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2009年10月31日土曜日

カンボジアのかぼちゃ




 きょうはハロウィーンである。
 近年では日本でもオレンジ色のパンプキンが季節の飾り物として、あちこちで目にするようになったいる。巨大なお化けパンプキンさえスーパーマーケットの野菜売り場に展示してあったりもする。コスプレ姿の人たちも今夜は仮装行列で街中に繰り出すのだろう。
 ハロウィーンの決まり文句は trick or treat、子供たちが口にする「お菓子ください、じゃないといたずらしちゃうぞ」、という意味のようだが、もともとどういう意味だったのかはわからない。
 
 ハロウィーン(Halloween) は、11月1日のカトリックの祝祭日、万聖節(=諸聖人の日 All Saints' Day)の前日(=イブ)に行われる伝統行事である。英語圏では、諸聖人の日の旧称が、"All Hallows" なので、Halloween とよばれるようになったらしい。もともとは先住民であるケルト人の民俗暦が、キリスト教と習合して誕生したもののようだ。復活祭などと同じである。
 ただし、アングロ・サクソン系諸国で主に行われる行事であって、カトリック地域ですべて祝われるわけではない。由来からしてみたら、そもそもきわめて"異教"的要素の強い祝祭である。完全にキリスト教化されていないまま今日に至る、ということだろう。日本でも10月は神無月で、すべての神々は出雲に集まるということになっている。

 万聖節は、欧州ではフランス、ベルギー、ドイツといったカトリック国では休日となる。なお、ドイツは本日10月31日は「宗教改革記念日」で11月1日は「万聖節」、北部のプロテスタントと南部のカトリック、という具合にうまく棲み分けがなされている。
 アジアでは唯一フィリピンのみが休日となる。アジアのカトリック大国である。フィリピンでは、スペイン語のまま Todos los Santos という。All Saint's Day より、os で語尾で韻を踏んでいるので語呂がいい。
 万聖節には、家族みんなでお墓参りにいく。日本のお彼岸のようなものなのだろうか。フィリピン出張を入れる前にカレンダーを調べてはじめてこの周辺が休みになってしまうことを知ったのだった。

 そういえば、かなり前の話だが、米国留学中の日本人少年が米国南部のルイジアナ州で射殺された事件があったなあ。たしか服部君という名前ではなかったか。
 ハロウィーンである家を訪問したら、不法侵入とみなした住人がピストルを構えて Freeze! と叫んだのを Please と聞き間違えて、そのまま玄関にむけて歩き続けたら、いきなり発砲されたという事件だ。日本人の英語聞き取り能力にまつわる悲劇的な話である。
 陪審裁判では正当防衛として無罪になっている。事件の起こったルイジアナ州はフランス系移民の多いところで、フランス文学の『マノン・レスコー』の舞台でもあるし、フランス映画の『アデルの恋の物語』の舞台でもある。米国がフランスから買い取った領土である。
 しかし、ルイジアナ州は湿地帯が広がる地帯で、男たちの趣味はワニ狩りとかいう荒っぽい世界でもある。マチスモというラテン気質が残存しているのだろう。
 州都のニューオーリンズはもともとフランス語でヌーヴェル・オルレアンである。しかし現在では、カナダのケベック州とは違って フランス語は使用されていない。

 ハローウィーン・・・こういう風習が日本に定着することは正直いって好まないなあ。もちろんその背景には、クリスマスやバレンタイン・デーのように、商業主義が見え隠れして、あまり好きになれないんだよねえ。
 英語を小学校からやるなんて愚策が浸透すると、どうせお遊び英語しかやらないだろうから、ハロウィーンなんて格好の教材(?)となるのだろう。そしてまた一つ米国の風俗がさらに日本に定着していくのか。
 でも、本当は日本のかぼちゃは米語では pumpkin じゃないんだそうだ。squash というらしい。
 ということはつまり、ハロウィーンのパンプキンと、煮物のかぼちゃはそもそも別物なわけだ。

 私にとっては、かぼちゃ は かぼちゃ。あくまでもカンボジア伝来のアジアの野菜。
 かぼちゃは基本的に煮付けて食べるのだ、と思っている。ほくほくしたクリかぼちゃは実にうまい。
 南瓜(なんきん)ともいうが、かぼちゃといったほうが、カンボジア(・・正確にいうとカンプチア)から伝来したことが明確になるので、このネーミングが好きだ。
 ポルトガル語の「Cambodia abóbora」(カンボジャ・アボボラ、「カンボジアのウリ」の意)から来ているらしい。
♪お寺の和尚さんが かぼちゃのタネを蒔きました
 芽が出て膨らんで 花が咲いて ジャンケンポン

 先日、ある会合でハロウィーンのかぼちゃが話題になったときに、最近の子供は秋祭りよりもハロウィーンなんだねーなんて会話の最中、ほぼ同世代なのに、この遊びを知らないという人がいるので驚いた。
 北海道出身の彼女は本当にまったく知らなかったようで、これは世代差というよりも地域差なのだろうか。♪日本列島、狭いようで広い~

 ちなみに、私が東南アジア・スイーツで一番好きなのは、かぼちゃプリン。
 小型のかぼちゃの中身をくりぬいて、牛乳とアヒルの卵と砂糖をまぜたミックスを漉し、再びかぼちゃに詰めて、蒸したスイーツである。かぼちゃの果肉とプリンを一緒に食べることになり、本当においしいのだ。
 タイでもあちこちで売られているが、カンボジアのプノンペンで食べた"かぼちゃプリン"は最高においしかった。

 そう、なんといっても、かぼちゃはカンボジア、である!!

               


  

2009年10月30日金曜日

秋晴れの青空のもと、3年ぶりに"神田古本まつり"に行ってみた




 午前中、東京で所用があったので、せっかくの秋晴れの青空だし、毎年恒例の「神田古本まつり」に足を伸ばしてみた。
 いわゆる青空古本市である。今年でちょうど50回目らしい。初めて来たのは高校時代のことだから、初めて来た頃は、まだそんなに歴史がなかったというわけだ。


 その前に本日の昼食について書いておこう。すでに1時を過ぎていたが、老舗"いもや"の"とんかつ定食(汁付き)750円也"を食べた。
 神保町にくるときは、ほぼ毎回、水道橋駅から歩いて神保町駅方面にむけて徒歩で南下するのだが、昼食か夕食はほぼ例外なく、中間に立地している、"いもやのとんかつ"で食べることにしている。
 私は、いもやのとんかつは世界一うまい、と思っている。日本で一番うまいということは世界で一番うまい、ということと同じである。
 いもやというのは屋号で、神保町界隈に天麩羅(てんぷら)と天丼、それにとんかつの専門店数店を出している。
 いわば、いもやという企業ブランドの下に、それぞれ専門店が傘下にあるような形態で、飲食というコンセプトは共通しているが、それぞれ異なる専門の店をゆるく統合した形態の経営であるといえようか。
 天麩羅は、揚げたてのものがカウンターでリーズナブルな価格で食べられるし、とんかつも揚げたてのジューシーなのを、赤味噌のしじみ汁とともに食べることができる。
 なんせ水道橋から神保町にかけては、東京でも日本大学や専修大学、共立女子大学などの都心キャンパスが密集した有数の学生街なので、飲食はみなリーズナブルな価格帯で提供されておりたいへんありがたい。いもやも、お客さんは大学生だけでなく、サラリーマンも多数おり、いつも外にはみだすほどの行列になっているのである(写真)。

 "とんかつ定食"と"ひれかつ定食"の二品のみ。店に入った瞬間に、どちらにするかまず聞かれる。順番がきてカウンターに座る頃にはちょうどとんかつがあがって、厚くて熱いとんかつを大盛りのキャベツと一緒に食べることができる。口の中で、とんかつ肉と脂身と自家製ソースとカラシがジューっと一緒になる瞬間、まさに至福の境地である。熱いうちに食べてしまうのが正しいのである。
 店内はほぼ完全に男だけ、カウンター席に座って、みな黙々と食べている。控え席で多くのお客さんが待っていることを知っているので、おしゃべり無用、携帯禁止・・・店内はとんかつを揚げる職人さんたちの絶対的支配空間なのである。 いやなら出て行ってくれと言わんばかりの緊張した雰囲気だが、安くてうまいので誰も逆らう者はいない。
 そうそうこれを忘れてはいけない、自家製の切り干し大根のおしんこは食べ放題、これがご飯にマッチしていて実にうまいのだ。
 職人たちは、ひたすらとんかつを揚げ続ける。昼食時間帯もも夕食時間帯もいつも戦争状態である。
 私は月に一度か二度は、この"世界一うまい"とんかつ定食を食べるのを楽しみにしている。


 さて、本題の"古本まつり"である。
  "世界最大の古書店街"である神保町は専門書店の一大集積地なので、標準的な価格からはずれた、いわゆる掘り出し物など実はどう考えてもありえないのだが、通常価格より多少は安めに設定しているので、ついつい買ってしまいがちである。
 就職するまでは乏しい小遣いのなかで、自分の蔵書にハードカバーの単行本を加えたいと思えば、古本を買うしかなかったから、古本まつりでは何冊も買ったものである。だがいまの私は、何とかして本を減らしたいという状況にあるので、おのずから慎重な姿勢になる。今回は、中公文庫の古いレアものと、タイの民俗学専門書の翻訳新刊本を超格安で購入したのみにとどめておいた。
 古本まつりには、ここ3年ほどは海外出張やバンコク滞在などのため訪れていなかったが、あるべき場所にあるべきイベントがあるのを見る、というのは気持ちよい。毎年恒例のイベントというのは、"継続こそチカラ"の好例なのである。

 "本の街"神保町もだいぶ様変わりしているのが感じられる。新しいタイプの古書店が増えているのだ。
 昔ながらの店もあるが、若い経営者を中心に、個性的な古書店を開くケースが増えているようだ。こうしたお店は、空間演出としてオシャレなブックカフェのような店もある。本というのはインテリアの重要なアイテムでもあるから、これを意識的に活用しない手はない。
 古着屋感覚で古本屋をやる、というところにセンスの良さが現れているのかもしれない。この業界も新陳代謝が進んでいるようだ。

 "第50回神田古本まつり"は、10月27日(火)から11月3日(火)まで。同時開催のイベントが第19回神保町ブックフェスティバルとして今週末開催される。




                  

2009年10月29日木曜日

『取締役 島耕作』 全8巻を一気読み




 『取締役 島耕作』(講談社、2002~2005)全8巻を一気読みした。マンガ週刊誌を読む習慣をやめて久しいので、現在は単行本になったマンガをときどき読むだけとなっている。

 2002年に、私がとある中小企業の取締役となったと同時期、"部長"島耕作は"取締役"島耕作になった。
 そして、私は単行本をリアルタイムで購入し第2巻まで読んだのだが、それ以降そのままとなっていた。
 その頃、たまたま社内の有志で上海にプライベート旅行にいったので、それが読むキッカケの一つになったのかもしれない。記憶は定かではない。

 島耕作は"常務"となり、いまは押しも押されぬ"社長"である。
 作者の弘兼憲司はいったいどこまで描き続けるのか。会長までは描くかもしれないが、まさか"相談役"島耕作はありえないだろう。読者が望むとも思われない。
 私は取締役を7年つとめた後に退職したが、そもそも大企業の役員になった島耕作とは大違いである。なぞらえること自体、僭越ではあった。

 あらためて第1巻から8巻まで全巻とおしで読んでみて、すでに読んだはずの第2巻までの内容をほとんど覚えていないことにがくぜんとした。
 人間の記憶力のあてのなさに呆然とする思いである。

 上海担当の取締役として中国ビジネスに従事した島耕作は、2002年から2005年までの中国をリアルタイムで経験することになる。
 セットメーカーである初芝電器(・・モデルは松下電器)とは直接の取引はなかったので知らないが、部品メーカーにいた私にはここらへんの状況は手に取るように理解できる。
 とはいえ、上海はおろか、中国駐在を経験したことがない私は、中国各地の工場を視察したのみであり、中国ビジネスの、ごくごく一部を知るに過ぎない。

 2009年現在では、すでに昔話になっていることも多いと思うが、中国ビジネスに関わる人が、少なくとも最低限の常識として知っておくべき事はすべて描き込まれている。
 これから中国ビジネスにかかわる人は目を通しておくといいだろう。もちろん、日進月歩の上海経済である。4年前といえば、感覚的に言えば一昔も二昔も前の事になっているはずだ。
 この間に私は上海には二回しか行ってないので、上海はねーなどと語る資格はない。

 そしてオモテの世界とウラ世界の関係、これは中国に限らず海外ビジネスでは避けて通れない問題だ。
 マンガとはいえ、島耕作も危ないことに首を突っ込みすぎだ。ウラの世界は知識としてのみ知っておけばよい。あえて自ら関わるべきではないのだ。
 また、島耕作も中国人女性と関係を持つ設定になっているが、これも実にきわどいものだ。この手の話で、表沙汰にならずに内々で処分されている話は、私の伝聞においても腐るほどある。
 身辺はキレイにしておくに越したことはない。昼のビジネスそのものがハードで、しかも夜は欲望渦巻く中国においてはきわめて困難なことではあるのだが。

 なんだか久々に"ビジネス書"を読んだなあ、というかんじがする。
 ビジネスものは小説でも、マンガでもすぐにアウト・オブ・デイトになりがちだが、島耕作の物語は、ある意味では戦後日本経済史を生きるビジネスマンのライフ・ヒストリーそのものだから、今後も生きのびていくことだろう。ある時代の記録、として。そして特に団塊世代のビジネスマンが自らの人生を振り返るときに。

 しかし、"常務"島耕作にはもはや関心はない。したがって"社長"島耕作にも関心はない。私はそもそも大企業組織のなかで出世の階段を上り詰めたいなどと考えたことは一度もない。そしていまやもう組織のなかで生きるのはうんざりだ。
 おそらく、取締役になった時点で、島耕作は自分が思い入れ出来る対象ではもはやなくなった、と思ったビジネスマンも多いはずだ。
 でも、いいだろう。せめてマンガの世界の中だけでも、島耕作にはカッコいい男でいてほしいものだ。

 だが本当のことをいうと、弘兼憲司の作品はあまり好きではない。私がポスト団塊世代の人間だからかもしれない。思い入れを感じないのだ。
 弘兼憲司の配偶者でもあるマンガ家・柴門ふみを私は長く愛読してきた。機会があれば柴門ふみについて書いてみたいと思う。

                   


   

2009年10月28日水曜日

"昭和ノスタルジー"な一夜・・・船橋漁港直送 「いわし料理 ふなっ子」にて




 千葉県の船橋は東京湾に面した漁港である、という話は船橋大神宮の奉納相撲について書いた際に紹介した。
 その船橋漁港から直送したイワシを26種類もの料理法で食べさせてくれるのが、「いわし料理 ふなっ子」である。船橋の美味いものはアサリだけじゃない。

 昨日、仕事の打ち合わせ(・・そろそろ社会復帰に向けた動きが始まりつつある)のために私を含めて3人が集まることになった際、浦和在住者の一人以外は、千葉県在住者が二人いるという理由で交通の便のいい西船橋に集まることにした。
 打ち合わせの後、どこか飲みにいくことにしましょうということなので、前からいってみたかった「ふなっ子」にしませんかと提案したところ、満場一致で賛成、さっそく予約をいれてもらった、という次第だ。その結果、打ち合わせ場所も東船橋駅前に変更。

 JR東船橋駅は船橋駅と津田沼駅の中間にある駅で、私の母校である千葉県立船橋高校のすぐ近くなのだが、高校時代はまだ駅は完成していなかった。しかも当時はまだ"国鉄"であった。
 大半の生徒は京成線のセンター競馬場前駅(・・当時の駅名、現在は 船橋競馬場前駅、そのまんまの駅名だ)から歩いて通っていたものだ。センター競馬場前駅の"センター"とは、いまはなき"船橋ヘルスセンター"のこと、健康ランドとして一世を風靡した船橋ヘルスセンターは、私の高校時代はまだ完全には閉鎖されておらず、スケートリンクに遊びにいった記憶がある。
 船橋ヘルスセンターの跡地は現在ららぽーと Tokyo Bay というSCに変化している。ららぽーとの第一号店である。船橋ヘルスセンターは、常磐ハワイアンセンターと並んで、古き良き昭和の大衆娯楽の一代総合レジャー施設であった。なつかしい響きである。昭和も遠くなりにけり、か。
  
 さて、「いわし料理 ふなっ子」だが、お店については様々なウェブサイトやブログで紹介されているので、あえて付け加えるものはない。屋上屋に架す、というものであろう。東船橋駅から歩いて数分のところにある。

 デザイナーのN氏、広告代理店営業のS氏それに私の3人は、はじめて来たので、店主におすすめをしてもらうことにした。
 いわしのユッケを食べたところ、あまりの美味さに異口同音に「これは美味い!」と口にする三人。さすが、店主が毎朝、船橋漁港から仕入れてくる新鮮ないわしである。このほかにも、いわしの刺身、いわしのコロッケ(!・・写真 いわしの腹にじゃがいもを詰め込んで油で揚げたコロッケ)、いわしのぬた・・・などなど、生ビールで数々のいわし料理を堪能した。

 美味いいわしに、美味い地酒で談論風発、奇しくも20歳代・30歳代・40歳代となった男性三人、酒飲めば世代差なんか気にすることもなく和気藹々、これは本当にいい店を見つけた、また打ち合わせはここでやりましょう、という結論に落ち着いた。

 店主に聞いてみると開業してから25年、私の高校時代にはまだなかったわけだ。店の壁面に描かれた魚の絵は、県立芝山高校の美術の先生が描いたものだということだ。
 「いわし」を切り口に、「いわし」を軸として確立したこのお店のコンセプトは、きわめて明確である。スモールカンパニー経営の原理原則にきわめて忠実であるといえよう。
 一階のお客さんの半分は常連さんのようだった。7時半も過ぎれば満員に。
 座敷に上がっていたわれわれ三人は、11時の閉店までえんえんと日本酒を飲み続けたのであった・・・


 店をでたあと県立船橋高校まで歩いてみた。市立船橋高校とは総武線を挟んで反対側にあるのだが、われわれは学校名を略して「船高(ふなこう」または「県船(けんふな)」といっていた。だから、「ふなっ子」というネーミングはなんんか親しみを感じる。♪ どじょっこだーの ふなっこだーのー 
 お店からは数分で到着、真夜中なのであまりはっきりとは見えなかったが、20数年ぶりに訪れた我が母校は、校舎の配置など昔とまったく同じで、なんだか懐かしいような、うれしいような気持ちになった。
 正門は昔よりもはるかに立派になっていたが、同行していたデザイナーN氏は自分の母校でもないのになぜかノスタルジーを感じる、といっていた。そういうものなのだろう。

 昭和ノスタルジーを満喫した一夜であった。
                     




                    

2009年10月27日火曜日

ゾマホンさん(="2代目そのまんま東")の語るアフリカの本当の姿 (情報)


             
 ソフトブレイン創業者・宋文洲さんのメールマガジンをずっと購読しているが、最近の連載にアフリカはベナン共和国のゾマホンさん寄稿の連載ががあって、これがたいへん面白くて説得力のある文章である。
 タイトルは、コラム「人生甘くないよ」、メルマガ最新号の第133号では、すでに連載は第4回まで進んでいる。ゾマホンさんと宋文洲さんは、「ここがへんだよ日本人」というTV番組で出演者として知り合ったらしい。

 「さんまのからくりTV」に出演していた頃、アフリカ人3人のやりとりがあまりにも面白かったので覚えているが、ゾマホンさんは、本当はかなりのインテリなんだねー。上智大学大学院博士後期課程単位取得退学(社会学専攻)。ベナン大統領特別顧問、だそうだ。
 TVタレントとして、"2代目そのまんま東"という芸名を、たけしからもらったらしいが、彼もいずれ地元に戻って政治家になるのかな?

 ゾマホンさんについては、まず第1回連載「ゾマホンについて」を読んでいただきたい。出身国ベナンと「アフリカについては、第2回連載「ベナン共和国とは・・・アフリカの歴史とは・・・」を。
 ゾマホンさん自身のウェブサイトがある。ZOMAHOUN.com で、日本語版と英語版が用意されている。

 なぜあえてこの人のことをあらためて紹介するかというと、この人は、日本のことだけでなく中国のことを熟知しているからなのだ。
ゾマホンさんは、10月2日付けの宋文洲メルマガの第132号で、連載第3回「日本のマスコミについて思う」で、次のようにいっている。
思い返せば、私はアジアに来て、23年目になりました。中国には7年、日本は16年目です。私が来日した当初、テレビや新聞で読むアフリカ大陸の情報には本当に腹がたちました。なぜかというと、前回のメルマガでもお話ししましたが、アフリカに関する情報の80パーセントが間違った情報だからです。今回はその点をお話します。

 最近、アフリカが話題になるのは、中国が資源目当てでものすごい食い込み方をしており、現地の腐敗する独裁政権に荷担しているのではないか、という国際的非難が高まっているという報道が多い。スーダンにおける中国のプレゼンスなど、はっきりいって私も大きな問題だと思うが、とはいっても自分自身の目で確認したわけでなく、あくまでもマスコミから得た二次情報に過ぎない。

 直近号は、第4回「日本とアフリカの関係について」と題したものだが、実はアフリカと中国の関係について語っており、耳を傾けるべきだと思われた。
アフリカ大陸の事について、私が皆さんに伝えたいことをもう一度整理します。
第一に「アフリカ大陸の事実を知ってほしい。」ということです。
第二に、「アフリカ大陸から紛争を無くすには、アフリカ諸国に武器を売ってはいけない。」ということです。
この二つに関しては、前回のメルマガでお伝えしたとおりです。

そして、今回は三つ目。「ODA(政府開発援助)をバンバン出すよりも、民間企業の投資を促進して欲しい。」ということです。

(中略)

アフリカへの投資に関しては、最近、中華人民共和国(以下、中国)が欧米諸国に批判されています。日本でも一部批判をしているのを聞きます。
その理由は、“中国はアフリカ大陸の資源を確保するために一生懸命投資をしているが、アフリカの国は人権を守っていないから、投資をするな”という批判です。私はその意見は絶対許せません。

中国も昔は、欧米諸国の植民地でした。植民地という苦しみを知っている国です。そんな中国とアフリカ諸国の関係は昔からあります。

日本では批判もありますが、アフリカでは毛沢東は尊敬されている人物です。
なぜなら、毛沢東は1970年代から、“我々はアフリカと兄弟である”と何度も演説していました。そして、その当時から中国はアフリカ諸国と兄弟のように付き合ってきました。

このことだけを聞くと、皆さんも色々意見があるかと思いますが、でもこれは事実です。アパルトヘイトがある時代からもずっと兄弟のように付き合ってきました。

私が言いたいのは、中国のアフリカ投資を批判するよりも、どうすれば、日本の民間企業がアフリカ諸国に投資しやすくなるかを考えなければいけないと思っています。民間企業の投資を促進するために、日本政府がそれをバックアップできる仕組みを作って欲しいと思います。
(後略)

 ゾマホンさんの意見にはまったく同感である。
 私の知り合いに、長年マカダミア・ナッツのビジネスに従事して、現在はコンサルタントをやっている人がいるが、ハワイ土産で定番のマカデミア・ナッツも生産高ではアフリカが最大のようだ。日本人もアジアだけでなく、アフリカもビジネスベースで付き合うときがきているのかもしれない。
 ゾマホンさんの第4回連載の全文は、そのうち、ソフトブレインのウェブサイトにアップされると思うので、その際はぜひ読んでみるとよいと思う。

 アフリカ人が、日本語で肉声を語る。英語でも、フランス語でもなく、日本語で。とはいえ、現状から考えると日本人が考える以上に、中国語のできるアフリカ人のほうが多いのだろう。
 東京でも、ゾマホンさんのようなインテリだけでなく、夜の六本木はアフリカ人があふれているが、中国の広州はほんとに驚くほどアフリカ人が多いのだ。総合商社のアナリストによる、「不法滞在のアフリカ系黒人に“占領”される中国・広州市」というリポートもある。
 私自身も、昨年、中国最大規模の展示会である"広州交易会"に初めていってみたが、ものすごい数のアフリカ人がバイヤーとして、熱心に中国人と商談している場面にでくわした。
 安い商品を仕入れてアフリカで売れば十二分に利益がでるようだ。
ついつい日本人の目からみたら、安くてちゃちなと思ってしまうが、無数にある中国企業がボリュームゾーンを確実に押さえているのは間違いない。
 "メイド・イン・チャイナ"は、その昔の"メイド・イン・ジャパン"と同じ位置づけなのだろう。この先、品質レベルがあがっていくと、文字通り中国は世界の工場となるだろう、それも自らの名牌(=ブランド)をつけて。

 こちらがアフリカにいかなくても、アフリカがどんどんこちらに近づいてくるような気がする。
 アフリカとどう付き合うか、これは私のメインテーマではないが、アタマの片隅には置いて時折考えてみる必要がある、と思っている。

         



  

2009年10月26日月曜日

書籍管理の"3R"




 環境問題の3Rは、知っている人も多い思う。すなわち、Reduce、Reuse、Recycle の頭文字Rである。
 廃棄物を減らし(リデュース)、再使用(リユース)し、資源として加工し再利用(リサイクル)する。
 この3Rは、環境負荷の小さい順に並んでいる。リサイクルはリユースよりも余計にエネルギーコストを要するので、環境負荷が高い。

 企業の人事管理でも3Rという表現を使う。すなわち、Recruit(リクルート)、Retain(リテイン)、Release(リリース)である。
 ただし、これは環境負荷の大きさとは関係ない。従業員の採用から退社までの一連の流れ(=フロー)をRで始まるコトバでまとめたものだ。
 採用(リクルート)し、確保し(リテイン)、退社させる(リリース)。かつての日本の大企業では、終身雇用という名の長期安定雇用が維持されていたので、退社させる、というのは懲戒免職など例外的な事象であったが、近年では適正なフローを維持するためには退社してもらうことも人事戦略の一環として位置づけられている。


 本の管理を入手から廃棄までの一連の流れとして捉えれば、本を入手(リクルート)し、保持・所有(リテイン)し、手放す(リリース)と表現することができる。人の一生には限りがあるし、図書館だとて収容能力には限界があるから、メタボリズムの観点からリリースは避けて通れない。 
 蔵書も入手から、売却などによる廃棄までの流れの管理を定期的に行わないと、故草森紳一のような事態におちいる。また先日起きた札幌の事故のような惨事も免れ得ない。

 また、本の処分の方法論について考えてみれば、まず何といっても環境問題の3RのうちReduce が該当するが、収納するキャパシティを拡大するか、あるいは本を減らすかという二通りの方法が本来はある。
 前回の引越ではキャパシティを1.5倍に拡大した。整理するためのスペースが欲しかったためである。その過程でダンボール箱を約100箱分処分した。
 今回の引越ではキャパシティは逆に1/2に縮小した。縮小した収容能力において、さらに処分を余儀なくされたのは、やや誤算ではあった。すでに引っ越してきてから約25箱を処分した。現在まだ整理中であるが、最低10箱は処分することになる見込みだ。できれば20箱を目標としたい。それでもまだまだ多い。


 世界的な言語哲学者・井筒俊彦は、戦前の若き日にアラビア語とイスラーム哲学を直接学んだタタール世界で随一の大学者を回顧して、司馬遼太郎との対談のなかで以下のようにいっている。出典は『司馬遼太郎対談集 九つの問答』(朝日新聞社、1995)

 その大学者はイスラーム世界の学者の伝統に従って、「・・本なんか読むのは第二次的で、まず、生きた自然、人間を見て、神がいかに偉大なものを創造し給うたかを想像する」(p.15)ために諸国漫遊し、日中戦争のさなか、日本に滞在していたという。
 井筒氏に対して、「・・おまえみたいなのは、本箱を背負って歩く、いわば人間のカタツムリだ。そんなものは学者じゃない。何かを本格的に勉強したいんなら、その学問の基礎テキストを全部頭に入れて、その上で自分の意見を縦横無尽に働かせるようでないと学者じゃない」(p.18)といわれたそうだ。コーランも、ハディースも、神学、哲学、法学、詩学、韻律学、文法学もすべてテキストとその注釈がアタマの中に入ってたらしい。
 タタール人の大学者から見れば、本なんか抱えこんでいる私のような人間は、"下の下"ということになってしまうが、それは当然だろう。人間の記憶能力には限界があるし、またHDD(ハードディスクドライブ)という外部記憶装置に恵まれている現在人は、もはや救いようのない存在かもしれない。

 国文学者・民俗学者の折口信夫も、万葉集のテキストは4,500首以上すべて暗唱できたというから、独創的な研究を残した、突出した天才学者というのは、多かれ少なかれ、抜群の記憶力をもっていたことは確かなことだろう。いちいち文献をひっくり返しているようでは、アタマの中で猛スピードでフル回転させることは不可能だからだ。


 しかし凡才といえども、長く一つのことに従事していると、経験知が集積していくので同じようなことも可能になる。いちいち文献をみなくても瞬間的に正しい結論を出せるのは、脳のこの機能のおかげだろう。ただし正確性に欠けるのは仕方あるまい。
 企業経営でも、自分が経営する会社の細々とした数字がたちどころに口をついて出るようでなければ、本当の意味で経営者ではない、といわれるのはこのことを指している。
 つねに一つのことを考え続けていることが、これを可能とするのである。すでに第一線からは引退しているが、現役時代のビル・ゲイツもそうだったという。

 このエピソードは、先に"生まれてから一度も本は手放したことがない"と豪語している男として紹介した、現在投資家として活躍する人の本に出ていた話だが、この人はひたすら収容スペースの拡大を行って対応している。カネのある人間にのみ可能な贅沢である。いや、もしかしたらそのためにカネを稼いでいるのかもしれない。
 しかしながら、この男とて、いずれ寿命がくれば自らの手ではなく、家族あるいは財産管理人の手によって、蔵書は解体されることになるのである。まこともって、"蔵書一代"、果たして彼はこのことを認識しているのかどうか。

 高校時代に買って、引き出しのなかに保管して、飴を舐めるように、何度も繰り返し目を通していた、紀田順一郎の 『現代人の読書-本のある生活-』(三一新書、1964)にこういうエピソードが載っていた。ある蔵書家の男の蔵書印には、「我が亡き後は売りてよね(=米)買え」と書いてあったそうな。私が好きなフレーズである。カネになる本でもあれば、残された家族の生活費くらいにはなるだろう。
 最初から売るつもりなら、蔵書印など押さない方がいいのに・・・と思うのは、さらなるリアリストの見解か。とはいえ、本には線を引いたり書き込みをしてしまうのは、私の長年のクセであり、やめられない。『現代人の読書』は、私がもっているのは1977年12月の第6刷、この本は買ってからすでに30年近くたっている。
 線は引いていないし、書き込みもしていないが、いまだにリリースせずにリテインしているし、また今後もリテインしつづけるだろう。内容的にはすでに古くなりすぎているのだが、実用的でありながら反時代的な志向性が好ましいからだ。とても29歳の人間が書いたものとは思えない内容である。年寄りが書いた本だとずっと思い込んでいたのだった。
 
 自分が買った本は、過去のある時点での記憶と結びついているものだ。であるがゆえに捨てがたいし、であるがゆえに捨ててしまいたい記憶にまつわるものもある

 個人蔵書もまた、一回限りの人生の軌跡である。

       

<ブログ内関連記事>

『随筆 本が崩れる』 の著者・草森紳一氏の蔵書のことなど
・・一橋大学の藤井名誉教授の蔵書処分の件について、私の大学時代のアルバイト体験も記してある。「蔵書一代」!

書評 『ヒトラーの秘密図書館』(ティモシー・ライバック、赤根洋子訳、文藝春秋、2010)

『ちょっと本気な 千夜千冊 虎の巻-読書術免許皆伝-』(松岡正剛、求龍堂、2007)で読む、本を読むことの意味と方法
  
本日よりイスラーム世界ではラマダーン(断食月)入り
・・『ハディース』について


*本文を読みやすくするために、改行の導入と関連記事の追加を行った(2011年2月4日)




    
   

2009年10月25日日曜日

書評 『変人 埴谷雄高の肖像』(木村俊介、文春文庫、2009 単行本初版 1999) 




人の話を聞く、ということもまたクリエイティブな行為なのだ

 単行本のタイトルは 『奇抜の人』 だったという。
 文庫版のタイトルは 『変人』。これは実にインパクトがある。

 立花隆が東大教養学部でゼミをもったあと、『東大生はバカになったか』(文藝春秋)なんてタイトルの本を出したが、この著者の木村俊介氏はまったくの例外というか、立花隆も折り紙付きの出来であった学生らしい。
 この本を読む限り、インタビューにかんしては、むしろ立花隆よりはるかに上なんじゃないのかな、という気さえするのである。よくここまで相手の心を開かせて、これだけの内容を聴き取ったものだ、と。

 文庫版の著者あとがきによれば、『変人』というタイトルへの変更は、出版社というよりも著者自身の思いが反映しているようだ。
 「・・企画を始めて感じた「うわ、こんな人がいたのか」という印象を前面に出してみたい、と文庫化にあたって題名を『変人』にさせていただいた」、と。

 この本は、埴谷雄高(ハニヤ・ユタカ)という作家について、身近に接していた近所の人から始まって、交友関係のあった作家や芸術家、そしてその子供たち、熱烈な読者だった現役の作家やミュージッシャンなど総勢27人に行った、ロング・インタビューを一書にまとめあげたものである。
 一人あたり数時間、あるいは何回にもわけてインタビューが行われただけでなく、実際にインタビューを行った数はさらに多いという。やむなく27人に限定した、という。

 私は、埴谷雄高をハニヤ・ユタカと読む変わった名前の作家だ、ということぐらいは知っていたが、正直いって彼が生涯にわたって書き続けて、しかも未完に終わっている 『死霊』 という長編小説も読んだこともないし、おそらく今後も読むこともないと思う。
 また、世代からいっても、左翼の立場にたった彼の政治論文をまったく読んだこともない。つまり、この本を読むまで埴谷雄高という人が、何をしてきた人なのかほとんど何も知らなかったのである。つまり何の思い入れもないのだ。

 しかし、この『変人』というタイトルに惹かれて読み出したら、やめられなくなってしまった。
 埴谷雄高という人が、あまりにも「変な人」だったからだ。でもこれは、むしろ最大のほめコトバとして使っている。面白すぎるのだ。
 多くの人に愛され、しかし誰も愛していなかった人、そういう印象が読後感として残っている。

 著者がなぜ埴谷雄高という人について、関係者インタビューを始めたのか明確に語っていないのでよくわからないが、インタビューを続けるうちに、もっともいろんな人に話を聞かねばならない、と思ったらしい。
 その結果が、このポリフォニー(多声音楽)ともいうべき作品に仕上がっている。インタビュー対象となった27人が、それぞれの視点で埴谷雄高という人について語る。これは文字通りの"複眼"である。
 埴谷雄高のような著名人に限らず、ふつうに生きている人であっても、つきあう人たちによって異なる見方をされ、語られているのだろうなあ、ということを思うのである。

 また、直接の目的でないが、著者が意識して聴き取り書き抜いた、インタビュー対象の文学者や芸術家たちの、彼ら自身の創造の苦しみと喜びが肉声で語られている。これらを読むことができたのも、著者のおかげであるといえるだろう。
 人の話を聞く、ということもまたクリエイティブな行為なのだ、と実感する。


■bk1書評「人の話を聞く、ということもまたクリエイティブな行為なのだ」投稿掲載(2009年10月23日)



<書評への付記>

 書評本文にも書いたが、私は埴谷雄高(はにや・ゆたか)には何の思い入れもないし、その作品はおろか、文章の一節すら読んだことがない。本名が般若豊(はんにゃ・ゆたか)というのも本書で始めて知ったくらいである。こちらが本名だというほうがもっと不思議な感じだ。
 直接会ったこともないし、作品も読んだことのない私が、埴谷雄高というのはどういう人だったのか、と聞かれれば、有名だが一部の熱狂的な読者を除けば、あまり読まれるのことのない作家で、「誰からも愛され、誰も愛していなかった人だったのだろう」、と答えるしかないと思う。
 結局のところ、戦前に非合法活動で逮捕され、獄中を独房で過ごした経験があるとはいえ、彼の人生は基本的に"金持ちのお坊ちゃん"のものであった、といっても言い過ぎではないだろう。
 これは悪い意味でいっているのではない。経済条件は人間存在を規定するからだ。金持ちの家に生まれて、甘やかされて育ち、親から受け継いだ遺産を生きている打ちに使い切ったことは、見事といえば実に見事である。それも贅沢に費やしたというのではなく、自分に関わる人たちと飲み食いで楽しい時間を過ごし、若い人たちを励ましてきた生涯。太宰治と同様、金持ちの家に生まれたから、観念的に左翼運動に走ったのだろうし、金持ちの家に育ったから、日々の暮らしに汲々とすることなく、生涯ただ一つの長編小説『死霊』を書き続けることも出来たのだろう。
 これが明治時代だったら、夏目漱石の小説の主人公たちではないが、"高等遊民"とよばれた存在と何ら変わりない。"高等遊民"とは、金持ちの家に生まれたインテリにのみ可能な、人生の過ごし方であった。
 経済状態が人間の生き方そのものを規定する、という点にかんしては、経済が下部構造として意識のあり方を規定するという、まさにマルクス主義そのものである。
 ただし、金持ちの家に生まれて何不自由のない暮らしが保証されれば、埴谷雄高のような人ができるわけでもないだろう。本人に、志(こころざし)と持続する意志のチカラがあったことは間違いない。
 カネがあろうがなかろうが、自分で稼いだカネであろうがなかろうが、卑しくない人生を送りたいものである。人から変人と呼ばれようが、凡人と呼ばれようが。これはつまるところカネの使い方の問題であり、そしてその積み重ねが人生の軌跡となる。
 「カネは汚く稼いでキレイに使え」といった人もいる。どこで読んだのか正確には覚えていないが、日本で活動する、あるカトリック修道院の初代院長であった西欧人のコトバだったと思う。
 重要なのはカネの使い方であり、使用目的である。もちろんキレイに稼ぐ方がいいに決まってはいるが、金儲けそのものを否定しない点に、この発言をした神父には好感がもてる。
 一見すると散財としか見えないカネの使い方であっても、長い目で見れば意味をもってくることもありうる。極端に金儲けにこだわるのも、極端に金儲けを批判するのも正しいあり方ではない。人生にとってカネは重要だが、カネにこだわりすぎている点にかんしては、両極端にみえる見解も、実は同じコインのウラオモテに過ぎない。
 何事も、要はバランスである。そして中庸の道であろう。

                      


  

2009年10月24日土曜日

タイのあれこれ (10) シャム猫なんて見たことない・・・




 シャム猫だけでなく、そもそもタイではあまりネコを見たことがないんだよなあー。これじゃあブログが書けないぞ!?
 
 シャムとはタイのことだ、といっても問題はない。
 タイは1932年の立憲革命によって立憲君主制に移行し、その後実質的な独裁者となったピブーン元帥が国名をシャムからタイに変更した。だから、シャム=タイと考えてよい。
 『日・タイ交流600年史』(石井米雄・吉川利治、講談社、1987)によれば、江戸時代から暹羅と書いて、"しやむろ"と読ませていたらしい。日本語のドンブリ(丼)は、地名のトンブリ(Thonburi)から来ている(?)なんて民間語源説もあるくらいだし、実際、戦国時代末期から安土桃山時代にかけての武将が愛した茶器スンガロク焼きはシャムから輸入されたものであった。
 明治時代以降これがシャムになった理由は、私は英語の Siam のローマ字読みではないかと推論している。英語だと Siam の発音はサイアームで、これはおそらくタイ語のサヤームの音を比較的に忠実に写したものであろう。明治時代の日本人はどうやら Siam のローマ字読みから、シャムに落ち着いたのではないだろうか。

 シャム猫は有名だが、タイが発祥地だということは、知る人はもちろん知っていることだろう。シャムの貴族が愛した高貴なネコ、シャム猫。本来ならロイヤル・ドッグではなくて、ロイヤル・キャットだったはずなのだ。
 でも、私はシャム猫をタイで一回も見たことがないのだ。それだけじゃない、ネコはほとんど見たことがない。イヌはくさるほど道に転がっているのに・・・

 シャム猫のほかにシャムで始まるものが何かないだろうか、バンコクでビール飲みながら日本人の友人と一つ一つあげていってみたことがある。
 まず、シャム猫に、それからシャム双生児、ここまでは何とかなるな。シャムロックは?・・これは違うよ、これは三つ葉のクローバーのことだ、セント・パトリック・デイのアイリッシュのあれだ・・・うーん、これくらいしか思いつかないなあ、くやしい。
 
 この会話が交わされてから1年以上たつ。ふと思いついて、インターネットの wikipedia で調べてみたら、英語の Siamese という形容詞ではじまるコトバはかなりの数があることがわかった。
Siamese most commonly refer to:(Siameseという形容詞が通常あてはまるのは):

The Thai language(タイ語)
The Thai people(タイ人)
Someone or something from Thailand (formerly Siam) (タイ・・以前はシャム・・からきた人やもの)

  Siamese (cat) (シャム猫)
  Siamese twins (シャム双生児)

Siamese may refer to: (このほかあてはまるのは)

  Siamese Crocodile
  Siamese mud carp
  Siamese algae eater, a species of freshwater fish in the carp family, Cyprinidae.
  Siamese Dream, a 1993 music album by The Smashing Pumpkins
  Siamese fighting fish, a species of fish from genus Betta.
  Siamese Fireback, a national bird of Thailand.
  Siamese tigerfish

 英語人でも基本的には、シャム猫(Siamese cat)とシャム双生児(Siamese twins)がまず頭に浮かぶのだなあ、と知って一安心。
 でも英語を母語としていても、たぶん全部は思いつかないんじゃないのかな。

 シャム双生児なんていうと、私が小学生の頃、「学研」の雑誌にこういうネタが大量に載っていたのを思い出す。1970年代前半はオカルト・ブームの真っ最中だったので、シャム双生児はフリークス扱いされていっしょくたにされていたのだ。あの当時はまだ現在みたいに人権感覚がなかったから。
 耳で聞いただけの頃は、シャム・ソーセージだと思い込んでいたぐらいだからひどいものだ。ウィンナー・コーヒーのたぐいだと。
 ウィンナー・コーヒーの意味は、大学に入ってから自分で飲んでみるまで知らなかったのだ。あーあ恥ずかし。でも、本当はヴィーナー(Wiener)と表記すれば、ウィーン風のとわかるのだが・・・罪作りなネーミング。
 日本でも有名になった"ベトちゃんドクちゃん"はタイ人ではなく、ベトナム人である。ベトナム戦争の後期、米国による北爆で使用されたナパーム弾の枯れ葉剤の後遺症で生まれた。米国は原爆だけでなく、枯れ葉剤使用についても謝罪しなくてはならないのではないかね、オバマさん。

 いやいや、まだいっこうにネコについて語ってないぞ・・・。そもそも、タイではネコはあまり見ないんあだなあ。でも書いてみよう。
 当時私が住んでいたバンコク市内ラチャダピセーク地区で、日曜日に散歩がてら地元のお寺(ワット)にいってみたことがある。

 ラチャダピセーク地区は日本人はまず皆無で、主流の潮州系ではなく、雲南系華人の多く居住する地域である。その寺は、地元のタイ人しか来ないお寺なのでガイドブックにはでてこないし、観光客は皆無である。ローカル・コミュニティにおけるお寺の位置づけについては、いずれ書くつもり。
 そんなお寺で出会ったのが、この子猫ちゃんたち。上座仏教なのでなんという名前かわからないが、日本でいえば不動明王みたいな、真っ赤に彩色された憤怒の巨大仏像の足もとでスヤスヤ眠る子猫ちゃん。このコントラストが絵になっている。ちっちゃくて可愛いねー。

 たぶん捨て猫のようだ。仏教国のタイでは、生き物の処分に困るとお寺に捨ててしまうらしい。お寺なら、お坊さんだけでなく、イヌでもネコも誰かが食べさせてくれるからだ、と。実際、観光客が来るようなお寺でもネコはよくみかけるのである。
 イヌもそうだが、南国タイでは、ネコはいつも寝ている。日差しがきついので、日影でじっと動かないでいれば、コンクリートも暑くならないからだろう。人間もプールサイドでは同じ事をしているわけだし。

 タイでは日本のネコが爆発的に人気がある。
 といっても、生きたホンモノのネコではない。そう、ドラえもんにキティちゃん、それになんと招き猫、だ。
 ドラえもんがマンガやアニメで、タイに限らずアジアでは絶大な人気を誇ることは、すでにこのブログでも取り上げている。
 キティちゃんについては、あえていうまでもないだろう。キティちゃん人気はアジアにとどまらず、米国や欧州にまで拡大、蔓延(!)している状況だ。もはやとどまることを知らない勢いである。今後は世界各地で"ご当地キティ"が販売されていくことであろう。

 招き猫もアジア各地で急速に広がりつつあるが、とくにタイでの人気はすさまじい。もともとタイには女性なのか、オカマなのかわからないが旧来からある招き人形のナン・クワク(nang kwak)があるのだが、招き猫を店頭においた飲食やその他サービス、物販店も含めて非常に増えている。千客万来、という祈願のためであるのは日本とまったく同じ使用方法だ。
 私もバンコクで現地法人のオープニング・パーティを開いた際、参加者への引き出物としてタイ側ゲストには招き猫を、日本からのゲストにはナン・クワクを差し上げた。いまでも黄金の招き猫を愛用していただいている会社も多く、私の選択が正かったことをうれしく感じている。
 ただ、タイをはじめアジアでは、右手なり左手が電池で動くタイプのプラスチック製のゴールドの招き猫が大半である。ウラを見るとたいていが Made in China とある。日本では標準の、陶器の白い招き猫は残念ながらあまり見かけない。

 恐るべし!日本のネコ。
 サブカルチャーというものは、政府が上から押しつけるものではない、一般庶民が自分がいいと思うから飛びつくのだ。近年は日本発のものが多かったというのが真相だろう。
 ただし、それだけではない感性レベルの共通性が日本人とタイ人のあいだにはあるようだ。ミニチュア好き、フィギュア好きなど、かなりの面が民族性に根ざしたものも多い。これはもっと突っ込んだ検証が必要だが。

 とまあ、なぜかタイでは生きてるネコは、お寺でしか見たことがない。ましてや、シャム猫など一度も見たことのない私なのだった。
 シャム猫は眼がブルーだというので、一番最初に掲載した眼がイエローの子猫ちゃんは、単なるクロネコ??なのかな。♪クロネコのタンゴ、タンゴ、タンゴ・・・どっちにしろ雑種だろうし。

 まあいっか、自分はイヌ派だし。


<付記>
 2009年の11月に半年ぶりにバンコクにいった際、やっとシャム猫を見ることができた!
 とはいっても、BTS(=スカイトレイン)のラッピング広告である。
 キャットフード Me-O の広告。タイだから、シャム猫というわけでもなさそうな・・・(2009年11月18日)





   

2009年10月23日金曜日

「駐日欧州委員会代表部新ビル建設に伴う"地鎮祭"」 (情報)


                  
 「駐日欧州委員会代表部 EUROPEAN UNION」のメールマガジンを登録しているのだが、最新号(EU Delegation Email Bulletin, Thu 22/10/2009)にこういうニュースが告知されている。 
 
駐日欧州委員会代表部新ビル建設に伴う地鎮祭
 日時: 2009年10月29日(木)10:30-11:15
 会場: 港区南麻布4丁目
 駐日欧州委員会代表部の新しい建物の建設地において、同代表部からの出席者が参列する中、神式の地鎮祭が行われる。詳細: http://www.deljpn.ec.europa.eu/modules/media/news/2009/091022.html 

 大学時代、西洋社会史の阿部謹也先生がゼミナールでいっていたことを思い出した。
 日本では、キリスト教の教会をあらたに建設する際も、神道式の地鎮祭をやるのである。
 キリスト教と神道が両立するのか、という疑問があるかもしれないが、日本で建設する以上、その土地の精霊を鎮めなければならないのだ。これは迷信として片付けてはならない。
 土地は商取引の対象ではあるが、土地の精霊に挨拶しないで勝手に土地を利用することは許されない、これは土地の呪術性とでもいうべきものであろう。大塚史学にはこの視点がまったく欠けている。
 いずれにせよ、地鎮祭をやらないと、何よりも日本人である棟梁がいやがる。施主が誰であろうと、建築物がなんであろうと、地鎮祭をやらないと落ち着かないのだ、と。

 まあこんな内容だったと思うが、考えてみれば当たり前である。その当時は他宗教に排他的(?)なキリスト教がよくそんなこと容認するな、と思いながらも納得したのであった。
 日本やチベットの仏教寺院が欧州であたらしく寺院を建立する際はどうなのだろうか、と考えてみるのは面白い。
 近代世界は、いわゆるマックス・ウェーバーのいう"魔術からの世界解放"(Entzauberung der Welt)が行われた世俗世界なのだ、なんて話を大学時代さんざん聞かされてきた"社会科学の学徒"としては、大いに興味のあるところだ。
 大塚史学とは、東大経済学部の故大塚久雄教授の学派をさした表現で、大塚久雄はマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(岩波文庫)の翻訳者としても知られている。主著は『株式会社発生史論』など。丸山眞男とならんで、いわゆる戦後思想界をリードした"近代主義者"である。
 マックス・ウェーバーは"魔術からの世界解放"などといったが、ヒトラーによる独裁政権を知る前に亡くなっているのは不幸中の幸いだったのだろうか。
 しかし、第一次大戦後の敗戦国家ドイツの状況を見て危機感を抱いていたことは確かなようだ。その当時のドイツでは、ものすごい数のオカルト宗教が一気に拡がっていたからだ。ナチズムもその一つと捉えるべきであり、"魔術からの解放"どころではなかったのだ。
 
 大学時代は知らなかったが、その後、日本でも"地霊"というコトバが一般に知られるようになった。
 建築史の鈴木博之・東大教授による『東京の地霊<ゲニウス・ロキ>』(ちくま学芸文庫、2009、私が読んだのは文春文庫版、1998、原著は1990年出版)という、東京論としてたいへん興味深い本も出ている。
 地霊は、ラテン語で genius loci (ゲニウス・ロキ)、ドイツ語なら das Erdgeist(エルト・ガイスト)、さて英語だと何というのだろうか?

 この地鎮祭、見てみたいねえ。キリスト教会ではないのだが、欧州委員会の駐日代表スタッフの欧州人はおそらく大多数がキリスト教徒であろう。
 衣冠束帯姿の神官が、神妙な顔をした(?)、それとも興味津々の顔をした(?)欧州人たちの前で、なんと祝詞(のりと)をあげる。
 「・・・・かしこみ、かしこみ、もーすー」なんて奏上するわけだ。こんなニュースを知ると、なんだかうれしくなってくるなあ。おもちろい。

 誰か写真にとってきてインターネットにアップしてくれないかな。

           



   

2009年10月22日木曜日

映画 『正義のゆくえ-I.C.E.特別捜査官-』を見てきた



          
 所用があって東京にでたついでに映画をみてきた。
  『正義のゆくえ-I.C.E.特別捜査官-』である。主演はハリソン・フォード、監督・脚本:ウェイン・クラマー、製作:フランク・マーシャル、ウェイン・クラマー、製作総指揮:ボブ・ワインスタイン、ハーベイ・ワインスタイン、マイケル・ビューグ。2008年度の米国映画。
 原題は、Crossing Over.  国境などさまざまなものを越える、という意味であろう。Officaial Trailer はこちら(・・音声に注意!字幕なし、悪しからず)。

 内省的で、かつエンターテインメントとしても一級品だ。
 脚本がよく練られており、観客がそれぞれの新移民に感情移入しながら見ることを可能としている。
 米国人が製作・監督した映画だが、新たに入国してくる移民の視線にたつことのできた、希有な映画だろう。

 映画が始まってから思い出していたのは、同じく舞台を 9-11後の米国、そしてL.A.(・・間違ってもロスとはいわないよう。エル・エーというべし)に設定した、ヴィム・ヴェンダー監督の2004年度作品『ランド・オブ・プレンティ』(Land of Plenty)である。Trailer はこちら(・・音声に注意!)。
 米国を舞台にしても、米国を対象化できうる他者の視線がないと、結局のところ予定調和的なハリウッド映画で終わってしまう。
 『パリ・テキサス』(1984年)で米国を舞台に米国人俳優で現代の米国を描いて成功したドイツ人監督のヴェンダーズには可能であっても、普通の米国人監督には無理な注文というものだろう。Trailer はこちら(音声注意!・・私がもっとも好きな映画の一つ)
 ところが、この映画は、もちろんエンディングには救いもあるが、すべてがめでたしめでたしのハッピーエンディングとはならない。
 不法移民として、あるいは合法的に入国して市民権取得を待つ、さまざまな民族の移民の視点にたって、物語を進行させることに成功している。
 そう、他者の目とは移民の目である。米国人でないわれわれ他者はすべて、米国への潜在的な移民なのである。

 スウェット・ショップ(・・低賃金で不法移民を働かせる工場)で働く、隣国メキシコからの不法入国者たち、9-11後の反アラブ感情のなかできわめて厳しい立場にあるパレスチナ人移民、革命後脱出して米国で成功しているイラン人移民、新天地での成功を夢見てハードワーキングをいとわない韓国人移民ファミリー、女優としての成功を夢見て米国に不法滞在するオーストラリア人女性、どこ出身かわからなかったが英語圏からきたユダヤ人男性・・
 とりわけ、韓国人移民の立場には、同じアジア人として感情移入をしやすいものがある。舞台がL.A.なら、このほかにもベトナム人や、カンボジア人、ラオス人の物語も可能だろう。

 移民によって成り立ってきたのが米国である。移民は、米国を米国をたらしめている原理といってもよい。
 移民のおかげでこれまで繁栄してきたし、今後も移民が流入してくることが米国の競争力を作り出す源泉でもある。
 米国人になることはできる。それも自らの選択(チョイス)によって米国人になることができる。米国人は、米国人であるのではなく、米国人になる、のである。意識的、能動的に米国人になる。
 ここが米国以外の伝統国とは根本的に異なることだ。これはこの映画の後半のシーンである、米国市民としての宣誓セレモニーに象徴的に現れている。
 もちろん、きわめて門戸が狭いが、日本人になることは理論的には不可能ではない。タイ人になることも不可能ではない。
 しかし、これらのケースはあくまでも、なることも可能だ、ということであって、移民が国家原理となっているわけではない。あくまでも移民を受け入れる余地もあるということであって、基本的に日本人は無意識に、かつ無自覚に日本人であって意識して日本人になるわけではない。

 米国人一人一人が移民第一世代であれ、第二世代であれ、あるいは第三世代より上であれ、米国には移民してきた人たちを先祖にもつ存在ではありえない。
 であるからこそ、新しい移民に対しては、自分たちの後輩として映し鏡となるわけであり、しかし一方ではすでに自分たちが築いた既得権を脅かす存在でもありうる。
 米国人全体がこの両極に引き裂かれ、また個々人のなかでも、このアンビバレントな感情に引き裂かれることになる。

 この状況を個人として体現しているのが、ハリソン・フォードが演じている、主人公の移民局特別捜査官であろう。
 私は、1980年代に大量のハリウッド映画をみたが、そのなかでも好きな男優の一人がハリソン・フォードであった。『スター・ウォーズ』、『インディー・ジョーンズ』、『ジョン・ブック 目撃者』、『モスキート・コースト』、『ワーキング・ガール』などが、もっとも脂ののりきっていた全盛期の作品である。
 すでに60歳を越えた彼は、いまでも現役の俳優であるが、この映画の脚本を読んで、ギャラは安いが出演を快諾したという。出演する価値のある内容だ、と。この発言を知っただけでも、この映画を見てみようという気持ちにさせられたのだ。
 そしてこの思いはまったく裏切られることはなかった。

 日本人で米国に移民した世代は、以前にこのブログでも取り上げた、石川好の『ストロベリー・ロード』の世代でほぼ終わりだろう。
 しかし日本人以外では、中国人も、台湾人も、タイ人も、また先にも触れたように、ベトナム戦争の結果、移民となった韓国人、ベトナム人、カンボジア人、ラオス人もある。圧政から逃れたビルマ人もいる。
たとえ、斜陽化する米国であっても、狭くなったとはいえ、いまだに公式に門戸が開かれ、新天地で仕切り直す可能性のある国は米国以外にはなかなか見あたらない。
 もちろん日本人だって、これから何が起こるかわからないので、自らが移民となるかもしれない。
 それよりも可能性が高いのは、日本がさらに移民受け入れ国として成熟していかねばならないことだ。

 移民先が米国であろうとなかろうと、自分が移民の立場にいたとしたら、自分はいったい何を思うのだろうか。何よりも必要なのは想像力(イマジネーション)と感情移入である。移民捜査官の立場でみるにしても、あるいは移民自身の立場でみるにしても。
 骨太の社会派エンターテインメントだ。1時間53分は長く感じない。

 東京では、TOHOシネマズ・シャンテ(日比谷)にて11月6日まで。インターネットで座席指定できるのはありがたい。平日はそんなに混ではいないが。日本版のオフィシャル・サイトはこちらから。

                  


  

2009年10月21日水曜日

船橋大神宮の奉納相撲(毎年恒例10月20日開催)を見に行ってきた




 船橋大神宮の奉納相撲に行ってきた。奉納相撲は毎年10月20日と決まっており今年は火曜日の開催、子供相撲は日曜日に設定される。奉納相撲を見に行ったのは今回が初めて、昨日20日は天気にめぐまれた秋の一日であった。奉納相撲自体は今回が見学初体験である。

 船橋大神宮の境内をじっくり歩いたのは実は今回が初めてだが、船橋大神宮そのものは高校時代、毎週のようにその前を通っていた。わが母校、千葉県立船橋高等学校は大神宮の宮司がはじめた私立学校が前身らしい。そのため、大正時代には船橋大神宮の境内にあったという。高校は、現在では徒歩で10分以上の別の場所にグランドとともにあるが、こういう経緯も知っていたので、船橋大神宮には昔から親近感をもっていた。
 今回、千葉県に引っ越したのを機会にいろいろ歩き回っているが、船橋大神宮も訪れるのは高校卒業以来となる。実に、実に久々だ。

 京成電車の大神宮下(だいじんぐうした)駅で下車3分。現在は高架のうえにあがってしまったが、私の高校時代はまだ地面を走っていた。各駅停車しか止まらないので、もしかしたら京成線の利用者でも知らない人がいるかもしれない。成田空港行きのスカイライナーは始発を除いて京成船橋駅に停車するようになったので、高架のまま通過する次の駅が大神宮下駅である。

 船橋大神宮は、調べてみると正式には意富日神社(おほひ・じんじゃ)といい、今年が創建1897年という由緒ある神社である。3年後には、なんと創建1900年(!)となる。すごいなー。
 全国的な知名度は必ずしも高くないだろうが、式内社であり、延喜式では葛餝郡意富比神社の名称で登場する、とのことだ。お正月にTV・CM流している神社や厄除け大師は、広告宣伝にカネかけているからマスコミ露出度が高いが、知名度が高いものが必ずしも由緒あるものだとは限らない。
<由緒>
 当船橋大神宮は、景行天皇の御代四十年に、皇子日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が御東征の途次、船橋湊郷に到着なされ、東国平定の目的成就を御祈願なされたのを以てその御創建とされます。
 当時たまたま住民がひでりに苦しんで居り、尊は併せて祈雨の由を念じられますと、一天俄にかき曇り雷雨起り、土地が潤ったと言われて居ります。其の後、景行天皇東国へ御巡幸の折、その御事績を偲ばれて意富比神社の御社号を賜り後には延喜式、三代実録にも記されて居ります。
 清和天皇貞観13年(871年)3月には、勅願により天下泰平・五穀豊饒を御祈念なされるため奉幣使の下向あり、また後冷泉天皇の御代天喜年間には当宮を修造、また仁平元年(1151年)には船橋六郷の地に御寄附の院宣を賜り、当宮を再興せられ、其の時の文書には「船橋伊勢大神宮」と記されて居ります。
 以後、将軍家等からも御崇敬極めて篤く、明治天皇におかれましては、習志野練兵場、三里塚御料牧場へ行幸の都度、勅使を以て幣帛料を御奉奠なされました。
 現在の御社殿は、明治維新の戦火によって焼失し、明治6年に本殿、同22年(拝殿)と順次御造営せられ、以後大正12年、昭和36年、更に昭和50年、昭和61年と各々に本殿、拝殿、末社、玉垣、参道、大鳥居、控殿等の造改修を経て今日に及んで居ります。
 この度平成24年に御鎮座1900年の慶祝の年を迎えるにあたり、前回の改修以来20余年経過し著しく老朽しました諸施設の改修整備を以て御神威一段の発揚を図るべく・・(後略)・・
(出典:「船橋大神宮 記念奉賛事業趣意書」を一部字句をいじってある)

 ちなみに、私がもっている、1836年刊行の『江戸名所図絵』(鈴木棠三・朝倉治彦=校注、角川文庫、1968)の第六巻には、江戸時代後期の船橋大神宮(=意富比神社 おほひじんじゃ)社殿の挿絵がでているが、先に引いた由緒書にもあるように、戊辰戦争の際、新政府軍と旧幕府軍のあいだで"船橋戦争"というのがあって、江戸無血開城後の本格的な戦闘となったらしい。その戦争において船橋大神宮の社殿が焼け落ちたということのようだ。このあと上野の山で旧幕府軍の彰義隊が破れた後の旧幕府側の敗退については、会津落城の悲劇、徹底抗戦の末の長岡落城について多く語られているので、一般にもよく知られているだろう。
 旧幕府側について鳥羽伏見の戦いで敗れ去った、京都の貧乏公家の末裔である私としては複雑な気持ちではあるが、船橋でも歴史的な戦争があったことを高校時代に知ったとき、なんだかうれしい気がするのも否定できない気がしたことを記憶している。
  『江戸名所図絵』には市川、船橋あたりまでは、広い意味で江戸の名所としてカバーされている。そこから先は成田山新勝寺への成田参詣路となるので、別のカテゴリーになるようだ。

 "日本一小さい大神宮"という異名があるらしいが、そんなことはありえない。比較的大きな神社である。
 なお末社として、常磐神社、浅間神社、大鳥神社があり、それぞれ祭礼があるようだ。船橋大神宮は、主祭神が天照皇大神(アマテラスオオミカミ)で、西に万幡豊秋津姫命(ヨロヅハタ・トヨアキツヒメノミコト)、東に天手力雄命(アメノタヂカラヲノミコト)を配祀する。アメノタヂカタヲは天の岩戸開きの際に、アマテラスを引っ張り出した神でチカラとスポーツの神様、トヨアキツヒメは機織りに関係する神様で、伊勢神宮の内宮の配置に同じ。つまり、船橋大神宮は伊勢神宮系統である。
 また、徳川家康公、徳川秀忠公も合祀しているように、徳川幕府からも崇敬も篤かったことは、奉納相撲の歴史とも密接な関係がある。

 由緒書にあるように、そもそのも創建がヤマトタケルに始まることから、いわゆる"白鳥伝説"と結びついた大鳥神社(おおとりじんじゃ)があって、酉の市(とりのいち)となるわけだ。このことはいままでまったく知らなかった。なんと今年の一の酉は私の誕生日の12月6日(日)である・・。これは商売繁盛のためにも、ぜひ訪れなくては、と思ったのだった。
 
 高校時代、アニメ『ど根性ガエル』の登場人物・町田先生ではないが、"教員生活25年"が口癖の数学教師が、昔は教室の窓から海が見えましたといっていたが、たしかに埋め立てが進んで海が遠くなってしまったものの、船橋は基本的に漁師町でかつ宿場町なのである。大神宮の燈台を頼りにして夜の航海を行ったという。
 漁業組合の組合員は200名、そのうち100名は現役の漁師で、毎日出漁しているというのだから、ここで採れた魚介類が新鮮でうまいのは当たり前だ。東京湾もずいぶんキレイになったから問題ない。
 なかでもとくにアサリは名産で、船橋のアサリは実に美味い(!)、これは自信を持って推奨できる。おとといもアサリのスパゲッティで食べたが、プリプリの身に、貝から出てくるうまみエキスは、天下一品である。船橋のアサリは天然物だから美味いのは当たり前なのだ。
 奉納相撲からの帰途、ふと思いついて船橋漁港まで歩いてみた。埋め立てが進んだとはいえ、あっというまに港である。高校時代、美術の授業で写生にいったりした記憶があるし、また部活で海まで走ったことも何度もある。港にいってみたのも高校卒業後はじめてである。あんまり変わっていないような感じもした。埋め立て事業はすでにその当時には終わっていたためだろうか。
 船橋大神宮の重要な行事に、4月3日の水神祭があるようだ。船橋漁港で行われる大漁祈願の祭礼である。これもぜひ来年は訪れてみたいものだ。


 船橋大神宮の毎年恒例の奉納相撲は、天正18年(1590年)徳川家康が東金に大好きな鷹狩りに行く途中、船橋御殿に宿泊した際に、漁師の子供達による素人相撲をみて家康が大変喜んでこれを賞し、家康の信仰篤かった船橋大神宮に奉納して以来、今日まで伝承されている、という。こうした経緯があり、幕府みずからが勧進元となった由緒ある奉納相撲であったということだ。
 
 このブログでお神楽について取り上げた際、芸能の起源は神事にあり、と書いたが、相撲もまた起源は神事にある。というよりも、相撲自体が実は芸能であり、神事なのである。注連縄(しめなわ)をかけると、その内側は聖なる空間になるのと同様、土俵の内部は聖なる空間である。あとで触れるが、神官による土俵の清祓いの神事を見学することができた。
 また、四股を踏むとは邪鬼を踏みつけることであり、不動明王が邪鬼を踏みつけている姿を思い起こせばよい。
 そもそも、相撲の起源は、きわめて古い。どこの民族でも格闘技の歴史は古いが、もちろん日本の場合も相撲の起源はきわめて古い。
 『古事記』には、建御雷神(タケミカヅチ)の葦原中国(あしはらのなかつくに)平定の際、建御名方神(タケミナカタ)ととった神々のあいだの相撲が、相撲の起源とされている。
 旧約聖書の『創世記』には、人間であるヤコブが唯一神のヤーヴェと相撲をとった話がでてくるが、このようにユダヤ教でも極めて似たような挿話があり面白い。日本とユダヤでは、話としてはどちらが古いかわからないが、文字になった記録としてはユダヤの方が紀元前であり、はるかに古い。
 参考までに、旧約学者・関根正雄のヘブライ語原文からの訳を掲載しておく。
そしてヤコブひとり後に残った。ところが一人の人が現れて、明け方になるまでヤコブと角力(すもう)をとった。その人はどうしたかというと、自分がついにヤコブに勝つことができないのを見てとって、ヤコブのもものつがいに触ったのである。それで角力をとっている中に、ヤコブのもものつがいははずれてしまった。(後略)
(出典:『旧約聖書 創世記』(岩波文庫、1967改版)第32章25節~26節)

 このあと神は自らの正体を明かし、ヤコブはイスラエルと命名される。
 さて、人間どうしの相撲は、『日本書紀』によれば、垂仁天皇7年(BC23年)の旧暦7月7日に野見宿禰(のみのすくね)と當麻蹶速(たいまのけはや)との闘いが起源とされている。宿禰(すくね)は相撲の始祖として祭られており、奈良の当麻寺の近くに碑がたっていたのを思い出した。
 もちろん、一対一の取っ組み合いチカラ比べは、太古の昔からあったはずである。神事である以上、神話上の起源を特定することが必要になるわけだ。

 "神事相撲"は、農作物の豊凶を占い、五穀豊穣を祈り、神々の加護に感謝するための農耕儀礼である。奉納相撲の主催者たちの法被(はっぴ)に"敬神"と書かれているのは象徴的だ。
 "日本は神の国だ"と講演のなかで発言して物議をかもした元首相がいるが、ここでいう神とは小文字で始まる god であり、しかも複数形の gods のことだろう。不用意な発言といえなくもないが、日本語では単数形と複数形の区別は一般的にしないので、"神の国"といっても間違いとはいえない。神々という表現は単なる2柱以上の複数ではなく、かなり数が多い状態をさしている。一にして多、多にして一、というのが、その本質だろう。
 聖アウグスティヌスのいわゆる civitas Dei (ラテン語) が日本語では"神の国"と訳されているが、英語だと City of God であり、ニュアンスが違うのではないだろうか。
 まあ、"神々の国"といったほうが無難ではある。これなら基層としての多神教世界であったギリシアを母に、"欧州の縄文"であるケルトを父にもったアイルランド人・ラフカディオ・ハーン(=小泉八雲)風で、まったく問題ないだろう。

 話がそれてしまった。奉納相撲のスケジュールについて書いておこう。パンフレットをもとに、実際の進行にあわせて修正した。
 
9:00~開会式  
  ①土俵の清祓いの神事
  ②国旗掲揚(陸上自衛隊・旗衛隊のラッパとともに)
  ③主催者、来賓あいさつなど
 9:40~参加選手朝食
 11:00~奉納相撲競技開始(個人戦) 
 12:30~大納川相撲甚句会による相撲甚句
 13:00~競技再開 団体戦
 14:40~閉会式  表彰・国旗降下・奉納相撲終了手締式

 昔は漁師たちが選手としても観客としても大勢参加し、たいへん熱気のあるものだったという。行司の判定に意義を唱えて行司を殴り倒すなんてこともあったらしい。それが別名"ケンカ相撲"の由来になったらしい。

 現在は、自衛隊が全面的に関与している。相撲選手として現役の自衛官が海上自衛隊下総航空基地と陸上自衛隊習志野第一空挺団から送り込まれ、ラッパ旗手の吹奏のもとに行われる国旗掲揚セレモニー、広報担当官が来賓として参加しており、地域社会とのパブリック・リレーションズづくりの場となっている。
 奉納相撲は午前の個人戦の部だけ見学したが、私の座っていた見学席のすぐ前が選手の控え場所になってしまったので、それこそ"フンドシ一丁"の若い男たちの尻と熱気がムンムンしたなかに置かれてしまい、汗臭いようななんともいえない気分になる。こんなにたくさんの男の尻を見るのは滅多にないことではあるが、私にはその手の趣味はないので誤解なきよう(笑)。

 個人戦では、一発勝負だけでなく、三人抜き、五人抜きがあり、それぞれ金一封がでるのは参加選手にとっては大きな励みだろう。
 いい取り組みもけっこうあり、バシっ、バシっと選手どうしがぶつかる音は素人相撲とはいえ、なかなか見応えがある。けっこう投げ技もでるので土俵から転がり落ちる選手もいる。ちゃんと受け身がとれないと土俵が高く作られているので危険だろう。
 もちろん私は参加するつもりはないので、無料で振る舞われる甘酒を飲みながら見学するのみである。お昼には赤飯も無料で振る舞われたのはたいへんありがたいことであった。この場を借りて、ごちそうさまでした、と関係者の皆様には申し上げておく。

 さて、相撲だけでなく、相撲甚句(すもうじんく)の披露もあり、これも楽しませていただいた。
 相撲甚句は、地方巡業する力士たちのことをアカペラで歌う江戸時代以来の邦楽で、日本語のもつチカラをフルに活かした節回しである。まあ今風にいえばコンサートツアーでの挨拶を歌でやるようなものだろう。相撲は広い意味の芸能なのである。芸能が神事であること、この原点を想起させてくれる、重要な場面である。
 船橋大神宮の奉納相撲の相撲甚句をパンフレットから転載しておこう。
船橋大神宮奉納相撲

ケンカ相撲の呼び名も高いヨ
ここは船橋大神宮
十月二十日の大祭に
江戸のころより伝わりし
奉納相撲の賑わいは
近郷近在の腕に覚えの若者の
力と技のせめぎ合い
心整え礼尽くし
土俵踏み締め胸あわせ
浜っ子たちの心意気
まわし一本男気の
内がけ外がけよりたおし
下手差してのすくいなげ
八十二手なる決め技に
わきにわいたる境内は
実りの秋の風涼し
今年も豊年大漁の 
海山幸の有り難き
民の幸せ守りたる
大神宮の大社(おおやしろ)
千代に八千代に栄えあれよ

(*一区切りがついて息継ぎをするところで、歌い手のまわりで柏手をうちながら、"ハァ~ア ドスコイ ドスコイ" という合いの手が入る)

 船橋の愛好家の皆さんが、このほかの相撲甚句もいいノドで聞かせてくれた。現役の大相撲の行司の方もおり、相撲界は芸能界なのだ、と実感させられる。
 相撲甚句、なかなかいいじゃないっすか。すっかりファンになってしまったな。

 神楽殿からお神楽の響きが聞こえてくるので気もそぞろになる。どうもお囃子には抗しきれない何者かがあるのだ。
 日本に生まれて、日本で成長した、日本語を母語とする日本人である私のなかのDNAが無意識のうちに反応、共鳴してしまうのだ。
 篳篥(ひちりき)に太鼓。子供の頃から、横笛を吹く牛若丸に憧れていたので、篳篥は習ってみたいと思っているのだが・・・篳篥の音色は私にとっては、ハーメルンの笛吹き男の笛の音だなあ。
 雅楽をルーツとしている、ということは遠くペルシアまで及ぶ西域の音楽につらなるわけで・・・
 
 奉納相撲の主催者から、相撲甚句はお神楽が終わってからにします、というアナウンスがあったので、席をたって神楽殿に移動。順序は逆になるが、お神楽の紹介で本日を締めることとしよう。

 こちらの神楽は先週みた高根神明社のものとはやや異なり、かなり本格的である。神官二人が衣冠束帯姿で登場、お囃子と対座して座り続け、その間の空間を神楽が舞う。
 船橋大神宮には10座伝承されているという。①みこ舞、②猿田舞、③翁舞、④知之里(ちのり)舞、⑤天狐(てんこ)舞、⑥田の神舞、⑦蛭子(ひるこ)舞(=恵比寿舞)、⑧恵比寿大黒舞、⑨笹舞、⑩山神(さんじん)舞。
 山神舞では餅撒き(もちまき)があり、今回は丸餅2個をゲットした。防腐剤の入っている市販の餅とは違って、弾力性があってうまいのだ。ありがたい。

 日本の秋祭りを、御神輿(おみこし)などのTVでもよく取り上げられるような側面ではなくて、氏子にとって本当に重要な祭礼を、ライブで見学することができるのはたいへん勉強になる。私自身が氏子ではないので観察者としての立場に身を置くことができる。
 日本というものはいったい何であるのか、これは生きている限り考え続けることになるテーマだ。このテーマを考えるにあたって、神道儀礼をあえて対象化して観察することに徹すると、実に面白い発見が多いのだ。神道儀礼というものは、日本人が必ずしも宗教儀礼とは認識していないことの多い、生活に密着した儀礼であるためだ。
 もちろん篳篥(ひちりき)の音色に感じ入ったり、お神楽の餅撒きの餅をゲットしようとしたりする行為にみられるように、純然たる観察者に徹するということはありえない。参加型のライブ感覚に満ちていて、これがまた面白いのだ。自らの"内なる日本"再発見の機会になる。
 ♪ハァ~ア ドスコイ ドスコイ

 ここのところ、しばらく日本に長期滞在しているので、あらためて日本について考えていることの多い、今日この頃である。


<付記>
 YouTube に神楽の映像を2本アップしましたので、ご覧いただきたく(2009年11月20日)
 ① アメノウズメの舞
 ② 山神舞


                        

2009年10月19日月曜日

タイのあれこれ(9)-華人系タイ人の"キンジェー"(齋)について 




 今年は10月18日から26日までの一週間、タイの華人系市民は"キンジェー"に入る。
 キンジェーのジェーは漢字の斎、斎戒沐浴の"齋"、潔斎の"齋"である。キンとはタイ語で食べるという意味。この二つをあわせてキンジェーで、肉食を断ち、菜食を行うという意味になる。
 英語では、キンジェーの一週間を Vegetarian Week とよんでいる。この期間中はバンコク市内でも至る所で、斎(ジェー)と漢字で書いたペナントがいたるところに張り出される。スーパーマーケットでもこの一週間は、齋(ジェー)フードコーナーが設置されることになる。

 昨年バンコクにいた私は、日頃の不摂生を解消するいいチャンスなので、華人系タイ人にならって自称"キンジェー・マラソン"を実施することとした。この期間中はだれから誘われても酒を飲まず、肉食を断ち、菜食に専念したのだ。
 成果といえば、体重はそれほど減らなかったが、体脂肪が20%を切って、カラダがえらく軽くなったことだ。人間40歳を越えると、意識的に節制することも重要だ。こういう努力があって、はじめて美味いものを食べる喜びも倍加するのだ。

 タイは仏教国とはいえ、食材には意外と肉食が多い。これはタイ料理が、ベースにあるインド料理だけでなく、移民として大量に流入した華人が持ち込んだ、中国料理の大きな影響を受けているためである。
 四方を海に囲まれ、しかも暖流と寒流のぶつかる、世界でも有数の漁場に恵まれた日本とは異なり、タイは熱帯に位置しているため、サカナの種類が極端に少ないのである。
 基本的に、タイ民族はメコン水系やチャオプラヤー水系沿いに、雲南方面から南下してきた民族なので、海の魚よりも川魚を好んで食べてきた歴史がある。タイ語で川をメーナームというが、メーは母、ナームは水、つまり"水の母は川"なのであって、母なる海なのではない。海水魚の漁師には南部のマレー系ムスリム住民が多い。
 現在でもスーパーマーケットの生鮮食料品売り場にはナマズがヒゲのついたまま売られている。タイ料理にはナマズ料理が多いが、これはなかなか美味い。ただし、川魚は泥臭いので香辛料が不可欠となるわけだ。メコン河の川魚スープはめちゃ美味い。
 また、ティラピアなどの淡水魚が売られている。ちなみに、ティラピアは国民のタンパク質不足解消のために頭を悩ませていた科学者・現ラーマ9世プーミポン国王に、同じく科学者の今上天皇が皇太子時代にアドバイスし、日本から稚魚を贈ったことが養殖の始まりである。これは知られざるロイヤル・ファミリー間の交流史のひとこまである。
 このように魚の種類が少ないタイでは、日本人が想像する以上に、タンパク質摂取のため肉類を食べる。ブタ肉、牛肉、鶏肉などなんでも食べる。作り置きのタイカレーなど汁物をご飯にかけるぶっかけ飯スタイルが多い。
 お坊さんも、お布施でいただいた料理のなかに肉類があっても食べることになっている。だから栄養たっぷりで、あまりやせているお坊さんを見ることはない。これは道に転がっているイヌも同様だ。
 タイでは、ドイツ企業と合弁の肉製品加工工場があり、ハム、ベーコンなどはドイツの技術指導を受けているのでなかなか美味である。これは以前にもブログで触れたことがある。
 チェンマイなど北部の名産品がソーセージであることは、知る人ぞ知る話であろう。

 こういう食生活を送っていては、カラダにいいハズはないだろう。しかもここ数年、ジャンクフードの食べ過ぎで、肥満体の人間も増えている。
 そこで信仰熱心な華人系市民だけでなく、カラダのことが気にかかるタイ人は、年に一回は菜食生活を送ることになる。
 近年では華人系タイ人だけでなく、一般のタイ人にもこの習慣が広がっているようで(・・といってもタイ人の1/4から1/3はなんらかの形で華人の血が入っているので純粋なタイ人という概念は実際的ではない。国王陛下自身、華人の血を引いている)、この期間中はいたるところで、黄色の齋(ジェー)の文字をみることになるわけだ。

 齋(ジェー)の食材として、豆類のタンパク質やコンニャクから作った、"肉もどき"、"魚もどき"、といった商品が販売されている。7-11などのコンビニでは、齋(ジェー)のおかずパンも販売されている。
 この時期の中華料理店では、齋(ジェー)の料理も提供される。注文する際に、確認してみるとよい。
 これは素菜料理とよばれており、中国の精進料理といってよいだろう。東京・三田の仏教伝道教会併設の中国料理レストラン菩提樹では、中国素菜料理を食べることができる。JR田町駅に近いオフィスで働いていた当時、何度も食べに行ったが、野菜と豆腐以外は、味も形もまったく肉魚料理そのもので、味も悪くないので、機会があれば試してみることをお奨めする。昼の定食セットだけでなく、夜の宴会も可能である。

 ベジタリアンといっても世界でいろんなパターンがあるのだが、華人のベジタリアンはインド系のベジタリアンよりはるかに厳しいことが実感できた。
 インドにいくフライトでは、機内食がベジタリアンかノンベジタリアンか必ず確認されるが、私は基本的にベジを注文している。これは基本的に調査目的であるとともに、味もけっして悪くないからだ。牛が神聖な動物であるインドでは、牛乳やヨーグルトといった乳製品はベジタリアンとして許容される。しかし、華人の菜食では乳製品はいっさい御法度である。牛乳も鶏卵もいっさいダメなのだ。
 バンコクにいくフライトでは、サービス低下の著しいTG(タイ航空)は極力避け、空飛ぶ×××のSQ(=シンガポール航空)か、NH(=全日空)を利用していたのだが、とくに全日空でエコノミークラスを利用する際には、必ず事前に申請してベジタリアンに変えてもらっている。理由は、ベジタリアンにしておくとエコノミークラスでも特別扱いしてくれるからだ(!) 
 アジアのベジタリアン・フードについては、アジアを中心とした食文化をテーマにしているフォト・ジャーナリスト・森枝卓士の 『アジア菜食紀行』(講談社現代新書、1998)、『週末はヴェジタリアン』(ちくま文庫、2002)が参考になる。
 ベジタリアンというとインドしか思い浮かばない人も、ぜひ中国素菜料理を一回は試してみてほしいと思う。

 キンジェーといえば、なんといってもプーケット島である。プーケットといえば大半の日本人(・・いや世界中の観光客)にとってはビーチ・リゾートだろう。

 ところが、プーケットには、華人系タイ人の奇祭があるのだ。プーケットの"ベジタリアン・フェスティバル"について紹介しておかねばなるまい。プーケット島は隣国マレーシアのペナン島と同様、もともと錫(すず)鉱山の開発で発展した島であり、華人系人口が比較的多い。中心都市プーケット・タウンは空港の反対側の南端の内陸部にある。
 奇祭といったが、基本は道教を信じる華人の最大の祭である。

 何がすごいといって、潔斎した男性信者たちが、頬(ほお)にナイフや、巨大な串や、想像を絶するさまざまな管の類を刺して、これでもかこれでもかと白装束を着た一般信徒の前を練り歩くのである。また、鋭利な刃物に舌をつけて鮮血を流しながら練り歩いている信者もいる(・・写真はあまりにもショッキングと思われるのでこのブログでは紹介しませんので悪しからず)。これらが延々と練り歩くのだが、みなトランス状態に入っているので、痛みを感じていないようだ。

なかには、串を頬にさしたまま、全身に巻き付けた爆竹に火を付けて、大音響を発して白煙を出しながら練り歩く者もおり壮観である。この人たちに比べたら、日本の誇る(?)過激パフォーマンス集団"電撃ネットワーク"も児戯に等しいといわざるをえない。
 串刺しは圧倒的に若い男性信者が多いが、なかには若い女性信者もいる。若い女性が頬に穴をなんか開けてしまっていいのだろうかと心配になるが、一般に女性のほうがシャマン的要素が強いので、本格的な修行者なのだろう。
 観客は圧倒的に華人で、観光バスを仕立ててマレーシアから来ている人たちもいるが、それ以外の観光客は比較的少ない。もちろん緊急事態に備えて、練り歩く信者の後にはパトカーと救急車がついていく。
 キンジェー期間中は、潔斎で身を清めるため、肉食断ちの菜食に加え、飲酒もセックスも禁止である。これは世界中どこでも同じだろう。日本でも神事に臨む際は、少なくとも前夜から潔斎しなくてはならない。

 こんな奇祭を見に行くのは、伊達や酔狂以外の何者でもないだろう。私は、昨年のキンジェー期間中に、バンコクからプーケットに飛んで(・・フライト時間は1時間強)、週末をこの奇祭をみるためだけに滞在した。その間、一回もビーチにはいかず、プーケット・タウンのコロニアル様式の建築物を写真を撮りながら歩き回った。
 関心がある人は、プーケット・ベジタリアン・フェスティバルのオフィシャル・サイト(英語・タイ語)もあるので、参考にするとよいだろう。

 しかし、なぜ菜食期間中にこのようなことをするのかよくわからないが、似たような奇祭は台湾でも童乩(タンキー)として行われている。写真家・加藤敬による写真集 『童乩-台湾のシャーマニズム』(平川出版社、1990)で紹介されているものとよく似ているので、同系統のものなのだろう。
 文献もあまりないので詳しいことはよくわからないのだが(・・これは私が専門研究者でないため文献を探しきれていないのも理由である)、共産化された大陸中国ではすでに失われた道教の信仰が、東南アジアの華人世界にはまだまだ息づいていることは明かである。一説によれば、プーケットのキンジェーの練り歩きがもっとも過激であるときく。

 タイについてはこのように、華人の世界については、その影響力について無視できないものがある。
 東南アジアでは、現地への同化に唯一成功したのがタイの華人である。日本人が仕事で接するタイ人は、かなりの程度まで華人系が多い。そんなときに、華人の風習一般について知識があると、相互理解も深まるというものである。
 バンコクの華人系タイ人社会には、プーケット華人のような奇祭は存在しないが、キンジェーという菜食の習慣は共通している。
 もちろん、中秋に月餅を贈る慣習などは、タイに限らず華人世界では全世界共通であることはいうまでもない。
                     



    

2009年10月18日日曜日

秋空の下、BBQを楽しむ joie de vivre(生きる喜び)




 昨日の土曜日、快晴とまではいかないが、薄日のさす秋の一日をBBQ(=Barbecue:バーベキュー)パーティで楽しんだ。
 同時期に求職中であった同世代のビジネスマンの友人S氏から、今後の生き方の方向性も決まったので会わないかという話があり、私は"毎日が日曜日ですよ"と答えたところ、急遽BBQへの参加の誘いをうけたという次第。

 S氏とはハノイで知り合った仲である。それまでベトナムには行ったことがなかったので、何かいいミッションでもないかとインターネットで探して見つけて飛び込みで参加した。S氏は証券業界の出身で、同じく広い意味の金融界出身という共通点から親しみを感じてきたが、今回のリーマンショックによる大不況で、何かしら同志のような気持ちを抱いたのは正直なところだ。
 さすがにこの年齢では再就職は難しいので求職活動はスッパリやめてしまい、人材派遣業を始めたという。面接で50人ほど会ったが、ある面接の場において、こんなオッサンの下で働くのはバカバカしい、と思った瞬間から再就職という幻想がすーっと消えていったという。これには私もまったく同感だ。日本のサラリーマンには、つまらない人間が多いのは否定できないから(・・まあどこの国でもつまらんヤツはつまらんのであるが)。つまらんヤツの下で働くのは、まことにもってつまらんものだ。人生のムダである。
 職業としてフリーの立場になれば、精神もフリーになるということだろう。私も、一昨日久々に会って飲食をともにしたTV業界の友人から、"以前より軽やかになったのが印象的だ"、というコメントをもらったばかりだが、組織を離れてフリーになると、変な気負いがなくなって精神も軽くなるというわけだな。金銭的には決してラクなわけではないのだが。
 
 私にとってはBBQは、昨年秋にバンコクでの遊び仲間たちと、タイのリゾート・アイランドであるサメット島で行ったBBQ以来である。
 BBQは炭火で焼くだけという実に簡単な調理法なのだが、この炭火で焼くというのが、素材そのものの味を引き出す上で絶妙の調理法なのだ。サメット島でのBBQは島の魚屋で仕入れたイカが実に美味かった。
 タイではBBQは非常に人気があり、ムーガタという業態が流行っている。火鉢に入れた炭火でひたすら魚介類や肉を焼いて食うのだが、ビール代は別にして食べ放題一人B99(≒300円)なんて店はファミリーやカップルで連日賑わっている。なんせエビ、カニが食べ放題というのはすごいのだ。
 
 実をいうと私は日本でBBQに参加するのは初めてである・・なんてハズはないのだが、久々の参加のような気がする。社員旅行では行ったような気もするが・・・
 米国にいたときはよくBBQパーティに参加したが、米国ではひたすらソーセージを焼いてホットドッグにして食べるか、ハンバーガーを焼いてバンに挟んで食べるか、あまり選択肢がない。見るからに"味めくら"な米国人たちの、きわめて米国的な存在として記憶に残っている。つまり、あまりいい印象をもっていないのだ。

 先にタイ人の話をしたが、BBQといったら何といっても韓国人であろう。米国でも韓流焼き肉店は Korean BBQ の看板で大いに繁盛しているだけでなく、韓国人留学生たちがアパートの玄関前で車座になって酒飲みながら焼き肉パーティをしている光景には唖然とした記憶があるのだ。日本人からみれば顰蹙(ひんしゅく)ものだといっても言い過ぎではない。酔っぱらうとすぐに踊り出す者もいる。公共感覚に乏しいのではないかね?
 米国から帰国してからは、ひたすらアジアを回る旅を続けてきたが、韓国では韓国人はハイキングにいっては紅葉の下でBBQをやっているのを目撃することとなった。
 日本人にとってのお花見やピクニックは、韓国人にとってはずばりBBQなのだろう。野遊びが変貌してBBQになっているわけだ。近代社会以前の優雅さのかけらもないが。しかし最近10年間の状況にについては知らない。

 今回のBBQの会場は、東京都と埼玉県の県境にある、埼玉県側のみさと公園(三郷市)である。いままでまったく知らなかったのだが、有料のBBQ専用スペースがあり、クルマでBBQ道具を持ち込んだ家族や仲間たちが一単位になってBBQを楽しんでいる。時間帯は9時から16時まで。いまの季節は日が暮れるのも早いから、終わる時間としてはちょうどいいのだろう。
 さて、BBQにおいては炭火をおこすのがまず最大の仕事である。炭が真っ赤になったら、あとはひたすら野菜を切って焼き、肉を焼くのみだ。牛肉はスライスしてかるから焼きやすいが、鶏肉は焼きにくい。しかし炭火でやいた鶏肉は地鶏ではなくても実に美味いものだ。タイの焼き鳥ガイヤーンを思い出す。岩牡蠣(いわがき)も焼くと海水を吸い込んでいるので調味料なしでもいい味を出している。野菜ではカボチャがうまい。ホクホク感がなんともいえない。

 焼き物もうまいが、BBQの楽しみは結局、青空の下で昼から酒を飲む、というこの一点に尽きるといってもいい過ぎではないだろう。われわれも、一人を除いて全員がまず何をさておきまずビールで乾杯、そこから先は怒濤のごとくひたすら飲み続けた。ビールに、紫蘇(しそ)焼酎、芋焼酎・・・・BBQ会場では4時間以上にわたって飲んでいたことになる。どれだけの量を飲んだのかよくわからない。肉を焼いているのだから赤ワインがほしかったな・・なんて無い物ねだりの贅沢な一言も。
 ギネス級の長寿番組「笑っていいとも」のタモリではないが、"友達の友達はみな友達だ"、というわけだ。飲めば自然に心が開く。あっというまに遊び仲間になってしまうのも、アルコールのもつ偉大なチカラである。
 S氏の友人たちも、独立して開業している人たちとその配偶者たちが中心で、空間プロデューサーのS氏、IT関連のK氏、デザイン会社のN氏もみな独立してやっている人たちだ。私はまだ開業はしていないが(・・そう遠くないうちに実行予定のハズ)、現在は"天下の浪人"、よくいえばフリーな立場なので、話が合うということもあるのだろう。もっともここ数年、とくに同世代のサラリーマンたちとは微妙に話が合わなくなっていたので、当たり前といえば当たり前だが。
 独立前はみなサラリーマンだったが、独立してからは、それぞれ自分が自分のボスになる。悪い意味のストレスがないわけだ。職業人としてのあるべき姿である。

 飲み始めたのが12時前から、BBQは閉園時間の16時過ぎには撤収、しかしこれで終わらないのが・・・というものだ。所用で帰宅したデザイナーの二人を除いて当然のように二次会となる。ここでも何杯ビールを飲んだか不明。そしてまたデザイン会社の社長N氏とは深夜の12時まで三次会で飲んでしまったのであった。なんとか武蔵野線の終電には間にあったが、そこから先は間に合わずタクシーで帰宅した。
 タクシーで帰宅なんて、会社やめてからは初めてだ。

 つまるところ半日以上飲み続けていたことになる。こんなに長時間飲み続けるのは、結婚式に招待された時くらいだろう。結婚式場で飲み始めると結局二次会、三次会で深夜まで飲み続けることになりがちだ。
 泥酔したわけではないのだが、本日はなんとかアタマは目覚めたものの、カラダが動かずに半分死んでいたようなものであった。ウコンを事前に飲むのをすっかり忘れてしまっていたのだ。本日になってからウコン錠剤を飲んだが、事後的にも効果がないわけではない。しかし何といっても予防医学が肝心だな、とつくづく思うのだった。
 本日は誰から何といわれようが休肝日、これだけは意志のチカラでやり抜かねば! 体内アルコール濃度を下げないと。
 晩酌でちびちびというのも悪くはないが、ときには豪快にガンガン飲むのもよい。なんといっても自然のなかで飲むのは最高だ。Yes, we really had a good time, didn't we ?
 
 こういうことをさして、フランス人は joie de vivre(=ジョワ・ドゥ・ヴィーヴル:生きる喜び)と表現する。今後も大いに人生を楽しんでゆきたいものだ。




              

2009年10月15日木曜日

お神楽(かぐら)を見に行ってきた


                         
 船橋市内の神社でお神楽をやっているという情報を入手していたので、見に行ってきた。毎年10月15日にお神楽の奉納があるという。昨日は季節外れの雷雨だたが、本日は快晴で星もきれいな夜であった。

 神社の名前は高根神明社、千葉県船橋市内の農村地帯にある神社である。
 このお神楽は明治4年からの伝統だそうだ。なんだ明治か・・って気もしないではないが、明治4年といえば1872年、いまからもう127年前のことになる。この期間、農村地帯とはいっても農家人口が減少しながらも、絶えることなく伝承されてきたこと自体、継続は力なり、と思わされる。
 もちろん明治4年に始まったといっても、別の神社の神楽を習って受け継いだわけだから、もともとの源流がどこにあるか流れをさかのぼれば、それこそ神代の時代にまで行き着くのであろう。

 前日14日が御輿(みこし)の渡御、本日は例大祭のあと、夕方からお神楽というスケジュールは毎年きまっているようなので、本日のお神楽をみるために午後7時から神社にいってみた。
 神社自体はこんもりとした森のなかにあるのだが、すでに御祭礼の提灯の明かりが照らされていたので、道に迷うことはなかった。
 神社の御祭礼につきものの夜店もちゃんと店を出している。大判焼き、たこ焼き、あんず飴、チョコバナナ、お面、おもちゃ、などなど。テキ屋という商売がある限り、古き良き日本の秋祭りは安泰だろう。

 いわゆる産土神(うぶすながみ)としての農村コミュニティの核になった神社である。神社の氏子の、氏子による、氏子のための御祭礼で、観光化していないのが、魅力といえば魅力であるといえる。
 もちろん、普段は農家やサラリーマンをしている人たちが、週末に何回か練習して本番に臨んでいる、いわば素人集団であるから、民俗芸能とはいえ、芸能としての完成度は必ずしも高くはないかもしれない。
 しかし、芸能の起源は神事にある、という民俗学者・折口信夫の説が、こういった観光化されていない神社のお神楽をみるとき、心から納得することになるのだ。芸能の起源が神事にあることは日本や、古代ギリシアのみならず、全世界的なものだといってよいだろう。今回見たお神楽も、演目によっては能狂言に近いものもある。
 また、お神楽を演じている俳優たちが、仮面をとってしまえば、顔見知りの人たちであるというのも、こういった観光化されていない、ローカルな農村コミュニティならではのものだといえるだろう。もちろん私は地元の住民ではない、単なるよそ者の観察者にすぎないが。
 よそ行きではない、普段着の世界の延長線上にありながら、しかし注連縄(しめなわ)が結界となって、向こう側の神楽殿が神籬(ひもろぎ)となり、神聖空間として彼岸と断絶されるというのは、日本の神社神道の空間構造にかんする興味深い側面である。この側面はユダヤ教の幕屋(まくや)と共通するものがある。
 日本人は宗教心はないと誤解されがちだが、こういった形の信仰形態をもっているというのが正確なところである。
 仏教と神道を同時に信仰することは、一神教的な世界観からはまことにけしからんということになるのだろうが、アジアでもイスラーム圏以外ではむしろ一般的な姿であるといえる(・・実際はインドネシアの場合も、イスラームの下層には先行するヒンドゥー教や大乗仏教が堆積しており、それを嫌うのが最近目立つ原理主義者である)。

 さて肝心のお神楽だが、本来は全部で14座が伝承されて毎年演じられるらしいが、今年は何らかのアクシデントで12演目のみの奉納となったそうだ。おかげで夜の10時過ぎには完全に終了したので、早く帰宅することができたので正直いって助かった。例年終わるのは夜の11時過ぎらしい。
 地元の人間ではないので、なれない夜道を帰るのは不安がつきものである。実際、帰宅の際、道に迷ってしまい、少しあせったのは事実である。でもなんとか帰り道をみつけることができたのでほっとした。

 私が見たのは順番に、"神明之舞"、"日本武尊(やまとたけるのみこと)之舞"、"翁(おきな)舞"、"剣打ち之舞"、"大蛇(おろち)之舞"、"恵比壽(えびす)之舞"、"ぎおん舞"、そしてフィナーレが"天の岩戸舞"、以上10演目である。
 全般的に古事記神話に題材をとったものが大半で、いずれも所作が日本の芸能の源流にあたるものであり、たいへんわかりやすい。ヤマトタケル、スサノヲの八岐大蛇(やまたのおろち)退治とクシナダヒメ救出、アマテラスとアメノウズメなど日本神話の代表的存在である。

 恵比寿舞のエビスやぎおん舞にでてくるヒョットコも実は神話に連なる存在で、エビスは古事記にでてくるヒルコであることは確かで、ひょっとこは火男のなまりであるが実は起源は明かではない。ちなみにヒョットコの対になるオカメは、アマテラスを岩戸から引き出したアメノウズメらしい。

 お神楽を見るものにとって何よりの楽しみは、ヒョットコなどの俳優が見物客に向かってばら撒くお餅のようだ。子供の頃、新築家屋の棟上げ式でばら撒かれたお餅を争って奪い合う経験をしたことがあるが、今回も主役は子供たちである。私も幸いなことに3つゲットしたが、つきたての丸餅は農村らしい風物詩ともいえようか。

 継続は力なり、こういってしまうのは簡単だ。
 観光化されていない、氏子のための民俗芸能がいつまでも伝承されることを望みたいが、日本各地で人口減少による後継者不足が問題になっているという。
 最近、農村に移住して農業を始める人たちも増えているらしいが、こういった新農家もある意味、地域の民俗芸能の担い手となれば、後世に伝承を引き継ぐこともできるのではないだろうか。

 続いているが故にありがたい、これは日本を日本たらしめている天皇家も同じである。
 天皇家も、国民が意識して存続させていかないと、消滅してしまうかもしれない。そんなことになったのでは、もったいないではないか。
 こういう話をするのは、天皇にとってもっとも大事なのが、日本という国を安泰ならしめるための数々の神道祭祀(さいし)だからである。この事実は、もっと国民一般に知られてしかるべきだろう(・・NHKの天皇皇后両陛下ご成婚50年記念番組で、宮中祭祀に向かう衣冠束帯姿の天皇陛下の映像が放送されたのは画期的であった)。

 地域の神社のお神楽と天皇家の祭祀もまったく無縁の存在ではないのだ。
 その証拠に、来る11月の天皇陛下御即位二十年奉祝の際、奉祝曲を演奏するのは EXILE という日本人バンドである。御即位十年奉祝は YOSHIKI であった。
 これはある意味で、芸能としての神事と考えるべきなのである。
  
                       


   

2009年10月14日水曜日

本棚が倒れて"本の海"に生き埋めになるという恐怖が現実に・・・


              
 恐るべき事故が昨日午後、札幌の古書店で発生した。
 本棚が転倒して、10代の姉妹と従業員が生き埋めとなった事故である。19歳の従業員と、14歳の姉は比較的軽度の怪我で済んだらしいが、10歳の妹が倒れてきた本棚の角で胸を強打し、現在も意識不明の重体であるという。
 事故の発生したデイリーブックスは、いわゆる従来型の古書店ではなく、ブックオフのような新古本とマンガ、CD、DVD、ゲームなどを扱うタイプの古書店のようだ。
 
 インターネットのTV局が提供しているVOD映像で見る限り、事故現場はまさに"本の海"ある。この本の海に生き埋めになったのかと思うと、いたたまれない思いだ。
 高さ210cm(・・高さ110cm幅90cmのボックスの上に同じ幅の高さ100cmボックスを重ねていた)で、横に計6台ずつボルトでつなげて組み立てるタイプだったようだ。幅は5.4mになる。
 この本棚3列がドミノ倒しのように姉妹の上に倒れかかり、本の海の中に閉じ込められた、ということである。
 本棚と本棚の間隔がたった50cmというのは、これは正直いって狭すぎる(・・付記:その後の報道では60cm)。
 本棚はおそらく奥行きが35cmだと、真ん中に背板がって両面から本を一列に収納するタイプだと思うが、それにしても大量の本を詰め込んだものだ。6,000冊の本の海に埋まったら、子供でなくても生き埋めになってしまうだろう。店内には全部で2万6千冊以上あったという。よくそれだけ詰め込んだものだ。

 たとえ本の海に生き埋めにならなくても、落ちてきたハードカバーの単行本のカドで打撲傷となる可能性もある。
 私も先日、整理中に手を滑らして単行本を落としてしまい、あっと思ったその瞬間(・・なぜかこういう瞬間はスローモーション映像のように見えるものだ)ののち、裸足の親指の上に落として実に痛い思いをしたばかりだ。内出血のあとが未だに残っている。

 自分が落とした本で怪我をしても、その事故責任はあくまでも自己責任だが、商売でやっている書店で今回のような事故を起こすと、業務上過失傷害の対象となる。
 地震のような自然災害は、損害保険の世界では、force majeure または act of God といって免責事項となるのが通常である。日本語では不可抗力と訳している。
 今回の事故は、地震による二次災害ではないので、不可抗力とはいえず、あくまでも人災である。店側の過失の可能性が高い。
 
 自宅に客を招いた際に、本棚が倒れて本の海に生き埋めになったら・・・考えるだけで恐ろしいな。しかし、こういうケースも想定しておかねばならない。
 以前にこのブログで、草森紳一の『本が崩れる』の話に触れたが、本だけでなく、本棚自体が恐ろしい凶器になりうるということ、これは心しておかねばならない。

 もちろん、私の本棚は転倒防止策はキチンと講じてありますよ。
 でも本当は、本棚の本がダイブして飛び出さないような対策を講じておかないいけないんだなあ。こちらのほうが可能性としては高い。

                 

P.S. 「本棚等の転倒防止策について」(消費者庁)

消費者庁から、「本棚等の転倒防止策について」という文書が発表された。本棚転倒の下敷きになった女の子は、いまだに意識不明とテレビ報道で見たが、ほんとうに痛ましい事故である。消費者庁の指針は家庭でも有用な指針なので必読だ(2010年12月2日 記)。





   

2009年10月13日火曜日

コンテナ・ストーレージ(貸倉庫)に本の一部を収納




 "本との闘い"の日々の最新報告である。
 あまりにも量が多くて、部屋の中で廃棄すべき本の選別作業もできないので、当面使用する予定のない本や、書類はストーレージに収納することとした。少しでも部屋の使用可能面積を増やさねばならない。

 東京都心とは違って、近郊の千葉県では、中古の貨物コンテナを使用したストーレージが多い。
 私がいま住んでいる地域でも、道路沿いの一等地にコンテナを二段に積み上げた簡易型の貸倉庫がいたるところにある。景気がよければ、本来はいわゆるロードサイド・ショップとして物販や飲食サービスなどに利用されたはずの一等地も、こう景気が悪くては、それは不可能な話だろう。

 東京都心でも、猫の額のような土地を駐車場として仮利用しているケースが多いが、近郊地域では駐車場だけでなく、比較的まとまった広さの土地では、コンテナ利用した貸倉庫として、法人や一般に貸し出されている。
 東京都心の貸倉庫は、テナントの確保できないオフィスビルが内部を改装してストーレージとして貸し出すケースがあると聞いているが、土地代の安い近郊では、コンテナを利用したタイプが圧倒的に多い。
 貸倉庫は、トランクルームとは似ているが、まったく異なるモデルのビジネスである。トランクルームは顧客の荷物を保管業者が責任をもって預かるサービスだが、貸倉庫はいわば場所貸しに専念するもので、荷物の保管責任は顧客の側にある。

 貸倉庫は、中古の貨物用20フィート・コンテナを使用面積に応じて、そのまま使用したり、あるいは二分割(・・この場合は約4畳)、または四等分(・・この場合は約2畳)して、中仕切りを入れて、最低限の自然空調設備をつけて内部を改造し、入り口にシャッターを設置したものである。
 海上輸送用の貨物コンテナは全世界で規格が統一されているので(・・例外はJR貨物のコンテナ。旧国鉄は明治時代に英国規格の狭軌 narrow gauge を採用したので、レール幅に合わせた、世界標準より小型のコンテナを使用せざるをえない)、コンテナ置き場の設計も設置も比較的簡単なのだろう。この規格化をさして物流の世界ではコンテナリゼーション(containerization)という。
 コンサルティングの仕事で、海上貨物輸送の世界を垣間見る機会があったので若干の知識があるのだが、この20フィート・コンテナ一個分を物流の世界では、1TEUとよんでいる。TEUとは、Twenty Equivalent Unit の略で、たとえば大型の40フィート・コンテナの容量は、2TEUと計算する。

 タイの工業団地では、私がもっとも数多く訪問していたのは、関連企業の工場があったアユタヤの Hi-Tech Industrial Estate であるが(・・世界遺産からは離れている)、この工業団地では、日系企業の現地工場では、工場敷地内には NYK(日本郵船)や MOL(大阪商船三井)など海運会社のカラフルな海上輸送用コンテナが積み上げてあった。
 輸出用の貨物は、ex factory 段階でそのままコンテナに入れてあるのかと思ったら、後に機会があって聞いてみたところ、ストーレージとして使用しているとのことであった。実際に在庫収納場所として、部下に命じて見積もりを取らせた際に、この事実を知ったのである。
 こういう話を知っていたので、日本でもコンテナがストーレージとして使用されていることを知っても特に驚きはなかった。低コストで合理的な行動だと思うのである。

 ちなみに今回私が賃貸契約をしたコンテナは、現在の自宅からクルマで5分ほど走った交差点のすぐ近くという、本来なら郊外型レストランで採算がとれそうな好立地である。
 2畳分のスペースで、コンテナ一階が月額約1万円、二階は6,000円と価格差がある。一階ならコンテナの前にクルマを横付けにしてそのままコンテナへの荷物の出し入れが容易に行えるが、二階だと階段を使用しなければならないのでたいへん不便だ。この価格差は十分に説明可能だろう。

 経営コンサルタント時代、いまから20年ほど昔のことだが、一時期しばらく土地活用コンサルティングに従事していたことがあった。先に記した海上輸送とほぼ同時の仕事である。その頃は、小さなものではロードサイドの土地有効活用提案と事業シミュレーション、大きなものではJR西日本の京都駅改造にともなう、百貨店誘致にかんする商圏調査なども行った(・・昔は京都の商業中心は四条河原町だったのだが、いまでは京都駅の集客力も高い。隔世の感である)。
 その頃にくらべると(・・バブル期の前後であった)、日本の経済構造は激変、人口減少状態のもとでは、コンテナ・ストーレージといった土地利用も一過性の形態とはならず、恒久化する可能性も小さくはない。
 
 顧客の立場からいえば、景気が回復したら原状回復して更地にしてコンテナ撤去、という不安が小さいので、安心してストーレージとして使用できるのはメリットである。ほかに有効な土地利用方法がない以上、コンテナ・ストーレージの供給はまだまだ続くだろう。
 土地オーナーからみたら、固定資産税が払える程度の賃貸収入があれば、何もしないで放置しておくよりかはましだ、といった程度の考えだろう。必ずしも本意ではないだろうが。
 ストーレージは専門業者が管理しており、いわばチェーン化して管理運営を行っている。

 ストーレージを使用する顧客としては、本当はモノ自体を減らさなければならないのが筋なのは、いうまでもないのだが。
                   



   

2009年10月12日月曜日

日米関係がいまでは考えられないほど熱い愛憎関係にあった頃・・・(続編)




 マンガ家・石ノ森章太郎による『マンガ 日本経済入門』(日本経済新聞社、1986)は、1985年のプラザ合意に始まった円高、自動車産業をめぐってヒートアップしていた日米経済戦争を背景に、日本人ビジネスマンを主人公として、国際経済のなかの日本を解説した本である。
 当時のベストセラーになったのは、まだマンガで本格的に経済を解説した本がなかったからだろう。
 もちろん、「サイボーグ009」や「仮面ライダー」で有名なマンガ家のタッチは、経済マンガにふさわしいものであった。

 この本が1988年には、JAPAN Inc.: Introduction to Japanese Economics (Comic Book) というタイトルで、米国で翻訳され出版されている。
 この本は、私が米国にいるあいだの1991年(?)に入手したB5サイズのペーパーバックで、313ページのマンガはセリフが英語に翻訳されて、日本語版とは反対の左開きになっている。ニヤリ、といった日本語の擬音はそのまま描き直しなしで日本語表記のまま描かれている。
 ここまではマンガの英語版としてはごくごく普通の話だが、英語版の出版元が University of California Press(カリフォルニア大学出版局)というのが驚きだ。単なるマンガ本の英語版という位置づけでなく、日本研究の重要資料として出版しているのである。
 この当時は、前にも書いたがソ連崩壊前夜で、日本が米国の仮想的(?)--少なくとも経済の面では--として浮上してきた頃である。

 裏表紙には日本研究で有名なチャルマーズ・ジョンソン(Chalmers Johnson)が推薦文を寄せている。
 また、ノンフィクション作家・ドウス昌代氏の夫である Peter Duus スタンフォード大学教授はイントロダクションを執筆しており、日本におけるマンガの位置づけや、手塚治虫から始まる戦後日本マンガ史、1980年代以降の教育マンガや実務マンガというジャンルについて解説している。
 
 1988年時点は、日本のマンガやアニメは、とくに理工系大学の同好会で熱烈に受け入れられていたようだが、広く一般に受け入れられたという状況ではなかったようだ。M.I.T.(マサチューセッツ工科大学)でロボット工学(Robotics)を専攻する学生は、専門論文を読むために日本語を勉強しているらしいという話をその当時聞いたことがある。
 一般の米国人は、その当時は(・・いまでもおおかたそうだろうが)、われわれが"アメコミ"(・・アメリカン・コミックスの略称)といってる、ペラペラの紙にカラーで印刷された小冊子を読んでいた。Batman とか Spiderman、Superman というタイトルが有名だが、待合室などにおかれていたのを記憶している。
 アメコミは、セリフが多すぎて読みにくいので、正直いって私は好きじゃない。
 というより、マンガ王国に生まれた日本人は、ものごころついたときからドップリと日本のマンガに浸かって育っているので、"日本のマンガが国際標準である"とおそらく無意識のうちに信じて疑わないのである。
 当然であろう。

 経営戦略論の大御所・マイケル・ポーター(Micahel Porter)流にいえば、日本におけるマンガ産業は、日本国の比較優位(competitive advantage of Japan)の一つであると表現するところだろう。
  The Competitive Advantage of Nations は、ちょうど私がM.B.A.コースにいた1990年に初版が出版されたものだが、私が受講したある授業では、授業前に1章分100ページ近く事前に読了しておくことが求められていたので実に大変だった。おかげでこの900ページ近い大著を、出版されてばかりの段階で、全部ではないが読むことになったのは、非常に幸いなことだった。
 内容は非常に面白い。ある特定の国が置かれている外部環境と日本国の内部環境を歴史地理的に分析することで、その国のある特定の産業が、なぜ国際的に優位性をもっているかを説明したものである。
 とくに、日本についての章は、一橋大学の竹内弘高教授が共同執筆者となっており、読み応えがある。
 他の国も、それぞれの国の経営学者が共同執筆者になっているので、米国人が一方的に分析したものでない内容豊かなものになっている。なかでも、ハイテク立国ドイツ産業の弱みに関する指摘がとくに印象に残っている。
 同じ時期に出版された経営学の古典として紹介しておこう。ポータ教授のこの著書は、現在でも入手可能なロングセラーである。

 ちなみに石ノ森章太郎の『マンガ 日本経済入門』は、オリジナル日本版はパート3まででているが、単行本も文庫本も含めて品切れ状態である。アップトゥデイトな内容ではなくなって久しいので当然であろ。
 英語版は現在でも入手可能である。日本研究書としての意味がまだ残っているのだろうか。それとも石ノ森章太郎のファンが買っているのだろうか。

                        

                    

2009年10月11日日曜日

"世界最小の大仏"を見に行ってきた・・そしてついでに新京成線全線踏破を実行


 "世界最小の大仏"とは、梨どころ千葉県鎌ヶ谷市にある"鎌ヶ谷大仏"(かまがや・だいぶつ)のことである。もちろんギネスブックに登録されているわけではない。
 千葉県に移住したのを機会に思いだし、さっそく見に行くこととした。気にかかっていることは確かめないと。

 事前にインターネットで調べたら、なんと高さ1.8mというではないか。おいおい、これが大仏かよ?!
 しかし新京成線の駅名にもなっているのだから、名所は名所なのだろう、まあ何事も百聞は一見にしかず、出かけることとした。
 新京成線の"鎌ヶ谷大仏"駅(・・大仏が駅名に読み込まれているのは日本で唯一らしい、ということはつまり世界で唯一無二ということか)で下車して、駅前のバス操車場で交通整理をしている老人に、大仏はどこですか?と聞いてみたら、道路を渡ったあそこだ、とぶっきらぼうな口調でいわれた。
 老人にはありがとうございすと挨拶してから、道路を渡ってみると、なんと墓地の一角に青銅製の座仏が鎮座している。これが大仏なのであった。

 看板の説明書きによると、江戸時代の1776年(安永5年)、鎌ヶ谷宿(・・鎌ヶ谷は宿場町だったのだ)の大黒屋文右衛門が、先祖供養のために神田の鋳物師に鋳造させたものだ、と書いてある。
 鋳造にはどのくらいのカネがかかったのか知りたいところだが、文化財というのはそういう形而下的な、下世話なことは関心がないのだろうか、いっさい記載がないのが残念だ。
 商人が建立したのだから、経済学者ヴェブレンのいう"見せびらかしの消費"(conspicuous consumption)のはずで、大枚はたいて云々と絶対吹聴したに違いないのにね。
 いま書いていて気がついたが、建立されてから今年でちょうど233年ではないか!これを大仏だといったのが文右衛門本人なのか、町の人たちだったのか定かでないのも悲しいな。

 まあ、アングルによっては、アップで写真を撮影すると大仏らしく見えないこともない。
 そもそも"大仏"の定義なんてものは明確でないから、これが大仏だーといってしまったものの勝ちかもしれん。
 たとえば私が1cmの仏像をもっているとして、これが世界最小の大仏だっ!と宣言してしまえばいいわけだから。とはいっても誰も認めないだろうが。
 私が鎌ヶ谷市長なら、"世界最小の大仏のある町"とかいってプロモーションするところなのだが・・・聞いてビックリ、見てガッカリ、というやつだなあ。

 ついでに触れておくが、墓地の中には数基の"馬頭観音"の石碑が建っている。馬頭観音(ばとうかんのん)とは文字通り、馬の頭をした観音様のことだが、宿場町なので馬による輸送が頻繁だっただけでなく、習志野が関東有数の馬場だったことも関係があるのだろう。昭和十年という銘があるから、そんなに古い話でもない。
 このブログでも8月に習志野の騎兵隊の話を書いているが、千葉県の下総地域と馬の関係は浅からぬものがありそうだ。
 上空を轟音とともに、航空自衛隊の大型ジェット機が飛んでいた、鎌ヶ谷大仏の日曜日の午後であった。

 
 これだけではあまりにもあっけないので、ついでなので新京成電鉄・新京成線を全線踏破することとした。
 京成津田沼駅から松戸駅までを結ぶ全長26kmの私鉄路線である。しかし直線距離ではたったの16km、つまり平地なのに右に左にカーブが連続する、曲線区間のきわめて多い、日本でも珍しい鉄道路線なのである。

 この路線は、もともと陸軍鉄道連隊の演習線だったためらしい。様々な曲率(R)のカーブを作る練習のために10km分も距離を稼いでいるのである。
 現在では使用していない区間には鉄橋も4カ所あったらしいが、あまりにも迂回ルートになってしまうので、戦後民間に払い下げられたとき、さすがにその路線は使用しなかったという。
 曲線のまっただ中にプラットフォームが設置された駅も多く、そもそもの演習線としての過去を想起させてくれる。関東の私鉄・東武浅草線の業平橋駅から浅草駅のあいだのように、市街地のなかをぬうようにクネクネと走る曲線区間が多い、というわけではないのだ。曲線区間に駅ができた結果、市街地に発展したのである。
 路線の途中で、JR武蔵野線や北総鉄道北総線に交差するようになったのは、戦後だいぶたってからのことだ。

 "鉄道連隊"については、wikipediaに情報がある。また、新京成線がその一つである"鉄道連隊演習線"については、同じく wikipedia に情報がある。
 今回あらためてインターネットで調べてみて、新京成線が陸軍の払い下げ、ということの意味が理解することができた。陸軍の鉄道連隊は、戦地における鉄道の建設、修理、運転だけでなく、敵の鉄道の破壊も行う、鉄道専門の工兵部隊だったわけなのだ。その演習のための路線が千葉県にあったということである。

 高校時代、京成線を使って高校まで通っていたので、毎日目にしていた京成津田沼駅から単線で分岐する新京成線には非常に興味が強かった。今の今まで一回も乗車したことがなかったのだ。
 せっかくだから全部乗ってみた。私は、いわゆる"乗り鉄"だから。鉄道オタクとまではいかないが、男の子というものは鉄道含めて乗り物が好きなもので、私の場合はとくに子供時代から、走っている列車に平行して走る反対車線の線路を見るのがとくに好きだったのだ。
 今回は久々に、運転席の右隣の窓から進行方向の線路をずーと眺めていた。
 カーブする線路というのは、子供にはとくに面白いようで、私の左隣では男の子がずうっと窓にへばりついていた。運転手になった気持ちで線路を見るという行為は、とくに男の子特有の本能なんだろうか?

 この路線は曲率(R)の小さな、つまりカーブのきつい曲線箇所が多い。遠心力が働くので倒れそうになる。ずっと立っているのはなかなか大変なのだ。
 JR西日本の福知山線脱線事故でもあきらかなように、曲線がきついカーブでは、2本の線路に勾配差がつけられているとはいえ、ある一定上のスピードを出すと遠心力が制御限界を上回って脱線し、それが市街地ならば高層マンションに激突なんて事態になってしまう。

 全線踏破してわかったが、もっとも曲率(R)がきつい区間が連続していて、実に乗り甲斐(!)があるのが、京成津田沼駅と新津田沼駅のあいだの単線区間であることがわかった。この乗り心地を再体験するためにデジカメでビデオ撮影をすることとした(・・100M越えてしまったのでアップロード不可能なのは残念)。
 
 カーブでの運転技術も含めて、運転実務という観点から実に貴重な情報を惜しみなく与えてくれるのが、昨年出版された『電車の運転-運転手が語る鉄道のしくみ-』(宇田賢吉、中公新書、2008)である。
 鉄道については、設計者や技術者が書いた一般向けの本が多い中、旧国鉄に入社した18歳以来、42年間にわたって蒸気機関車から電気機関車、電車まで運転してきた著者による素晴らしい本である。中身のない薄っぺらな新書本があふれる現在、実に貴重な本だ。
 電車の運転というのは、ある意味ではキチンとこなして当たり前という現場の職人仕事なので、こういった仕事本がどんどん書かれて出版されることを望みたいものだ。


 さて本題に戻って、大仏で締めないといけないな。
 人はどうしても、自分の住んでいる地域の大仏が一番でかい、といいたがるもので、私も14年前に中国領チベットのタシルンポ寺を訪れた時、英語ができる若い僧侶と会話したのだが、彼は日本の大仏よりでかい、と自慢げに語っていたものである。 
 正確な寸法はさておき、私はやはり奈良の大仏は驚異的にでかい、と思っている。これはナショナリズムであろうか?
 ロシア語にギガントマニア(gigantmania)というコトバがあるのだが、宇宙ステーションなどソ連時代の巨大建造物の建造ラッシュのことをさして表現したものである。
 最近、タイでも巨大仏建立ブームがあって、景観破壊以外の何者でもないと思うのだが、金を儲けた人間の考えることは、世界中どこに行ってもあまり変わらないのかもしれない。
 
 高度成長期の日本では、作曲家で指揮者の山本直純が出演した森永エールチョコレートのCM、♪大きなことはいいことだーというものがあったものだ。もっとも日本は、縮み志向の国だ、と韓国人の知日派学者は指摘するのだが。
 こんなこというと、チジミは韓国やろ?、と必ず突っ込み入れてくるヤツがいるのだが、本質はいずこに?

 そうだな、今度は文字通りホンモノの大仏を見に行くことしようか。
 文庫本として今月出版された、『晴れた日には巨大仏を見に』(宮田珠己、幻冬舎、2009)でもガイドにして。
 この本が扱うのは、奈良の大仏や鎌倉の大仏といった歴史ある大仏ではなく、戦後昭和から平成にかけて作られらた、ウルトラマンより大きな、高さ40メートル以上の巨大建造物としての大仏のことである。
 巨大仏がヌっと現れる風景は、著者のいう"マヌ景"そのものだ。単なる違和感とも言い切れない不思議なかんじである。

 何事も百聞に一見はしかず。いつ実行することにしようか。


<追記>

 後日10月20日に撮影した新京成線のS字カーブの映像を「日本有数のS字カーブ(新京成線)」と題して YouTube にアップした。ご覧いただけると幸いです。

<追記2>

 「鎌ヶ谷大仏-DIVE TO LOVE(だいぶ・つ・ラブ)-」(YouTube)

 「鎌ヶ谷大仏」を歌い込んだ歌があることは、全然知らなかった。
 たまたま、フェイスブックで知り合った地域の飲み会で、「鎌ヶ谷大仏-DIVE TO LOVE(だいぶ・つ・ラブ)-」という曲があることを知った。
 スキップカウズというグループが、読者からの投稿に基づいて鎌ヶ谷大仏をイメージした楽曲で、2007年発売らしいが、うかつなことに全然知らなかったのだ。お恥ずかしいかぎり。




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