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これは19世紀米国の博物学者ルイ・アガシー(Louis Agassiz)のコトバである。名字からわかるとおりフランス語圏の人で、スイス北西部のフリブール・カントンの生まれである。
海洋学者、地質学者、古生物学者であった。この時代の自然学者はむしろ博物学者といったほうがただしいだろう。
Study nature, not books !
ここに使われている英語自体は中学一年生でも理解できる、ごくごく簡単なものだが、実に含蓄のある表現だ。
直訳すると、「自然を学べ、本じゃないぞ」ということになるのだろう。
本で得た知識で自然を見るな、自然そのものを観察せよ、ということなのだろう。
確かに、知識を前提にものを見ると、曇ったグラスをとおして見るのと同じことだ。何か予断でもって物事を判断するのは危険なことだ、そういっているように思う。
子供の頃の私は自然観察少年だったから、動植物から鉱物にいたるまで何にでも関心の強い、いわば18世紀的博物学者志向の人間であったのかもしれない。
だから、このコトバはよく理解できる。その頃は、もっぱら図鑑をぼろぼろになるまで熟読していた。文字も読んでいるが、図像を読んでいたといえる。あくまでも自然界に存在するものが主であり、図鑑にある図像は従であったはずだ。
大人になったら魚の養殖の研究をしたいと考えていた。いわゆる栽培漁業(marine agriculture)である。もともとは理系志向の人間である。
その後、本を読むことの味を覚えてしまってからは、かなり本を読む人間となってしまった。自称「活字中毒者」だが、知識で目が曇らされないようにはつねに心がけてきた。
実際に自分の目で見ること、五感を使って体験すること、これがもっとも大事である。
しかし、曇りなき目でものを見るろいうのは、実は思っているほど簡単なことではない。
大学時代に、現象学という哲学があることを知った。
ものをもの自体として見る、そのための哲学的方法論である。
実存主義の哲学者J.P. サルトルがドイツ留学から帰国した盟友メルロ=ポンティから現象学の話を聞いて、コップをコップとして語ることのできる哲学だ、と驚喜したという話が、木田 元の『現象学』(岩波新書)という本にエピソードとして紹介されている。
ものをもの自体として見る、しかしこれには言語を媒介とせざるをえない。そうでないと、見ても見えていない、ということになってしまう。
本もまた数が増えると自然界に近い様相を呈してくる。私の書斎は熱帯雨林状態である。
本はよく読むが、ビジネスマンでそれなりのポジションにあり、なまじカネがあったので読むスピードよりも速いスピードで本を買っていた。
不要な本は捨てると新陳代謝(ホメオスタシス)が働くのだが、どうも整理するのが面倒なので・・・
最初は整然と並べるのだが、そのうちに生態系が形成され、整理という人為的な手を加えなくなると、自然に増殖をはじめ、「ブックカフェ」のはずだったのがいつしか・・・
もちろん勝手に増殖するわけではないが、定期的に整理を行わないとそうなってしまう。自然のままにまかせると、日の当たる面と当たらない面が分かれてくる。
しかし、この間引き剪定という選別作業は実にやっかいなものだ。
思い切りよく捨てることができる人はうらやましい。しかしその反面、肝心なものも捨ててしまう恐れはないのか、という懸念ももつ。
昨年の夏にダンボール100箱ほど売却処分した。本をめぐる自分の人生の回顧ともなる作業であった。残りの人生を考えると、やみくもに手を広げすぎるのは抑制もしなくてはなるまい。
そして今月、またダンボール15箱ほどを売却するか廃棄した。本当はもっと処分しなければならないのだが、考えただけでもくたびれてしまう。
英語版の映画VHSは結局引き取り手がなく廃棄処分とした。テクノロジーの進歩から取り残されたフォーマットは無用の長物である。映像コンテンツというソフトウェアそのものには価値があってもビデオテープ自体にはほとんど価値はない。
しかし本は単なるコンテンツではなく、質量をもった物理的な存在でもある。「自然」と「本」とをあまり対立物とは考えたくない。鉱物だって静物ではないか。匂いや手触りといった量感を大事にしたい。
だから私にとっては、Study nature, and books! というのが、もっともぴったりくる表現なのだ。
2009年8月31日月曜日
2009年8月30日日曜日
Be a Good Loser !
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本日は時事ネタでいきたいと思う。台風直撃間近の東京発ババ通信、世界のメディアも注目する日本国の総選挙(General Election)の途中結果へのコメントです。
いまこれ書いている時点ですでに、定数480議席のうち民主党が300議席を越える圧勝の勢いである。英語なら landslide victory といったところだろう。
日本のTV放送はNHKを筆頭に民放各社もすべて開票情報一色である。別に非難しているのではない。選挙ほど素敵なショーはないからだ。一視聴者にとっては、開票速報ほど面白いものはない。またTV局からみても、これほど制作費がかからなくて、しかも手に汗握るエンターテインメント番組というのは、なかなかほかにはないだろう。
選挙結果は選挙に出馬した被選挙者の人生そのものを左右する。まさに喜怒哀楽の度合いは、へたな連続ドラマをはるかに上回る。
私は、実は数日前に期日前投票を済ませているが、どの政党に投票したかは明らかにするのはやめておこう。しかし、「政権交代」を望む気持ちは以前から抱いていたことは明言しておく。
要は小選挙区と比例代表でどの政党(とその候補)に投票するかという組み合わせゲームでしかないから、わざわざ選挙当日に当日する必要はない。3日前に大勢は判明するからだ。バンドワゴン(bandwagon) 的行動もありうる。つまり勝ち馬に乗るということだ。
政治はあくまでも合従連衡のゲームであるので、単独政党が圧倒的多数を制するのは必ずしも得策ではない。どういうアライアンス戦略を組むか、これはビジネスマンにとっても戦略構築に際してのまたとない、格好の生きた教材である。
しかし、今回はそのレッスンは期待できそうもない。
「絶対権力は絶対に腐敗する」。英国の政治家の名言だが、本日たとえ民主党の党首が慎重姿勢を示しても、圧勝ムードを組織全体から払拭するのは至難のわざ、間違いなく絶対多数を獲得したがゆえに、民主党は慢心し、内部崩壊するだろう。
今回の総選挙で大敗した自民党、および党首の麻生太郎氏には、私はタイトルにもした Be a Good Loser ! というコトバを贈りたい。どうせ負けたなら、いさぎよく負けっぷりの良さを示せ!、ということだ。総裁を辞任するだけでなく、自民党そのものが負けを認めることが肝心である。
私が思うに、おそらく負けた自民党内部では、イチから立て直していこうという前向きの姿勢よりも、次は勝ち馬に乗りたい、次は返り咲きたいという気持ちをもつ元議員が大半ではないか、と思う。つまり、浮き足だった元議員が少なからずいるだろうということだ。
「サルは木から落ちてもサルだが、議員は選挙で落選したらタダの人」という政治的アネクドートが日本にはある。気持ちはよーくわかります。
おそらく、「政権交代」が今回実現しても、これで「二大政党制」が確立するというわけではないのである。なぜなら、二大政党制としての政治的争点がまだまだクリアになっていないからだ。
今回おそらく多くの有権者が民主党に投票したのは、自民党への懲罰的行為というほかに、「政権交代」という漢字熟語4文字キャッチフレーズの訴求力の勝利といえるだろう。政治的には、バカのひとつ覚えでいいのである。簡潔で覚えやすいキャッチフレーズを連呼すること、これに尽きる。前回自民党の圧勝の原動力となった「郵政民営化」と同じ構造である。
「政権交代」というキャッチフレーズは、ビジネス界では語りぐさとなっている、日本マクドナルド会長の故藤田田(ふじた・でん)による「半額」という漢字熟語2文字の訴求力に匹敵するといえよう。日本語人は、簡潔でアピール力のあるキャッチフレーズに弱いからだ。決してマニフェストの内容が意志決定の主要な要素ではない。
二大政党制実現のためには(・・これがもし正しい政治的理念として共有されるなら)、あともう一回大きな激変が必要である。その時には、今回圧勝した民主党も、大敗した自民党も、組織を大幅にシャッフルし、明確な政治的理念をもった、いいかえればビジョンとミッションとバリューが明確な組織として再編しなければならない。
しかし、おそらく単純な政権"再"交代はないだろう。政治状況はさらに流動化し、最終的な二大政党制へと収斂(しゅうれん)してゆくものと考えられる。
ただし、この日本という国に本当に二大政党制がフィットしているのか、それは話が別である。
大日本帝国憲法の発布にともない、立憲君主国という国体のもと、議員内閣制という英国式の政治形態を選択した日本は、敗戦後米国主導の占領統治下にあっても大統領制に移行することなく、日本国憲法のもと、二院制による議員内閣制を維持継続してきた。英国をモデルとするかぎり、二大政党制を理想とするのは理解できなくはない。しかし、これが本当に日本の風土に合っているのか、それはまた議論の余地のあるところである。
とはいえ、大政党も、選挙民である日本国民も、多くの人が二大政党制が実現したらいいのではないか、と思っているはずだ。今後の政治情勢には大いに注目するとともに、納税者(Taxpayer)として(!)監視することが必要である。
個人的には、保守中道の政治路線で、政治理念をめぐって対立する二大政党が、選挙をつうじて政権交代の可能性をもつ、というのがもっとも健全な姿であると考える。
Be a Good Loser ! これは裏返していえば、Don' t be a Bad Winner ! ということと、ニュアンスの差はあっても論理的には同じことだ。勝つにせよ負けるにせよ、勝敗の決まったあとの次のアクションが次の勝者を決めるのである。
ゲームは見ているだけの人と、実際にプレイする人では、コミッットメントの度合いがまったく異なる。私はあくまでも見る側の人として、日本の政治状況に注目していくつもりである。
私自身は絶対に政治家になるつもりはない。政治家に向いているといわれたことも何回かあるが、選挙さえなければ政治家になってもいいとは思っている。選挙はカネもかかるし、なによりも面倒くさい。だから、民主主義のもとで政治家になるということはありえない。
いっそのこと、最初から俳優を目指して、ドラマのなかで政治家を演じるというのが面白かったかな?俳優なら政治家でも弁護士でも医者でもなんでも演じることができるからね。
納税者として間接的な権力行使が可能なのが、本来あるべき民主主義というものである。
日本国には、さらに一歩、主権在民の民主主義国家として成長してもらいたい。これが、アジアで本当の意味でリーダーになるための必要最低条件である。
数のチカラがすべてを決めるのではない、理念を実行するチカラこそ、そして実現にあたってブレのない姿勢こそ、尊敬の対象となるのである! 大陸の"疑似民主制"人権抑圧国家とは違うのだ、ということを全世界にむかって身をもって示すべきなのである!
本日は時事ネタでいきたいと思う。台風直撃間近の東京発ババ通信、世界のメディアも注目する日本国の総選挙(General Election)の途中結果へのコメントです。
いまこれ書いている時点ですでに、定数480議席のうち民主党が300議席を越える圧勝の勢いである。英語なら landslide victory といったところだろう。
日本のTV放送はNHKを筆頭に民放各社もすべて開票情報一色である。別に非難しているのではない。選挙ほど素敵なショーはないからだ。一視聴者にとっては、開票速報ほど面白いものはない。またTV局からみても、これほど制作費がかからなくて、しかも手に汗握るエンターテインメント番組というのは、なかなかほかにはないだろう。
選挙結果は選挙に出馬した被選挙者の人生そのものを左右する。まさに喜怒哀楽の度合いは、へたな連続ドラマをはるかに上回る。
私は、実は数日前に期日前投票を済ませているが、どの政党に投票したかは明らかにするのはやめておこう。しかし、「政権交代」を望む気持ちは以前から抱いていたことは明言しておく。
要は小選挙区と比例代表でどの政党(とその候補)に投票するかという組み合わせゲームでしかないから、わざわざ選挙当日に当日する必要はない。3日前に大勢は判明するからだ。バンドワゴン(bandwagon) 的行動もありうる。つまり勝ち馬に乗るということだ。
政治はあくまでも合従連衡のゲームであるので、単独政党が圧倒的多数を制するのは必ずしも得策ではない。どういうアライアンス戦略を組むか、これはビジネスマンにとっても戦略構築に際してのまたとない、格好の生きた教材である。
しかし、今回はそのレッスンは期待できそうもない。
「絶対権力は絶対に腐敗する」。英国の政治家の名言だが、本日たとえ民主党の党首が慎重姿勢を示しても、圧勝ムードを組織全体から払拭するのは至難のわざ、間違いなく絶対多数を獲得したがゆえに、民主党は慢心し、内部崩壊するだろう。
今回の総選挙で大敗した自民党、および党首の麻生太郎氏には、私はタイトルにもした Be a Good Loser ! というコトバを贈りたい。どうせ負けたなら、いさぎよく負けっぷりの良さを示せ!、ということだ。総裁を辞任するだけでなく、自民党そのものが負けを認めることが肝心である。
私が思うに、おそらく負けた自民党内部では、イチから立て直していこうという前向きの姿勢よりも、次は勝ち馬に乗りたい、次は返り咲きたいという気持ちをもつ元議員が大半ではないか、と思う。つまり、浮き足だった元議員が少なからずいるだろうということだ。
「サルは木から落ちてもサルだが、議員は選挙で落選したらタダの人」という政治的アネクドートが日本にはある。気持ちはよーくわかります。
おそらく、「政権交代」が今回実現しても、これで「二大政党制」が確立するというわけではないのである。なぜなら、二大政党制としての政治的争点がまだまだクリアになっていないからだ。
今回おそらく多くの有権者が民主党に投票したのは、自民党への懲罰的行為というほかに、「政権交代」という漢字熟語4文字キャッチフレーズの訴求力の勝利といえるだろう。政治的には、バカのひとつ覚えでいいのである。簡潔で覚えやすいキャッチフレーズを連呼すること、これに尽きる。前回自民党の圧勝の原動力となった「郵政民営化」と同じ構造である。
「政権交代」というキャッチフレーズは、ビジネス界では語りぐさとなっている、日本マクドナルド会長の故藤田田(ふじた・でん)による「半額」という漢字熟語2文字の訴求力に匹敵するといえよう。日本語人は、簡潔でアピール力のあるキャッチフレーズに弱いからだ。決してマニフェストの内容が意志決定の主要な要素ではない。
二大政党制実現のためには(・・これがもし正しい政治的理念として共有されるなら)、あともう一回大きな激変が必要である。その時には、今回圧勝した民主党も、大敗した自民党も、組織を大幅にシャッフルし、明確な政治的理念をもった、いいかえればビジョンとミッションとバリューが明確な組織として再編しなければならない。
しかし、おそらく単純な政権"再"交代はないだろう。政治状況はさらに流動化し、最終的な二大政党制へと収斂(しゅうれん)してゆくものと考えられる。
ただし、この日本という国に本当に二大政党制がフィットしているのか、それは話が別である。
大日本帝国憲法の発布にともない、立憲君主国という国体のもと、議員内閣制という英国式の政治形態を選択した日本は、敗戦後米国主導の占領統治下にあっても大統領制に移行することなく、日本国憲法のもと、二院制による議員内閣制を維持継続してきた。英国をモデルとするかぎり、二大政党制を理想とするのは理解できなくはない。しかし、これが本当に日本の風土に合っているのか、それはまた議論の余地のあるところである。
とはいえ、大政党も、選挙民である日本国民も、多くの人が二大政党制が実現したらいいのではないか、と思っているはずだ。今後の政治情勢には大いに注目するとともに、納税者(Taxpayer)として(!)監視することが必要である。
個人的には、保守中道の政治路線で、政治理念をめぐって対立する二大政党が、選挙をつうじて政権交代の可能性をもつ、というのがもっとも健全な姿であると考える。
Be a Good Loser ! これは裏返していえば、Don' t be a Bad Winner ! ということと、ニュアンスの差はあっても論理的には同じことだ。勝つにせよ負けるにせよ、勝敗の決まったあとの次のアクションが次の勝者を決めるのである。
ゲームは見ているだけの人と、実際にプレイする人では、コミッットメントの度合いがまったく異なる。私はあくまでも見る側の人として、日本の政治状況に注目していくつもりである。
私自身は絶対に政治家になるつもりはない。政治家に向いているといわれたことも何回かあるが、選挙さえなければ政治家になってもいいとは思っている。選挙はカネもかかるし、なによりも面倒くさい。だから、民主主義のもとで政治家になるということはありえない。
いっそのこと、最初から俳優を目指して、ドラマのなかで政治家を演じるというのが面白かったかな?俳優なら政治家でも弁護士でも医者でもなんでも演じることができるからね。
納税者として間接的な権力行使が可能なのが、本来あるべき民主主義というものである。
日本国には、さらに一歩、主権在民の民主主義国家として成長してもらいたい。これが、アジアで本当の意味でリーダーになるための必要最低条件である。
数のチカラがすべてを決めるのではない、理念を実行するチカラこそ、そして実現にあたってブレのない姿勢こそ、尊敬の対象となるのである! 大陸の"疑似民主制"人権抑圧国家とは違うのだ、ということを全世界にむかって身をもって示すべきなのである!
2009年8月29日土曜日
書評 『河合隼雄-心理療法家の誕生-』(大塚信一、トランスビュー、2009)
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■メイキング・オブ・河合隼雄、そして・・・■
編集者という、著作家にとっての伴走者が、本来まとっている黒衣を脱いで著作成立の舞台裏を明かしてくれた四部作の最後が完結した。
著者は、岩波書店の元社長であるが、経営者としての立場よりも、編集者の立場としての回想録である。
四部作は、全体の回想を皮切りに、文化人類学者の山口昌男、哲学者の中村雄二郎、心理療法家の河合隼雄と、新しい時代の「岩波文化人」を形成した、知の変革者三人との出会いと伴走の記録である。
本書は、その中でも特に私が心待ちにしていたものであった。
いわゆる「岩波文化人」とは、岩波書店の創業者である岩波茂雄が、戦前の旧制高校の人脈をフルに活用して形成した、哲学・思想を中心とした文化人の山脈のこと・である。「●●講座」という形の出版物によって権威としての知を確立し、長く君臨してきた。
1963年に岩波書店に入社した著者は、硬直したアカデミズムの象徴ともいうべき「岩波文化」的なものを否定することを、編集者としての自らの使命とした人である。
その活動のなかで、山口昌男、中村雄二郎、河合隼雄といった、新時代の知的旗手ともなるべき人たちと協力し、優れた書物を世に送り出してきた、いわば変革の仕掛け人である。ここに名前を出した人たちは、結果として「新・岩波文化人」といってもいい存在となったことはいうまでもない。
強烈な個性の持ち主であった創業者の死後、守成の状態にあった出版社において、著者である大塚氏は過去の遺産としての伝統を否定し、伝統を再創造するという行為をつうじて、経済学者シュンペーターのいう"創造的破壊"を成し遂げたことになる。
『河合隼雄 心理療法家の誕生』は、まさにメイキングものといってよい内容である。
伝記的内容については、著者自身が聞き手となってとりまとめた回想録『未来への記憶 上下』(岩波新書)と、河合隼雄が自らを語った『深層意識への道』(岩波書店)をベースにしているので、これらの本をすでに読んだ人にとっては、すでに知っている話が何度もでてくるので物足りないかもしれない。しかし、編集者としての著者がさまざま形で自伝的内容を補っており、異なる視点から河合隼雄の人生の軌跡を読むことが可能になる。
丹波篠山(ささやま)に生まれた一人の日本人が、電気、数学を学んで高校の数学教師となり、研究テーマとしてロールシャッハテストに打ち込んだ結果アメリカに留学、そこでユング派の心理学と出会い、さらにはスイスのユング研究所で3年間格闘、日本に戻ってからは箱庭療法はじめ、臨床家として心理療法の普及に精力的に従事しつつ、数々の著作でもって、日本人とは何かということを考えるためのヒントを与え続けてくれた、何かに導かれるようにして"アレンジされた"河合隼雄という人生。
"臨床の知"、"実践的知"、表現方法にはいろいろあるだろうが、新たな知のスタイルとして河合隼雄が実践してきた人生の軌跡は、ビジネスマンの私も大きな影響を受けてきた。
人生というものは、実に不可思議なものだ。著者とともに河合隼雄の人生を振り返ることで、あらためて大きな感慨を覚えている。
たまにはゆっくり本を読むのもいいものだ。
bk1書評「メイキング・オブ・河合隼雄、そして・・・」投稿掲載(2009年8月25日)
*再録にあたって、一部字句の修正と書名の誤りを訂正した。
<書評への付記>
文化人類学者の山口昌男、哲学者の中村雄二郎、心理療法家の河合隼雄、これらの人たちが中心となった、『叢書 文化の現在』(岩波書店)は、図書館で借りて大学時代から読んできたが、背後にあってプロデューサー的役割を演じてきたのが大塚信一氏であったことは、数年前まで知らなかった。優秀な編集者の存在なくして、このような事業は成立しえないことを、もっと認識しなければならなかったのである。われながら、まったくもってうかつなことだ。
いずれも、ストレートに脇目もふらずにアカデミックな道に進んで、象牙の塔で純粋培養されてきた人たちではない。
山口昌男(1931-)は東大文学部国史学科を卒業して、私立高校の日本史の教師から出発した人。日本史の授業では黒板いっぱいに得意のマンガを描いて、生徒を引きつけていたという。
中村雄二郎(1925-)は、東大文学部卒業後、文化放送(TBSラジオ)で番組製作のプロデューサーをしていた人。激務で過労のため失明寸前までいったらしい。
河合隼雄(1928-2007)は、京大理学部数学科を卒業して、私立高校の数学教師から出発した人。熱血教師だったらしい。
実社会経験が、隠し味というわけではないが、その学問にはプラクティカルな匂いがあり、著述もあくまでも軽やかなスタイルが身上。重々しく権威的なものとは、まさに対極に位置したといえる。
いずれも西洋社会とは正面から対峙しているが、単なる輸入学問を越えて、日本人が日本人という主体的な立場から構築した学問は、旧来の講壇アカデミズムとは一線を画し、その後の学問のあり方の流れを作り出したことは大きな功績である。
実際、もはや単なる翻訳紹介が学問とはいえないことはこの国では自明のはずなのだが、学者の実績には、外国書の日本語訳がカウントされても、自著が外国語に翻訳されても業績にはカウントされないらしい。旧態依然の文部科学省の動脈硬化的対応である。嘆かわしや。
サル学や日本的経営のように、日本に研究フィールドがある分野では、世界的な研究分野に成長している。観察の場が手近なところにあるというのは圧倒的に有利である。
ちなみにサル学は河合隼雄の兄である河合雅雄が開拓者の一人。アフリカのゴリラの生態研究で著名である。犬山のモンキーセンター所長など歴任した、日本のサル学を世界的レベルに引き上げた功労者である。
文化人類学者の山口昌男と日本中世史の網野善彦の「天皇制」をめぐる有料のライブ対論を大学時代に聞きに行ったことがある。東京神田神保町の岩波書店の2階か3階だったと思うが、立ち見が出るほど満員だった。
西洋中世史のゼミナールに属しながらも、自分自身を西洋人にはまったくアイデンティファイできない私は、どちらかというと文化人類学的な思考方法には大きく惹かれていたし、1980年代初頭にいわゆるニューアカ(・・ニューアカデミズムの略称)とよばれた浅田彰や中沢新一の出現を準備したともいえる山口昌男の『知の遠近法』(岩波書店、1979)は、大学一年のときからベッドの枕もとのミニ書棚において、寝る前にしょっちゅう読んでいたものである。
同書には山口昌男がフランスの雑誌「エスプリ」にフランス語で発表した天皇制にかんする論文の、著者自身による日本語訳が収録されている。基本的に文化としての天皇制を論じている。山口昌男も網野善彦も二人とも東大文学部国史学科卒という点は共通していた。"国史"という位置づけは、部外者から見ると限りなく閉鎖的な印象を受けるが、二人ともその枠は完全にはみ出ていた。
同時期に網野善彦もフル稼働の状況で、次々と斬新な仮説を提示しては、日本中世史を塗り替える仕事を推進していた。網野善彦はなんといっても死ぬまで筋金入りの共産主義者で天皇制反対論者、のちに秋篠宮が網野氏の作品を愛読していると知って、非常に困惑したらしいというエピソードがある。晩年になってからはビジネスマンの読者が増えたことを網野氏はどう考えていたのだろうか? アニメーターの宮崎駿が大きな影響を受けて『もののけ姫』を製作したことはご存じの通り。宮崎駿はもともと共産党シンパである。
こんな二人の対談なので、期待されないはずがなかったのである。ところが、内容については詳しくは覚えていない。というのは、対談内容は「日本図書新聞」に掲載されるとその場で発表があったからだ。しかし結局活字になることはなかった。だが理由はそれだけではなかったようだ。
対談のあった翌週のゼミで、阿部謹也先生からは「君もいたんですね」と声をかけられた。目ざとくも見つけられていたのであった。右翼の妨害を考えるとあの対談は実行すること自体が大変だったのだ、というのが網野善彦とも親しかった阿部先生の話であった。1980年代半ばのことである。
当時はまだまだ「ウヨク」が乱暴な存在だったのだ。平成になってから、日本国憲法を遵守するという天皇陛下のお言葉で「ウヨク」は一気にトーンダウン、ソ連の崩壊後「サヨク」がチカラを失ってからは張り合いをなくし、存在意義そのものがなくなっていったように思う。
現在では考えられないほど、「天皇制」というテーマには、まだまだ濃厚な政治性がまとわりついていたのである。
中村雄二郎は、岩波新書の『臨床の知とは何か』を熟読し大きな影響を受けた。自分がビジネスマンとして日々取り組んでいることを、理論的に裏付けてくれる思いがしていたものである。
中村雄二郎はライブは見てない。TV番組では見た記憶はあるが。
河合隼雄の話は一度だけライブで聞いたことがある。京都の国際会館で開催された「文化の多様性」で、当時文化庁長官を務めていた頃で、晩年といっってもいい時期である。
2004年(平成16年)平成16年11月7日(日曜日)、フランスの思想家ジャック・アタリ(元フランソワ・ミッテラン大統領顧問、元欧州復興銀行総裁)の講演のあと、韓国のイ・オリョン(『縮みの思考』著者)との日本語による対談をライブで、しかも最前列のかぶりつきで(!)楽しませていただいた。この時は来賓として秋篠宮殿下夫妻がこられていたが、ご夫妻からは虚礼を廃する要請があり、着席のままお迎えしたのは記憶に残っている。
対談の途中で、河合隼雄は小用に立ったのだがが、年寄りの特権(?)とかいって笑いをとっていたが、聴衆に不快感を味あわせないという、ちょっとした心遣いは見事であった。
河合隼雄のやわらかい関西弁の語り口とダジャレは、場をなごませる雰囲気を作り出していた。とくに難しい話をするとき、厳しい話をするとき、関西弁はクッションとして働いてくれるものである。関東人はそれをさして、ヘラヘラして真面目さに欠けるなどと頭ごなしに非難することがあるが、あんたら全然わかってへんのや。
逆にいうと、関東人は、あたりの柔らかい関西弁にダマされとんのとちゃうか?
関西人は、実際はものすごくストレートな表現が多いのに、関東ではそれに気づいていない人が多いようにも思える。
関西人が海外で活躍しているのは当然やな。ズバズバとダイレクトに、ストレートな表現そのままで、海外とわたりあっていけるからなー。英語で話している限り、英語に関西弁はでてこないけど、発想は英語にシンクロしとるなー。
ちなみに、タイのバンコクでも非公式な統計だが、某大阪人いわく、バンコク在住の日本人の7割は関西人なり(!?)と。ほんまかいな? 情報ソースは何やねん? と丹波篠山、もとい丹後舞鶴生まれの私は突っ込んだが、感覚的には私も同意見。
しかし私なんかは、ストレート・トークを関東で、しかも東京弁でやってしまうことが多いのが問題なんやろな、と反省にもつかぬ反省。
反省ならサルでもできるわい、と突っ込みの声・・・空耳か?

■メイキング・オブ・河合隼雄、そして・・・■
編集者という、著作家にとっての伴走者が、本来まとっている黒衣を脱いで著作成立の舞台裏を明かしてくれた四部作の最後が完結した。
著者は、岩波書店の元社長であるが、経営者としての立場よりも、編集者の立場としての回想録である。
四部作は、全体の回想を皮切りに、文化人類学者の山口昌男、哲学者の中村雄二郎、心理療法家の河合隼雄と、新しい時代の「岩波文化人」を形成した、知の変革者三人との出会いと伴走の記録である。
本書は、その中でも特に私が心待ちにしていたものであった。
いわゆる「岩波文化人」とは、岩波書店の創業者である岩波茂雄が、戦前の旧制高校の人脈をフルに活用して形成した、哲学・思想を中心とした文化人の山脈のこと・である。「●●講座」という形の出版物によって権威としての知を確立し、長く君臨してきた。
1963年に岩波書店に入社した著者は、硬直したアカデミズムの象徴ともいうべき「岩波文化」的なものを否定することを、編集者としての自らの使命とした人である。
その活動のなかで、山口昌男、中村雄二郎、河合隼雄といった、新時代の知的旗手ともなるべき人たちと協力し、優れた書物を世に送り出してきた、いわば変革の仕掛け人である。ここに名前を出した人たちは、結果として「新・岩波文化人」といってもいい存在となったことはいうまでもない。
強烈な個性の持ち主であった創業者の死後、守成の状態にあった出版社において、著者である大塚氏は過去の遺産としての伝統を否定し、伝統を再創造するという行為をつうじて、経済学者シュンペーターのいう"創造的破壊"を成し遂げたことになる。
『河合隼雄 心理療法家の誕生』は、まさにメイキングものといってよい内容である。
伝記的内容については、著者自身が聞き手となってとりまとめた回想録『未来への記憶 上下』(岩波新書)と、河合隼雄が自らを語った『深層意識への道』(岩波書店)をベースにしているので、これらの本をすでに読んだ人にとっては、すでに知っている話が何度もでてくるので物足りないかもしれない。しかし、編集者としての著者がさまざま形で自伝的内容を補っており、異なる視点から河合隼雄の人生の軌跡を読むことが可能になる。
丹波篠山(ささやま)に生まれた一人の日本人が、電気、数学を学んで高校の数学教師となり、研究テーマとしてロールシャッハテストに打ち込んだ結果アメリカに留学、そこでユング派の心理学と出会い、さらにはスイスのユング研究所で3年間格闘、日本に戻ってからは箱庭療法はじめ、臨床家として心理療法の普及に精力的に従事しつつ、数々の著作でもって、日本人とは何かということを考えるためのヒントを与え続けてくれた、何かに導かれるようにして"アレンジされた"河合隼雄という人生。
"臨床の知"、"実践的知"、表現方法にはいろいろあるだろうが、新たな知のスタイルとして河合隼雄が実践してきた人生の軌跡は、ビジネスマンの私も大きな影響を受けてきた。
人生というものは、実に不可思議なものだ。著者とともに河合隼雄の人生を振り返ることで、あらためて大きな感慨を覚えている。
たまにはゆっくり本を読むのもいいものだ。
bk1書評「メイキング・オブ・河合隼雄、そして・・・」投稿掲載(2009年8月25日)
*再録にあたって、一部字句の修正と書名の誤りを訂正した。
<書評への付記>
文化人類学者の山口昌男、哲学者の中村雄二郎、心理療法家の河合隼雄、これらの人たちが中心となった、『叢書 文化の現在』(岩波書店)は、図書館で借りて大学時代から読んできたが、背後にあってプロデューサー的役割を演じてきたのが大塚信一氏であったことは、数年前まで知らなかった。優秀な編集者の存在なくして、このような事業は成立しえないことを、もっと認識しなければならなかったのである。われながら、まったくもってうかつなことだ。
いずれも、ストレートに脇目もふらずにアカデミックな道に進んで、象牙の塔で純粋培養されてきた人たちではない。
山口昌男(1931-)は東大文学部国史学科を卒業して、私立高校の日本史の教師から出発した人。日本史の授業では黒板いっぱいに得意のマンガを描いて、生徒を引きつけていたという。
中村雄二郎(1925-)は、東大文学部卒業後、文化放送(TBSラジオ)で番組製作のプロデューサーをしていた人。激務で過労のため失明寸前までいったらしい。
河合隼雄(1928-2007)は、京大理学部数学科を卒業して、私立高校の数学教師から出発した人。熱血教師だったらしい。
実社会経験が、隠し味というわけではないが、その学問にはプラクティカルな匂いがあり、著述もあくまでも軽やかなスタイルが身上。重々しく権威的なものとは、まさに対極に位置したといえる。
いずれも西洋社会とは正面から対峙しているが、単なる輸入学問を越えて、日本人が日本人という主体的な立場から構築した学問は、旧来の講壇アカデミズムとは一線を画し、その後の学問のあり方の流れを作り出したことは大きな功績である。
実際、もはや単なる翻訳紹介が学問とはいえないことはこの国では自明のはずなのだが、学者の実績には、外国書の日本語訳がカウントされても、自著が外国語に翻訳されても業績にはカウントされないらしい。旧態依然の文部科学省の動脈硬化的対応である。嘆かわしや。
サル学や日本的経営のように、日本に研究フィールドがある分野では、世界的な研究分野に成長している。観察の場が手近なところにあるというのは圧倒的に有利である。
ちなみにサル学は河合隼雄の兄である河合雅雄が開拓者の一人。アフリカのゴリラの生態研究で著名である。犬山のモンキーセンター所長など歴任した、日本のサル学を世界的レベルに引き上げた功労者である。
文化人類学者の山口昌男と日本中世史の網野善彦の「天皇制」をめぐる有料のライブ対論を大学時代に聞きに行ったことがある。東京神田神保町の岩波書店の2階か3階だったと思うが、立ち見が出るほど満員だった。
西洋中世史のゼミナールに属しながらも、自分自身を西洋人にはまったくアイデンティファイできない私は、どちらかというと文化人類学的な思考方法には大きく惹かれていたし、1980年代初頭にいわゆるニューアカ(・・ニューアカデミズムの略称)とよばれた浅田彰や中沢新一の出現を準備したともいえる山口昌男の『知の遠近法』(岩波書店、1979)は、大学一年のときからベッドの枕もとのミニ書棚において、寝る前にしょっちゅう読んでいたものである。
同書には山口昌男がフランスの雑誌「エスプリ」にフランス語で発表した天皇制にかんする論文の、著者自身による日本語訳が収録されている。基本的に文化としての天皇制を論じている。山口昌男も網野善彦も二人とも東大文学部国史学科卒という点は共通していた。"国史"という位置づけは、部外者から見ると限りなく閉鎖的な印象を受けるが、二人ともその枠は完全にはみ出ていた。
同時期に網野善彦もフル稼働の状況で、次々と斬新な仮説を提示しては、日本中世史を塗り替える仕事を推進していた。網野善彦はなんといっても死ぬまで筋金入りの共産主義者で天皇制反対論者、のちに秋篠宮が網野氏の作品を愛読していると知って、非常に困惑したらしいというエピソードがある。晩年になってからはビジネスマンの読者が増えたことを網野氏はどう考えていたのだろうか? アニメーターの宮崎駿が大きな影響を受けて『もののけ姫』を製作したことはご存じの通り。宮崎駿はもともと共産党シンパである。
こんな二人の対談なので、期待されないはずがなかったのである。ところが、内容については詳しくは覚えていない。というのは、対談内容は「日本図書新聞」に掲載されるとその場で発表があったからだ。しかし結局活字になることはなかった。だが理由はそれだけではなかったようだ。
対談のあった翌週のゼミで、阿部謹也先生からは「君もいたんですね」と声をかけられた。目ざとくも見つけられていたのであった。右翼の妨害を考えるとあの対談は実行すること自体が大変だったのだ、というのが網野善彦とも親しかった阿部先生の話であった。1980年代半ばのことである。
当時はまだまだ「ウヨク」が乱暴な存在だったのだ。平成になってから、日本国憲法を遵守するという天皇陛下のお言葉で「ウヨク」は一気にトーンダウン、ソ連の崩壊後「サヨク」がチカラを失ってからは張り合いをなくし、存在意義そのものがなくなっていったように思う。
現在では考えられないほど、「天皇制」というテーマには、まだまだ濃厚な政治性がまとわりついていたのである。
中村雄二郎は、岩波新書の『臨床の知とは何か』を熟読し大きな影響を受けた。自分がビジネスマンとして日々取り組んでいることを、理論的に裏付けてくれる思いがしていたものである。
中村雄二郎はライブは見てない。TV番組では見た記憶はあるが。
河合隼雄の話は一度だけライブで聞いたことがある。京都の国際会館で開催された「文化の多様性」で、当時文化庁長官を務めていた頃で、晩年といっってもいい時期である。
2004年(平成16年)平成16年11月7日(日曜日)、フランスの思想家ジャック・アタリ(元フランソワ・ミッテラン大統領顧問、元欧州復興銀行総裁)の講演のあと、韓国のイ・オリョン(『縮みの思考』著者)との日本語による対談をライブで、しかも最前列のかぶりつきで(!)楽しませていただいた。この時は来賓として秋篠宮殿下夫妻がこられていたが、ご夫妻からは虚礼を廃する要請があり、着席のままお迎えしたのは記憶に残っている。
対談の途中で、河合隼雄は小用に立ったのだがが、年寄りの特権(?)とかいって笑いをとっていたが、聴衆に不快感を味あわせないという、ちょっとした心遣いは見事であった。
河合隼雄のやわらかい関西弁の語り口とダジャレは、場をなごませる雰囲気を作り出していた。とくに難しい話をするとき、厳しい話をするとき、関西弁はクッションとして働いてくれるものである。関東人はそれをさして、ヘラヘラして真面目さに欠けるなどと頭ごなしに非難することがあるが、あんたら全然わかってへんのや。
逆にいうと、関東人は、あたりの柔らかい関西弁にダマされとんのとちゃうか?
関西人は、実際はものすごくストレートな表現が多いのに、関東ではそれに気づいていない人が多いようにも思える。
関西人が海外で活躍しているのは当然やな。ズバズバとダイレクトに、ストレートな表現そのままで、海外とわたりあっていけるからなー。英語で話している限り、英語に関西弁はでてこないけど、発想は英語にシンクロしとるなー。
ちなみに、タイのバンコクでも非公式な統計だが、某大阪人いわく、バンコク在住の日本人の7割は関西人なり(!?)と。ほんまかいな? 情報ソースは何やねん? と丹波篠山、もとい丹後舞鶴生まれの私は突っ込んだが、感覚的には私も同意見。
しかし私なんかは、ストレート・トークを関東で、しかも東京弁でやってしまうことが多いのが問題なんやろな、と反省にもつかぬ反省。
反省ならサルでもできるわい、と突っ込みの声・・・空耳か?
2009年8月28日金曜日
タイのあれこれ (8)-ロイヤル・ドッグ
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ハリウッド映画『HACHI』(オリジナル・タイトルは HACHIKO: A Dog's Tale)、日本の松竹映画『ハチ公物語』のリメイクである。
設定はアメリカの地方都市に変えたが、主人公の大学教授という設定は同じで、熱心なチベット仏教信者のリチャード・ギアが演じる。でも本当の主役は HACHI である。「週刊文春」の阿川佐和子との対談で、シナリオを読んで自らプロデューサーも買って出たというリチャード・ギアは、共演した犬たちのことを、仏教のヨギ(=修行者)のようだといっているのは面白い。犬は余計な雑念がないからだ、と。とても犬の境地には到達できない、とも。
予告編みてるだけでもジ~ンとして目頭が熱くなってくるので、映画館で見るのはやめておきたい。絶対泣いてしまうから。
やはり本当の物語には、洋の東西を越えて人間の心に訴えかけてくるものがあるのだろう。米国版の trailer とくらべてみるのも面白い、というより、また泣かされる。
駅で迷子になった子犬(・・この子犬は秋田犬ではなく柴犬をつかったそうだ)の首輪についたdog tag には、漢字の八(はち)の字・・芸が細かいねー。ちなみに、英語の dog tag はミリタリー・スラングでは認識票のことをさす。戦場で斃れてクチがきけなくなっても認識票をみればわかるということ。dog fight とは、戦闘機による空中戦のことだ。
そうそう、オリジナルの日本版『ハチ公物語』予告編も参考までに。日本人だからハチ公の話はある程度知っているが、やはり舞台設定は現代ににしたほうが、より親近感がますというのは否定できない、と思う。もちろんオリジナル版のハチ公も、仲代達也や八千草薫といった名優以上にすばらしい。
またハリウッドのリメイクかよ、という人もいるが、日本出身の秋田犬は、すでに世界の AKITA なんだからいいではないか!、と私は思う。
ハチ公も、世界の Hachiko になったのだから。世界中で愛される物語となるだろう。
絵本として読まれてきた米国だけでなく、世界中の人が映画をつうじて、ハチ公(HACHIKO)の物語を知ることになるのだから。
『ニッポンの犬』(岩合光昭・写真、岩合日出子・文、平凡社、1998年)という写真集がある。やはり犬はなんといっても日本犬である。以前、こういう文書を書いている。
さて、話はタイのロイヤル・ドッグのことである。 こちらのロイヤルは、loyal なだけではない、Rで始まるロイヤル、すなわち Royal でしかも Loyal な犬 の話である。
タイのプーミポン国王ラーマ9世の愛犬トンデーンの話。この犬の話はタイでは知らない人はいない。しかもなんとマンガにもなっているのだ。
このマンガによれば、あやうく保健所につれていかれて処分される寸前だった犬が助けられて、その子犬のうち一匹が国王にもらわれることとなった、犬のシンデレラ・ストーリーのような物語で実話である。
この犬は実に賢い犬らしく、国王陛下が国民に道徳を説く際には、トンデーンの話を引き合いに出すという。

日本語訳が世界でさきがけて出版されている。プーミポン国王の特別の許可をえて、タイ政治学の重鎮である赤木攻・前大阪外国語大学学長が翻訳されている。犬好きならすでによく知っている話かもしれない。日本版は絵本として出版されているが、私としてはタイ語版のマンガのほうが面白く感じている。タイ語版には英語訳がついているので問題はない。

タイ語のマンガ版が興味深いのは、タイ王国憲法では、「神聖にして絶対不可侵」の存在である国王陛下を(・・戦前の大日本帝国憲法と同じ)、いかにマンガに登場させるかという点にかんして作者が大いに悩んだという。その結果、国王陛下はすべて白塗りで、透明人間のような描き方となった(右の写真)。
なんだか奇妙なかんじもするが、国王陛下のご真影がいたるところに存在するのが、タイ王国である。かしこくも国王陛下にあらせられましては・・・ってことであろう。苦肉の策といえば、そうとしかいいようがないが。

バンコクの犬といえば、朝から暑いということもあるが、でっぷりと肥えたメタボで、朝からマグロのように舗道に転がって熟睡しているのが大半だが、すべて野良犬ではなく、飼い犬もまじっているようだ。首輪をしている犬がいる。バンコク中心部ビジネス街のシーロムで撮ったこの写真の犬は、首輪に Cool Dog なんて書いてあるが、どこが Cool だっちゅうの!?と突っ込みを入れたくなる。
タイでは犬は放し飼いなので、というより日本と違って鎖でつなぐ習慣がないので、野良と飼い犬が共生しているのである。
ただしバンコク以外では、犬は必ずしもマグロではない。
数年前、チェンマイの郊外にあるヘルス・リゾートで休暇をとっていたときのことである。
滞在して数日目、ヒマだったのでゲートの外にでてみた。ゲートの外は見渡す限りまったくの農村地帯で、少し散歩していくとタイ人の民間信仰の対象となっている巨樹があったので見に行ってみた。巨樹に近づいてゆくと、なぜか突然、犬が一匹吠えだした。
するとその声につられて何匹も犬が吠えだし、みるみるうちに数百メートル先から犬が突進してきたことに気がついたと思ったら、四方八方から何匹も犬が吠えながら猛スピードで突進してきたのである。何かスローモーションのフィルムをみているような気がしていたが、あっという間に犬たちが私の周りを囲んで吠えまくっている。
後ろを見せたら間違いなく噛まれると思ったので、たまたまその時手にしていた傘をひろげて犬が近寄れないようにしばし防戦していたが、もしかした駄目かもしれないという気持ちになったその瞬間、農家からおじいさんがでてきて、口笛で犬になにか合図した。そのとたん、犬は吠えかかってくるのをやめて散っていった。「悪い人ではないから吠えないように」と、おじいさんが犬に合図したようだ。思わずおじいさんには頭を下げて礼をしたものであった。
まことにもって、よそ者には警戒するという原則をたたきこまれた番犬として優秀なチェンマイ犬たちであった。まさに Loyal dogs である。
教訓:タイの犬だからといって、すべてバンコクを基準にして固定観念でもって類推するのは危険である。
舗道に転がっているマグロ犬だけではない。タイには王様の犬もいれば、バンコク市内ではセレブが飼うチワワもいる。もちろん主人に忠実な番犬もいる。もちろんマグロ犬も発情期は寝そべったりしていないので危険である。
犬の数だけ、"犬"生がある。もちろん犬だから、dog year を生きているのであるが。
P.S. さて今回は、本日8月28日に、タイのあれこれ(8)で、ハチ公(=Hachiko)をとりあげたが、これはシンクロではなく、種を明かせばインテンショナルなものである。たまにはこういう細工を組み込んだ設計も面白い。犬づくしの回であった。
ハリウッド映画『HACHI』(オリジナル・タイトルは HACHIKO: A Dog's Tale)、日本の松竹映画『ハチ公物語』のリメイクである。
設定はアメリカの地方都市に変えたが、主人公の大学教授という設定は同じで、熱心なチベット仏教信者のリチャード・ギアが演じる。でも本当の主役は HACHI である。「週刊文春」の阿川佐和子との対談で、シナリオを読んで自らプロデューサーも買って出たというリチャード・ギアは、共演した犬たちのことを、仏教のヨギ(=修行者)のようだといっているのは面白い。犬は余計な雑念がないからだ、と。とても犬の境地には到達できない、とも。
予告編みてるだけでもジ~ンとして目頭が熱くなってくるので、映画館で見るのはやめておきたい。絶対泣いてしまうから。
やはり本当の物語には、洋の東西を越えて人間の心に訴えかけてくるものがあるのだろう。米国版の trailer とくらべてみるのも面白い、というより、また泣かされる。
駅で迷子になった子犬(・・この子犬は秋田犬ではなく柴犬をつかったそうだ)の首輪についたdog tag には、漢字の八(はち)の字・・芸が細かいねー。ちなみに、英語の dog tag はミリタリー・スラングでは認識票のことをさす。戦場で斃れてクチがきけなくなっても認識票をみればわかるということ。dog fight とは、戦闘機による空中戦のことだ。
そうそう、オリジナルの日本版『ハチ公物語』予告編も参考までに。日本人だからハチ公の話はある程度知っているが、やはり舞台設定は現代ににしたほうが、より親近感がますというのは否定できない、と思う。もちろんオリジナル版のハチ公も、仲代達也や八千草薫といった名優以上にすばらしい。
またハリウッドのリメイクかよ、という人もいるが、日本出身の秋田犬は、すでに世界の AKITA なんだからいいではないか!、と私は思う。
ハチ公も、世界の Hachiko になったのだから。世界中で愛される物語となるだろう。
絵本として読まれてきた米国だけでなく、世界中の人が映画をつうじて、ハチ公(HACHIKO)の物語を知ることになるのだから。
『ニッポンの犬』(岩合光昭・写真、岩合日出子・文、平凡社、1998年)という写真集がある。やはり犬はなんといっても日本犬である。以前、こういう文書を書いている。
犬は日本犬に限る! by 土佐犬 (bk1書評 2001/03/28 投稿掲載)
私は犬だ。もちろん、猫に対して犬が好きだ、という意味だが。
犬は日本犬に限る。表紙に「カワイイ、りりしい、たのもしい」という宣伝シールが貼ってあるが、まさにそのとおり。この本に登場する犬の顔が実にいい。思わずほおずりしたくな るような犬、ほれぼれとするような表情をした犬、犬、犬・・・。何度眺めてもうれしい本。
さて、話はタイのロイヤル・ドッグのことである。 こちらのロイヤルは、loyal なだけではない、Rで始まるロイヤル、すなわち Royal でしかも Loyal な犬 の話である。
タイのプーミポン国王ラーマ9世の愛犬トンデーンの話。この犬の話はタイでは知らない人はいない。しかもなんとマンガにもなっているのだ。
このマンガによれば、あやうく保健所につれていかれて処分される寸前だった犬が助けられて、その子犬のうち一匹が国王にもらわれることとなった、犬のシンデレラ・ストーリーのような物語で実話である。
この犬は実に賢い犬らしく、国王陛下が国民に道徳を説く際には、トンデーンの話を引き合いに出すという。

日本語訳が世界でさきがけて出版されている。プーミポン国王の特別の許可をえて、タイ政治学の重鎮である赤木攻・前大阪外国語大学学長が翻訳されている。犬好きならすでによく知っている話かもしれない。日本版は絵本として出版されているが、私としてはタイ語版のマンガのほうが面白く感じている。タイ語版には英語訳がついているので問題はない。
タイ語のマンガ版が興味深いのは、タイ王国憲法では、「神聖にして絶対不可侵」の存在である国王陛下を(・・戦前の大日本帝国憲法と同じ)、いかにマンガに登場させるかという点にかんして作者が大いに悩んだという。その結果、国王陛下はすべて白塗りで、透明人間のような描き方となった(右の写真)。
なんだか奇妙なかんじもするが、国王陛下のご真影がいたるところに存在するのが、タイ王国である。かしこくも国王陛下にあらせられましては・・・ってことであろう。苦肉の策といえば、そうとしかいいようがないが。
バンコクの犬といえば、朝から暑いということもあるが、でっぷりと肥えたメタボで、朝からマグロのように舗道に転がって熟睡しているのが大半だが、すべて野良犬ではなく、飼い犬もまじっているようだ。首輪をしている犬がいる。バンコク中心部ビジネス街のシーロムで撮ったこの写真の犬は、首輪に Cool Dog なんて書いてあるが、どこが Cool だっちゅうの!?と突っ込みを入れたくなる。
タイでは犬は放し飼いなので、というより日本と違って鎖でつなぐ習慣がないので、野良と飼い犬が共生しているのである。
ただしバンコク以外では、犬は必ずしもマグロではない。
数年前、チェンマイの郊外にあるヘルス・リゾートで休暇をとっていたときのことである。
滞在して数日目、ヒマだったのでゲートの外にでてみた。ゲートの外は見渡す限りまったくの農村地帯で、少し散歩していくとタイ人の民間信仰の対象となっている巨樹があったので見に行ってみた。巨樹に近づいてゆくと、なぜか突然、犬が一匹吠えだした。
するとその声につられて何匹も犬が吠えだし、みるみるうちに数百メートル先から犬が突進してきたことに気がついたと思ったら、四方八方から何匹も犬が吠えながら猛スピードで突進してきたのである。何かスローモーションのフィルムをみているような気がしていたが、あっという間に犬たちが私の周りを囲んで吠えまくっている。
後ろを見せたら間違いなく噛まれると思ったので、たまたまその時手にしていた傘をひろげて犬が近寄れないようにしばし防戦していたが、もしかした駄目かもしれないという気持ちになったその瞬間、農家からおじいさんがでてきて、口笛で犬になにか合図した。そのとたん、犬は吠えかかってくるのをやめて散っていった。「悪い人ではないから吠えないように」と、おじいさんが犬に合図したようだ。思わずおじいさんには頭を下げて礼をしたものであった。
まことにもって、よそ者には警戒するという原則をたたきこまれた番犬として優秀なチェンマイ犬たちであった。まさに Loyal dogs である。
教訓:タイの犬だからといって、すべてバンコクを基準にして固定観念でもって類推するのは危険である。
舗道に転がっているマグロ犬だけではない。タイには王様の犬もいれば、バンコク市内ではセレブが飼うチワワもいる。もちろん主人に忠実な番犬もいる。もちろんマグロ犬も発情期は寝そべったりしていないので危険である。
犬の数だけ、"犬"生がある。もちろん犬だから、dog year を生きているのであるが。
P.S. さて今回は、本日8月28日に、タイのあれこれ(8)で、ハチ公(=Hachiko)をとりあげたが、これはシンクロではなく、種を明かせばインテンショナルなものである。たまにはこういう細工を組み込んだ設計も面白い。犬づくしの回であった。
2009年8月27日木曜日
タイのあれこれ (7)-日本のアニメ
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日本人である私は、そもそも物心ついたときからTVにどっぷり漬かってきたわけであって、マンガ読み始める前からアニメを見ていた。私などより少し前の世代から以降のふつうの子供は、文字を読み始めるよりも、TV見るほうが絶対早いはずだ。
だから、手塚治虫のアニメ作品『悟空の大冒険』(1967年放送)のエンディング主題歌「悟空音頭」ではないが、「マンガがすっき、すっき、すっき、テレビがすっき、すっき!!」というのは、創作者の手塚治虫の発想であって、そのアニメを見ていた子供の発想ではない(YouTube で視聴可能)。
タイ人もまったく同じだろう。タイのローカルチャンネルでは、日本のアニメを吹き替えで放送している。
タイ人の場合は、それはもう当然といえば当然ということなのだろう。
しかし違いはといえば、これは日本以外の国はすべてほぼ同じだが、タイでも自国産のアニメではない、ということだ。ほぼ間違いなく100%日本のアニメ作品である。
『クレヨンしんちゃん』なども人気である(YouTube にタイ語吹き替え版投稿あり。タイでは直接TVで見たことはないが、『セーラームーン』も人気だという。
中でも、タイで国民的な圧倒的に知名度の高いアニメといったら、なんといっても『ドラえもん』だろう。
ドラえもんはタイだけでなくアジア全域で大人気だが、欧州ではそうでもないらしい。セーラームーンはイタリアやフランスでは大人気だが。国民性というか、アニメ受容の地域差、文明差とでもいうのか。このテーマはたいへん面白いが、専門ではないのでまたの機会といおうことで。
ではドラえもんの主題歌をタイ語バージョンにて(YouTube で視聴可能)。
ドラえもんがどれほど人気かというと、たとえばセブン・イレブンでは買い物すると一定の金額ごとにドラえもんの登場人物のシールを配っており、私も部下の経理担当の女性から、ドラえもんのシールをもらったら自分に渡してくれと頼まれていた。ちなみに私はメガネかけていることもあり、ノビタということになっていたが、まあそれはそれでよしとしておこう。ドラえもん登場人物はタイ人はみなよく知っている。
また、タイ人も日本人に劣らず、かわいいキャラクターが好きで、ドラえもんだけでなく、タイ独自のマスコットなども実に多い。ミニチュアの人形好きということも共通している。

ところで、タイにはアニメを描いた観光バスがある(写真)。
観光バスは、ウルトラマンやらバットマンやら、通常はアメコミを劇画化したような、実におどろおどろしいペンキ画のようなタッチの装飾がされていることが多くものすごい。かつての日本でもトラック野郎の装飾トラックがあったが、そんなもんじゃない。
そのなかでも飛び切りの観光バスを写真で紹介しておく。
日本のオタクの人たちなら「萌えバス」とでも表現するのかな? 美少女アニメらしき画像がバス全体をおおっている。乗っているとわからないけど、外からみるとものすごく目立つ。日本のオタクたちがみたら、泣いて喜びそうだなあ。タイに観光旅行する際には、事前に「萌えバス」にしろ!とリクエストしたらどうだろう!?
観光バス会社の社長の趣味なのか、ただ単に目立たせたいのか、うーん・・・まったくもって謎である。
「萌えバス」は、きょうもまたタイのどこかを走っている!
日本人である私は、そもそも物心ついたときからTVにどっぷり漬かってきたわけであって、マンガ読み始める前からアニメを見ていた。私などより少し前の世代から以降のふつうの子供は、文字を読み始めるよりも、TV見るほうが絶対早いはずだ。
だから、手塚治虫のアニメ作品『悟空の大冒険』(1967年放送)のエンディング主題歌「悟空音頭」ではないが、「マンガがすっき、すっき、すっき、テレビがすっき、すっき!!」というのは、創作者の手塚治虫の発想であって、そのアニメを見ていた子供の発想ではない(YouTube で視聴可能)。
タイ人もまったく同じだろう。タイのローカルチャンネルでは、日本のアニメを吹き替えで放送している。
タイ人の場合は、それはもう当然といえば当然ということなのだろう。
しかし違いはといえば、これは日本以外の国はすべてほぼ同じだが、タイでも自国産のアニメではない、ということだ。ほぼ間違いなく100%日本のアニメ作品である。
『クレヨンしんちゃん』なども人気である(YouTube にタイ語吹き替え版投稿あり。タイでは直接TVで見たことはないが、『セーラームーン』も人気だという。
中でも、タイで国民的な圧倒的に知名度の高いアニメといったら、なんといっても『ドラえもん』だろう。
ドラえもんはタイだけでなくアジア全域で大人気だが、欧州ではそうでもないらしい。セーラームーンはイタリアやフランスでは大人気だが。国民性というか、アニメ受容の地域差、文明差とでもいうのか。このテーマはたいへん面白いが、専門ではないのでまたの機会といおうことで。
ではドラえもんの主題歌をタイ語バージョンにて(YouTube で視聴可能)。
ドラえもんがどれほど人気かというと、たとえばセブン・イレブンでは買い物すると一定の金額ごとにドラえもんの登場人物のシールを配っており、私も部下の経理担当の女性から、ドラえもんのシールをもらったら自分に渡してくれと頼まれていた。ちなみに私はメガネかけていることもあり、ノビタということになっていたが、まあそれはそれでよしとしておこう。ドラえもん登場人物はタイ人はみなよく知っている。
また、タイ人も日本人に劣らず、かわいいキャラクターが好きで、ドラえもんだけでなく、タイ独自のマスコットなども実に多い。ミニチュアの人形好きということも共通している。
ところで、タイにはアニメを描いた観光バスがある(写真)。
観光バスは、ウルトラマンやらバットマンやら、通常はアメコミを劇画化したような、実におどろおどろしいペンキ画のようなタッチの装飾がされていることが多くものすごい。かつての日本でもトラック野郎の装飾トラックがあったが、そんなもんじゃない。
そのなかでも飛び切りの観光バスを写真で紹介しておく。
日本のオタクの人たちなら「萌えバス」とでも表現するのかな? 美少女アニメらしき画像がバス全体をおおっている。乗っているとわからないけど、外からみるとものすごく目立つ。日本のオタクたちがみたら、泣いて喜びそうだなあ。タイに観光旅行する際には、事前に「萌えバス」にしろ!とリクエストしたらどうだろう!?
観光バス会社の社長の趣味なのか、ただ単に目立たせたいのか、うーん・・・まったくもって謎である。
「萌えバス」は、きょうもまたタイのどこかを走っている!
2009年8月26日水曜日
タイのあれこれ (6) 日本のマンガ
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タイで流通している漫画本はほぼ99.9%が日本のマンガの翻訳である。
しかも、正規のライセンス契約結んでの翻訳だから、マンガ本にかんしては、もはや海賊版はないといっていいだろう。
DVDにかんしては、いまだにタニヤやパッポンといった夜の繁華街の露天では公然と販売されている。DVDなんて複製が簡単だからね。警察も見て見ぬふりだし。
それにくらべるとマンガはセリフを日本語からタイ語に翻訳しなくてははならないし、日本と違って横書きのタイ語だから、マンガ本も洋書みたいに左から開いて読むことになるから、編集しなおさなければならない。手間がかかるというわけだ。
写真は、高橋留美子の『うる星(せい)やつら』のタイ語版。ちゃんとライセンス取得して著作権を守っていることが左下のシールに明記してある。値段は1冊35バーツ、日本円ならだいたい100円である。安いね。
『うる星やつら』といえば、高校時代「少年サンデー」で毎週連載を読んでいた。えんえんと続いていたからね。
男性のあいだでは絶大な人気を誇る『めぞん一刻』 もいいけど、自分としては『うる星やつら』のほうが断然好きだな。
アニメ版でラムちゃんの声を担当していた平野文(ひらの・あや)の声はいいねー。「ダーリン、××だっちゃ」。アニメ版とマンガはかなり違うけど。アニメ版のオープニング主題歌はこちらから(YouTube につき音声注意!)。アップしたのはメキシコ人のようだけど、日本のアニメはほんとうにすごいね。まさに全球的な人気だ。
内容は、社会学者の宮台真司が1980年代後半に、PARCO系のマーケティング専門誌「アクロス」で連載していた『サブカルチャー神話解体-少女・音楽・マンガ・性の30年とコミュニケーションの現在-』(のちに単行本としてまとまっている・・PARCO出版、1993)で指摘するように、「閉じた世界の無害な戯れ」以外の何者でもない学園コメディなのだが。作者の高橋留美子自身も、どうやって連載終わらせるか苦労したらしい。
こういった昔懐かしいマンガから最新のマンガまで、ほぼすべてがタイ語に翻訳されて出版されている。
タイ語ではコミックスではなく、英語からきたカートゥーン(cartoon)というので、英語でタイ人と会話していると、話が少々食い違っていることがある。四コマ・マンガもストーリーマンガもみなタイ語でカートゥーンと表現するから、英語でもコミックスのことをカートゥーンといってしまうためだね。ちなみに、中国語でも卞通(カートゥン)と表記している。
タイではマンガ家として食べていけるのはたった一人だけらしい。その人は、ウィスット・ポンニミット、代表作は『タムくんとイープン』、新潮社から日本語版も出版されている。ほのぼのとしたタッチの描線が特徴だ。
もちろん日本でもマンガ家として食べていくのはたいへんなことだ。『消えたマンガ家 ダウナー系の巻-どこへいった?あの人気マンガ家-』(大泉実成、新潮OH!文庫、2000)というノンフィクションがあるが、そもそもマンガ家として頭角を現すのが難しいし、人気マンガ家になっても商業雑誌での連載のプレッシャーがあまりにも強くて、とくに発想力が勝負のギャグマンガ家の寿命は長くない。ほんとうに自殺してしまったギャグマンガ家が何人もいるくらいだ。
バンコクでは、地下鉄のMRTで隣に座った学生が熱心に日本のマンガを読んでいる、こういう光景は決して珍しくない。ゲームしてる子供やら、i-Podで音楽聞いてる学生やらいるが、マンガ本読んでるのも必ずいる。のぞき込んでも気がつかないくらい熱中している。
私の友人のタイ人から聞いた話だが、娘さんがいま高校生くらいだったかな、部屋が日本のマンガ本で埋まってしまっているそうだ。こういう話をきくとなんだかうれしいね。
次回は、タイの日本アニメの話、だっちゃ。

タイで流通している漫画本はほぼ99.9%が日本のマンガの翻訳である。
しかも、正規のライセンス契約結んでの翻訳だから、マンガ本にかんしては、もはや海賊版はないといっていいだろう。
DVDにかんしては、いまだにタニヤやパッポンといった夜の繁華街の露天では公然と販売されている。DVDなんて複製が簡単だからね。警察も見て見ぬふりだし。
それにくらべるとマンガはセリフを日本語からタイ語に翻訳しなくてははならないし、日本と違って横書きのタイ語だから、マンガ本も洋書みたいに左から開いて読むことになるから、編集しなおさなければならない。手間がかかるというわけだ。
写真は、高橋留美子の『うる星(せい)やつら』のタイ語版。ちゃんとライセンス取得して著作権を守っていることが左下のシールに明記してある。値段は1冊35バーツ、日本円ならだいたい100円である。安いね。
『うる星やつら』といえば、高校時代「少年サンデー」で毎週連載を読んでいた。えんえんと続いていたからね。
男性のあいだでは絶大な人気を誇る『めぞん一刻』 もいいけど、自分としては『うる星やつら』のほうが断然好きだな。
アニメ版でラムちゃんの声を担当していた平野文(ひらの・あや)の声はいいねー。「ダーリン、××だっちゃ」。アニメ版とマンガはかなり違うけど。アニメ版のオープニング主題歌はこちらから(YouTube につき音声注意!)。アップしたのはメキシコ人のようだけど、日本のアニメはほんとうにすごいね。まさに全球的な人気だ。
内容は、社会学者の宮台真司が1980年代後半に、PARCO系のマーケティング専門誌「アクロス」で連載していた『サブカルチャー神話解体-少女・音楽・マンガ・性の30年とコミュニケーションの現在-』(のちに単行本としてまとまっている・・PARCO出版、1993)で指摘するように、「閉じた世界の無害な戯れ」以外の何者でもない学園コメディなのだが。作者の高橋留美子自身も、どうやって連載終わらせるか苦労したらしい。
こういった昔懐かしいマンガから最新のマンガまで、ほぼすべてがタイ語に翻訳されて出版されている。
タイ語ではコミックスではなく、英語からきたカートゥーン(cartoon)というので、英語でタイ人と会話していると、話が少々食い違っていることがある。四コマ・マンガもストーリーマンガもみなタイ語でカートゥーンと表現するから、英語でもコミックスのことをカートゥーンといってしまうためだね。ちなみに、中国語でも卞通(カートゥン)と表記している。
タイではマンガ家として食べていけるのはたった一人だけらしい。その人は、ウィスット・ポンニミット、代表作は『タムくんとイープン』、新潮社から日本語版も出版されている。ほのぼのとしたタッチの描線が特徴だ。
もちろん日本でもマンガ家として食べていくのはたいへんなことだ。『消えたマンガ家 ダウナー系の巻-どこへいった?あの人気マンガ家-』(大泉実成、新潮OH!文庫、2000)というノンフィクションがあるが、そもそもマンガ家として頭角を現すのが難しいし、人気マンガ家になっても商業雑誌での連載のプレッシャーがあまりにも強くて、とくに発想力が勝負のギャグマンガ家の寿命は長くない。ほんとうに自殺してしまったギャグマンガ家が何人もいるくらいだ。
バンコクでは、地下鉄のMRTで隣に座った学生が熱心に日本のマンガを読んでいる、こういう光景は決して珍しくない。ゲームしてる子供やら、i-Podで音楽聞いてる学生やらいるが、マンガ本読んでるのも必ずいる。のぞき込んでも気がつかないくらい熱中している。
私の友人のタイ人から聞いた話だが、娘さんがいま高校生くらいだったかな、部屋が日本のマンガ本で埋まってしまっているそうだ。こういう話をきくとなんだかうれしいね。
次回は、タイの日本アニメの話、だっちゃ。
2009年8月25日火曜日
書評 『タイ-中進国の模索-』(末廣 昭、岩波新書、2009)
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■"微笑みを失いつつある"中進国タイ-急激な経済発展による社会変化に追いつかない政治状況の背景とは■
16年前に出版された名著 『タイ-開発と民主主義-』(岩波新書、1993)の続編として、満を持して登場した本書は、現在のタイを、政治・経済・社会から捉えるために不可欠な知識と視点を与えてくれる。読者は充実した読後感を得ることであろう。
前著の出版は、1992年の第二次民主化運動のさなかで発生した「五月流血事件」によって、報道をつうじてタイが全世界にクローズアップされたあとのことでであった。
今回の新著は、もはやあるまい思われていたが、2006年に15年ぶりに発生した「無血クーデター」から3年たったいまでも、いっこうに政治的混乱に終止符がうたれないタイの現状について詳細に分析している。
この二冊の本のあいだに存在する16年間とは、まさにタイが中進国として急激に経済発展し、様々な社会問題を発生させてきた時期でもある。
著者はタイ現代史の分岐点となった1988年から筆を起こすことによって、この20年間でタイが"微笑みの国"から、"微笑みを失いつつある国"へと変化してきたことを解説、現在まで続く政治的混乱の原因は何かについての見取り図を読者に与えてくれる。
タイにかんする本といえば、専門書を別にすれば、ほとんど同じ内容の観光ガイドブックばかりが出版される昨今の日本の出版状況だが、本書は久々に登場した、日本語で読める本格的な一般書である。観光地としてのタイではなく、現代のタイ社会について、根本から理解するための必読書といってよい。
著者がカバーする領域はかなり広く、経済・政治・社会だけでなく、新興財閥の具体的な企業名もあげて言及しており、ビジネスマンにも読むに値する内容の本になっている。
著者による 『進化する多国籍企業-いまアジアで何が起きているのか?』(岩波書店、2003)とあわせて読めば、1997年のアジア金融危機後IMF管理下におかれたタイビジネスの変化、消費社会化した現在のタイについて深く理解できるだろう。
本書を読むと、中進国となった工業国タイの問題とは、米国が主導するグローバル資本主義にいかに対応するかという課題に対する、二つの解答のあいだのせめぎ合いであると見ることもできる。
ひとつは、1997年の金融危機以後、タイの政治では例外的な、5年以上にわたる長期政権を実現したタクシン元首相の、積極的にアングロサクソン流のグローバル資本主義の流れに乗っかっていこうとした経済・社会政策。
もうひとつは、現国王ラーマ9世(=プーミポン国王)が提唱する「足るを知る経済」。後者は、仏教の経済思想に立脚し、サステイナブル経済を志向する、いわばオルタナティブ資本主義といえる。
タクシンが積極的に推進した変革は、ある意味でタイを日本以上にアメリカナイズされた社会に変貌させた。これは、ビジネスでタイにかかわり、バンコクに住んでいた私にはよく実感できることである。
しかし、タクシンが実行した経済社会改革があまりにも急進的であったために、タイ国民は正直いって疲れてしまったというのが実情だろう。これが2006年クーデターが国民に受け入れられた背景にあるようだ。
日本の小泉首相とほぼ同時期(!)に政権の座にあったタクシンがもたらしたものは、日本と同様、功罪両面から評価しなければ本当のことは理解できないのだ。
"微笑みの国"というのは、有名なタイの観光キャッチフレーズだが、実際にタイに暮らしていると、タイ人から"微笑みが失なわれつつある"ことを日々実感することになる。微笑みはいったいどこに行ってしまったのだ、と。
日本を上回るスピードで急速に変化をとげているタイ社会には、先進国日本がすでに経験ずみの問題もあれば、少子高齢化というまさにいま直面している問題もある。またタイ固有の問題もあり、先進国日本の経験で、中進国タイが抱える問題のすべてを推し量ることはできない。
著者は最終章で「タイ社会と王制の未来」について扱っている。これは、タイの将来を考える上で避けて通ることができない最重要のテーマである。
しかし、タイについて多少でも知っている人は承知していると思うが、これは正直いって実に扱いにくいテーマなのだ。私は、このテーマを項目として立てたこと自体、著者を高く評価したいと思う。
しかしそうはいっても、この章にかんしては、行間を読む必要に迫られる。だが、最初から最後まで注意深く本書を読んだ読書なら、今後の方向性についてはかなりの見通しをを得ることができるはずだ。
トリビアルなものまで含めて、タイにかんする知識がぎっしりつ詰め込まれた本書は、一回読んだあと読み捨てにするには実に惜しい。
ぜひ1冊購入して、読んだあとも手元に置いて、折に触れて参照する価値のある本である。
■bk1書評「"微笑みを失いつつある"中進国タイ-急激な経済発展による社会変化に追いつかない政治状況の背景とは」投稿掲載(2009年8月22日)
■amazon書評「"微笑みを失いつつある"中進国タイ-急激な経済発展による社会変化に追いつかない政治状況の背景とは」投稿掲載(2009年8月22日)
*なお、再録にあたって字句と表現の一部を修正した。
<書評に対する付記、あるいは「タイのあれこれ 番外編」>
文中にも書いたが、タイにかんする一般書はガイドブック以外はほとんど出版されない、たいへんお寒い昨今の日本の出版状況である。
なぜほとんど内容が同じガイドブックが、次から次へと異なる出版社から出版され続けるのか理解に苦しむ。はっきりいって、バンコクででているフリーペーパー(無料情報誌)のほうがはるかに役立つのだが・・・
結局のところ、タイやバンコクにかんする陳腐な決まり文句が再生産されているだけである。観光を振興したいタイ政府としては、それでまったくかまわないのかもしれないが、もう少し日本人も勉強すべきではないか。
同じガイドブックでも、英語圏では定番の Lonely Planet シリーズは、知的な読み物としても面白く、かつためになる知識がつまった本だ。Lonely Planet Thailand は読んでないが、Lonely Planet Laos はひまつぶしにラオスのルアンプラバン空港のカフェで読んだ。ラオスの環境保護の問題など面白くてたいへんためになった記憶がある。アングロサクソン的知性との違いといってしまえば、それまでなのだが・・・

『国際スパイ都市バンコク』(村上吉男、朝日文庫、1984 原題は『バンコク秘密情報』、朝日新聞社、1976)とか、『血の水曜日-軍事クーデターとタイ民衆の記録-』(タイ民衆の闘いの記録編集委員会=編、亜紀書房、1977)、『革命に向かうタイ-現代タイ民衆運動史-』(タイ民衆資料センター訳、柘植書房、1978)なんてタイトルの骨太で硬派な本が過去に出版されているのだ、というのはタイ通でも、専門研究者以外は知らないのではないかな?? とくに『国際スパイ都市バンコク』は、私は二冊もっており、二度熟読している。タイについて知りたい人にはぜひ薦めたい。
軍事政権下の発展途上国で主人公が血湧き肉躍る活躍をするというのは、俳優で作家そして政治家・中村敦夫の国際謀略小説『チェンマイの首』(講談社文庫、1988 絶版。原版は1983)のイメージだが、いまのタイはそういった状況からはもはやほど遠いのかもしれないな。ちなみにこの小説と先にあげた『国際スパイ都市・・』はバンコクの紀伊國屋書店が復刻してタイ国内で販売している。いずれもタイ国内への持ち込み禁止指定はないから安心してよい。
ベトナム戦争がとうの昔に終結、カンボジアの和平も定着しインドシナ半島が平和になってからは、すでに共産主義の脅威は去り、開発時代に突入したわけだ。「インドシナを戦場から市場へ」というスローガンはまさに時代の雰囲気を表していた。

開発時代になってからのタイで私がもっとも面白いと思ったイチオシの本は、執筆当時、日本輸出入銀行 (現国際協力銀行)のバンコク駐在員であった金子由芳(かねこ・ゆか)が書いた『幻想の王国タイ-聖なる功徳・俗なる開発-』(南雲堂、1996)である。これほどタイ政府や投資委員会(BOI)のホンネを描き出した本はほかにない。
よく赴任してから1年という短期間で、執筆当時28歳の著者に、これだけ鋭い観察ができたものだと、出版された直後に読んで大いに感心した。いや、希望した赴任地でもなく、予備知識なしで飛び込んだのがよかったのかもしれない。怖いもの知らずの、政府系機関の女性駐在員ならではの内容だ。
タイとタイ人のしたたかさは、お人好しの日本人をはるかに上回る。なんせ日本のような島国ではないからね。植民地にならずにうまくやり過ごしたという事実は過小評価すべきではないのだ。あたりが柔らかいからといって油断してはいけない。ホンネとタテマエが違うのはアジア人だから当然だが、日本人以上にかけ離れているのである。
この本を読めば、日本人ももっとうまくタイに対応できるのに・・・と思う。どうも日本人は西洋人以外では自分が一番だと思い込んでいるようだが、これはとんだ勘違いだろう。実務だけわかればいいというわけではないのだ、国際ビジネスというものは!
それはさておきジャイ・ジェン・ジェン(=冷静に!頭を冷やしなよ!というタイ語)、本書についてだが、タイはすでに、「開発独裁」状態からはすでに卒業し、「中進国」としての悩みを抱えて状況になっていることを描き出した点、大いに評価できる本である(・・評価できるなんて、なんかエラそうないいかただな、何様だお前はといわれそうだが・・・これは日本語の問題)。
これだけ水準の高い新書本は、中身のない軽い新書本がはんらんしている現在、腰を据えて読む必要があるので、実際はそれほど読まれないかもしれない。しかし、大学生がレポート書く際の指定図書としては間違いなく使用されるだろう。それだけ中身のある本である。
本書のなかで重要な指摘だと思ったのは、タイの「消費社会化」についての記述である。
購買力はバンコクを10とすれば地方都市は6、地方の農民は3と、格差はむしろ以前より縮小傾向にある(!)との指摘(P.105)は非常に重要である。一般的にはタイの地方農村は貧しいと思われがちだが、バンコク都市部の可処分所得の上昇に伴って、地方でも伸びがみられるとういうことである。
末廣氏は、このブログでも以前にふれた「ビア・チャーン」(=象さんビール)の消費量の伸び--なんと1986年以来一貫して右肩あがりだ!--、それにコンビニのセブン・イレブンの店舗数の統計を使用して、その状況を裏付けている。これに本書では触れられていないが、日本のビデオレンタルの TSUTAYA ですらチェンラーイのような地方都市にも店舗があるのが、現在のタイの実態である。
フランチャイズ(FC)よりも直営店が多いと著者はいうが、バンコクの国際展示場 BITEC で開催されるFCショーの熱気にはすごいものがある。FCオーナーとして独立したいという人間は、タイにも大勢いるということだ。
ビア・チャーンのオーナーであるチャルーン(・シリワッタナパクディ、またの名を蘇旭日。潮州系)はタイで一番の大富豪として Fortune Asia Edition のランキングにも毎年登場している常連である。その娘は米国でM.B.A.を取得しており、ファミリーの不動産ビジネスを任されている。
一般大衆向けの消費財(・・このケースでは食品飲料産業)で財をなし、運用は不動産で行うという、華人が完全に同化されたタイならではの金儲け方法であり、かれらは絵に描いたような富裕層ファミリーである。
本書はは、経済だけではなく、かなりミクロな企業経営まで踏み込んでいるので、ビジネスマンにとっても読み応えがある。
本書で特筆すべきことは、2006年9月に勃発したクーデター後の政治状況について、キーワードとして「司法による政治のコントロール」をあげていることである。
「司法によるクーデター」といってすらよい事態によってバンコク・スワンナプーム国際空港封鎖事件が解決したことは記憶に新しい。つい昨年11月のことである。このときはえらい苦労をしたものだと今になっても回想する。
また、国王の諮問機関としての枢密院についての記述も重要である。この点にかんしていえば、詳細は別としても、戦前の日本も似たような構造である。
特に重要なのが、タクシン元首相の功罪についても、功績の面に対して公平な評価をしていることである。
タクシンがその代表的存在である新興財閥(・・極言すれば成金である)と王族や陸軍を頂点とする旧来型の支配層との勢力争いは、1997年のアジア金融危機への対応をめぐる経済思想の違いとも捉えることもできる。書評の中では、私自身の問題に引きつけて、そのように書いておいた。
本書を注意深く読めば、主要な人物の背景についても重要な知識を得ることができる。
たとえば、タクシン(・チナワット、またの名は丘達新)は客家(ハッカ)系、戒厳司令官でないほうのソンティ(・リムトーングン、またの名は林明達)は海南(ハイナン)系と、いずれもタイではマジョリティの潮州(チャオチュウ)系ではないことなど。
詳細な索引をつけてくれると、本書の使用価値もグンとあがったのだが。
「王制の未来」について行間を読めと私が書いたのはどういうことかというと、これも戦前の日本と同様、タイ王国には「不敬罪」(lèse majesté:フランス語)が存在することだ。不敬罪とは、国王や王妃をはじめとする王族に対して非難中傷を行う行為や言動全般を犯罪とみなす刑法上の概念である。
2006年のクーデター後は「不敬罪」の適用が頻繁になってきており、たとえ外国人であっても、使用言語が日本語であっても、うかつなことでは発言できなし、書かないほうがよいという「空気」が醸成されている。このへんの感覚については、天皇制のもとにある日本人なら、ある程度まで理解は可能だろう。
また、以前はまったくなかった空港での荷物チェックを昨年の秋に実施されたことが一回だが経験した。その際は、スーツケースを開けさせられたうえで、日本語の本のタイトルまで一冊一冊チェックしていた。国内持ち込み禁止本リストがあり、もし所有物にリストにある本が見つかった場合は間違いなく没収されることになる。銀行制度が信用されない某国に、多額の米ドルの現金を持ち込んだときのイミグレーションよりもスリルがあった、とまではいわないが。
こういった背景から、著者はそうとう用心して記述を進めているな、ということが読み取れるのである。これは参考文献についてもいえることだ。したがって、行間を読まないと本当のことは見えてこない。
もちろんタイは、東南アジアではシンガポールにくらべるとはるかに自由で、ある意味かなり"ゆるい"国で、基本的には言論は自由なのだが、ただ一点だけタブー領域があるということなのだ。
こんなことを書くだけでも、実はかなり気を使っているのである。誤解による無用なトラブルは避けなければならない。
極論をいえば、21世紀初頭のタイ王国という国は、戦前の大日本帝国が、最先端のグローバル資本主義に巻き込まれた状況に近いのかもしれない。もちろん安易な比喩は危険だが、用心するに越したことはないのである。よその国なのだから、それは当然の礼儀でもある。
この本はある程度タイについて知っていると面白く読めるが、まったくタイを知らない人が読むためには前提となるものが多すぎるかもしれない。
正直いって、この書評はあまりうまく書けていない。私自身ある程度までタイを知っているので、ついついある種の"インサイダー意識"が前面に出てしまったような気がする。ディテールにまで踏み込みずぎた書評になってしまった。
もう少し短くて、読みやすい内容にしないといけないと思うのだが、これは難しい。知っていて知らないふりをする訓練、これも節度ある文章を書くためには必要だ、と痛感する次第。
(以上)

■"微笑みを失いつつある"中進国タイ-急激な経済発展による社会変化に追いつかない政治状況の背景とは■
16年前に出版された名著 『タイ-開発と民主主義-』(岩波新書、1993)の続編として、満を持して登場した本書は、現在のタイを、政治・経済・社会から捉えるために不可欠な知識と視点を与えてくれる。読者は充実した読後感を得ることであろう。
前著の出版は、1992年の第二次民主化運動のさなかで発生した「五月流血事件」によって、報道をつうじてタイが全世界にクローズアップされたあとのことでであった。
今回の新著は、もはやあるまい思われていたが、2006年に15年ぶりに発生した「無血クーデター」から3年たったいまでも、いっこうに政治的混乱に終止符がうたれないタイの現状について詳細に分析している。
この二冊の本のあいだに存在する16年間とは、まさにタイが中進国として急激に経済発展し、様々な社会問題を発生させてきた時期でもある。
著者はタイ現代史の分岐点となった1988年から筆を起こすことによって、この20年間でタイが"微笑みの国"から、"微笑みを失いつつある国"へと変化してきたことを解説、現在まで続く政治的混乱の原因は何かについての見取り図を読者に与えてくれる。
タイにかんする本といえば、専門書を別にすれば、ほとんど同じ内容の観光ガイドブックばかりが出版される昨今の日本の出版状況だが、本書は久々に登場した、日本語で読める本格的な一般書である。観光地としてのタイではなく、現代のタイ社会について、根本から理解するための必読書といってよい。
著者がカバーする領域はかなり広く、経済・政治・社会だけでなく、新興財閥の具体的な企業名もあげて言及しており、ビジネスマンにも読むに値する内容の本になっている。
著者による 『進化する多国籍企業-いまアジアで何が起きているのか?』(岩波書店、2003)とあわせて読めば、1997年のアジア金融危機後IMF管理下におかれたタイビジネスの変化、消費社会化した現在のタイについて深く理解できるだろう。
本書を読むと、中進国となった工業国タイの問題とは、米国が主導するグローバル資本主義にいかに対応するかという課題に対する、二つの解答のあいだのせめぎ合いであると見ることもできる。
ひとつは、1997年の金融危機以後、タイの政治では例外的な、5年以上にわたる長期政権を実現したタクシン元首相の、積極的にアングロサクソン流のグローバル資本主義の流れに乗っかっていこうとした経済・社会政策。
もうひとつは、現国王ラーマ9世(=プーミポン国王)が提唱する「足るを知る経済」。後者は、仏教の経済思想に立脚し、サステイナブル経済を志向する、いわばオルタナティブ資本主義といえる。
タクシンが積極的に推進した変革は、ある意味でタイを日本以上にアメリカナイズされた社会に変貌させた。これは、ビジネスでタイにかかわり、バンコクに住んでいた私にはよく実感できることである。
しかし、タクシンが実行した経済社会改革があまりにも急進的であったために、タイ国民は正直いって疲れてしまったというのが実情だろう。これが2006年クーデターが国民に受け入れられた背景にあるようだ。
日本の小泉首相とほぼ同時期(!)に政権の座にあったタクシンがもたらしたものは、日本と同様、功罪両面から評価しなければ本当のことは理解できないのだ。
"微笑みの国"というのは、有名なタイの観光キャッチフレーズだが、実際にタイに暮らしていると、タイ人から"微笑みが失なわれつつある"ことを日々実感することになる。微笑みはいったいどこに行ってしまったのだ、と。
日本を上回るスピードで急速に変化をとげているタイ社会には、先進国日本がすでに経験ずみの問題もあれば、少子高齢化というまさにいま直面している問題もある。またタイ固有の問題もあり、先進国日本の経験で、中進国タイが抱える問題のすべてを推し量ることはできない。
著者は最終章で「タイ社会と王制の未来」について扱っている。これは、タイの将来を考える上で避けて通ることができない最重要のテーマである。
しかし、タイについて多少でも知っている人は承知していると思うが、これは正直いって実に扱いにくいテーマなのだ。私は、このテーマを項目として立てたこと自体、著者を高く評価したいと思う。
しかしそうはいっても、この章にかんしては、行間を読む必要に迫られる。だが、最初から最後まで注意深く本書を読んだ読書なら、今後の方向性についてはかなりの見通しをを得ることができるはずだ。
トリビアルなものまで含めて、タイにかんする知識がぎっしりつ詰め込まれた本書は、一回読んだあと読み捨てにするには実に惜しい。
ぜひ1冊購入して、読んだあとも手元に置いて、折に触れて参照する価値のある本である。
■bk1書評「"微笑みを失いつつある"中進国タイ-急激な経済発展による社会変化に追いつかない政治状況の背景とは」投稿掲載(2009年8月22日)
■amazon書評「"微笑みを失いつつある"中進国タイ-急激な経済発展による社会変化に追いつかない政治状況の背景とは」投稿掲載(2009年8月22日)
*なお、再録にあたって字句と表現の一部を修正した。
<書評に対する付記、あるいは「タイのあれこれ 番外編」>
文中にも書いたが、タイにかんする一般書はガイドブック以外はほとんど出版されない、たいへんお寒い昨今の日本の出版状況である。
なぜほとんど内容が同じガイドブックが、次から次へと異なる出版社から出版され続けるのか理解に苦しむ。はっきりいって、バンコクででているフリーペーパー(無料情報誌)のほうがはるかに役立つのだが・・・
結局のところ、タイやバンコクにかんする陳腐な決まり文句が再生産されているだけである。観光を振興したいタイ政府としては、それでまったくかまわないのかもしれないが、もう少し日本人も勉強すべきではないか。
同じガイドブックでも、英語圏では定番の Lonely Planet シリーズは、知的な読み物としても面白く、かつためになる知識がつまった本だ。Lonely Planet Thailand は読んでないが、Lonely Planet Laos はひまつぶしにラオスのルアンプラバン空港のカフェで読んだ。ラオスの環境保護の問題など面白くてたいへんためになった記憶がある。アングロサクソン的知性との違いといってしまえば、それまでなのだが・・・
『国際スパイ都市バンコク』(村上吉男、朝日文庫、1984 原題は『バンコク秘密情報』、朝日新聞社、1976)とか、『血の水曜日-軍事クーデターとタイ民衆の記録-』(タイ民衆の闘いの記録編集委員会=編、亜紀書房、1977)、『革命に向かうタイ-現代タイ民衆運動史-』(タイ民衆資料センター訳、柘植書房、1978)なんてタイトルの骨太で硬派な本が過去に出版されているのだ、というのはタイ通でも、専門研究者以外は知らないのではないかな?? とくに『国際スパイ都市バンコク』は、私は二冊もっており、二度熟読している。タイについて知りたい人にはぜひ薦めたい。
軍事政権下の発展途上国で主人公が血湧き肉躍る活躍をするというのは、俳優で作家そして政治家・中村敦夫の国際謀略小説『チェンマイの首』(講談社文庫、1988 絶版。原版は1983)のイメージだが、いまのタイはそういった状況からはもはやほど遠いのかもしれないな。ちなみにこの小説と先にあげた『国際スパイ都市・・』はバンコクの紀伊國屋書店が復刻してタイ国内で販売している。いずれもタイ国内への持ち込み禁止指定はないから安心してよい。
ベトナム戦争がとうの昔に終結、カンボジアの和平も定着しインドシナ半島が平和になってからは、すでに共産主義の脅威は去り、開発時代に突入したわけだ。「インドシナを戦場から市場へ」というスローガンはまさに時代の雰囲気を表していた。

開発時代になってからのタイで私がもっとも面白いと思ったイチオシの本は、執筆当時、日本輸出入銀行 (現国際協力銀行)のバンコク駐在員であった金子由芳(かねこ・ゆか)が書いた『幻想の王国タイ-聖なる功徳・俗なる開発-』(南雲堂、1996)である。これほどタイ政府や投資委員会(BOI)のホンネを描き出した本はほかにない。
よく赴任してから1年という短期間で、執筆当時28歳の著者に、これだけ鋭い観察ができたものだと、出版された直後に読んで大いに感心した。いや、希望した赴任地でもなく、予備知識なしで飛び込んだのがよかったのかもしれない。怖いもの知らずの、政府系機関の女性駐在員ならではの内容だ。
タイとタイ人のしたたかさは、お人好しの日本人をはるかに上回る。なんせ日本のような島国ではないからね。植民地にならずにうまくやり過ごしたという事実は過小評価すべきではないのだ。あたりが柔らかいからといって油断してはいけない。ホンネとタテマエが違うのはアジア人だから当然だが、日本人以上にかけ離れているのである。
この本を読めば、日本人ももっとうまくタイに対応できるのに・・・と思う。どうも日本人は西洋人以外では自分が一番だと思い込んでいるようだが、これはとんだ勘違いだろう。実務だけわかればいいというわけではないのだ、国際ビジネスというものは!
それはさておきジャイ・ジェン・ジェン(=冷静に!頭を冷やしなよ!というタイ語)、本書についてだが、タイはすでに、「開発独裁」状態からはすでに卒業し、「中進国」としての悩みを抱えて状況になっていることを描き出した点、大いに評価できる本である(・・評価できるなんて、なんかエラそうないいかただな、何様だお前はといわれそうだが・・・これは日本語の問題)。
これだけ水準の高い新書本は、中身のない軽い新書本がはんらんしている現在、腰を据えて読む必要があるので、実際はそれほど読まれないかもしれない。しかし、大学生がレポート書く際の指定図書としては間違いなく使用されるだろう。それだけ中身のある本である。
本書のなかで重要な指摘だと思ったのは、タイの「消費社会化」についての記述である。
購買力はバンコクを10とすれば地方都市は6、地方の農民は3と、格差はむしろ以前より縮小傾向にある(!)との指摘(P.105)は非常に重要である。一般的にはタイの地方農村は貧しいと思われがちだが、バンコク都市部の可処分所得の上昇に伴って、地方でも伸びがみられるとういうことである。
末廣氏は、このブログでも以前にふれた「ビア・チャーン」(=象さんビール)の消費量の伸び--なんと1986年以来一貫して右肩あがりだ!--、それにコンビニのセブン・イレブンの店舗数の統計を使用して、その状況を裏付けている。これに本書では触れられていないが、日本のビデオレンタルの TSUTAYA ですらチェンラーイのような地方都市にも店舗があるのが、現在のタイの実態である。
フランチャイズ(FC)よりも直営店が多いと著者はいうが、バンコクの国際展示場 BITEC で開催されるFCショーの熱気にはすごいものがある。FCオーナーとして独立したいという人間は、タイにも大勢いるということだ。
ビア・チャーンのオーナーであるチャルーン(・シリワッタナパクディ、またの名を蘇旭日。潮州系)はタイで一番の大富豪として Fortune Asia Edition のランキングにも毎年登場している常連である。その娘は米国でM.B.A.を取得しており、ファミリーの不動産ビジネスを任されている。
一般大衆向けの消費財(・・このケースでは食品飲料産業)で財をなし、運用は不動産で行うという、華人が完全に同化されたタイならではの金儲け方法であり、かれらは絵に描いたような富裕層ファミリーである。
本書はは、経済だけではなく、かなりミクロな企業経営まで踏み込んでいるので、ビジネスマンにとっても読み応えがある。
本書で特筆すべきことは、2006年9月に勃発したクーデター後の政治状況について、キーワードとして「司法による政治のコントロール」をあげていることである。
「司法によるクーデター」といってすらよい事態によってバンコク・スワンナプーム国際空港封鎖事件が解決したことは記憶に新しい。つい昨年11月のことである。このときはえらい苦労をしたものだと今になっても回想する。
また、国王の諮問機関としての枢密院についての記述も重要である。この点にかんしていえば、詳細は別としても、戦前の日本も似たような構造である。
特に重要なのが、タクシン元首相の功罪についても、功績の面に対して公平な評価をしていることである。
タクシンがその代表的存在である新興財閥(・・極言すれば成金である)と王族や陸軍を頂点とする旧来型の支配層との勢力争いは、1997年のアジア金融危機への対応をめぐる経済思想の違いとも捉えることもできる。書評の中では、私自身の問題に引きつけて、そのように書いておいた。
本書を注意深く読めば、主要な人物の背景についても重要な知識を得ることができる。
たとえば、タクシン(・チナワット、またの名は丘達新)は客家(ハッカ)系、戒厳司令官でないほうのソンティ(・リムトーングン、またの名は林明達)は海南(ハイナン)系と、いずれもタイではマジョリティの潮州(チャオチュウ)系ではないことなど。
詳細な索引をつけてくれると、本書の使用価値もグンとあがったのだが。
「王制の未来」について行間を読めと私が書いたのはどういうことかというと、これも戦前の日本と同様、タイ王国には「不敬罪」(lèse majesté:フランス語)が存在することだ。不敬罪とは、国王や王妃をはじめとする王族に対して非難中傷を行う行為や言動全般を犯罪とみなす刑法上の概念である。
2006年のクーデター後は「不敬罪」の適用が頻繁になってきており、たとえ外国人であっても、使用言語が日本語であっても、うかつなことでは発言できなし、書かないほうがよいという「空気」が醸成されている。このへんの感覚については、天皇制のもとにある日本人なら、ある程度まで理解は可能だろう。
また、以前はまったくなかった空港での荷物チェックを昨年の秋に実施されたことが一回だが経験した。その際は、スーツケースを開けさせられたうえで、日本語の本のタイトルまで一冊一冊チェックしていた。国内持ち込み禁止本リストがあり、もし所有物にリストにある本が見つかった場合は間違いなく没収されることになる。銀行制度が信用されない某国に、多額の米ドルの現金を持ち込んだときのイミグレーションよりもスリルがあった、とまではいわないが。
こういった背景から、著者はそうとう用心して記述を進めているな、ということが読み取れるのである。これは参考文献についてもいえることだ。したがって、行間を読まないと本当のことは見えてこない。
もちろんタイは、東南アジアではシンガポールにくらべるとはるかに自由で、ある意味かなり"ゆるい"国で、基本的には言論は自由なのだが、ただ一点だけタブー領域があるということなのだ。
こんなことを書くだけでも、実はかなり気を使っているのである。誤解による無用なトラブルは避けなければならない。
極論をいえば、21世紀初頭のタイ王国という国は、戦前の大日本帝国が、最先端のグローバル資本主義に巻き込まれた状況に近いのかもしれない。もちろん安易な比喩は危険だが、用心するに越したことはないのである。よその国なのだから、それは当然の礼儀でもある。
この本はある程度タイについて知っていると面白く読めるが、まったくタイを知らない人が読むためには前提となるものが多すぎるかもしれない。
正直いって、この書評はあまりうまく書けていない。私自身ある程度までタイを知っているので、ついついある種の"インサイダー意識"が前面に出てしまったような気がする。ディテールにまで踏み込みずぎた書評になってしまった。
もう少し短くて、読みやすい内容にしないといけないと思うのだが、これは難しい。知っていて知らないふりをする訓練、これも節度ある文章を書くためには必要だ、と痛感する次第。
(以上)
2009年8月24日月曜日
オーストリア極右政治家の「国葬」?
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韓国の金大中・元大統領の国葬が、昨日(8月23日)に行われた。
私の世代ではキム・デジュンというよりも、東京九段下での拉致事件のからみもあって「きんだいちゅう」といいたいところだが、韓国では Kim Dae Jung の頭文字をとって DJ と愛称で呼ばれていたらしい。
韓国史上、国葬は朴正煕(ぼく・せいき、パク・チョンヒ)大統領が執務中に暗殺されて以来というが、この二人は思想信条の違いは超えて、国葬に値する人物であったことは、韓国からみれば外国人である私にもまったく異論はない。
前者がKCIAを指揮して後者の拉致を実行させた人、後者は拉致事件の被害者として死刑寸前までいった民主化リーダー。日本の国家主権を踏みにじった「金大中事件」は決して記憶の彼方にある事件ではない。
パク・チョンヒもキム・デジュンも、日本の植民地時代に日本語教育を受けた世代であることも共通している。慶尚北道(キョンサンプクド)出身で、日本の陸軍士官学校を卒業した満洲国軍中尉・高木正雄(1917-1979)と、韓国南部の全羅南道(チョルラナンド)出身のカトリック信徒の民主政治家・豊田大中(1925-2009)。
日本経験と、日本語経験にはもちろん違いがあるが、キム・デジュンの死をもって「日本語世代」がついに終わったのだな、という強い感慨を覚える。まさに、昭和も遠くなりにけり、だ。
いずれにせよ、キム・デジュンという超大物政治家の国葬における弔問外交が、南北対話再会のための雪解けとなったことは喜ぶべき事である。
ところで、フランスのオピニオン紙「ル・モンド」(Le Monde)に日本語版があるのはご存じだろうか。
久々にウェブサイトをみていたら、最新号に非常に面白い記事が翻訳掲載されていることに気がついた。題して「ハイダーを「国葬」したオーストリアの土壌」。
ヨルク・ハイダー(Jörg Haider)とは、オーストリアの極右政治家。かつてからナチス礼賛をおこなってきたイケメン政治家である。
酩酊状態で、スポーツカーのスピード出し過ぎで事故死したことは日本でも報道されていたが、その後のことはいままで全く知らなかった。詳しくは記事を読んでいただけばよいが、なぜオーストリアに極右政治家がいて、しかも国民的人気をはくしていたのか、いろいろ考えさせられることも多い。
この記事にもあるように、遠い極東の日本はもとより、同じ西欧のフランスでもオーストリア関連のニュースはあまり話題にならないようだ。たしかに、実の娘を地下室に監禁し、強姦し続けた男の猟期的な事件とか、そういった特殊なニュースしか取り上げられていないが、これは日本だけではなかったのだな。
フランスからみると、大国ドイツ以外のドイツ語圏というのは、どうやら何か理解しにくい地域であるようだ。
戦後西ドイツはフランスと共同歩調をとることによって、復興欧州での地位回復を図ってきた歴史がある。高校生レベルでの交換留学制度があり、両国民の相互理解は非常に進んでいる。これはもう十数年まえのことだが、旅先のシュトラースブルク(・・フランスではストラスブール)で、同じ部屋をシェアしたドイツ青年自身から直接聞いたことのある話だ。この背景には共通語としての英語(・・欧州の場合はイギリス英語)の存在も寄与している。
ドイツ語圏でもオーストリアのような小国は、フランスとはドイツとのあいだにあるような親密な交流はないのかもしれない。
欧州共同体(EU:European Union)に属しているとはいえ、内部の差異は思ったよりも大きいようだ。何よりもフランス語圏とドイツ語圏とでは流通するニュースにも大きな違いがある。
これは、Google News の各国語バージョンで検証してみたらすぐにわかることだ。フランスの旧植民地のアフリカの情報はフランス語圏では流通しても、ドイツ語圏では流通しない。国境をはさんで隣り合った地域でも、フランスのTV番組とドイツのTV番組ではだいぶ内容が違う。
かつてのハプスブルク帝国(=オーストリア・ハンガリー二重帝国)も第一次世界大戦後に崩壊、帝国の版図内にあった中欧諸国が次々と独立していった結果、オーストリア(ドイツ語では Österreich)という小国になってしまった。
私はウィーンが好きで何度もいっているが、オーストリアでそれ以外の地方というと、ウィーンから日帰りでいける範囲しかいったことがない。ドナウ川をさかのぼったメルクにある美しいバロック修道院と、ザルツブルクくらいだ。
ザルツブルクはウィーンからいくよりも、南ドイツのミュンヘンからのほうが近い。数年前にミュンヘンのオクトーバーフェストとザルツブルク、インスブルックを回る旅行を計画したが中止。それ以前には、ウィーン西駅からハンガリーのブダペストへ二回、ウィーン南駅からスロヴェニアのリュブリャーナへ一回、鉄道でオーストリアを陸路横断したくらいである。
ひとことでいってしまえば、ハプスブルク帝国の帝都であったウィーンとそれ以外の地域はまったく異なる、ということである。アルプスの北側に位置するオーストリアは、ある意味スイスに似て風光明媚だが、住んでいる人間はかなり保守的な農民が中心ということのようである。ウィーンはそのなかに浮かぶ例外的な国際都市ということになる。

ドイツ映画 『野ばら』(Der Schönste Tag meines Lebens、1957年 映画の一部)に描かれたウィーン少年合唱団、ハリウッド映画『サウンド・オブ・ミュージック』(The Sound of Music、1965年 Trailer あり)の世界は実はそんなところだろう。
『サウンド・オブ・ミュージック』は、第二次大戦中、ナチス第三帝国に占領されたオーストリアで抵抗運動を行う退役海軍大佐(!)が家族をつれて命からがら脱出するという内容の映画で、撮影場所と成ったザルツブルクと英国人女優ジュリー・アンドルース本人が歌うオスカー・ハマースタイン二世の親しみやすく美しいメロディが素晴らしい。
まあ、日本人だけではなく、世界的にもオーストリアのイメージは、ウィーン以外は風光明媚なチロル地方、というのがごく一般的なイメージなようだ。

ところが、地元のオーストリアではこの映画は不評だ、というのを以前何かで読んだことがある。
オーストリアとドイツの関係は一筋縄ではいかないようで、1872年「ドイツ統一」の際も、プロイセン王国の宰相ビスマルクは、オーストリア(ハプスブルク帝国)を除外した「小ドイツ主義」によってドイツ帝国を建設する道を選択した。ハプスブルク帝国が、ドイツ民族以外のスラブ民族やハンガリー民族など多数の異民族を含んでいたためである。
このため、ナチスドイツによるオーストリア併合(1938年)は、オーストリアでは歓迎された(!)ことは、当時のドキュメントフィルムには、オープンカーで凱旋するヒトラー総統をウィーン市民が熱狂的に歓迎する姿が映像として残されており、一目瞭然である(映像は各種ある ① ② ③)。神聖ローマ帝国の領土を継承することによって、ドイツ帝国に次ぐ、ドイツ第三帝国が完成したのだというのだろう。
このような国で、『サウンド・オブ・ミュージック』のような反ナチス映画が諸手をあげて歓迎されるはずがない。国家が選択した国際社会での生き残り戦略と、一般市民の歴史認識にはズレが存在するからだ。
したがって、オーストリアがナチスの被害者だと主張するのにはムリがある。
第二次大戦後は、スイスと同じく永世中立国という選択を行い、国際的にはポジティブなイメージを振りまいてきたオーストリアも、ワルトハイム元国連事務総長がかつてナチスの突撃隊(SA)に属していたと暴露されてスキャンダル発生以降、国際的には疑問符のつく存在となっている。
オーストリア国内の認識と国際社会の認識のズレがこういうところにあらわれているのであろう。
その土地の人間の認識と、映画など各種メディアをつうじて知る外部の人間のあいだには大きな認識ギャップが存在するのである。
歴史認識にかんしてはなおさらだろう。
ドイツ語圏といっても、過去の歴史への対応は、旧西ドイツ、旧東ドイツ、スイス、オーストリアでは大きく異なるようである。
また、旧ハプスブルク帝国領の中欧諸国は現在でも中高年以上は英語よりもドイツ語が得意なドイツ語圏だが、ドイツに占領されたチェコ(スロヴァキア)やポーランドといったスラブ民族と、二度の対戦においてドイツと軍事同盟を結んだハンガリーとでは、かなりの温度差があるようだ。
どこの国であれ、歴史認識をめぐる問題は難しい。歴史とは過去の問題ではなく、現在の、そして未来に直結した問題であるからだ。
安直にドイツがモデルだなどといわないほうがよいのではないか?広くドイツ語圏とはいわずとも、東西再統一後のドイツにおいてすら歴史認識をめぐっては必ずしも一致しているわけではない。ましてや・・・
韓国の金大中・元大統領の国葬が、昨日(8月23日)に行われた。
私の世代ではキム・デジュンというよりも、東京九段下での拉致事件のからみもあって「きんだいちゅう」といいたいところだが、韓国では Kim Dae Jung の頭文字をとって DJ と愛称で呼ばれていたらしい。
韓国史上、国葬は朴正煕(ぼく・せいき、パク・チョンヒ)大統領が執務中に暗殺されて以来というが、この二人は思想信条の違いは超えて、国葬に値する人物であったことは、韓国からみれば外国人である私にもまったく異論はない。
前者がKCIAを指揮して後者の拉致を実行させた人、後者は拉致事件の被害者として死刑寸前までいった民主化リーダー。日本の国家主権を踏みにじった「金大中事件」は決して記憶の彼方にある事件ではない。
パク・チョンヒもキム・デジュンも、日本の植民地時代に日本語教育を受けた世代であることも共通している。慶尚北道(キョンサンプクド)出身で、日本の陸軍士官学校を卒業した満洲国軍中尉・高木正雄(1917-1979)と、韓国南部の全羅南道(チョルラナンド)出身のカトリック信徒の民主政治家・豊田大中(1925-2009)。
日本経験と、日本語経験にはもちろん違いがあるが、キム・デジュンの死をもって「日本語世代」がついに終わったのだな、という強い感慨を覚える。まさに、昭和も遠くなりにけり、だ。
いずれにせよ、キム・デジュンという超大物政治家の国葬における弔問外交が、南北対話再会のための雪解けとなったことは喜ぶべき事である。
ところで、フランスのオピニオン紙「ル・モンド」(Le Monde)に日本語版があるのはご存じだろうか。
久々にウェブサイトをみていたら、最新号に非常に面白い記事が翻訳掲載されていることに気がついた。題して「ハイダーを「国葬」したオーストリアの土壌」。
ヨルク・ハイダー(Jörg Haider)とは、オーストリアの極右政治家。かつてからナチス礼賛をおこなってきたイケメン政治家である。
酩酊状態で、スポーツカーのスピード出し過ぎで事故死したことは日本でも報道されていたが、その後のことはいままで全く知らなかった。詳しくは記事を読んでいただけばよいが、なぜオーストリアに極右政治家がいて、しかも国民的人気をはくしていたのか、いろいろ考えさせられることも多い。
この記事にもあるように、遠い極東の日本はもとより、同じ西欧のフランスでもオーストリア関連のニュースはあまり話題にならないようだ。たしかに、実の娘を地下室に監禁し、強姦し続けた男の猟期的な事件とか、そういった特殊なニュースしか取り上げられていないが、これは日本だけではなかったのだな。
フランスからみると、大国ドイツ以外のドイツ語圏というのは、どうやら何か理解しにくい地域であるようだ。
戦後西ドイツはフランスと共同歩調をとることによって、復興欧州での地位回復を図ってきた歴史がある。高校生レベルでの交換留学制度があり、両国民の相互理解は非常に進んでいる。これはもう十数年まえのことだが、旅先のシュトラースブルク(・・フランスではストラスブール)で、同じ部屋をシェアしたドイツ青年自身から直接聞いたことのある話だ。この背景には共通語としての英語(・・欧州の場合はイギリス英語)の存在も寄与している。
ドイツ語圏でもオーストリアのような小国は、フランスとはドイツとのあいだにあるような親密な交流はないのかもしれない。
欧州共同体(EU:European Union)に属しているとはいえ、内部の差異は思ったよりも大きいようだ。何よりもフランス語圏とドイツ語圏とでは流通するニュースにも大きな違いがある。
これは、Google News の各国語バージョンで検証してみたらすぐにわかることだ。フランスの旧植民地のアフリカの情報はフランス語圏では流通しても、ドイツ語圏では流通しない。国境をはさんで隣り合った地域でも、フランスのTV番組とドイツのTV番組ではだいぶ内容が違う。
かつてのハプスブルク帝国(=オーストリア・ハンガリー二重帝国)も第一次世界大戦後に崩壊、帝国の版図内にあった中欧諸国が次々と独立していった結果、オーストリア(ドイツ語では Österreich)という小国になってしまった。
私はウィーンが好きで何度もいっているが、オーストリアでそれ以外の地方というと、ウィーンから日帰りでいける範囲しかいったことがない。ドナウ川をさかのぼったメルクにある美しいバロック修道院と、ザルツブルクくらいだ。
ザルツブルクはウィーンからいくよりも、南ドイツのミュンヘンからのほうが近い。数年前にミュンヘンのオクトーバーフェストとザルツブルク、インスブルックを回る旅行を計画したが中止。それ以前には、ウィーン西駅からハンガリーのブダペストへ二回、ウィーン南駅からスロヴェニアのリュブリャーナへ一回、鉄道でオーストリアを陸路横断したくらいである。
ひとことでいってしまえば、ハプスブルク帝国の帝都であったウィーンとそれ以外の地域はまったく異なる、ということである。アルプスの北側に位置するオーストリアは、ある意味スイスに似て風光明媚だが、住んでいる人間はかなり保守的な農民が中心ということのようである。ウィーンはそのなかに浮かぶ例外的な国際都市ということになる。

ドイツ映画 『野ばら』(Der Schönste Tag meines Lebens、1957年 映画の一部)に描かれたウィーン少年合唱団、ハリウッド映画『サウンド・オブ・ミュージック』(The Sound of Music、1965年 Trailer あり)の世界は実はそんなところだろう。
『サウンド・オブ・ミュージック』は、第二次大戦中、ナチス第三帝国に占領されたオーストリアで抵抗運動を行う退役海軍大佐(!)が家族をつれて命からがら脱出するという内容の映画で、撮影場所と成ったザルツブルクと英国人女優ジュリー・アンドルース本人が歌うオスカー・ハマースタイン二世の親しみやすく美しいメロディが素晴らしい。
まあ、日本人だけではなく、世界的にもオーストリアのイメージは、ウィーン以外は風光明媚なチロル地方、というのがごく一般的なイメージなようだ。

ところが、地元のオーストリアではこの映画は不評だ、というのを以前何かで読んだことがある。
オーストリアとドイツの関係は一筋縄ではいかないようで、1872年「ドイツ統一」の際も、プロイセン王国の宰相ビスマルクは、オーストリア(ハプスブルク帝国)を除外した「小ドイツ主義」によってドイツ帝国を建設する道を選択した。ハプスブルク帝国が、ドイツ民族以外のスラブ民族やハンガリー民族など多数の異民族を含んでいたためである。
このため、ナチスドイツによるオーストリア併合(1938年)は、オーストリアでは歓迎された(!)ことは、当時のドキュメントフィルムには、オープンカーで凱旋するヒトラー総統をウィーン市民が熱狂的に歓迎する姿が映像として残されており、一目瞭然である(映像は各種ある ① ② ③)。神聖ローマ帝国の領土を継承することによって、ドイツ帝国に次ぐ、ドイツ第三帝国が完成したのだというのだろう。
このような国で、『サウンド・オブ・ミュージック』のような反ナチス映画が諸手をあげて歓迎されるはずがない。国家が選択した国際社会での生き残り戦略と、一般市民の歴史認識にはズレが存在するからだ。
したがって、オーストリアがナチスの被害者だと主張するのにはムリがある。
第二次大戦後は、スイスと同じく永世中立国という選択を行い、国際的にはポジティブなイメージを振りまいてきたオーストリアも、ワルトハイム元国連事務総長がかつてナチスの突撃隊(SA)に属していたと暴露されてスキャンダル発生以降、国際的には疑問符のつく存在となっている。
オーストリア国内の認識と国際社会の認識のズレがこういうところにあらわれているのであろう。
その土地の人間の認識と、映画など各種メディアをつうじて知る外部の人間のあいだには大きな認識ギャップが存在するのである。
歴史認識にかんしてはなおさらだろう。
ドイツ語圏といっても、過去の歴史への対応は、旧西ドイツ、旧東ドイツ、スイス、オーストリアでは大きく異なるようである。
また、旧ハプスブルク帝国領の中欧諸国は現在でも中高年以上は英語よりもドイツ語が得意なドイツ語圏だが、ドイツに占領されたチェコ(スロヴァキア)やポーランドといったスラブ民族と、二度の対戦においてドイツと軍事同盟を結んだハンガリーとでは、かなりの温度差があるようだ。
どこの国であれ、歴史認識をめぐる問題は難しい。歴史とは過去の問題ではなく、現在の、そして未来に直結した問題であるからだ。
安直にドイツがモデルだなどといわないほうがよいのではないか?広くドイツ語圏とはいわずとも、東西再統一後のドイツにおいてすら歴史認識をめぐっては必ずしも一致しているわけではない。ましてや・・・
2009年8月23日日曜日
書評 『新大東亜戦争肯定論』(富岡幸一郎、飛鳥新社、2006)
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■「太平洋戦争」ではない!「大東亜戦争」である! すべては、名を正すことから出発しなくてはならない■
「太平洋戦争」ではない! 「大東亜戦争」である!
すべては、名を正すことから出発しなくてはならない。
米国を中心とした連合国による占領軍が、敗戦国日本の国民に対して、厳しい検閲をとおして徹底させた「太平洋戦争」というネーミング、ここに戦後日本人の精神を歪めた最大の問題点、そしてその出発点がある。
「太平洋戦争」とは、米国による太平洋支配という世界観からでてきた概念であり、米国による占領政策を象徴的に表現したものでもあった。戦後の日本人は占領軍による洗脳、呪縛のもとに六十数年を過ごしてきたことになる。
著者は、「大東亜戦争」が何のために戦われた戦いなのか、講和条約が成立し独立を回復して以降も、日本人はこの問いを自ら封印し、隠蔽してきたことに、戦後日本人の精神的退廃の原因、そして何度謝罪してもアジア諸国で受け入れられてこなかったことの原因があると見る。
私はビジネスをつうじて東南アジア、とくにタイにかかわってきたが、現地にいてどうもしっくりこなかったのが「太平洋戦争」というネーミングなのである。
もちろん私の世代は、歴史教育をつうじて「太平洋戦争」と教え込まれてきたのであり、これまで何の疑問もなくこの表現を使用してきた。
しかしあるとき気がついたのは、当時は南方とよばれた東南アジアで日本が戦ったのは米国ではなく、主に大英帝国だったという事実である。ミャンマー(ビルマ)は当時は英領ビルマ、マレーシアとシンガポールは英領マラヤ、ベトナムは仏領インドシナ、インドネシアは蘭領東インド、であった。すべてが太平洋に面した地域ではない。
そんなときに読んだのが、インドネシア現代史研究家・倉沢愛子の『「大東亜」戦争を知っていますか』(講談社現代新書、2002)である。倉沢氏は「大東亜」戦争と、大東亜をカッコつきで記述しているが、日本軍のマレー半島上陸のほうが、米国の真珠湾攻撃よりも早かったのである、という事実を教えてくれた。戦場となった東南アジアからみた「大東亜」戦争を語った本である。
近年、日本の現代史研究家のあいだで「アジア太平洋戦争」というネーミングが使用されているのを時々目にすることがある。学術的なネーミングとしては、「太平洋戦争」というネーミングの問題点を修正しようとする意図が感じられるので、一見すると一歩前進したようにもみえるが、しかしながらとってつけたような印象はぬぐえない。
それならいっそのこと、開戦時使用された歴史的名称である「大東亜戦争」でいいではないか。
本書の著者は、むしろ積極的な意味で「大東亜戦争」といっている。
これは本書のタイトルが、林房雄の『大東亜戦争肯定論』を踏まえたものであることからもそれがわかる。林房雄は、大東亜戦争は明治維新の以前、幕末の西洋列強の軍艦の出現に始まる「東亜百年戦争」であった、と書いているという。アジアのなかではいち早く西洋近代化した日本が、自存自衛のために西洋列強と戦った戦いなのであると。
日本は、アジア解放をスローガンとして戦ったが、死力を尽くした末、戦争には敗れ去った。しかし、「大東亜戦争」がきっかけとなり、結果としてアジア諸国の独立が達成されることとなる。
本書は、1957年生まれの戦後世代の文芸評論家による、本質に迫った議論の書である。著者は、戦後日本に対して、読者に対して、真っ向から直球で勝負してくる。
引用された数々の日本人の声、この多数の引用文は厳選されたものであろう。著名人だけではない、特攻作戦で散華していった若者の声も引用されている。これら引用文を読むと、日本人がその時、いかなる考えをもって事に臨んだのか、手に取るように伝わってくる。
たしかに日本は無謀な戦いを戦い、日本人の多くが死んだだけでなく、近隣諸国にも多くの死傷者を出したことはまぎれもない事実である。
しかし、何のための戦いだったのか、なぜ日本は戦わねばならなかったのか。この歴史的事実をきちんと見直さなくては、戦後日本のゆがみを正すことはできない、近隣諸国との真の意味での正常化は困難であり、ましてやアジアでも世界でも尊敬を受けることなどほど遠い。
現在に生きるわれわれは、当然のことながら戦後日本の経済復興と経済成長を十二分に享受してきたのであり、戦後そのものを全否定するのはナンセンスである。
しかし、経済的な達成の果てに得たものはいったい何だったのか、何かが精神的に欠けているのではないか、何かがおかしいのではないか・・・という感覚はつねに感じてきたはずである。そしていまやこの国は問題が噴出し、手のつけられない状況になりつつある。大東亜戦争ときちんと向き合ってこなかったつけが回ってきているのではないか。
本書は、こういった疑問をもっている人にとって、間違いなく考えるヒントを与えてくれる本である。
本書は、何か特定の主義にのっとって、その主張を煽るといったたぐいの本ではない。また戦前・戦中を絶対視する議論でもない。
著者の姿勢は終始一貫して冷静である。それだけに数多くの引用文が訴えかけてくる声に、読者は耳を澄ますことになるのだ。
われわれは、何か本当に重要なことを見ないふりをしてきたのではないか、と。
■bk1書評「「太平洋戦争」ではない!「大東亜戦争」である! すべては、名を正すことから出発しなくてはならない」投稿掲載(2009年8月19日)
<書評への付記>
書評のタイトルに、「名を正す」という表現を使用した。これは、論語でいう「正名」(せいめい)のことである。
出典は、論語巻第七 子路第十三、引用は岩波文庫版(金谷治校注)による。
つまり、ひらたくいえば「名は体を表す」ということで、このケースでいえば、「太平洋戦争」という名を使う限り、アメリカ占領軍による洗脳の呪縛が解けぬまま、米国支配層のお先棒担ぎを続けることになることを意味する。
「大東亜戦争」という名に変えることで、本来あるべき姿に戻すことになる。たとえこの戦争の結果敗れさり、多大な損害がもたらされたとしても、日本人として歴史に対して責任をもつという倫理的な姿勢を内外に示すことになるわけである。決して右翼的な発言ではない。
私自身は特に儒教が好きだというわけではないが(・・統治者の側の論理が中心の儒教は、むしろうっとおしいと思っている)、この「正名」という考えは、基本的な倫理としてきわめて重要であると考えている。
名、あるいは名前というものは、実はそんなに簡単なものではない。近代言語学生みの親であるソシュールに従えば、名前(フランス語でシニフィアン:signifiant、英語なら signifying)と名前がさしている内容(シニフィエ:signifié、英語なら signified)との関係は、本来は必ずしも必然的ではない、恣意的な関係である。
たとえば、四つ足動物で人間が家畜化し、ペットとしてかわいがっていて飼い主に忠実な動物のことを日本語ではイヌとよんでいるが、それをイヌとよぶのは慣習からであって、そもそもなぜ日本ではそれがイヌという二音節の音声でよばれるようになったかについては不明だし、しかも必然性はない。
しかし名付けという能動的な行為によって、その名前によって意味される内容が形成されていくことは、ペットの名付けを考えてみればすぐに了解されるだろう。たとえば、自分の犬にポチ(・・小さいを意味するフランス語プチから)と名付けるのか、HACHI(・・忠犬ハチ公)と名付けるのか、ビンゴ(・・シートン動物記の名犬ビンゴ)と名付けるのか、名付け自体は恣意的なものだが、名付けの行為以後は、その子犬はHACHIとして生きることになり、犬と家族との物語が形成され、それは蓄積されていくのである。不可逆で重層的な厚みをもった時間の集積、これが歴史というものの本質だ。
以前、ブランドについて経営学の観点から研究を行った際に、固有名詞とは何か、名前とは何か、命名とは何か、名前が資産として価値を持つとはどういうことか、ということについて徹底的に検討を加えたことがある(・・2002年に執筆したが論文は未刊行)。ブランドとは、つまるところ固有名詞だからだ。
煩瑣になるのでここでは書かないが、名と命名について、ひとつだけ引用を行っておく。イスラーム哲学の世界的権威で言語哲学者であった井筒俊彦博士の遺著 『意識の形而上学-『大乗起信論』の哲学-』(中央公論社、1993)からの引用である。
ここでいう「意味分節」とは、意味による存在の切り分けを意味するコトバで、言語のもつ本源的な機能そのものである。
「大東亜戦争」は、そもそもの時点において「大東亜戦争」と命名され、戦いが開始されたのである。戦争責任者である政治家、軍人だけでなく、一般国民も賛成するにせよ反対するにせよ、それとして受け取り、ある者は従軍し、ある者は銃後を守り、ある者は投獄され、ある者は・・・・、すべて日本国民はこの歴史創造行為に直接的であれ、間接的であれ関与したのである。これは紛れもない事実であって、この事実を否定することが、精神の歪み、自己欺瞞を生み出してきたことは否定できないであろう。
「大東亜戦争」は「太平洋戦争」と改竄されることによって、日本人は歴史形成の主体を奪われたままになっているのである。だから名は正さなくてはならないのである。「大東亜戦争」とよぶことによって、日本人は再び歴史形成の主体として復帰することとなる。これは正常化プロセスの一環として捉えるべきであろう。
正直いって、私も「大東亜戦争」という名称は、使用するのは抵抗感があった。何か右翼的な、リビジョニスト的な響きがあったためだ。それだけ、知らず知らずのうちに「太平洋戦争」という刷り込みをされ、洗脳されていたことになる。
いまから5~6年前だったろうか、前職で会社の顧問をお願いしていた方から、こういうことをいわれたのである。「もしあなたが将来、若者の教育に従事する気持ちがあるのなら、大学の先生になるなどとは考えず、私塾を開きなさい。そしてまず何よりも大東亜戦争についてキチンと教える必要がある」、と。
「大東亜戦争ねえ・・・」と内心では思ったが、そのときは私は何も答えなかった。
その方はある商社出身で、機械部品の分野では生き字引のような人であり、現在でも何社もハイテク関係の会社の社長もやっている方である。長年海外取引に従事してきた国際ビジネスマンで英語は完璧、なんと第一回のダヴォス会議に出たことがあるという人なのだが、そのような経歴をもった方からそういうことをいわれたので、ずっと気になっていたのである。いや、そういう人であるからこそ、健全な意味でのナショナリストであり、またそういう姿勢が根本にないと、国際的な場面ではプレイヤーとして尊敬もされないのだろうな、と。
また、書評のなかでも触れているが、インドネシア現代史研究家・倉沢愛子の『「大東亜」戦争を知っていますか』(講談社現代新書、2002)などをよむうちに、自分のなかでも、「太平洋戦争」という名称はおかしいのではないか、と段々思うようになってきたというわけである。
私があえて「大東亜戦争」という名称を使う理由は以上のとおりだ。
けっして何か特定の政治的立場に基づいた見解ではない。私は右であれ、左であれ、安直なレッテル張りには嫌悪感以外のなにものも感じない。レッテル張りとは、思考力の欠如、知性の欠如以外のなにものでもない。
富岡幸一郎氏は本書中でいくつも引用をしているが、ひとつだけ「お粗末な発言」を引用している。評論家で作家・立花隆の発言である(p.80)。「9-11」直後の状況において、立花隆は特攻隊と自爆テロを同じものとみなし、きわめて粗雑な言説をまき散らした。
自爆テロが非戦闘員である一般市民を巻き込む無差別攻撃であるのに対し、特攻はあくまでも交戦国の戦闘員に対してのみ行われた攻撃でさること、また特攻隊員の多くが出撃にあたって、祖国のために死ぬことの意味を真剣に考え抜き、残していく家族への思いを遺書や手紙に残していること、これらの事実を読み取ることもできず、十把一絡げに軍国主義と総括する粗雑な議論なのだ。
立花隆は、ありとあらゆる分野につうじているということで、かつては「知の巨人」などともてはやされたことがある。しかし、とんだ「痴の虚人」ぶりではないか。トンデモ発言のオンパレードである。
かなり以前から立花隆はなんかヘンだぞ、といわれてきており、何冊も本がでている。たとえば、『立花隆「嘘八百」の研究-ジャーナリズム界の田中角栄、その最終真実。(別冊宝島Real)』(宝島社、2002)、『立花隆の無知蒙昧を衝く-遺伝子問題から宇宙論まで-』(佐藤進、社会評論社、2001)、『立花隆先生、かなりヘンですよ-「教養のない東大生」からの挑戦状!-』(谷田和一郎、宝島社文庫、2002)などなど。
風呂敷を広げすぎて、無責任な放言が増えたようだ。かつては『日本共産党の研究』(講談社、1978)や『中核vs革マル』(講談社、1975)など、緻密な取材に基づいた、すごくいい仕事をしてたのに・・・。他山の石としなくてはならない(・・な~んていう私は「知の巨人」からはほど遠い存在ではありますが・・しかし、哲学者ヴィトゲンシュタインではないですが、知らないことは知らないとして安易に発言はしないようにはしております、はい)。
歴史と倫理の問題、これは今後も深く考えていかねばならない。「歴史の審判」は必ず下されるからだ。これはまさに倫理にかかわるものだ。
誰もが歴史から逃れることなどできないのだ。
PS
101本目の投稿でイヌについて語ったのは、意図的にしたわけではない。投稿アップ後に誤字脱字を修正している段階で気がついた。ディズニーの「101匹わんちゃん大行進」とのシンクロ(ニシティ)ですかねー?

■「太平洋戦争」ではない!「大東亜戦争」である! すべては、名を正すことから出発しなくてはならない■
「太平洋戦争」ではない! 「大東亜戦争」である!
すべては、名を正すことから出発しなくてはならない。
米国を中心とした連合国による占領軍が、敗戦国日本の国民に対して、厳しい検閲をとおして徹底させた「太平洋戦争」というネーミング、ここに戦後日本人の精神を歪めた最大の問題点、そしてその出発点がある。
「太平洋戦争」とは、米国による太平洋支配という世界観からでてきた概念であり、米国による占領政策を象徴的に表現したものでもあった。戦後の日本人は占領軍による洗脳、呪縛のもとに六十数年を過ごしてきたことになる。
著者は、「大東亜戦争」が何のために戦われた戦いなのか、講和条約が成立し独立を回復して以降も、日本人はこの問いを自ら封印し、隠蔽してきたことに、戦後日本人の精神的退廃の原因、そして何度謝罪してもアジア諸国で受け入れられてこなかったことの原因があると見る。
私はビジネスをつうじて東南アジア、とくにタイにかかわってきたが、現地にいてどうもしっくりこなかったのが「太平洋戦争」というネーミングなのである。
もちろん私の世代は、歴史教育をつうじて「太平洋戦争」と教え込まれてきたのであり、これまで何の疑問もなくこの表現を使用してきた。
しかしあるとき気がついたのは、当時は南方とよばれた東南アジアで日本が戦ったのは米国ではなく、主に大英帝国だったという事実である。ミャンマー(ビルマ)は当時は英領ビルマ、マレーシアとシンガポールは英領マラヤ、ベトナムは仏領インドシナ、インドネシアは蘭領東インド、であった。すべてが太平洋に面した地域ではない。
そんなときに読んだのが、インドネシア現代史研究家・倉沢愛子の『「大東亜」戦争を知っていますか』(講談社現代新書、2002)である。倉沢氏は「大東亜」戦争と、大東亜をカッコつきで記述しているが、日本軍のマレー半島上陸のほうが、米国の真珠湾攻撃よりも早かったのである、という事実を教えてくれた。戦場となった東南アジアからみた「大東亜」戦争を語った本である。
近年、日本の現代史研究家のあいだで「アジア太平洋戦争」というネーミングが使用されているのを時々目にすることがある。学術的なネーミングとしては、「太平洋戦争」というネーミングの問題点を修正しようとする意図が感じられるので、一見すると一歩前進したようにもみえるが、しかしながらとってつけたような印象はぬぐえない。
それならいっそのこと、開戦時使用された歴史的名称である「大東亜戦争」でいいではないか。
本書の著者は、むしろ積極的な意味で「大東亜戦争」といっている。
これは本書のタイトルが、林房雄の『大東亜戦争肯定論』を踏まえたものであることからもそれがわかる。林房雄は、大東亜戦争は明治維新の以前、幕末の西洋列強の軍艦の出現に始まる「東亜百年戦争」であった、と書いているという。アジアのなかではいち早く西洋近代化した日本が、自存自衛のために西洋列強と戦った戦いなのであると。
日本は、アジア解放をスローガンとして戦ったが、死力を尽くした末、戦争には敗れ去った。しかし、「大東亜戦争」がきっかけとなり、結果としてアジア諸国の独立が達成されることとなる。
本書は、1957年生まれの戦後世代の文芸評論家による、本質に迫った議論の書である。著者は、戦後日本に対して、読者に対して、真っ向から直球で勝負してくる。
引用された数々の日本人の声、この多数の引用文は厳選されたものであろう。著名人だけではない、特攻作戦で散華していった若者の声も引用されている。これら引用文を読むと、日本人がその時、いかなる考えをもって事に臨んだのか、手に取るように伝わってくる。
たしかに日本は無謀な戦いを戦い、日本人の多くが死んだだけでなく、近隣諸国にも多くの死傷者を出したことはまぎれもない事実である。
しかし、何のための戦いだったのか、なぜ日本は戦わねばならなかったのか。この歴史的事実をきちんと見直さなくては、戦後日本のゆがみを正すことはできない、近隣諸国との真の意味での正常化は困難であり、ましてやアジアでも世界でも尊敬を受けることなどほど遠い。
現在に生きるわれわれは、当然のことながら戦後日本の経済復興と経済成長を十二分に享受してきたのであり、戦後そのものを全否定するのはナンセンスである。
しかし、経済的な達成の果てに得たものはいったい何だったのか、何かが精神的に欠けているのではないか、何かがおかしいのではないか・・・という感覚はつねに感じてきたはずである。そしていまやこの国は問題が噴出し、手のつけられない状況になりつつある。大東亜戦争ときちんと向き合ってこなかったつけが回ってきているのではないか。
本書は、こういった疑問をもっている人にとって、間違いなく考えるヒントを与えてくれる本である。
本書は、何か特定の主義にのっとって、その主張を煽るといったたぐいの本ではない。また戦前・戦中を絶対視する議論でもない。
著者の姿勢は終始一貫して冷静である。それだけに数多くの引用文が訴えかけてくる声に、読者は耳を澄ますことになるのだ。
われわれは、何か本当に重要なことを見ないふりをしてきたのではないか、と。
■bk1書評「「太平洋戦争」ではない!「大東亜戦争」である! すべては、名を正すことから出発しなくてはならない」投稿掲載(2009年8月19日)
<書評への付記>
書評のタイトルに、「名を正す」という表現を使用した。これは、論語でいう「正名」(せいめい)のことである。
出典は、論語巻第七 子路第十三、引用は岩波文庫版(金谷治校注)による。
子曰 (中略) (子のたまわく)
名不正則言不順 (名正からざれば則ち言順わず)
言不順則事不成 (言順わざれば則ち事成らず)
(中略)
故君子名之必可言也 (故に君子はこれに名づくれば必ず言うべきなり)
言之必可行也 (これを言えば必ず行うべきなり)
(後略)
つまり、ひらたくいえば「名は体を表す」ということで、このケースでいえば、「太平洋戦争」という名を使う限り、アメリカ占領軍による洗脳の呪縛が解けぬまま、米国支配層のお先棒担ぎを続けることになることを意味する。
「大東亜戦争」という名に変えることで、本来あるべき姿に戻すことになる。たとえこの戦争の結果敗れさり、多大な損害がもたらされたとしても、日本人として歴史に対して責任をもつという倫理的な姿勢を内外に示すことになるわけである。決して右翼的な発言ではない。
私自身は特に儒教が好きだというわけではないが(・・統治者の側の論理が中心の儒教は、むしろうっとおしいと思っている)、この「正名」という考えは、基本的な倫理としてきわめて重要であると考えている。
名、あるいは名前というものは、実はそんなに簡単なものではない。近代言語学生みの親であるソシュールに従えば、名前(フランス語でシニフィアン:signifiant、英語なら signifying)と名前がさしている内容(シニフィエ:signifié、英語なら signified)との関係は、本来は必ずしも必然的ではない、恣意的な関係である。
たとえば、四つ足動物で人間が家畜化し、ペットとしてかわいがっていて飼い主に忠実な動物のことを日本語ではイヌとよんでいるが、それをイヌとよぶのは慣習からであって、そもそもなぜ日本ではそれがイヌという二音節の音声でよばれるようになったかについては不明だし、しかも必然性はない。
しかし名付けという能動的な行為によって、その名前によって意味される内容が形成されていくことは、ペットの名付けを考えてみればすぐに了解されるだろう。たとえば、自分の犬にポチ(・・小さいを意味するフランス語プチから)と名付けるのか、HACHI(・・忠犬ハチ公)と名付けるのか、ビンゴ(・・シートン動物記の名犬ビンゴ)と名付けるのか、名付け自体は恣意的なものだが、名付けの行為以後は、その子犬はHACHIとして生きることになり、犬と家族との物語が形成され、それは蓄積されていくのである。不可逆で重層的な厚みをもった時間の集積、これが歴史というものの本質だ。
以前、ブランドについて経営学の観点から研究を行った際に、固有名詞とは何か、名前とは何か、命名とは何か、名前が資産として価値を持つとはどういうことか、ということについて徹底的に検討を加えたことがある(・・2002年に執筆したが論文は未刊行)。ブランドとは、つまるところ固有名詞だからだ。
煩瑣になるのでここでは書かないが、名と命名について、ひとつだけ引用を行っておく。イスラーム哲学の世界的権威で言語哲学者であった井筒俊彦博士の遺著 『意識の形而上学-『大乗起信論』の哲学-』(中央公論社、1993)からの引用である。
「・・あるものに何々という名をつけることは、たんに何々という名をつけるだけのことではない。命名は意味分節行為である。あるものが何々と命名されたとたんに、そのものは意味分節的に特殊化され、特定化される」(P.27)
ここでいう「意味分節」とは、意味による存在の切り分けを意味するコトバで、言語のもつ本源的な機能そのものである。
「大東亜戦争」は、そもそもの時点において「大東亜戦争」と命名され、戦いが開始されたのである。戦争責任者である政治家、軍人だけでなく、一般国民も賛成するにせよ反対するにせよ、それとして受け取り、ある者は従軍し、ある者は銃後を守り、ある者は投獄され、ある者は・・・・、すべて日本国民はこの歴史創造行為に直接的であれ、間接的であれ関与したのである。これは紛れもない事実であって、この事実を否定することが、精神の歪み、自己欺瞞を生み出してきたことは否定できないであろう。
「大東亜戦争」は「太平洋戦争」と改竄されることによって、日本人は歴史形成の主体を奪われたままになっているのである。だから名は正さなくてはならないのである。「大東亜戦争」とよぶことによって、日本人は再び歴史形成の主体として復帰することとなる。これは正常化プロセスの一環として捉えるべきであろう。
正直いって、私も「大東亜戦争」という名称は、使用するのは抵抗感があった。何か右翼的な、リビジョニスト的な響きがあったためだ。それだけ、知らず知らずのうちに「太平洋戦争」という刷り込みをされ、洗脳されていたことになる。
いまから5~6年前だったろうか、前職で会社の顧問をお願いしていた方から、こういうことをいわれたのである。「もしあなたが将来、若者の教育に従事する気持ちがあるのなら、大学の先生になるなどとは考えず、私塾を開きなさい。そしてまず何よりも大東亜戦争についてキチンと教える必要がある」、と。
「大東亜戦争ねえ・・・」と内心では思ったが、そのときは私は何も答えなかった。
その方はある商社出身で、機械部品の分野では生き字引のような人であり、現在でも何社もハイテク関係の会社の社長もやっている方である。長年海外取引に従事してきた国際ビジネスマンで英語は完璧、なんと第一回のダヴォス会議に出たことがあるという人なのだが、そのような経歴をもった方からそういうことをいわれたので、ずっと気になっていたのである。いや、そういう人であるからこそ、健全な意味でのナショナリストであり、またそういう姿勢が根本にないと、国際的な場面ではプレイヤーとして尊敬もされないのだろうな、と。
また、書評のなかでも触れているが、インドネシア現代史研究家・倉沢愛子の『「大東亜」戦争を知っていますか』(講談社現代新書、2002)などをよむうちに、自分のなかでも、「太平洋戦争」という名称はおかしいのではないか、と段々思うようになってきたというわけである。
私があえて「大東亜戦争」という名称を使う理由は以上のとおりだ。
けっして何か特定の政治的立場に基づいた見解ではない。私は右であれ、左であれ、安直なレッテル張りには嫌悪感以外のなにものも感じない。レッテル張りとは、思考力の欠如、知性の欠如以外のなにものでもない。
富岡幸一郎氏は本書中でいくつも引用をしているが、ひとつだけ「お粗末な発言」を引用している。評論家で作家・立花隆の発言である(p.80)。「9-11」直後の状況において、立花隆は特攻隊と自爆テロを同じものとみなし、きわめて粗雑な言説をまき散らした。
自爆テロが非戦闘員である一般市民を巻き込む無差別攻撃であるのに対し、特攻はあくまでも交戦国の戦闘員に対してのみ行われた攻撃でさること、また特攻隊員の多くが出撃にあたって、祖国のために死ぬことの意味を真剣に考え抜き、残していく家族への思いを遺書や手紙に残していること、これらの事実を読み取ることもできず、十把一絡げに軍国主義と総括する粗雑な議論なのだ。
立花隆は、ありとあらゆる分野につうじているということで、かつては「知の巨人」などともてはやされたことがある。しかし、とんだ「痴の虚人」ぶりではないか。トンデモ発言のオンパレードである。
かなり以前から立花隆はなんかヘンだぞ、といわれてきており、何冊も本がでている。たとえば、『立花隆「嘘八百」の研究-ジャーナリズム界の田中角栄、その最終真実。(別冊宝島Real)』(宝島社、2002)、『立花隆の無知蒙昧を衝く-遺伝子問題から宇宙論まで-』(佐藤進、社会評論社、2001)、『立花隆先生、かなりヘンですよ-「教養のない東大生」からの挑戦状!-』(谷田和一郎、宝島社文庫、2002)などなど。
風呂敷を広げすぎて、無責任な放言が増えたようだ。かつては『日本共産党の研究』(講談社、1978)や『中核vs革マル』(講談社、1975)など、緻密な取材に基づいた、すごくいい仕事をしてたのに・・・。他山の石としなくてはならない(・・な~んていう私は「知の巨人」からはほど遠い存在ではありますが・・しかし、哲学者ヴィトゲンシュタインではないですが、知らないことは知らないとして安易に発言はしないようにはしております、はい)。
歴史と倫理の問題、これは今後も深く考えていかねばならない。「歴史の審判」は必ず下されるからだ。これはまさに倫理にかかわるものだ。
誰もが歴史から逃れることなどできないのだ。
PS
101本目の投稿でイヌについて語ったのは、意図的にしたわけではない。投稿アップ後に誤字脱字を修正している段階で気がついた。ディズニーの「101匹わんちゃん大行進」とのシンクロ(ニシティ)ですかねー?
2009年8月22日土曜日
書評 『アメリカに問う大東亜戦争の責任』(長谷川 煕、朝日新書、2007)
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■「勝者」すら「歴史の裁き」から逃れることはできない■
昭和20年(1945年)、疎開先で竹槍での本土決戦を覚悟していた12歳の「少年」が人生で抱え続けた疑問、「大東亜戦争とはいったい何であったのか?」、「アメリカには戦争責任がないのか?」に、のちに朝日新聞社記者となった74歳の「少年」が62年後に根本的に考え抜き、解答すべく試みた記録である。
しかし、著者が後書きで述懐するように、「勉強すればするほど、考えれば考えるほど、あの戦争は不可解きわまりなく思えてくる。であるが故に筆者は今後もずっと、あれは何だったのかと考え続けていくほかない。日本人の間では多分、幾世代を超えてあの戦争への問いが絶えることはないのではないか」(P.187)。
問いは決して終わることはない。
本書は、したがって、何らかの結論を導き出す本ではない。著者が渾身の力を振り絞って書いた本書は、著者自身の追求の姿勢を示すことで、読者自身にも同じ問い繰り返すよう促している本である。
著者の姿勢は、大東亜戦争の「勝者」となったアメリカが、日本占領中に、自分たちの好きなように振る舞った行動には、必ずや「歴史の審判」が下されるはずであるという予感、いや確信である。
これは著者にとってだけでなく読者にとっても、戦慄にみちた予言であるとともに、ある種の救いともなるであろう発言だ。
著者のいうことに耳を傾けてみよう。
著者は、12歳のときに抱いた疑問を出発点に考えてきたので、文中でも自らを「少年」として記している。
「・・・「勝者の裁き」を躊躇する判断力が連合国軍側にあったなら、長いこと歴史は彼らに味方しただろう。しかし、原子爆弾投下や東京裁判などを犯したために、米国あるいは連合国はやがて必ず歴史の裁きを、それも未曾有の断罪性を伴った形で受けることになると少年は確信している」(P.161)。
そして著者の追求は、米国を含む連合国の背後に、西洋文明そのもの野蛮性にも及ぶ。
「・・そして調べるほどに、いずれの現象にも自身の主義、理念、文化を絶対視し、異質を否定するという共通性が貫いていることが分かってくる。第三章で見たように、人体実験を極大化してまで根こそぎ破壊手段の高度化に邁進しようとした米国の原子爆弾開発投下史も、自身を絶対化するこの衝動の延長線上にあるのだろう。連合国つまりは米国の日本占領史の頁を繰っていくうちに、少年はGHQの日本改造実験も西洋文明のこのような特質の現れでないかとみた」(P.174)。
しかし返す刀で、敗戦後占領軍におべっかを使い、醜悪な姿を見せていたた日本人へにも手厳しい批判のまなざしを向ける。
「・・やがていつかは、あの絶対的軍事力に支配された被占領期の対米奴隷根性も日本人の間から消えるのだろう。しかし、その時に日本人は被占領期の先祖の姿に嫌悪をもよおし、GHQへの阿諛追従(あゆついしょう)も、対日無差別絨毯爆撃指揮者への勲一等叙勲も弾劾されずにはすまないと予感する」(P.99)。
最期に著者はこういっている。
「日本人は過去を直視しないどころか忘れ去っているという評も日本の内外にあるが、冗談ではない。忘れるどころか、戦後半世紀以上も問い、直視し続けてきたし、今も将来もそうであろう。本を含めてさまざまな媒体があの戦争に迫ろうと努めている状況を観察しただけでもそのことは明瞭である。
やがて、いつの日か世界の人々は日本人のこの一面に深刻な印象を受けるのではないか。そして世界の人たちも、あれは何だったのだろうかと考え始める時がくるように、筆者には思えてならない」(P.187)と締めくくる。
私にはこの著者の確信に満ちた予言が、かならず実現する日が、そう遠くないうちに来るのではないかという予感がある。
勝利者といえども、「歴史の裁き」から逃れることはできないからだ。
著者自身はその日のことをしっかりと見届けることはできないかもしれない。しかしこうして文字として後生に残したことは、きわめて意義のあることだ。
そうだその通りだ、と受け止める人が、日本人にも日本人以外にも必ずや現れることだろう。
■bk1書評「「勝者」すら「歴史の裁き」から逃れることはできない」投稿掲載(2009年8月19日)
<書評への付記>
元朝日新聞記者が、朝日新書という朝日新聞社系列の出版社から「大東亜戦争」と題した本を書く、このこと自体が実は興味深い。
一般に朝日新聞というと産経新聞の対極にある新聞社とみなされているが、個々の記者についていえば、必ずしも特定の色に染まっているわけではないのである。
これは朝日新聞出身の丸山静夫や稲垣武といったノンフィクション作家の作品を読んでみればわかる(・・稲垣武は朝日新聞的なものを徹底的に批判しているが)。
本来ジャーナリストはかくあるべし、という理想をある意味で体現している良質な人たちなのであろう。もちろん今日のサラリーマン化した記者たちとは、まったくもって対極の存在である。
著者が本書の中で触れている象徴的な問題が3つある。
①米内光政(よない・みつまさ)元首相・海相、②辻政信元大佐、③ヤルタ密約情報隠蔽疑惑、の3つである。
②についてはこのブログでも触れてきたので省略する。誤解があってはいけないが、辻政信的な極端な出世主義者の存在と、それを許してきた陸軍上層部組織に大きな問題があったことには、私もまったく異論はない。
問題は①についてである。すでにブログでも書いたが、「海軍神話」の核のひとつが終戦工作にも関与したといわれる米内光政だが、大東亜戦争の開戦以前、陸軍が主張する中国国民党との和平工作継続を否定し、日中戦争拡大を推進、日本破滅の道を敷いた張本人として著者は糾弾している。この点については、「文藝春秋」での座談会を新書化した『昭和陸海軍の失敗』(文春新書)で、1960年生まれの文芸評論家・福田和也が指摘しているように、米内光政と海軍という組織の問題であることは否定できない。
福田和也が指摘するように、ひろく日本国民全体から徴兵された兵士によって構成された陸軍が、ある意味デモクラティックな組織であったことは当然といえば当然であろう。これに対して、少数精鋭の海軍は、将校以上と下士官以下を厳然と区別した英国流の階級社会を反映した文字通りの上意下達の組織であり、昭和時代には下克上の傾向すらもっていた陸軍と比較すると、デモクラティックとはほど遠い存在であったことも否定できない。
しかも少ない人数の将校によって構成される海軍指導部が、きわめて内輪の論理によって動いていた閉じた組織であったことも、サイレントネイビーという表現に象徴される、内輪でのかばい合いという悪弊を生み出した原因の一つであるともいえる。
戦後日本がものづくりによって復興し、経済成長を達成したのは、現場中心主義による、限りなく陸軍的な、デモクラティックな組織運営が背景にあったということもできるだろう。それだけ、日本人にはフィットした組織形態であるともいうるわけだ。
これに対して海軍組織は、ボスがいっさいすべてを仕切り、参謀はボスのアシストをするための存在であり、命令系統が完全な上意下達型組織である米国の企業経営そのものである。日本人にはあまりフィットしない組織形態であることはいうまでもない。日本は上意下達の反対、すなわち下意上達、ふつうに表現すれば、現場で改善活動を行うボトムアップ型組織のほうがフィットしている。
戦史にも詳しい、経営学者の野中郁次郎は、日本型組織の心髄は、ミドル・アップ&ダウンだといっている。ミドルマネージャーの力量ですべてが左右される組織形態である点、これは実は戦前の日本陸軍そのものである。トップリーダーが強く求められているというのが、マスコミの論調だが、実は日本の企業組織の大半は、ミドルが参謀として、またあるいは現場マネージャーとして企画立案、そして実行している組織がもっとも強い。
日本ではトップが強いリーダーシップを発揮しなければならないのは創業段階のベンチャーか、せいぜい中堅中小企業段階までであろう。従業員のモチベーションを考慮に入れると、大幅な権限委譲を行い、まかせたほうが良好なパフォーマンスを示すことは、みな経験的に熟知していることだ。
このときのトップの役目とは、最終責任をとる取ることに尽きる。それが器の大きなリーダーとして尊敬される要素であり、またトップの器次第でその組織の力量も決まってくる。
とはいえ、戦前の日本陸軍の将軍によくみられたような、部下の少壮将校に任せっぱなしというのでは役割を果たしたことにはならない。こういうトップはおうおうにして、最終責任を回避して部下に責任をなすりつける者が多いことは旧軍だけではない。これも組織人なら経験から多く観察していることだろう。
大きな方向性、すなわちグランド・ストラテジー(=大戦略)を指し示すのはトップの役割であること、これは洋の東西を問わず共通であるといえよう。
書いているうちに、話は経営組織論にすべってしまったが、すべての行為は後世の「歴史の審判」の対象となること、これをしっかり意識した上で、事には臨みたいものである。
P.S.
ちょうどこの投稿でマイ・ブログの100本目の記事となった。ある一定量を超えると、それが閾値(threshold)となり、量が質の転換を促すという「量質転換の法則」の存在が想起される。次の100本では、確実に質的レベルが向上することを期待したいものだ。いや、法則どおりならそうなっているハズである。

■「勝者」すら「歴史の裁き」から逃れることはできない■
昭和20年(1945年)、疎開先で竹槍での本土決戦を覚悟していた12歳の「少年」が人生で抱え続けた疑問、「大東亜戦争とはいったい何であったのか?」、「アメリカには戦争責任がないのか?」に、のちに朝日新聞社記者となった74歳の「少年」が62年後に根本的に考え抜き、解答すべく試みた記録である。
しかし、著者が後書きで述懐するように、「勉強すればするほど、考えれば考えるほど、あの戦争は不可解きわまりなく思えてくる。であるが故に筆者は今後もずっと、あれは何だったのかと考え続けていくほかない。日本人の間では多分、幾世代を超えてあの戦争への問いが絶えることはないのではないか」(P.187)。
問いは決して終わることはない。
本書は、したがって、何らかの結論を導き出す本ではない。著者が渾身の力を振り絞って書いた本書は、著者自身の追求の姿勢を示すことで、読者自身にも同じ問い繰り返すよう促している本である。
著者の姿勢は、大東亜戦争の「勝者」となったアメリカが、日本占領中に、自分たちの好きなように振る舞った行動には、必ずや「歴史の審判」が下されるはずであるという予感、いや確信である。
これは著者にとってだけでなく読者にとっても、戦慄にみちた予言であるとともに、ある種の救いともなるであろう発言だ。
著者のいうことに耳を傾けてみよう。
著者は、12歳のときに抱いた疑問を出発点に考えてきたので、文中でも自らを「少年」として記している。
「・・・「勝者の裁き」を躊躇する判断力が連合国軍側にあったなら、長いこと歴史は彼らに味方しただろう。しかし、原子爆弾投下や東京裁判などを犯したために、米国あるいは連合国はやがて必ず歴史の裁きを、それも未曾有の断罪性を伴った形で受けることになると少年は確信している」(P.161)。
そして著者の追求は、米国を含む連合国の背後に、西洋文明そのもの野蛮性にも及ぶ。
「・・そして調べるほどに、いずれの現象にも自身の主義、理念、文化を絶対視し、異質を否定するという共通性が貫いていることが分かってくる。第三章で見たように、人体実験を極大化してまで根こそぎ破壊手段の高度化に邁進しようとした米国の原子爆弾開発投下史も、自身を絶対化するこの衝動の延長線上にあるのだろう。連合国つまりは米国の日本占領史の頁を繰っていくうちに、少年はGHQの日本改造実験も西洋文明のこのような特質の現れでないかとみた」(P.174)。
しかし返す刀で、敗戦後占領軍におべっかを使い、醜悪な姿を見せていたた日本人へにも手厳しい批判のまなざしを向ける。
「・・やがていつかは、あの絶対的軍事力に支配された被占領期の対米奴隷根性も日本人の間から消えるのだろう。しかし、その時に日本人は被占領期の先祖の姿に嫌悪をもよおし、GHQへの阿諛追従(あゆついしょう)も、対日無差別絨毯爆撃指揮者への勲一等叙勲も弾劾されずにはすまないと予感する」(P.99)。
最期に著者はこういっている。
「日本人は過去を直視しないどころか忘れ去っているという評も日本の内外にあるが、冗談ではない。忘れるどころか、戦後半世紀以上も問い、直視し続けてきたし、今も将来もそうであろう。本を含めてさまざまな媒体があの戦争に迫ろうと努めている状況を観察しただけでもそのことは明瞭である。
やがて、いつの日か世界の人々は日本人のこの一面に深刻な印象を受けるのではないか。そして世界の人たちも、あれは何だったのだろうかと考え始める時がくるように、筆者には思えてならない」(P.187)と締めくくる。
私にはこの著者の確信に満ちた予言が、かならず実現する日が、そう遠くないうちに来るのではないかという予感がある。
勝利者といえども、「歴史の裁き」から逃れることはできないからだ。
著者自身はその日のことをしっかりと見届けることはできないかもしれない。しかしこうして文字として後生に残したことは、きわめて意義のあることだ。
そうだその通りだ、と受け止める人が、日本人にも日本人以外にも必ずや現れることだろう。
■bk1書評「「勝者」すら「歴史の裁き」から逃れることはできない」投稿掲載(2009年8月19日)
<書評への付記>
元朝日新聞記者が、朝日新書という朝日新聞社系列の出版社から「大東亜戦争」と題した本を書く、このこと自体が実は興味深い。
一般に朝日新聞というと産経新聞の対極にある新聞社とみなされているが、個々の記者についていえば、必ずしも特定の色に染まっているわけではないのである。
これは朝日新聞出身の丸山静夫や稲垣武といったノンフィクション作家の作品を読んでみればわかる(・・稲垣武は朝日新聞的なものを徹底的に批判しているが)。
本来ジャーナリストはかくあるべし、という理想をある意味で体現している良質な人たちなのであろう。もちろん今日のサラリーマン化した記者たちとは、まったくもって対極の存在である。
著者が本書の中で触れている象徴的な問題が3つある。
①米内光政(よない・みつまさ)元首相・海相、②辻政信元大佐、③ヤルタ密約情報隠蔽疑惑、の3つである。
②についてはこのブログでも触れてきたので省略する。誤解があってはいけないが、辻政信的な極端な出世主義者の存在と、それを許してきた陸軍上層部組織に大きな問題があったことには、私もまったく異論はない。
問題は①についてである。すでにブログでも書いたが、「海軍神話」の核のひとつが終戦工作にも関与したといわれる米内光政だが、大東亜戦争の開戦以前、陸軍が主張する中国国民党との和平工作継続を否定し、日中戦争拡大を推進、日本破滅の道を敷いた張本人として著者は糾弾している。この点については、「文藝春秋」での座談会を新書化した『昭和陸海軍の失敗』(文春新書)で、1960年生まれの文芸評論家・福田和也が指摘しているように、米内光政と海軍という組織の問題であることは否定できない。
福田和也が指摘するように、ひろく日本国民全体から徴兵された兵士によって構成された陸軍が、ある意味デモクラティックな組織であったことは当然といえば当然であろう。これに対して、少数精鋭の海軍は、将校以上と下士官以下を厳然と区別した英国流の階級社会を反映した文字通りの上意下達の組織であり、昭和時代には下克上の傾向すらもっていた陸軍と比較すると、デモクラティックとはほど遠い存在であったことも否定できない。
しかも少ない人数の将校によって構成される海軍指導部が、きわめて内輪の論理によって動いていた閉じた組織であったことも、サイレントネイビーという表現に象徴される、内輪でのかばい合いという悪弊を生み出した原因の一つであるともいえる。
戦後日本がものづくりによって復興し、経済成長を達成したのは、現場中心主義による、限りなく陸軍的な、デモクラティックな組織運営が背景にあったということもできるだろう。それだけ、日本人にはフィットした組織形態であるともいうるわけだ。
これに対して海軍組織は、ボスがいっさいすべてを仕切り、参謀はボスのアシストをするための存在であり、命令系統が完全な上意下達型組織である米国の企業経営そのものである。日本人にはあまりフィットしない組織形態であることはいうまでもない。日本は上意下達の反対、すなわち下意上達、ふつうに表現すれば、現場で改善活動を行うボトムアップ型組織のほうがフィットしている。
戦史にも詳しい、経営学者の野中郁次郎は、日本型組織の心髄は、ミドル・アップ&ダウンだといっている。ミドルマネージャーの力量ですべてが左右される組織形態である点、これは実は戦前の日本陸軍そのものである。トップリーダーが強く求められているというのが、マスコミの論調だが、実は日本の企業組織の大半は、ミドルが参謀として、またあるいは現場マネージャーとして企画立案、そして実行している組織がもっとも強い。
日本ではトップが強いリーダーシップを発揮しなければならないのは創業段階のベンチャーか、せいぜい中堅中小企業段階までであろう。従業員のモチベーションを考慮に入れると、大幅な権限委譲を行い、まかせたほうが良好なパフォーマンスを示すことは、みな経験的に熟知していることだ。
このときのトップの役目とは、最終責任をとる取ることに尽きる。それが器の大きなリーダーとして尊敬される要素であり、またトップの器次第でその組織の力量も決まってくる。
とはいえ、戦前の日本陸軍の将軍によくみられたような、部下の少壮将校に任せっぱなしというのでは役割を果たしたことにはならない。こういうトップはおうおうにして、最終責任を回避して部下に責任をなすりつける者が多いことは旧軍だけではない。これも組織人なら経験から多く観察していることだろう。
大きな方向性、すなわちグランド・ストラテジー(=大戦略)を指し示すのはトップの役割であること、これは洋の東西を問わず共通であるといえよう。
書いているうちに、話は経営組織論にすべってしまったが、すべての行為は後世の「歴史の審判」の対象となること、これをしっかり意識した上で、事には臨みたいものである。
P.S.
ちょうどこの投稿でマイ・ブログの100本目の記事となった。ある一定量を超えると、それが閾値(threshold)となり、量が質の転換を促すという「量質転換の法則」の存在が想起される。次の100本では、確実に質的レベルが向上することを期待したいものだ。いや、法則どおりならそうなっているハズである。
2009年8月21日金曜日
bk1「書評の鉄人~列伝~」というコーナーで特集を組んでいただきました!
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以前から書評の投稿を行ってきた「オンライン書店ビーケーワン(bk1)」より、「書評の鉄人」なるタイトルの認定を受けたことは、すでに7月10日のブログに書いたとおりです。
今回「書評の鉄人~列伝~」というコーナーで、特集という形で"サトケン"の紹介をしていただきました。
本日8月21日付の記事に、以下のコメントが載っているので転載させていただきます(・・毎週更新されるコラムなので、1週間後には過去の文章はアーカイブに移動してしまいます。写真として記録しておくこととしました)。

あらためて自分がこれまで書いた書評を読み直すと、われながらいいこといってるねー(笑)、なんて自画自賛したくなりますが、実際は、ささっと書けたものと、そうでないものといろいろあります。
基本的には、読んでつまらないと思った本の書評は書きません。新刊本ではなくても、よいと思った本だけ書評を書いています。
できるだけ、著者の思いに寄り添った形で読み解いた上で、その本を一度も読んだことのない人に紹介する、というスタンスで書こうと思っているので、どうしても書くと長くなりがちなのですが、もう少し簡潔にまとめるようにしないといけないな、と思っています。
文章を書くということは決して簡単なことではないですねー。
ハイっ、精進あるのみ!!
以前から書評の投稿を行ってきた「オンライン書店ビーケーワン(bk1)」より、「書評の鉄人」なるタイトルの認定を受けたことは、すでに7月10日のブログに書いたとおりです。
今回「書評の鉄人~列伝~」というコーナーで、特集という形で"サトケン"の紹介をしていただきました。
本日8月21日付の記事に、以下のコメントが載っているので転載させていただきます(・・毎週更新されるコラムなので、1週間後には過去の文章はアーカイブに移動してしまいます。写真として記録しておくこととしました)。
このコーナーでは、当店が誇る「書評の鉄人」の方々をお一人ずつ紹介していきます。
第187回は“サトケン”さん。人文書他ノンフィクションを中心に書評を書かれている方です。視野の広さと体験の厚みを感じさせる、力強い文章です。人生と本との悠然とした対話を聞いているようです。
書評の鉄人列伝 第187回 “サトケン”さん
“サトケン”さんからのコメント
本のない人生なんて考えられません!自然科学ふくめて、ありとあらゆるジャンルの本を読んできた「活字中毒者」です。本とパソコン、そしてCDとDVDが自分にとっては何よりも「生きる糧」になっています。
自分が面白いと思った本、読んで栄養になった本、皆さんにもぜひ読んでほしいなと思う本を紹介しています。
“サトケン”さんの自己紹介
アラフォー男性ビジネスマンです。趣味は旅に読書、うまいもの食べてうまい酒を飲むこと。自分でも料理つくります。美術・音楽・映画など関心は無限、知的好奇心のかたまりです。
“サトケン”さんのサイト
「つれづれなるままに」
“サトケン”さんの書評一覧は こちら
あらためて自分がこれまで書いた書評を読み直すと、われながらいいこといってるねー(笑)、なんて自画自賛したくなりますが、実際は、ささっと書けたものと、そうでないものといろいろあります。
基本的には、読んでつまらないと思った本の書評は書きません。新刊本ではなくても、よいと思った本だけ書評を書いています。
できるだけ、著者の思いに寄り添った形で読み解いた上で、その本を一度も読んだことのない人に紹介する、というスタンスで書こうと思っているので、どうしても書くと長くなりがちなのですが、もう少し簡潔にまとめるようにしないといけないな、と思っています。
文章を書くということは決して簡単なことではないですねー。
ハイっ、精進あるのみ!!
2009年8月20日木曜日
タイのあれこれ(5)-ドイツ風ビアガーデン
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ジョッキで飲む生ビール、これは夏のビアガーデンだけでなく、日本では居酒屋でも一年をとおして味わえる大きな楽しみである。
ところが、このジョッキで生ビールという飲み方は決して世界標準ではないのだ。
1990年に生まれて初めて米国に住んでみて驚いたことは、ビアガーデンがない(!)ということだった。
米国人は、ビールを飲むことは飲むが、中瓶サイズのビールを(・・それもやたら Bud Light などという水みたいなのが多いが)、立ち飲みでラッパ飲みすることが多い。この1本のことを a shot といい、何ショット飲ったか競い合ったりする。
スーパーマーケットでもこの中瓶サイズのガラス瓶が半ダース(=6本)で売られていることが多い。日本と違って缶ビールというものがあまりない。値段はその当時、US1.99 なんていうのが多かったが今ではどうか。
私は米国のビールは薄くて嫌いだったので、いつもミニ冷蔵庫にはメキシコの Corona を常備していた。
ニューヨーク州に住んでいたのだが、21歳以下には酒は売らず、比較的年齢より若く見られがちなアジア人は、時にはライセンスの提示を求められる。しかも「禁酒法」の名残で日曜日は酒類の販売は禁止、全体的にあまり酒を飲まない風土があったように思う。これはニューオーリンズなどフランス系住民の多い都市とは大きな違いである。
ラッパ飲みといえば余談だがロシアもそうで、モククワでも朝からスーツ着たビジネスマンがビールをラッパ飲みしているのには驚かされる。そういえば、迎え酒だといって朝からビールを飲むロシア人もいた。とくに男性がウォッカをよく飲むロシアは基本的に「泥酔文化圏」に属しているので、この点に関していえば、ヨーロッパというよりもモンゴル的である。
日本の場合は、戦前からドイツ風のビアガーデンがあり、東京でいえば「銀座ライオン」などはウェブサイトによれば1900年(明治32年 !)営業開始とある。和製英語でビアホールというが、ビアガーデンは米国ではなくドイツからもたらされてものではないだろうか。
ドイツ、それも南ドイツ・バイエルンの州都ミュンヘンなどが、日本人のイメージするビアガーデンだろう。ドイツ語ではビアガーデンのことは Biergarten という。そのまんまである。
有名な Hofbrau という店は大ジョッキで生ビールを飲める店だが、第一次大戦から復員して政治活動に関わっていたアドルフ・ヒトラーがここで大ジョッキを一気飲みしてから大演説し、「ミュンヘン一揆」を開始した場所として有名である(・・一気飲みかどかうかは不明)。

写真は、北ドイツ・ハノーファーのメッセ会場に常設されている日本でもライセンス生産されているので有名な Loewenbrau(レーヴェンブロイ)ハウスで、南ドイツのバイエルン人というのが本当にビール好きだな、と感心させらる。
毎年10月にミュンヘンで開催されるオクトーバー・フェスト(Oktoberfest)には前から行きたいと思っているのだが、なかなか実現しない。ぜひ一度はいってみたいものだ。
ドイツ流の、というか日本流のビアガーデンというのはドイツや日本しかないのかな、と思っていたら、実はアジアでもタイのバンコクにはビアガーデンがあるのだ。
バンコク市内にもいくつかあるのだが、いずれもそんなに古くからある業態ではないようだ。

写真は、1999年創業の Tawandang German Beer Brewery の店内で撮影したメニューだが、ここでは本格的なドイツビールとドイツ料理を食べることができ、しかも舞台では無料でショーを見ることができるという施設で、バンコクのミドルクラスのお客さんでいつもほぼ満席になっていた。
キリンビールの調査によれば、2007年現在、タイは現在世界第17位の消費量で、日本の総消費量の3割程度、タイではビールはワインなど他の酒類と違って酒税の税率が低いので、大衆的なアルコール飲料ではなんといってもビールが一番である。この背景があってこそ、地場のビールではなく、本場ドイツのビールが飲めるというのがウリのビアガーデンは人気があるのだろう。
なおタイでは、ドイツとの合弁企業によってソーセージやベーコンが生産されており、なかなか味は良いということを付け加えておく。

このほか、バンコク市内中心部ルンピニにある常設会場ナイトバザールでもドイツビールを各種飲むことができる(写真)。複数で飲みに行く場合、生ビールのピッチャーを注文するのがよい。ここにはタイ人だけでなく、世界各地からの観光客も多くやってくる。日本と比べると、ほぼ一年中暑いタイなので、こういう施設があるのは実にありがたい。
このナイトバザール、ところがつねに存続の危機にさらされている。土地が王室財産管理局の所有で、正式な賃貸契約が切れているためである。土地収用にかんする強制執行の公告が新聞にでたが、結局実行されなかった。すでに重要な観光資源となってしまっているためであろう。
お釈迦様の生まれたルンピニ(Lumphini:ネパールのルンピニからとったネーミング)でナイトバザールというのも不思議な感覚だ。まあ王宮から出る前のシッダールタ王子と思えばよろしいか。

なおタイにはふつうの飲食店にもビアガールという広告宣伝媒体がおり、日本ではバドガールしかみないが、バンコクでは、地場のビア・シン(=シンハ・ビール)、ビア・チャーン(=象さんビール)のほか、シンガポールのタイガー・ビア、オランダのハイネケンなど色とりどりである。
ときにはモデル並の容姿の女性もおり、男性にとっては楽しみの一つなのではあるが、すすめられるままに何本もビアガール指定の銘柄を注文することになるので、果たしていかがなものか、という感もなくはない。ちなみに写真はハイネケン・ガールで、中華風タイスキの店にて。
ただし、タイには仏教の教えに基づいて米国以上に厳しい「禁酒法」が存在する。仏教の五戒のひとつは不飲酒戒(ふおんじゅかい)、すなわち酒を飲んではいけない、というもので、上座仏教の世界では在家信者もこの戒律をまもることが求められる。とはいえ実際にはまもり難いのは人のサガであり、法律での規制が避けられないということだろう。
毎日午後2時から5時までは酒類の販売は、なんと法律で禁止(!)されており、仏教関連の祝祭日はもちろん酒類販売は禁止、王室関連の祝祭日も同様。また奇妙なことには「選挙法」によって投票日の前日午後5時から翌日投票が終わる時間まで酒類販売は飲食店だけでなく、酒類販売店でも禁止されている。タイでは日本以上に古い法律がそのまま生き残っていることも多いのである。
もちろん禁止されているのは販売だけなので、酒類販売禁止時間中や、禁止日にも自宅で飲むのは不問とされる。しかし、飲食店に入って食事してもビールが飲めないというのもなかなかつらいもので、対処するのがなかなか大変な慣習なのである。うっかりレバノン料理店に入って料理注文してから、アルコールを飲めないことを知るのと同じ状況だ。
なお、前回2006年のクーデターで成立した暫定政権は、酒類販売広告を全面的に禁止すると主張していたのだが、結局のところ軍事政権ですらそれは不可能であった。ビール業界からの巨力なロビー活動があったためらしい。ビアガールは現在でも健在である。
さて、最近こういうニュースを目にした。
NNAというビジネスニュース専門会社の記事によれば、なんと本家本元のドイツでは「ビール離れ進む=上期の販売量は過去18年で最低」というらしいのだ。引用させていただく。
ドイツでビール離れというのは、日本で日本酒離れというよりもインパクトが大きそうだ。
先にみたキリンビールの調査によれば、一人あたりのビール消費量ではチェコが世界一だが、一般的には何となくドイツ人=ビールみたいな固定観念があると思う。実際はドイツ人は世界第3位。しかし、そのドイツ人がアルコール自体あまり飲まなくなってきているというのだからね。
確かにジョッキでビール飲んでバカ騒ぎしているのは、ドイツでも中高年以上のような気がしないでもないなー。ライン地方はワインもよく飲むしね。
まあ先進国ではどこでも、そういう傾向にあるようで・・・

ジョッキで飲む生ビール、これは夏のビアガーデンだけでなく、日本では居酒屋でも一年をとおして味わえる大きな楽しみである。
ところが、このジョッキで生ビールという飲み方は決して世界標準ではないのだ。
1990年に生まれて初めて米国に住んでみて驚いたことは、ビアガーデンがない(!)ということだった。
米国人は、ビールを飲むことは飲むが、中瓶サイズのビールを(・・それもやたら Bud Light などという水みたいなのが多いが)、立ち飲みでラッパ飲みすることが多い。この1本のことを a shot といい、何ショット飲ったか競い合ったりする。
スーパーマーケットでもこの中瓶サイズのガラス瓶が半ダース(=6本)で売られていることが多い。日本と違って缶ビールというものがあまりない。値段はその当時、US1.99 なんていうのが多かったが今ではどうか。
私は米国のビールは薄くて嫌いだったので、いつもミニ冷蔵庫にはメキシコの Corona を常備していた。
ニューヨーク州に住んでいたのだが、21歳以下には酒は売らず、比較的年齢より若く見られがちなアジア人は、時にはライセンスの提示を求められる。しかも「禁酒法」の名残で日曜日は酒類の販売は禁止、全体的にあまり酒を飲まない風土があったように思う。これはニューオーリンズなどフランス系住民の多い都市とは大きな違いである。
ラッパ飲みといえば余談だがロシアもそうで、モククワでも朝からスーツ着たビジネスマンがビールをラッパ飲みしているのには驚かされる。そういえば、迎え酒だといって朝からビールを飲むロシア人もいた。とくに男性がウォッカをよく飲むロシアは基本的に「泥酔文化圏」に属しているので、この点に関していえば、ヨーロッパというよりもモンゴル的である。
日本の場合は、戦前からドイツ風のビアガーデンがあり、東京でいえば「銀座ライオン」などはウェブサイトによれば1900年(明治32年 !)営業開始とある。和製英語でビアホールというが、ビアガーデンは米国ではなくドイツからもたらされてものではないだろうか。
ドイツ、それも南ドイツ・バイエルンの州都ミュンヘンなどが、日本人のイメージするビアガーデンだろう。ドイツ語ではビアガーデンのことは Biergarten という。そのまんまである。
有名な Hofbrau という店は大ジョッキで生ビールを飲める店だが、第一次大戦から復員して政治活動に関わっていたアドルフ・ヒトラーがここで大ジョッキを一気飲みしてから大演説し、「ミュンヘン一揆」を開始した場所として有名である(・・一気飲みかどかうかは不明)。
写真は、北ドイツ・ハノーファーのメッセ会場に常設されている日本でもライセンス生産されているので有名な Loewenbrau(レーヴェンブロイ)ハウスで、南ドイツのバイエルン人というのが本当にビール好きだな、と感心させらる。
毎年10月にミュンヘンで開催されるオクトーバー・フェスト(Oktoberfest)には前から行きたいと思っているのだが、なかなか実現しない。ぜひ一度はいってみたいものだ。
ドイツ流の、というか日本流のビアガーデンというのはドイツや日本しかないのかな、と思っていたら、実はアジアでもタイのバンコクにはビアガーデンがあるのだ。
バンコク市内にもいくつかあるのだが、いずれもそんなに古くからある業態ではないようだ。

写真は、1999年創業の Tawandang German Beer Brewery の店内で撮影したメニューだが、ここでは本格的なドイツビールとドイツ料理を食べることができ、しかも舞台では無料でショーを見ることができるという施設で、バンコクのミドルクラスのお客さんでいつもほぼ満席になっていた。
キリンビールの調査によれば、2007年現在、タイは現在世界第17位の消費量で、日本の総消費量の3割程度、タイではビールはワインなど他の酒類と違って酒税の税率が低いので、大衆的なアルコール飲料ではなんといってもビールが一番である。この背景があってこそ、地場のビールではなく、本場ドイツのビールが飲めるというのがウリのビアガーデンは人気があるのだろう。
なおタイでは、ドイツとの合弁企業によってソーセージやベーコンが生産されており、なかなか味は良いということを付け加えておく。

このほか、バンコク市内中心部ルンピニにある常設会場ナイトバザールでもドイツビールを各種飲むことができる(写真)。複数で飲みに行く場合、生ビールのピッチャーを注文するのがよい。ここにはタイ人だけでなく、世界各地からの観光客も多くやってくる。日本と比べると、ほぼ一年中暑いタイなので、こういう施設があるのは実にありがたい。
このナイトバザール、ところがつねに存続の危機にさらされている。土地が王室財産管理局の所有で、正式な賃貸契約が切れているためである。土地収用にかんする強制執行の公告が新聞にでたが、結局実行されなかった。すでに重要な観光資源となってしまっているためであろう。
お釈迦様の生まれたルンピニ(Lumphini:ネパールのルンピニからとったネーミング)でナイトバザールというのも不思議な感覚だ。まあ王宮から出る前のシッダールタ王子と思えばよろしいか。

なおタイにはふつうの飲食店にもビアガールという広告宣伝媒体がおり、日本ではバドガールしかみないが、バンコクでは、地場のビア・シン(=シンハ・ビール)、ビア・チャーン(=象さんビール)のほか、シンガポールのタイガー・ビア、オランダのハイネケンなど色とりどりである。
ときにはモデル並の容姿の女性もおり、男性にとっては楽しみの一つなのではあるが、すすめられるままに何本もビアガール指定の銘柄を注文することになるので、果たしていかがなものか、という感もなくはない。ちなみに写真はハイネケン・ガールで、中華風タイスキの店にて。
ただし、タイには仏教の教えに基づいて米国以上に厳しい「禁酒法」が存在する。仏教の五戒のひとつは不飲酒戒(ふおんじゅかい)、すなわち酒を飲んではいけない、というもので、上座仏教の世界では在家信者もこの戒律をまもることが求められる。とはいえ実際にはまもり難いのは人のサガであり、法律での規制が避けられないということだろう。
毎日午後2時から5時までは酒類の販売は、なんと法律で禁止(!)されており、仏教関連の祝祭日はもちろん酒類販売は禁止、王室関連の祝祭日も同様。また奇妙なことには「選挙法」によって投票日の前日午後5時から翌日投票が終わる時間まで酒類販売は飲食店だけでなく、酒類販売店でも禁止されている。タイでは日本以上に古い法律がそのまま生き残っていることも多いのである。
もちろん禁止されているのは販売だけなので、酒類販売禁止時間中や、禁止日にも自宅で飲むのは不問とされる。しかし、飲食店に入って食事してもビールが飲めないというのもなかなかつらいもので、対処するのがなかなか大変な慣習なのである。うっかりレバノン料理店に入って料理注文してから、アルコールを飲めないことを知るのと同じ状況だ。
なお、前回2006年のクーデターで成立した暫定政権は、酒類販売広告を全面的に禁止すると主張していたのだが、結局のところ軍事政権ですらそれは不可能であった。ビール業界からの巨力なロビー活動があったためらしい。ビアガールは現在でも健在である。
さて、最近こういうニュースを目にした。
NNAというビジネスニュース専門会社の記事によれば、なんと本家本元のドイツでは「ビール離れ進む=上期の販売量は過去18年で最低」というらしいのだ。引用させていただく。
ビール離れ進む=上期の販売量は過去18年で最低
ドイツで年々、ビールの消費量が減っている。連邦統計庁が発表した2009年1月~6月の国内販売量は493万キロリットルとなり、前年同期比4.5%減少した。統計の始まった1991年以降で最低を記録している。
ドイツ醸造者連盟のペーター・ハーン代表によると、悪天候によりバーベキュー・パーティが中止されたり、ビアガーデンに来る人が減ったためという。また、飲食店やバーでの禁煙法が全国に広がり、生ビールの販売が25%減るなど大打撃となっている。ビールをレモネードやコーラなどで割ったミックスビールは若者に人気があるが、これも前年同期比7.4%減となった。
アルコールが体に害を与えることをアピールする健康政策や、アルコール飲料の広告禁止の導入検討など、国の政策に同連盟は不満を表明。ビールのミックスドリンクの開発に力を入れるなど、ビール業界の生き残りに尽力している。
ドイツでビール離れというのは、日本で日本酒離れというよりもインパクトが大きそうだ。
先にみたキリンビールの調査によれば、一人あたりのビール消費量ではチェコが世界一だが、一般的には何となくドイツ人=ビールみたいな固定観念があると思う。実際はドイツ人は世界第3位。しかし、そのドイツ人がアルコール自体あまり飲まなくなってきているというのだからね。
確かにジョッキでビール飲んでバカ騒ぎしているのは、ドイツでも中高年以上のような気がしないでもないなー。ライン地方はワインもよく飲むしね。
まあ先進国ではどこでも、そういう傾向にあるようで・・・
2009年8月19日水曜日
書評 『インド人大富豪 19の教え』
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本田健の『ユダヤ人大富豪の教え-幸せな金持ちになる17の秘訣-』(だいわ文庫、2006 原本2003)、甘粕正の『客家大富豪 18の金言』(講談社、2007)と続いた「大富豪もの」だ、次は世界の三大商業民族とよばれるインド人となるのも当然だろう。
この二冊が出版された間には4年間がある。次は圧縮して2年、すなわち2009年の出版か。秘訣や教えの数も 17、18と来たから、法則性からいえば次の数字は19だな。「・・の秘訣」、「・・の教え」・・・なーんだ、今回もまた「・・の教え」と来たか。
な~んちゃて、『インド人大富豪19の教え』なんて本は、実は存在しないのだ(笑)。でも、いかにもありそうなタイトルでしょ?
本田健の本は、いわゆる自己啓発本で、ユダヤ人大富豪も架空の存在、のようだ。トンデモ本とまではいわないが、昔よくあった「反ユダヤ本」の裏返しといってよいだろう。さすがに小賢しいので、イザヤ・ベンダサン(=山本七平)みたいに、自らユダヤ人を名乗るなんて愚かなことは絶対にしないね。お見事!
これは amazon の書評をみればよくわかる。賛否両論が並んでいるが、冷静に理知的に対処できる人間と、素直に文字通り受け取って、感動して人にも薦めてしまう「おめでたい人間」の二種類がこの世に存在することがわかる。
いわゆる「ユダヤ本」で読むに値する数少ないビジネス本は、かつてユダヤ人から"銀座のユダヤ人"と命名された藤田田(ふじた・でん)の『ユダヤの商法』(ワニブックス、1972)くらいだろう。これは筋金入りの「商人」が書いたビジネス本である。日本の敗戦後、米国占領軍がらみの商売でのし上がった、東大法学部卒には珍しい金儲けの天才であった。
マクドナルドのハンバーガー、トイざラス・・と手がけたビジネスはすでに米国で成功したビジネスを日本に導入したもの。抜群の英語力を駆使した「時間差×空間差」商法である。まさに資本主義の原理そのものに忠実であるといえる。直弟子の孫正義は、この手法を忠実になぞって「タイムマシン経営」と命名、成功をおさめてきた。携帯電話事業という"実業"に転身しようとした孫さんも、最近は苦戦しているようだが。
ちなみに藤田田というのは本名で、キリスト教徒だった母親が、大きくなっても悪いことをしないようにと、息子のクチに十字架を入れて田と名付けたというエピソードがある(出典不明)。
また息子の一人には元と名付けたが、これはゲンと読ませる。英語にすると Gen Fujita となるので、勝手にみな将軍だと思って尊敬してくれるだろうというのがその心。ウソかホントか知らないが、藤田田自身がそう著書に書いている。
甘粕正の「客家大富豪」も、実在の人物かどうかは不明、検証のしようがない。満洲がらみというストーリー構成なので、甘粕というのもペンネームなのか、本名なのか?
株の世界は、いわゆる"チミモーリョーがバッコする(=魑魅魍魎が跋扈する)"世界なので、アウトサイダーには真偽のほどは判定しかねる。昔から「兜町の風雲児」とやらが出現するが、たいていは化けの皮がはがれて消えてゆく。
客家(ハッカ)は、中国の華人系少数民族で、彼ら自身の伝説では中間の地を追われて、南へ南へと流転を続けた「東洋のユダヤ人」である。中国共産党の鄧小平、台湾の李登輝、シンガポールのリー・クワンユー、タイのタクシン・チナワットなどみな客家である。これは事実である。
この本のなかで紹介されている「客家の教え」は、きわめて面白くてためになる。せっかくなので紹介しておこう。
金儲けは人生観、そして処世術そのものであることがわかる。
さーて、『インド大富豪 19の教え』だ。
中身はまだない。いやすでに誰か準備中かもしれぬ。「柳の下のドジョウ」は何匹までなら可能なんだろうねえ(笑)
もしほんとうに『インド人大富豪19の教え』がでたら、それこそお笑いだな。
その次は、『アルメニア人大富豪20の教え』かい? しかしまあこのタイトルじゃ売れそうもないな。アルメニア人商人がユダヤ商人顔負けにしたたかだ、という事実はふつうの日本人は知らないだろうしね。
それじゃあ、『アラブ人大富豪21の教え』でいってみるか!?
お粗末でした。
本田健の『ユダヤ人大富豪の教え-幸せな金持ちになる17の秘訣-』(だいわ文庫、2006 原本2003)、甘粕正の『客家大富豪 18の金言』(講談社、2007)と続いた「大富豪もの」だ、次は世界の三大商業民族とよばれるインド人となるのも当然だろう。
この二冊が出版された間には4年間がある。次は圧縮して2年、すなわち2009年の出版か。秘訣や教えの数も 17、18と来たから、法則性からいえば次の数字は19だな。「・・の秘訣」、「・・の教え」・・・なーんだ、今回もまた「・・の教え」と来たか。
な~んちゃて、『インド人大富豪19の教え』なんて本は、実は存在しないのだ(笑)。でも、いかにもありそうなタイトルでしょ?
本田健の本は、いわゆる自己啓発本で、ユダヤ人大富豪も架空の存在、のようだ。トンデモ本とまではいわないが、昔よくあった「反ユダヤ本」の裏返しといってよいだろう。さすがに小賢しいので、イザヤ・ベンダサン(=山本七平)みたいに、自らユダヤ人を名乗るなんて愚かなことは絶対にしないね。お見事!
これは amazon の書評をみればよくわかる。賛否両論が並んでいるが、冷静に理知的に対処できる人間と、素直に文字通り受け取って、感動して人にも薦めてしまう「おめでたい人間」の二種類がこの世に存在することがわかる。
いわゆる「ユダヤ本」で読むに値する数少ないビジネス本は、かつてユダヤ人から"銀座のユダヤ人"と命名された藤田田(ふじた・でん)の『ユダヤの商法』(ワニブックス、1972)くらいだろう。これは筋金入りの「商人」が書いたビジネス本である。日本の敗戦後、米国占領軍がらみの商売でのし上がった、東大法学部卒には珍しい金儲けの天才であった。
マクドナルドのハンバーガー、トイざラス・・と手がけたビジネスはすでに米国で成功したビジネスを日本に導入したもの。抜群の英語力を駆使した「時間差×空間差」商法である。まさに資本主義の原理そのものに忠実であるといえる。直弟子の孫正義は、この手法を忠実になぞって「タイムマシン経営」と命名、成功をおさめてきた。携帯電話事業という"実業"に転身しようとした孫さんも、最近は苦戦しているようだが。
ちなみに藤田田というのは本名で、キリスト教徒だった母親が、大きくなっても悪いことをしないようにと、息子のクチに十字架を入れて田と名付けたというエピソードがある(出典不明)。
また息子の一人には元と名付けたが、これはゲンと読ませる。英語にすると Gen Fujita となるので、勝手にみな将軍だと思って尊敬してくれるだろうというのがその心。ウソかホントか知らないが、藤田田自身がそう著書に書いている。
甘粕正の「客家大富豪」も、実在の人物かどうかは不明、検証のしようがない。満洲がらみというストーリー構成なので、甘粕というのもペンネームなのか、本名なのか?
株の世界は、いわゆる"チミモーリョーがバッコする(=魑魅魍魎が跋扈する)"世界なので、アウトサイダーには真偽のほどは判定しかねる。昔から「兜町の風雲児」とやらが出現するが、たいていは化けの皮がはがれて消えてゆく。
客家(ハッカ)は、中国の華人系少数民族で、彼ら自身の伝説では中間の地を追われて、南へ南へと流転を続けた「東洋のユダヤ人」である。中国共産党の鄧小平、台湾の李登輝、シンガポールのリー・クワンユー、タイのタクシン・チナワットなどみな客家である。これは事実である。
この本のなかで紹介されている「客家の教え」は、きわめて面白くてためになる。せっかくなので紹介しておこう。
金儲けは人生観、そして処世術そのものであることがわかる。
<客家大富豪18の金言 より抜粋>
1. 運は親切をした相手の背中から来る
2. 許すことを知れば運命は変えられる
3. 退却は重要な才能なり
4. 何を始めるかに最も時間を費やすべし
5. ビジネスには大義名分が必要なり
6. 準備していなかったチャンスはリスク
7. 小さい約束こそが重要なり
8. 家族を蔑ろにする者は成功せず
9. お金に使われず、お金を働かせるべし
10. 50人の仲間が成功の核心となる
11. 金鉱ではスコップを売るべし
12. 安売りには必ず終わりがやってくる
13. 嫉妬は成功の敵、愛嬌は成功の素
14. 物事は因数分解して考えよ
15. 汗ではなく考えることこそが富を生む
16. 笑顔はコストゼロの最良戦略
17. 「ありがとう」は必ず声に出すべし
18. 欲望に忠実になるためにこそ禁欲的に
さーて、『インド大富豪 19の教え』だ。
中身はまだない。いやすでに誰か準備中かもしれぬ。「柳の下のドジョウ」は何匹までなら可能なんだろうねえ(笑)
もしほんとうに『インド人大富豪19の教え』がでたら、それこそお笑いだな。
その次は、『アルメニア人大富豪20の教え』かい? しかしまあこのタイトルじゃ売れそうもないな。アルメニア人商人がユダヤ商人顔負けにしたたかだ、という事実はふつうの日本人は知らないだろうしね。
それじゃあ、『アラブ人大富豪21の教え』でいってみるか!?
お粗末でした。
2009年8月18日火曜日
「メキシコ20世紀絵画展」(世田谷美術館)にいってみた
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「メキシコ20世紀絵画展」にいってみた。
東京の世田谷美術館にて8月30日まで。主催者はほかにはNHK、NHKエンタープライズ、読売新聞東京本社、メキシコ国立文化芸術審議会、メキシコ国立芸術院。後援は、外務省、メキシコ大使館。
世田谷美術館は今回が初めてだが、美術館の建物自体がひとつの芸術作品といってよい造形で、展示スペースもゆったりとしており、なかなか好感のもてる美術館である。
今年は、「日本メキシコ交流400年」なのだそうだ。その記念行事の一環としての開催だという。
仙台藩の支倉常長が伊達政宗の命を受けて太平洋を渡って、メキシコ経由でヨーロッパに派遣されてから400年、なのだろうと思ってたら、そうではないようだ。
外務省のウェブサイトにはこうある。
支倉常長がメキシコのアカプルコに到着したのは、1613年のことらしい。歴史というものは、調べると意外な事実がわかって面白いものだ。
ところで、ここではメキシコと書いているが、本当はメヒコ(Mexico)というのが正しい名称である。しかしまあ日本では通称メキシコで通っているからそれでよしとしておこう。また一昔前なら、「日本メキシコ交流」などといわず、「日墨交流」といったであろうが、それもまたさておいて、と。
メキシコ絵画といえば何といっても壁画が想起される。少なくとも私の場合はそうである。
シケイロス、リベラ、オロスコといった壁画画家がまず頭に浮かぶ。高校時代にみたシケイロスの壁画の画像には圧倒的な印象を受けたからだ。
今回は東京での小規模美術館での開催である。壁画は建物の一部だから、海外に持ち出して展示することはできないので美術展向きではない。本当はこの「壁画運動」について、美術館としてはパネルでもいいから詳しく解説すべきなのだが・・
メキシコには、米国留学中の1990年の暮れから1991年の1月にかけて1ヶ月かけてメキシコをくまなく旅した。ちょっと寄り道してメキシコのことを書いておく。
セメスターの期末試験を終了したらすぐに寒いニューヨーク州を脱出して、メキシコのリゾート地カンクン(Cancun)へ。友人とフロリダで待ち合わせて一緒にいったのだが、カンクンはまったくもって米国の植民地みたいな俗悪な町で、すぐに嫌気がさし、旅行代理店のすすめもあって、セスナ機でコスメル島(Cosmel)に移動したのは正解だった。ここでスキューバ・ダイビングなどして1週間過ごしたのは、いい思い出である。カリブの海は素晴らしい!
友人とわかれて一人旅でメキシコを回ってみることとした。まずユカタン半島ではマヤ遺跡を見学、一休みしているときに中肉中背の中年とおぼしきメキシコ人からいきなり「あけましておめでとう」と日本語でいわれたのには驚いた。あっけにとられて、「おめでとうございます」と返答しただけで終わってしまったが、もしかしたら彼は日系人だったのだろうか?私はその日が元旦であったことをすっかり失念していたのだ。
メキシコシティ(シウダ・デ・メヒコ)では、先にもふれた壁画を市内のいたるところで見ることができた。メキシコ革命とそれ以後の社会を描いた政治的なモチーフが多いのだが、美術館だけでなく、市庁舎などの建築物の外壁や内部に描かれており、生きた美術というのはあくまdも民衆のためのもので、美術館に飾られるものじゃない、と実感される。ヨーロッパのカトリックの教会内に残されたフレスコ画も同様である。
先年、岡本太郎の壁画「明日の神話」がメキシコで発見されて、日本に里帰りして展示されたが、本来はホテル内の壁画としてオーナーから制作を注文されたものだと聞いている。

原爆が炸裂した瞬間を描いたこの壁画をホテル内に飾ると決めた、メキシコのホテルオーナーというのも考えてみればすごい人だ。ピカソのゲルニカに勝るとも劣らない作品ではある。
結局オーナーは破産してホテルが廃業されたために、壁画そのものが長らく行方不明になっていたというのもすごい話である。そして行方不明だった壁画を執念で発見した岡本敏子さんもめちゃすごい。
このほか、タスコ、オアハカ、グアダラハラなども訪問、クエルナバカでは「日本の26聖人殉教図」を教会内部で見学することもできた。グアテマラ国境近くのサン・クリストバル・デ・ラス・カサスまで足をバスで移動して回ったが、メキシコは実に多様な文化があることを知った旅であった。
回り道をしてしまったが、メキシコ絵画については、ここ数年では、壁画よりも、むしろ女流画家のフリーダ・カーロということになるだろう。
今回の美術展も、初公開のフリーダ・カーロの「メダリオンをつけた自画像」を目玉としてポスターに載せていることからもそれは窺えるが、フリーダ・カーロの作品はこれ一点限りなのであまり期待しない方がいい。タイトルどおり、「メキシコ20世紀絵画」を全体として扱った企画展である。
1991年にメキシコにいったとき、メキシコ市郊外コヨアカンにあるフリーダ・カーロ美術館を楽しみにしていたのだが、いってみたら何とうかつなことか、定休日で入れないのでがっかりした、という経験がある。
映画 『フリーダ』(2002年制作。trailer は YouTube にて視聴可)が公開され、フリーダ・カーロの愛と情熱と芸術の生涯が、女性を中心にひろく知られることになったようで、2003年に開催された「フリーダ・カーロとその時代」展は、東京ではかなりの人出だたようだ。東京で見る機会を逸したので、出張先の大阪で、サントリーミュージアム(天保山)で見ることができたのは幸いだった。フリーダ・カーロの全体像を見ることのできた素晴らしい美術展であった。東京で見るよりは比較的すいていたのではないかと思う。
フリーダ・カーロの絵はグロテスクなまでに自虐的で、受難像としての自画像が多いので、嫌いな人は嫌いだろう。
決してフランス印象派のようなポピュラリティを獲得することはないと思うが、メキシコを代表する画家の一人であることは間違いない。かなり独自な世界を描き続けた人である。

実は、メキシコ市郊外の高級住宅街コヨアカンまでいってみたのは、フリーダ・カーロが主目的ではなく、亡命先のメキシコで暗殺されたトロツキーの旧宅がミュージアムとして保存されており、そこを訪れるのが目的であった。

トロツキーが殺害された当時のままに書斎が保存されており(写真はいずれも私が撮影)、革命家であり、赤軍の生みの親というよりも、亡命先でも次々と旺盛に著作を執筆し続けた著作家としてのトロツキーをうかがうことができた。
1991年1月のこの時点では、いまだソ連は崩壊しておらず(・・8月の夏休み中に旅行先のスペインでモスクワでクーデターが発生したことを知ったことを覚えている。トロツキーの再評価が行われるようになったのはソ連崩壊後である。
その後、岩波文庫で読んだトロツキーの『裏切られた革命』(藤井一行訳、1992)によって、革命後のスターリン統治下ソ連の官僚制にかんするトロツキーの分析の鋭さと、ソ連が崩壊するにいたった理由もよく了解することができた。
私が、山口昌男の『歴史・祝祭・神話』(中公文庫、1978)で知ったトロツキーは、ロシア革命の指導者というよりも、ある種「負け組」として、負の刻印を押された悲劇的な敗者としてのトロツキーである。このトロツキー像が念頭にあって、メキシコにいった際、あえてコヨアカンまでいってみたのだ。
アラン・ドロン主演の映画 『暗殺者のメロディ』(1972年制作)は、原題を The Assassination of Trotsky といい、スターリンの密使によって書斎で殺害されたトロツキーの殺害犯を描いた心理ドラマであるが、1940年8月20日に最終的に暗殺される前にも、画家のシケイロスは殺害未遂事件にも関与しており、芸術と政治が密接にからまっていたのが、20世紀前半のメキシコである。
また、トロツキーはディエゴ・リベラの妻であったフリーダ・カーロとは愛人関係にあり、メキシコ20世紀前半の美術界と共産主義者との関係は、人間関係の面からみても非常に錯綜としている。この点については、映画 『フリーダ』でも扱われていたと記憶している。
私がもっているシケイロス画集(『ファブリ世界名画集87 シケイロス』平凡社、1970)の解説を担当している画家・利根山光人の展示会が、2階で開催されていたのでついでに見る。利根山光人は世田谷在住で、死後作品の多くが世田谷美術館に寄贈されている。
日本の芸術家たちのメキシコとのかかわりも興味深い。メキシコの民芸運動にかかわった北川民次のような人もいる。
今回の美術展は、メキシコ20世紀美術の概要を知るにはいいだろう。私としては、オロスコによる「十字架を自らの手で壊すキリスト」(1943)という一枚の絵を見るためだけでもいく価値があると思った。

スペインによる西洋の植民地300年のくびきを断ち切り、革命によって自らの歴史を取り戻したメキシコ人の自画像ともいえるかもしれない。
もちろんメキシコ国民の大半は熱心なカトリックであり、オロスコ自身の信仰については詳しく知らないが、見る人に強烈なインパクトを与える絵画であることは間違いない。
メキシコについては、ソ連の映画作家セルゲイ・エイゼンシュテイン監督による映画『メキシコ万歳!』(この作品は YouTube で視聴可能)など書きたいことはまだまだある。
エイゼンシュテインがハリウッドからの招待を受けてメキシコで映画撮影をしたのが1930年、未完成のまま放置されていたフィルムだが、メキシコを描いた映画ではもっとも神話的なアプローチで、見る価値のある作品である。
エイゼンシュテインまで書き始めると際限がなくなるので、今回はここらへんでやめておく。
「メキシコ20世紀絵画展」にいってみた。
東京の世田谷美術館にて8月30日まで。主催者はほかにはNHK、NHKエンタープライズ、読売新聞東京本社、メキシコ国立文化芸術審議会、メキシコ国立芸術院。後援は、外務省、メキシコ大使館。
世田谷美術館は今回が初めてだが、美術館の建物自体がひとつの芸術作品といってよい造形で、展示スペースもゆったりとしており、なかなか好感のもてる美術館である。
今年は、「日本メキシコ交流400年」なのだそうだ。その記念行事の一環としての開催だという。
仙台藩の支倉常長が伊達政宗の命を受けて太平洋を渡って、メキシコ経由でヨーロッパに派遣されてから400年、なのだろうと思ってたら、そうではないようだ。
外務省のウェブサイトにはこうある。
「1609年9月、フィリピン諸島総督ロドリゴ・デ・ビベロを長とする一団の船は、ヌエバ・エスパーニャ(当時のスペイン領メキシコ)への帰国途中、千葉県御宿沖で遭難し、村人の献身的な救助により、乗組員317人が救出されました。ビベロ一行は地元城主や村人からの暖かい歓迎を受け、その後、徳川秀忠及び徳川家康に謁見しました。翌年、徳川家康がビベロ帰国のため造らせた船はメキシコに向けて出航。ビベロと共に渡航した京の商人田中勝介他20数名の日本人は、メキシコを訪問した最初の日本人となりました。我が国の時の為政者とメキシコからの政府高官が対面し、初めての会談が行われた意義は大きく、2009年はそれから400年目にあたります」
支倉常長がメキシコのアカプルコに到着したのは、1613年のことらしい。歴史というものは、調べると意外な事実がわかって面白いものだ。
ところで、ここではメキシコと書いているが、本当はメヒコ(Mexico)というのが正しい名称である。しかしまあ日本では通称メキシコで通っているからそれでよしとしておこう。また一昔前なら、「日本メキシコ交流」などといわず、「日墨交流」といったであろうが、それもまたさておいて、と。
メキシコ絵画といえば何といっても壁画が想起される。少なくとも私の場合はそうである。
シケイロス、リベラ、オロスコといった壁画画家がまず頭に浮かぶ。高校時代にみたシケイロスの壁画の画像には圧倒的な印象を受けたからだ。
今回は東京での小規模美術館での開催である。壁画は建物の一部だから、海外に持ち出して展示することはできないので美術展向きではない。本当はこの「壁画運動」について、美術館としてはパネルでもいいから詳しく解説すべきなのだが・・
メキシコには、米国留学中の1990年の暮れから1991年の1月にかけて1ヶ月かけてメキシコをくまなく旅した。ちょっと寄り道してメキシコのことを書いておく。
セメスターの期末試験を終了したらすぐに寒いニューヨーク州を脱出して、メキシコのリゾート地カンクン(Cancun)へ。友人とフロリダで待ち合わせて一緒にいったのだが、カンクンはまったくもって米国の植民地みたいな俗悪な町で、すぐに嫌気がさし、旅行代理店のすすめもあって、セスナ機でコスメル島(Cosmel)に移動したのは正解だった。ここでスキューバ・ダイビングなどして1週間過ごしたのは、いい思い出である。カリブの海は素晴らしい!
友人とわかれて一人旅でメキシコを回ってみることとした。まずユカタン半島ではマヤ遺跡を見学、一休みしているときに中肉中背の中年とおぼしきメキシコ人からいきなり「あけましておめでとう」と日本語でいわれたのには驚いた。あっけにとられて、「おめでとうございます」と返答しただけで終わってしまったが、もしかしたら彼は日系人だったのだろうか?私はその日が元旦であったことをすっかり失念していたのだ。
メキシコシティ(シウダ・デ・メヒコ)では、先にもふれた壁画を市内のいたるところで見ることができた。メキシコ革命とそれ以後の社会を描いた政治的なモチーフが多いのだが、美術館だけでなく、市庁舎などの建築物の外壁や内部に描かれており、生きた美術というのはあくまdも民衆のためのもので、美術館に飾られるものじゃない、と実感される。ヨーロッパのカトリックの教会内に残されたフレスコ画も同様である。
先年、岡本太郎の壁画「明日の神話」がメキシコで発見されて、日本に里帰りして展示されたが、本来はホテル内の壁画としてオーナーから制作を注文されたものだと聞いている。
原爆が炸裂した瞬間を描いたこの壁画をホテル内に飾ると決めた、メキシコのホテルオーナーというのも考えてみればすごい人だ。ピカソのゲルニカに勝るとも劣らない作品ではある。
結局オーナーは破産してホテルが廃業されたために、壁画そのものが長らく行方不明になっていたというのもすごい話である。そして行方不明だった壁画を執念で発見した岡本敏子さんもめちゃすごい。
このほか、タスコ、オアハカ、グアダラハラなども訪問、クエルナバカでは「日本の26聖人殉教図」を教会内部で見学することもできた。グアテマラ国境近くのサン・クリストバル・デ・ラス・カサスまで足をバスで移動して回ったが、メキシコは実に多様な文化があることを知った旅であった。
回り道をしてしまったが、メキシコ絵画については、ここ数年では、壁画よりも、むしろ女流画家のフリーダ・カーロということになるだろう。
今回の美術展も、初公開のフリーダ・カーロの「メダリオンをつけた自画像」を目玉としてポスターに載せていることからもそれは窺えるが、フリーダ・カーロの作品はこれ一点限りなのであまり期待しない方がいい。タイトルどおり、「メキシコ20世紀絵画」を全体として扱った企画展である。
1991年にメキシコにいったとき、メキシコ市郊外コヨアカンにあるフリーダ・カーロ美術館を楽しみにしていたのだが、いってみたら何とうかつなことか、定休日で入れないのでがっかりした、という経験がある。
映画 『フリーダ』(2002年制作。trailer は YouTube にて視聴可)が公開され、フリーダ・カーロの愛と情熱と芸術の生涯が、女性を中心にひろく知られることになったようで、2003年に開催された「フリーダ・カーロとその時代」展は、東京ではかなりの人出だたようだ。東京で見る機会を逸したので、出張先の大阪で、サントリーミュージアム(天保山)で見ることができたのは幸いだった。フリーダ・カーロの全体像を見ることのできた素晴らしい美術展であった。東京で見るよりは比較的すいていたのではないかと思う。
フリーダ・カーロの絵はグロテスクなまでに自虐的で、受難像としての自画像が多いので、嫌いな人は嫌いだろう。
決してフランス印象派のようなポピュラリティを獲得することはないと思うが、メキシコを代表する画家の一人であることは間違いない。かなり独自な世界を描き続けた人である。

実は、メキシコ市郊外の高級住宅街コヨアカンまでいってみたのは、フリーダ・カーロが主目的ではなく、亡命先のメキシコで暗殺されたトロツキーの旧宅がミュージアムとして保存されており、そこを訪れるのが目的であった。

トロツキーが殺害された当時のままに書斎が保存されており(写真はいずれも私が撮影)、革命家であり、赤軍の生みの親というよりも、亡命先でも次々と旺盛に著作を執筆し続けた著作家としてのトロツキーをうかがうことができた。
1991年1月のこの時点では、いまだソ連は崩壊しておらず(・・8月の夏休み中に旅行先のスペインでモスクワでクーデターが発生したことを知ったことを覚えている。トロツキーの再評価が行われるようになったのはソ連崩壊後である。
その後、岩波文庫で読んだトロツキーの『裏切られた革命』(藤井一行訳、1992)によって、革命後のスターリン統治下ソ連の官僚制にかんするトロツキーの分析の鋭さと、ソ連が崩壊するにいたった理由もよく了解することができた。
私が、山口昌男の『歴史・祝祭・神話』(中公文庫、1978)で知ったトロツキーは、ロシア革命の指導者というよりも、ある種「負け組」として、負の刻印を押された悲劇的な敗者としてのトロツキーである。このトロツキー像が念頭にあって、メキシコにいった際、あえてコヨアカンまでいってみたのだ。
アラン・ドロン主演の映画 『暗殺者のメロディ』(1972年制作)は、原題を The Assassination of Trotsky といい、スターリンの密使によって書斎で殺害されたトロツキーの殺害犯を描いた心理ドラマであるが、1940年8月20日に最終的に暗殺される前にも、画家のシケイロスは殺害未遂事件にも関与しており、芸術と政治が密接にからまっていたのが、20世紀前半のメキシコである。
また、トロツキーはディエゴ・リベラの妻であったフリーダ・カーロとは愛人関係にあり、メキシコ20世紀前半の美術界と共産主義者との関係は、人間関係の面からみても非常に錯綜としている。この点については、映画 『フリーダ』でも扱われていたと記憶している。
私がもっているシケイロス画集(『ファブリ世界名画集87 シケイロス』平凡社、1970)の解説を担当している画家・利根山光人の展示会が、2階で開催されていたのでついでに見る。利根山光人は世田谷在住で、死後作品の多くが世田谷美術館に寄贈されている。
日本の芸術家たちのメキシコとのかかわりも興味深い。メキシコの民芸運動にかかわった北川民次のような人もいる。
今回の美術展は、メキシコ20世紀美術の概要を知るにはいいだろう。私としては、オロスコによる「十字架を自らの手で壊すキリスト」(1943)という一枚の絵を見るためだけでもいく価値があると思った。

スペインによる西洋の植民地300年のくびきを断ち切り、革命によって自らの歴史を取り戻したメキシコ人の自画像ともいえるかもしれない。
もちろんメキシコ国民の大半は熱心なカトリックであり、オロスコ自身の信仰については詳しく知らないが、見る人に強烈なインパクトを与える絵画であることは間違いない。
メキシコについては、ソ連の映画作家セルゲイ・エイゼンシュテイン監督による映画『メキシコ万歳!』(この作品は YouTube で視聴可能)など書きたいことはまだまだある。
エイゼンシュテインがハリウッドからの招待を受けてメキシコで映画撮影をしたのが1930年、未完成のまま放置されていたフィルムだが、メキシコを描いた映画ではもっとも神話的なアプローチで、見る価値のある作品である。
エイゼンシュテインまで書き始めると際限がなくなるので、今回はここらへんでやめておく。
2009年8月17日月曜日
書評 『ノモンハン戦争-モンゴルと満洲国-』(田中克彦、岩波新書、2009)
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■もうひとつの「ノモンハン」-ソ連崩壊後明らかになってきたモンゴル現代史の真相■
1939年の「ノモンハン」とは、それについて考える人にとって、光を当てるとさまざまな方向に乱反射するプリズムのような事件である。
なぜこれだけ多くの日本人にとって「ノモンハン」が気になるのか? すでに70年もたっているのに・・・
現在でも多くの人が「ノモンハン」について書いてきた。
たとえば村上春樹は、 『ねじまき鳥クロニクル』のテーマそのものにかかわる重要なモチーフの一つとして描いている。
また、大阪外語大蒙古語学科出身の司馬遼太郎は、長年取り組んできたノモンハンを題材にした小説化をついに書くことなく世を去った(・・この件については、本書の「あとがき」で著者があるエピソードを紹介している)。
満洲で勤務し現地で召集された経験をもつ作家・五味川純平原作の大作映画 『戦争と人間』は、「ノモンハン」の戦闘シーンで終わっていること・・・・などなど。
このほかにも、まだまだ日本人による無数の「ノモンハン」があるのだろう。
あらたに刊行された本書は、社会言語学者でモンゴル学者の田中克彦が、分断された民族であるモンゴル人の視点から、 「ノモンハン戦争(=ハルハ河戦争)」を検証したものである。モンゴル人の視点からみる「ノモンハン」は、日本の視点でもソ連(現在ロシア)の視点でもない、きわめて重要な第三の視点である。
著者は、1991年に東京で開催された「ノモンハン・ハルハ河戦争国際学術シンポジウム実行委員会」の代表をつとめ、ソ連・モンゴル人民共和国(現在はモンゴル国)・日本の研究者をつなぎあわせる役割を果たしている。戦争当事国の4カ国(日本・ソ連・満洲国・モンゴル人民共和国)で使用された、日本語・ロシア語・モンゴル語の三つの言語に精通し、学問をつうじてモンゴル人に限りない愛を注いできた人である。
本書には、急速に進展しているモンゴル学の最新成果が惜しみなく注ぎ込まれている。とくに、ソ連崩壊後あらたに公開された事実による歴史の書き換え作業の成果が大きい。
モンゴル人民共和国と満洲国の二国間に発生した国境紛争、そして二つの"傀儡"(かいらい)国家のそれぞれの背後にいたソ連と日本の真の動機をめぐる考察からみる「ノモンハン」は実に興味深い。
本書は、1973年に刊行された、著者による幻の名著 『草原の革命家たち-モンゴル独立への道-』(中公新書、増補改訂版が1990年刊行)の続編として読まれるべき本である(・・長らく品切れ状態なのが残念だ)。
辛亥革命による清朝崩壊後、宗主国である中国のくびきから脱した外蒙古(=外モンゴル)は、ソ連の力を借りてかろうじて独立を達成した。しかし民族として生き残るためソ連の衛星国として生きるという苦難の歴史を歩まざるをえなかった。
満洲国の一部となった内蒙古(=内モンゴル)との統合によるモンゴル民族統一の夢は断念、しかしながらソ連の指示のもと「ノモンハン」に参戦し勝利を収め、またソ連による対日戦争に従うことでスターリンの信頼を確固たるものにし、第二次大戦後には国連にも加盟、ソ連が崩壊した1991年には文字通りの独立を勝ち得ることとなった。
中国国内にある内モンゴルの遊牧地は、農耕民族である漢民族によって浸食され、民族を支える基盤としてのエコロジーが危機に瀕している。
このことを考えると、満洲国ではなくソ連側につき、「ノモンハン」で勝利したモンゴルの選択が、長い目でみれば結果として成功であったことがわかる。
かつて私は、安彦良和の『虹色のトロツキー』(中公文庫)を書評で取り上げている。
主人公の日蒙二世の青年ウンボルトは満洲国の側に身を置き、同じモンゴル民族のモンゴル人民共和国軍の兵士とはノモンハンの戦場において向き合うことになる。
本書はこの名作マンガをよむための参考書のひとつとして読むことも可能だ。モンゴルにかんするトリビアルな知識も楽しめる。
■bk1書評「もうひとつの「ノモンハン」-ソ連崩壊後明らかになってきたモンゴル現代史の真相」投稿掲載(2009年8月12日)
<書評への付記>
田中克彦は、NHK番組の『爆笑問題のニッポンの教養』で、お笑いコンビ「爆笑問題」の訪問を受けてTVに出たりしているので、一般には言語学者として知られているが、そもそもの出発点はモンゴル学である。
履歴では一橋大学大学院社会学研究科卒とだけ記されることが多いが、学部は東京外国語大学のモンゴル語学科卒であり、地域研究をヨコ糸としたら、言語学をタテ糸として研究生活を続けてきた人である。
私は大学入学以来、田中克彦の著書はほとんど読んできており、また学部での言語学の授業は受講しているので、現在まで大きな影響を受けてきた。残念だったのは、モンゴル学は大学院でのみ開講し、学部では一般言語学と社会言語学しか授業をもっていなかったことだ。モンゴル学の授業がもしあったら、私はモンゴル研究者になっていたかもしれない(?)、てなことはなかろう。
私が属していた歴史学・西洋社会史の阿部謹也ゼミナールの阿部先生とは大学院時代の同期で、現在主流の米国流の社会科学とはまったく異なる、ある意味、古き良き時代のドイツ風の学問で鍛えられた学者である。
ところで、阿部先生を「偲ぶ会」二次会での田中氏の挨拶は、出席者は長く記憶にとどめることになるだろう。私は田中氏のいわんとしたことは十分に理解できるのだが、少し酩酊していたとはいえ、その場の「空気」にはそぐわない発言だったようだ。その意味では、「"まわりに合わせる"という考えのないモンゴル文化」(宮脇淳子・・当ブログの「書評」を参照)を体現している人といえるかもしれない。
さて本書は、本来の専門であるモンゴル学の最新著書であるとして取り上げて、書評としてまとめておくこととした。タイトルの『ノモンハン戦争』から、おそらく大半の読者は、ノモンハンの全体像を新書版でコンパクトにまとめた本を想像するだろうが、そう思って読むと失望する恐れがあるだろう。
「戦争」と銘打った本を出す以上、モンゴル民族以外にも、日本側、ソ連側について、軍事的諸事実をおさえた上で、全体像を描くのが筋というものだと思うが。タイトルで潜在読者を釣るのは、まあ出版社も本を売るためだから仕方ないか。
本書は、副題になっている「モンゴルと満洲国」が主たる内容となっている。そう読むと実に面白い内容の本である。
そもそも1991年にソ連が崩壊するまで、モンゴル自身も完全に独立した状態であったわけではなく、観光客だけでなく、研究者も簡単にアプローチできる対象ではなかったようだ。以来18年、ようやく「ノモンハン」の真相が明らかになりつつある段階であり、本書は今後またさらに部分的には書き直されていく性格の本だと考えた方がいいだろう。
軍事史にかんしては、著者が編訳している『ノモンハンの戦い』(シーシキン他、田中克彦編訳、岩波現代文庫、2006)が、ソ連側からみた貴重なドキュメントとなっている。日本人の視点によるものでは、民間現代史家、自称"歴史探偵"の半藤一利による『ノモンハンの夏』(文春文庫)がもっともよいだろう。
書評のなかで、村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』について触れているが、実はこの書評を書くまで読んだことがなかったのだ。書評のなかで触れる以上、中身を知らないわけはいくまいと思って、文庫本で3冊の長編小説を読み始めたのだが、読んでいるうちにすっかり内容にはまってしまった。なんだか自分のことが書かれているような気がしてならなかったからだ。
これは村上春樹の多くの読者に共通する読書体験なのだろう。ノモンハンに対する村上春樹のこだわりは、『辺境・近境』(新潮文庫、1999)においてある程度触れられているので、こちらもぜひ読んでみるとよいと思う。
私自身は、実はモンゴルには、前から行きたい、行きたいとは思っているのだが、いまだに実現していない。
中国国内の内蒙古(=内モンゴル)も、1999年の夏に北京発モスクワ行きのシベリア鉄道で通過しただけで、しかも夜中だったので何もわからないまま通り過ぎてしまった。ロシアとの国境の街、満洲里(マンジョウリ)で、レール幅がロシア国内ではさらに広軌になるため、車輪つけかえのための数時間、駅で発車をまっていただけの滞在であった。
満洲は1999年の夏、シベリア鉄道に乗るために北京に行く前に、遠回りになるが現地を踏んでみた。大連(満鉄、すなわち南満州鉄道株式会社の本社所在地)、長春(旧 新京:満洲国首都)、沈陽(旧 奉天:日露戦争陸戦の激戦地)、撫順(同じく日露戦争の激戦地)、哈爾浜(ハルビン)と見て回った。
いずれ訪問すべき時が自ずからやってくるだろうと思うので、モンゴルはその時まで取っておくつもりだ。
また書評の終わりで、安彦良和(やすひこ・よしかず)の『虹色のトロツキー』について触れている。
私が読んで所有しているのはオリジナルの潮出版社版だが、このマンガは本当に面白い。なんといっても、合気道開祖・植芝盛平が実名で登場するのがうれしい。このほか、陸軍参謀の石原完爾、辻政信をはじめとして、フグ計画にかかわったユダヤ問題の専門家・安江陸軍大佐と犬塚海軍大佐、東洋のマタハリ川島芳子など、満洲にかかわった人間が多数実名で登場する。
安彦良和はアニメーターとしてロボット・アニメ「ガンダム」にかかわった人だが、マンガ作品では歴史ものが多く、緻密な取材の上に大きな構想のもとに描いているので、歴史エンターテインメントとして一級品といってよい。何よりも、主人公のキャラクター設定が、このマンガが成功した最大の要因だろう。ただ構想が大きすぎて、作者が息切れしてしまったようだが・・・。
作品にはほかに、『ジャンヌ・ダルク』、『クルドの星』など多数。
参考のために、8年前に書いた書評を転載しておく。

『虹色のトロツキー(全8巻)』(安彦良和、中公文庫、2000 原本1992~1997)
■大陸(旧満洲)に関心をもつ者なら、必ず読んでおくべき「知る人ぞ知る名著」■
サトケン
2001/03/28 21:58:00
評価 ( ★マーク )
★★★★★
大陸(旧満洲)に関心をもつ者なら、必ず読んでおくべき「知る人ぞ知る名著」である。五族協和を謳う満洲国で、創立間もない建国大学に学ぶ日蒙二世の主人公ウンボルトを軸に、見えざる「裏主人公」トロツキーをめぐる血湧き肉躍る冒険マンガ。
日本の大陸関与政策の実態、抗日パルチザン、満蒙独立運動、合気道、フグ計画(ユダヤ資本の満洲国誘致計画)といった話題がてんこもりで、十分過ぎるほど楽しめる。実は、私は本書ではじめて「建国大学」の存在と、その創立構想に石原莞爾だけでなく、辻政信(本書では悪役の狂言回しを演じる)が関係していることを知った。
マンガそのものは、あまりにも話が錯綜した結果、結局ノモンハン事件で、モンゴル民族どうしが敵(=モンゴル人民共和国軍+ソビエト赤軍)と味方(=満洲国軍+関東軍)にわかれて戦闘するシーンで終わる。五味川純平の大河小説『戦争と人間』の映画版が、ノモンハン事件で終わっているのと、偶然ながら一致した結果となった。
終わり方としては、ちと残念な気もするが、とはいえ全8巻、まさに大河小説のごとき読みごたえのあるマンガである。超おすすめ。(書評は以上)
なぜトロツキーなのか? ちょっと種明かしをしておこう。
満洲国で民族共和の理念を実現するための人材育成機関である建国大学を構想するにあたって、石原完爾は、教授陣にインド独立運動のガンディーやチャンドラ・ボース、そしてなんとメキシコに亡命中のロシア革命指導者レオン・トロツキー(!)を招聘することを真剣に考えていたらしいのだ。
歴史人類学の名著『「挫折」の昭和史』(岩波書店、1995)の第8章「読書する軍人」で石原完爾を取り上げた山口昌男は、石原完爾の建国大学構想について詳しく触れているが、「既成の日本の大学教授、及びその教育と研究の方法は、完全に排除」という方針を掲げたことについて、全共闘による大学批判をはるかに先行していたとして高く評価している。
トロツキー招聘については、実際にメキシコ駐在の日本の外交官が指令により秘密裏に接触したらしい。結局、招聘には成功しなかったのだが、確度としては高い情報である。何という文献か出所か思い出せないのが残念だが。
建国大学では正課として合気道が採用されていた。大本教教主の出口王仁三郎とともに蒙古で死線をくぐった合気道開祖・植芝盛平もまた、満蒙とは浅からぬ縁の持ち主であった。
1938年に開学し、1945年に廃校となった満洲の建国大学は、時代を突き抜けた実に壮大な構想であったのだ。日本の敗戦ですべてが潰えてしまったのはまことにもって残念でならない。 (以上)

■もうひとつの「ノモンハン」-ソ連崩壊後明らかになってきたモンゴル現代史の真相■
1939年の「ノモンハン」とは、それについて考える人にとって、光を当てるとさまざまな方向に乱反射するプリズムのような事件である。
なぜこれだけ多くの日本人にとって「ノモンハン」が気になるのか? すでに70年もたっているのに・・・
現在でも多くの人が「ノモンハン」について書いてきた。
たとえば村上春樹は、 『ねじまき鳥クロニクル』のテーマそのものにかかわる重要なモチーフの一つとして描いている。
また、大阪外語大蒙古語学科出身の司馬遼太郎は、長年取り組んできたノモンハンを題材にした小説化をついに書くことなく世を去った(・・この件については、本書の「あとがき」で著者があるエピソードを紹介している)。
満洲で勤務し現地で召集された経験をもつ作家・五味川純平原作の大作映画 『戦争と人間』は、「ノモンハン」の戦闘シーンで終わっていること・・・・などなど。
このほかにも、まだまだ日本人による無数の「ノモンハン」があるのだろう。
あらたに刊行された本書は、社会言語学者でモンゴル学者の田中克彦が、分断された民族であるモンゴル人の視点から、 「ノモンハン戦争(=ハルハ河戦争)」を検証したものである。モンゴル人の視点からみる「ノモンハン」は、日本の視点でもソ連(現在ロシア)の視点でもない、きわめて重要な第三の視点である。
著者は、1991年に東京で開催された「ノモンハン・ハルハ河戦争国際学術シンポジウム実行委員会」の代表をつとめ、ソ連・モンゴル人民共和国(現在はモンゴル国)・日本の研究者をつなぎあわせる役割を果たしている。戦争当事国の4カ国(日本・ソ連・満洲国・モンゴル人民共和国)で使用された、日本語・ロシア語・モンゴル語の三つの言語に精通し、学問をつうじてモンゴル人に限りない愛を注いできた人である。
本書には、急速に進展しているモンゴル学の最新成果が惜しみなく注ぎ込まれている。とくに、ソ連崩壊後あらたに公開された事実による歴史の書き換え作業の成果が大きい。
モンゴル人民共和国と満洲国の二国間に発生した国境紛争、そして二つの"傀儡"(かいらい)国家のそれぞれの背後にいたソ連と日本の真の動機をめぐる考察からみる「ノモンハン」は実に興味深い。
本書は、1973年に刊行された、著者による幻の名著 『草原の革命家たち-モンゴル独立への道-』(中公新書、増補改訂版が1990年刊行)の続編として読まれるべき本である(・・長らく品切れ状態なのが残念だ)。
辛亥革命による清朝崩壊後、宗主国である中国のくびきから脱した外蒙古(=外モンゴル)は、ソ連の力を借りてかろうじて独立を達成した。しかし民族として生き残るためソ連の衛星国として生きるという苦難の歴史を歩まざるをえなかった。
満洲国の一部となった内蒙古(=内モンゴル)との統合によるモンゴル民族統一の夢は断念、しかしながらソ連の指示のもと「ノモンハン」に参戦し勝利を収め、またソ連による対日戦争に従うことでスターリンの信頼を確固たるものにし、第二次大戦後には国連にも加盟、ソ連が崩壊した1991年には文字通りの独立を勝ち得ることとなった。
中国国内にある内モンゴルの遊牧地は、農耕民族である漢民族によって浸食され、民族を支える基盤としてのエコロジーが危機に瀕している。
このことを考えると、満洲国ではなくソ連側につき、「ノモンハン」で勝利したモンゴルの選択が、長い目でみれば結果として成功であったことがわかる。
かつて私は、安彦良和の『虹色のトロツキー』(中公文庫)を書評で取り上げている。
主人公の日蒙二世の青年ウンボルトは満洲国の側に身を置き、同じモンゴル民族のモンゴル人民共和国軍の兵士とはノモンハンの戦場において向き合うことになる。
本書はこの名作マンガをよむための参考書のひとつとして読むことも可能だ。モンゴルにかんするトリビアルな知識も楽しめる。
■bk1書評「もうひとつの「ノモンハン」-ソ連崩壊後明らかになってきたモンゴル現代史の真相」投稿掲載(2009年8月12日)
<書評への付記>
田中克彦は、NHK番組の『爆笑問題のニッポンの教養』で、お笑いコンビ「爆笑問題」の訪問を受けてTVに出たりしているので、一般には言語学者として知られているが、そもそもの出発点はモンゴル学である。
履歴では一橋大学大学院社会学研究科卒とだけ記されることが多いが、学部は東京外国語大学のモンゴル語学科卒であり、地域研究をヨコ糸としたら、言語学をタテ糸として研究生活を続けてきた人である。
私は大学入学以来、田中克彦の著書はほとんど読んできており、また学部での言語学の授業は受講しているので、現在まで大きな影響を受けてきた。残念だったのは、モンゴル学は大学院でのみ開講し、学部では一般言語学と社会言語学しか授業をもっていなかったことだ。モンゴル学の授業がもしあったら、私はモンゴル研究者になっていたかもしれない(?)、てなことはなかろう。
私が属していた歴史学・西洋社会史の阿部謹也ゼミナールの阿部先生とは大学院時代の同期で、現在主流の米国流の社会科学とはまったく異なる、ある意味、古き良き時代のドイツ風の学問で鍛えられた学者である。
ところで、阿部先生を「偲ぶ会」二次会での田中氏の挨拶は、出席者は長く記憶にとどめることになるだろう。私は田中氏のいわんとしたことは十分に理解できるのだが、少し酩酊していたとはいえ、その場の「空気」にはそぐわない発言だったようだ。その意味では、「"まわりに合わせる"という考えのないモンゴル文化」(宮脇淳子・・当ブログの「書評」を参照)を体現している人といえるかもしれない。
さて本書は、本来の専門であるモンゴル学の最新著書であるとして取り上げて、書評としてまとめておくこととした。タイトルの『ノモンハン戦争』から、おそらく大半の読者は、ノモンハンの全体像を新書版でコンパクトにまとめた本を想像するだろうが、そう思って読むと失望する恐れがあるだろう。
「戦争」と銘打った本を出す以上、モンゴル民族以外にも、日本側、ソ連側について、軍事的諸事実をおさえた上で、全体像を描くのが筋というものだと思うが。タイトルで潜在読者を釣るのは、まあ出版社も本を売るためだから仕方ないか。
本書は、副題になっている「モンゴルと満洲国」が主たる内容となっている。そう読むと実に面白い内容の本である。
そもそも1991年にソ連が崩壊するまで、モンゴル自身も完全に独立した状態であったわけではなく、観光客だけでなく、研究者も簡単にアプローチできる対象ではなかったようだ。以来18年、ようやく「ノモンハン」の真相が明らかになりつつある段階であり、本書は今後またさらに部分的には書き直されていく性格の本だと考えた方がいいだろう。
軍事史にかんしては、著者が編訳している『ノモンハンの戦い』(シーシキン他、田中克彦編訳、岩波現代文庫、2006)が、ソ連側からみた貴重なドキュメントとなっている。日本人の視点によるものでは、民間現代史家、自称"歴史探偵"の半藤一利による『ノモンハンの夏』(文春文庫)がもっともよいだろう。
書評のなかで、村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』について触れているが、実はこの書評を書くまで読んだことがなかったのだ。書評のなかで触れる以上、中身を知らないわけはいくまいと思って、文庫本で3冊の長編小説を読み始めたのだが、読んでいるうちにすっかり内容にはまってしまった。なんだか自分のことが書かれているような気がしてならなかったからだ。
これは村上春樹の多くの読者に共通する読書体験なのだろう。ノモンハンに対する村上春樹のこだわりは、『辺境・近境』(新潮文庫、1999)においてある程度触れられているので、こちらもぜひ読んでみるとよいと思う。
私自身は、実はモンゴルには、前から行きたい、行きたいとは思っているのだが、いまだに実現していない。
中国国内の内蒙古(=内モンゴル)も、1999年の夏に北京発モスクワ行きのシベリア鉄道で通過しただけで、しかも夜中だったので何もわからないまま通り過ぎてしまった。ロシアとの国境の街、満洲里(マンジョウリ)で、レール幅がロシア国内ではさらに広軌になるため、車輪つけかえのための数時間、駅で発車をまっていただけの滞在であった。
満洲は1999年の夏、シベリア鉄道に乗るために北京に行く前に、遠回りになるが現地を踏んでみた。大連(満鉄、すなわち南満州鉄道株式会社の本社所在地)、長春(旧 新京:満洲国首都)、沈陽(旧 奉天:日露戦争陸戦の激戦地)、撫順(同じく日露戦争の激戦地)、哈爾浜(ハルビン)と見て回った。
いずれ訪問すべき時が自ずからやってくるだろうと思うので、モンゴルはその時まで取っておくつもりだ。
また書評の終わりで、安彦良和(やすひこ・よしかず)の『虹色のトロツキー』について触れている。
私が読んで所有しているのはオリジナルの潮出版社版だが、このマンガは本当に面白い。なんといっても、合気道開祖・植芝盛平が実名で登場するのがうれしい。このほか、陸軍参謀の石原完爾、辻政信をはじめとして、フグ計画にかかわったユダヤ問題の専門家・安江陸軍大佐と犬塚海軍大佐、東洋のマタハリ川島芳子など、満洲にかかわった人間が多数実名で登場する。
安彦良和はアニメーターとしてロボット・アニメ「ガンダム」にかかわった人だが、マンガ作品では歴史ものが多く、緻密な取材の上に大きな構想のもとに描いているので、歴史エンターテインメントとして一級品といってよい。何よりも、主人公のキャラクター設定が、このマンガが成功した最大の要因だろう。ただ構想が大きすぎて、作者が息切れしてしまったようだが・・・。
作品にはほかに、『ジャンヌ・ダルク』、『クルドの星』など多数。
参考のために、8年前に書いた書評を転載しておく。

『虹色のトロツキー(全8巻)』(安彦良和、中公文庫、2000 原本1992~1997)
■大陸(旧満洲)に関心をもつ者なら、必ず読んでおくべき「知る人ぞ知る名著」■
サトケン
2001/03/28 21:58:00
評価 ( ★マーク )
★★★★★
大陸(旧満洲)に関心をもつ者なら、必ず読んでおくべき「知る人ぞ知る名著」である。五族協和を謳う満洲国で、創立間もない建国大学に学ぶ日蒙二世の主人公ウンボルトを軸に、見えざる「裏主人公」トロツキーをめぐる血湧き肉躍る冒険マンガ。
日本の大陸関与政策の実態、抗日パルチザン、満蒙独立運動、合気道、フグ計画(ユダヤ資本の満洲国誘致計画)といった話題がてんこもりで、十分過ぎるほど楽しめる。実は、私は本書ではじめて「建国大学」の存在と、その創立構想に石原莞爾だけでなく、辻政信(本書では悪役の狂言回しを演じる)が関係していることを知った。
マンガそのものは、あまりにも話が錯綜した結果、結局ノモンハン事件で、モンゴル民族どうしが敵(=モンゴル人民共和国軍+ソビエト赤軍)と味方(=満洲国軍+関東軍)にわかれて戦闘するシーンで終わる。五味川純平の大河小説『戦争と人間』の映画版が、ノモンハン事件で終わっているのと、偶然ながら一致した結果となった。
終わり方としては、ちと残念な気もするが、とはいえ全8巻、まさに大河小説のごとき読みごたえのあるマンガである。超おすすめ。(書評は以上)
なぜトロツキーなのか? ちょっと種明かしをしておこう。
満洲国で民族共和の理念を実現するための人材育成機関である建国大学を構想するにあたって、石原完爾は、教授陣にインド独立運動のガンディーやチャンドラ・ボース、そしてなんとメキシコに亡命中のロシア革命指導者レオン・トロツキー(!)を招聘することを真剣に考えていたらしいのだ。
歴史人類学の名著『「挫折」の昭和史』(岩波書店、1995)の第8章「読書する軍人」で石原完爾を取り上げた山口昌男は、石原完爾の建国大学構想について詳しく触れているが、「既成の日本の大学教授、及びその教育と研究の方法は、完全に排除」という方針を掲げたことについて、全共闘による大学批判をはるかに先行していたとして高く評価している。
トロツキー招聘については、実際にメキシコ駐在の日本の外交官が指令により秘密裏に接触したらしい。結局、招聘には成功しなかったのだが、確度としては高い情報である。何という文献か出所か思い出せないのが残念だが。
建国大学では正課として合気道が採用されていた。大本教教主の出口王仁三郎とともに蒙古で死線をくぐった合気道開祖・植芝盛平もまた、満蒙とは浅からぬ縁の持ち主であった。
1938年に開学し、1945年に廃校となった満洲の建国大学は、時代を突き抜けた実に壮大な構想であったのだ。日本の敗戦ですべてが潰えてしまったのはまことにもって残念でならない。 (以上)
書評 『朝青龍はなぜ強いのか?-日本人のためのモンゴル学-』(宮脇淳子、WAC、2008)
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■モンゴルという日本人にとっての「異文化」を知る上で、信頼できる手頃な入門書■
副題にある「日本人のためのモンゴル学」、内容はこれに尽きる。
30年以上にわたってモンゴル史を研究してきた著者が、日本のマスコミによる朝青龍バッシングをきっかけに企画・執筆した一般向けのモンゴル紹介書である。
朝青龍(本名 ドルゴルスレン・ダグワドルジ)が横綱になったことは、日本の相撲の歴史においても、同時にモンゴル国内においても画期的なことであったことはいうまでもない。
しかし、保守的な日本相撲界は、朝青龍を横綱としての「品格」がないと断罪し、マスコミはそれに付和雷同、一連の騒動が収まった後も、同じモンゴル人の横綱・白鵬(本名 ムンフバト・ダヴァジャルガル)を一方的に持ち上げ、朝青龍をヒール(悪役)として位置づけるという、きわめてステレオタイプな見方を崩そうとはしない。
日本のスポーツ・ジャーナリズムの質が正直言って高くないことは、サッカーの中田英寿や、メジャーリーグのイチローがあらゆる機会をつうじて主張してきたことである。「国技」とされてきた相撲もまた例外ではないようだ。
もちろん強ければいいというものでもないが、強くない力士なんてTVで見ていて面白くもなんともないではないか。朝青龍が強いことは間違いない事実なのだ。
ではなぜ朝青龍は強いのか。
著者はモンゴル文化を、遊牧文明、モンゴルの歴史、日本との関係、にわたって広くまんべんなく解説することによって、似たような顔をした同じアジア人とはいっても、日本文化とは根本的に異なる「遊牧文化」であることを示し、間接的な形で朝青龍の強さが生まれてきた背景を説明する。
私が下手な要約をするよりも、小見出しをいくつか抜粋するので目を通してもらうのがいいだろう。
・「まわりに合わせる」という考えのないモンゴル文化
・モンゴルには「長幼の序」はない
・モンゴル人にとってのいい男、いい女
・遊牧生活を維持するため、男と女の役割分担は明確だった
・夫婦喧嘩をすると、「出て行け」ではなく「オレが出て行く」
・北の遊牧民は南の農耕民をばかにしていた
・モンゴル人が中国人を嫌いな最大の理由
・これだけ違う日本人の美意識とモンゴル人の美意識
・二大国の狭間で、今日まで独立を保ってきたモンゴル外交の巧みさ
・日本の「文化」から、世界の「文明」になった相撲
どうだろう、モンゴル文化の特性がなんとなく伝わってきただろか。
また著者は、第2章「モンゴル女性秘話」において、女性研究者としての問題意識から、モンゴルの遊牧文化において、女性の地位がきわめて高いことを明らかにしている。これは歴史をとおして一貫しており、従来の男性研究者が気がつかなかった盲点を指摘しており読み応えがある。朝青龍も、白鵬も母親がともに大学卒のインテリなのに、父親に学歴がないことの意味を説明しており、たいへん興味深い。
「モンゴルでは、他人に頼らない、甘えない、自分自身の判断を大切にする、ということが人間として最も大切なことなのだ。そしてこれが、厳しい自然環境のなかで遊牧生活を送ってきた歴史から生まれたモンゴル文化なのである」(p.217)。
ここまで読めばもう、なぜ朝青龍がなぜ強いのか、答えは出たも同然だろう。
朝青龍や相撲にはあまり関心がない人にとっても、モンゴルという日本人にとっての「異文化」を知る上で、信頼できる手頃な入門書として推薦したい。
■bk1書評「モンゴルという日本人にとっての「異文化」を知る上で、信頼できる手頃な入門書」投稿掲載(2009年8月13日)

■モンゴルという日本人にとっての「異文化」を知る上で、信頼できる手頃な入門書■
副題にある「日本人のためのモンゴル学」、内容はこれに尽きる。
30年以上にわたってモンゴル史を研究してきた著者が、日本のマスコミによる朝青龍バッシングをきっかけに企画・執筆した一般向けのモンゴル紹介書である。
朝青龍(本名 ドルゴルスレン・ダグワドルジ)が横綱になったことは、日本の相撲の歴史においても、同時にモンゴル国内においても画期的なことであったことはいうまでもない。
しかし、保守的な日本相撲界は、朝青龍を横綱としての「品格」がないと断罪し、マスコミはそれに付和雷同、一連の騒動が収まった後も、同じモンゴル人の横綱・白鵬(本名 ムンフバト・ダヴァジャルガル)を一方的に持ち上げ、朝青龍をヒール(悪役)として位置づけるという、きわめてステレオタイプな見方を崩そうとはしない。
日本のスポーツ・ジャーナリズムの質が正直言って高くないことは、サッカーの中田英寿や、メジャーリーグのイチローがあらゆる機会をつうじて主張してきたことである。「国技」とされてきた相撲もまた例外ではないようだ。
もちろん強ければいいというものでもないが、強くない力士なんてTVで見ていて面白くもなんともないではないか。朝青龍が強いことは間違いない事実なのだ。
ではなぜ朝青龍は強いのか。
著者はモンゴル文化を、遊牧文明、モンゴルの歴史、日本との関係、にわたって広くまんべんなく解説することによって、似たような顔をした同じアジア人とはいっても、日本文化とは根本的に異なる「遊牧文化」であることを示し、間接的な形で朝青龍の強さが生まれてきた背景を説明する。
私が下手な要約をするよりも、小見出しをいくつか抜粋するので目を通してもらうのがいいだろう。
・「まわりに合わせる」という考えのないモンゴル文化
・モンゴルには「長幼の序」はない
・モンゴル人にとってのいい男、いい女
・遊牧生活を維持するため、男と女の役割分担は明確だった
・夫婦喧嘩をすると、「出て行け」ではなく「オレが出て行く」
・北の遊牧民は南の農耕民をばかにしていた
・モンゴル人が中国人を嫌いな最大の理由
・これだけ違う日本人の美意識とモンゴル人の美意識
・二大国の狭間で、今日まで独立を保ってきたモンゴル外交の巧みさ
・日本の「文化」から、世界の「文明」になった相撲
どうだろう、モンゴル文化の特性がなんとなく伝わってきただろか。
また著者は、第2章「モンゴル女性秘話」において、女性研究者としての問題意識から、モンゴルの遊牧文化において、女性の地位がきわめて高いことを明らかにしている。これは歴史をとおして一貫しており、従来の男性研究者が気がつかなかった盲点を指摘しており読み応えがある。朝青龍も、白鵬も母親がともに大学卒のインテリなのに、父親に学歴がないことの意味を説明しており、たいへん興味深い。
「モンゴルでは、他人に頼らない、甘えない、自分自身の判断を大切にする、ということが人間として最も大切なことなのだ。そしてこれが、厳しい自然環境のなかで遊牧生活を送ってきた歴史から生まれたモンゴル文化なのである」(p.217)。
ここまで読めばもう、なぜ朝青龍がなぜ強いのか、答えは出たも同然だろう。
朝青龍や相撲にはあまり関心がない人にとっても、モンゴルという日本人にとっての「異文化」を知る上で、信頼できる手頃な入門書として推薦したい。
■bk1書評「モンゴルという日本人にとっての「異文化」を知る上で、信頼できる手頃な入門書」投稿掲載(2009年8月13日)
2009年8月16日日曜日
本の紹介 『潜行三千里』(辻 政信、毎日新聞社、1950)-インドシナに関心のある人の必読書

(ここに掲載した写真は、私が所有する初版本の表紙。また下に掲載した「逃避行経路」は初版本に挿入されているものを複写したもの)
■昭和25年出版の100万部を記録した大ベストセラー■
名のみ高くして長らく入手不可能だった本書が復刊された。
昭和25年に刊行されて、なんと100万部の大ベストセラーとなった本書、その理由は読み始めてからすぐに理解された。
とにかく面白いのである。何よりも文章のテンポがよく読んでいて実に気持よい。
さすが元陸軍参謀、知識人特有の長々としたわかりにくい文章はいっさいなく、ワンセンテンスはきわめて短い。まさに冒険活劇そのものである。
ビルマ(現在のミャンマー)での作戦から撤退、敗戦を当時南方軍司令部のあったタイのバンコクで迎えた著者は、交戦国であった英国からは戦犯として指名手配され、直前に連合国側に寝返ったタイ国内で英国官憲から執拗に追われていた。

当時の複雑な国際情勢のなか、頭を剃って仏教僧の格好にやつし、少数の協力者とともに陸路を移動しヴィエンチャンへ渡り、フランス領インドシナ(当時)に潜入。メコン川を舟で下り、さらに陸路をユエ、ハノイを経由して中華民国(当時)の昆明をへて国民党の地下工作機関のあった重慶、そして南京へ。
日本に帰国するために上海を離れるまでの3年に及ぶ、手に汗握るハラハラドキドキの逃避行を描く。
もちろん、辻政信という軍人が毀誉褒貶に満ちたいわくつきの人物であり、ノモンハン、シンガポール攻略、ガダルカナルなどの戦争にかかわったエリート陸軍参謀として、日本を滅亡に導いた一人であることは十分に承知している。しかし、そういった後世の評価はいったん棚に上げて、冒険活劇として思う存分楽しんで頂きたい。
辻政信の逃避行の背景と実際については、『辻政信と七人の僧-奇才参謀と部下たちの潜行三千里-』(橋本哲男、光人社NF文庫)を合わせ読むとより理解が深まるだろう。
東南アジア、そのなかでもことにインドシナ(タイ・ベトナム・ラオス)に興味を持つものは、必ず読むべき本だと思っている。
インドシナ理解に間違いなく深みが加わるはずである。
<初出情報>
■bk1書評「昭和25年出版の100万部を記録した大ベストセラー」投稿掲載(2009年8月8日)
<書評にかんする付記>
文中にも明記しておいたが、陸軍大佐・辻 政信(1902-1961)はまさに毀誉褒貶相半ばする人物である。
極端な出世主義者であったとして徹底的に嫌う者がいる一方、いまでも素晴らしい人物であったと称揚する人も存在するが、シンガポール占領後の華僑虐殺事件への関与は明白であり、責任はきわめて重いといわざるをえない。
参謀でありながら、自ら最前線に立って陣頭指揮をとり(・・これは明らかに越権行為である)、身体に受けた銃傷は数知れず、といったエピソードに現れているように、軍人としてカリスマ性をもっていたことも確かである。自己顕示欲が強く、大声で自説を主張するため、つねに「空気」を作り出した人物である。これが好悪の評価を真っ二つにしてきたのであろう。
正直いって、こういう人の下で働きたいとは思わないが、戦後100万部のベストセラーを書いた作家として筆が立つことも確かで、『潜行三千里』以外にも、自らがかかわった戦記ものを中心に8冊著書を出版している。
戦後、軍服を脱いでからは、多くの旧軍関係者が自衛隊に入ったのに対し、辻政信はベストセラー作家としての知名度を活かし、衆議院議員を4期つとめ(・・その後、参議院議員に鞍替え)、政治家として人生を過ごした。
なんと言っても、辻政信らしいのは、1961年に参議院議員のまま、再び仏教僧侶の姿に身をやつして単身ラオスに入国、以後消息を絶って現在に至るまで行方不明なままであることだ。
いまだに真相は明らかになっていないが、辻政信らしい劇的な、波瀾万丈の生涯の最後を飾るのにはふさわしい。最近もまた週刊誌の記事にもなっていたが、ラオス国内あるいはラオスと中国との国境付近で逮捕され処刑されたらしい。この人は「大東亜共栄圏」のまま、意識が凍結したままだったのかもしれない。どうも国境意識が希薄な印象を受ける。あまりにも身軽な格好でラオス入りしているのである。
第二次インドシナ戦争(=ベトナム戦争)初期のきわめてクリティカルな時期での日本の国会議員・辻政信失踪事件(1961年)は、バンコクに在住した元OSS(現在のCIA)支局長、米国人大富豪でタイ・シルク王として有名なジム・トンプソン(Jim Thomson:1906-1967)のマレーシア・キャメロンハイランドでの失踪事件(1967年)と並んで、実にミステリアスな事件である。
私は、東南アジアを深く理解するためには、大東亜戦争とベトナム戦争の2つの戦争を徹底的に研究する必要があると考えているのだが、このほぼ同世代の二人の人物はその双方に、何らかの形で関わっているのである。そして二人とも現在も行方不明のままである。
敗戦時バンコクに滞在していた大日本帝国陸軍大佐・辻政信と、日本の敗戦から数週間後、米国OSS支局長としてバンコクに着任したジム・トンプソン米陸軍将校に直接的な接点はなかっただろうが、英国に指名手配されていた辻政信のことは当然知っていただろう。ジム・トンプソンのバンコク着任当時、辻政信はまだバンコクに潜伏していた。いろいろ想像してみるのは面白い。この事実は、これを書いていてはじめて気がついた。いままでこの二人を合わせて考えたことはなかった。
辻政信の功罪--といっても罪のほうがはるかに大きいが--日本人のある種の類型としてみた場合、実に興味深い研究対象である。
辻政信の人生はドラマ化したら面白いと思うのだが、主人公としては、司馬遼太郎好きな日本の国民からは、とても共感を呼ぶとは考えにくい。それでは視聴率が取れないだろう。
あくまでもプロレスでいうヒール(=悪役)だから、ベルトリッチ監督の映画『ラスト・エンペラー』で、坂本龍一が演じた甘粕憲兵大尉みたいな役回りがいいとこか。
P.S. タイトルを一部変更し、図版を大きくし、行替えをして読みやすくしました。一部の字句の修正以外は、内容には手は入れてません(2011年12月15日)
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2009年8月15日土曜日
「日本のいちばん長い日」(1945年8月15日)に思ったこと
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「日本のいちばん長い日」とは昭和の代表的ジャーナリスト・大宅壮一によるドキュメンタリーである。実際に執筆したのは、当時文藝春秋社にいた民間現代史家の半藤一利らしいが、映画化されたものを中学生の頃みて、角川文庫版も購入して読んだ(・・岡本喜八監督による1967年度作品、trailer あり。三船敏郎が阿南陸相を演じている)。
内容を乱暴に要約すれば、天皇陛下がマイクの前で録音した「玉音放送」を放送させまいとした、陸軍内の主戦派の一部将校がレコード・ディスクを奪取した上でクーデターを起こして戦争を継続させようとした動きと、それに対してディスクを守りぬき、無事1945年(昭和20年)8月15日正午からNHKのラジオでオンエアすることに成功した鈴木貫太郎首相(元侍従長・海軍大将)を首班とする政権側との、ディスク争奪戦をめぐる「長い一日」の記録である。
ノルマンディ上陸作戦 The D-Day は、別名 The Longest Day というタイトルで映画化されているから(日本語タイトル 『史上最大の作戦』)、大宅壮一は英語タイトルをもじってつけたのだろうか。
この映画は毎年TVで再放送すべきだと思うのだが。この時代に製作された映画には、まだ戦争のリアリティがにじみ出ている。
せっかくなので、いわゆる「終戦の詔勅」をあらためて聞いてみよう。
「耐ヘ難キヲ耐ヘ 忍ビ難キヲ忍ビ」で有名な「玉音放送」である。ナマの「玉音放送」を聞いてから、いろんな議論をすればよい。
原文は以下の通り。読みやすくするために、区切りを入れた(面倒だから、とばし読みしてもらってかまわない)。太字ゴチックは引用者によるもの。
実際にラジオ放送された際は、ほとんど聞き取れなかったという回想が多いが、これだけ難しい漢字をつかった文語体を耳できいて理解せよといわれても、果たして昭和20年時点でもそう多くはなかっただろう。誰がドラフトを執筆したのかしらないが、日本語としては難しすぎる。
いまこうやって、耳で音声を聞きながら、一字一句目で追っていくと、きわめて納得することの多い内容である。
ついでだから、「開戦時のNHKラジオ放送 臨時ニュース」も聞いてみよう。これは私も初めて耳にした、実に貴重な音声記録だ。また、緊急放送ではチャイムが鳴ることも初めて知った。たいへん勉強になる。
作家の伊藤整などが、聞いてスカっとしたと述懐しているらしいが、この気持ちはわからなくはない。
1990年、第一次湾岸戦争(the Gulf War)勃発前夜、戦争当事国の米国にいた私は、イラクに対する最後通牒が発せられてから1週間、ついに戦争に突入した際に、CNN報道での発表に対して米国国民が雄叫びをあげた現場に居合わせた。これは7月から半年以上続いていた閉塞感が破られた瞬間であり、「ついに始まったか!」という開放感であった。
「いちばん長い日」に戻るが、三船敏郎が演じた陸軍大臣・阿南幾茂(あなみ・これちか)陸軍大将が、「一死大罪を謝す」という遺書を残して現職閣僚として自刃したのは有名な話である。結果として、陸軍内部の主戦派を押さえきり、クーデターによる内閣崩壊、戦争継続になった場合にもたらされたであろう、壊滅的破壊を回避できたことにより、立憲君主制という日本の国体を護持することを可能とした。
もちろん、もう少し早く終戦が意志決定されていれば、原爆投下による悲劇も、特攻隊の悲劇もなかったのだが・・・
ノンフィクション作家・角田房子による一連の陸軍軍人の伝記のうちのひとつが、『一死、大罪を謝す-陸軍大臣阿南惟幾-』(新潮文庫)として阿南幾茂にあてられており、「バターン死の行軍j」の責任を問われ、戦犯裁判でフィリピンで処刑された本間中将の伝記『いっさい夢にござ候-本間雅晴中将伝-』(中公文庫)とともに、日本人として生きることの意味を考える上で、実に感慨深い読書体験となっている。
自死を選ぶのが、責任の取り方として正しいかどうか断言はできない。生きながらえて正々堂々と法廷で戦うことも責任の取り方としてあったであろうから。
さて、本日は「終戦」記念日、本当は「敗戦」記念日というべきだが、日本人の正直な気持ちとしては「終戦」といいたいのもわからなくはないので、通例にしたがっておこう。終戦記念日なので、靖国神社と千鳥ヶ淵戦没者墓苑に戦没者の鎮魂にいってきた。
靖国神社は、本殿までいったのは実は今回が初めての経験である。なんとなく靖国というと、あまりいいイメージをもたないよう世代的な刷り込みがされているため、これまで避けてきたのだが、虚心坦懐な気持ちで、とにかく行ってみることも重要ではないか、と気持ちを整えて参拝しにいった次第である。
なお、本日の報道によれば、麻生首相はカトリック信者だからか真意は測りかねるが、靖国神社ではなく、千鳥ヶ淵にしたという。実際に、私が訪れた際には、内閣総理大臣麻生太郎の名の記された花輪が2つ置かれていた。
地下鉄九段下駅で下車したら、駅構内にはすでに警官が多数、しかも外に出るエレベーターの交通整理が行われている。
地上にでたら驚いた。もういきなりものすごい人がビラくばりを行っている。今年は終戦記念日が土曜日にぶつかっているのでよけいに人が多いのだろうが、中国で弾圧されている法輪功信者やら、台湾支持派やら、自民党やら、現代史リビジョニストやら政治団体がビラ配り、シュプレヒコールとすさまじい。
靖国神社の前では、右翼の街宣車と警察・機動隊が押し問答をしており、街宣車の音声がやかましい。正直いって迷惑だ。
一歩鳥居のなかに入ると、街宣車は閉め出されているので比較的静かだが、とにかく暑いし、人が多いのには驚かされた。初詣の明治神宮なみの人の多さである。
しかも、けっこう若い人たち、それも20歳代、30歳代と思われる若い人たちが多いのにも、正直いって驚かされた。百聞は一見にしかず。明らかに遺族関係者ではなく、ここ数年、近隣諸国があまりにも騒いでいるので、かえって関心をかき立てられた若者が多いのではないか、と思われる。
本殿までいくまでがたいへんで、整列して並んでやっとのことで拝殿までたどりつく。
ここでお賽銭を投げ入れて、二礼二拍手一礼の型どおりの参拝をすませた。
ここで今回の最大の訪問目的である「遊就館」へ。もちろん訪問はこれが初めてである。
明治維新の功臣の霊を祀る目的で作られた招魂社が前身である靖国神社は、陸海軍を軸とした近代国家日本の歴史そのものであり、「遊就館」には、明治維新以来の戦争の歴史のパネル説明、武器や遺品の数々が展示されている。
最大の展示物はなんといってもホンモノのゼロ戦だが、驚いたことにこの「遊就館」もまた、ものすごい人の群れだ。入場料800円だが、美術展なみの人の入り方で、くたびれた。
展示質は全部で19室あるが、なんといっても圧巻は、「靖国の神々」という合祀された戦没軍人・軍属の小さな遺影が所狭しと飾られている部屋であろう。
沖縄本島の「ひめゆりの塔(ひめゆり平和記念資料館)」ではないが、無念にも戦争で死んでいった人たちのことを考えると、目頭が熱くなるのを止めることはできない。私は、靖国神社に合祀された遺族ではないが、日本人としては感じるものが多いのも当然だろう。
「遊就館」に併設された売店もこれがまたすごい人だった。プラモデルも置いてあるので男の子には人気だし、ミュージアム・ショップのような感じである。
せっかくなので『遊就館図録』と「卓上国旗・旭日旗・Z旗セット」を購入した。前者は、明治維新以来の近代日本の戦争の歴史が、展示パネルを図録にした形で収録されているので、資料としてもよくでいきている。「大東亜戦争」という記述で一貫しており、歴史観の違いから絶対に受け付けない人もいるだろうが。
靖国神社参拝だけでくたびれてしまったが、重要な目的である千鳥ヶ淵戦没者墓苑を忘れるわけにはいかない。
千鳥ヶ淵にいくのは、桜が美しい花見の季節を除いては、インド大使館にビザを取得しに行ったことくらいしかないが、8月15日に訪れるのはもちろん生まれて初めてである。しかも、靖国神社とセットで千鳥ヶ淵戦没者墓苑にいくのも初めての経験である。
お堀端は、夏は桜の木の木陰となるので、涼しい散策ができる。しばらく歩くと戦没者墓苑であるが、靖国神社と比べると、訪れる人は極端に少ない。
墓苑内は静かな静謐な雰囲気で、むしろこちらのほうが戦没者の追悼にはよりふさわしいのではないかと個人的には思う。
正面左手には、昭和天皇の御製が石に彫られている。「くにのため いのちささげし ひとびとの ことをおもへば むねせまりくる」。昭和35年(1960年)竣工。
正面右手には、今上天皇の御製が石に彫られている。「いくさなきよを あゆみきて おもひいづ かのかたきひを いきしひとびと」。平成17年(2005年)竣工。
麻生首相が捧げた花輪があったが、私も一輪の白菊の花を献花して、戦没者の霊を慰めた。手を合わせて静かに祈ることのできる空間として、むしろ靖国神社より望ましいかもしれない。
私は個人的には、靖国神社はそのままにして、千鳥ヶ淵を戦没者墓苑として国家的な位置づけを明確化する方向が望ましいのではないかと考える。
とはいっても、靖国神社の位置づけはきわめて難しい。
プレートに刻まれた戦没者数は、ものすごい。フィリピン518,000人、中国465,700人、満洲245,400人・・・日本人だけでこれだけの数だから、現地人の犠牲者も含めるととてつもない数になる・・・。
千鳥ヶ淵をあとにして九段坂をくだっていくと、神保町交差点、旧日本債券信用銀行本店前の歩道では、日の丸や旭日旗をふるデモ隊がシュプレヒコールをあげて、警察にくってかかっている。機動隊も多数動員されており、なんだかエキサイトしている状況である。戦争反対を叫ぶ左翼のデモ隊が靖国神社方向に向かうのを阻止するためらしい。
近隣諸国による、近年激しい応酬がなされてきた靖国神社問題にかんする感情的反発が核となった、いわゆる「ネット右翼」のオフ会のような雰囲気であるが、本人たちはかなり真剣に取り組んでいるようだ。参加しているのは大半が若者である。
排外主義を主張する内容は、あまりにも偏狭すぎてまったく賛同できないが、日本国内でこれほどエキサイトしているデモ集会の現場にでくわしたのは久々である。野次馬として至近距離で見ていたが、警察とはある意味なれ合いの関係にある街宣車型の旧来型右翼とはまったく異なる印象を受ける。
秋葉原の歩行者天国での無差別殺人事件もそうだったが、とくに若者のあいだで、なにかものすごく閉塞感が強く、抑圧され鬱屈した「空気」が、見えない深層で淀んでいるように感じられるのが、現在の日本の状況である。
今月末に総選挙が実施されるが、選挙演説なんか聞くよりも、こういった少数派ではあるが、極端な思想の持ち主の示威行動の現場を観察する方が、深層で進行している本当の変化について考えるためのいい機会になると考えてよいのではないか。
彼らの言動はひとことでいってしまえば、きわめて「内向きなナショナリズム」の発現である。海外生活において日本人のアイデンティティを自覚するタイプの「健全な外向型のナショナリズム」ではない、「不健全な、病的な、内向型のナショナリズム」だ。
ふだん、ネット空間のなかで交わされる応酬も、関心のない人間にはまったく知られることもないだろう。おそらく本日のデモの一部始終は、ビデオとして彼ら自身によって YouTube などに投稿されるのであろうが、公共の電波にのって報道されることはまずありえない。したがって多くの人たちの知るところにはならない。
意識的に健全なナショナリズムを促進すべく製作誘導を行わないと、また何かの形で抑圧された黒いエネルギーが噴出しそうな気がする。その点、シンガポールとは違って、届け出さえすれば街頭集会もデモもできる国なんだから、日本国の国民であることはありがたい。この程度のガス抜きさえ定期的にやっていれば、最悪の事態を回避することはできるだろう、とは思うのだが・・・
若者をもっと日本の外に連れ出して、外から日本を眺める機会をもっと与えなくてはならないのではないか?最近の若者は海外には旅行ですら出たがらない傾向にあると聞く。
深層の動きが表面に浮上し、顕在化した瞬間、そういう瞬間を意図せずじっくり観察することができた、暑く、そして「長い一日」、2009年8月15日の東京であった。
「日本のいちばん長い日」とは昭和の代表的ジャーナリスト・大宅壮一によるドキュメンタリーである。実際に執筆したのは、当時文藝春秋社にいた民間現代史家の半藤一利らしいが、映画化されたものを中学生の頃みて、角川文庫版も購入して読んだ(・・岡本喜八監督による1967年度作品、trailer あり。三船敏郎が阿南陸相を演じている)。
内容を乱暴に要約すれば、天皇陛下がマイクの前で録音した「玉音放送」を放送させまいとした、陸軍内の主戦派の一部将校がレコード・ディスクを奪取した上でクーデターを起こして戦争を継続させようとした動きと、それに対してディスクを守りぬき、無事1945年(昭和20年)8月15日正午からNHKのラジオでオンエアすることに成功した鈴木貫太郎首相(元侍従長・海軍大将)を首班とする政権側との、ディスク争奪戦をめぐる「長い一日」の記録である。
ノルマンディ上陸作戦 The D-Day は、別名 The Longest Day というタイトルで映画化されているから(日本語タイトル 『史上最大の作戦』)、大宅壮一は英語タイトルをもじってつけたのだろうか。
この映画は毎年TVで再放送すべきだと思うのだが。この時代に製作された映画には、まだ戦争のリアリティがにじみ出ている。
せっかくなので、いわゆる「終戦の詔勅」をあらためて聞いてみよう。
「耐ヘ難キヲ耐ヘ 忍ビ難キヲ忍ビ」で有名な「玉音放送」である。ナマの「玉音放送」を聞いてから、いろんな議論をすればよい。
原文は以下の通り。読みやすくするために、区切りを入れた(面倒だから、とばし読みしてもらってかまわない)。太字ゴチックは引用者によるもの。
詔 書
朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ
非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ
茲(ここ)ニ忠良ナル爾(なんじ)臣民ニ告ク
朕ハ帝国政府ヲシテ
米英支蘇四国ニ対シ
其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨
通告セシメタリ
抑々(そもそも)帝国臣民ノ康寧ヲ図リ
万邦共栄ノ楽ヲ偕(とも)ニスルハ
皇祖皇宗ノ遺範ニシテ
朕ノ拳々(けんけん)措カサル所
曩(さき)ニ米英二国ニ宣戦セル所以(ゆえん)モ
亦(また)実ニ帝国ノ自存ト
東亜ノ安定トヲ庶幾(しょき)スルニ出テ
他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ
固(もと)ヨリ朕カ志ニアラス
然(しか)ルニ交戦已(すで)ニ四歳ヲ閲(けみ)シ
朕カ陸海将兵ノ勇戦
朕カ百僚有司ノ励精
朕カ一億衆庶ノ奉公
各々最善ヲ尽セルニ拘ラス
戦局必スシモ好転セス
世界ノ大勢亦我ニ利アラス
加之(しかのみならず)
敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ
頻(しきり)ニ無辜(むこ)ヲ殺傷シ
惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル
而モ尚交戦ヲ継続セムカ
終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス
延(ひい)テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ
斯(かく)ノ如クムハ
朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子(せきし)ヲ保シ
皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ
是レ朕カ帝国政府ヲシテ
共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ
朕ハ帝国ト共ニ終始
東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ
遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス
帝国臣民ニシテ
戦陣ニ死シ職域ニ殉シ
非命ニ斃(たお)レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ
五内(ごだい)為ニ裂ク
且(かつ)戦傷ヲ負ヒ
災禍ヲ蒙リ
家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ
朕ノ深ク軫念(しんねん)スル所ナリ
惟フニ今後帝国ノ受クヘキ苦難ハ
固ヨリ尋常ニアラス
爾臣民ノ衷情(ちゅうじょう)モ朕善ク之ヲ知ル
然レトモ朕ハ時運ノ趨(おもむ)ク所
堪ヘ難キヲ堪ヘ
忍ヒ難キヲ忍ヒ
以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス
朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ
忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚(しんい)シ
常ニ爾臣民ト共ニ在リ
若(も)シ夫(そ)レ情ノ激スル所
濫(みだり)ニ事端ヲ滋(しげ)クシ
或ハ同胞排擠(はいせい)互ニ時局ヲ乱リ
為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ
朕最モ之ヲ戒ム
宜シク挙国一家子孫相伝ヘ
確(かた)ク神州ノ不滅ヲ信シ
任重クシテ道遠キヲ念ヒ
総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ
道義ヲ篤(あつ)クシ
志操ヲ鞏(かた)クシ
誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ
世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ
爾臣民其レ克(よ)ク朕カ意ヲ体セヨ
御名御璽
昭和二十年八月十四日
各国務大臣副署
実際にラジオ放送された際は、ほとんど聞き取れなかったという回想が多いが、これだけ難しい漢字をつかった文語体を耳できいて理解せよといわれても、果たして昭和20年時点でもそう多くはなかっただろう。誰がドラフトを執筆したのかしらないが、日本語としては難しすぎる。
いまこうやって、耳で音声を聞きながら、一字一句目で追っていくと、きわめて納得することの多い内容である。
ついでだから、「開戦時のNHKラジオ放送 臨時ニュース」も聞いてみよう。これは私も初めて耳にした、実に貴重な音声記録だ。また、緊急放送ではチャイムが鳴ることも初めて知った。たいへん勉強になる。
作家の伊藤整などが、聞いてスカっとしたと述懐しているらしいが、この気持ちはわからなくはない。
1990年、第一次湾岸戦争(the Gulf War)勃発前夜、戦争当事国の米国にいた私は、イラクに対する最後通牒が発せられてから1週間、ついに戦争に突入した際に、CNN報道での発表に対して米国国民が雄叫びをあげた現場に居合わせた。これは7月から半年以上続いていた閉塞感が破られた瞬間であり、「ついに始まったか!」という開放感であった。
「いちばん長い日」に戻るが、三船敏郎が演じた陸軍大臣・阿南幾茂(あなみ・これちか)陸軍大将が、「一死大罪を謝す」という遺書を残して現職閣僚として自刃したのは有名な話である。結果として、陸軍内部の主戦派を押さえきり、クーデターによる内閣崩壊、戦争継続になった場合にもたらされたであろう、壊滅的破壊を回避できたことにより、立憲君主制という日本の国体を護持することを可能とした。
もちろん、もう少し早く終戦が意志決定されていれば、原爆投下による悲劇も、特攻隊の悲劇もなかったのだが・・・
ノンフィクション作家・角田房子による一連の陸軍軍人の伝記のうちのひとつが、『一死、大罪を謝す-陸軍大臣阿南惟幾-』(新潮文庫)として阿南幾茂にあてられており、「バターン死の行軍j」の責任を問われ、戦犯裁判でフィリピンで処刑された本間中将の伝記『いっさい夢にござ候-本間雅晴中将伝-』(中公文庫)とともに、日本人として生きることの意味を考える上で、実に感慨深い読書体験となっている。
自死を選ぶのが、責任の取り方として正しいかどうか断言はできない。生きながらえて正々堂々と法廷で戦うことも責任の取り方としてあったであろうから。
さて、本日は「終戦」記念日、本当は「敗戦」記念日というべきだが、日本人の正直な気持ちとしては「終戦」といいたいのもわからなくはないので、通例にしたがっておこう。終戦記念日なので、靖国神社と千鳥ヶ淵戦没者墓苑に戦没者の鎮魂にいってきた。
靖国神社は、本殿までいったのは実は今回が初めての経験である。なんとなく靖国というと、あまりいいイメージをもたないよう世代的な刷り込みがされているため、これまで避けてきたのだが、虚心坦懐な気持ちで、とにかく行ってみることも重要ではないか、と気持ちを整えて参拝しにいった次第である。
なお、本日の報道によれば、麻生首相はカトリック信者だからか真意は測りかねるが、靖国神社ではなく、千鳥ヶ淵にしたという。実際に、私が訪れた際には、内閣総理大臣麻生太郎の名の記された花輪が2つ置かれていた。
地下鉄九段下駅で下車したら、駅構内にはすでに警官が多数、しかも外に出るエレベーターの交通整理が行われている。
地上にでたら驚いた。もういきなりものすごい人がビラくばりを行っている。今年は終戦記念日が土曜日にぶつかっているのでよけいに人が多いのだろうが、中国で弾圧されている法輪功信者やら、台湾支持派やら、自民党やら、現代史リビジョニストやら政治団体がビラ配り、シュプレヒコールとすさまじい。
靖国神社の前では、右翼の街宣車と警察・機動隊が押し問答をしており、街宣車の音声がやかましい。正直いって迷惑だ。
一歩鳥居のなかに入ると、街宣車は閉め出されているので比較的静かだが、とにかく暑いし、人が多いのには驚かされた。初詣の明治神宮なみの人の多さである。
しかも、けっこう若い人たち、それも20歳代、30歳代と思われる若い人たちが多いのにも、正直いって驚かされた。百聞は一見にしかず。明らかに遺族関係者ではなく、ここ数年、近隣諸国があまりにも騒いでいるので、かえって関心をかき立てられた若者が多いのではないか、と思われる。
本殿までいくまでがたいへんで、整列して並んでやっとのことで拝殿までたどりつく。
ここでお賽銭を投げ入れて、二礼二拍手一礼の型どおりの参拝をすませた。
ここで今回の最大の訪問目的である「遊就館」へ。もちろん訪問はこれが初めてである。
明治維新の功臣の霊を祀る目的で作られた招魂社が前身である靖国神社は、陸海軍を軸とした近代国家日本の歴史そのものであり、「遊就館」には、明治維新以来の戦争の歴史のパネル説明、武器や遺品の数々が展示されている。
最大の展示物はなんといってもホンモノのゼロ戦だが、驚いたことにこの「遊就館」もまた、ものすごい人の群れだ。入場料800円だが、美術展なみの人の入り方で、くたびれた。
展示質は全部で19室あるが、なんといっても圧巻は、「靖国の神々」という合祀された戦没軍人・軍属の小さな遺影が所狭しと飾られている部屋であろう。
沖縄本島の「ひめゆりの塔(ひめゆり平和記念資料館)」ではないが、無念にも戦争で死んでいった人たちのことを考えると、目頭が熱くなるのを止めることはできない。私は、靖国神社に合祀された遺族ではないが、日本人としては感じるものが多いのも当然だろう。
「遊就館」に併設された売店もこれがまたすごい人だった。プラモデルも置いてあるので男の子には人気だし、ミュージアム・ショップのような感じである。
せっかくなので『遊就館図録』と「卓上国旗・旭日旗・Z旗セット」を購入した。前者は、明治維新以来の近代日本の戦争の歴史が、展示パネルを図録にした形で収録されているので、資料としてもよくでいきている。「大東亜戦争」という記述で一貫しており、歴史観の違いから絶対に受け付けない人もいるだろうが。
靖国神社参拝だけでくたびれてしまったが、重要な目的である千鳥ヶ淵戦没者墓苑を忘れるわけにはいかない。
千鳥ヶ淵にいくのは、桜が美しい花見の季節を除いては、インド大使館にビザを取得しに行ったことくらいしかないが、8月15日に訪れるのはもちろん生まれて初めてである。しかも、靖国神社とセットで千鳥ヶ淵戦没者墓苑にいくのも初めての経験である。
お堀端は、夏は桜の木の木陰となるので、涼しい散策ができる。しばらく歩くと戦没者墓苑であるが、靖国神社と比べると、訪れる人は極端に少ない。
墓苑内は静かな静謐な雰囲気で、むしろこちらのほうが戦没者の追悼にはよりふさわしいのではないかと個人的には思う。
正面左手には、昭和天皇の御製が石に彫られている。「くにのため いのちささげし ひとびとの ことをおもへば むねせまりくる」。昭和35年(1960年)竣工。
正面右手には、今上天皇の御製が石に彫られている。「いくさなきよを あゆみきて おもひいづ かのかたきひを いきしひとびと」。平成17年(2005年)竣工。
麻生首相が捧げた花輪があったが、私も一輪の白菊の花を献花して、戦没者の霊を慰めた。手を合わせて静かに祈ることのできる空間として、むしろ靖国神社より望ましいかもしれない。
私は個人的には、靖国神社はそのままにして、千鳥ヶ淵を戦没者墓苑として国家的な位置づけを明確化する方向が望ましいのではないかと考える。
とはいっても、靖国神社の位置づけはきわめて難しい。
プレートに刻まれた戦没者数は、ものすごい。フィリピン518,000人、中国465,700人、満洲245,400人・・・日本人だけでこれだけの数だから、現地人の犠牲者も含めるととてつもない数になる・・・。
千鳥ヶ淵をあとにして九段坂をくだっていくと、神保町交差点、旧日本債券信用銀行本店前の歩道では、日の丸や旭日旗をふるデモ隊がシュプレヒコールをあげて、警察にくってかかっている。機動隊も多数動員されており、なんだかエキサイトしている状況である。戦争反対を叫ぶ左翼のデモ隊が靖国神社方向に向かうのを阻止するためらしい。
近隣諸国による、近年激しい応酬がなされてきた靖国神社問題にかんする感情的反発が核となった、いわゆる「ネット右翼」のオフ会のような雰囲気であるが、本人たちはかなり真剣に取り組んでいるようだ。参加しているのは大半が若者である。
排外主義を主張する内容は、あまりにも偏狭すぎてまったく賛同できないが、日本国内でこれほどエキサイトしているデモ集会の現場にでくわしたのは久々である。野次馬として至近距離で見ていたが、警察とはある意味なれ合いの関係にある街宣車型の旧来型右翼とはまったく異なる印象を受ける。
秋葉原の歩行者天国での無差別殺人事件もそうだったが、とくに若者のあいだで、なにかものすごく閉塞感が強く、抑圧され鬱屈した「空気」が、見えない深層で淀んでいるように感じられるのが、現在の日本の状況である。
今月末に総選挙が実施されるが、選挙演説なんか聞くよりも、こういった少数派ではあるが、極端な思想の持ち主の示威行動の現場を観察する方が、深層で進行している本当の変化について考えるためのいい機会になると考えてよいのではないか。
彼らの言動はひとことでいってしまえば、きわめて「内向きなナショナリズム」の発現である。海外生活において日本人のアイデンティティを自覚するタイプの「健全な外向型のナショナリズム」ではない、「不健全な、病的な、内向型のナショナリズム」だ。
ふだん、ネット空間のなかで交わされる応酬も、関心のない人間にはまったく知られることもないだろう。おそらく本日のデモの一部始終は、ビデオとして彼ら自身によって YouTube などに投稿されるのであろうが、公共の電波にのって報道されることはまずありえない。したがって多くの人たちの知るところにはならない。
意識的に健全なナショナリズムを促進すべく製作誘導を行わないと、また何かの形で抑圧された黒いエネルギーが噴出しそうな気がする。その点、シンガポールとは違って、届け出さえすれば街頭集会もデモもできる国なんだから、日本国の国民であることはありがたい。この程度のガス抜きさえ定期的にやっていれば、最悪の事態を回避することはできるだろう、とは思うのだが・・・
若者をもっと日本の外に連れ出して、外から日本を眺める機会をもっと与えなくてはならないのではないか?最近の若者は海外には旅行ですら出たがらない傾向にあると聞く。
深層の動きが表面に浮上し、顕在化した瞬間、そういう瞬間を意図せずじっくり観察することができた、暑く、そして「長い一日」、2009年8月15日の東京であった。
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