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2010年6月30日水曜日

書評 『脳と日本人』(茂木健一郎/ 松岡正剛、文春文庫、2010 単行本初版 2007)




「脳」を論じる茂木健一郎が、「日本人」を論じる "知の巨人" 松岡正剛の胸を借りた、実りある対話篇

 『脳と日本人』というタイトルは、「脳」は茂木健一郎、「日本人」は松岡正剛を代表させているということか。自然科学思想の素養のある "知の巨人" 松岡正剛の胸を借りて、人文科学の素養のある茂木健一郎が挑戦して、実りある対話が実現した。

 読んで直接ためになるという性質の本ではない。しかし、読むといろいろなことに「気づき」を得ることができる。自分の日々の活動の意味についても、少し違う視点から再考するキッカケとなる。知の饗宴としての芳醇な対話篇といえようか。
 ともに「脳」について語りながら、「五感」のなかで「視覚」のみ肥大化している現代日本人への警鐘ともなる、認知科学にかかわるメッセージをさまざまな形で発しあう二人である。
 二人の対話は、ときに同期し、ときに齟齬しながらも、実り豊かな対話空間をつくり上げているという印象の知的対話となっている。

 とりわけ、松岡正剛という知の巨人の形成史として、彼自身の若いときの個人史にかかわる重い体験のいくつかがが、空間や時間に関連づけられて語られるのを聴くとき、知的探求というものの出発点が、あくまでも個人の一回限りの体験と密接な関係にあることを知るのである。 そうした体験をどこまで知的に深掘りできるかが、知の探求者としての大きな分岐点となるのだろう。

 ここのところ、ビジネス書を量産しすぎの感ある茂木健一郎ではあるが、自然科学者である脳研究者としてのこだわりをみることのできる一冊でもある。


<初出情報>

■bk1書評「「脳」を論じる茂木健一郎が、「日本人」を論じる "知の巨人" 松岡正剛の胸を借りた、実りある対話篇」投稿掲載(2010年6月23日)
■amazon書評「「脳」を論じる茂木健一郎が、「日本人」を論じる "知の巨人" 松岡正剛の胸を借りた、実りある対話篇」投稿掲載(2010年6月23日)

*再録にあたって文章に手を入れた。





<書評への付記>

 目次は以下のとおりである。

第1章 世界知を引き受ける
第2章 異質性礼賛
第3章 科学はなぜあきらめないか
第4章 普遍性をめぐって
第5章 日本という方法
第6章 毒と闇
第7章 国家とは何ものか
第8章 ダーウィニズムと伊勢神宮
第9章 新しい関係の発見へ


 「松岡正剛という知の巨人の形成史として、彼自身の若いときの個人史にかかわる重い体験のいくつか・・」と書評に記したが、これは具体的には、子供の頃の全盲の叔父さんとのかかわり、そしてガス自殺を図った親戚の若い女性とのかかわり。
 全盲の叔父さんの聴覚についての驚きは、知覚機能を視覚に頼りがちな現代人の、まさに盲点をついたものであり、ガス自殺未遂の後遺症で記憶喪失になった女性が記憶を取り戻す瞬間についての気づきは、記憶と脳機能にかかわる話である。
 場所と結びついた記憶としてのトポグラフィック・メモリー(topographic memory) 、記憶を取り巻く文脈に結びついたコンテクスチュアル・メモリー(contextual memory)。認知科学への関心。
 このような原点としてのいくつかの体験が(・・ほかにもあげられているがここでは省略)、知的探求の原点になっていることに気づかされるのである。 


<ブログ内関連記事>

書評 『日本力』(松岡正剛、エバレット・ブラウン、PARCO出版、2010)




                     
                               

2010年6月29日火曜日

「サッカー日本代表チーム」を「プロジェクト・チーム」として考えてみる


    
 「サッカー日本代表チーム」は、企業でいえば「プロジェクト・チーム」である
 こう考えると、いろんなモノが見えてくるし、代表チームの選抜されて実績を出している選手だけでなく、代表監督の言動の意味もよく理解できるだろう。

 そもそもプロジェクト・チームとは何か?

 プロジェクト・チームとは、ある特定のプロジェクトを遂行するために、アドホック(一時的に)に組成される組織のことである。
 企業内でいえば、プロジェクトには、新製品開発、人事制度改革、ミッション作成、新規システム導入・・・例をあげればキリがない。
 こうした特定の目的を実行するために、期間を区切ってメンバーが招集され、組織横断的に実行されるのがプロジェクトであり、そのプロジェクト遂行の主体となるのがプロジェクト・チームである。
 コンサルティング会社などでは、仕事はすべてプロジェクト・チームとして遂行される。

 プロジェクトチームは、人間集団である以上、かならずリーダーやマネージャーが必要とされる。というより、まずプロジェクト・リーダーが経営者などの組織上の上位者から指名をうけてプロジェクトチームを組成し、メンバーを一本釣りするなり、公募なりで招集、選別することが通常である。

 さて、これを今回の FIFAサッカーワールドカップ2010南アフリカ大会に出場した「日本代表チーム」にあてはめてみよう。

  ●プロジェクトリーダー:岡田監督
  ●目的(ミッション):ワールドカーップに出場し、一次リーグを突破すること 
  ●期間:ワールカップ予選開始前から、ワールドカップで日本の勝敗が決定するまで 

 以上のように整理してから、岡田監督の采配について見てみよう。


 岡田監督は、ワールドカップでベストフォーに入る、つまり準決勝まで勝ち残るという目標をぶち上げているが、日本サッカー連盟は、岡田監督にそこまで高いミッションは要求していないハズだ。おそらく、かつて韓国がベストフォーまでいったから日本も・・・というおとではないだろうか。
 しかし、ベストフォー進出という目標を掲げ、ミッションにしてしまった以上、引くに引けないのもまた現実である。岡田監督のアタマのなかに何があるのか、忖度しても意味はないが、もしかすると監督のコトバに鼓舞されて、できるんじゃないかという空気がいまや出来上がりつつあるのかもしれない。

 誰を先発メンバーに指名し、誰を補欠としてベンチで待機させるかという、いわば「人事」にかんする方針をみてみよう。
 勝負の世界においては、勝つためには最高の布陣を行う必要があるが、そのためには、たとえ実力があってもメンバーからはずすという非情な決断を行わなければならない時がある。
 12年前のワールドカップ・フランス大会において、岡田監督がカズこと三浦知良を斬ったのは記憶に新しいが、その時はワールドカップ代表チームの招集前だった。今回の中村俊輔はベンチ入りしているから、本人にとっては相当つらいことだろう。
 しかしまさに非情な決断であったのではないか。本田圭佑という24歳の寅年男は、完全に中村俊輔と世代交代してしまった。鮮やかな交代劇というべきだろう。きくところによると、カズを斬ったときと同様、チーム内の空気を読んだ岡田監督は、俊輔をベンチで待機させることにしたらしい。
 攻めるサッカーへの転換という岡田監督のポリシー(フィロソフィー?)を実現するために不可欠な「人事」であったといえる。非情な決断を行った岡田監督の賭は、今回は吉とでたようだ。

 企業経営の場合も、サッカー代表チームときわめてよく似ている。
 プロジェクト・チームの招集にあたって、メンバー選択はプロジェクト・リーダーの責務であり、パフォーマンスがあがらない時は、メンバーの交代を行い事もままあることだ。
 なによりもプロジェクトチームが初期のミッションを果たし得ないとき、プロジェクトリーダーの交代も行われることがある。私も他人が放り出したプロジェクトの後始末を多くこなしてきたが、自分が選んだメンバーでない場合は、チームをまとめるのはまた一苦労である。
 サッカーの場合も、利害関係者からさまざまな横やりが入る。岡田監督も騒音が激しかったが、上層部が土壇場で岡田監督を切り捨てなかったのは、後知恵ではあるが賢明であったといえようか。


 さて、いよいよ本日、日本時間23時から、決勝トーナメントで日本代表チームはパラグアイ代表チームと激突することになる。
 日系人も7,000人と少なくない南米の小国パラグアイではあるが、ベストエイト進出は悲願であるという点において、おかれた状況は日本より厳しいものがあるのだろう。
 今回の日本代表は、もちろん実力で一次リーグを突破したとはいえ、棚ぼた的なかんじがなくもない。つまり日本国民の期待度はパラグアイほど高くはなく、選手の感じるプレッシャーも、ノイローゼになるほどではなく、むしろいい具合にフォローの風となることだろう。

 日本人である私は、このプロジェクト・チームの成功、すなわち日本勝利を祈願するばかりである。


P.S.

 6月29日に行われた対パラグアイ戦は、90分で決着がつかず延長戦へ。しかし30分の延長戦でも決着せず、今大会初の PK戦に。結果は・・・ 
 結果は残念であったが、ニッポンよく頑張った。死闘だった。見ているこちらも、本当に死力を尽くした。悔いはない。(2010年6月30日 記)




                   

2010年6月28日月曜日

「知識が先か、経験が先か・・」-人生の「棚卸し」をつうじて考えてみる


                    
 「知識が先か、経験が先か・・・」

 なんだか「ニワトリが先か、タマゴが先か」みたいな話だが、最近の若い人たちがなかなか行動をしないいい訳として、「だってやったことがないから・・・」というのが多いらしい。これは、ある記事を読んで知った。
 最近の新入社員は、「できない理由を知識として知っているが、実際に自分が体験したことがないので行動するのが怖い」らしい。
 これではまるで「前例がないからできません」という役人の答弁と同じではないか。できない理由は、いままでに前例がないからといういい訳であるが、「怖い」という感情は同じである。

 その記事の執筆者によれば、最近の若者たちは「知識が多すぎて行動できない」らしい。知識過剰のため、身動きできなくなってしまっているという。ここまできたらほとんどビョーキだね。
 おそらくその「知識」とは、本であれ、TVであれ、インターネットであれ、自分が経験したことによって得た知識ではなく、他人の経験をもとに知識化された知識のことななおだろう。リアルな知識ではなく、バーチャルな知識。
 この文脈においては、知識は行動の阻害要因となっているわけだ。知識は行動を促すだけではなく、行動を阻害するという側面ももつということである。
 知識が過剰になると、経験していなくても知っているような気になって行動に結びつかないということだけではないのではないだろう。しかし、それは生きた知識ではない。
 喩えとしては適切かどうかわからないが、操作マニュアルを隅から隅まで読み込まないと情報機器をいじれない機械オンチな人のようでもある。
 若い人たちの大半は、マニュアルをみないでいきなり使い始めることができているハズだともうのだが・・・これが仕事になると怖じ気づいてできなくなってしまうのはなぜだろうか。


 「知識が先か、経験が先か・・・」

 ところで、いきなり話題がかわるが、「人生の棚卸し」について少し考えてみたい。

 ネット上の交流サイトの一つに、米国発の Facebook(フェースブック) というものがあるが、最近は日本語の機能が充実してきたこともあって、いま日本でも爆発的に参加者が増加中のようだ。
 先日、リタイア後に「自分史」講座開いている方と知り合いになったのだが、ネット上で会話をしていて、いろいろと気づかされることがあった。会話を再現してみよう。


(私)
 30歳台の方が受講者にいるというのは、正直いってオドロキです。まだまだ歴史をつくる世代だと思うんですが・・・

(自分史さん)
 「自分史」は仕事をリタイアした人がつくるものというのは固定概念だと思います。教職でクラス担任をやっていた時、夏休みの課題として「自分史」を出題したことがあります。

(私)
 私こそ、固定観念のかたまりだったわけですね・・・反省です。「自分史」は「履歴書」みたいに、書き換えていけばいい、ということですね。勉強になりました。

(自分史さん)
 一次情報、二次情報といいますが、一番大切な情報は第一次情報ではないでしょうか? マスコミの情報でも、人の話でもなく、自分の感覚で得た情報です。
 自分史は、自分が生きてきた時代と向き合って一次情報をしっかりと整理する作業である、と言えるのではないでしょうか?

(私)
 おっしゃるとおりですね。そういった一次情報を、社会的背景のもとにキチンと客観的に位置づけてみること、これが「自分史」である。こういう理解でよろしいでしょうか?

(自分史さん)
 その通りです。「自分史」を作りながら、「人生の棚卸し」をしてみようということなんです。

 
 そう、重要なのは一次情報であって、他人から仕入れた二次情報ではない。一次情報とは、何よりも自分が経験したこと、体験することによって得た情報のことである。
 経験情報といってもいいし、体験情報といってもいいかもしれない。他人にとっては意味をみたないかもしれないが、たとえ主観的なものであったとしても、ある意味ではかけがいのない情報である。
 この情報が自分のなかで咀嚼(そしゃく)されることによって知識になることもあるし、たんなる情報としてとどまっていることもある。
 「自分史」執筆という作業をつうじて、自分の経験や体験の意味をあらためて考えてみるというのは、非常にに意味のあることのようだ。

 私自身はいまだ自分史執筆は行っていないが、未遂も含めて転職経験が多数あるので、その都度、履歴書の作成と書き換えを行ってきた。
 履歴書(resume)は、主に求職の際に作成されるものだが、この作業には自分の仕事を中心にした軌跡だけでなく、人生の過ぎ来し方を顧みるという行為が含まれる。
 そもそも、履歴書に書ける実績をつくるためには、行動しなくてはならないではないか。そして自分が仕事の上で経験したしたことを、客観的な形で相手にもわかるようなコトバで整理することことは、実はかなり知的な作業である。
 行動の軌跡は経験の集積であり、いいかえれば一次情報収集の蓄積である。この行動の軌跡を振り返り、内面的対話や転職カウンセラーとの対話によってその意味に気づき、自分の経験してきたことを知識として整理する。
 このプロセスは、履歴書を作成する際には顕在化するが、自分が経験して得た一次情報を知識化するうえで、きわめて有効な方法でわるといえるだろう。

 大学2年のときに大学生協で「棚卸し」のアルバイトをしたことがある。
 商学部の学生でない私は、「棚卸し」の意味を当時はまったく知らず、生協の職員の指示のままに、棚にある商品の名前を読み上げて個数を数えては、フォーマットに記入していった。そのときは、ただたんにアルバイトの一つとして作業を行っただけで、会計学を知らない私にとって、棚卸しの意味はカラダを使った作業の段階にとどまったままだった。
 棚卸しの意味を本当にアタマで理解したのは、就職して会計学についても勉強せざるをえなくなって、「棚卸資産」の意味を知ってからである。しかし、体験を先にやっていたおかげで、棚卸しというとリアルにイメージすることができるのだ。
 私にとって「棚卸し」とは、なんといっても、大学生協の店舗のなかで二人一組になって、腰をかがめながら、シャンプーを手にとって商品名を読み上げ、個数を記入していったという、具体的な画像記憶と結びついたコトバなのである。


 「知識が先か、経験が先か・・・」

 こんなことを書いてくると、それは経験の方が先に決まっているじゃないか、といってしまいたいところだが、本当のことをいうと、知識と経験がうまい具合に相互作用しているのが理想型だろう。
 私のように何も考えずにいきなり行動を始めてしまうというのでは、自分のやっていることの意味がわからないし、ときには危険なことであることも否定はできない。

 英語に A little Learning is a Dangerous Thing. という格言がある。日本語では「生兵法は怪我のもと」に該当するが、少しぐらいの怪我ならなんともないだろう。同じ失敗は二度繰り返さなければいいのであって、そのためには切り傷程度の怪我なら多少はしても致命的ではない。
 もちろん、ときには、「あたって砕けろ」Go for Broke. ということも重要だが、これは万人におすすめできることではない。

 毛澤東の「泳ぎながら、泳ぎを覚える」というコトバで締めておこうか。「畳のうえの水練」ではなく、水のなかでもがきながら泳ぎを覚える。スパルタ教育のような印象がなくもないが、『実践論』の著者ならではの発言ではないか。私は毛澤東のこのコトバが好きである。



 「要はバランスだ」、といってしまいたい誘惑にかられるのだが、「知識が先か、経験が先か・・・」というテーマについては、もう少し考えてみたいと思っている。





                                   

2010年6月27日日曜日

「ダライラマ法王来日」(His Holiness the Dalai Lama's Public Teaching & Talk :パシフィコ横浜)にいってきた



   
 昨日(2010年6月26日)は丸一日、パシフィコ横浜にて、来日中の "仏教界のスーパースター"、ダライラマ14世のセミナー(法話&講演会)に参加してきた。
 ホンモノのもつすごさを体験する貴重な機会になるのではないかと、ワクワクしてこの日を待っていたのだ。いってみれば、「ダライラマ・スーパー LIVE 2010横浜」といったものか。


人生は「一期一会」

 実は、ダライラマ猊下(His Holiness the Dalai Lama)のご尊顔を直接拝したのは今回がはじめてである。今年75歳のダライラマは、精力的に全世界を飛び回っているが、この1週間は日本に滞在して、日本各地で法話と講演を行っている。

 毎年のように来日されているのであるが、すでに75歳という高齢であり、この機会を逃したら、もしかすると私にとっては(・・ダライラマ猊下にとってではない)最初で最後の機会になるかもしれないと思って、大枚はたいて参加することとした。人生は一期一会であるから。
 地下鉄大手町駅の構内にポスターが貼られていたのをたまたま見て、ダライラマ法王の来日を知った次第だが、そしてまた、たまたま6月26日の予定がキャンセルになったので、2週間前に急遽申し込むことにした。弁当付きA席である。センターステージからやや離れているが、肉眼で見れる距離であった。

 仏教界のスーパースターとってよいダライラマ猊下(His Holiness Dalai Lama)という表現は、私が勝手に映画タイトルの『ジーザス・クライスト・スーパースター』からもじったものである。



来場者分析を思わずしてしまう私-セレブ見たさとスピリチュアル・ブームが背景にある??

 朝10時からの開演だが、会場のパシフィコ横浜は、長蛇の列でなかなか入場できなかった。9:30には会場に到着したのだが、結局なかに入れたのは10時になってからだった。開演時間がすこしずれて10分遅れくらいで始まったのだが、それにしてもすごい人である。一万人くらいの入場者があったらしい!

 見ている限りでは、日本人だけでなく日本在住の在日外国人もちらほら見られた。日本人でもとくに女性が多く、しかも若い女性が多いのには、ちょとした驚きを感じた。カップルもいるが、女性どうしという来場者も少なくないようだ。
 しかも左手首に数珠をまいた若い女性もすくなからずいる。それも法事というイメージとはかけ離れて、カジュアルな格好で来場している女性も少なくないのは、ダライラマという仏教界のセレブでスーパースターのコンサートという感じでもあった。
 宗教としてのチベット仏教の信者もいるのだろうが、多くはスピリチュアリティとしての仏教になんとなく惹かれるという女性が多いのではないだろうか、そういう印象を強く感じたのであった。データがあれば、詳細なデモグラフィック分析を来場者に対して行ってみたいという誘惑にかられるのだが・・・
 会場に設けられた臨時書店2カ所には、休憩時間中はものすごい人だかりで、ダライラマの著作やDVDが飛ぶように売れていたことも、その一つの証明ともなるだろうか。


 また、昼休みの時間帯、会場内を歩き回ってわかったのは、とくに韓国から仏教信者たちが団体で大量に来場していることだった。僧侶以外の在俗信者たちはみな、えんじ色の揃いのダライラマTシャツを着て、ああ韓国人らしいなあ、という感想も抱いたのである。
 このほか、在日チベット人の姿も少なからず、また台湾、中国、それからモンゴルからも来場者がいたようだ。
 チベット仏教圏のモンゴルは当然のこととして、台湾にもチベット仏教徒は多いのは、もともと清朝時代はチベット仏教がさかんだったことが影響している。ダライラマもときどき台湾にいかれているようだ。
 中国にもチベット仏教徒がいるのは、中国領内にチベット人居住区があるだけでなく、首都北京に北京の雍和宮(ようわきゅう)を訪れてみれば理解できるはずである。巨大な弥勒菩薩の木像が安置されており、参拝客は多い。



ダライラマによる「法話」と「講演」

 午前と午後に、それぞれ通訳をまじえて、約1時間半にわたって、ダライラマの「法話」と「講演」が行われた。


 内容については、ダライラマ在日代表部のチベットハウス(東京)の要約をそのまま転載させていただくこととしたい。

<法話> 縁起賛と発菩提心
The Virtue And Practice of Connectedness and Generating a Kind Heart
より幸せに生きるための智慧。それは、縁起と菩提心です。
一見難しそうに見える仏教の教えは、実は、毎日をより上手に生きていくための道しるべであり、日常生活の中で活かせるアドバイスばかりなのです。
今、あなたが抱えている悩みをうまく乗り越えていくためのヒントを、ダライ・ラマ法王が仏教的な観点からわかりやすく丁寧に解き明かして下さいます。
今日よりも明日をより幸せに生きていくための智慧に、あなたも耳を傾けてみませんか?

<講演>『幸せの本質』~共生と共存の未来へ向けて~
The Essence of Happiness and a Healthy Co-Existence

行き止まり感が強い、現代の地球社会。
戦争、経済不況、格差社会、環境破壊など問題が山積みの21世紀を私たちはどのような姿勢で生きていくべきでしょうか------。
ダライ・ラマ法王が環境、科学、経済の視点から“共生・共存”の大切さを説き、幸せの本質とは何かに迫ります。
「未来社会を生きるための心得」の数々を明日のためにお役立てください。


 ダライラマが外国で行う「法話」は英語だと思いこんでいたのだが、今回の法話も講演もチベット語であった。ダライラマが話して、そのあと日本語で解説がつくのだが、内容はやさしくはない。テーマは、縁起説についてであり、会場で配られたパンフレットによれば、ゲルク派(黄帽派)の宗祖ツォンカパの『善説心髄』という礼賛偈をもとにした法話であるとのこと。
 内容は聞いただけではわかりにくいが、一言で言ってしまえば、すべての事物は因果関係にあり、この因果関係はすべてつながっている、すなわち果がさらに因になり、その果がまた因になる・・・という網の目のような連鎖のことである。


 ダライラマが赤いサンバイザーをかぶっているのは、照明が強すぎるので眼を保護するためだとのこと。ヘッドフォン型マイクロフォンをつけているが、なんだかこういう姿もコンサートっぽくて面白い。

 ダライラマの話がすべてチベット語でなされて、そのあとチベット仏教に造詣の深い通訳者による日本語解説がつくので、なんだか通訳者の講演会みたいであったが(笑)、ダライラマ自身は英語よりも、母語であるチベット語のほうが当然のことながらラクなようであった。
 午後のダライ・ラマ法王の講演は、最初は英語で始まったので、ダライラマの肉声そのままで理解できるのはありがたいと思ったのだが、通訳の関係からまたチベット語に戻ってしまったのは残念だった。韓国語や中国語の通訳が英語の理解が不十分だったためらしい。

 私自身は、むかしチベットに凝っていたとき(・・1995年にはチベットのラサにも、インドのチベット人居住区であるラダックにもいったことがある。ただし、チベット亡命政府のあるダラムサラにはいまだ行っていない)、チベット語をやりかけたことがあるが、難しいので放棄してしまったので、ほとんど理解できない。知っているのはチベット語の呪文「オン・マニ・ペメ・フム」くらいか。



昼のステージでのパフォーマンス、なんと締めは世界のナベサダ!

 インド、台湾、韓国、モンゴル、日本の僧侶などによるステージ上のパフォーマンスがまた素晴らしかった。法話だけだとアタマが飽和状態になっていたので、歌あり踊りありのステージは、たいへん楽しい一時間となった。

 インド、台湾(中国語)、韓国(韓国語)、日本の僧侶たちによる「般若心経」の声明(しょうみょう)が実に興味深く、また素晴らしものであった。同じ原典をインド人は原文のサンスクリリット語にて、台湾・韓国・日本の僧侶たちは漢文訳のテキストを、それぞれの伝承スタイルで朗唱する。
 般若心経は最後のフレーズがいわゆるマントラ(呪言)であるので、これはみな基本的に同じく「ガーテー、ガーテー・・」である。漢文訳でも音をそのまま転写しているはずだが、台湾・韓国・日本では微妙なズレがあって面白い。
 なんといっても、取りを務めた日本の僧侶たちは、真言密教の真言宗豊山派(ぶさんは)の僧侶たちで、色とりどりのカラフルな僧衣に身を纏い、ステージ上の声明が終わると、導師が拍子木でリズムをとりながら朗唱する般若心経にあわせて、ステージ下にセットされた和太鼓を一糸乱れず叩き続けたパフォーマンスには圧倒された。ビートの効いた和太鼓の連打は迫力満点で、ステージ上でご覧になっていたダライラマも絶讃されていた。

 以上でパフォーマンスが終了だと思っていたら、大取(おおとり)の締めはなんと世界のナベサダのサックス・ソロ演奏二曲という贅沢なサプライズ。渡辺貞夫の LIVE は私にとっては初体験だったので、これは実にうれしいプレゼントだった。
 日本を代表するジャズプレイヤーの渡辺貞夫は、世界のナベサダであり、仏教界のスーパースターであるダライラマとは旧知の仲であるようだ。渡辺貞夫の「玉手箱」:Sadao Watanabe's "Jewel Case"というブログ記事がネット上にあったので一部引用させていただく。

「あなたが他の人々の幸福のために働けば、あなた自身に永遠の幸せが保証されるだろう」
この書は渡辺貞夫が1998年春にチベットを訪れた際にダライ・ラマから直接いただいたものだそうで、そのとき彼はチベットの山をいくつも越える長く苛酷な旅をした結果、この言葉の真の意味を悟ったとのことである。

 ダライラマとナベサダの二人のツーショット(・・撮影禁止なので写真にはとってないが)というよりも、ステージ上でダライラマが聴き、ナベサダがソロで演奏するというこのジャズ・セッションは、これまた貴重な経験として、来場者の記憶に残るものだといっていいだろう。



ダライラマとの質疑応答セッション

 ダライ・ラマの法話や講演はさておき、質疑応答はたいへん面白かった。30分の予定が、10分のび、さらにまた10分のみで結局1時間になったが、ダライラマ自身が一般参加者からの質問を大いに楽しんでいるようであった。

 質問者のなかには、ダライラマに向かって「最高ですかー?」と絶叫するバカ女がいたが、詐欺罪で逮捕された教主のいた新興宗教のかけ声だったような・・・。
 一般参加者はみなあっけにとられたようで、「何をいっているのだ、このバカ女は!」、あるいは 「かわいそうにアタマがやられてしまったのね・・(-_-)」、といった憐憫の情で見ていたようだ。
 ただし、こういうおかしな人はあくまでも例外であって、質問者はみな、個人的な悩みにかんする質問が中心であった。この質疑応答は、私にもたいへん興味深かった。
 ちなみにこの「最高ですかー女」に対しては、ダライラマは誘導尋問はうまくかわして、冷静な回答を行っていた。東京のオペラ会場での「ベラボー男」に匹敵する大馬鹿者として、私の記憶に刻み込まれることとなった(笑)

 すべての質問に対してユーモアまじえた当意即妙の回答が実に面白く、ダライラマ本人も大いに楽しんでいるようだった。時間に律儀でパンクチュアルな日本語通訳の方の制止を振り切って、ダライラマご自身は興に乗って、何度も時間延長をOKしていたくらいだ。
 ときどきジョークで煙に巻く回答も、政治的な問題でもわたりあってきた百戦錬磨の精神指導者としてのたしなみといってもいいだろう。日本の政治家にはも爪の垢を煎じて飲んでもらいたいものだ。

 質疑応答のなかで面白かったものをいくつか思い出して書いておこう。ただし、これは私が聴き取ったかぎりのもので、しかも日本語通訳を介してのものなので、ダライラマご自身の公式見解ではないと断っておきます。

 (Q)肉食の是非について(西洋人が英語にて質問)

 (A)かつて、いったん始めた菜食生活は、体調不良により2年間でやめた。そもそも生態系からいって新鮮な野菜に乏しい遊牧民の「チベット人は肉食はあたりまえで、チベット医学の観点からいっても、肉食は否定していない。もちろん菜食は望ましいことであるが、健康維持のためには難しい。インド人とは異なる。

 (Q)キリスト教徒であってかつ仏教を信仰することの是非(在日米国人が日本語で質問)

 (A)神を中心としたキリスト教と神のいない仏教は両立可能。初級段階では問題ないが、中級から上級になってくると、キリスト教と仏教徒では、「空」の観念についてはまっこうから反対の立場になるので、両立は難しい。この点を踏まえていれば、キリスト教徒として生きてゆくことに問題はないだろう。


 このほかにも、日本人やそれ以外の人からも多くの質問がなされたが、おそらく後日出版されることもあろうかと思うので、ここにはこれ以上は記さない。
 質問内容はあくまでも個人の悩みからはっしたもので、抽象的なものではなくきわめて具体的なものであるので、たいへん興味深い。そしてダライラマの回答も個別性を重視しながら、普遍的な回答を行うという点で実に興味深かった。
 ただ一つ思うのは、ダライラマが属するのは、チベット仏教のなかでも顕教的要素の強いゲルク派であるが、チベット仏教は基本的に欲望を肯定する密教であることを失念している人が多いのではないか、ということである。


 ダライラマの LIVE はたいへん充実していたが、聴くだけの立場としては正直いってくたびれる。パシフィコ横浜は基本的に展示会場なので、固定座席はなく、臨時にパイプ椅子をもちこんでいた。A席までは座布団つきだったが、それにしても半日間パイプ椅子に座り続けるのは正直いって疲れるのは否定できない。

 とはいえ、なによりも精力的に語るダライラマの尊顔を拝することができたので、ありがたい一日となった。
 「ダライラマ・スーパー LIVE 2010横浜」の報告は以上のとおりです。



<ブログ内関連記事>

チベット・スピリチュアル・フェスティバル 2009

アッシジのフランチェスコ (5) フランチェスコとミラレパ


<関連サイト>

「ダライ・ラマ法王 横浜法話・講演 2010」

ダライラマのコトバ・・Twitter においてスタッフが毎日、英語で配信

Hope for a More Peaceful World(YouTube 投稿動画)
His Holiness the Dalai Lama speaks to university students and educators in Yokohama, Japan, on June 24th, 2010. (www.dalailama.com)・・英語による日本の学生たちへの語りかけ (6月29日追記)


<関連映画>

『クンドゥン』(Kundun 1997)
・・中国人民"解放"軍によって武力侵攻されたチベットから、ヒマラヤを越えて命からがら脱出し、インドに亡命するまでの若き日のダライラマを描いた、米国の世界的映画監督マーティン・スコセッシによる作品。この映画は、東京の恵比寿でロードショー公開された際にみた。
 Trailer(英語版)はこちら

『セブン・イヤーズ・イン・チベット』(Seven Years in Tibet 1997)
・・第二次大戦中、英国領インドで逮捕され脱走してラサに入った、ドイツの世界的登山家ハインリヒ・ハーラーと少年ダライラマとの友情を描いた原作の映画化。主演はブラピ(=ブラッド・ピット)、ロケは南米。この映画は、出張先のシドニーでみた。
 Trailer(英語版)はこちら

 1989年のノーベル賞受賞後、さらに1997年に公開されたこの2本の映画で、ダライラマは世界的なスーパースターの地位を確固たるものとしたのである。




        
         

      

2010年6月25日金曜日

サッカー日本代表チーム、3-1 でデンマークに快勝!!決勝トーナメント出場へ!!


       
 ついに正夢に! けさ眼が覚めたら、予想通り 3-1 でデンマークに勝利。
 バンザイ!バンザイ!バンザイ! この場を借りてバンザイ三唱。

 「果報は寝て待て」とはまさにこの通り。きょうあすと、けっこう用事が詰まっているので、日本時間午前3時からの中継を見るのはつらいものがあったので、申し訳ないが寝ることにした。
 「私が見ないから負けるということはさすがにないだろう」と思って早めに寝たのであるがこれは正解であった。

 朝6時のニュースを見る限りでは、日本代表チームがここまで攻撃的サッカーができるように進化したことは本当に驚きだ。
 とくに24歳の寅年男・本田の活躍は素晴らしかった。豪快なフリーキックの映像は、今後も長く繰り返し放送されてゆきうことだろう。「ビッグマウス」などと揶揄されてもいたが、「有言実行」の日本人は、新しい時代を切り開いてゆくことだろう。

 ありがとう。感謝。感謝。感謝。

 「やればできる」ということを示してくれたゲームだった。
 決勝トーナメントの対戦相手はパラグアイだが、もしかしたら・・・



   

                

2010年6月24日木曜日

シビリアン・コントロールということ-オバマ大統領が政権批判したアフガン駐留の現地司令官を解任


           
 オバマ大統領が6月23日に、公然と政権批判を行ったマクリスタル米陸軍大将をアフガン駐留司令官から解任した。これはいわゆるシビリアン・コントロール原則からいって、正しい行為であるといってよい。
 ではシビリアン・コントロールとは何か?

 シビリアン・コントロール(Civilian Control)とは、日本語では「文民統制」と訳しているが、文民(シビリアン)の政治家が、軍隊を統制するという基本方針であり、原則的に政治が軍事に優先することを意味している。
 米国ではこれは建国以来の基本原則であり、かつて朝鮮戦争において原爆使用を主張したマッカーサー元帥を解任したトルーマン大統領が歴史的に有名である。彼は The Buck Stops Here. という表現を座右の銘としていた。日本語でいえば、「最終責任はここにある」という意味だが、つい先日オバマ大統領自身も The Buck Stops with me. という発言を、メキシコ湾の海底原油流出問題で発言していた。
 今回のオバマ大統領によるマクリスタル将軍のアフガン駐留司令官を解任については、さまざまなコメントもなされているが、基本的にはメディアを使用しての大統領批判は座視できなかったということだろう。このケースにおいては、任命権をもつ大統領がシビリアン・コントロール原則に基づいて人事権を行使したわけであり、けっして間違った行為ではない。しかし、任命権者としての信頼性がゆらぐことも否定はできないだろう。

 日本の内地にいるとシビリアンというコトバの語感は必ずしも明確なものではないが、沖縄ではシビリアンというコトバが日常に使用されているので驚いた経験がある。
 いまから20数年前の経験であるが、東京で「沖縄の二世経営者セミナー」のスタッフとして手伝ったことがあり、セミナーだけでなく視察旅行まで同行した経験があるのだが、その際に沖縄の経営者の方から「われわれシビリアンは・・・」という表現がでてきたのには少々驚いたものであった。ミリタリー(軍人)に対してのシビリアン(民間人)意味である。
 ちょうど、豊田商事事件が発生したときで、テレビで殺人のナマ中継をしていたのであった。

 日本も戦前は基本的にシビリアン・コントロールであったはずだが、例の「統帥権干犯問題」が発生し、現役の陸海軍の軍人が大臣になるという形で原則が崩れてズルズルとなり、最終的には政治が軍事をコントロールできなくなってしまうという苦い経験を体験している。
 明治の元勲の時代は、軍人出身者が政治家としても大きな力量をもち、大局的な見地から国家利益の追求を行ったのであったが・・・

 また、先年には防衛庁(当時)の某次官がシビリアンコントロールの名のもとに専横をふるっていたことも記憶に新しいが、シビリアンコントロールの意味をはき違えた、とんでもない官僚であった。
 シビリアンコントロールとは、先にも書いたように、あくまでも政治が軍事に優先するという原則のことであって、官僚機構内部で文民官僚(文官)が軍事官僚(武官:いわゆる制服組)に優先するという意味ではない。

 米国によるアフガン出兵の是非はさておき、シビリアンコントロールの意味はいまいちど正確に理解しておきたいものである。
 これとともに、現場の状況を熟知した現地部隊のコントロールも、実に難しいものがあることを語っている。机上の作戦計画と、現場の指揮官の行動には、どうしても齟齬(そご)が生じがちである。
 ついでだが、資格としての陸軍大将と、役職としてのアフガン駐留現地司令官は別に捉えなければならない。今回の解任とは、役職の解任であって、陸軍大将としての資格には変更はない。とはいえ、おそらく今回の件によって退役となることだろう。

 最終責任者であるトップの役割とは何か、考えるためのケーススタディとしたいものである。


P.S. (追記 2010年7月2日、7月14日)

 マクリスタル大将更迭の真相については、下記の記事を参照。

 極めて異例 クビになった「暴走司令官」マクリスタル駐アフガン米司令官解任の真相(菅原 出) http://business.nikkeibp.co.jp/article/world/20100628/215169/?P=1
 不用意な発言をメディアに掲載されてしまった、フリージャーナリストに対する「脇の甘さ」が裏目にでたようだが、政権批判発言が許容されるはずのないことはいうまでもない。

 田中宇の「アフガン撤退に向かうNATO」に、マクリスタル将軍のプロファイリングがなされているので参照。政治的交渉を嫌うカウボーイ型軍人像が浮かび上がっている。http://tanakanews.com/100712afghan.htm (2010年7月14日 付記)




                        
 


   
                   

2010年6月22日火曜日

Two in One, Three in One ・・・ All in One ! -英語本は耳で聴くのが一石二鳥の勉強法


 「一粒で二度美味しい」というのは、手をあげて走る人のロゴマークで有名なグリコのキャラメルのキャッチコピーだが、一度に二つ(Two in One)、三つ(Three in One)、あるいはすべてを同時にやってしまう(All in One)のが、実は効率が良いだけでなく、効果的な方法論でもある。


「ながら」は悪いの?

 私が中学生の頃は、ラジオを聴きながら勉強していると親からよく「ながら」はやめろといわれたものだ。「ながら」とは、「何々しながら」の略だが、たしかに日本語の音声を聴きながらでは集中力が落ちるのは否定できない。どうしても面倒くさい勉強より、ラジオでしゃべっている DJ のトークのほうに注意がいってしまうためだ。

 私はいま英語の音声を流しながら書いているが、これはリズムつくりの上で非常によい。ビジネス情報専門のBloomberg TV がウェブサイト上で無料で放送しているので(・・無料だと画像の質が悪いが、音声は問題ない)、画面を見ないで音声だけ聴いている。いや聞いているというべきか。 英単語は断片的に耳に飛び込んでくるが、集中して聴かないと内容までは理解できない。まあ、これは日本語でも同じことだろう。

 むかしコンサルティングファーム勤務時代にやっていたのは、残業中にヘッドフォンで音楽を聴きながら、キーボードに向かって文章を書いていたことだ。
 これはきわめて効率的である。まわりの人間の雑音をいっさいシャットアウトし、音楽のリズムにあわせてそれこそリズミカルに両手の指が動くからだ。

 幼名を厩戸豊聡耳皇子(うまやどとよとみみおうじ)といった聖徳太子ではないので、すべての音声を同時に処理することは人間には不可能だろう。一説によれば、聖徳太子は10人が同時にしゃべる音声を理解できたのではなく、当時の国際情勢のなかで渡来人も多い環境のなかで、いろんなコトバを聞き分けていたということらしい。


行き帰りの通勤電車のなかで英語本の朗読テープを聞く

 音声にかんしては、会社にはいってからだが、こういうことをやっていた。英語の勉強のために、行き帰りの通勤電車のなかで英語のテープを聞いていたのである。これは、米国留学に出発した27歳より前のことである。

 むかし流行していた教材に「ヒアリング・マラソン」というのがあって、電車のつり革広告でいつもお目にかかっていた。オーソン・ウェルズが朗読するシドニー・シェルダンの小説をひたすら聞くという教材で、たしか『家出のドリッピー』とかいう小説だったと思うが、私はまったく聞いたことがないのでわからない。

 私がやっていたのは、米国のビジネス書を朗読したテープを、行き帰りの通勤電車のなかでヘッドフォンステレオ(≒ウォークマン)で聴くということだった。その当時の英語力では一回聴いただけではもちろん理解はできなかったが、「読書百遍、意自ずから通ず」ではないが、英語音声も何度も繰り返し聴いているとわかってくるのが面白い。
 こうやって聴いたテープでいまでも覚えているのは、「リー・アイアコッカ自伝」(・・クライスラーを再建したCEO)、「ドナルド・トランプ自伝」(・・不動産王、現在も復活して活躍)などなど。何度も耳で聴いた内容は、思った以上に血となり肉となっている(?)のである。

 米国ではいまでもカセットテープ版があるのは(・・現在は CD や iPod 向けもある)、自分でクルマを運転しながらこうしたテープを聞く人が多いからだ。目で読むことができないので、耳を使う。時間節約術としても、効果も点でも耳で聴くのは理に適っている。


通勤電車のなかで英語版新約聖書の朗読テープを聴く

 音声を使った勉強法で、私がやってみた最大のものは、通勤電車のなかで英語版新約聖書(New Testament)のテープを聴いていたことだろう。①新約聖書、②英語リスニング、③通勤時間活用、の3つの要素を一体化してしまうという方法である。

 大学時代、「新約聖書時代のユダヤ史」という授業をとったことがある。英語の文献を読みながら、イエスが生まれる前のユダヤ史を勉強するというもので、私はキリスト教徒ではないが知的関心から参加したのである。
 授業内容はさておき、教授がいっていたコトバで記憶に残ったのは、「国際ビジネスマンを目指しているのであれば、常識として聖書ぐらい読みなさい」というものだった。文語訳の旧新約聖書はもっていたが、当然のことながらほとんど読まないままビジネスマンになってしまったのである。

 勤務先が当時は大手町だったので、ときどき日本橋の丸善本店にいっては洋書売場にいっていたのであるが、あるとき見つけたのが英語版の新約聖書を朗読したカセットテープのセットだった。いくらしたのか忘れてしまったが、そんなに安くはなかったような気がするが、とにかく買ってしまった。
 New King James Version だったと記憶しているが、格調高い King James Version(欽定訳聖書)をより現代風に改訂したものだろう、これを最初から最後まで全部聴いたのである。
 気になるものは何度も繰り返し聴き、信者でない私にはまったく関心のないものは一回聴いたらそれで終わり、というやり方でとにかく全部聴き通した。
 「福音書」や「黙示録」といった面白い内容のものは何度も聴いたものである。おかげで、福音書のなかのさまざな登場人物のセリフが耳に残っている。イエスを主人公にしたハリウッド映画にもでてくるものだが、画像なしに耳で音声だけを聴いていると、なぜか非常に強い印象として訴えるものがあるのだ。

 Crucify him ! Crucify him !(その男を磔にせよ!)
 You will deny me three times until dawn.(夜明けまでにあなたは私を3回否認するだろう)
 
 こういったセリフは20年以上たっても記憶に新しい。
 視覚記憶よりも聴覚記憶のほうが、より人間の内面に訴えるものが強いのだろうか。

 というわけで、この通勤電車のなかで新約聖書の英語版のテープを聴く勉強法は、ぜひおすすめしたい。

 このほかにも、チベット仏教徒としても著名なハリウッド俳優のリチャード・ギアが朗読した、『チベット死者の書』(Tibetan Book of Death)や、『英訳 孫子の兵法』(The Art of War)など、いい教材がたくさんある。
 聖書は西洋文明の基礎教養だが、東洋の教養である「孫子の兵法」も、米国のビジネスパーソンのあいだでは比較的よく知られていることも付け加えておこう。たとえば、To win without fighting is best. などという表現がでたら、それはいうまでもなく「戦わずして勝つ」の意味である。


視覚だけでなく聴覚の活用も

 耳で聴くのは目が疲れないだけでなく、視覚情報とは異なる聴覚情報という特性がある。五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)をうまく活かした勉強法があるということは知っておいたほうがいいのではないか?
 現代人は視覚情報に80%以上を依存しているというデータもある。視覚以外の五感がフルに活用されているだろうか。

 一つの目的に一つの方法だけでなく、複数の目的達成を一気にやってしまうと、効率的だけでなく効果的なのである。相乗効果といっていいかもしれない。

 これが Two In One(ツーインワン)、Three in One(スリーインワン) あるいは All in One(オールインワン)という時間活用法である。




<ブログ内関連記事>

The Greatest Salesman In the World (『地上最強の商人』) -英語の原書をさがしてよむとアタマを使った節約になる!




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2010年6月21日月曜日

「ハーバード白熱教室」(NHK ETV)・・・自分のアタマでものを考えさせるための授業とは


                 
 「ハーバード白熱教室」という番組が、NHK ETV(教育テレビ)で放送されていた。放送されていたと過去形いうのは、昨日(2010年6月20日)の第12回が最終回だったからだ。

 こんな中身の濃い授業があると知ったのは、実はつい最近のことだ。『これからの「正義」の話をしよう-いまを生き延びるための哲学-』(マイケル・サンデル、鬼澤忍訳、早川書房、2010)という本がベストセラーになっているらしいとネット書店で知ったからだ。この本は、内容紹介文によれば、「ハーバード白熱教室」の授業内容を書籍化したものを日本語訳したものらしい。
 だから、TVで授業内容を見たのは昨日が最初で最後、もっと早く知っておきたかったというのが本当の気持ちだ。ハーバード大学ではもっとも人気のある授業だという。

 NHK ETV で連続放送していた「ハーバード白熱教室」(Justice with Michael Sandel)であるが、第12回(最終回)のテーマは、「善き生を追求する: Lecture23 同性結婚を議論する、Lecture 24 正義へのアプローチ」の2コマ。かなり刺激的なテーマである。
 「正義」(justice)というと法哲学そのものずばりのテーマのようだが、そういった狭い捉え方をしてないのがこの授業の特徴だ。それは、扱ったテーマを一覧してみるとよくわかる。

第1回 「殺人に正義はあるか」
 Lecture 1 犠牲になる命を選べるか
 Lecture 2 サバイバルのための殺人
第2回 「命に値段をつけられるのか」
 Lecture 3 ある企業のあやまち
 Lecture 4 高級な「喜び」 低級な「喜び」
第3回 「「富」は誰のもの?」
 Lecture 5 課税に「正義」はあるか
 Lecture 6 「私」を所有しているのは誰?
第4回 「この土地は誰のもの?」
 Lecture 7 土地略奪に正義はあるか
 Lecture 8 社会に入る「同意」
第5回 「お金で買えるもの 買えないもの」
 Lecture 9 兵士は金で雇えるか
 Lecture 10 母性売り出し中
第6回 「動機と結果 どちらが大切?」
 Lecture 11 自分の動機に注意
 Lecture 12 道徳性の最高原理
第7回 「嘘をつかない練習」
 Lecture 13 「嘘」の教訓
 Lecture 14 契約は契約だ
第8回 「能力主義に正義はない?」
 Lecture 15 勝者に課せられるもの
 Lecture 16 私の報酬を決めるのは・・・
第9回 「入学資格を議論する」
 Lecture 17 私がなぜ不合格?
 Lecture 18 最高のフルートは誰の手に
第10回 「アリストテレスは死んでいない」
 Lecture 19 ゴルフの目的は歩くこと?
 Lecture 20 奴隷制に正義あり?
第11回 「愛国心と正義 どちらが大切?」
 Lecture 21 善と善が衝突する時
 Lecture 22 愛国心のジレンマ
第12回 「善き生を追求する」
 Lecture 23 同性結婚を議論する
 Lecture 24 正義へのアプローチ


 私が昨日みた最終回の放送では、受講する学生に発言させて、教授自身がうまくクラスでの討議を活発にさせるファシリテーター役を果たしながら、議論を収束させていく授業手法をとっており、お見事としかいいようがない。
 私も、米国でM.B.A.を取得した人間だが、M.B.A.の授業で多用されるケースメソッド(事例研究)も、基本的にはこれと同様の手法で行われる授業形態である。
 一方的なレクチャーではないのは、知識を伝授することが目的ではなく、学生に考えさせることが目的であるからだ。学生に自ら考えさせるためには、学生に問題を投げかけ、彼ら自身に発言させ、対論をださせ、活発な議論をさせる必要がある。
 もっとも重要なことは、議論の流れをうまく誘導しながら、何が論点なのか、どこに着目しなければならないかを整理しながら学生自身に納得させることだ。
 しかし、これがもっとも難しく、高度なテクニックと熟練を要するのである。
 
 「ハーバード白熱授業」の場合は、私がみた最終回だけについて話をするが、あらかじめ授業の前に議論の口火を切る役目を二人の学生にさせてから、その後は教授が質問を投げかけ、学生が発言して、さらに反論もさせ、問題点を整理しながら、最後はレクチャーで締めるという形であった。
 それにしても強く印象づけられるのは、現在の米国がいかに「多元的な価値観」のなかに生きている世界であることか、ということだ。
 学生たちも自分の意見を述べる際に、たとえばキリスト教徒でカトリックであるという立場を明言しているケースがあり、キリスト教徒であることは米国社会ではすでに自明の理ではない。こういう点は日本とは大きく異なる状況であろう。

 宗教、道徳、倫理が交差する地平に、さらに法律における判断(justice)が行われることになるのである。
 その意味では、日本語版タイトルが「正義」となっているものの、Justice というコトバの多義的な意味を考慮に入れると、ただ単に「正義」というだけでなく、正義、公正、公平、公明正大、正当、司法、裁判を含めたジャスティスとしたほうが良かったかもしれない。

 いずれにせよ、このような「自分のアタマでものを考えさせるための授業」を受講することのできるハーバード大学の学生は実に恵まれているし、こういう授業を若いうちに受けることができるのは、その後の人生において計り知れない大きな意味をもつはずである。


<関連サイト>

Harvard University's Justice with Michael Sandel (英語オリジナル版)
 http://www.justiceharvard.org/
・・無料で授業の動画すべてが公開されている!ただし当然のことながら英語(字幕なし)。

その他、「ハーバード白熱教室」で YouTube に動画が投稿されているので参照されたい。


<ブログ内関連記事>

ハーバード・ディヴィニティ・スクールって?-Ari L. Goldman, The Search for God at Harvard, Ballantine Books, 1992・・ハーバード神学大学院について





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2010年6月20日日曜日

前橋汀子 アフタヌーン・コンサート Vol.6 (2010年6月20日)





 「前橋汀子 アフタヌーン・コンサート Vol.6」に行ってきた。
 会場はいつもと同じく、六本木のアークヒルズにおのサントリーホール。「アフターヌーン・コンサート」は毎年催されているのだが、私にとって今回で3回目となった。ウィークデーの夜ではなく、ウィークエンドの午後のコンサートは、とくにビジンスマンにとっては、疲れが比較的少ない状況での開催なので非常に助かるのである。


■プログラム内容

<前半>

J.S.バッハ:G線上のアリア
ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ第5番 ヘ長調 op.24「春」
J.S.バッハ:シャコンヌ(無伴奏パルティータ第2番 ニ短調 BWV1004より)

<後半>

シマノフスキ:アレトゥーザの泉
ヴィエニャフスキ:モスクワの思い出
ストラヴィンスキー:ロシアの踊り(バレエ「ペトルーシュカ」より)
チャイコフスキー:感傷的なワルツ
マスネ:タイスの瞑想曲
クライスラー:ウィーン奇想曲op.2
サラサーテ:ツィゴイネルワイゼン

(ピアノ:イーゴリ・ウリヤシュ)


 とにかく、前半の最後の曲、バッハのシャコンヌが絶品であった。この曲は私は何度も何度もCDで聴き込んでいるが、なんといっても前橋汀子のものが入神の演奏である。20年ぶりにレコーディングするそうだが、これをナマ演奏で聴けたのは実に幸いである。
 また、後半の最後の曲ツィゴイネルワイゼンも素晴らしい。
 前橋汀子人は、アンコールで好きな曲を弾きまくる人だが、ブラームスのハンガリー舞曲を立て続けに弾きまくって、神がかり的というか、何かが憑依したような演奏スタイルが頂点に達したのであった。しかしそれでいて実に品格がある演奏。
 前橋汀子の正確な年齢は知らないが、すでに60歳台半ばは過ぎているはずだろう。しかし、とてもそうとは思えない。まさに心技体の三拍子がそろって、現在なお技術の向上に加えて円熟味を増している、日本が誇るアーチストである。女王様のような、凛としたステージマナーもまた実に魅力的である。

 演奏からは少し離れるが、パンフレットのプロフィールに書いてあったことで少し感想があるので記しておく。それは、レニングラード音楽院(・・現在のロシアのサンクトペテルブルク)における前橋汀子が受けた教育についてである。
 それによれば、演奏実技のテクニックだけでなく、音楽にかんする幅広い教養教育を受けたということについてである。表現力の深みと濃さは、こういった教育と自己研鑽、人生体験などがあいまってできあがってきたものなのだろう。
 単なるテクニックではない、人間性そのものが表現されているのである。

 また来年のコンサートが楽しみだ。


<ブログ内関連記事>

前橋汀子 アフタヌーン・コンサート Vol.5 (ピアノ:イーゴリ・ウリヤシュ)



          


           

2010年6月19日土曜日

書評 『オランダ風説書-「鎖国」日本に語られた「世界」-』(松方冬子、中公新書、2010




日本とオランダの関係だけでなく、本書の隠れた主題である17世紀から19世紀までの「東南アジア」について関心をもつ人にも、ぜひ一読をすすめたい

 情報と貿易を軸にした関係であった江戸時代の日蘭関係。日本とオランダという、現在でも実利優先のプラクティカルな傾向の強い二国民の関係を「オランダ風説書」の解読成果をもとに、時系列で通観した本書は実に面白い。
 本書の特徴は、海外商品と海外情報を必要とした日本側(=江戸幕府)だけでなく、商品の販売先としての日本市場を独占するために情報を徹底的に活用したオランダ側(=オランダ東印度会社、のちにオランダ東インド政庁)の状況を十二分に押さえたうえの、実に読みやすく、実に興味深い内容の日蘭関係史となっている。

 戦国時代を生き抜いて成立した江戸幕府は、現在の東南アジア海域を舞台にした欧州勢力の動きをつねにモニターしていた。武力ではとうてい欧州勢力に対抗し得ないことを熟知していたために実行した「鎖国」のわけだが、「戦わずして勝つ」ために海外情報を必要としていたのである。この点はもっと知られてよいことだ。しかも、様々なソースからの海外情報を付き合わせて、クロスチェックも行っていたようだ。
 江戸時代の日本は、朝鮮との「対馬口」、琉球との「薩摩口」、アイヌとの「松前口」、それにオランダ、シャム、清との窓口であった「長崎口」の「四つの口」による「管理貿易」体制が実態であった。だから「鎖国」とあくまでもカッコ書きとなる。そのなかでも、長崎だけは江戸幕府が直接管理していたのは、九州の諸大名のチカラを恐れていたからであり、西洋との窓口を一本化するためであった。

 当時のオランダは、世界最古の株式会社といわれる「東インド会社」の拠点をバタフィア(・・現在のインドネシアの首都ジャカルタ)に構えていた。17世紀はオランダの黄金期であり、欧州における貿易と情報流通の中心地であったが、最盛期は意外と短く、覇権は英国に奪われる。
 アジアが天下泰平を楽しんでいた間には欧州は激動期に入り、19世紀初頭には欧州の激動によりついにオランダは一時的に欧州の地図から消える。欧州によるアジアの植民地化が本格的に進行するなか、ついに米国主導により日本は「開国」、以後グローバル政治経済の波に再び飲み込まれた日本にとって、オランダ情報の価値は激減し、ついに「オランダ風説書」は廃止される。そして日本は明治維新を迎えることになる。

 日本とオランダの関係だけでなく、本書の隠れた主題である17世紀から19世紀までの「東南アジア」について関心をもつ人にも、ぜひ一読をすすめたい。


<初出情報>

■bk1書評「日本とオランダの関係だけでなく、本書の隠れた主題である17世紀から19世紀までの「東南アジア」について関心をもつ人にも、ぜひ一読をすすめたい」投稿掲載(2010年6月7日)
■amazon書評「本書の隠れた主題である17世紀から19世紀までの「東南アジア」について関心をもつ人にも、ぜひ一読をすすめたい」投稿掲載(2010年6月7日)





<書評への付記>

 いよいよ本日、FIFAワールドカップサッカー「日本 vs. オランダ戦」。欧州のスポーツ大国オランダは、もちろんサッカーでも強豪。
 日本とオランダの関係は、江戸時代の良好(?)な関係だけではない。大東亜戦争において、日本が蘭領インドネシアを軍事占領し、日本の敗戦後も「インドネシア独立」に日本人が多数関与したことが、長く尾を引いていたことは記憶しておくべき。
 また、南アフリカの白人には、オランダ系のブール人(ボーア人)が多い。

 とはいえサッカーはサッカー、ピッチでは実力がモロにでる。
 結果は・・・


P.S.
オランダ戦での敗戦。私の予想は3-1でオランダの勝利だったが、1-0で終わった。どうも、オランダは本気出さずに、体力消耗を避けていたように思われた。日本も攻めの姿勢は最後まであったのだが・・・posted at 22:54:04(twitter)



<ブログ内関連情報>

書評 『植物工場ビジネス-低コスト型なら個人でもできる-』(池田英男、日本経済新聞出版社、2010)
・・・オランダの先進植物工場モデル。

書評 『中国市場で成功する人材マネジメント-広汽ホンダとカネボウ化粧品中国に学ぶ -』(町田秀樹、ダイヤモンド社、2010)
・・・グローバルビジネスの原型である「オランダ東インド会社」についての記述あり

書評 『帰還せず-残留日本兵 60年目の証言-』(青沼陽一郎、新潮文庫、2009)
・・・「インドネシア独立」に関与した日本人たち




              

2010年6月18日金曜日

書評 『日本は、サッカーの国になれたか。電通の格闘。』(濱口博行、朝日新聞出版、2010)




世界のサッカー・ビジネスを支えてきた電通の当事者による人物中心の回想録

 日本の、そして世界のサッカー・ビジネスを支えてきた電通の当事者が回想し、今後の展望を語る裏面史。本書のタイトル自体が、いかにも電通らしいコピーになっている。

 FIFAワールドカップに代表されるサッカービジネスは、ベースボールとは違って、サッカーが世界中で親しまれているスポーツであるだけに、スポーツビジネスのなかでは別格の存在であり、オリンピックと並んできわめつけに注目度の高いイベントである。
 世界的なイベントをプロデュースし、広告代理店業を越えた権利ビジネスとしての側面も強いコンテンツビジネスをマネージする電通は、まさにサッカー・ビジネスの誕生期から現在に至るまでの、バックヤードのメイン・プレイヤーであるといえるだろう。
 こうしたサッカー・ビジネス形成史の生き証人である著者による本書は、関わった人たちを実名で紹介する回想を記すことによって、ビジネスマンたちやサッカー関係者が、日本のサッカーを国際水準にするために、いかに奔走してきたかを当事者感覚で知ることができる。
 『W杯に群がる男たち-巨大サッカービジネスの闇-』(田崎健太、新潮文庫、2010)とあわせて読むと、サッカービジネスの舞台裏をよりよく知ることができるだろう。

 また、ビジネスマンの仕事というものがどういうものかを伝えてくれる本として、広く若い人にも読むことを薦めたい。
 「虎穴に入らずんば虎児を得ず」、グローバルビジネスにおいては現状維持は衰亡への道であり、リスクを取らなければ未来はないということも。






<初出情報>

■amazon書評「世界のサッカー・ビジネスを支えてきた電通の当事者による人物中心の回想録」投稿掲載(2010年6月17日)
■bk1書評「世界のサッカー・ビジネスを支えてきた電通の当事者による人物中心の回想録」投稿掲載(2010年6月17日)

*再録にあたって、文章に手を入れた。


<ブログ内参考記事>

書評 『W杯に群がる男たち-巨大サッカービジネスの闇-』(田崎健太、(新潮文庫、2010 単行本初版 2006)





              

2010年6月16日水曜日

Eat Your Own Dog Food 「自分のドッグフードを食え」


               
 "Eat Your Own Dog Food" という表現が英語にあることを先日はじめて知った。直訳すると、「自分のドッグフードを食え」となる。かなりエグイ表現だな。

 ところで、高校で学ぶはずだが、よく知られた英語の表現に Mind Your Own Business. というものがある。「自分の頭のハエを追え」という日本語の表現とはほぼ同じコノテーションである。「自分のビジネスのことを考えろ」、つまり「あんたの知ったことじゃない」という意味

 坂下昇という、『白鯨』で有名な作家ハーマン・メルヴィルの研究者で翻訳家が、かつて敗戦後しばらくたった頃にビジネスマンとしてニューヨークに滞在していた人が、米国南部でこういう表現を聞いたということを紹介している。高校時代に愛読していた『アメリカニズム-言葉と気質-』(岩波新書、1979)にでているはずである。ここでいうアメリカニズムとは、アメリカ英語らしい表現のこと。著者のデビュー作だが、すでに亡くなってから久しい。

 前置きがながくなったが、米国南部の表現とは、こういうものだ。

 Mind your Own Funeral.

 funeral とは葬式のことだ。これまた極めつけにエグい。意味は同じく「自分の頭のハエを追え」=「あんたの知ったことじゃない」。


 さて、"Eat Your Own Dog Food" 「自分のドッグフードを食え」に戻ろう。

 これは、検索して調べてみたところ、米国のIT業界でよく使われるスラング的表現らしい。製品として市場で販売する前に、自社で使い勝手を試してみる、ということだそうだ。
 なるほど、たしかにIT業界では、自社を実験場としてテストしてからということが多い。また実際、ソフトウェアの場合、それができるのはIT業界の強みである。内部にいる社員は、次から次へと新製品を使いこなさないといけないので大変なようであるが・・・

 むかし米国に滞在しているとき、その当時はかなりの不況だったので、カネのない人間は、真面目な話、ドッグフードやキャッツフードを食べているという話を聞いたことがある。
 スーパーマーケットのコーナーの一角に、ペットフードのコーナーがあるので、カートを押しながらその前をとおるとき、いつもそんなことをよく考えていたものである。
 まあ、ペットフードは、栄養面にかんしてはまったく問題ないだろうが・・・

 私自身は、"Eat Your Own Dog Food" 「自分のドッグフードを食え」などといわれたことがないので、実際に食べたことはないが、ビジネス関係者の心構えとしては正しいといえるだろう。

 要は、「実証済みなのでご安心してご活用下さい」、ということになるのだから。「毒味済んでます」ということであるし。

 しかし、そうはいっても、エグイというか、えらくストレートな表現だなあ。



<ブログ内関連記事>

put yourself in their shoes  「相手の立場になって考える」

When Winter comes, can Spring be far behind ? (冬来たりなば春遠からじ)




Clip to Evernote 

                      
P.S. 写真とブログ内関連記事を追補した(2011年10月20日)



 
    

2010年6月15日火曜日

対カメルーン戦を振り返る-ニッポン初戦制す! バンザイ!!


             
 「ニッポン初戦制す! バンザイ!!」
 
 試合終了直後、このフレーズを Twitter に投稿してから寝た。昨日(6月14日)の日本時間23時に始まった試合は、翌日1時前には終了した。
 ワールドカップに日本代表チームが出場しているのに、寝るというわけにはいかないだろう。喜びも悔しさも、日本代表を応援するファンのみなさんと分かち合いたいではないか!!

 しかし、昨夜のカメルーン戦、前半は双方ともに今回の初戦というためであろう、ひたすら神経戦が続くような展開だった。日本の先制ゴールで1-0でリードしてから、試合の流れが一気に変わったのは、見ていてもたいへんうれしいものがあった。なんせサッカーにかんしては、カメルーンのほうが格上だから。
 岡田監督がワールドカップ開催前に漏らしていたことを思い出して、「念」を送った効果があったか? 電波ごしに「念」が伝わったどうかはわからないが(笑)。そもそも「念」というのは心的エネルギーだから波動そのものだな、世界各地で応援する「気持ち」としては伝わったはずだろう。

 先週、NHKスペシャルで、カメルーン代表のフォワード、サミュエル・エトオ(Samuel Eto'o)の特集を見た。流暢なフランス語をしゃべるエトオは、アフリカを背負う男、今回の FIFAワールドカップ南アフリカ大会のポスターにも彼の横顔が、グラフィク・デザインとして採用されているくらいの人だ。
 しかし、昨日はそのエトオがほとんどボールに触れる機会がなかったのが、日本勝利につながったのだろう。
 解説によれば、カメルーンは個人技のレベルは高いが、チームとしてのまとまりがあまりよくない。欧州のクラブチームで活躍しているカメルーン出身の選手は、ナショナル・チームとしては未成熟ということなのだろか。
 後半は、カメルーンの攻撃力が増してヒヤヒヤさせられるシーンが多かったが、なんとか切り抜けて初戦の勝利となったことは、素直に喜びたいものだ。


カメルーンと日本を統計数字で比較してみる

 今回のワールドカップで、アフリカをぐっと近くに感じることができるようになったが、こんな機会でもないと、カメルーンについて考えることもあまりない。
 前々回のワールドカップ(2002年)のとき、私は失業していたことを昨日思い出したが、その年は日本と韓国の同時開催であった。そのときカメルーンは中津江村で合宿したので、カメルーンの名は日本人にはけっして無縁のものではない。

 せっかくの機会なので、カメルーンを統計数字をもとに概観しておこう。今回、日本が属している予選E組はカメルーン以外は、オランダとデンマークという欧州の強豪だが、後者の二カ国については知らない人はまずいないだろう。

カメルーン統計数字(抜粋)

面積(㎢) 475,442 (日本:377,727)
人口(百万人) 16.6 (日本:128.2)

15歳以下人口(%) 41.8 (日本:13.9)
60歳以上人口(%)  5.4 (日本:26.4)
平均寿命(歳) 男性 50、女性 50.8(日本:男性 79.0、女性 86.1)
出生率(女性一人あたり) 3.8 (日本:1.3)

GDP(US$billion) 18.3 (日本:4,368 ≒ 500兆円)
GDP per capita(一人あたりGDP US$)1,100 (日本:34,080)

(Source: The Economist Pocket World in Figures 2009 Edition)


 サッカーの強い国は、サッカーが文化として定着している欧州と南米であるが、それに対してカメルーンも日本もサッカーは文化として発展途上といえようか。
しかし、カメルーンと日本の経済格差は、こうやって数字を並べてみると、あまりにも大きいことにあらためて驚かされる。
 このすうじからみれば、いかにカメルーンが頑張っているかが理解できる。

 それはさておき、せっかく初戦で勝利を収めたのだ、強豪オランダに勝つのはきわめて難しいだろうが、デンマークとは互角の勝負でぜひ勝利して、予選突破を願うばかりである。
 
 対オランダ戦は、6月19日(土)である。



<関連サイト>

NHKスペシャル FIFAワールドカップ 第3回「サミュエル・エトー アフリカを背負う男」

Wikipedia カメルーン




             

2010年6月13日日曜日

惑星探査船 「はやぶさ」の帰還 Welcome Back, HAYABUSA !




 惑星探査船はやぶさが地球に帰還した。小惑星イトカワとの往復に7年をかけての帰還である。本体は大気圏突入に際して熱で溶解、耐熱性材料を使用したカプセルは無事に、オーストラリアの砂漠に落下したようだ。
 
 和歌山大学宇宙教育研究所による「はやぶさカプセルの帰還ライブ中継」が、日本でもここ最近話題になっている Ustream(ユーストリーム)を使っての中継が試みられたが、結局のところ、リアルタイムでの中継は、現地の回線の細さゆえ、あまりスムーズにはいかなかったようだ。私もパソコンで見ていたが、歓声があがった瞬間の音声はリアルタイムで流れたが、映像そのものは一瞬光が見えただけであった(写真)。

 「NHKクローズアップ現代」で先週放送された「傷だらけの帰還 探査機はやぶさの大航海」で、惑星探査船「はやぶさ」のストーリーが紹介されたが、やはりなんといっても、つくりものではないホンモノのストーリーには、人を感動させるチカラがある
 絶体絶命のピンチを何度もくぐり抜け、執念で地球に帰還させることに成功した科学者と技術者たちの物語、最近の日本では珍しいドラマチックな物語である。
 報道で何度も何度も繰り返し流されているので、あえてここには繰り返さないが、小惑星イトカワ着陸時の故障、一ヶ月半にわたる行方不明、エンジンの故障と復活、そして予定を3年オーバーしての7年目の帰還。まさにドラマではないか。
 三億キロ離れた小惑星との往復は世界初の快挙ということだが、それだけにとどまらないドラマに、人は興奮と感動を覚えるのである。「はやぶさ」は無人飛行船とはいえ、ハリウッド映画のアポロ宇宙船ものに、勝るとも劣らないものがある。

 一連の報道のなかでは触れられていないが、小惑星「イトカワ」も「はやぶさ」も、ともに糸川英夫博士(故人)にちなむものだ。日本の宇宙ロケット開発の父ともいうべき存在の糸川博士は、戦前はエンジニアとして陸軍の戦闘機「隼」(はやぶさ)を設計した人でもある。
 「絶対にあきらめない、不屈の精神」は、糸川博士を彷彿させるものがある。糸川(イトカワ)博士と隼(はやぶさ)については、このブログに記事を書いているのでご参照していただけると幸いである。

 今回のミッション成功に刺激を受けて、ぜひ若い人から宇宙科学を志す人が一人でもでてくることを願う者である。

 日本もまだまだ捨てたもんじゃない!
 日本国民として、素直に感動を共有したいものだ。


<関連サイト>

宇宙航空研究機構(JAXA:ジャクサ)の小惑星探査機はやぶさ
http://www.jspec.jaxa.jp/activity/hayabusa.html

<ブログ内参考記事>

映画 『加藤隼戦闘隊』(1944年)にみる現場リーダーとチームワーク、そして糸川英夫博士








           

2010年6月12日土曜日

書評 『W杯に群がる男たち-巨大サッカービジネスの闇-』(田崎健太、(新潮文庫、2010 単行本初版 2006)




欧州を中心に、全世界にまたがるサッカービジネスの舞台裏を描いたノンフィクション

 欧州を中心に全世界にまたがるサッカービジネスの舞台裏を、FIFA、UEFA、電通、アディダスといった組織や企業と、個性豊かなアクの強い登場人物たちとその人脈を中心にして描いたスポーツビジネス分野のノンフィクションである。

 南米大陸ブラジルのアベランジェが、なぜFIFA会長として、欧州中心のサッカー界でのし上がることができたのか。この問いに対する著者の探求から始まる本書は、欧州、南米、北米、アフリカ、アジアと、現在ではすべての大陸にまたがる巨大ビジネスと化したサッカー界が、いかなる構造となっているか、そのなかでプレイヤーとしての日本の存在がいかなるものであるのか、を知ることができる内容になっている。
 善戦してきたとはいえ力(ちから)及ばずというのが、偽らざる日本の姿であろうか。ピッチの上だけではなく、舞台裏でもそれは変わらなかったのである。

 私にとってもっとも興味深かったのは、この欧州中心のビジネスのなかに、なぜ、そしていかにして日本の電通が食い込み得たのかについて、その経緯を詳しく知ることができたことだ。
 登場人物たちが展開する権力闘争は、オリンピックもそうだが、限りなく密室政治に近い様相を示している。理事に選出され、インサイダーに成らない限り、情報を得ることができないという閉鎖的な世界。ビジネスにおけるポリティクスという観点からも面白いノンフィクションであった。

 2010年6月にはFIFAワールドカップ南アフリカ大会が始まるが、巨大ビジネスと化したサッカービジネスの行方については、ぜひ著者による続編を読んでみたい。



<初出情報>

■bk1書評「欧州を中心に、全世界にまたがるサッカービジネスの舞台裏を描いたノンフィクション」投稿掲載(2010年6月10日)
■amazon書評「欧州を中心に、全世界にまたがるサッカービジネスの舞台裏を描いたノンフィクション」投稿掲載(2010年6月10日)






           

2010年6月11日金曜日

『南アフリカの衝撃(日経プレミアシリーズ)』(平野克己、日本経済新聞出版社、2009)




「南アフリカには世界がある」-グロ-バリゼーションの光と影-

 2010年6月に開催されるFIFAワールドカップ南アフリカ大会にあわせての出版であるが、アパルトへイト廃止後の南アフリカについて、新書版200ページで過不足なく解説した非常にすぐれた本である。私にとっては、マンデラ元大統領を主人公にした映画『インビクタス』を除けば、アパルトヘイト廃止後の南アフリカについて読んだ、初めての本となった。
 
 「南アフリカには世界がある」とは、著者の友人が語ったコトバであるそうだが、この表現がすべてを物語っているといえるだろう。
 アパルトヘイト時代の1980年代から、すでに新自由主義(ネオリベラリズム)の経済政策を実行してきた南アフリカは、アフリカ大陸の経済の中心であり、アパルトヘイト廃止後に経済制裁が解除されてから後は、グローバル世界の経済プレーヤーとしての位置を確保している。アフリカ大陸の製造業の中心でもある。また、物流の観点からいえば、アジアと南米のハブでもある。
 しかし、その反面、グローバリゼーションの負の側面も大いにもっている。殺人で年間2万人が殺害され、経済破綻国である隣国ジンバブエから低賃金労働者を移民を無制限に受け入れ、世界最大の所得格差国にもなっている。
 グローバリゼーションの光と影をともに体現しているのが、南アフリカなのである。

 本書は、JETROの駐在員として、アパルトヘイト時代もアパルトヘイト廃止後も南アフリカを観察してきた著者ならではの鋭く、かつ暖かいまなざしで描かれた南アフリカである。何よりも、ビジネスを中心とした経済についての記述が詳しく、日本とのかかわりの中心であるビジネスマンの存在に焦点をあてていることは本書の特色でもある。
 さらに政治や社会についても過不足のない解説がなされているのがありがたい。アパルトヘイトによる人種差別を否定し、基本的人権の保障という政治的理念が、経済的自由主義の根本にあるという指摘は貴重である。
 しかしながら、部族対立につながりやすい民族主義を中心に据えず、普遍的な基本的人権を重視したことから、産業社会の重要なモチベーターであるナショナリズムは不成立のままに今日にいたっている。
 
 ワールドカップを機会に南アフリカに興味を抱いた人にぜひすすめたい一冊である。本書を読むことで、アフリカが必ずしも遠い存在ではないという思いを抱くことになるだろう。



<初出情報>

■bk1書評「「南アフリカには世界がある」-グロ-バリゼーションの光と影-」投稿掲載(2010年6月10日)
■amazon書評「「南アフリカには世界がある」-グロ-バリゼーションの光と影-」投稿掲載(2010年6月10日)






<関連サイト>

南アフリカ 企業が挑むもう1つの W杯(日経ビジネスオンライン 2010年6月に連載)


<ブログ内関連記事>

映画 『インビクタス / 負けざる者たち』(米国、2009)は、真のリーダーシップとは何かを教えてくれる味わい深い人間ドラマだ
・・マンデラ大統領とラグビーワールドカップ南アフリカ大会

原爆記念日とローレンス・ヴァン・デル・ポストの『新月の夜』
・・南アフリカでオランダ系のアフリカーナーとして生まれたローレンス・ヴァン・デル・ポスト





                

2010年6月10日木曜日

書評 『日本人へ リーダー篇』(塩野七生、文春新書、2010)




ときどき「おお、これは鋭い」と思えるような指摘がある

 本書は表題のテーマであらたに書き下ろされたものではなく、月刊「文藝春秋」の巻頭言を時系列で集めたものだ。本書には、2003年6月号から2006年9月号までの約3年分の文章が収められている。
 いずれも時事的なテーマをネタに書かれた文章であるから、いまから考えると「ああ、そんな事もあったなあ」という感慨にとらわれる。本書に収められた文章は、私はリアルタイムではまったく読んでいなかったので、現時点で過去をリアルタイムに再体験する意味では面白い読書体験となった。

 長年にわたって塩野七生の読者であるが、必ずしも熱狂的なファンではない私には、本書に収められた文章のすべてがすばらしいとは思わない。
 しかし、ときどき「おお、これは鋭い」と思えるような指摘があるので、結局最後まで読んでしまう。

 なによりも、巻頭におかれたカエサル(=ジュリアス・シーザー)の名言は噛みしめるべきものである。

人間ならば誰でも、現実のすべてが見えるわけではない。
多くの人は、見たいと思う現実しか見ていない(ユリウス・カエサル)

 もちろん著者自身、このワナにはまる危険を十二分に意識しつつも、完全には逃れ得ないという自覚をもっているように思われる。そもそも人間がかかわる以上、それは避けてとおれないものであろう。

 著者は自らを「歴史研究者」ではなく、「歴史家」であると自己規定している。事実関係を明らかにするのを主目的にしているのが歴史研究者であるとすれば、「人生で蓄積したすべて」を深く関与させて「文献をどう読み解くか」(P.200)が勝負の世界に生きているのが、歴史家である。
 現在では、インターネットで検索すればたいていの情報は入手できるというのに、人によってアウトプットに大きな差がついているのは、情報を解釈するチカラの差であるのだ。
 これは重要な教訓である。

 『ローマ人の歴史』執筆がまさに終わろうとしている時期に書かれた文章を読んでいると、その後の「帝国」であった英国も、米国も、中国もローマ帝国とはまったく異なる存在であることが指摘されており面白い。
 その意味では、専門家ではない著者の中国に対する「ものの見方」が非常に新鮮に感じた。
 中国を「政治外交小国」と断じている著者の視点は専門歴史研究者にはできないものだろう。こういう文章を読んだ瞬間、読書のよろこびを感じるのである。






<初出情報>

■bk1書評「ときどき「おお、これは鋭い」と思えるような指摘がある」投稿掲載(2010年6月6日)
■amazon書評「ときどき「おお、これは鋭い」と思えるような指摘がある」投稿掲載(2010年6月6日)


*再録にあたって、字句の一部を修正した。


<ブログ内関連記事>

『次の10年に何が起こるか-夢の実現か、悪夢の到来か-』(Foresight編集部=編、新潮社、2000) - 「2010年予測本」を2010年に検証する(その2)

『フォーサイト』2010年4月号(最終号) 「創刊20周年記念号 これからの20年」を読んでさまざまなことを考えてみる







                    

2010年6月7日月曜日

新装刊の月刊誌「クーリエ・ジャポン COURRiER Japon」 (講談社)2010年7月号を読む-今月号の特集は「アップルが、世界を変える」




 まず、何よりも冨倉編集長以下スタッフのみなさんには、「新装刊おめでとうございます」と一言申し上げます。

 新装刊第一号の特集は、まさに旬も旬、ピチピチの旬のテーマの iPad と iPhone で前面に躍り出たアップル社
 カバー前面の、カラフルなグラフィックはまさに雑誌の命ですね。それに劣らず、雑誌ならではのコンテンツがてんこもりで、一冊読み終えるのにけっこう時間がかかってしまいました。いずれも中身の充満した記事ばかりなので、ちょっと満腹気味というのが正直なところです。
 紙質も変えて、変化したことをトータルにアピールしていますね!

 では、私が「新装刊7月号」で読んで面白いと思った記事に、いくつかコメントをさせていただきます。


Special Feature アップルが、世界を変える

 実は私はまだ iPhone も iPad も使っていません。テクノロジー・ガジェットのアーリー・アダプター(early adopter)ではないので真っ先に新製品に飛びつくタイプではないからです。様子見してから購入するというのがいつもの行動特性です。買ったはいいけど、お蔵入りというガジェットが少なからずありますからね。
 アーリー・アダプターにとっては、こういう形の雑誌特集は、心理学的にいえば、自分の購買行動の認知的不協和を解消する意味で大いにウェルカムでしょうし、私のような様子見してから購入するといタイプの人にとっては、社会現象としてのアップルについて考えるうえでは、よく精選された記事が集められているといえるでしょう。

 私自身はパソコン使い始めてからすでに20年以上たっていますが、結局アップルのファンではないまま今日まできました。ビジネスユースが中心なのでどうしても MS-DOS系統になってしまいますし、デザイナーではないのでマックは使わない。米国留学中に、アカデミック・ディスカウントがあるのでマックを注文したのですが、数ヶ月待ちのバックオーダーで結局入手は断念という経験の持ち主です。

 特集記事のなかでは、とくに Part3 の「可能性は無限大!?iPad が創り出す新しいライフスタイル」が、それこそ一目瞭然に感覚的にわかる図解になっているので、ものを考えるうえで大いに刺激されます。医者、ビジネスピープル、母子、ゲーマー、デザイナー、大学生、シニア、それぞれの立場ごとの用途と可能性についての記述は、ビジネスのヒントとなるだけでなく、社会現象としての iPad について考えるヒントにもなります。

 一方で、アップルの今後について、やや批判的な記事も翻訳紹介しています。アップルは本来の革命精神を喪失して「囲い込み戦略」に走っていると。こういう「複眼的なものの見方」がいかに重要であるか、「クーリエ」の記事セレクト方針そのものが証明しています。

 ほぼ同時期に「アップル」を特集した雑誌を2種類よみました。
 『週刊ダイヤモンド』の特集「アップル丸かじり」『日経TRENDY』の特集「すべてがわかるスマートフォン& iPad 完全ガイド」です。前者は経済雑誌、後者は商品流行情報誌ですが、あくまでも経済誌の観点でしかものを見ていません。社会現象として視るためには、今回の「クーリエ」の特集は面白い視点を提供してくれたな、と思います。

 「クーリエ」でも、iPhone 向けのアプリの提供も始めたようですね。まだどちらも所有していない私には試してみることができないのが残念ですが・・・



北欧-その光と影 世界が羨む「理想社会」

 内村鑑三の『デンマルク国の話』以来、日本でも理想社会として讃えられてきたデンマーク。フランス人ジャーナリストが描いた幸福度ランキングNo.1のデンマークのレポートを実に興味深く読むことができました。
 デンマークの現状は、記事を読む限り、かつての日本のようでもありますが、現在の日本とはほど遠い、なんだかユートピアの話を聞いているような錯覚にも陥ります。
 徹底した平等主義、とくに教育における平等。バイキング時代以来の伝統、小国ならでは条件があって初めて成り立つものなのでしょう。
 北欧モデルのビジネスの可能性についての記事も翻訳紹介されていますが、たしかに社会条件を考慮にいっると、北欧以外では応用は難しそうです。経営者と一般従業員との所得格差の小さい点は、日本と似たところがありますが、自由な議論が可能な組織風土は果たして日本にあるのかどうか。
 しかも、過度の移民流入が社会の一体性を損なう可能性があると北欧で論じられていること、なかなか面白い視点が提供されています。「クーリエ」ならではの「複眼的なものの見方」の好例となっているといっていいでしょう。
 非常に素晴らしい特集で、私としてはこれだけで一冊分を読みたいような内容でした。



祝祭の名はワールドカップ-熱狂のドラマとビジネスチャンス-

 前日本代表監督のイビツァ・オシム監督の発言や語録もそうですが、今回の FIFA ワールドカップ南アフリカ大会で日本の対戦相手であるカメルーン、オランダ、デンマークのスポーツジャーナリストが指摘している内容は実に面白いですね。サッカーをつうじてみた日本人論となっているからです。欧州では「個」として活躍している日本人選手が、日本に戻って日本のチームの一員になると、なぜ組織に埋没してしまうのか? この指摘は実に貴重なものです。
 また、岡田監督の「ベストフォー入り」という非現実的な目標設定の愚かさも、外国人スポーツジャーナリストたちがズバリ指摘しているのは、まさに傾聴すべき見解ですね。

 

新連載:「中国とインドを読み解くクロス連載 「龍」と「象」の比較学」

 この新特集は実に面白い。中国をテーマにしたジャーナリスト富坂聰が中国からみたインドを、現代インドを研究する中島岳志がインドからみた中国について、それぞれ執筆しています。
 中国側のインドへの無関心ぶりに対して、インド側の中国への警戒心が際立っていることが、それぞれ独立して執筆された論考で浮き彫りになるという面白さ。
 この連載企画は実に面白いので、ぜひ今後も続けて読みたいものです。これもまた、「クーリエ」ならではの「複眼的なものの見方」のすすめ、といってよいでしょう。



Courrier bis という新しい特集ページ

 ビジネスマンである私にとっては、この新特集も実にありがたいですね。

 とくに、「世界の工場」が変わる!という特集が面白い。「世界の工場」といわれてきた中国の変化について、技術の流れが逆転し始めたという指摘。かつては先端技術を学ぶために中国から米国へ向かっていた流れが、現在では米国から技術者が中国に向かっているという。

 また、iPad などのアップル製品の製造請負をおこなっている、台湾資本の世界最大の EMS(電子機器製造受託専業企業)フォックスコン(Foxconn:鴻海精密工業)の中国工場で、従業員の自殺が連鎖的に発生している事件の背景もこの記事を読むと理解できます。
 フォックスコンの事件が、中国人従業員の待遇改善につながり、ひいては賃金上昇圧力の引き金となっていることは、報道でも周知のとおりです。
 中国の「農民工」の第三世代は一人っ子世代なのだという、考えてみれば当たり前の事実を明快に解説してくれる記事は読む価値があります。もちろん、フォックスコン事件の背景はこれだけではありませんが。

 中国ビジネス関係者必読の特集記事でしょう。


 

 以上、ざっとコメントしてみました。
 
 まさに「記事のセレクト」というべきなのでしょう。
 新装刊は、「クーリエ」のよいところを継承しながら、記事のセレクトに関して、さらに「複眼的な視点」が強化された点が、知的な読者を十分に満足させるものとなっているといっていいいでしょう。
 
 「来月号の特集」は何だろうかな、いまから楽しみです。






<ブログ内関連記事>

書評 『知的複眼思考法-誰でも持っている創造力のスイッチ-』(苅谷剛彦、講談社+α文庫、2002 単行本初版 1996)


<関連サイト>

月刊誌「クーリエ・ジャポン COURRiER Japon」オフィシャルサイト

アップル社創業経営者スティーブ・ジョブズのスタンフォード大学卒業式祝辞
 動画は YouTube にて(英語、字幕なし)。
 英語原文はスタンフォード大学オsフィシャルサイトに掲載。
 YouTubeで音声流しながら、原文を目で追っていけば、英語の勉強にもなるでしょう。実に感動的なスピーチで、良質な自己啓発といえるはずです。


クーリエ・ジャポンの CM(YouTube映像)



P.S.

 この記事が、『クーリエ・ジャポン レビューコンテスト 2010年7月号』で【副編集長賞】を受賞したとの連絡が入りましたので、報告しておきます。
 以下に、いただいたメールを転載しておきます。(2010年7月5日)


R+コンテスト事務局です。

先日は、『クーリエ・ジャポン レビューコンテスト 2010年7月号 』にご応募頂き誠にありがとうございました。

クーリエ・ジャポン編集部による厳正なる審査の結果、ご応募頂きました下記エントリーが見事、

【副編集長賞】

に選ばれましたのでご報告致します。おめでとうございます!

───────────────────────────────────
【エントリータイトル】新装刊の月刊誌「クーリエ・ジャポン COURRiER Japon」 (講談社)
2010年7月号を読む-今月号の特集は「アップルが、世界を変える」
【URL】http://e-satoken.blogspot.com/2010/06/courrier-japon-20107.html
【選評】ご自身もグローバルにお仕事を展開しているだけあって、ビジネス記事に対す る視点の鋭さに感心しました。
───────────────────────────────────


以上
       

                         

2010年6月6日日曜日

書評 『普通の家族がいちばん怖い-崩壊するお正月、暴走するクリスマス-』(岩村暢子、新潮文庫、2010 単行本初版 2007) 




国際競争力を失い、大きく劣化しつつある日本人がつくられている舞台裏を見よ!

 「嫌なものを読まされたなあ」、という感じが最初から最後までつきまとった。自分の自由意思で読みながらなんだ、という感がなくもないが、同時に読んでいるうちに、「いや、こういうものかもしれないなあ」という気持ちに変化していく自分を見いだした。単行本は読んでいないので、この文庫版ではじめて読んでみての感想だ。
 いかに否認しようが、怒りを感じようが、まさにこれがいまの日本の家庭の現実なのだ。生活習慣が大きく変貌した現在の日本では、お正月が衰退するのも仕方がないし、クリスマスのほうが盛り上げやすいのは否定できない。

 この調査からあぶり出されてきたのは、30歳台から40歳台にかけての主婦たちのホンネである。自由意思と個人主義をはき違えた「甘えの構造」快楽原則に基づき、ひたすら不快で苦痛なこと、つまり嫌なことを回避する行動特性。現実を見ないよう、考えないようにして家族を偽装する日々。
 しかしこうした女性たちを責めたところで問題が解決されるわけでもない。専業主婦とは、その多くが人生に意味を見いだせない、寂しい女性たちのように思われるからだ。
 大きく変化したように見える日本の家庭だが、30歳台から40歳台にかけての主婦たちの行動を規制しているのが、あいもかわらず日本的な「世間」であることにも、一方では驚かされる。まわりがやっているからやる、まわりにあわせないのが怖い。ここにあるのは、「個」の存在しない「世間」そのものである。

 この本を読んで強く思ったのは、日本人は個人主義を完全にはき違えている、という事実だ。
 この本に登場する主婦たちは、多くの者が自由意思などとクチにしているが、日本人の家庭にあるのは、「個人主義」ではなく、「孤人主義」である。責任をともなわない「個」は「孤」でしかない。すでに集団主義でもなく、個人主義でもない日本人。内向きの孤人主義者の集団
 また子どもに対して、コトバで説明し、説得することを回避している多くの主婦たち。これでは子どもたちが一体どうやって、グローバル化のなかで生きてゆけるというのだろうか? 日本を一歩出れば、コトバでの戦いが当たり前の光景だというのに・・・。
 コトバによる論理的思考とはほど遠い日本人。多くの日本人から、国際的な競争力が急速に減退しているのは当然の帰結というべきだろう。
 日本企業もまたマーケティング活動をつうじて、こうした動きを促進しているわけだから、ほぼすべての日本人の大人が同罪であるといわねばならない。一部の地方での風習でしかなかった「恵方巻き」が普及したメカニズムについては、いろいろと考えさせられるものがあった。企業サイドと受容サイドがシンクロした結果なのである。

 いくら正論を吐いたところで、多くの日本人が大きく劣化しているのは否定できない事実だ。この現実を見据えたうえで、処方箋を書いて行動に移していかなくてはならないのだが、日本人の劣化を食い止めるためには、かなりハードな方法しかないだろうという気もする。それこそ見たくない、考えたくないような方法によって。
 
 それは、読者一人一人が考えなければならない課題である。その前に、まず本書を投げ出さずに最後まで読み切ってほしいと思う。


<初出情報>

■bk1書評「国際競争力を失い、大きく劣化しつつある日本人がつくられている舞台裏を見よ!」投稿掲載2010年4月22日






<書評への付記>

 書評としては長くなりすぎたので、投稿する際には大幅にカットして短くした。
 以下、カットした部分を再録しておこう。


 「見たくない現実」を見せられたとき、「否認⇒怒り⇒取引⇒抑うつ⇒受容」という一連のプロセスがある。キューブラー=ロスが『死ぬ瞬間』で示した「死ぬということを受容するプロセス」からきているが、この本にかかれた「現実」については、否認から受容までのプロセスを、私自身体験することになった。

 いかに否認しようが、怒りを感じようが、まさにこれがいまの日本の家庭の現実なのだ。
 生活習慣が大きく変貌した現在の日本では、お正月が衰退するのも仕方がないし、クリスマスのほうが盛り上げやすいのは否定できない。

 調査対象者の属性、世帯収入が600万以上から800万円以下(26.9%)と800万円以上と1,000万円以下(22.9%)が中心になっており、標準よりやや高所得者層の専業主婦にあるようだ。つまり調査対象者の居場所は職場にはない女性たちである。 
 調査手法もありきたりの定量調査手法であるアンケート調査ではなく、家族の食卓の写真を提出してもらい、質問票に記入してもらったうえで、ディープ・インタビューを行うとい定性的な手法であることが大きい。写真記録に現れた事実は、クチから出る発言との矛楯をさらけ出すからだ。犯罪捜査にも似た、執拗な調査方法である、といえようか。

 「家庭でのしつけ」というものがほぼ完全に死滅し、一切合切を外部化し、他人のせいに押しつける現在の状況、モンスターペアレンツ現象の背景が何であるのかについても、本書をよめば間接的に知ることができる。
 こういう家庭に育った子どもたちが、いままさに社会人として労働市場に参入してきたわけなのだが、「就活」というハードリアリティで苦戦し、そしてまた会社に入ってから大きなリアリティショックを感じることだろう。会社に入ってから意識変容があるのか、いかに価値観に変化が現れるのか、大いに関心がある。「シュガー社員」現象の背景も、本書をよめば間接的に知ることができる。

 また、子どもたち自身が、こうした親をどう見ているのか、ホンネを探ってみたいものだ。著者もエピローグでは「子どもの目線」について少し言及しているが、案外と醒めたものの見方をしているのではないか。
母親を「反面教師」にしている可能性も・・

 あるいまた・・・



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2010年6月3日木曜日

「三日・三月・三年」(みっか・みつき・さんねん)


        
 「三日・三月・三年」と書いて「みっか・みつき・さんねん」と読む。

 最近の若い人たちはあまり聞き慣れていないかもしれないが、私の世代の人間であれば、親や祖父母からかならず何度も聞かされたフレーズであると思う。

 いずれも「3」がつくこのフレーズ、「3」がマジックナンバーであることを意味している。

 三日(みっか)とは文字どおり三日間のこと。

 三月(みつき)とは三ヶ月のこと、日数でいえば約90日で、約100日弱となる。

 三年(さんねん)とは、月数でいえば 36ヶ月になるが、日数でいえば 1,095日、すなわち1,000日強となる。

 三日坊主の3日はさておき、三月(みつき)は100日弱三年(さんねん)は1,000日強と、いずれもキリのいい数字と対応している。

 大統領でも首相でも、はじめて執務を開始してから最初の100日間は、メディアからは「蜜月期間」として手荒な扱いは受けないのが通例である。
 経済改革の場面などでは、いわゆる「100日プラン」でショック療法を行うことが行われることがある。

 アラビアンナイトの「千夜一夜」や比叡山の「千日回峰行」など、1,000日単位のものも多い。日本の民話に「三年寝太郎」というのがあるが、これはずばり3年だ。


 自分自身の経験からいっても、「3」にまつわる具体的な経験があるので、紹介しておこう。


 ●留学してから3ヶ月で英語が突然聞こえるようになった経験(27歳)

 27歳のとき、留学して3ヶ月というのは、正確にいうと、サマースクールの英語講習が終わって、M.B.A.の授業が本格的に始まった9月からまる3ヶ月がたった後ということだ。悪戦苦闘の第1学期(first semester)が終わって冬休みになり、冬休み明けの第2学期が始まって学校にいったら、突然苦もなく英語が飛び込んでくるのを感じたのである。あたかも鳥のさえずりのように、すべたが聞こえてくるという、実に不思議な体験であった。

 ●就職して3年目にそれまでバラバラに存在していたものが一気につながるのを感じた体験(25歳)

 就職して3年目にそれまでバラバラに存在していたものが一気につながるのを感じた体験(25歳)も、実に不思議な体験であった。突然すべてがつながるのが、画像として網膜のなかで見えたのだ。ニューロン(神経細胞)のようなものが白い糸が粘菌のようにからみあていく動画であった。一気にすべてがつながってゆくのを体感した。そういう体験である。

 いわゆる開眼(かいげん)、いわゆる開耳(かいじ)といううヤツだろう。文字通り、眼が開かれ、耳が開く、という経験をさした表現のことだ。

 大学時代に合気道を修行していたとき、友人から借りたカッパブックスの『合気道入門』(植芝吉祥丸、972)に、合気道開祖・植芝盛平(うえしば・もりへい)が40歳のときに「黄金体と化す」という神秘体験をして、武道の開眼をした経験がイラストとともに書かれていた。 ある日突然すべてが静寂になって自分が黄金体と化しているのを感じ、澄み渡った空間のなかで鳥の声がきこえてくるという体験をしたとき、「我即宇宙」(われ即ち宇宙)という神秘体験をしたという。
 はじめてそれを読んだときは、ウソくさいなと思った。当時の科学少年はガチガチの合理主義の信奉者であったので。しかし、そういう経験を自分が体験すると、素直に受け入れる気持ちになった。そういうことは実際にあるのだ、と。

 江戸時代に儒仏道をあわせて、一般庶民向けの生活倫理を説いた、石門心学の開祖・石田梅岩(いしだ・ばいがん)も同様の開眼体験したようで、意外な感を受けたことがある。
 大学時代に受講した安丸良夫の「日本思想史」(?)授業で(・・ほとんど出席していなかったが)、期末試験の際に、友人からもらった安丸先生の論文抜き刷りに書かれていた石田梅岩の体験と合気道開祖・植芝盛平の体験をからめて書いたら、「A」をいただいた記憶をいま思い出した。

 日本の一宗一派の開祖は、みな同じような経験をしているようである。いや、世界的に共通した体験であろう。スピリチュアルといっていいのかもしれないが、ここではそれは留保しておこう。


 100日続ければ、1,000日続ければ・・・ということは、少し難しくいうと、「量質転換」ということになる。ある一定量の蓄積が質の転換をもたらし、次のステージへと進んでいくことになる。いわゆる壁や踊り場というものは、足踏みをしているように感じるこの期間のことを指しているのである。これをさしてクリティカル・マス(critical mass)と表現することもある。臨界点に達するまでの蓄積量のことである。
 100日なり、1,000日の蓄積があって、はじめて次のステージが見えてきて、一気に地平が開けるような体験をすることになるのだ。
 「地道」(じみち)こそ真の「王道」(おうどう)・・これ以外の成功法則はないといっていいのではないかと思う。
 成功への道にショートカットはない

 「石の上に三年」というコトバもあるように、「3」というマジックナンバー、これはまさに年寄りの知恵として、記憶しておくべきだと思う。
 そういえば、合気道では「受け身三年」といわれていた。受け身がキチンととれるようにならないと、投げ技の多い合気道はきわめて危険である。自分が受け身を取れないのは危険であり、また相手が受け身がとれるように投げないとまた危険である。
 それをさして「受け身三年」というのだろう。まさに「千日の修行」である。


 心理学の応用として、よく初対面の「はじめの3分」が重要だ、という話を耳にするが、あえて中期的な「3ヶ月」長期的な「3年」の話を書いてみた。

 「三日・三月・三年」(みっか・みつき・さんねん)は、科学的根拠はさておき、「経験知」として、「人生の知恵」としては、傾聴に値するのではないだろうか。

 何はともあれ、とにかく3ヶ月はがんばてみよう!
 続けるか、やめるかは、その後に考えたらいい。



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合気道・道歌-『合気神髄』より抜粋





   

2010年6月2日水曜日

本日(2010年6月2日)鳩山首相が退陣-「デッドライン」の意味について


  
 本日(2010年6月2日)、民主党の鳩山首相が退陣を表明した。

 沖縄の普天間基地問題解決を、5月31日までに実現すると公約(・・口約)し、結局約束を守れず、さらに逆戻りするような結果を招いたことに対する、国民の不信感が支持率20%前後という結果を招いたためである・・・


デッドライン(締め切り、納期)感覚と約束の重さ

 
 ビジネスであればつねに「デッドライン」が設定されている。どんな部署においても一番多いのは「納期」であろう。「締め切り」といいかえてもよい・・・

(つづきは http://ken-management.blogspot.com/2010/06/201062.html  にて)