「セカンド・インパクト」が発生し人類の半分が失われたのが2000年、物語は2014年に設定されている。やはり14年だ。この14という数字は何なのか?
 14という数字をめぐるシンクロ(ニシティ)?? (2009年7月31日)


 監督の庵野秀明は1960年生まれ、私よりは年上ですが、まあ同世代といってよい。なるほど、彼の作品世界との親和感を感じるのも不思議ではないわけだ。
 さすがに26話続けてみたので「エヴァンゲリオンのオープニング主題歌:残酷な天使のテーゼ」(YouTube動画、音声でるので注意!)がアタマにこびりついて離れない kensatoken です。

(2009年8月1日)


 





<ブログ内関連記事>

遅ればせながらアニメ 『進撃の巨人』を第10話からローカル局の東京MXで見始めた-戦わなければ生き残れない!

書評 『ロボットとは何か-人の心を写す鏡-』(石黒浩、講談社現代新書、2009)-「人間とは何か」、「自分とは何か」というロボット工学者の哲学的な問い

書評 『ロボット新世紀』(シリル・フィエヴェ、本多力訳、文庫クセジュ、2003)-ロボット大国ではないフランス人がロボット開発の方向性を網羅した簡潔なガイド

「ロボカップ ジャパンオープン 2013」(会場:玉川大学・玉川学園)の最終日にいってきた(2013年5月6日)

ボリウッド映画 『ロボット』(2010年、インド)の 3時間完全版を見てきた-ハリウッド映画がバカバカしく見えてくる桁外れの快作だ!

(2014年11月22日 項目新設)





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2009年7月28日火曜日

「マレーシア・ハラール・マーケット投資セミナー」(JETRO主催、農水省後援)に参加(2009年7月28日)-ハラール認証取得でイスラーム市場を攻略





 本日(2009年7月28日))午後、ジェトロ主催のセミナー 「マレーシア・ハラールマーケット投資セミナー」に参加してきた。会場は六本木のANA・IHGホテル。

 現在、マレーシア政府は、マレーシアを世界のハラール産業のハブとする戦略を打ち出しており、世界のムスリム18億人をターゲットにしたイスラーム市場へのゲートウェイとする国家戦略を遂行している、という。

 マレーシアのこの政策と、日本の農水省が意図する日本の食品産業の海外売上比率を向上させる政策がシンクロして今回のセミナー開催となったようだ。

 マレーシアでハラール認定を取得して、日本の食品メーカーは、東南アジアと中近東を中心としたイスラーム圏の市場を攻略せよ、という大方針である。

 本日のプログラムは以下のとおり。
13:30~13:35 主催者挨拶
13:35~14:15 「マレーシアにおける食品産業のビジネス機会」 :マレーシア工業開発庁(MIDA)東京事務所 所長 ラジェンダラン 氏
14:15~14:30 休憩
14:30~14:40 ビデオ「世界は今 ‐JETRO Global Eye」「マレーシア 世界のハラル・ハブ」上映
14:40~15:40 「マレーシア・ハラールハブ ‐世界のハラル市場へのゲートウェイ」 :ハラール産業開発公社(HDC) 最高経営責任者(CEO)ダトスリ・ジャミル・ビディン 氏
15:40~16:00 質疑応答

「ハラール」とは何か?

 まず、ハラール(Halal)とは何かについて見ておかないといけない。

 セミナーで講演した、マレーシア・ハラール産業開発公社(HDC:Halal Industry Development Corporation) の最高経営責任者(CEO)ダトスリ・ジャミル・ビディン氏は、こう説明していた。

 アラビア語の "Halalan Tayyiba" であるとは、Halal(=permissible、Shariah compliant)Tayyiba(=Good)、すなわちシャリーア(イスラーム法)に適法でかつ善であること、だと。これを満たす食品がハラール・フードということになる。

 これだけだと簡潔すぎるので、岩波イスラーム辞典』(岩波書店、2002)の説明を引用してみよう。
「イスラーム法的に合法な食品。とくに肉および肉製品についていう。イスラーム法では天然の食物は原則としてハラール(合法)であるが、豚肉、死肉、偶像に捧げられた動物の肉、血などが禁じられている。牛、羊、鶏等についてはアッラーの名において屠り、血抜きをすることがイスラーム法で決められている。・・(中略)・・現代では非イスラーム圏からの食料品輸入の増加によって、しばしば輸入品についての疑義が呈される事態となっている。2000年12月には、インドネシア味の素の製品が製造過程で触媒に豚製品を使ったとして大きな問題になった。・・(後略)・・」(小杉泰)

 私が大学時代から使っていた『平凡社イスラム事典』(1982年初版)には、「ハラール」という項目はない。

 おそらく『岩波イスラーム辞典』の記述にもあるように、2000年のインドネシア味の素事件のインパクトは日本企業にとってはきわめて大きなものだったのだ、と考えられる。ちなみに余談だが、インドネシアでは味の素のことを Masako という。

 平凡社版(初版)と岩波版(初版)のあいだの20年で、イスラームは、アラブの石油やイラン革命といった大きな出来事から、食品という日常的な場面にまで細かく目が届くようになったということだろうか。


 ハラール・フードとは、したがってイスラーム法に則った合法的な(=シャリーア・コンプライアンスな)食べ物のことで、わかりやすい例でいえば、とくにいかなる形であれ豚肉を使用していないこと、またアルコールを使用していないことが求められる。肉類の屠殺方法だけでなく、調味料その他すべてにおいて、これらの材料が成分として使用されてはならない。

 沖縄料理にラフテーというものがある。いわゆる豚の角煮、中国料理のトンポーロー(東坡肉)のことだが、これはまさにノン・ハラール料理の最たるものだろう。イスラーム法で禁止された豚肉を泡盛(沖縄焼酎)というアルコールで煮込んだ料理だから。

 私が大好きな豚角煮を食べられないというのであれば、この点にかんしてだけいえば、ムスリムになりたいとはあまり思わないなー。


ハラール・マーケットはいま確実に成長している市場

 とはいっても、日本にいると気づきにくいが、ハラール・マーケットはいま確実に成長している市場であることは特筆しておく必要がある。

 ムスリム人口は世界で20億人強ハラール・フードの市場は、全世界で US$5,823.2B (5,823.2億米ドル≒55兆円)と推計されている。しかもこの市場は年々拡張している。

 巨大な市場である。これを無視するのがいかに馬鹿げているか、日本の食品産業はよく認識しなくてはいけない、というわけだ。

 これはイスラーム国ではない東南アジアの仏教国タイでも同様で、私が毎朝食べていた CP-Meiji(タイ最大の食品企業CP社と明治乳業の合弁企業)のヨーグルトはハラール認定マークがついていた。

 国内に約4%のムスリム人口をかかえるだけでなく、間違いなくイスラーム圏への輸出を前提に製造販売されているからである。


食に関する禁止事項に関してはユダヤ教徒も同様

 もちろん食に関する禁止事項に関してはユダヤ教徒も同様で、よく知られているように、厳格に教えを守る人たちはエビやカニなどの甲殻類は禁止、豚肉は禁止、その他の肉類もコーシャー・ミート(Kosher Meat)といってイスラーム同様に決められた屠殺方法により血抜きすること、肉類と乳製品は一緒に摂ってはならないなど、ことこまかに決まっている。

 コッシャーとはヘブライ語で適切な、という意味。イスラームでいうハラールに意味は近い旧約聖書のレヴィ記第11章が根拠である、とのこと。

 私はニューヨーク州の大学院に通っていたが、私が住んでいた地域にあるスーパーマーケットにはコーシャー・コーナーがかならず設けてあった。ニューヨーク州のユダヤ系市民はイスラエルのユダヤ人よりも数が多い。もちろんパンもコーシャーである。

 ちなみに日本のスシはハラール認定されておりムスリムは安心して食べることができる。ニューヨークでもユダヤ教厳格派向けのスシ・バー(sushi bar)もあるらしい。スシが全世界に普及している理由の一端はここにあるのかもしれない。


マレーシアは政府がハラール認証制度を運営

 ハラール産業でマレーシアが優位にたっているのは、ハラール認証制度ににおいて、他のイスラーム諸国が民間団体が認証を実施しているのに対し、マレーシアは政府が認証制度を運営しており、認証費用は約1,000ドルと比較的廉価(・・ただし職員の旅費交通費等は実費)であり、中近東諸国でも信頼性が高く、実質的なデファクト・スタンダードになりつつある、ということにあるようだ。

 ハラール認証制度は、食品産業のHACCP(ハサップ)のような認証制度、もう少し広く捉えればISO(国際標準化機構)のような認証制度に近いといってもいいだろう。

 認証は工場単位であって企業単位ではない。原材料についてだけでなく、生産ライン、仕入れ先、外注先のを含めたサプライチェーンについて審査が行われ、合格すると認証される仕組みである。

 ハラール認証の仕組みにのっとって食品加工を行っていれば、ある意味トレーサビリティが確保されるわけで、食品の安全性の確保にも寄与するところが大きいと考えられる。

 実際、インドネシアでは問題に巻き込まれたものの、味の素は以前からハラール認定は取得しており、東南アジアで生産販売活動を行っている食品企業ではすでに常識といっていいだろう。
 

 会場でも上映されたJETRO制作の番組 ビデオ「マレーシア 世界のハラル・ハブ」は、下記サイトで閲覧可能であるので紹介しておく(*)

(*) 残念ながら現在はリンク切れのようだ。


 マレーシアは、ハラール・フードの認証制度だけでなく、ハラール専用の工業団地もすでに開発しているし、ハラール認定のためのトレーニング・セミナーも世界各国で実施している。日本でも今年度中に実施されるらしい。

 マレーシアは、ハラール・フードの認証制度で、国際的に覇権をとろうという明確な国家戦略を追求している、と私には映る。

 また、イスラーム金融においても、国際的なイニシアティブを握るべく国家戦略として積極的に取り組んでいることもあり、小国マレーシアがイスラーム圏のなかで存在感を示すための姿勢には大いに注目する必要があるだろう。

 国際規格は、欧州と米国とのあいだでのせめぎ合いとだけ理解していては片手落ちのようだ。

 イスラーム圏という巨大市場は日本人の盲点となっていないか!?

 それにしても国際規格の主導権を握れない日本に未来はあるのだろうか・・・

 やはり「日本沈没」ということか?








<付記>

「マレーシア・ハラル制度の実務」(財団法人 食品産業海外事業活動支援センター、2010年3月)という実務解説文書が無料で入手できる。具体的な記述が図解入りで説明されており、役に立つので紹介しておく(2010年4月28日記す)。
http://www.shokusan-sien.jp/sys/upload/166pdf23.pdf
       

PS 小見出しを加えて読みやすくした。2009年から4年、ここ1~2年で急速にハラールが認知されるようになってきたのは喜ばしい。 (2014年1月21日 記す)


<関連サイト>

「NPO日本ハラール協会」

マレーシアで「ハラル」認証を取りイスラム市場を開拓する 【最終回】親日だが日系製品のブランドが通用しない国 (日経ビジネスオンライン 2012年10月11日)

「脱中国の先がブルネイでした」 ソイ&ワールドの三坂大作社長に聞く(日経ビジネスオンライン 2013年10月2日)

「タリバン幹部と鍋を囲みました」 内藤正典 同志社大学大学院教授に聞く (日経ビジネスオンライン 2013年10月4日)
・・「ハラール認証は必須ではないと考えています。マレーシア政府が「ハラール認証を取らないとお客さんが来ませんよ」といったプレッシャーを日本企業に与えるのはおかしい。そもそも、イスラムは国家を超越して成り立っています。ある国家が、ある食品がハラールであるかないかについて審査するという考え方はイスラムに馴染みません。」 認証を取らなくても対応方法はあるようだ

800円フレンチにハラール食、こんなことになっている大学の学食メニュー、サービスを競い合う“大学競争” (JBPress、2014年4月11日)



(ASEAN諸国のハラール認証マーク 出所:アセアンセンター資料)


そのハラル、大丈夫?マーク発行団体が乱立 一歩間違えば国際問題に発展しかねない (東京経済オンライン、2014年7月12日)
・・「ハラルをうたいながらハラムを提供されることは・・(中略)・・日本人の想像以上に、ムスリムにとって大変な凶事に当たる」  ⇒ 深刻に受け止めよ!

日本はイスラム圏の観光客を呼び込めるか 飲食店が直面する「ハラール食」への希望と高い壁 (樋口直哉、ダイヤモンドオンライン、2014年9月25日)

「ハラール認証」に頼らない「ムスリムフレンドリー」なビジネスのあり方 (中田 考、BPNet 小さな企業の組織学、2014年10月21日)

(2014年7月13日、9月25日、10月23日 情報追加)



<ブログ内関連記事>

日本のスシは 「ハラール」 である!-増大するムスリム(=イスラーム教徒)人口を考慮にいれる時代が来ている

タイのあれこれ (18) バンコクのムスリム

本日よりイスラーム世界ではラマダーン(断食月)入り

書評 『マレーシア新時代-高所得国入り-(第2版)』(三木敏夫、創成社新書、2013)-「進む社会経済のイスラーム化」は必読

(2013年12月19日 追加)






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2009年7月27日月曜日

雨上がりの東京 夕焼け空に 虹の立つ




 もう雨はやんだかなと思ってふと窓越しに外をみると、おお、なんと虹が立っているではないか!!

 すぐにデジカメもってベランダへ。
 デジカメで撮った写真よりも実物のほうがはるかに素晴らしかったが、なんたる幸運!
 しかも二層に虹がでている。内側のアーチの外側にも薄くもう一つのアーチが。
 撮影は、2009年7月27日、18:16:34 である。

 これほど見事な虹を見たのは、数年前の秋のオーストリア以来だ。

   雨上がりの東京 夕焼け空に 虹の立つ (里犬)

 五七五の定型に単語を並べると俳句らしくなる。
 季語がないので俳句ではないが・・・

 なんかいいことあるのかなー

            
     

国民健康保険と健康増進法による健康診査


             
 本日、健康増進法による「健康診査」のため近くの医院にいってきた。
 会社をやめて「国民健康保険」に切り替えるのは二回目だが、前回はまだかろうして30歳代、現在居住している自治体での健康診査(健康診断)の受診資格はなかったように思うが、今回はすでに「後期アラフォー」(?)入り、高い健康保険料払っているのだから、当然の権利として受診することとした。

 内容は通常の成人病検診と同じである。希望すれば大腸がん検査と胃がん検査も加えることができる。後者はいわゆるバリウム飲む検査、バリウムは正直いってキライだが、胃がんになっていては元も子もないので検査を受けることとした。
 このほか、胸部レントゲン撮影、眼球撮影、血液検査、尿検査、血圧測定、問診で終わり。
 結果は一週間後に来るように、ということだ。検査サンプルの分析は、専門会社に外注しているのだろう。専門会社だと「規模の経済」が働くから。

 いままでは検診を専門に受け付けている比較的規模の大きな医療機関で受診してきたが、今回のような小規模の医院での受診ははじめてだ。
 実際、地域医療機関での検診の受診者は60歳以上の高齢者が大半のようだ。60歳以下で受診するのは「国民健康保険」の被保険者だけ、つまりサラリーマン以外だけだろう。
 地域医療機関での健康診査は、外来診療が始まる9:30の前にすべてが終了。
 7:45からの胃の検査を担当していた検査技師は実は院長先生が兼任で、これはあとからわかった。看護婦は8時半から出勤。
 Toshiba 製の高額な検査機械を導入している小規模独立開業医の経営というのを久々にかいまみた。
 
 「経営の神様」といわれた松下幸之助ではないが、まさに「日々新たなり」の心境、毎日が発見の日々である。

 「国民健康保険」ですべてがカバーされるので、一年に一回くらいは検診受けないとね。国民健康保険でも医療費の本人負担比率は3割で会社員とまったくかわりない。サラリーマンって本当に有利なのだろうか、という疑問も少し感じる今日のこの頃です。




                             

2009年7月26日日曜日

「福祉の仕事 就職フォーラム」(東京国際フォーラム)にいってみた




本日、東京国際フォーラム(有楽町)で開催されている「福祉の仕事 就職フォーラム」にいってみた。先週、都営地下鉄のつり革広告で知った。

 主催は、東京都と社会福祉法人東京都社会福祉協議会(東京都福祉人材センター)で、後援は厚生労働省、社会福祉法人全国社会福祉協議会。

 福祉の職場への就職をサポートするイベントで、昨年2008年度は1,000名以上が参加した、とのことだが、TVニュースによれば今年の参加者はは昨年の1.5倍以上だとのことだ。

 不況の現在、福祉分野は数少ない成長分野だからなあ。
 本日(7月26日)の12:30~16:30のみの開催である。

 対象が福祉の仕事に関心のある方、学生、転職者とあるので、真夏日の炎天下のもと、東京国際フォーラムまでいってみたが、実際いってみると参加者の大半は、今年あるいは来年の就職を控えたリクルートスーツ姿の学生であった。
 なかには明らかに転職目的の中年層や、どうみても介護予備軍の老人などであった。入場無料なので見学にきたのだろうか。

 内容は、求人事業所ブースでの説明・面接が中心なのだが、私自身は福祉業界についてはほとんど素人だし、福祉の現場で働くには歳食いすぎだし、しかも体力も全盛期にくらべると衰えているので、さすがにそれはオミットし、会場を見て回ることに徹した。

 参加施設は、東京都内の高齢者施設や障害者施設、それに児童施設など68施設ほどである。
 ひとくちに福祉といっても、実に広い世界なのだ、と実感させられる。

 無料セミナーもあり、東京都福祉人材センターによる 『優しい接し方セミナー』 という1時間のセミナーに参加してみた。
 福祉業界への転職者や新卒者を対象にしたももので、福祉の現場での接し方、就職面接での接し方についての実践的な内容である。

 いちばん重要なポイントは傾聴、すなわち相手の話に耳を傾けて聴くことだ。
 コーチング理論でいう Active Listening と基本的に同じことをいっているのだと思う。
 傾聴することによって相手を受け入れるだけでなく、自分の感情にも気づき、結果として相手に有効にはたらきかけることができることになる。
 傾聴の意味を実感するための二人一組のワークもあり、無料だが有効なセミナーであった。

 参考のためにメモとして、傾聴するに際しての注意事項をまとめておく。

1. 座る位置は、L字型、つまり斜め90度がよい
2. 目線は、相手のトライアングルゾーン(両目とのど元でできる三角形)を見る。のど元を見るつもりであれば、凝視せず目を合わせることができる
3. 声のトーンは、高からず低からず。目線をあげるようにすればちょうどいいトーンの声がでる
4. 話すスピード大きさは、相手に合わせて臨機応変に
5. 傾聴の技法は、①アイコンタクト、うなづき、あいづち ②繰り返し ③共感(感情の反射) ④相手の話に質問する


 とくに福祉の世界では、相手と優しく接することは絶対不可欠だと、あらためて確認した午後であった。もちろん、これはどの世界にいても重要なことだ。

 「上から目線」で教え諭すのではなく、同じ目線で接することによって、自分も気づき、相手にも気づきの機会を作り出す、これが重要なのだ。
 教育の世界でも、education よりも learning が重視される傾向になって久しい。後者は「気づき」をベースにした「学び」である。

 今後も、むかし日めくりカレンダーにのっていた名言「われ以外みな師なり」(吉川英治)の心構えで人生には臨みたい。



<ブログ内関連記事>

書評 『老いる準備-介護すること されること-』(上野千鶴子、朝日文庫、2008)-誰もがみんな老いてゆく

『僕の死に方-エンディングダイアリー500日』(金子哲雄、小学館文庫、2014 単行本初版 2012)は、「死に方」はイコール「生き方」であることを身をもって示してくれた流通ジャーナリスト最後の著書

書評 『寡黙なる巨人』(多田富雄、集英社文庫、2010)-脳梗塞に倒れた免疫学者による 「人間の尊厳」回復の記録

書評 『トラオ-徳田虎雄 不随の病院王-』 (青木 理、小学館文庫、2013)-毀誉褒貶相半ばする「清濁併せのむ "怪物"」 を描いたノンフィクション

I am part of all that I have met (Lord Tennyson) と 「われ以外みな師なり」(吉川英治)

(2014年8月11日 項目新設)






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2009年7月25日土曜日

書評『男一代菩薩道-インド仏教の頂点に立つ日本人、佐々井秀嶺-』(小林三旅、アスペクト、2008)-こんなすごい日本人がこの地球上にいるのだ!




こんなすごい日本人がこの地球上にいるのだ!

 インド在住40年、新仏教の創始者アンベードカル博士の衣鉢を”勝手に”継いだ日本人僧侶・佐々木秀嶺の波乱万丈の人生。

 被差別民のヒンドゥー教から仏教への改宗と教育を先導、自らもインドに帰化し、日本人であるにもかかわらずインド宗教界を代表する人物(!)として、政府関係者にも知己の多い、まさに巨大なスケールの日本人が佐々木師その人である。

 その生きざまは、佐々木師が自らが語るように、カルマ(=業)を断ち切るのが動機だったとはいえ、まことにもってすさまじい。
 まさに大乗仏教でいうところの捨身行の実践の毎日、ブッダの道を求道する生けるカリスマは、本書のタイトルに見事に言い尽くされている。

 「男一代菩薩道」は、この巨大で、得体のしれない人物に驚嘆し、その生きざまに圧倒され、魅了され、追いかけ続けた若き映像プロデューサー自身の人間的成長の記録でもある。

 そばにいるだけで人を巻き込み、感化するチカラ・・・こういう人物に出会った著者は幸せだったのか、そうでなかったのかは、私の預かり知るところではない。

 しかし、こんなすごい日本人がこの地球上にいるのだ、という事実を伝えたいという気持ちが本書を書かせたことは間違いない。
 
 取材対象となった佐々木師に劣らず熱い思いをもつ著者のメッセージを正面から受け止めてほしい。


<初出情報>

■bk1書評「こんなすごい日本人がこの地球上にいるのだ!」(2009年7月23日掲載)




目 次
 
第1章 取材には一人で来なさい
第2章 インド到着、デリーからナグプールへ
第3章 インド仏教徒の都、ナグプール
第4章 インド国籍取得、大菩提寺奪還闘争
第5章 龍樹菩薩の地、マンセル遺跡へ
第6章 永遠の求道者、佐々井秀嶺
第7章 ナグプールに生きる仏教徒たち
第8章 仏教徒の祭り「大改宗式」始まる
第9章 帰国、そして番組放映
第10章 再び、ナグプールへ


著者プロフィール

小林三旅(こばやし・みたび)

テレビ番組ディレクター。1972年生まれ。東京都文京区出身。明治大学文学部文学科演劇専攻を卒業後、テレビ番組制作会社に入社(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。


<関連サイト>

インド仏教を率いる日本人僧侶の破天荒人生 1億人の仏教徒は、なぜ彼を慕うのか (東洋経済オンライン、2015年7月21日)
・・佐々井師は、2015年6月にも一時帰国。その際に行われたインタビュー

インドで1億5千万人を導く日本人僧侶の人生色情因縁「私には黒い血が流れている」(東洋経済オンライン、2017年9月9日)
・・佐々井師は81歳のいまもなお意気軒昂

(2015年7月22日 項目新設)
(2017年9月10日 情報追加)


<ブログ内関連記事>

書評 『必生(ひっせい) 闘う仏教』(佐々井秀嶺、集英社新書、2010)



(2022年12月23日発売の拙著です)

(2022年6月24日発売の拙著です)

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2009年7月24日金曜日

「初心者のためのロングステイ講座」に参加してみた


            
 本日、「初心者のためのロングステイ講座」に参加してみた。主催は「ロングステイサロン銀座」、南海国際旅行とオハナインターナショナルという民間旅行会社によるものである。

 ロングステイといえば、普通は海外で悠々自適の生活を送るリタイア後の高年齢層の人たちのことを指しているので、本日セミナーにいていた数人の人たちも明らかに60歳前後という感じだった。

 ロングステイとは、「ロングステイ財団」の定義によれば以下のようになる。

① 比較的長期にわたる滞在で通常2週間以上、移住や永住といった形ではなく、日本への帰国を前提とする
② 海外に「居住施設」を保有、または賃貸する
③ 余暇を目的とする
④ 旅行よりも「生活」を目指す
生活の源泉は日本にあり、現地では労働収入を得ない

 東南アジア、とくにタイで「ロングステイ」している人たちは、駐在員やその家族、現地で就労ビザをとって働いている者、語学留学生などをのぞけば、大半はいわゆる「外こもり」の若者か、年金の範囲内だけで食いつなごうという老人男性に二極分解している。

 ロングステイ財団や民間の旅行会社は、先に見た定義でもわかるように、物価安を利用するだけの長期滞在者は「ロングステイ」とは見なしたくないようだ。
 マスコミでの取り上げ方とはだいぶズレがある。

 たしかに物価が安いということに関しては、東南アジアの物価が安いのは事実だ。
 本日のセミナーでも、卵12ヶの小売価格での比較を示していたが、日本の東京を100とすれば、ロングステイ先として人気のマレーシアもタイも、東京の3~5割である。

 国際派ビジネスマンなら常識のハズである The Economist の Big Mac Index で検証してみよう。全世界に展開している米国のファストフード会社マクドナルドの商品ビッグマックを米ドルベースで国際比較した消費物価指数(インデックス)である。
 7月13日現在の為替レートを使った最新データによれば、米国で税抜きUS$3.57のビッグマックは、日本ではUS$3.47(=320円)と若干だが安い。オーストラリアではUS$3.37、ニュージーランドではUS3.08と続き、マレーシアはUS1.88タイはUS1.89と、日本価格の約5割強となる。つまり日本の半額(!)だ。
 やはり東南アジアの物価は安い。
 物価が安いのは正直いって魅力である。

 しかしロングステイの選択基準では物価安よりも治安の良さが上位にくる。これも当然だ。
 ロングステイ調査統計では、ロングステイ希望国では2006年と2007年の二年連続でマレーシアが一番になっている。治安がよくて、物価も安く、英語も通じるのが魅力らしい。
 今回のセミナーを主催した旅行会社もマレーシアをイチオシしていた。
 この点、英語が通じるのはホテルかサービスアパートなど一部だけというタイは劣ってしまうのだろうか・・・
 なんせタクシー運転手もほぼ100%英語通じないし、よっぽどタイが好きでないとロングステイ先にタイを選ばないのかもしれないな。しかも昨年11月の空港閉鎖は致命的だったし、信頼回復はいつになることやら・・・


 セミナー会場は東銀座、ひさびさの訪問である。前の前の会社では、仕事でよく東銀座にある広告代理店にかよっていたものなので懐かしい。

 きょうも歌舞伎座の前はものすごい人だかりだ(写真参照)。
 歌舞伎座も立て直しで、近い将来、風情も何もない複合ビルに変わってしまうらしい。なんだか寂しいね。

 雨上がりの銀座を歩くのは実に気持ちがいい。
 「銀座はいいねー」という気持ちは歳を取るにつれて、さらに実感をもって口にしたくなる。
 木村屋総本店の銀座本店に立ち寄って小倉あんぱんを買った。もちろん粒あん(!)である。これは美味いのだ。
 だいぶ前になるが台湾人の友達を銀座に案内したとき、彼女は「銀座はすばらしい」と褒めちぎっていた。
 アジアの中では間違いなく一番だと思う。大人の街なのだ。

 そんなこと考えると、海外にいったきりというのは考え物だなーとも思う。
 定義通りの「ロングステイ」で、ときどき東京に戻ってくるのがライフスタイルとしては最高かもしれない。




                                     

2009年7月23日木曜日

書評 『アジア新聞屋台村』(高野秀行、集英社文庫、2009)-日本在住アジア人たちの、きわめて個性にみちた、しなやかで、したたかな生き方




日本在住アジア人たちの、きわめて個性にみちた、しなやかで、したたかな生き方

 アジア・新聞・屋台・村、ってなんのこと?

 本書を手にとった人が一瞬でもそんなこと感じたら、これはもうタイトルの勝利といえよう。

 アジア人という、きわめて個性の強い人たちが、この日本という国で、しかもなんと日本語を共通語として(!)、それぞれのマイペースで働きながら、しかしそれぞれの国出身者向けの新聞発行にたずさわり、デッドラインだけは必ずまもって仕事を仕上げるさまが、いきいきとした筆致で、しかも愛情込めて描かれる。


 東南アジアではショピングモールですらそうなのだが、すべてが個人商店の寄せ集めだ。
 たとえば、どこにでもあるフードコート、これももともとは飲食の屋台村だったものを、建物に中に入れたものだ。

 物販店でも事情は変わらない。タイ・バンコクの MBK (マー・ブンクロン)などは、その最たるものである。いわば屋台村を寄せ集めて、ひとつのビルのなかに押し込めた、ごった煮のような風情できわめて活気にみちみちている。

 個々の商店がそれぞれ客をめぐって激しくしのぎを削っている。


 本書は多くの人たちが評しているように「青春物語」である。仕事でもまれながらの、人間としての成長。

 しかし、文庫版の解説者である元バックパッカーの角田光代もいうように、そういう読み方だけではもったいない。


 私もタイを中心に東南アジアで仕事していたが、東南アジア共通の特性もあるし、もちろんタイ人だけとってみても個人差も実に大きなものがある。

 この本を読んで、登場人物である台湾人、韓国人、タイ人、インドネシア人、ミャンマー人の代表選手とみなして、それぞれの国民性をわかったつもりになるのは危険なのだ。

 結局は個人個人であり、なによりも個人と家族、そして友達を大事にするのが一般のアジア人だ。一社専属のサラリーマン人生ほど、彼らの生き方から程遠いものはない。しかも仕事を掛け持ちしていれば、そう簡単に食いはぐれることはない。

 日本人が再びアジア人としてやっていくためには、彼らのきわめて個性にみちた、しかもしなやかで、かつしたたかな生き方に学ぶことはすごく大きい。


 いまや日本も先行き不透明な状況であり、若い人たちが就職ができないのも、中高年が再就職できないのも、時代状況のせいにするだけでは決して道は開けない。

 こんな世の中で生きていくには、こういうアジア流の生き方もある、ということだけでも頭の片隅においておいたほうがいいのではないか。


 アジア好きの若い世代の人たちはもちろん、若い世代の子供をもつ親世代にもにもぜひ一読をすすめたい。


■bk1書評「日本在住アジア人たちの、きわめて個性にみちた、しなやかで、したたかな生き方」(2009年7月18日掲載)

            



<ブログ内関連記事>

「個人と組織」の関係-「西欧型個人主義」 ではない 「アジア型個人主義」 をまずは理解することが重要!
・・「アジア型個人主義」について、わたしが書いたブログ記事のリンクを掲載してある

(2015年1月12日 項目新設)




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2009年7月22日水曜日

人間の運・不運について-「皆既日食」とはほど遠いが「部分日食」はみた




 本日2009年7月22日は、46年ぶりに日本で皆既日食がみられるということで、日本ではこのニュース一色になっていた。
 先行き不透明な景気の動向や、政権交代なんかについて思い悩む(?)より、はるかに健全だといっていいだろう。
 とはいえ、経済学では「太陽黒点説」というのもあるので、古代人が恐れたように、皆既日食は世界経済になんらかの影響を及ぼすのだろうか?

 まあそれはさておき、かくいう私も好奇心旺盛で根がミーハーなので、「にわか天体観測者」となるはずであったが、関東地方ではいかんせん皆既日食どころか部分日食ですら雨空の曇天のためあきらめていた。
 しかし雲が切れた瞬間、外にでて捉えた(?)のが掲載したデジカメ写真である。
 サングラスかけていたら眼にはまったく問題ないほどの曇り空で、太陽は肉眼ではハッキリ見えなかったが、デジカメは捉えていたのだった。
 雲の流れがものすごく速く見えたり隠れたりでチラッとしか見えなかったが、撮影は2009年7月22日11:37AM24秒、東京での食の最盛期である11時12分58秒からはすでに25分後のことだ。
 画像から見る限り、下弦の月のような様相だ。

 皆既日食ということで期待されたトカラ列島の悪石島では土砂降り、上海でも土砂降り・・・ということで、勢い込んでわざわざ見に行っても不運なことに見れなかった人たちも多数いるらしい。
 一方、私のようにほんのちょこっとだが部分日食を見た人もいる。
 自己責任による渡航とはいえ、人間には運・不運がつきものなのだ、と痛感される。

 月食は、昨年11月にタイでみた。
 バンコクのスワンナプーム空港が閉鎖されていたために、バンコクに戻らねばならない私は、シンガポール経由でプーケットからタイに入国、クルマをチャーターして陸路をバンコクまで飛ばしたのだが、バンコクに入る頃、すでに日没後であったが、今日はなんか変な月だなあと思って見ていたら、翌日になってから月食であったことを知ったのだった。
 14年前にはタイで皆既日食が見れたらしいが、見れる見れないはまさに運次第なのだ。

 皆既日食を日本で次に見れるのは26年後だという。その頃に日本にいるかどうか知らないが見てみたいとは思う。あるいはもっと早くどこかの国で見れるのかもしれない、とも期待する。
 といっても、自然現象に左右される以上、すべては運次第である。 
 「運も実力のうち」とはよくいわれるが、皆既日食みることに運は使い果たしたくないなあ。一人の人間に与えられた運には限りがあるから。

 人生においてもっと重要なことに運を使いたい。しょせん「にわか天体観測者」なのだから。

              

                  

2009年7月21日火曜日

書評  『この世でいちばん大事な「カネ」の話』(西原理恵子著・装画・挿画、理論社、2008)-カネについて考えることはすごく大事なことだ!




■カネについて考えることはすごく大事なことだ!■

 カネについて考えることはすごく大事なことだ、と私はつねづね思っている。

 しかしそういうことを口に出すと、すべてをカネ、カネで考えるイヤなヤツだという誤解を与えてしまうこともあって残念だ。

 そんな誤解に苦しむ人にも、カネの大事さを身にしみて知り尽くしている漫画家サイバラのこの本を読むことをすすめたい。また読んでからぜひいろんな人にも推薦してほしい。

 カネになる漫画を書くことで、貧乏の「負のループ」から抜け出すことに成功したサイバラは、私なんかよりもはるかにうまく、具体的に説明してくれるはずだから。

 本田健の「小金持ち」とは趣が大きく異なる語り口だが、いわんとすることは同じである。

 カネを稼ぐということは、男女を問わず、人間として自立することだ。

 カネに使われないようカネを使うこと、つまりキチンとした金銭感覚をもつことは、人生そのものなのだ、と。

 サイバラはこの本の最後のほうで、マイクロクレジットによって貧困層の自立を支援している、バングラデシュのグラミン銀行の話を書いている。サイバラがねーというかんじもしたが、いやいやよくぞ触れてくれた、と思いたい。

 ところで、在日バングラデシュ人の起業家ユヌス・ラハマンも 『おカネを取るヒト 取られるヒト』(H&I、2005)という本で、カネの重要性と人間の生き方について書いている。
 これらすべてに共通するのは、人間としての「自立」そして「自律」である。

 「ロスジェネの叫び」が最近かまびすしいが、人間として生きる以上、「食わせろ」と声を大にする前に、道を開いて自分で食っていかねばならないのではないか?

 世界の最貧国出身のバングラデシュ人にできて、なんで日本人にできないというのだ!

 サイバラの漫画は絵がキタナイし、フキダシに手書きで文字がギッシリ書き込まれているから読みにくくてキライだ、という人には、「この本は漫画じゃなくて、活字がキチンと整列した単行本ですよー」と伝えておこう。

 とくに若い人たちに薦めたい本だ。若い人たちからこれ以上泣き言は聞きたくないから。


■bk1書評「カネについて考えることすごく大事なことだ!」(2009年7月21日掲載)

   




<ブログ内関連記事>

内村鑑三の 『後世への最大遺物』(1894年)は、キリスト教の立場に立つが「実学」と「実践」の重要性を説いた講演である
・・「後世へわれわれの遺すもののなかにまず第一番に大切のものがある、何であるかというと金(かね)です。・・(中略)・・金(かね)を遺すものを賤(いやし)めるような人はやはり金(かね)のことに賤しい人であります。吝嗇(けち)な人であります」(内村鑑三)

Bloomberg BusinessWeek-知らないうちに BusinessWeek は Bloomberg の傘下に入っていた・・・
・・西原理恵子の『太腕繁盛記』を取り上げている

シンポジウム:「BOPビジネスに向けた企業戦略と官民連携 “Creating a World without Poverty” 」に参加してきた
・・バングラデシュのユヌス博士とグラミン銀行について

「三度目のミャンマー、三度目の正直」 総目次 および ミャンマー関連の参考文献案内
・・『どこへ行っても三歩で忘れる鳥頭紀行-くりくり編-』(西原理恵子/鴨志田譲/ゲッツ板谷、角川書店、2001 現在は文庫化 2004)を参考文献の一冊としてあげておいた


PS その後執筆した西原理恵子関係のブログ記事を「ブログ内関連記事として掲載することとした。 (2013年12月18日)









end

2009年7月20日月曜日

『手取り1655円が1850万円になった営業マンが明かす月収1万倍仕事術』刊行記念講演会(紀伊国屋ホール新宿)に参加




 『手取り1655円が1850万円になった営業マンが明かす月収1万倍仕事術』刊行記念講演会 紀伊国屋ホール(新宿)という講演会に参加してきた。
 連休三日目の最終日、午後7時開場というのに、現役の営業担当者を中心に400名近い参加者があった。
 ダイヤモンド社からのメールに講演会の案内があったので、さっそく紀伊国屋ホールに電話してチケットを予約したのは先週後半のことである。
 入場料1,000円でかなり実のある話を聞くことができたので、十二分に元が取れたと思う。

 本日は講演会というよりも、セッションといったほうが適切な表現であったといえる。
 著者の大坪勇二氏による約20分間のスピーチに続いて、ビジネス本書評家で起業家の土井英司氏による鋭く深い突っ込みの対話セッションが約60分、たいへん中身の濃い、充実した1時間半であった。
 この二人はいずれも成功者であり、成功者の話を聞き、マネることが一番の勉強になる。

 『手取り1655円が1850万円になった営業マンが明かす月収1万倍仕事術』はダイヤモンド社から出版されており、ダイモンド・オンラインのウェブサイトに著者自身による紹介文が掲載されている。

 著者の大坪勇二氏は1964年生まれ、新日鉄で経理を9年やったが希望する営業職への異動がが叶わなかったため、自らソニー生命の門ををたたいて入社、フルコミッション営業に入った人である。
 おそらく著者がソニー生命に転じた頃、私もソニー生命マンから転職の勧誘を受けて話をきいたことがある。それも、まったく別のルートで二人から。名簿から連絡をとったらしい。
 フルコミッション営業は稼げるとすごいが、稼げないと経費はすべて自分もちなので、著者が体験したように「手取り1,655円」も「手取り1,850万円」もありうる世界である。
 私は話だけ聞いて結局のところ転職はしなかったが、それにしてもすごい世界だ、という印象を受けた。

 著者が本当にすごいのは、「手どり1,655円」に追い込まれてから一念発起して「手取り1,850万円」まで達成しただけでなく、なぜその成果が出せたのか自ら科学的に解明して「再現性のある方法論」を導き出したことにある。
 せっかくなので、このブログを活用して要点メモを清書しておく。何事も「鉄は熱いうちに打て」である。
 ただし、大坪氏の発言と土井氏の発言は区別していない。お互いの発言がスパークしあっている面もあるので、あえて分けなくてもいいと思う。


・会計と営業がわかればビジネスは成功する可能性が高い
・メンタルな面は大きいので、行動管理を道具とすることが絶対不可欠
・できるだけお客と接する時間を増やす。通常の営業マンは一日の仕事時間のうち20%、これをどこまで伸ばせるか
・えり好みせず量を増やせば仕事はとれる。感情を入れずにひたすら行動する
・チャンスを活かし切れるかどうかは、感度を、受信能力をあげるしかない。そのためにはフォーカスし続けること
・できる人と組むことが重要。人を採用するときは、少なくとも Give, Give & Give の意味のわかっている人をとる。最初から Take から入ってくる人はだめ。カネは回り回ってついてくるもの
・親を尊敬、愛することのできない人は成功しない。自分のまわりにいる人に感謝の気持ちをもてない人は成功しない。自分のためだけに働く人は、損益分岐点以上の働きはしない
・損得で考えていては数字はでてこない
・トイレ掃除がなぜ意味があるのか・・・人がやっていないこと、難しいか、あるいは人がいやがることを確実にやることが成功につながる
・人がやっていないことは過去のデータがない世界
・「一人作戦会議」として最低でも毎週一回、できれば毎日自分一人で考える時間を確保すること
・人の心をつかむ極意は、人間というものは好き嫌いで物事をきめがちだということを知ること。たとえば名刺のウラにはできるだけ共通の話題がでるようなフックを多数仕込んでおく
・推薦する本は、『私はどうしてNo.1営業マンになったか』(フランク・ベドガー)、『ブランド人になれ』(トム・ピーターズ)、『大金持ちをランチに』(ダン・ケネディ、)『影響力の武器』(チャルディーニ)など


 実はまだ大坪氏の本は読んでいない。
 講演会でナマの話を聞いたあとで読んでみるつもりだ。
 活字をつうじて得た情報や知識よりも、耳から入った情報や知識のほうがダイレクトだから。

      


              

2009年7月19日日曜日

書評 『銃とジャスミン-アウンサンスーチー、7000日の戦い-』(ティエリー・ファリーズ、山口隆子/竹林 卓訳、ランダムハウス講談社、2008)




■多数の証言によって描かれたアウンサンスーチーという女性の素顔■

 東南アジアを20年にわたって取材してきたバンコク在住のベルギー人ジャーナリストが、ミャンマー国内で秘密裏に取材して知り得た、きわめて多数の証言によって描かれた、アウンサンスーチーという女性の素顔。

 ジャーナリストが申請してもめったにビザが下りない国であるため、ありとあらゆる手段を使って入国し、現地でさまざまな人たちに取材を行った著者の姿勢には頭が下がる。

 ただ、この本は決して読みやすくない。といっても訳文の日本語の問題ではなく、アウンサンスーチーに賛成するものも、必ずしも賛成でない者もふくめて、きわめて多種多様な多くの声が集められているためだ。

 その結果、アウンサンスーチという人物を多面的に描くことに成功し、そしてまた決して単純なアウンサンスーチー礼賛本には終わらない、内容の濃い本になった。

 私がとくに興味深く読んだのは、アウンサンスーチーが、20年にも及ぶ長期間にわたる軟禁生活を乗り越えることができた秘密である。

 著者が明かしているのは、その一つが上座仏教の「ウィパッサナー瞑想法」である。

 当時の上流階級の子女としてはごく普通だったように、ミッションスクールを卒業しながらも、上座仏教の厳しいしつけで育てられたアウンサンスーチーは、軟禁生活の中で改めて瞑想法を修行して、集中力と心の平安を獲得できるようになったという。

 原文がフランス語の本書には、フランスの女優で歌手のジェーン・バーキンが序文を寄せている。

 多芸多才なアーチストセルジュ・ゲンズブールの妻だったジェーン・バーキンが、なぜアウンサンスーチーに強い思い入れを抱いているのか?

 直接手にとって自ら確かめてほしい。


■bk1書評「多数の証言によって描かれたアウンサンスーチーという女性の素顔」(2009年7月18日掲載)
■amazon.co.jp書評「多数の証言によって描かれたアウンサンスーチーという女性の素顔」(2009年7月19日掲載)






<付記>
ジェーン・バーキンが自ら作詞し歌う "Aung San Suu Kyi" は YouTube にて視聴できます。アウンサンスーチに対する考え方、政治的立場は横に置いても一見の価値はあります。
ビデオの中にもあるように、人権を主張しながらも経済的な利益追求は当然のこととして行うフランスと米国の石油企業に見られる、西洋人特有のダブル・スタンダードについてはよく知っておくべきでしょう。植民地時代と基本的に変わらない彼らの態度。ヨーロッパ人は、日本人のようなナイーブな人種ではない、ということですね。

なお、ジェーン・バーキンについては 映画 『ノーコメント by ゲンスブール』(2011年、フランス)をみてきた-ゲンズブールの一生と全体像をみずからが語った記録映画 も参照 (2014年5月17日 記す)。
            




<ブログ内関連記事>

「ミャンマー再遊記」(2009年6月) 総目次

「三度目のミャンマー、三度目の正直」 総目次 および ミャンマー関連の参考文献案内

映画 『The Lady アウンサンスーチー ひき裂かれた愛』(2011年、フランス・英国)をみてきた

書評 『「気づきの瞑想」を生きる-タイで出家した日本人僧の物語-』(プラ・ユキ・ナラテボー、佼成出版社、2009)-タイの日本人仏教僧の精神のオディッセイと「気づきの瞑想」入門
・・上座仏教のウィッパサナー瞑想法

お茶は飲むもの、食べるもの-ミャンマーのティーハウスと食べるお茶ラペットウ

ミャンマーではいまだに「馬車」が現役だ!-ミャンマーは農村部が面白い

東南アジアでも普及している「ラウンドアバウト交差点」は、ぜひ日本にも導入すべきだ!
・・ミャンマーのヤンゴンと新首都ネーピードーのラウンドアバウト交差点を紹介

書評 『抵抗と協力のはざま-近代ビルマ史のなかのイギリスと日本-(シリーズ 戦争の経験を問う)』(根本敬、岩波書店、2010)-大英帝国と大日本帝国のはざまで展開した「ビルマ独立」前後の歴史
                 
(2014年5月17日 項目新設)









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