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2010年11月30日火曜日

If Your Cat Could Talk 「あなたのネコがしゃべれたら・・・」




If Your Cat Could Talk
「あなたのネコがしゃべれたら・・・」

 このタイトルのとおり、飼いネコについての本だが、コトバをもたないネコに代わって、ネコの生態と習性について語り尽くしたこの本は、ビジュアルも豊富なソフトカバーの大型本(・・寸法: 23.2 x 18.2cm)で役に立つだけでなく、豊富に収録された写真とそのキャプションを読んでいるだけでもたいへん面白い。

 フォーグル博士のネコの本は多数翻訳されているが、本書の日本語版があるのかどうか、膨大な数にのぼる飼いネコの本を精査したわかではないので、私は寡聞にして知らない。

 フォーグル博士はカナダ生まれで英国在住の動物行動学者、日本でもイヌとネコ関連の本が多く翻訳されているようだ。
 
 私はネコは飼ったことはないが、ノラネコの観察を最近のマイブームとしている人間である。ネコの行動と生態はほんとうに面白い。

 ネコは人間と違ってコトバはもっていないので深い思考はできないが、感じることができるだけでなく、考えることも、意思表示のためのコミュニケーションは可能である。ネコどうしとネコと人間のあいだで、鳴き声、それに表情やしぐさなどの身体言語で意思疎通を行っている。

 この本には、わたし好みのキジトラネコ(・・ちなみにトラネコは tabby)の写真が多いのが気に入った。表紙のキャッツアイ(=ネコ眼)の写真もキジトラネコ。
 キジトラネコのストライプ模様は、ネコの起源であるヤマネコの模様を継承している。基本的なストライプ模様は紀元前から同じパターン、恐るべきは遺伝なり。

 タイトルの If Your Cat Could Talk 「あなたのネコがしゃべれたら・・・」は英文法的にいえば仮定法過去(Subjunctive Past)。実際にネコにはコトバがないのでしゃべればいから、もしネコがしゃべれたら、こんな感じだろうか、といった含みをもった表現である。If Your Cat Could Talk, it would be like this.
 ネコを擬人化して情緒的な取り上げ方をすることはいっさいなく、あくまでもネコをネコとして扱う姿勢がたいへんよい。
 
 私はこの本を興味に任せてパラパラ読んでいて、動物学関連の英単語をあらたに多数覚えた。たとえば、「ネコの」を意味する形容詞は feline、ノラネコは feral cat(・・homeless cat でも通じる)、ネコの獲物としてのネズミなどのゲッシ類は rodent などなど。

 何度もでてくる単語はウェブ上の辞書で調べてみる。この労を惜しまなければ、何歳になっても新しい単語は覚えるものだ。本の中身はネコ好きなら、おおよそのところは類推できるハズ。
 まさに、何ごとも「好きこそものの上手なれ」である。

 ネコ好きな人にとっては、英語の勉強にもなるのでぜひ薦めたい一冊である。





目次 Table of Contents

Bruce Fogle, If Your Cat Could Talk: A Language Course For Humans, Dorling Kindersley, UK, 2007

『あなたのネコがしゃべれたら:人間のためのネコ語コース』(2007)

1. What is a cat ? (ネコって何?)
2. Starting a family. (家族をつくる)
3. What cats do. (ネコの行動)
4. Being a cat. (ネコである、ということ)
5. Living with us. (人間と暮らす)

 本の中身をみたい人は、amazon.com(米国)で見るとよい。 If Your Cat Could Talk をクリック。


著者プロフィール

ブルース・フォーグル(Dr Bruce Fogle)

1944年、カナダのオンタリオ州で生まれ。獣医学博士、英国立獣医協会会員。動物行動学の国際的権威。ロンドン動物園で獣医学を研修。現在、ロンドンで動物病院を開業するかたわら世界中で講演活動を行うほか、ラジオ・テレビ出演、新聞・雑誌の執筆活動など、幅広く活躍中。また、犬と猫の生態、生理、歴史、育て方に関する著作は、日本でも数多く紹介されている。






   

2010年11月29日月曜日

書評 『異端の系譜-慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス-』(中西 茂、中公新書ラクレ、2010)




「成人式を迎えたSFCの20年間」の軌跡を全体像として概観した一冊

 慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス、通称 SFC が1990年に開校してからすでに20年、もうそんなにたったのかという驚きが正直な感想である。

 日本の大学教育にイノベーションをもたらすべく開校した SFC、なんだか私自身のなかでそのイメージが固定化したまま時間が止まってしまっていたのかもしれない。

 本書は、SFC の20年間を、教育分野を専門に追ってきた読売新聞記者が、幅広い取材のもとに概観したものである。これ一冊でSFCの20年間がわかる内容の一冊となっている。
 少なくとも、SFC出身でも慶應義塾出身でもない私のような外部の人間にとっては、SFC卒業生は個々に知ることがあっても全体像は知りようがなかった。この一冊ではじめてSFCの全体像をつかむことができたという感想をもつ。

 SFCの特徴は、「問題発見・解決型」の人間をつくるという開校以来の教育理念があること、AO(アドミッション・オフィス)入試を最初の段階から実施していることが一般的なイメージとしても定着しているだろう。
 人生の目的が高校卒業前から明確になっている学生が多いという点が、日本の一般の大学生とは多いに異なる点なのだが、その結果、日本のカイシャ組織では使いにくいという評価も一部では定着してしまった。
 しかし、自分のアタマで考えて自分で行動するという、現在の日本にもっとも必要とされるタイプの人材を早い段階から輩出してきたという点においては高く評価すべきである。NPO やソーシャルビジネスなどにも、早い段階から取り組んでいる卒業生たちが多いのはその現れだ。

 本書を一読してわかったのは、SFCの特徴は、与えられた専門分野をディシプリンとして教え込むのではない、社会人としての幅広い教養を身につけるためのリベラルアーツ型大学であることだ。講義の選択の自由度が大きいために、目的が明確でないと、つまみ食いしただけで何も身につかずに卒業してしまうという危険もあるが、むしろ大学院に進学してから専門の勉強をすればいいという米国型の高等教育のあり方に近いのかもしれない。

 私は本書によってはじめて、初代の総合政策学部長をつとめた経済学者・加藤寛の伝説的な「卒業式スピーチ」の存在を知った。第一期の卒業生と同時に学部長の座から去った加藤寛のスピーチは、SFCの卒業生でなくても感動的である。

 本書の取材の範囲は卒業生と教員だけでなく、事務方や他大学の教員など実に幅広い。ナマの声が多数取り込まれているので、SFCの評価を複眼的かつ多面的に知ることができるのも本書の特徴だ。

 これから大学進学を考えている高校生やその親御さんだけでなく、日本の将来について考える人にとっても、日本の大学教育に一石を投じた SFC の20年間の軌跡を振り返る意味で一読する価値はある。


<初出情報>

■bk1書評「「成人式を迎えたSFCの20年間」の軌跡を全体像として概観した一冊」投稿掲載(2010年11月19日)
■amazon書評「「成人式を迎えたSFCの20年間」の軌跡を全体像として概観した一冊」投稿掲載(2010年11月19日)

*再録にあたって一部加筆した。




目 次
 
第1章 SFC はどう見られてきたか(学部長たちの自信、外からの視線)
第2章 日本の大学改革と SFC(SFC誕生まで、AO入試の影響度)
第3章 草創期を彩った人たち
第4章 卒業生たち(海外へ地方へ、社会起業家たち、社会起業家を後押しする人たち、多様な選択肢)
第5章 ライバルと未来の大学の課題


著者プロフィール

中西 茂(なかにし・しげる)

1958年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。読売新聞社東京本社解説部次長、編集委員を経て、調査研究本部研究員。『読売新聞』の長期連載「教育ルネサンス」の取材班デスクを 2005年1月のスタート時から 2009年3月まで務め、読売新聞社による第1回「大学の実力」調査(2008年)の責任者も務めた(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。







          

2010年11月28日日曜日

マンガ 『20世紀少年』(浦沢直樹、小学館、2000~2007) 全22巻を一気読み




 一昼夜かけて、『20世紀少年 全22巻』(浦沢直樹、小学館、2000~2007)を一気読みした。さすがに、全22巻を一気読みするなどということは滅多にすることではない。

 このマンガは、「本格科学冒険漫画」と銘打たれている。手塚治虫の系列にあるが、すでに大友克洋以降の世界である。

 あらすじについて書くなどという野暮なことはしないが、1970年当時の小学校5年生(・・と思われる)主人公の少年たちの「大阪万博」をめぐる体験と非体験をめぐる、その後45年にわたる物語である。体験というのは「大阪万博」にいって実際に体験できたことについて、「非」体験とは万博には行きたくてしょうがなかったが行けなかったこと。

 当時の少年にとって(・・現在でもそうであると思いたいが)、科学技術というのは、ほんとうにワクワクさせてくれる大きな対象だったのだ。万博はまさにその科学技術の象徴的存在で、○○館に行きたい、△△館に行きたい・・と、それこそ万博関連の読み物を貪るように読んでいたものだ。いまでも万博会場のレイアウトは大まかなところはアタマのなかにある。

 もちろん、万博にはそれほど思い入れのなかった者もいれば、万博に行けなかったことも者もいただろう。幸いなことに私は、関西生まれで両親も関西出身なので、里帰りの機会に万博には行くことができた。太陽の塔や、「月の石」が展示されたアメリカ館だけでなく、がらがらだったソ連館、ベルギー館などにはいった記憶がある。ビルマ館の前で撮影された写真もある。

 万博といえば、私と同じ世代の人間にとっては、あくまでも大阪万博であり、それ以後何度も開催された数々の万博は正直なところあまり眼中にはないのではないか? したがって、以下に万博と記した場合、すべて大阪万博のことをさす。

 連載は2000年から始まったが、このときには週刊マンガ誌の「ビッグコミック スピリッツ」を読む習慣がなくなっていたので、リアルタイムでは読んでいないなかった。

 『20世紀少年』の存在を知ったのは、かつての部下から話を聞いたことによる。
 正確な年齢は忘れたが、私より10数歳若いその彼は、「サトウさんの年代なら絶対にわかるマンガですよ!」といって、強く読むことを薦めた。それからすでに5年以上は立っているはずだ。全巻を「大人買い」してから2年近く。

 今回やっと重い腰を上げて一気読みすることとしたのは、ちょうど先週が、1970年を締めくくる大事件であった三島由紀夫の割腹自決の11月25日から40年にあたるからでもある。

 40回目の「憂国忌」に参加したこともあり、「三島事件」というネガに対して、ポジであった「大阪万博」をめぐる物語である『20世紀少年』を読むにはこの機会しかないと覚悟(!)を決めて読み出した。

 最初はあまり面白くなかったが、3巻あたりから俄然面白くなって、読むのが止められなくなる。
 個人的には 2/3 くらいの分量で終わらせたほうが良かったのではないかと思う。ちょっと二転三転が多すぎるような気がしたのは正直なところだが、雑誌連載であるかぎり作者の都合だけで止められないも、人気マンガの運命ではある。

 読んでみて思ったのは、なるほど 1962年生まれの私には、手に取るようにわかる世界である。

 作者の浦沢直樹は1958年生まれ、このマンガ作品の主人公たちとまったく同じ年齢設定である。
 1970年の大阪万博の年には小学校5年生で11歳から12歳、当時小学校2年生で8歳であった私よりは3学年上にあたる。東京生まれの作者が大阪万博に行ったのかどうかは知らない。
 小学校の年代の3歳差というのは、近いようで意外と遠いものがあるが、基本的に似たような体験をしていることは確かだ。1970年当時の東京郊外の描写は私の記憶そのものであり、ディテールもよく再現されている。

 「人類の進歩と調和」をテーマに掲げた大阪万博、しかしその後の歴史がどうであったかはいわずもがなである。

 私は先にも書いたように、万博にはいっているが、万博にいってない同級生たちのことなどアタマのなかにはまったくなかったようだ、このマンガを読むまでは。その意味では、万博が与えた影響は、必ずしもポジとは言いきれない
 イマジネーションが欠如しているといわれればそのとおりであるが、万博に行きたいのに行けなかった男の子たちのルサンチマンが、このマンガのアンチヒーローである「ともだち」の根底に澱んでいる。

 このマンガも、1960年前後に生まれた人間が、1995年に体験したものを踏まえて描かれていることはいうまでもない。1995年の出来事とは、阪神大震災とオウム事件である。自然災害と人為的な災害の違いはあるが、ハルマゲドン幻想をかき立てるものがあったことは否めない。

 このマンガにでてくる「よげんの書」とは、いうまでもなくノストラダムスの大予言を下敷きにしている。当時、ものすごく流行ったのだが、地球滅亡の年とされていた 1999年が過ぎ去った現在、日本人の多くにとっては、すでに過去の一エピソードに過ぎないだろう。

 このマンガの読者は、おそらく現在の30歳台~40歳台の男性が中心だと思うが、1960年前後以降の人間は、こういったオカルト的世界の雰囲気をたっぷりと吸い込んだ世代であることは知っておいたほうがいい。科学とオカルトが分離しない精神状況、これが「オウム事件」の根底にある。

 これだけ長期間にわたって週刊誌に連載された長大な作品を、それほどの破綻なく最後まで描ききったということはすごいことだ。
 ただし、ちょっと長すぎるし、終わりの 1/3 はなくても良かったのではないかと思う。余韻をもたせて終わらせたほうが、より強烈なインパクトをのこした作品に仕上がったのではないかと思うのである。

 1970年を小学生として過ごした人間にとっては、きわめて面白い「物語世界」であった。





<関連サイト>

『20世紀少年』(ビッグコミックスピリッツ ギャラリー)


<ブログ内関連記事>

「精神の空洞化」をすでに予言していた三島由紀夫について、つれづれなる私の個人的な感想
・・1970年は大阪万博に始まり、三島由紀夫の割腹自決に終わった一年であった。



 
  

2010年11月27日土曜日

枯葉 Les feuilles mortes




 フランス語のシャンソンで「枯葉」といえば、知らぬ人のいない名曲である。
 イヴ・モンタン、ジュリエット・グレコなど数知れぬシャンソン歌手が歌ってきただけでなく、米国ではジャズのスタンダード・ナンバーとしてもよく知られた名曲だ。

 ところで、フランス語では枯葉のことを les feuilles mortes という。直訳すれば「死んだ葉っぱ」(複数形)、確かに生物学的にみれば死んだから枯葉となって落ちているから、そのとおりである。
 しかし、日本語で「死葉」といえば病虫害などで死んだ葉っぱのこと、「病葉」(わくらば)といえば詩語ではあるが、必ずしも秋とは連想が結びつかない。

 一方、このシャンソンは米国では Autumn Leaves と訳された。これは直訳すれば「秋葉」、フランス語を直訳して dead leaves よりかはましだろうが、日本語の「枯葉」のニュアンスはどうしてもでてこない。むしろ、fallen leaves のほうがよいのでは? 日本語だと「落ち葉」か。


 明治時代の上田敏の訳詩集 『海潮音』は、高校時代の愛読書だったのだが、有名なヴェルレーヌの「秋の歌」は、日本語の名作として有名だ。

 秋の日の ヰ゛オロンの
 ためいきの ひたぶるに
 身にしみて うら悲し。

 鐘のおとに 胸ふたぎ
 色かへて 涙ぐむ
 過ぎし日の おもひでや。

 げにわれは うらぶれて
 ここかしこ さだめなく
 とび散らふ 落葉かな。


 上田敏が訳した「落葉」は、フランス語では feuilles mortes、同じ3音節であるが、「枯葉」にするか「落葉」にするか、詩語の選択はきわめて難しい。


Et je m'en vais
Au vent mauvais
 Qui m'emporte
Deçà, delà,
Pareil à la
 Feuille morte.

 上田敏の訳詩の場合は、定型詩で訳したうえで、「うらぶれて」と「落葉かな」を意味のうえで対応させている。「うらぶれて」は意味的には「落ちぶれて」と同じなので、「落ちる」というイメージを強調するために「落葉」という訳語を選択したのであろう。

 ヴェルレーヌの原文では、Qui m'emporte と Feuille morte. で韻を踏んでいる。このほか、vais、la でも韻を踏んでいる。上田敏の訳詩が、きわめて巧みな処理を行ってうえで、すぐれた日本語の詩になっていることがわかる。

 シャンソンのタイトルが「落葉」ではなく、「枯葉」となったのは、「かれは」(ka-re-ha)と k音 の響きに乾いたものが感じられるからだろう。「おちば」(o-chi-ba)だと濁音で終わるので、何かしらじとっと湿った語感がある。「濡れ落葉」という連想もなくはない。

 秋の落葉樹の枯葉は、乾いていて風に舞うような軽さがある、そういう存在でなくてはならないのだ。


 「枯葉」と「落葉」といえば、最後に一首。

金色(こんじき)の ちひさき鳥の形して 
 いてふ散るなり 夕陽の丘に

 與謝野晶子の歌である。倒置法をつかっている。


 つれづれと秋の日に「枯葉」と「落葉」についてつづってみた。





<関連サイト>

枯葉 Les feuilles mortes(ジュリエット・グレコ)
Les Feuilles Mortes - Juliette Greco

枯葉 Les feuilles mortes(イヴ・モンタン)
Les Feuilles Mortes_Yves Montand à l´Olympia



 
 

2010年11月26日金曜日

「精神の空洞化」をすでに予言していた三島由紀夫について、つれづれなる私の個人的な感想



 今年は三島由紀夫が割腹自決してから40年、第40回の「憂国忌」に参加したことは、このブログでもすででに書いた。その件については、「憂国忌」にはじめて参加してみた(2010年11月25日) を参照していただきたい。

 自分のなかで平成はすでに22年、自分の人生のなかではいまだ昭和が半分以上を占めており、その意味ではまごうことなき昭和人である。
 しかも、昭和天皇の崩御以来、時間が止まってしまているような感覚がなくもない。それ以来、私は元号を使うのをやめた。西暦のみ使っているので、聞かないと今年が平成何年にあたるかわからないくらいだ。この国では公文書はすべて元号を使用することになっているので、その都度聞いて確かめている。

 私がでた大学では「平成卒業生の会」なるものがあるが、昭和60年卒業の私にとっては、なんだか最初から門前払いされているような感じで、いささかもって不愉快でもある(笑)。

 こういう人間にとっては、当然のことながら三島由紀夫とは考えが異なっていて当然だろう。
 なんせ、大正15年、すなわち昭和元年生まれの三島由紀夫は、その人生は昭和そのものであったからだ。三島由紀夫が割腹自決した1970年は昭和45年。三島由紀夫は享年45歳であった。
 

1970年というのは当時小学校二年生にとって、どういう時代だったのか

 「三島事件」は、私が小学生の頃の出来事であった。当日の事件そのものについては、とくに記憶はない。「生首」写真が掲載されたという朝日新聞など取るはずのない家であったから(・・読売新聞であった)、事件のインパクトも映像記憶も、1970年11月25日のものはない。

 しかし、この事件は大きな話題になっていたことは間違いないことで、その当時通っていた歯医者の待合室で、転がっている三島由紀夫の「生首」写真が写っている週刊誌をみた記憶がある。
 その後、大学時代には、朝日新聞の縮刷版でその写真を確認した。現在では、「三島由紀夫 生首」で検索すれば、ネット上で簡単に画像を見出すことは可能だ。

 これは不確かな記憶だが、セップクごっこ、ハラキリごっこというのが学校で流行ったような記憶もある。もちろん真似するだけなので、ナイフを使うわけではない。定規を腹にあてて切る真似をするのである。
 子どもというものは、そういう形で大人世界を再現してみる存在だ。もちろん、政治的な意味や、思想的な意味などわかるはずもない。ただ、形を真似るのである。

 形を真似るといえば、なんといっても学生デモだろう。
 テレビではしょっちゅう、学生紛争のことをやっていたので、私は子どもの頃、大学というのはヘルメットかぶってデモをして、ゲバ棒で殴り合いするところだと思っていた。親が大学に行けとうるさくいっていたが、何のためにいくのかサッパリ意味がわからなかったものだ。
 
 1970年はなんといっても大阪万博の年でもある。
 国民歌手・三波春夫が着物姿で歌っていた「万博音頭」。正確にいうと「世界の国からこんにちは」

♪こんにちは~ こんにちは~ ・・・ 1970年のこんにちは

 「世界の国からこんにちは」は、YouTube でぜひ聞いてみてほしい。ほれぼれとするような歌いぶりだが、きわめてキッチュでチープな感覚は、表面的なものだけを見れば、三島由紀夫にも共通するものがああるように思う。

 その当時すでに両親とともに東京に移っていたが、関西に里帰りを兼ねて大阪万博にいったことは、子ども時代の良き思い出である。子どもにとって最大のアイドルはなんといっても太陽の塔、ここにいったのは私にとっては自慢の一つだ。アメリカ館では「月の石」も見た。

 よのなかすべてSF的で楽観的な未来図に充ち満ちていた。イラストレーターの真鍋博が描く世界。
 
 当然のことながら小学校二年生は、万博の世界の側にいて、三島由紀夫の世界の側にはいない。一般大衆もまた万博の世界の側にいた。
 1973年の石油ショック発生による狂乱物価になるまでは、明るい未来が無条件に信じられていた時代だ。 田中角栄の時代でもあった。

 そう、こういう一般大衆の欲望充足の世界を嫌っていたのだろう、三島由紀夫は。そしてその予見力の鋭さと深さは、40年後の現在あらためて驚かされるのである。


三島由紀夫の預言-「精神の空洞化」をすでに40年以上前に予言していた三島由紀夫

 小学校二年生はいうまでもなく、そんな時代の一般大衆が、三島由紀夫の以下のような発言を真正面から受け止めることが果たしてできただろうか。できるはずがないだろう。

 三島由紀夫は、1970年7月7日付けの「サンケイ新聞」(・・現在の産経新聞)の夕刊に、こういう文章を寄稿している。題して「果たし得てゐない約束-私の中の二十五年」

 私の中の二十五年間を考へると、その空虚に今更びつくりする。私はほとんど「生きた」とはいへない。鼻をつまみながら通りすぎたのだ。
 ・・(中略)・・
 私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら「日本」はなくなってしまふのではないかというふ感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代はりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目のない、或る経済大国が極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思ってゐる人たちと、私は口をきく氣にもなれなくなってゐるのである。


 「私の中の二十五年」とは、昭和20年(1945年)の敗戦から「戦後復興」を成し遂げて「高度成長」を謳歌していた25年間のことである。

 物質的成功のみに目がくらみ、精神的なものをことごとく捨て去っていった25年。

 「三島事件」からさらに25年たった1995年には「オウム事件」が発生した。このときはじめて多くの人たちが、バブルに狂奔し、バブル崩壊後の瓦礫状態のなかで、物質だけでなく、精神もまた枯れ果ててしまっていたことを。

 今年2010年は、「オウム事件」からさらに15年、「三島事件」からは40年、取り返しのつかない状況にあることが否定できないだけでなく、どうしたらいいかいまだに道が見いだせていない状態。

 「無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目のない、或る経済大国」。三島由紀夫が唾棄するがごとく言い放ったこのフレーズから、すでに「富裕な、抜け目のない、或る経済大国」すら消え去った。
 いま残っているのは「無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の」だけだ。

 かつては、自嘲気味に「経済一流、政治二流」などと多くの人がうそぶいていたものだが、現在では「経済二流、政治漂流」といわねばならない状態ですらある。

 三島由紀夫には、すべてがお見通しだったということだろう。


「英霊の聲」では、さらにより深い次元で現在を見通していた

 三島由紀夫が割腹自決したのは、まだまだ未来が信じられていた時代だ。1973年のオイルショックまでは、1980年代後半のバブル時代と同様、その当時の未来予測はまさにバラ色のものでった。

 先が見えすぎる三島由紀夫は、あえて時代に対して反時代的なスタンスをとったのか? 反時代的なスタンスということでは、万博で太陽の塔を作った岡本太郎もそうであったが、しかし・・・

 先に引いた「果たし得てゐない約束-私の中の二十五年」と並んで、といよりも、より深い次元で40年後の現在をすでに予言しているかのようなのが、『英霊の聲(こえ)』である。虚心坦懐に読み込んでみたい。
 
『英霊の聲』より

かけまくもあやにかしこき
すめらみことに伏して奏さく
今、四海必ずしも波穏やかならねど、
日の本のやまとの国は
鼓腹撃壌(こふくげきじよう)の世をば現じ
御仁徳の下(もと)、平和は世にみちみち
人ら泰平のゆるき微笑みに顔見交はし
利害は錯綜し、敵味方も相結び、
外国(とつくに)の金銭は人らを走らせ
もはや戦ひを欲せざる者は卑劣をも愛し、
邪なる戦のみ陰にはびこり
夫婦朋友も信ずる能(あた)はず
いつはりの人間主義をたつきの糧となし
偽善の団欒は世をおほひ
力は貶(へん)せられ、肉は蔑(なみ)され、
若人らは咽喉元(のどもと)をしめつけられつつ
怠惰と麻薬と闘争に
かつまた望みなき小志の道へ
羊のごとく歩みを揃へ、
快楽もその実を失ひ、信義もその力を喪ひ、
魂は悉く腐蝕せられ
年老ひたる者は卑しき自己肯定と保全をば、
道徳の名の下に天下にひろげ
真実はおほひかくされ、真情は病み、
道ゆく人の足は希望に躍ることかつてなく
なべてに痴呆の笑ひは浸潤し
魂の死は行人の額に透かし見られ、
よろこびも悲しみも須臾(しゆゆ)にして去り
清純は商(あきな)はれ、淫蕩は衰へ、
ただ金(かね)よ金よと思ひめぐらせば
人の値打は金よりも卑しくなりゆき、
世に背く者は背く者の流派に、
生(なま)かしこげの安住の宿りを営み、
世に時めく者は自己満足の
いぎたなき鼻孔をふくらませ、
ふたたび衰へたる美は天下を風靡し
陋劣(ろうれつ)なる真実のみ真実と呼ばれ、
車は繁殖し、愚かしき速度は魂を寸断し、
大ビルは建てども大義は崩壊し
その窓々は欲球不満の螢光燈に輝き渡り、
朝な朝な昇る日はスモッグに曇り
感情は鈍磨し、鋭角は摩滅し、
烈しきもの、雄々しき魂は地を払ふ。
血潮はことごとく汚れて平和に澱み
ほとばしる清き血潮は涸れ果てぬ。
天翔けるものは翼を折られ
不朽の栄光をば白蟻どもは嘲笑(あざわら)ふ。
かかる日に 
などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし


 鎮魂帰神の法によって、神主に憑依した、二二六事件で挫折した青年将校の霊が、神風特攻隊員の霊に語らせたものだ。帰神とは神がかりのこと。さて感想はどうだろうか?

 この一節を三島由紀夫自らが朗読した音声が YouTube にアップされているので、よかったらぜひ聴いてみてほしい。曇りなく澄んだ明晰な高めの清涼な声には、狂気の影はいっさいない。神がかりのコトバであるのに、祝詞の奏上といった雰囲気でないのがまったくもって不思議だ。

 「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし」という呪詛のフレーズが繰り返される。「すめろぎ」とは天皇のこと。聖アンセルムスの「クール・デウス・ホモ」(Cur Deus Homo: なぜ神は人となったか)というラテン語のもじりだが、神がかりのコトバに中世哲学者のコトバを援用するあたり、さすが西欧文明にも通じていた、ペダンティックな三島由紀夫だけのことはある。

 東大法学部卒で大蔵省の役人になったという三島由紀夫は、そもそも吉田松陰的なファナティックとは無縁な人であったことが、声からも聴き取ることができるのではないか。
 きわめてロジカル(論理的)でかつラショナル(理性的)な人間であったようだ。


三島由紀夫の割腹自決による「諫死」とイエス・キリストの「刑死」について考える

 三島由紀夫の割腹自決は「諫死」である、三島由紀夫と親しかった文芸評論家・村松剛がいったという。乃木大将夫妻の自決が「殉死」であれば、三島由紀夫の自決はまさに「諫死」である。主君の不正不義なる行いに対して、死をもって諫めるのが「諫死」である。

 さきに引いた「英霊の聲」で語った三島由紀夫の声、エレミヤやエゼキエルにように亡国の危険について繰り返し警告した旧約の預言者たちのようにも聞こえるが、その行為を取り上げれば旧約的というよりも、新約聖書のイエスキリストに近い。

 割腹自決と刑死という違いはあれど、その死が同時代の、そしてその後につづく時代の人々につきつけた意味は、量りなく大きいからだ。

 私は、大学時代に恩師の阿部謹也先生が、イエス・キリストの刑死について述べていたことを思い出した。

 イエス・キリストの死とは、お返しや見返りをいっさい拒否した一方的な贈与であると。

 互酬性の議論にからめて述べたものだが、つまり香典に対する香典返しというように、贈与に対して見返りを求めないということは、つまり円滑な人間関係を拒否する行為であると。
 イエス・キリストの死は、われわれに対して一方的に投げつけられた死であって、この死に対してはわれわれは永遠に罪の意識を追い続けなければならないのである、と。

 人類史におけるイエス・キリストの死と、日本史における三島由紀夫の死を同列に置くことは不謹慎であるといわれるかもしれない。私はキリスト教徒でもなく、三島由紀夫の信者でもない。 

 しかし、1970年以降にも生き続けている日本人にとって、三島由紀夫が書いたコトバ、語ったコトバ、そして割腹自決という行為そのものは、日本人には半永久的につき刺さったトゲとして消えることないのだろう。すでに「諫死」した三島由紀夫へのお返しのしようがないからだ。

 イエス・キリストを指さして「この人を見よ」(エッケ・ホモ:Ecce Homo)といったのは総督ピラトである。三島由紀夫について「この人を見よ」といったのは、本人自らである。三島由紀夫の場合は、いやが応でも見ざるをえないだろう。たとえ、あのバルコニーのシーン画像や映像をつうじてであっても、長く記憶に残る。



 もちろん、三島由紀夫自身が一体化したかったのは、自ら写真集 『薔薇刑』 のためにコスプレを演じたこともある聖セバスチャンであろう。しかし、古代ローマの「兵士」であった聖セバスチャンのように、戦陣で死ぬ事は不可能であったということである。

 ベトナム戦争の最前線に、米陸軍の従軍記者として取材に出て、九死に一生を得た経験をもつ開高健は、三島由紀夫が勇ましいことを言っている割には腰抜けではないかと皮肉っている。もちろん、これは割腹自決する前の発言である。
 ベトナム戦争の戦場でマシンガンの弾丸で蜂の巣になる死や、爆弾の炸裂でカラダがバラバラになったりする死は、三島由紀夫の美意識にかなうものではなかったということだろう。聖セバスチャンのように、全身に矢を貫かれて死ぬのはいいのだろうが。

 自らシナリオを書き、自ら監督・演出し、自らが主役として死を選んだのは、戦陣ではなく、平和日本の自衛隊基地のなかであった。

 しかし割腹後、楯の会の森田必勝の介錯がスムーズにいかずに、二度だけでなく三度も首を斬りつけられることにになったが、耐え抜いた三島由紀夫。このストイックで強靱な精神力は、すさまじいの一言に尽きる。

 最期は、「兵士」ではなく、文字通り「武士」として死んだのである。 


老醜を極度に嫌っていた三島由紀夫、しかしフツーの人であるわれわれは・・・

 三島由紀夫が割腹自決下のは45歳、私はすでにその歳を越えてしまった。三島由紀夫が極度に嫌っていた老醜への道を、私も今後は必然的に歩んでいかねばならない。私も、老醜は正直なところ好きではない。

 ただし、永遠の若さをとどめるために割腹自決する気など毛頭ないし、ましてやボディビルをやるつもりも毛頭ない(笑)。

 杉山隆男の『「兵士」になれなかった三島由紀夫』(小学館、2007)によれば、体験入隊した自衛隊では、ムリしてボディビルで作り上げた上半身とはあまりにもアンバランスであった、弱々しい貧弱な下半身について語られている。訓練が終わって風呂に入っているときに見た、三島由起夫の脚の細さを自衛隊関係者に観察されていたのである。

 また割腹自決の数日前に三島由紀夫とたまたま遭遇したという江藤淳は、三島の後ろ姿に老いを見たと書いているらしい。上半身の全面は鍛えることができたとしても、背筋が弱かったのだろうか?

 つまるところ、ボディビルによって人工的に作り上げた上半身の筋肉なのであって、若いときに走り込んだ経験がないためだろう。

 杉山隆男の本でこのエピソードを読んだとき、なんだか三島由紀夫が気の毒な感じがしたものである。肉体にコンプレックスを抱え続けた一人のインテリが、ムリにムリを重ねた結果だったのかと思うと。

 さて、私はといえば、現在55歳の郷ひろみにならって、肉体的にも精神的にもいつまでも若さを維持していきたいと思っている。方法論は私なりのアンチ・エイジングのやり方で。中身は内緒(笑)。

 もちろん、衰退していくことは、生物として生きている以上、避けることのできない運命である。うまい衰退の仕方によって、たとえ老いても醜くはなりたくないものである。



<関連サイト>

MISHIMA: A LIFE IN FOUR CHAPTERS (Paul Schrader, 1985) Trailer
・・緒形拳主演の幻の映画のトレーラー。日本では遺族が公開に反対したため未公開といわれている。緒形拳が少しマッチョすぎて三島由紀夫とは違うような気がするのだが・・・。その他の出演者は、沢田研二、永島敏行などけっこう豪華キャストである。

『憂国』("YUKOKU" by Yukio Mishima
・・三島由紀夫の原作・主演による『憂国』。二二六事件で生き残ってしまった青年将校の割腹。


<ブログ内関連記事>

「憂国忌」にはじめて参加してみた(2010年11月25日)

「行動とは忍耐である」(三島由紀夫)・・・社会人3年目に響いたコトバ

「やってみなはれ」 と 「みとくんなはれ」 -いまの日本人に必要なのはこの精神なのとちゃうか?
・・三島由紀夫の割腹自決の一年前の1969年に創業70年を迎えたサントリー、これを記念して開高健が執筆した「やってみなはれ」

書評 『ピカソ [ピカソ講義]』(岡本太郎/宗 左近、ちくま学芸文庫、2009 原著 1980)

書評 『日本人は爆発しなければならない-復刻増補 日本列島文化論-』(対話 岡本太郎・泉 靖一、ミュゼ、2000)
・・1970年という時代状況に、三島由紀夫より 14歳年上で、三島が影響を受けたフランスの思想家ジョルジュ・バタイユとはパリ時代に親友であった岡本太郎がいかなるスタンスで臨んでいたか。ともに芸術家として存在そのものがアートであった岡本太郎と三島由紀夫の二人を対比させてみるのも面白い。「反時代」としての姿勢は共通していたが・・・





            

2010年11月25日木曜日

「憂国忌」にはじめて参加してみた(2010年11月25日)




「憂国忌」にはじめて参加してみた

 今年の「憂国忌」は第40回目である。
 「憂国忌」とは三島由紀夫の霊を慰める追悼会のこと、私が参加するのは今回がまったくのはじめてだが、今年はなんだか節目の年であるような気がするので参加することとした次第だ。

 1970年11月25日、三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊でアジ演説を行ったうえで割腹自決、介錯人によって首を切り落とさせた事件から40年である。享年45歳。働き盛りの年齢である。生きていれば今年は85歳、老醜を嫌った三島由紀夫にはそんなことはありえないのだが、そう考えるとえらく昔の話のようである。
 1970年は昭和45年、大東亜戦争における敗戦から25年である。

 そして今年は、敗戦から65年。ある意味では節目の年であるといってよいだろう。
 時代の空気はすでに「戦後」から、あらたな「戦前」に変わりつつある。次の大きな戦争がいつになるのかはわからないが、それは侵略戦争ではなく、巻き込まれる形で応戦する形となるのではないか? 

 何ごとも自分の目で見て自分で判断したいものだと思う私は、今回生まれてはじめて「憂国忌」に参加することにした。



 会場は九段の靖國神社にも近い九段会館。かつての軍人会館そのものである。

 「憂国忌」のネーミングが取られた、三島由紀夫の『憂国』のテーマでもある二・二六事件の際には、三島由紀夫が自らをアイデンティファイしたかった叛乱軍の側ではなく、かれらを鎮圧する側に回った戒厳司令部が置かれた、いわくつきの昭和建築物である。

 なんとも皮肉なものであるが、主催者はどう考えているのだろうか。


■没後四十年 三島由紀夫氏追悼会「憂国忌」プログラム

 会場は4時だったようだ。私は4時半過ぎに 1,000円を払って入場。

 すでに座席はほとんど埋まっていたが、なんとか一階前方の席を確保。

 会場に流れる音楽は、三島由紀夫の原作・主演・監督による映画『憂国』でも使用された、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」から「愛の死」
 40歳台に入るまでワーグナーは好きではなかったが、とくにこの「トリスタンとイゾルデ」は、ユダヤ系のダニエル・バレンボイム指揮のオペラを鑑賞して以来、私は虜になってしまった。

 式次第について、当日もらった小冊子によって記しておこう。

没後四十年 三島由紀夫氏追悼会「憂国忌」プログラム
(総合司会 菅谷浩一郎)

午後5時 開会の辞
第一部  鎮魂祭・式次第
(15分休憩)
午後6時10分 第二部「シンポジウム」開始
午後8時15分 閉会の辞 
午後8時20分 「海ゆかば」 合唱

 先にも書いたように、「憂国忌」に参加したのは、今回が生まれて初めてである。

鎮魂祭

 魂鎮めの儀式は乃木神社によるもので、まことにもって厳粛な儀式であった。

第一部 鎮魂祭・式次第

(齋主 高山亨・乃木神社宮司 祭員 乃木神社神職、伶人 乃木雅楽会)

先 修祓の儀
次 招魂の儀
次 献饌の儀
次 祭主追悼文奉読(松本徹 三島由紀夫文学館館長)
次 辞世吟詠(横山精兵 岳精流宗家。 尺八 奥本林山)
次 玉串奉奠
次 撤饌の儀
次 昇魂の儀
次 退下

(出席発起人 最後に参加者全員起立)


 乃木神社はいうまでもなく、明治天皇崩御に際して殉死した乃木大将を祀る神社。三島由紀夫の霊を祀るにはふさわしいように思われる。
 昭和の三島由紀夫割腹自決による諫死は、大正初年度の乃木大将夫妻の自決による殉死に匹敵するインパクトをもった事件であることはいうまでもないからだ。

 しかし、学習院院長としての乃木大将から大いなる薫陶を受けたのが昭和天皇であり、一方、二・二六事件を鎮圧を命じ、敗戦後は人間宣言を行った昭和天皇を呪詛してやまなかったのは、同じく学習院出身の三島由紀夫である。学習院を優等で卒業した三島由紀夫は、昭和天皇から恩師の銀時計を手ずからいただいている。
 乃木大将を媒介にしたこの二者の関係は、きわめて複雑で一筋縄ではいかない関係にあるように思うのは私だけではないのではないか。

 この文章を書きながらこんなことを思ったが、いや考え過ぎかもしれない。


 三島由紀夫と森田必勝(上掲の写真左)の辞世の歌が吟詠された。森田必勝は「楯の会」幹部で、三島由紀夫を介錯し、その直後みずからも割腹自決した。

三島由紀夫辞世

益荒男(ますらお)が たばさも太刀の 鞘鳴りに
 幾とせ耐へて 今日の初霜

散るをいとふ 世にも人にも 先駆けて
 散るこそ花と 吹く小夜嵐

森田必勝辞世

今日にかけて かねて誓ひし 我が胸の
 思ひを知るは 野分(のわけ)のみかは


シンポジウム「あれから四十年、日本はどこまで堕落するのか」を傍聴しての正直な感想

 鎮魂祭が厳粛な内容であったのに対して、シンポジウムはやや違和感を感じる内容だった。

 「あれから四十年、日本はどこまで堕落するのか」というタイトルとはあまり関係のない話であった。
 シンポジウムのパネリストについて、プロフィールを調べて簡単にまとめておいた。生年月日をみれば、1970年11月25日の立ち位置を知ることができる。

シンポジウム 「あれから四十年、日本はどこまで堕落するのか」
パネリスト
 井尻千男:1938年山梨県生まれ。評論家。日本経済新聞社で文化部に勤務、編集委員を経て拓殖大学名誉教授。立教大学文学部日本文学科卒業。
 遠藤浩一:1958年石川県生まれ。評論家。拓殖大学大学院地方政治行政研究科教授、同日本文化研究所所長。駒澤大学法学部卒業。
 桶谷秀昭:1932年東京生まれ。文芸評論家。東洋大学文学部名誉教授。一橋大学社会学部卒業。
 西尾幹二:1935年東京生まれ。ドイツ文学者、評論家。電気通信大学名誉教授。東京大学文学部卒業。
(司会) 宮崎正弘


 まず発言があったのは井尻千男氏、日本経済新聞社でのコラムや雑誌『選択』で氏の書くものは読んでいたが、評論家というものは、どうも書くものとしゃべる内容が違うように感じる。

 井尻氏が言うように、三島由紀夫が「古今集に帰れ」といったかどうかは私は知らないが、国風を強調するあまり「攘夷」などという井尻氏の発想には、ビジネスマンである私は強い違和感を感じた。
 私も個人的には「万葉集」より、王朝文学の精粋である「古今和歌集」のほうが好きだが、とりたてて「攘夷」と結びつけようとは思わない。

 ただし、ややアジテーションに近い響きがあったが、「尖閣問題は百年戦争」という言明には賛成する。
 すでに新しい「冷戦」が東アジアで始まっているという言明にも賛成する。いや、「新・冷戦時代」というよりもすでに「熱戦」が始まっている。
 すでに「戦後」ではなく、次の戦争の「戦前」である、という言明が井尻氏には必要ではなかったのではと思う。すくなくともこの人は三島由紀夫の言う「文を守るための武」が、腹の底からわかっているように思われた。


 シンポジウム参加者4人のなかで、私がきわめて強い違和感を感じたのは、西尾幹二氏である。

 三島由紀夫が決起したのは、実は「外敵」を想定してのものだったのだというのが本日の西尾氏の結論だが、その「外敵」とは米国主導で核兵器をコントロールする「NPT体制」であったという。
 「外敵の存在がなければ、意識できず、保つこともできないような、日本というアイデンティティ」ということを言外に言っていることになるのだが、これはあまりにもひ弱すぎる発想ではないだろうか? 
 もちろん「外敵」の存在は、アイデンティティを再認識する機会にはなるが、そもそも外敵があろうがなかろうが、日本人としての確固たるアイデンティティをもつこと、これこそが必要なことではないか?
 
 核武装を主張する西尾氏の発言には、会場からは賛同者からの拍手が多かったが、私には、どうしても深く思索する「思想家」の発言とは思われなかった。この人は文学や文芸とは無縁であるだけでなく、社会科学的思考も持ち合わせないようだ、としか私には思われない。

 私には、西尾氏の発言は、三島由紀夫の「怒り」を矮小化するものとしか聞こえない。

 核武装についてはさておき、クーデタを肯定(?)するような発言をしていたが、デマゴーグの響きをプンプンとさせていた。軍服を脱いだ田母神元空幕長が何をどう主張しようがシビリアンである以上問題はないが、軍服を着た人間には絶対に許されない発言であったと私は考えている。

 また、三島由紀夫を論じるのに二葉亭四迷をもちだしていたが、意味不明な対比であった。私はこの人の書くものはほとんど読んでいないが、今回のシンポジウムの話を聞く限りにおいては、なにかしら次元の低い、思考が浅い人に思われてならなかった。

 「憂国忌」の代表発起人の一人であるが、西尾氏はパネリストのなかでは一人浮いていたように思う。ある意味では、他の三人のパネリストの引き立て役になっていたかもしれないが。


 桶谷秀明氏は、日本浪漫派の保田與重郎と三島由紀夫の関連と非関連について話をしていたが、「偉大なる敗北」について戦時中から語っていた保田與重郎が、文学者で保守思想をもつ文芸評論家であるのにかかわらず、戦時中の昭和19年、招集された件の話が興味深い。

 ロマン主義というのは、保守というよりも本質において革命家、この理解のほうが、三島由紀夫理解にも近いような気もしなくはない。

 NHKが大東亜戦争という表現を拒否して太平洋戦争に固執することも批判、これはまったくもってそのとおりであり異存はない。米国との戦争に限定すれば太平洋戦争でもいいが、日本が戦ったの総体はあくまでも大東亜戦争にほかならない。

 保田與重郎と同時代に生きた西田幾多郎との関係と非関係について語っていたことも記憶に残った。

 ちなみに桶谷氏は、大学の先輩にあたる人だ。
 『昭和精神史』『昭和精神史 戦後編』、この分厚い二冊の文庫本は読みたいと思いながら、残念ながらいまだに果たせていない。なお、『昭和精神史』については松岡正剛が「千夜千冊」で取り上げているので参考まで。


 おかしな人がいたから、よけいに際立っていたのだろうが、シンポジウムのパネリストのなかでは、私からみて一番納得のいく内容の話をしていたのは遠藤浩一氏であった。あくまでも相対的な評価ではあるが。
 私はこの人のことは、今日の今日までまったく知らなかったが、政治評論家のようだ。

 昭和33年(1958年)生まれで、私よりは4歳年上、ということは三島事件は小学校六年生で体験したことになるわけで、世代的にも、ものの考え方も、私とはそうかけ離れていないようだなと思われた。

 劇作家としても三島由紀夫とライバルの関係にあった評論家・福田恆存と対比させて三島由紀夫について論じていたが、今年上梓した本で詳細に書き込んでいるという。
 機会があれば、この人の書いた本や評論には目を通してみたいと思う。


 シンポジウムを聞いていてイライラが募ってきたが、なんだか「保守」というのが、正直なところ何をさしているのかサッパリわからない。
 たんなる守旧派とは違うだろう。まさか生活保守主義のことでもないし、左翼の対語としての保守か??
 国土防衛するのは、保守だろうとなかろうが、国家として、国民としての当然の義務であろう。私は自分のことをとくに保守派とは考えていない。
 これもまた、このシンポジウムで違和感を感じたことの一つだ。

 発起人として参加していたロマーノ・ヴルピッタ氏や古田博司氏の話を聞きたいものだと強く思った。
 ヴルピッタ氏は保田與重郎についての著書を日本語で書いている、古田氏はいうまでもなく、中国と朝鮮を研究し尽くして「別亜論」という結論に達した論客。

 ムリに意見をすりあわせる必要はないが、見解はてんでバラバラにように思われた。だがそれでいいのだろう、三島由紀夫自身が多面体ともいえる人であったから、一つの像に押し込めること自体が無意味な話である。

 以上、メモはいっさい取っていないので、記憶にのみ基づいて記した。あくまでも私というフィルターを通した、独断に満ちた見解であることは断るまでもない。


「海ゆかば」合唱

 最後に全員が起立して「海ゆかば」を合唱、「憂国忌」の式次第のすべてが終わる。

海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね)
山行かば 草生(くさむ)す屍(かばね)
大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ
顧(かへり)みはせじ

 大伴家持の長歌の一節である。美しい調べのこの歌は、私はとくに軍歌だとは思っていない。


「憂国忌」に参加してみての感想

 以上が、「憂国忌」に初めて参加した私の参加報告である。

 もしかすると「憂国忌」に参加するのは、今回が最初で最後かもしれない。いや、またいつか出席するかもしれないが、現時点ではなんともいいかねる。

 私は個人的には、このような形で集まるよりも、三島由紀夫がわれわれに向かって一方的に投げかけ続けているものを、一人の日本人として真摯に受け止め、反芻していくことのほうが重要だと思っている。
 つまり必要なのは深い思索である。考え続けることである。

 政治的なアジテーションの場として使う者がいるのであれば、「憂国忌」に参加する意味はない。私のような人間がいくべき「場」ではないのかもしれない。


三島由紀夫の「檄」に対して思うこと

 基本的に日本人が自分自身で日本を守るという姿勢と気概と見せることが大切だ。つまり「自主防衛」である。

 そうでなければ、たとえ同盟国といえども、米国が自分たちの血を流してまで日本と日本人を防衛することはあるまい。米国内の国民世論がそれを許さないだろう。
 
 この点においては、三島由紀夫の問いかけには、真っ正面から応える必要があると私は考える。
 
 守るべきものは何か、生命財産だけでなく文化である。文化を守るための武力、これは当然ではないか。これは三島由紀夫の「文化防衛論」での見解である。

 「自主憲法」制定には賛成だが、聞いていて不思議なのは、「自主憲法」をもちさえすれば、すべてがよい方向に変わると信じ切っているように聞こえることだ。

 重要なのは、憲法の中身だろう。

 私は、現行憲法の枠組みのなかで条文解釈で十分対応可能だと思うし、もし憲法改正するにしても、中身の議論を詰めるのが先決だろうと強く思う。

 1970年の「三島事件」は、それからちょうど25年後の1995年に、私と同世代の人間たちが起こした「オウム事件」と付き合わせると見えてくるものもある。

 「オウム真理教」の内部で、かれらにとっての「自主憲法」が作成されていたことを忘れるべきではない。これはもしかしたら三島由紀夫の「檄」に対する一つの解答であったのか? いやいや、しかしながら、そんなものが実現しなくて良かった。ほんとうに危ないところだったのだ。

 三島由紀夫が問いかけた問題は、書き出すと長くなるので、続きは別の機会に別の観点から書くこととしたい。




<付録>

ロマノ・ヴルピッタ氏による日本語著書『ムッソリーニ-一イタリア人の物語-』(中公叢書、2000)については、かなり以前に書評をbk1に投稿しているので再録しておこう。http://www.bk1.jp/webap/user/UpdReviewEvaluation.do

われわれには、いまだに「見えていないイタリア」があることを示してくれる本
サトケン
2001/03/28 22:06:00
評価 ( ★マーク )
★★★★

 ムッソリーニを独裁政治家としての後半生よりも、ファシスト党が政権を取るにいたるまでの前半生に重点をおいて描いた、戦後日本ではほぼ始めての本格的ムッソリーニ伝。思想家として、雄弁家として、政治家としてのムッソリーニ像はきわめて新鮮である。
 ファシスモ(ファシズム)にある種の「エラン・ヴィタール」(ベルグソンのいわゆる「跳躍する生」)を感じてきたイタリア人によるこのムッソリーニ伝は、統一国家となって以後の近代イタリア史についての、知られざる側面も伝えてくれる。現在のイタリアでいまだムッソリーニ人気が一部で衰えない理由もわかるような気がする。
 戦後の日本では、ネオリアリスモのイタリア映画を通じて、どちらかというと左翼的な、労働運動的なイタリア像がまずあり、これがバブル期にはイタ飯ブームによる「生活を楽しむ」イタリア人のイメージに変わっていったのだが、本書はわれわれにはいまだに「見えていないイタリア」があることを示してくれる点において貴重である。複眼的思考の重要さも教えてくれる本である。

 他に、『不敗の条件-保田與重郎と世界の思潮-』(ロマノ・ヴルピッタ、中公叢書、1995)がある。


<関連サイト>

映画『憂国』"YUKOKU" by Yukio Mishima
・・三島由紀夫の原作・主演による『憂国』。二二六事件で「生き残ってしまった」青年将校の割腹まで。

Yukio Mishima....Rare 1969 Interview In English
・・かなり流暢な英語で持論を展開している「知性の人」三島由紀夫。


<ブログ内関連記事>

「行動とは忍耐である」(三島由紀夫)・・・社会人3年目に響いたコトバ

書評 『日本文明圏の覚醒』(古田博司、筑摩書房、2010)

シビリアン・コントロールということ-オバマ大統領が政権批判したアフガン駐留の現地司令官を解任



                   


      

2010年11月24日水曜日

書評 『サラリーマン漫画の戦後史』(真実一郎、洋泉社新書y、2010)




その時代のマンガに自己投影して読める、読者一人一人にとっての「自分史」

 面白い。実に面白い本である。「自分史」のなかで一度でもサラリーマン(・・ここでは女子も含めておこう)をやった経験がある人なら、それぞれの時代に読んだマンガをつうじて、世代を問わずに自己投影しながら楽しめる本だ。だからいろんな読み方があっていい本だろう。

 個人的な話だが、私にかんしていえば、まさにバブル経済が始まったときにサラリーマン(・・当時の自意識としてはビジネスマン)としてキャリアを開始した人間なので、本書に取り上げられている『なぜか笑介』『気まぐれコンセプト』『ツルモク独身寮』『妻をめとらば』などなど、週刊コミック誌で愛読したマンガが懐かしい。
 私の世代の人間が、先行する世代のサラリーマン像には愛憎相半ばするイメージをもっていたことは確かだ。これが、本書で展開されるサラリーマン・マンガの原型を用意した、「(サラリーマン小説家の)源氏鶏太が高度成長期に確立させた、この「サラリーマン・ファンタジー」(著者の表現)である。
 もちろん、私の下の世代は、私の世代も含めて、先行する世代について異なる感想をもっているのは当然だろう。

 バブル期に全面展開された『課長島耕作』の世界が、まさに「源氏鶏太的世界」の変奏曲であるとすれば、バブル期の前の高度成長期はまさにサラリーマンが最大公約数であった「源氏鶏太的世界」そのもの、そしてバブル崩壊以降はサラリーマンとしての生き方も崩壊していった「ポスト源氏鶏太世界」は仕事本位の世界。
 読者が全盛期を高度成長期に過ごした人であれ、バブル期に過ごした人であれ、その後の長いデフレ時代をサラリーマン受難の時代として過ごしている人であれ、働くということが人生の重要な位置を占めている以上、それぞれの時代に、その時代の空気を反映しているマンガに自己投影するのは、不思議でもなんでもない。

 もちろん、このマンガが取り上げられていない(!)という不満はあって当然だろう。私も個人的には、『ナニワ金融道』『鉄人ガンマ』を取り上げてもらいたかったところだが、こういった作品は自分のアタマののなかで展開すべき応用問題としておけばよいだろう。読者それぞれに、こういった作品群があるはずだ。

 「サラリーマン」の生成と発展そして崩壊をマンガをとおして見た日本戦後史。実によくまとまった好著である。多くの人に薦めたい。



<初出情報>

■bk1書評「その時代のマンガに自己投影して読める、読者一人一人にとっての「自分史」」投稿掲載(2010年10月31日)
■amazon書評「その時代のマンガに自己投影して読める、読者一人一人にとっての「自分史」」投稿掲載(2010年10月31日)




目 次

第1章 島耕作ひとり勝ちのルーツを探る
第2章 高度経済成長とサラリーマン・ナイトメア
第3章 バブル景気の光と影
第4章 終わりの始まり
第5章 サラリーマン神話解体


著者プロフィール

真実一郎(しんじつ・いちろう)

神奈川県出身。慶應義塾大学文学部卒業。現役サラリーマン。広告から音楽、漫画、グラビアアイドルまで幅広く世相を観察するブログ「インサイター」を運営(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。



<書評への付記>

書評で取り上げたマンガ

 書評で取り上げたマンガについて若干のコメントをつけておく。

『なぜか笑介』(聖日出夫、小学館、1982~1991):五井物産(← 三井物産のもじり)
『気まぐれコンセプト』(ホイチョイプロダクション、小学館、1981~現在):白クマ広告社
『ツルモク独身寮』(窪之内英策、小学館、1988~1991):ツルモク家具(← カリモク家具のもじり)
『妻をめとらば』(柳沢きみお、小学館、1987~1990):(← 山一証券?
『課長島耕作』(弘兼憲史、講談社、1983~1992):初芝電気(←松下電器=パナソニック) 
『ナニワ金融道』(青木雄二、講談社、1990~1997):帝国金融(大阪のマチ金)
『鉄人ガンマ』(山本康人、講談社、1993~1995):スーパー「コーダ」


大企業に勤務するサラリーマンが個人名で本を出版するということ

 著者の真実一郎(しんじついちろう)というのは、おそらく真実一路(しんじついちろ)のもじりだろうが、現役でサラリーマンしながらものを書くというのは、なかなか難しいものがある。
 
 業務に直接関係するテーマであれば、社員の自己啓発活動を積極的に支援する会社であれば、著者の個人名を本名のまま出させることは厭わないだろうが、大半は個人名を出すのは認めず会社名として出させるのが通常だろう。

 名の通った大企業に勤務しているのであれば、その企業名自体がブランド力をもっているので、著者の個人名に対してはハロー効果をもつ。ハロー(hallow)とは仏像の後光のようなものである。
 だから、著者としては個人名でかつ本名で出版できれば、それにすぐるものはない。

 本書の場合は、著者がどの企業に勤務しているのか知らないが、おそらく安定した大企業の社員であろうと推測される。
 この場合は、あえて本名を出さないほうが、著者のプライバシーもある程度まで保護されし、会社からとやかくいわれることも少ないはずだ。

 ペンネームであれ、本名であれ、個人名で出版した本の「著者プロフィール」に、勤務する企業名が出る場合、書いた内容について何かトラブルが発生した際には、著者と出版社だけでなく、勤務先企業も批判の対象になることも多々ある。

 だから、本書の著者の場合も、ご想像におまかせしますという姿勢であろう。知っている人にはわかっている話だろうが。

 保守的な業界に属する保守的な会社は、業務に関連した内容の著書であっても、個人名をださせないことが多い。会社としてその内容に責任を取らざるを得ないことも多いからだ。これは企業防衛上の観点からは理解できることだ。

 また、個人名がでてそれが売れてしまった場合、その本人は激しい嫉妬の対象になることも多い。「あいつは仕事もたいしてしていないのに、いったい何で目立つことやってるんだ、と」。とくに「男の嫉妬」の怖さは、ネガティブな内容が間接的に表明されることが多いので、ヘビのようにいやらしい。

 むかし、金融系のコンサルティング会社に勤務していた頃、ある社員が個人名で出版した著者が、銀行の取引先の経営者の逆鱗に触れて大きなトラブルに発生したケースを、ごくごく身近で観察していたことがある。
 トラブルになった理由は、その当時の著者の上司が初動を誤ったためで、取引先のオーナー経営者の逆鱗に触れたというのは、実は側近たちによる勝手な憶測であったらしい。経営者としては、著書に書かれた内容が正しいのであればその理由も含めて論争したいということであったらしい。

 結局、書店に出ているものをすべて回収し、出版社には絶版を迫るという事態になった。
 週末に社員が総出で著書の回収作業に走り回り、書店から定価で買取ったのだが、その結果、出版社はガンとして絶版には応じなかった。初版を売り切れば儲けがでるからである。

 あれやこれやでもめにもめた結果、トラブルを適切に処理できなかった上司ともども、その著者は左遷されて干されることとなった。

 とんだ騒ぎであったが、社員が出版するということについては、この失敗事例から学ぶべきことは多い。あらかじめ最悪の事態が発生するかもしれないことは、管理部門がキチンと認識しておかねばならない。



<関連サイト>

インサイター ・・著者・真実一郎氏のサイト


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『取締役 島耕作』 全8巻を一気読み

働くということは人生にとってどういう意味を もつのか?-『働きマン』 ①~④(安野モヨコ、講談社、2004~2007)






   

2010年11月23日火曜日

働くということは人生にとってどういう意味を もつのか?-『働きマン』 ①~④(安野モヨコ、講談社、2004~2007)




 『働きマン』 ①~④(安野モヨコ、講談社、2004~2007)は、菅野美穂主演でテレビドラマ化もされたマンガだが(・・テレビドラマのほうは見ていない)、「働くということは人生にとってどういう意味をもつのか」という問いを考える人間には必読のマンガである。

 おそらく講談社(?)がモデルと思われる大手出版社の週刊誌部門に配属されて、大学卒業以来ずっと同じ部門で働いている主人公・松方弘子は編集者として、モーレツな仕事を続けている。

 女性だが、仕事に取りかかると「働きマン」モードになってしまう。「働きマン」とはこのマンガのタイトルそのものだが、いいかえれば「男モード」ということだろう。

 仕事の内容がマスコミであれ何であれ、働くということは、どうしても「男モード」に入ってゆかざるをえない・・これは女性にとって幸せなのか、そうではないのか。
 いや男性だって、仕事するときには「男モード」に入らざるをえないのはいうまでもない。男性が「男モード」に入るのは、必ずしも困難ではないが、これも程度問題だろう。

 「男モード」とは、生物としての男というよりも、ジェンダーとしての男のことをさしている。

 このマンガの舞台は大手出版社の一部門なので、おそらく中小の出版社とは共通する面もあるが、大きく異なる職場環境でもあるのだろう。
 大手出版社の一部門で働く主人公は恵まれているのか、はたして恵まれていないのか。

 読んでいて、自分の20歳台を思い出す。
 私自身は、出版業界などマスコミで働きたいと大学時代に思ったこともあるが、その道は結局選ばなかった。「昭和時代」末期(=昭和60年=1985年)に始まった私の職業人生の第一歩は、金融系のコンサルティング会社からであったが、仕事ぶりはこのマンガの主人公にそっくりで、まさにモーレツな仕事世界に取り込まれてしまった。

 結局、26歳で胃にポリープができていることが検査をはしごした結果判明した。入院はしなかったが、その直後に M.B.A. 留学のため米国にいったら、勉強はモーレツに厳しいが、いやな上司もつまらぬ同僚もいない天国のような世界、ポリープが悪化することなく現在まで生きているのは、そのおかげである。

 このマンガの主人公は、仕事に取り組む際には「働きマン」モードに入るが、あくまでも男性ではなく女性である。
 主人公が、30歳を前に疲弊し、消耗していくのを読むのは、読者としてもなんだか身につまされるのだ。
 
 このマンガには、「ワークライフバランス」なんて、かけらも存在しない。
 とはいえ、思うに 20歳台で仕事を覚える時期には「ワークライフバランス」なんて必要ないのではないか、という気もする。

 しかし、カラダこわしてまで働く意味があるのか?

 「いったい何のために働くのか」、「働くということは、人生にとってどういう意味をもつのか?」、そんなことを考えてしまうマンガである。

 現在にいたるまで、⑤以降は中断したままとなっている。作者も疲弊して燃え尽きてしまったのだろうか・・・?

 主人公は30歳までに編集長になるという密かな野望を胸にモーレツな日々を過ごしている。バーンアウトしてしまうまで働き続けるのは、夢が、目的があればこそなのだが・・・

 夢が実現しなかったとき、あるいは思いどおりに夢が実現してしまったとき、人はそこから先の「働く意味」を、どこにどうやって見つけてゆくのだろうか?

 夢が叶おうが叶うまいが、働かなければならないのが人間であるとすれば・・・








   

2010年11月22日月曜日

「雷龍の国ブータンに学ぶ」に「学ぶ」こと-第3回 日経GSRシンポジウム「GSR と Social Business 企業が動けば、世界が変わる」に参加して




 第3回 日経GSRシンポジウム「GSR と Social Business -企業が動けば、世界が変わる-」に出席してきた。

 シンポジウムで、「雷龍の国ブータンに学ぶ」というタイトルの基調講演(Key Note Speech)をされた西水美恵子さんをつうじて、日本経済新聞社から「ご招待」いただいたからである。

 まずシンポジウムの概要については、下記の案内文のとおりである。
 
==================================================
      第3回 日経GSRシンポジウム      
  (主催:日本経済新聞社、日本経済研究センター)
  
==================================================

 GSR とはGlobal Social Responsibilityの略で、企業の社会的責任(CSR)の延長線上にある概念です。
 環境や貧困など地球規模で解決を迫られている課題について、グローバル経営を展開する企業に何ができるかが問われています。
 今回のシンポジウムでは、GSRとは何かを改めて考えるとともに、今般、日本企業の間でも関心が高まっている 「ソーシャルビジネス」について、議論を深めていきます。

 【日 時】2010年11月22日(月)13:00-16:30(開場12:30)
 【会 場】日経ホール 
 【定 員】500名
 【プログラム】
 13:00-13:10 オープニングスピーチ
  ◇講師 竹中平蔵氏(GSR研究会主査、日本経済研究センター研究顧問、慶應義塾大学教授)
 13:10-13:50 基調講演
  ◇テーマ「雷龍の国ブータンに学ぶ」
  ◇講師  西水美恵子氏(元世界銀行副総裁、シンクタンク・ソフィアバンク シニア・パートナー)

 13:50-14:00 トークセッション
  ◇西水美恵子氏と竹中平蔵氏とのトークセッション(質疑応答)

 14:00-14:50 特別対談
  ◇講師 佐々木則夫氏(東芝 取締役 代表執行役社長)
   高巖氏(麗澤大学経済学部学部長・教授、京都大学大学院客員教授)
  ◇コーディネーター
   高橋秀明氏(慶應義塾大学大学院政策メディア研究科特別研究教授)

 14:50-15:00 休憩

 15:00-16:25 パネルディスカッション
  ◇テーマ「ソーシャルビジネスは社会的課題解決の切り札か―その可能性と限界」
  ◇パネリスト
   熊野英介氏(アミタホールディングス代表取締役会長兼社長)
   リチャード・ホール氏(ダノン エビアン ボルヴィック アジア パシフィック社長)
   新田幸弘氏(ファーストリテイリング CSR部長兼ファーストリテイリング UNIQLO Social Business Bangladesh CEO)
   山口絵理子氏(マザーハウス代表取締役 兼 デザイナー)
 16:25-16:30 全体総括
  新井淳一氏(GSR研究会会長、日本経済研究センター会長)

==================================================

 今回は「オープニングスピーチ」(竹中平蔵)、「基調講演」(西水美恵子)、「特別対談」まで会場で聴講した。

 そのあと「基調講演」を行った西水さんから、特別にお時間をいただいて、講師控え室で約一時間ばかり懇談させていただく機会をもった。

 実は今回の面会のは、西水さんから、11月に来日するので、講演会のあとにお茶でも飲みながらお話しましょうというオファーをいただいており、実現に至ったものである。


「雷龍の国ブータンに学ぶ」と題した「基調講演」から、経営者とビジネスパーソンがさらに「学ぶ」べきこと


 「雷龍の国ブータンに学ぶ」と題した「基調講演」では、世界銀行副総裁時代に出会って以来、毎年訪問されているブータンについてのお話であった。

 西水さん自身が講演のなかでおっしゃっていたが、ブータンに入れ込んでいる人のことをさして外務省あたりでは「ブタキチ」というそうだ(笑)。
 「ブタキチ」はブータン狂いのことだろうか、耳で聞くとファニーな響きがある。「豚吉」?・・いやいやこれではトンキチか。

 かつて「ビルキチ」とよばれていた老人たちがいたことを想起するが、「ビルキチ」とはビルマ狂いのこと、大東亜戦争中にビルマ戦線で投入された日本人兵士たちのビルマ愛をからかった表現である。

 西水さんの場合は、世界銀行退職後も、ブータンの前国王の強い要請で、毎年ブータンを訪れているそうだ。自分が仕事でかかわった国にはいっさい足を踏み入れないという原則の唯一の例外であるらしい。
 
 ブータンの話は、このブログでも紹介した『国をつくるという仕事』(西水美恵子、英治出版、2009)にも詳しく書かれているので、自分としては十分に知っているつもりであったが、あらためて講演という形で話を聞くと、いろいろ考えるものがある。
 目で活字を読んで知った話と、ライブで耳から聴く話は、たとえ同じ内容のものであっても、受け取る側ではまったく同じではないようだ。


ブータン前国王に学ぶ、トップに立つ人の「率先垂範型」リーダーシップスタイル

 17歳で即位以来34年間、ひたすら民の幸福を願って献身的に国民に奉仕されてきたブータンの前国王・雷龍王4世。国土のすみずみまで自らの足で歩いて行幸し、国民の生活を直接自分の目で見て、国民に直接語りかけ、そしてその声に耳を傾け続けた人である。

 まさに日本の製造業で徹底されている「三現主義」を地でゆくものだ。三現主義とは、現場・現物・現実。伝聞ではなく、自分で現場にいき、現物を見て、はじめて現実を知る。
 米国でも1980年代に「日本的経営」がブームであった頃、MBWA という経営スタイルが定着した。MBMA とは、Management By Walking Around の略、すなわち経営者自らが現場を歩き回って従業員と双方向の対話を行う経営スタイルのことである。

 ブータン前国王については、この点についてだけでも、爪の垢を煎じて飲まねばなるまい。

 しかも、国王でありながら率先垂範して質素な生活を送り、国王を頂点とした三角形のピラミッドではなく、国王を一番下にした逆ピラミッドでつねに考えていた人である。
 「さかさまリーダー」とよばれたリーダーシップスタイルは、キリスト教をベースにした米国のサーバント・リーダーシップ(servant leadership)と本質的に同じである。ただし、チベット仏教を国教とするブータンにおいては、神に奉仕するという考えはないので、前国王はどこからこういう哲学を養うにいたったのだろうか。おそらく自らの思索から導き出したリーダーシップスタイルなのであろう。

 これはまた、企業経営でいえば、「顧客中心主義」そのものである。国を率いるリーダーにとって奉仕すべき「顧客」とは、一人一人の国民のことだ。国民はまた国全体を企業だとすれば、「従業員」でもある。
 顧客満足(CS:Customer Satisfaction)を高めること、従業員満足(ES:Employee Satisfaction)を高めること、この二つは、現代のマネジメントにおいては、きわめて重要な事項となっている。
 

経済成長の目的と手段を取り違えるな!

 国民一人一人の幸せを追求するのが目的で、経済成長はそのための手段に過ぎない。これが有名な GNH、すなわち Gross National Happiness(国民総幸福)というフレーズに表現された前国王の開発哲学である。

 GNH とは、GNP(国民総生産)をもじった表現で、前国王が英語誌にインタビューされた際に、なにげなくクチにした表現が、英語でそのまま紹介されて広く知れ渡るようになったものだという。
 しかし、この GNH というコトバだけが一人歩きして、ブータンで実際に行われたことが何であるかまで想い及ぶ人はあまり多くないかもしれない。

 GNH はあくまでも定性的な指標であり、GNP や GDP のように定量的な経済指標ではない。むしろ、経済開発哲学の表現といってもいいだろう。なぜなら、いかなる状態をさして「幸福」と思うかは、国民一人一人によって異なるのが当たり前であり、幸福であるかどうかを判定する基準点(=レファレンス・ポイント)が個人個人によって異なるのは当然だからだ。したがって、これはもし指標であるとしても、きわめて相対的なものである。

 要は、経済成長そのものが目的ではなく、あくまでも手段に過ぎないということだ。

 現時点においては、ブータン国民の 97%(!)が自分を幸せだと感じているという。これは驚異的な数字である。
 生活レベルが向上し、経済的にも以前に比べると豊かになたという実感が、国民一人一人がもっているからであろう。当然のことながら、現時点の日本国民とブータン国民では、幸福でるかどうかを判断する基準点の高さと質が違いすぎるのでなんともいえない。

 敬虔なチベット仏教国であるブータンにおいては、もともと「知足」(足を知る)という考えが染みこんでいるのであろう。かつては日本人にも深く浸透していたこの考えが、現時点においてはブータン国民の幸福満足度として現れているのだろう。


リーダーシップはトップにだけ求められるものではない! 一人一人が自覚して自らがリーダーシップを発揮することが重要なのだ

 ただし、ここで注意しなければならないのは、ブータン国民が示す「幸せ」は、けっして上から与えられたものではない、ということだ。

 ブータン国民自らが、自分たちが住むコミュニティの生活水準を向上させるために考えに考え、知恵を絞りに絞り、その上で必要な援助を申請し、自分たちで生活向上という幸せを実現した結果なのである、という。 これは、講演のあと、西水さんと懇談している際にあらためて質問した際の答えである。
 
 ブータンの国土はその大半が、峻厳な山岳地帯の高地にある。自然条件の厳しさは、いいかえれば人間にとっての生活条件の厳しさである。日本も国土の7割が山岳地帯であるとはいえ、人間の居住地域は残り3割の平野部に限定されている。
 トラとゾウ、すなわち中国とインドに挟まれた小国という地政学上がもたらす危機感は、海に囲まれた島国である日本とは比較のしようもない。
 同じような地政学的な条件をもちながら、あっけなく王制が崩壊したネパールを考えて見れば、その危機感の強さは想像するに難くない。
 日本を基準にしてブータンを判断すると大きな勘違いになる。

 前国王は、西水さんが世界銀行副総裁の職を辞して挨拶回りで拝謁された際、こういうコトバを贈られたという。「リーダーに頼り切ってはいけない。国民一人一人の仕事なのだ」、と。
 すぐれたリーダーがいると、とかくそのリーダーに全面的に頼ってしまいがちなものだ。そういう甘えを断ちきり、国民一人一人に自分で考え自分で行動するためにリーダーシップを発揮してもらうことを求めて、自ら率先垂範してきたリーダーのコトバである。

 国民一人一人に、自分がリーダーシップを発揮しなくてはいけないのだという「意識改革」。これこそが、もっとも重要なことであるのだ。そしてもっとも時間がかるプロセスでもある。


中小企業経営者へのインプリケーション

 企業関係者が聴衆の大半を占めるということで、今回の講演では企業経営におけるリーダーシップのあり方にも言及されていたのは、大いに感じるものがあった。

 西水さんは、『日本でいちばん大切にしたい会社 』(坂本光司、あさ出版、2008)を引き合いに出して、中小企業の経営者こそ、日本を換えるためのリーダーシップを期待する旨を、静かにかつ情熱的に語られていた。

 従業員とその家族の幸福追求を最大目的とし、その実現のために企業成長を追求するという姿勢、これは、ブータンの GNH とまったく同じことなのだ。あくまでも人間を中心におき、人間を大事にしる経営。これが大事であり、これが実現できているのは、実は知られざる中小企業であることが多い。

 大企業経営者の多くが、ベンチャーやスモールビジネスの俊敏さがほしいと願っているのは重々理解しているようだが、そもそも大企業と中小企業とでは、規模という量的な違いだけでなく、経営の質的な意味合いがまったく異なるのである。
 大企業経営者はもとより、大企業に勤務するビジネスパーソンたちがどこまでその意味について理解していたかははなはだ不明だが、よくぞ言っていただいたという感をもつ。

 なぜなら、まさに私のフィールドにも直接かかわることだからだ。

 日本経済新聞社とその関連会社である日本経済研究センターが主宰するセミナーで中小企業を賞賛するというのは、実に素晴らしいことであった。
 もちろん日経グループの日経BP社からは『日経ベンチャー』という経済紙が出版されていたが(・・現在は『日経トップリーダー』に改題)、メインストリームは上場大企業の経営者とビジネスパーソンである。

 今回の講演会をキッカケに、中小企業にももっと目を向けてもらいたいものだと思う。


講演後の懇談で教えていただいたことなど

 先にも書いたが、「基調講演」を行った西水さんから、特別にお時間をいただいて、講師控え室で約一時間ばかり懇談させていただく機会をもった。

 講演のなかでも触れられた、日本の中小企業におけるリーダーシップとマネジメントの重要性について意見が一致したことなど、経済から経営、政治にいたるまで、さまざまな話題で、実のある対話をさせていただいた。

 最後に、今回の講演テーマである「ブータン」にかんして、気になっていたことを質問させていただいたのでここに紹介しておきたい。

 現在の国王・雷龍王五世は2006年即位されたが、これは前国王の雷龍王四世が、突然退位を宣言され実行に移されたことによる。
 私は、この譲位は「自分の目の黒いうち」に息子に継がせることによって、自分は「後見人」として新国王を見守っていくためなのだろうと思っていたのだが、西水さんによれば「後見人」ではなく、あくまでも "sounding board" に徹しておられるのだそうだ。

 リーダー、とくに一国のトップである国王は、企業経営者以上に孤独な存在である。トップリーダーの孤独を癒すために前国王は現国王の話しは聞くが、アドバイスはいっさいしないとのことだ。アドバイザーではなく、メンターに近いといっていいのかもしれない。
 
 退位にあたって前国王は、重臣などの側近もすべていっせいに退職させて、まったく新しい体制で新国王を出発させたそそうだ。そのため、前国王の側近が新国王の消息を直接聞くことができないらしい。
 ここまで徹底したガバナンスを行っているのである。

 これまた、トップリーダーの事業継承にあたっては、爪の垢でも煎じて飲まねばならないのである。

 前国王は、自らを律するにあまりにも厳しいようにも思われるが、「権力は腐敗する。絶対権力は絶対に腐敗する」という、英国の有名なフレーズを肝に銘じておられるのだろう。

 中小オーナー経営では、かならず出てくる事業承継という課題。
 もちろん王国における王位継承とは異なる点もあるが、本質的には同じものだといってよい。

 ブータン前国王をそっくりそのまま真似ることはきわめて難しいが、こういう人がいまこの世の中にいるのだということは、知っておかねばならないことである。
 

終わりに

 そもそもは、今回のセミナーへの出席は、私がこのブログに書いた「書評」に、著者の西水さんから直接メールでお便りをいただいたことから始まった一連の流れのなかにある。

 オフラインで実際にお会いしたのは実は今回が初めてなのだが、お互いに初対面という感じがしなかったのは、この間に何度かやりとりがあっただけでなく、私も西水さんが書かれた文章もウェブで読んでいたことだけでなく、私が書いたものも読んでもらっていたこともあるようだ。

 ブログに限らず、自分の考えを文章の形で発表しておくことがいかに重要か、あらためて感じている次第だ。

 私は経済学徒ではないが、社会科学を学んだ人間として、大学時代から経済学者アルフレッド・マーシャルの 「Cool head, but Warm heart」 を信条として生きてきた。
 その意味でも、また「組織変革とリーダーシップ」にかかわる同志(・・と勝手に思っている)として、また私のメンター(・・と勝手に思っている)として、今後も西水さんには、ご指導ご鞭撻いただければと思っている。

 私自身はブータンにはまだ一度もいってないが、ぜひ行きたいと思っている。ただし、『資本主義はなぜ自壊したのか-「日本」再生への提言-』(集英社、2008)で悔い改めた元市場原理主義者・中谷巌のような手放しのブータン礼賛には、すこし引いてしまうものを感じる。中谷氏はブータンとキューバを反資本主義として同列に置いているからだ。

 私としては、自分の足で歩いて、自分の目と耳と五感のすべてを使って、ブータンを感じ取りたいと思う。

 チベット仏教世界は、チベットもラダックも訪れているので、残っている主要な国はブータンとモンゴルである。
 一度でもブータンにいったら、絶対に「ブタキチ」になってしまうことだろう。
 それまた楽しからずや、だ。


 本日はたいへん有意義な一日となった。


<関連サイト>

ヒマラヤへの投資誘致を目指すブータン(WSJ ウォールストリートジャーナル日本版 2010年11月24日)
・・民主化の負の側面が出始めたのかもしれない。急ぎすぎる経済優先主義が「ネパール化」を招く危険も。乱開発される前にブータンに行っておいたほうがよさそうだ。ブータンは前国王の強い主導のもとに民主化を実現したが、「衆愚政治」に陥らないという保証はない。日本の轍を踏んで欲しくないものである。ブータンにとっては、まさにこれからが正念場であろう。

ブータン公務員だより(日経ビジネスオンライン)
お金は「幸せの国」の大切な一要素です-「国民総幸福度」はGDPの対立概念にあらず(2011年6月16日)
・・ブータン政府のGross National Happiness Commissionに首相フェローとして勤めている日本人女性による記事。前国王が示したMVV(ミッション・ビジョン・バリュー)を端的に表現したGNH(国民総幸福度)。等身大のブータンを描いて、MVVがブータン国民にどう浸透しているか、ブータン国民がどう捉えているかがわかります。

「幸せとは何か」ブータン王国レポート(上)
「幸せとは何か」ブータン王国レポート(中)
「幸せとは何か」ブータン王国レポート(下)
・・経済ジャーナリストの磯山友幸氏によるブータン訪問記。2011年3月11日からの訪問。連載は『現代ビジネス』(講談社のサイト)



<ブログ内関連記事>

西水美恵子さん関連

書評 『国をつくるという仕事』(西水美恵子、英治出版、2009)

「組織変革」について-『国をつくるという仕事』の著者・西水美恵子さんよりフィードバックいただきました


アジア発の経済開発にかんする実践哲学思想

シンポジウム:「BOPビジネスに向けた企業戦略と官民連携 “Creating a World without Poverty” 」に参加してきた・・ムハマド・ユヌス博士(バングラデシュ)

アマルティア・セン教授の講演と緒方貞子さんとの対談 「新たな100年に向けて、人間と世界経済、そして日本の使命を考える。」(日立創業100周年記念講演)にいってきた・・アマルティヤ・セン博士(インド)

『Sufficiency Economy: A New Philosophy in the Global World』(足を知る経済)は資本主義のオルタナティブか?-資本主義のオルタナティブ (2)・・タイ王国のラーマ九世プーミポン国王による「セタキット・ポーピアン」


中小企業の事業承継について

書評 『跡取り娘の経営学 (NB online books)』(白河桃子、日経BP社、2008)

書評 『ホッピーで HAPPY ! -ヤンチャ娘が跡取り社長になるまで-』(石渡美奈、文春文庫、2010 単行本初版 2007)





            

2010年11月21日日曜日

書評 『企画書は一行』(野地秩嘉、光文社新書、2006)




人を動かすのが究極的な目的である、企画書の本質を語った本

 企画書は短ければ短いほうがいい。エッセンスはたった一行、たった一言なのだ、という内容の本だ。
 このタイトルは実に上手い。思わず買ってしまうタイトルだ。

 もちろん、一行で済ませることができる企画書はそう多くはないし、そしてそういうある種の名人芸が許されるのも、企画の達人のみである。

 著者がいいたいのは、核心のエッセンスは一行に集約されるし、その凝縮された一行に企画した人間の想いが込められていれば、自分を含めて人を動かすことができるということだ。想いというと抽象的だが、発言した人間の人生が投影されたコトバは、人の心に刺さるのである。映像として聞く者の脳裏にくっきりと描かれるのである。

 本書は、ビジネスパーソンを中心とした18人のインタビュー記録を紹介しながら、人を動かすのが究極的な目的である企画書の本質について語っている。

 単なる技術論ではない、仕事人としての人生論にもなっている。


<初出情報>

■bk1書評「大企業でもベンチャーでもない、中小企業の現実を描いた三代目女性跡取りによる経営者修行の記録」投稿掲載(2010年5月21日)
■amazon書評「大企業でもベンチャーでもない、中小企業の現実を描いた三代目女性跡取りによる経営者修行の記録」投稿掲載(2010年5月21日)





目 次

はじめに
 1. 放送作家:小山薫堂
第一章 現場から生まれた一行
 2. トヨタ自動車副会長:張富士夫
 3. 東京・恵比寿「たこ」店主:柳瀬俊之
第二章 ヒット商品の一行
 4. キリンビール 新商品開発グループ・チームリーダー:和田徹
 5. サントリー 健康食品事業部:斎藤由香
 6. シャープ 電化商品開発センター第二開発室長:井上隆
 7. ナムコ フードテーマパーク・プロデューサー:池澤守
 8. アイエス社長:伊藤喜久雄
第三章 組織を動かす一行
 9. JFAキャプテン:川淵三郎
 10. 救急ヘリ病院ネットワーク理事長:國松孝次
 11. 湯布院・玉の湯社長:桑野和泉
第四章 人生を書いた一行
 12. マネックス証券社長:松本大
 13. ル・マンジュ・トゥ オーナーシェフ:谷昇
 14. GMO会長兼社長:熊谷正寿
 15. E.A.U.代表:林安二
第五章 ブランドを創る一行
 16. 旭山動物園園長:小菅正夫
 17. シー・アイ・エー代表:シー・ユー・チェン
終章 映像が浮かぶ一行
 18. タグボート代表:岡康道
おわりに


著者プロフィール

野地秩嘉(のぢ・つねよし)

1957年、東京都生まれ。早稲田大学商学部卒業。出版社勤務、美術プロデューサーなどを経て、現在、ノンフィクション作家。食や美術、海外文化評論、及び人物ルポルタージュなど、幅広い分野で執筆活動を続けている(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。



<ブログ内関連記事>

本の紹介 『「空気読み」企画術-「消費者の隠れたニーズ」を見つけ出す-』(跡部 徹、日本実業出版社、2010)の紹介

書評 『スイス探訪-したたかなスイス人のしなやかな生き方-』(國松孝次、角川文庫、2006 単行本初版 2003)・・警察長官を務めた國松氏はスイス大使を経て、救急ヘリ病院ネットワーク理事長に。自分の想いを形にした人が書いた唯一の本。





 

    

2010年11月20日土曜日

「やってみなはれ」 と 「みとくんなはれ」 -いまの日本人に必要なのはこの精神なのとちゃうか?




「やってみなはれ」精神

 サントリーの創業者・鳥井信治郎の口癖であり、サントリーという会社を創業以来貫いてきた精神としてよく知られている、と思う。

 「やってみなはれ」とは大阪弁で、挑戦を促すエンカレッジのコトバである。 
 ナイキ(Nike)の「Just do it !」と意味は同じである。ただニュアンスがじ若干違うように思う
 標準語の「やってみなさい」と意味としては同じだが、これまたニュアンスが異なる。

 「やってみなはれ」という大阪弁は、表現だけ取り上げてみたら、なんだか柔らく、暖かい感じがするのは不思議なことだ。
 パラフレーズすれば、「(あんた、そんなにやりたいなら、別に止めやしないから)、やったらええやろ。(そのかわり、成功するも失敗するも、あんた次第やで)」といったところか。( )のなかはクチには出せねど暗黙のうちに語っているコノテーションである。

 ちなみに、「やってみいや」とか「やってみんかい」という表現もあるが、「やってみなはれ」とはかなり違う。まったくもって品のない表現だ。「やってみなはれ」が自助努力を促しているのに対して、「やってみいや」「やってみんかい」は、相手ができないはずだという前提を暗黙に語っている挑発的な表現である。

 そもそも、話しコトバと書きコトバが大きく異なるのは、日本語だけでなく英語でも、どの言語でも同じであるが、東京弁をベースにした書きコトバが、大阪弁を含む話しコトバとしての関西弁とニュアンスの面でかなり差異があるのは当然といえば当然である。

 「やってみなはれ」については、大阪出身の開高健は自分も在籍していたサントリーの70周年記念社史として執筆された「やってみなはれ」のなかでこのように書いている。

細心に細心をかさね、起こり得るいっさいの事態を想像しておけ。しかし、さいごには踏み切れ。賭けろ。賭けるなら大きく賭けろ。賭けたらひるむな。徹底的に食い下がってはなすな。鳥井信治郎の慣用句 "やってみなはれ" にはそういうひびきがあった。八十三年の生涯にもっともしばしば彼が使った日本語はこれである。

『やってみなはれ みとくんなはれ』(山口瞳・開高健、新潮文庫、2003)P.162より引用)

 大阪人・開高健による誇張に満ち満ちた表現であるが、「やってみなはれ」の説明としては、これ以上ないほど詳細で懇切丁寧なものだといっていいだろう。

 「やってみなはれ」が意味するところは、やるのはまったく構わないが、自己責任でやりなさいということだ。あくまでも上位者が下位者に向かって、そのやらんとする企てを容認する表現である。

 だからこそ、「やってみなはれ」に対しては、「みとくんなはれ」が対(つい)表現になるわけだ。
 「みとくんなはれ」とは、標準語でいえば、「見ていてくださいよ、かならずやり遂げますから!」という意味である。


いまから25年前、「就活」まっただ中の私が知った「やってみなはれ」

 「やってみなはれ」というコトバを初めて知ったのは、いまから25年前の就職活動中のことだ。下宿に送られてきたサントリーの就職案内パンフレットに書いてあったと記憶する。
 就職活動中の大学生は、いわゆる企業研究を始めるわけだが、その時以来記憶に残っているのが、サントリーの「やってみなはれ精神」であった。

 その当時の就職活動は、現在とは違い、大学4年生に入ってからであった。いまからは考えられない、のんびりとした(?)と思いきや、「就職協定」というものがあって10月1日までは活動してはいけないといわれていたのにかかわらず、実質的には10月1日でほぼすべての活動が終わっていた。つまり短期集中の一気勝負だったのだ。

 私は9月末まで就職戦線においては「連戦連敗」で、就職が決まらずにバタバタと右往左往していたが、チャッカリ組は夏休み中には内定をもらって、他社に引き抜かれないように高級ホテルやリゾートに「拘束」されていたらしい。
 私はそういう経験はまったくもたずに終わってしまったので、「バブル世代」とは一緒くたにはされたくない(笑)。

 大学4年にはすでに単位はほとんど取ってしまっていたので、卒論研究を中心にしながら、単位を前提にしないで、他学部のものも含めて、いろんな講義を聴講聴講していた。

 「市場開発論」という講義があって、商学部の友人に誘われて出席してみることとした。私が在籍していた一橋大学というのは、学部はあっても学部間の壁はそれほど高くなかったので、こういうつまみ食いも十分い可能であった。
 「市場開発論」は、当時サントリー監査役を務めていた大学 OB が講師を務めていた授業で、立ち見がでるほどの盛況であった。大学教師ではなく、現役の企業人によるナマの話が実に面白かっただけでなく、当時は(・・いまでもそうだが)サントリーの人気は実に高かったのである。サントリーに就職を希望する学生にとては、絶対に参加して顔を売るいい機会になっていただろう。
 一方で、大学キャンパスには「産学協同絶対反対」などというプラカードがあったのも、いまから考えるとまったく不思議な気もする。

 当時1980年代半ばは、松田聖子の歌う「Sweet Memory」とペンギンがでてくるサントリーCANビールの CM が爆発的な人気があった。講師のサントリー監査役の方も、ペンギンのノベルティを授業にもってきたりしていたような記憶がある。

 私はこの授業で、毛澤東の「実践論」やボストン・コンサルティング・グループ(BCG)が開発したポートフォッリオ分析のマトリックスを初めて知った。いま風にいえばフレームワークの一つである。
 まさか、経営コンサルタントになるなどとは考えもしなかったが、大学卒業後いきなりコンサルティング・ファームに入った際にはすでにBCGマトリックスのなんたるかは知っていたことになったので、人生においてムダなことはまったくないとあらためて実感もする。


サントリーはビール事業に新規参入してから、なんと45年目(!)にしてはじめて黒字化の悲願を達成した

 当時は、ビール市場はキリンビールが圧倒的なシェアをもっていたのであり、このい状態を指して「ガリバー型寡占」と表現していた。ガリバーとは『ガリバー旅行記』のガリバーのことだ。こんなことを思い出したのも、当時の耳学問のおかげである。

 サントリーは宣伝広告はうまいので消費者には受け入れられているように思われていながら、実は1980年代半ば時点でもビール事業は赤字であった。
 「健全なる赤字部門」をもつことが重要なんだぜ、と商学部にいた友人がいっていたが、サントリーにとってのビール事業は、そんなキレイ事ではなかっただろう。第二創業の柱として、社内で危機感をもたせるという意味もあったのだろうが、しんどい話だったのではないだろうか。

 サントリーのビール事業が黒字化したのは、なんと一昨年の2008年のことである。
 二代目社長の佐治敬三が1963年に、創業者で父親の鳥井信治郎から「やってみなはれ」といわれてから、なんと45年(!)かかって悲願を達成したことになる。悲願達成は、創業者の孫である三代目社長の佐治信忠になってから、実に息の長い話である。
 
 大企業とはいえ、非上場のオーナー企業であるからこそ、経営にはいっさいのブレがなく、悲願達成できた、といっていいのではないだろうか。めげず、くじけず、へこたれず、あきらめない。
 サントリーの社員ではない私も、なんだか自分のことのようでうれしく思ったものである。


「サントリー文化圏」は関東にも存在していたが少数派であった

 そもそも関西出身の両親のもとに育った私は、幼少のみぎりに関東に移住してからも、ものごころついた時からずっと、もしこういう表現が可能なら「サントリー文化圏」のなかにいたのである。
 
 家庭内言語が関西弁であるだけでなく、食生活を始めとして関西文化圏の飛び地のような家庭であった。在米の日系二世のようなものだったのかもしれない。

 ウイスキーは、ニッカではなく、サントリーのダルマ。
 ビールも、キリンでもサッポロでもアサヒでもなく、サントリーの純生(じゅんなま)。

 子どもは当然のことながら酒は飲まないが、そういう家であった。銘柄の選択を除けば、1960年代から1970年代の日本人家庭は、多かれ少なかれ似たようなものだったのではないだろうか。
 とはいえ、関東ではサントリーは実はマイノリティであったということは、大人になってから知った。気がつかなかったのは不思議である。

 サントリー関連のノベルティ・グッズや印刷物などが家にあった。
 柳原良平のイラストをもとにした、バイキング姿のトリスオジサンの爪楊枝立てが食卓にはあったことを覚えている。このほかかにも多々あったように思う。

 開高健は小説は読んだことがなくても、そういった印刷物に掲載されていた文章は読んでいた。

 「人間」らしく
 やりたいな

 トリスを飲んで
 「人間」らしく
 やりたいな

 「人間」なんだからな

 開高健によるこのコピーを読んだのは、もちろん大人になってからだが、いまここに書き記しながらも、なんだかじ~んとくる名コピーである。


サントリー70周年社史を文庫化した『やってみなはれ みとくんなはれ』(新潮文庫)

 冒頭に掲載した文庫の表紙イラストにでてくるのはサントリーウイスキーのダルマ、正式にはサントリー・オールドという。トリスではなくオールド。オールド・パーではなく、サントリー・オールド。

 いまから考えると隔世の感だが、ジョニ黒とジョニ赤が幅をきかせていた時代、その後は円高で並行輸入も行われるようになって、ジョニーウォーカーの価値はまったくなくなってしまった。タイ王国ではいまだにジョニーウォーカーが幅をきかせているので不思議な感覚をもつ。

 近年また「ハイボール」なる飲み方が流行っているが、『やってみなはれ みとくんなはれ』(新潮文庫)にも「ハイボール」の話は何度もでてくる。サントリーが洋酒のサントリーとして認知されていたころの話である。

 『やってみなはれ みとくんなはれ』(新潮文庫)は、サントリー70周年社史として1969年に出版されたものをカーブアウトして文庫化したものである。以下の二編が収録されている。

 「青雲の志について-小説・鳥井信治郎-」(山口瞳)
 「やってみなはれ-サントリーの七十年・戦後編-」(開高健)

 本書の原版が出版された 1969年はサントリー創業70年の年である。この年は、大阪万博の一年前であり、また三島由紀夫割腹自殺の1年前の年にあたる。

 山口瞳と開高健の個性は正反対。1926年東京生まれの直木賞作家・山口瞳と、1930年大阪生まれの芥川賞作家・開高健とでは、生まれも育ちも、小説家としての趣味趣向も文体もまるで異なる。
 開高健にさきにサントリー(当時は寿屋)の宣伝部にいたのだが、芥川賞受賞で忙しくなったので、編集部員補充のためにあとから入ったのが山口瞳だということだ。山口瞳はのちに直木賞を受賞している。

 頻発するダジャレに、誇張にみちた表現、豊富なボキャブラリーに、饒舌な文体。私は個人的にこの開高健の文体が好きなのだが、人によってはもちろん趣味が異なるであろう。
 山口瞳のユーモアがありながらも端正な文体とは大いに異なる。

 この二編を読むと、サントリーという会社が、創業以来つねにベンチャー精神をもってきた会社だということがよくわかる。
 その根本精神に、創業者の「やってみなはれ」というコトバと事業家精神があった。
 しかも、創業者は「陰徳は陽報なり」というコトバのもと、神仏の信仰がきわめて篤い慈善家でもあった。フィランソロピーなどというコトバが導入される以前の慈善家である。このタイプの慈善家は欧米では当然であるが、大企業から非上場のオーナー企業が少なくなってからは主流ではなくなってしまったように思われるのは残念なことだ。
 サントリー美術館やサントリーホールなど、文化への貢献もきわめて大きい。その意味においては、キリンとの合併が破談になったことは、個人的にはうれしく思う。企業文化が根本的に違うからだ。

 いまでも関西の中堅中小企業には、このタイプのオーナー企業経営者が多いように思う。


 ところで、トヨタやホンダ、最近はパっとしないのが残念なソニーだけが、日本を代表する製造業ではない。

 宣伝広告のうまさで世に知られるサントリーではあるが、ブランドの基本はいうまでもなく製品の品質そのものである。研究開発型製造業としてのサントリーにおける、製造業とマーケティング・コミュニケーションの関係についても考えてみるのもいい。 

 たまには、大阪発の酒類食品製造業サントリーの草創期と戦後復興期の物語を読んでみることも必要ではないのかと思う。
 破天荒、はちゃめちゃ、熱い熱気・・・。草創期を過ぎてもこれだけ熱気に満ちた会社も珍しい。もちろん、サントリー内部の人間ではないので、真相は知るよしはないが、文庫版に「その後の「やってみなはれ」」を書いている "窓際OL" 斎藤由香ではないが、「おもろい会社」であることは現在でも代わって異な事と思いたい。

 「第二の敗戦」といわれたバブル後のデフレ時代、たしかにハイパーインフレ時代とは時代の空気がまったく違うが、要は心も持ち方次第ではないか?

 これこれをやりたいと、部下が情熱を込めて訴えきたら「やってみなはれ」といいたくはないかな?
 もちろんその際には、即座に「みとくんなはれ」という答えを期待したいものだ。








                            

2010年11月19日金曜日

書評 『ホッピーで HAPPY ! -ヤンチャ娘が跡取り社長になるまで-』(石渡美奈、文春文庫、2010 単行本初版 2007)




大企業でもベンチャーでもない、中小企業の現実を描いた三代目女性跡取りによる経営者修行の記録

 この本の著者であるホッピーミーナこと石渡美奈副社長、今年2010年の3月に、文庫版の出版と同時に三代目社長に就任したようだ。
 文庫化された機会に、タイトルが単行本出版時の『社長が変われば会社は変わる!』から、『ホッピーで HAPPY!ーヤンチャ娘が跡取り社長になるまで-』と改題したしたことで、ビジネス書のワクを出て一般書に衣替えすることとなった。

 ゼロから立ち上げるベンチャーばかりが話題になるが、実際には中小企業の後継者として奮闘している若手社長が多いのが現実だ。しかも男性だけでなく、女性も少なからずいることは、『跡取り娘の経営学』(白川桃子、日経BP社、2008)で紹介されているとおりである。ホッピーミーナも、この本の第1章「産業再生跡取り娘」の冒頭に取り上げられている。

 この本は、中小企業の社長の一人娘である「お嬢」の半生記であり、また著者自身の経営者修行記であり、そして危機状況にあった会社のなかに入って企業を変身させ、立て直した経営改革の記録でもある。
 社長イコール会社である中小企業においては、なによりも社長自身を売っていくことが重要だ。その意味においては、この本自体が社長のセルフ・ブランディングとなっている。

 また、限られた経営資源のなかで、最大のパフォーマンスを出していかなければならない中小企業の現実を描いた本でもある。ヒト・モノ・カネの経営資源のうち、従業員とのコミュニケーションについては、この本のなかでは失敗体験もつつみ隠さずさらけだし、いかにして会社としての一体感ができあがったかを語っている。その意味では、中小企業経営の生きた事例となっているといえよう。自社製品であるホッピーについては、自らが伝道師として、あますことなく語っている。

 子どもの頃から文章を書くことが好きで、親の会社に入社してから自分のウェブサイトに毎日書いた日記がキッカケとなって会社の宣伝塔になっていったほどの著者のことである、この本は実に面白く、また読ませる内容の本になっている。ホッピーについては、私自身も認識をあらたにさせられた。

 先にも触れたように、限られた経営資源のもと、著者はけっして身の丈知らずの全国展開はせず、東京圏を中心とした展開にとどめている。このため、ホッピーの知名度は、この地域以外では必ずしも高くないだろうが、こういう熱い情熱をもった若手の経営者が実業の世界にいるということを、ビジネス界以外の人も、もっともっと知るべきだろう。

 大企業やベンチャーだけが日本を支えているわけではないのだから。


<初出情報>

■bk1書評「大企業でもベンチャーでもない、中小企業の現実を描いた三代目女性跡取りによる経営者修行の記録」投稿掲載(2010年4月4日)
■amazon書評「大企業でもベンチャーでもない、中小企業の現実を描いた三代目女性跡取りによる経営者修行の記録」投稿掲載(2010年4月4日)

*再録にあたって一部の字句を修正。

なお、この文庫版(2010年刊)は、『社長が変われば会社は変わる!-ホッピー三代目、跡取り娘の体当たり経営改革-』(石渡美奈、阪急コミュニケーションズ、2007)を改題したもの。





目 次

プロローグ 私は空飛ぶ看板娘
第1章 「経営の師匠」との出会い
第2章 嵐吹き荒れる「維新」前夜
第3章 「ホッピー」誕生物語
第4章 跡取り娘の履歴書
第5章 ホッピーの力
第6章 ミーナの新・経営改革
エピローグ 西暦2010年創業100年に向けて


著者プロフィール

石渡美奈(いしわたり・みな)

1968年東京生まれ。1990年立教大学卒業後、大手食品メーカーに入社。1993年に退社。その後広告代理店でのアルバイトを経て、祖父が創業した会社、ホッピービバレッジ(旧コクカ飲料)に97年に入社。広報宣伝を担当。2003年5月から副社長、2010年3月に社長就任(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)



<関連サイト>

ホッピー・ビバレッジ株式会社 公式サイト
・・ちなみに私は大学時代は東京圏にいたのでホッピーを飲んでいたが、社会人になってからはほとんど飲んでいない。それほど好きというわけではないからだ。ホッピーは痛風の原因となるプリン体がゼロなのでカラダにはいいといわれている。焼酎をホッピーで割って飲むのが通常のスタイルである


<ブログ内関連記事>

書評 『跡取り娘の経営学 (NB online books)』(白河桃子、日経BP社、2008)・・ホッピー・ビバレッジ株式会社・石渡美奈社長が副社長時代に登場している
         
書評 『仕事ができる人の心得』(小山昇、阪急コミュニケーションズ、2001)・・本書の主人公が「経営の師匠」と仰ぐ小山昇の著書



            
         

2010年11月18日木曜日

書評 『跡取り娘の経営学 (NB online books)』(白河桃子、日経BP社、2008)




「跡取り娘」たちが背負う日本の中小企業の未来。彼女たちから元気をもらいたい

 日本全国の法人数は、国税庁のデータによれば約280万社、法人の数だけ社長がいると考えれば、そのうちの約1割を占めるのが女性経営者である。

 女性経営者のなかには、最近よく脚光を浴びているベンチャーの創業経営者もいるが、その多くはスモールビジネスの所有者であろう。また、配偶者の死によって事業を継いだオーナー経営者の未亡人や、父親の後を継いで経営者になったものもいる。本書に取り上げられた「跡取り娘」とは、この最後のタイプのことだ。

 人口減少傾向にともなう国内マーケットの縮小は、日本国内で事業活動を行う企業には等しくかかわってくる事業環境に大変化だが、とくに少子化の影響が大きく影響しているのが中小オーナー企業経営である。
 端的にいえば、後継者問題がネックになって廃業する中小企業が後を絶たないのだ。跡取り息子がいない、息子たちがいても事業を継ぎたくない、社内にも後継者が見つからない。こういった声はかつてから存在してきたが、このところ急速に顕在化してきている。

 そこに登場してきたのが本書でその一部が紹介された「跡取り娘」たちなのだ。娘たち自身が、中小オーナー企業の跡取りとして経営にあたっている。
 江戸時代以来、日本の商家では、息子がいてもあえて事業を継がせずに、娘婿をとって事業継承させることが行われてきた。しかしここでいう「跡取り娘」は、従来からある娘婿による跡取りではなく、経営者でもある父親の背中を見て育った娘たち自身が、跡取りとして、「看板」(ブランド)を背負い始めということだ。
 たとえ配偶者がいても、経営者として事業継承したのはあくまでも「跡取り娘」であって婿殿ではない。事業家の娘たちによる、新しい時代の中小オーナー企業経営の波が現れてきたのかもしれない。

 本書に取り上げられた「跡取り娘」たちは以下のとおりだ。目次に沿って掲載しておこう。肩書きは出版当時のもの(敬称略)。

第1章 産業再生跡取り娘
 ●ホッピービバレッジ 取締役副社長 石渡美奈(飲料製造販売)
 ●日本電鍍工業 代表取締役 伊藤麻美(金属メッキ加工)
 ●黄木コーポレーション 代表取締役 黄木綾子(老舗和風旅館)
第2章 跡取り娘のしなやか仕事術
 ●曙 代表取締役社長 細野佳代(和菓子製造販売)
 ●浅野屋 代表取締役社長 浅野まき(パン製造販売)
第3章 伝統文化の守り手として
 ●かめびし 常務取締役 岡田香佳苗(粉末醤油製造販売)
 ●清香園 盆栽家 山田香織(盆栽業)
 ●伊勢由 常務取締役 千谷美恵(呉服屋)
第4章 職人ニッポンの跡取り娘
 ●(株)タナカ シェフパティシエ 田中千尋(カフェ)
 ●京都・丹山酒造 清酒製造部 長谷川渚(酒造業)
 ●亀岡商会 常務取締役 亀岡幸子(ビル経営)
 ●伊藤ウロコ 専務取締役 伊藤嘉奈子(業務用長靴専門店)

 娘が後を継ぐというのは、意外というかやはりというか、オーナー経営者である父親にとっても、実はなかなかそう簡単にすんなりと決められるものではないようだ。ほんとうは継いで欲しいのだが、可愛い娘には苦労させたくないし、女性としての幸せも掴んで欲しい、そういった複雑な親心を知ってか知らずか、自分が継がなければ誰が守っていくのかという心意気に燃えた娘たちが後を継いでいるというわけなのだ。なかには、成功しているキャリアを捨ててまで家業を継いだ娘たちもいる。

 本書で紹介された12人のインタビューを行った著者が、最後に7項目にわたって「跡取り娘力」をまとめているので紹介しておこう。「バブル力」、「わがまま力」、「コミュニケーション力」、「「ムダ」力」、「姉妹力、婿取り力」、「よそ者力」、「「品格」美人力」。
 ここに見られるのは、仕事と遊びをつうじて家業以外の世界を幅広く知っている視野の広さや、経営者にとっては不可欠なコミュニケーション能力など、「跡取り娘」たちが、知らず知らずのうちに身につけていたチカラが、経営を継承するにあたっても大きく働いていることだ。

 日本ブランド再生の担い手でもある「跡取り娘」たち。ぜひ一読して、彼女たちから少しでも元気をもらいたいものだ。


<初出情報>

■bk1書評「「跡取り娘」たちが背負う日本の中小企業の未来。彼女たちから元気をもらいたい」投稿掲載(2010年11月17日)
■amazon書評「「跡取り娘」たちが背負う日本の中小企業の未来。彼女たちから元気をもらいたい」投稿掲載(2010年11月17日)




著者プロフィール

白河桃子(しらかわ・とうこ)

東京生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。少子化ジャーナリスト&ライター。『AERA』『日経ビジネスアソシエ』『プレジデント』、ほか女性誌に未婚、晩婚、少子化や恋愛、女性インタビュー等の記事を執筆。「丸の内OLのための少子化講座」主宰(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)



<書評への付記>

 目を日本から転じて東南アジアをみれば、華僑華人系のビジネスでは、娘が事業の全てあるいは一部を継ぐことはけっして珍しいことではない。

 たとえば、今年(2010年)8月に放映された NHKスペシャル「灼熱アジア 第1回 タイ“脱日入亜”日本企業の試練」でも大々的に取り上げられたサミットグループ、番組では登場場面は少なかったが、会長のソンポーン氏は創業経営者の未亡人だが、経営手腕を存分に発揮してタイでも有数の製造メーカーに育てあげた。
 また、タイ最大の富豪は象印のビール、ビア・チャーンを製造販売するタイ・ビヴァレッジの社長であるが、その娘は現在、グループの資産管理会社の社長を務めている

 これは、台湾でも香港でもシンガポールでも、タイでもマレーシアでも華人世界では当たり前となっている。

 また、欧米のビジネス界でも、男性雑誌のプレイボーイは創業社長の娘が継ぎ、国際的メディアグループでもマードックの娘が継ぐ可能性が高いといわれている。

 要は、能力があれば男女に関係なく後継者に指名するということだ。この点にかんしては、成功している起業家は実にシビアな選択を行っているというべきだろう。

 この点においては、日本はまだまだ発展途上国だ。だが、見方によっては、今後も「跡取り娘」が増えていくものと期待もされるわけであり、大いに期待したいものである。

 本書は「NBオンライン」での連載をまとめて一冊にしたもので、私は連載中から読んでいた。本書自体も出版されてすぐに読んだが、出版から2年後の現在にあえて紹介するのは、その価値があるからである。


<関連サイト>

「跡取り娘」の経営戦略・・本書のもとになった、「NBオンライン」の連載。NB とは日経ビジネスの略






            

2010年11月17日水曜日

書評 『仕事で成長したい5%の日本人へ』(今北純一、新潮新書、2010)




「仕事をつうじて成長すること」、これは残り95%の人にとっても重要なことだ

 著者は20歳台で日本を飛び出し、欧州企業を舞台に30年以上にわたって、個人として生き抜いてきたビジネスマンである。

 『仕事で成長したい 5%の日本人へ』とは、実に挑戦的なタイトルではないか。「仕事で成長したい 5%の日本人」に向けて語っているということは、極端な話、「残り95%の日本人」には用はないということだ。

 だが、「仕事をつうじて人間的に成長すること」、これはすべての働く人にとって重要なことではないだろうか。そう思ったら、この本は読むべきだ。その時点で読者は間違いなく 5%に入っているのである。

 本書で、著者は心得をいくつかの短いコトバに集約している。「自分の仕事の「相場観」を持つ」、「評論家ではなく実践家になる」、「他人を手本にはしても、憧れは抱かない」。「成長願望と上昇志向を混同しない」、「対決から逃げない」・・・。

 自分がもっとも好きなこと、自分に向いていること、自分をよりドライブできること、つまりもっともパッションを感じることのできる分野に集中すればいいのだ。
 他人と比較するのではない、あくまでも自分に軸をおいて、自分の人生を生きることが重要なのだ。あくまでも自分の五感に忠実であること、自分の人生は自分でマネージすることが重要なのだ。

 これは「対決社会」の欧州でもまれてきた著者の信念だが、これからの時代の日本人にも不可欠な心得だろう。自分の成長は志向しても、とくに組織内の上昇と混同しないこと。

 著者自身、20歳台前半にはミッションとビジョンとパッションの対象を見つけることができなくて、悩みに悩んでいたと本書のなかで語っている。著者のように、とにかく一歩踏み出すこと、そこからすべてが始まる。大いに悩み、もがき、対決する。こういうプロセスをへて初めて自分を発見することができるのだ。

 私は、著者の処女作 『欧米対決社会のビジネス』(新潮社、1988)以来のファンだ。20歳台の前半で初めて著者の本を読んでから、かれこれ20年以上の読者だが、著者の軌跡を手本にはしてきたが憧れは抱いたことはない。首尾一貫して変わらぬミッションとビジョンとパッション、本書ではそれから20年近いビジネス体験を経て、さらに強く響くコトバとして語られている。

 とくに20歳台から30歳台の、意欲ある若いビジネスパーソンたちにこの本を薦めたい。



<初出情報>

■bk1書評「「仕事をつうじて成長すること」、これは残り95%の人にとっても重要なことだ」投稿掲載(2010年11月12日)
■amazon書評「「仕事をつうじて成長すること」、これは残り95%の人にとっても重要なことだ」投稿掲載(2010年11月12日)





目 次

ステップ1. 自分の仕事の「相場観」を持つ
ステップ2. 評論家ではなく実践家になる
ステップ3. 他人を手本にはしても、憧れは抱かない
ステップ4. 成長願望と上昇志向を混同しない
ステップ5. 対決から逃げない
ステップ6. 夢とパッションとコミュニケーション
ステップ7. 仕事を究めた先にあるもの


著者プロフィール

今北純一(いまきた・じゅんいち)

1946年生まれ。東京大学工学部応用物理学科卒、同大学院化学工学科修士課程修了。新卒で旭硝子に入社した後、英オックスフォード大学、スイス・バッテル研究所、仏ルノー公団、エア・リキード社を経て、現在、コンサルティング会社 CVAパートナー(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)



<ブログ内関連記事>

書評 『マイ・ビジネス・ノート』(今北純一、文春文庫、2009)
・・この記事では、本書の著者である今北純一について、私の読書体験とからめて、やや詳細に書いておいたのでぜひ参照していただきたい。





           

2010年11月16日火曜日

書評 『仕事ができる人の心得』(小山昇、阪急コミュニケーションズ、2001)




空理空論がいっさいない、著者の実践から生まれた「実践経営語録」

 自社の社員向けに作られた「経営用語解説」を、著者自ら編集したものだという。

 著者は現役の中小企業オーナー経営者、中小企業の経営者教育の分野でも有名な実践派である。いわば「小山昇経営語録」を、辞書のように「あいうえお順」に並べ替えたものだ。
 ただ、タイトルはもっと工夫したほうが、さらに多くの人が手にとるのではないか、とも思う。おそらく研修用テキストだから、書店で手にとって購入する人はそう多くないからかもしれない。

 この本を、もし私が新入社員の頃に上司や経営者から読めといわれても、「読んでも意味がよくわからないし、あまり面白くない本だ」と思って、うち捨てたままにしておいただろう。20歳台のビジネスパーソンにとっては、この本は「自己啓発本」ではないかもしれない。地味な装丁で、内容も地味な小型の本で、これといったキャッチがいっさいないからだ。
 ビジネスマンになってからすでに25年、中小企業の経営にも携わった経験をもつ私からみれば、「当たり前のことが当たり前にかいてある」と思いながらも、「いや、これだけ含蓄のある、しかもストレートなコトバを吐ける社長って、なかなかいないんじゃないか?」とも思うのである。
 「当たり前のことを当たり前にやる」ことの難しさと、しかもそれを実行したときにあらわれるスゴイ効果については、私自身も自分のビジネス上の実体験からも断言できる。

 実は、この本の存在はまったく知らなかたのだが、最初のページから最後のページまで、すべて通読してみて思ったのは、「しまった、もっと早く知っていれば、自社内の社員研修に使えたのに・・・」という後悔とも、賞賛ともつかない思いだった。
 何気ないコトバは著者の体験から生み出されてものばかりであり、読んでいてハッとしたり、ギクっとすることも多い。机上の空論がいっさいない、すべて著者の実践から生まれたコトバばかりである。一つ一つナルホドとうなづきながら読んでいたら、けっこう時間がかかってしまった。

 この本は、オーナー経営者自身が、日頃なにを思っているかを、エッセンスをすべてさらけだした本であり、また経営者自身が自らを戒める本でもある。
 そして、著者自身が「正しい使用法」として推奨しているように、社内研修で使用すべきテキストである。仕事経験の短い若者には、かつての私ではないが、おそらく読んでもピンとこないだろうし、一人でひそかに読んで効果がでてくるような内容の本でもない。
 コトバの意味を、浅い深いはあろうが、それぞれの仕事上の具体的な経験、シチュエーションに会わせて、複数の人間のあいだで読み合わせていくことが、一番の近道であるはずだ。

 もちろん自分用に一冊手元において、折に触れパラパラとめくったページにでてきたコトバをじっくり読んでみることも大きな効果がある。かならずや、「気づき」と「自戒」の思いを抱くはずだろう。そしてその地道な一歩一歩の積み重ねの結果、「仕事ができる人」になっていくのである。
 「仕事ができる人」は成長しつづける人のことでもある。あくまでも仕事をつうじてPDCAのサイクルをまわしていくことだ。このC(=チェック)において、この本が役にたつことだろう。

 「仕事ができる人」になりたい人は、どの年齢層の、どの階層の人でも、かならず一冊手元においておきたい本だ。とくに中堅中小のオーナー企業に勤務する人にとっては必携だろう。
 これで一冊で1,000円(+消費税)とは驚きの価格設定だ。それだけ中身の濃い本である。


<初出情報>

■bk1書評「空理空論がいっさいない、著者の実践から生まれた「経営語録」」投稿掲載(2010年4月20日)
■amazon書評「空理空論がいっさいない、著者の実践から生まれた「経営語録」」投稿掲載(2010年4月20日)

*再録にあたって一部加筆修正。




著者プロフィール

小山昇(こやま・のぼる)

1948年、山梨県出身。株式会社武蔵野代表取締役社長。情報ツールを活用した独自の経営革命によって飛躍的な業績向上を実現、経営者・管理職を中心に注目を集めている。1999年「日本メッセージング協議会会長賞」、2000年「経営品質賞」受賞。『強い会社をつくりなさい』(阪急コミュニケーションズ、2006)、『社長儲けたいなら数字はココを見なくっちゃ!』(すばる舎、2007)など著書多数。







            

2010年11月15日月曜日

秋が深まり「どんぐり」の季節に





 秋が深まり、どんぐりの季節に。

♪どんぐり ころころ どんぶりこ・・・お池にはまって さあたいへん

 「どんぐりの背比べ」という表現があるように、規格品のように同じ形で同じ大きさのどんぐりは堅い殻をもったナッツである。英語では acorn という。エイコーンと発音する。
 この季節には、まさに「どんぐりの雨」ともいう表現が適切なほど、大量のどんぐりが落下して、地面にばらまかれている。

 はじめて米国にいって、とにかく驚いて、うれしく思ったのは、いたるところにリスがいることだった。公園でもキャンパスでもリスは実にありふれた存在だ。だが、米国と違って、日本では野生リスを目にすることがほとんどない。どんぐりを両手でもって食べているリスを目にすることがないのは残念だ。

 どんぐりを食べるのはリスだけではない。クマもどんぐりが大好物だ。リスもクマも秋にどんぐりをたっぷり食べてから冬眠に入る。今年2010年はどんぐりが不作なので、クマがなかなか冬眠に入らず人里に現れては問題を起こしているといわれている。どんぐりの不作だけが原因ではないようだが。



 温帯に属する日本や米国、それに欧州と、熱帯や亜熱帯に属する東南アジアとは植生(フローラ)が違うから当然といえば当然だともう。だが一方、コーヒーやカシューナッツ、マカデミアナッツなどのナッツ類は、ベトナムやラオス、またタイやミャンマーなど東南アジアでも、高地では栽培されているから、私が気づいていないだけで、どんぐりは存在するのだろう。

 子どもの頃は、よくどんぐりを大量に拾ってきて保管していたものだが、しばらく時間がたつとかならず固い殻を破ってなにかの幼虫(・・うじ虫?)が這い出てくる。日本にはどんぐりを食べるリスはいなくても、どんぐりに卵を産み付ける虫がいて幼虫が中身を食べるから、どんぐりは生態系の食物連鎖のなかでは、けっしてムダな存在ではないのだろう。


 そういえば、『ドングリと文明』という本があったなと思いだして本棚から取り出してみた。正式なタイトルは、『ドングリと文明-偉大な木が創った1万5000年の人類史-』(ウィリアム・ブライアント・ローガン、岸 由二=監修、山下篤子訳、日経BP、2008)である。

 この本は、食糧としてのどんぐりと、木材としてのオーク材について、これが人類史においていかに大きな意味をもってきたかを、主に西洋を中心に描いたものである。
 木材としてのオーク材は、バイキング船やウィスキーやワインの樽製造に使用されてきた。

 この本によれば、「どんぐり文化」(balanoculture)という表現で、小麦栽培以前はどんぐりが主食として、人類の生存を支えてきたことを仮説として提示している。実際に、どんぐりは現在でも韓国や地中海の北アフリカでは粉にひいたものを食糧として利用しているようだ。
 あく抜きしてから粉に引いたものは、味は無味乾燥だが、著者が実際に食べてみたところ、ものすごく腹持ちがいいようだ。リスだけでなく、人間もまたこのどんぐりのおかげで餓えを免れていたのである。

 ところで、どんぐりがなるのはオーク(oak)であるが、大きく分けて二種類ある。落葉樹のほうは楢(なら)、常緑樹のほうは樫(かし)と区分している。ちなみにここにあげた写真のどんぐりは、常緑樹の樫(かし)のものである。
 この本に収められた「オーク分布図」をみると、インドは入っていないが、タイからシンガポール、インドネシアまで入っているので、やはり、どんぐりは東南アジアでもあるのだろう。

 残念なことに、この本はケルト以来の西洋文明を中心に語っており、どんぐりを食べていた縄文時代の日本人(・・というより日本という国はなかった頃だから縄文人)の話がちょとしか出てこない。
 西洋文明における小麦に該当するものとしてのコメがあるが、縄文時代の遺跡からどんぐりが出土する話はよく耳にする。弥生人が大陸や半島から稲作をもたらす以前には、日本もまた「どんぐり文化」であったのだ。
 
 「五穀断ち」という修行があるが、基本的に木の実や草の根だけを食べると修行である。ミイラ仏になるための前段階として、米や麦などの五穀を断って、木食(もくじき)に徹する修行である。カラダの内部から脂肪分を抜いていくために、木の実を中心にした食生活であるが、、ミイラ仏が多数作られた東北地方は、縄文文化が濃厚に残っている地域なので、ある意味では不思議ではないのかもしれない。

 一方、スペインには、どんぐりだけを食べさせて育てたイベリコ豚がある。この本を読むと、どんぐりが腹持ちのする栄養ある食物であることを知ることができるので、なるほどと納得させられるのであった。どんぐりを主食としないわれわれも、イベリコ豚をつうじて、間接的にどんぐりを食べていることになる。

 どんぐりの一粒一粒じたいは、何の変哲もない木の実であるが、そこに秘められたパワーと歴史を知ると、穀物栽培以前の人類史について、さらに知りたいという気持ちにさせられるのである。





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2010年11月14日日曜日

「一橋大学 昭和60年会(昭和56年入学)卒業25周年記念大会」(2010年11月13日)に出席





 昨日(2010年11月13日)、「一橋大学昭和60年会(昭和56年入学)卒業25周年記念大会」に出席してきた。

 昭和60年(1985年)の大学卒業からすでに25年、つまり四半世紀である。quater-century である。

 会場は如水会館スターホール、時間は 18:00から2時間。如水会館という、自前の「OB会」の組織と建物をもっている点は、卒業生の大きな誇りである。
 慶應義塾には、規模の点でははるかに及ばないが、卒業生の数が圧倒的に違うためだから仕方がない。
 一橋大学は、現在でも学部は一学年1,000人程度、わたしが卒業した25年前は800人程度だったと記憶している。「数はチカラなり」という点ではパワーではないかもしれないが、少数精鋭だとは思いたい。

 しかしなんといっても、「OB会」(・・といっても最近では女子比率が高いのでこの表現は適切ではないのだが・・)の名称「如水会」が、日本資本主義の生みの親である澁澤栄一翁の命名によるというのがうれしいものだ。

 「如水」(じょすい)といえば、日本の戦国時代の軍師・黒田如水が一般には想起されるだろうが、出典は中国の古典『荘子』の一節であるという。

君子の交はりは 淡きこと水の如し
小人の交はりは 甘きこと醴(あまざけ)の如し

(君子之交淡若水 小人之交甘若醴 「荘子」山木篇第二十)

 『論語と算盤(そろばん)』で知られる澁澤栄一であるが、『論語』にとどまらず、幅広く古典につうじた人であったことっが、この一点からもわかる。

 一橋大学(旧 東京商科大学)の出発点は、いまから135年前に銀座尾張町にできた商法講習所。私学として出発したその創設にあたっては、提唱者の森有礼だけでなく、実業界の澁澤栄一、教育界の福澤諭吉も関係している。


■Tempus fugit(=Time flies)

 実に早いものだ。まさに「光陰矢の如し」。

 日本語の「光陰矢の如し」は、英語の「Time flies lika an arrow」とまったく同じ表現で同じ意味だ。
 ラテン語なら tempus fugit だろう。このラテン語の格言は、大学本校の図書館に掲げられていた。「時は逃げる」か。逃走犯のことを英語で fugitive というが、その語源にあたる。

 母校のことを米国では alma mater という。ラテン語だ。直訳すれば「育ての母」、古代ローマの女神ケレースやキュベレ、中世ヨーロッパにおいては聖母マリアのことを指した表現のことだと wikipedia には書かれている。

 ちなみに卒業生のことは米国では alumini という。これもラテン語だ。アラムナイと読む。日本でよく使う OB は old boy の略だが、これは英国風の表現のようだ。OB や OG といった区分をする必要がないからであろう、米国では alumini 以外の表現を耳にすることはない。


「卒業25周年記念同窓会」に参加しての感想

 昨日出席したのは、当日もらった名簿によれば 119名とある。卒業時点で 800名だとすれば、1割強といったところか。同学年全体の会への出席は、卒業5年目に出て以来なので 20年ぶりということになる。

 入学時点のクラス分けは第二外国語で行っていたが、当時は圧倒的にドイツ語とフランス語、このほか中国語とロシア語であった。現在ではドイツ語もフランス語も人気がなく、韓国語もあるらしい。
 私はフランス語クラスであったが、何組であるかなど、とっくの昔に忘れていた。同じくクラスからは私を含めて5人、顔をみれば思い出す。髪の毛の状況に変化はあれど、顔の輪郭はあまりかわらないものである。
 
 人間関係の濃淡というものは、同じ大学の同じ学年の卒業でも当然のことながら存在するもので、人間関係が濃いのは入学時点での同じ部活(あるいはサークル)か、同じゼミナール(=研究室)に属していたメンバーである。わたしの場合は、前者は社会学部の阿部謹也ゼミナール(歴史学・西洋中世史)、後者は体育会合気道部である。

 こういう濃い人間関係をもった仲間とは、比較的ひんぱんに会っているのだが、同じ学年だからといっても、共通の体験や思い出がないとなかなかそう簡単に打ち解けるものではない。これは仕方がないといえば仕方がないことだ。
 同じクラス出身か、同じ学生寮にいた人間と会うのは実に久しぶりである。同じクラスか寮生であれば顔もわかる。

 大学時代を共有した仲間と会うのは、ある種の異業種交流会みたいなものだ。
 年齢でいえば、48歳を中心に47歳から49歳が中心層となる。

 面白いのは、メーカーにいった人間は、同じ会社でずっと過ごしているのに対して、金融は経済に翻弄されて合併によって名称が変更、あるいは異なるキャリアを歩んでいることが多いようだ。
 われわれの卒業当時は「商社冬の時代」とかいわれて、多くの人間が金融業に就職した。これが正解だったかどうかはわからない。

 基本的にメーカーの中心はエンジニアなので、いわゆる文系出身者ができることは限定がある。とはいえ、最初からメーカー志望にしぼって就職活動をした人間は、人生の選択の間違いがなかったということになるのだろう。
 だから、メーカー勤務の同級生たちには、「そのまま最後までいたほうがいいよ、でもリタイア後のことは考えておいた方がいいんじゃないのかな」といっておいた。

 定年が現在の法定上の 60歳であるとすれば、定年まであと 12年くらいだが、この年になってしまうと、主体的な転職も独立もなかなか難しいものがあろう。現実的にいって、会社があるならば最後までいたほうがいい。
 わたしのような生き方がベストだとは言いきれない。

 しかし、何がおこるかわからないのが世の中だ。カイシャから放り出されたときに、彼らはすぐに生きていけるワザを身につけているだろうか、と思わなくもない。あくまでも他人事ではあるのだが。

 「いい大学を出て、いいところに就職すれば人生安泰だ」というのは、日本においては、ある意味においては正しいのだが、受け止め方は人さまざまだろう。「安泰」という意味もさまざまである。
 フツーの一橋大学卒業生とは異なる人生を歩んできた私には、何ともいえないのだが。

 全般的にいって、われわれの世代はまだまだ「恵まれた世代」であった、という自覚をもたねばならない。ロスジェネとよばれる、いまの若い人たちのことを考えるとそう思わざるを得ないからだ。


次の四半世紀を迎えることができるかは・・・

 昭和60年(1985年)の大学卒業からすでに25年、つまり四半世紀である。次の四半世紀まで生きているかどうかは、亀の味噌汁、もとい、神のみぞ知る。

 とりあえず、卒業40周年の 2025年は、ちょうど大学創立 150周年にあたるという。

 大学創立 150周年というのは、日本に近代大学教育制度が導入されてからとほぼ等しい期間であるが、ヨーロッパ中世史を専攻していた私からみれば、ごくごく最近の出来事のような気もする。
 大学制度は、中世イタリアのボローニャに遡ることができるからだ。



<関連サイト>

一橋大学

財団法人渋沢栄一記念財団


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大学と卒業生の関係とは?- Hitotsubashi University Homecoming Day 2010 (5月8日)で考えたこと