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2011年10月31日月曜日

ケルト起源のハロウィーン-いずれはクリスマスのように完全に 「日本化」 していくのだろうか?


 さて、本日はハロウィーン(Halloween)ですね。米国では子どもたちが "Trick or Treat ?" といいながら、家々を回ってキャンディやお菓子をもらう行事として知られています。

 "Trick or Treat ?" とは、「キャンディーくれなきゃ、いたづらしちゃうぞ」とでも訳したらいいでしょうか。まあ、決まり文句として覚えておけばいいでしょう。

 なんと、カボチャならぬ柿までがハロウィーン仕様に(上掲の写真)! 

 鳥の仕業でしょうか? さすがにくりぬいた柿のなかにロウソクは入ってません(笑)。ランタンではありませんから。もちろん、鳥が意図してやったのではないでしょうが、自然界はときどき思いもつかないことをしてくれるものですね。

 気をつけて見ていると、いろんなものが目に飛び込んでくるようになります。観察力が鋭くなるのか、偶然に対する感受性が強くなるのか。意図しなくても、自然とおもしろいものが向こうから飛び込んでくるようになります。目的意識が脳内で無意識レベルに沈殿しているのでしょうか?

 もちろん、「意図せざる偶然のもの」であっても、気がついて活かすことができるかは本人次第。偶然性を積極的に活かす能力が、発明や発見に際して大きく働いていることはノーベル賞受賞者の談話を読むと実感されるものですね。


ハロウィーンはケルト起源-アメリカ伝来のお祭りは「日本化」するプロセスの途上にある

 ハロウィーンは、アメリカ伝来の季節の行事ですが、日本でも定着しつつありますね。最初はお祭り好きな在日外国人や若者から、そしていまでは幼稚園や保育園の年中行事にまでなっています。

 クリスマスやバレンタインデーほどではないですが、もうかなり定着してきているようです。子どもたちの成長とともに、日本社会に根付いていくのでしょう。

 もともとケルト起源のこのお祭りは、キリスト教以前の祭がキリスト教のベールをまとっているに過ぎないので、キリスト教の教義とは本来なんの関係もないようです。その意味では、日本で受け入れられたのも問題なしとしておきましょうか。ケルトは日本でいえば縄文人に該当する、ヨーロッパの先住民です。

 クリスマスだって、いまの日本ではキリスト教と結びつける人はほとんどいないですし、おそらくハロウィーンも時間がたてばアメリカという異文化的要素も消えて「日本化」していくのでしょうね。現在はまだアメリ文化そのものといった感じで、わたし自身はまだ違和感を感じていますが、「日本化」していくなら、それもまた一興でしょう。

 大学学部時代は、いまは亡き阿部謹也教授のゼミナールで 「ヨーロッパ中世史」 を専攻していましたので、ときどき集まるゼミテン(・・ドイツ語のゼミナリステンの略)の集まりは、ビジネスとはほとんど関係なく、利害関係がまったくありませんから楽しいものです。

 先日の会合で、同席していたケルト学の専門家に質問したところ、キリスト教の「万聖節」は、もともとはケルトの農耕儀礼ですが、ケルト地帯のフランス北部ブルターニュでは、アメリカから逆輸入される形でハロウィーンが行われているとか。巨大カボチャでつくる ジャック・オ・ランタン(Jack-O'-Lantern)はアメリカ生まれのようですね。

 これを書いていてふと思い出したのは、そういえばケルトの歌姫エンヤ(Enya)に、カボチャではなく、日本のボンボリのような吊し灯籠(=ランタン)に火入れしている写真をジャケットにした CDシングル があったな、と。探したらでてきたのが On My Way Home という 1996年発売の欧州版ミニアルバム。なぜ、日本のボンボリなのかは定かでなかったのですが、買ってから 15年たったいま初めて意味がわかりました!



 ところで、おなじく会食会で同席していたカトリック司祭によれば、カトリックではハロウィーンはやらない、とのこと。10月31日の深夜から11月1日にかけて「万聖節」よりも、その翌日11月2日の「万霊節」(=死者の日)のほうが重要だからとのことです。万霊節とは、すべての死者のためにミサを開いて祈る日のことです。

 このように、ハロウィーンをめぐっては、何でもありの日本人はさておき、キリスト教でもカトリックとプロテスタントでは、受け入れに際してかなりの温度差があるようです。

 ところで、歌姫エンヤはアイルランド人。ケルト人の国であり、かつカトリック国でもあるアイルランドの状況はどうなのか、気になるところです。


「仏教国が資本主義化」すると、何でもありの状況になるのだろうか?-伝統行事との関係は?

 タイ人も日本人と同様に、クリスマスやバレンタインデーを祝うようになっています、もちろんキリスト教抜きの習俗としての受け入れですね。とはいえ、タイ人と日本人とでは受け入れの時期が異なるため、受け入れの仕方についても違いがあるような気がしないでもありません。

 「仏教国が資本主義化すると、何でもありの状況になるのだろうか?」、日本人がタイ人の行動をみているとそんな仮説めいたことも考えたくなってきます。

 しかし、いまだタイではハロウィーンは習俗化していないようです。おそらく、バンコク在住の英米人のあいだではパーティが行われているのでしょう。バンコクでは、西洋人と日本人とでは遊び場所が完全に棲み分けだれているのでわかりません。

 今年は大洪水となって被害の拡大しているチャオプラヤ川流域ですが、雨期が終わるこの時期は例年はロイ・カトーンという灯籠祭の季節です。この伝統的な祭が現在でも主流のため、タイ人のあいだにはハロウィーンが入り込めないのかもしれません。タイ人にとっては、灯籠は玄関前に飾るものではなく、水に流すものですから。

 日本でもお盆やお正月は、最近でこそ形骸化しつつあるとはいえ、まだまだ伝統行事としての性格が強く保たれています。伝統行事と時期が重なる祭については、外国から伝来した新たな祭も、旧来のものにとって変わるのは簡単ではないようです。

 この時期の祭礼であるお神楽などとは、完全に棲み分けがされていますが、もしかすると、もともと農耕儀礼であったハロウィーンが神社の祭礼と融合していくなんてことになるかもしれません。

 貪欲に外来文化を取り入れてきた日本人が将来どのような取捨選択をするのか、たいへん興味深いものがあります。





<関連サイト>

Enya Official Site(英語)
・・エンヤはヒーリング・ヴォイスの世界的なアイリッシュ・ミュージシャン

Enya - On My Way Home (video)(YouTube)
・・このビデオのなかに、日本のボンボリのような吊し灯籠(=ランタン)に少女たちが火入れする幻想的なシーンを、帰郷する旅の途中のエンヤが回想するシーンがでてくる




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・・かぼちゃはカンボジアから伝来

バンコクで「かぼちゃプリン」を食べる・・最高にうまい東南アジアのスイーツ

書評 『「大発見」の思考法-iPS細胞 vs. 素粒子-』(山中伸弥 / 益川敏英、文春新書、2011)
・・偶然性を活かすことができるかどうかが大発見のカギ




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2011年10月29日土曜日

映画 「百合子、ダスヴィダーニヤ」(ユーロスペース)をみてきた-ロシア文学者・湯浅芳子という生き方



 日本映画『百合子、ダスヴィダーニヤ』をみにいってきました。本日から大阪での上映も始まったということだが、東京では渋谷の「ユーロスペース」で、毎日朝10時半からの一回のみ上映です。
 

作品名:『百合子、ダスヴィダーニヤ』(日本、2011年)
監督: 浜野佐知
脚本: 山﨑邦紀
製作: 森満康巳
出演者: 菜葉菜(なはな:湯浅芳子役)、一十三十一(ひとみとい:中條百合子役)、大杉漣(百合子の夫・荒木茂役)、吉行和子(百合子の母役)、洞口依子(野上弥生子役)その他
上映時間: 102分

 『百合子、ダスヴィダーニヤ』の百合子とは、作家の宮本百合子、結婚前は中條(ちゅうじょう)百合子。ダスヴィダーニヤとはロシア語でさよならの意味。百合子に対して「ダスヴィダーニヤ」(さよなら)と呼びかけているのはロシア文学者の湯浅芳子。

 これだけでは情報が少なすぎて、まだピンとこない人も多いかもしれません。そりゃあ、そうかもしれませんね。なんせ、いまからもう 90年も前、大正末期から昭和初期にかけての物語なのですから。

 物語は、この二人のインテリ女性の出会い、熱烈な恋愛とお互いを高め合う友情、そして別離を描いたものです。友情というには濃すぎる関係、レズビアンと言ってしまうと興味本位に受け取られる恐れがなくもない。当事者の二人にのみ秘められた関係であったということでしょう。

 その後なんと100歳まで長生きした、先輩の女流作家・野上弥生子(1885~1985)の仲介で出会ったとき、中條百合子(1899~1951)は25歳、湯浅芳子(1896~1990)は28歳。百合子は新進気鋭の作家、芳子は雑誌編集者。

 17歳でデビューし「天才少女作家」と呼ばれていた百合子は、成功した建築家の娘でブルジョワのお嬢様そのもの。留学先のニューヨークで出会った15歳年上の学者に一目惚れして19歳で結婚。ブルジョワ育ちながらも、すでに自分のチカラで生計を立てていた存在

 京都の裕福な魚問屋に生まれて、養女にいった先が「お茶屋」。花街で育った湯浅芳子は、生前分与された財産で、東京で二階建ての一軒家を一人で借りるほどの資産家。東京にでて大学でロシア語を学びながらも、大学中退後は自分の生きる道を探しあぐねていた「自分探し」の途上にあった状態

 平塚らいてうなどによる『青鞜』の時代によって、すでに切り開かれていたとはいえ、まだまだ女性が主体的に仕事を選択し、自己実現を図るのが難しかった時代、お互いに強い影響を与え合いながら高め合った関係でもあったのでした。



 映画では、最初の出会いから、急速に二人の愛が深まっていくまでの40日間に集中し、共同生活のなかで愛が冷めていくプロセスや、二人で行ったソ連の首都モスクワへの 3年間の私費留学と帰国後の別離については、示唆的にのみ触れています。

 上掲のポスター写真だと、だいぶ実在の二人とは見た目が違う印象ですが(笑)、それでも監督はキャスティングにはそうとう時間をつかったようです。舞台設定やインテリア、モダン着物などの衣装にはそうとう力を入れて「大正ロマン」の再現には成功していますが、2011年の日本人が1924年(大正14年)の日本人を演じるのは、どうしてもやっぱり限界があるのは仕方ありません。善戦しているとは思いますが。

 映像として美しく仕上がっているので、百合子と芳子の二人にとっても本望でしょう。ともにソ連にかかわった二人ですが、モスクワに私費留学(・・いや遊学ですか)するだけの資産をもった、ブルジョワ階級のインテリであったというのは興味深いことです。 


湯浅芳子という「孤高の人」(瀬戸内寂聴)について

 ところで、宮本百合子ときいてピンとくる人は、いまでは果たしてどれくらいいるのでしょうか? また、湯浅芳子といっても、現在ではほとんど忘却されているでしょうねえ。 

 文学愛好家ではないわたしは、"プロレタリア作家" 宮本百合子の作品はまったく読んでいません。また、宮本百合子と聞けば「ああ宮本顕治の妻か」とピンとくる人もいまではそう多くはないかもしれません。日本共産党書記長を長く務めた宮本顕治というだけで避けたくなるのは、わたしだけではないでしょう。

 原作でもあり映画のタイトルにもなった、沢部ひとみ氏の『百合子、ダスヴィダーニヤ』は、学陽書房の女性文庫(1996)で読んだのはいまか10年前くらいでしょうか。ふとしたキッカケでこの本の存在を知ったのは、宮本百合子ではなく、湯浅芳子というロシア文学者には多大な関心があったからです。

 高校時代から大学時代にかけてロシア文学はあらかた読んでいたわたしにとって、岩波文庫のロシア・ソ連文学の翻訳者としての湯浅芳子の名前は、ずっと気になる存在でした。とくに、チェーホフやゴーリキーなど、帝政ロシア末期からソ連にかけての世界的文学者の作品を多く訳しています



 いまではロシア文学者としての湯浅芳子の名前は、ソ連の児童文学作家サムイル・マルシャークによる名作 『森は生きている』(岩波少年文庫、1953)のものとして、かろうじて生き残っているくらいでしょう。そもそもロシア文学じたい、『カラマーゾフの兄弟』の新訳によるプチ・リバイバルがあっても、メジャーな存在ではなくなって久しいですから。 

 わたしの場合は、共産主義はキライでもロシアは好きで、しかもソ連好きな小学校教員などの影響もあって、けっこうロシアソ連にはけっこう詳しいのです。しかも愛読していたのはイリンとセガールによる『人間の歴史』(岩波書店の愛蔵版)。じつは、このセガールはマルシャークの実の弟で、しかもユダヤ系であるとしったのは後年のことですが。

 「湯浅芳子って、いったいどんな人なのだろう?」と思っていたのは、そういう背景があるのです。

 ちょうど時期を同じくして、瀬戸内寂聴さんによる湯浅芳子のの回想録 『孤高の人』が出版されてすぐに読みました。湯浅芳子の印象はこの本でほぼ固まったといっていいでしょう。現在は、ちくま文庫に収録されています。 

 「孤高の人」とは湯浅芳子を評して、まさに言い得て妙と言ったところかもしれませんね。自らを「いっぴき狼」と称した湯浅芳子にはふさわしい。プライドの高い、「凜」とした女性だったのでしょう。

 わたしは湯浅芳子には「精神の高貴さ」を感じます。比喩としては適切かどうかわかりませんが、永井荷風と同じ「精神の高貴さ」を死ぬまで持ち続けたひとだったのではないかと。湯浅芳子は老人ホームで亡くなったのが永井荷風とは違いますが。

 『孤高の人』は、この文章を書く前にもう一回読み返したいと思ったのですが、探さないとでてこないので、瀬戸内寂聴さんの回想としては、そのかわりに『奇縁まんだら 続』(瀬戸内寂聴、横尾忠則=画、日本経済新聞出版社、2009)に収録された湯浅芳子を紹介しておきましょう。

 横尾忠則による肖像画が三枚収録されていることから、新聞連載は3回に及んだのでしょう。おそらく、瀬戸内寂聴と湯浅芳子の交友は通り一遍のものではなかったからでしょう。小見出しは新聞社がつけたのかもしれませんが、参考のためにあげておくと、「レズビアンの先駆者は男装のロシア文学者」、「犬までリリーと名づける百合子への純愛」、「開拓者の孤独と誇りと栄光」。

 瀬戸内寂聴さんの文章を引用させていただきましょう。

 湯浅芳子と宮本百合子(結婚前は中條)のレズビアンの関係は、当人たちが隠しももせず公表しているので、天下周知のことであった。
 山原先生と同棲するまでに、湯浅さんは数々の華麗とも呼べる女性遍歴をしている。その中で生涯、誰よりも愛したのが宮本百合子であった。そして最も残酷な裏切りを与えられたのも百合子からであった。二人の仲は百合子のほうから湯浅さんに惹かれ、情熱的に迫って結ばれたものであった。
 最初の夫との仲が冷えた心の隙に湯浅さんへの恋をしのびこませ、意識的にあおって、燃え上がらせたのは百合子の情熱であった。
 二人の愛にピリオドを打たせたのは、9歳年下の若かりし日の宮本顕治の出現であった。

(出典:『奇縁まんだら 続』(瀬戸内寂聴、横尾忠則=画、日本経済新聞出版社、2009)P.77


 瀬戸内寂聴さんは、湯浅芳子はわがまま三昧な人だったと回想していますが、翻弄されつづけながらも、死ぬまでつきあいのあった瀬戸内寂聴という人もまた、興味深いものがありますね。 



映画「百合子、ダスヴィダーニヤ」にからめて書く、ロシア文学と大正時代についてのよしなしごと

 もともと湯浅芳子への関心から原作を読み、そして映画も見ることになったので、湯浅芳子がらみでいくつか書いておこうと思います。

 フェイスブックの友人からこの映画を教えられるまで、じつは映画化されたことはまったく知りませんでした。
 
 聞くところによれば、浜野監督は14~15年から映画化したかったそうですが、反対が強くてできなかったそうですね。製作資金の調達だけでなく、2007年に宮本顕治が亡くなるまでは、映像作品としては扱いにくいテーマにかかわっていたことは否定できないでしょう。

 いまではすでに「歴史」となったから可能となったわけですね。
 
 ところで、湯浅芳子の翻訳については今後も生き残るかどうかといわれれば、否定的にならざるを得ませんね。

 むかしからロシア文学においては、神西清(じんざい・きよし)のものが名訳とうたわれてきました。とくにプーシキンやチェーホフについては、岩波文庫では改版したうえで発行し続けていますが、チェーホフの戯曲については、湯浅芳子訳は新訳でリプレースしています。

 神西清のチェーホフの翻訳は新潮文庫に収録されているので、いまでも読むことができます。作家・堀辰雄の親友で、作家でもあった神西清の日本語が、とても翻訳だとは感じさせないほど透明で、すばらしいものであるのと比べると、湯浅芳子の訳文が、語学的な面はさておき、劣っているのは仕方がないでしょう。しかも、ソ連文学はソルジェニーツィンなどの例外を除けば、果たして今後も読まれることがあるかどうか。

 なぜ湯浅芳子の翻訳が岩波文庫にたくさん収録されていたかは、「岩波文化人」の大御所であった野上弥生子の存在抜きには考えにくいと思います。野上弥生子の夫の能楽研究家・野上豊一郎、息子のイタリア文学者野上素一ともども「岩波文化人」です。

 ちばみに映画の冒頭に百合子と芳子を引き焦るシーンで、野上弥生子がソーニャ・コヴァレフスカヤについて言及していますが、ソーニャは帝政ロシア時代の女性数学者で、岩波文庫には野上弥生子訳で、英訳からの重訳として『ソーニャ・コヴァレフスカヤ-自伝と追想-』が収録されていました。

 こんなところにも、ロシア・ソ連が、大正末期から昭和初期当時の文化人・知識人のあいだでどう受け止められていたか知ることもできるのではないでしょうか。

 昭和初期はまさに「モボ・モガ」の時代。モボとはモダンボーイ、モガとはモダンガールの略。女性のあいだでは洋装や断髪が流行した時代でした。これが 1929年(昭和4年)の「世界大恐慌」の到来以降は、マルクスボーイ・マルクスガールの流行となっていきますが、この後、共産党が徹底的に弾圧されたことは周知の事実でしょう。宮本百合子もまた、結婚してすぐに配偶者の宮本顕治が獄中の人となり、12年間の別離を強いられることになり、大いに苦労をすることとなります。

 いまでは日本とロシアの関係は、ロシア側の日本への一方的な片思いばかりで日本側はロシアにはつれない状態が続いていますが、1920年代にはそうではなかったことを知ってから、この映画を見ると時代背景がよよく理解されることでしょう。

 湯浅芳子が京都生まれであることに関連して、京都生まれの同時代人について一言触れておきたいものがあります。それは歴史学者の上原専禄についてです。

 上原専禄(1899~1975)は、湯浅芳子(1896~1990)の3歳下になります。宮本(中條)百合子(1899~1951)と上原専禄は同年生まれになります。上原専禄は、わたしの大学学部時代の先生であった阿部謹也先生のの、さらに先生にあたる人です。

 直接の接点があったのかどかどうかわかりませんが、湯浅芳子と上原専禄は、ほぼ同じ頃に京都の商家に生まれ、青春時代と職業人生を東京で過ごした京都人という共通点があることに興味がひかれます。

 上原専禄はドイツ中世史研究のために、関東大震災後の1923年(大正12年)12月から第一次大戦後のウィーンに留学して1925年(大正15年)に帰国、湯浅芳子は中條百合子とともにモスクワに私費留学したのは 1926年(昭和2年)、3年間の滞在ののち、「世界大恐慌」の始まった 1929年(昭和4年)に帰国しています。

 したがって、欧州での遭遇はなかったことになりますが、湯浅芳子と中條百合子はウィーンも旅行しているので、同じ空気を吸ったといってもいいでしょう。もちろん、海外留学したということは、当時としてはきわめてレアな体験の持ち主であることはいうまでもありません。また、留学当時のソ連はスターリンによる大粛清が行われる以前であったことにも触れておく必要があるでしょう。

 思想信条に違いはあっても、同時代人というものはおなじ「空気」のなかに生きていたという点で、なにかしら共通点をもっているものです。

 岩波書店からでている『座談会 明治・大正文学史』(岩波現代文庫、2000)の第三巻では「明治から大正へ」という座談会があって、上原専禄が招かれて発言していますが、上原専禄の発言を読むと明治時代とも、昭和時代前半とも異なる、「大正時代」の雰囲気がなんとなく伝わってくるものを感じます。



<関連サイト>

映画 「百合子、ダスヴィダーニヤ」公式ウェブサイト

湯浅芳子と宮本百合子 | 『百合子、ダスヴィダーニヤ』オフィシャルサイト


<参考文献>

映画 「百合子、ダスヴィダーニヤ」カタログ(株式会社旦々社、2011)

『百合子、ダスヴィダーニヤ-湯浅芳子の青春-』(沢部ひとみ、学陽書房女性文庫、1996 単行本初版   1990 文藝春秋社)
・・なお、2011年に静山社文庫から新装改訂版による復刊予定。

『孤高の人』(瀬戸内寂聴、筑摩書房、1997 現在は、ちくま文庫 2007)

『奇縁まんだら 続』(瀬戸内寂聴、横尾忠則=画、日本経済新聞出版社、2009)

『断髪のモダンガール-42人の大正快女伝-』(森まゆみ、文春文庫、2000 単行本初版 2008)
・・「湯浅芳子-女が女を愛すること」と「中條百合子-生きぬく!書きぬく!」を参照。

なお、上原専禄については、『クレタの壺-世界史像形成への試読-』(上原専禄、評論社、1975)に収録された「本を読む・切手を読む」(1974)によった。











<ブログ内関連記事>

バレンタイン・デーに本の贈り物 『大正十五年のバレンタイン-日本でチョコレートをつくった V.F.モロゾフ物語-』(川又一英、PHP、1984)
・・白系ロシア人亡命者モロゾフ一家の苦闘の物語

日本人が旧ソ連の宇宙飛行船「ソユーズ」で宇宙ステーションに行く時代
・・ソ連と小学生

石川啄木 『時代閉塞の現状』(1910)から100年たったいま、再び「閉塞状況」に陥ったままの日本に生きることとは・・・ 

永井荷風の 『断腸亭日乗』 で関東大震災についての記述を読む
・・関東大震災は 1923年(大正13年)であった

書評 『河合隼雄-心理療法家の誕生-』(大塚信一、トランスビュー、2009) 
・・古い岩波文化を打破した編集者が伴走した河合隼雄の評伝




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2011年10月28日金曜日

銀杏と書いて「イチョウ」と読むか、「ギンナン」と読むか-強烈な匂いで知る日本の秋の風物詩


 良い香りで秋の到来を知らせてくれる代表がキンモクセイであれば、逆に強烈な匂いで秋を感じさせてくれるものはギンナンであろう。

 いまここで「ギンナン」と書いたが漢字で書けば「銀杏」。ひらがなで読めば「イチョウ」である。

 「ギンナン」と「イチョウ」。音の響きはまったく異なるが、ともに秋の風物誌といってよいだろう。

金色(こんじき)の小さき鳥の形して
  いてふ散るなり 夕日の丘に (与謝野晶子)


 倒置法を用いた珍しい形式の和歌である。近代歌人の作品であるから和歌というべきではなく短歌というべきか。「いてふ」とは「イチョウ」のこと。「てふてふ」と書いて「ちょうちょう」(蝶々)と読ませるよりは何土は低いだろう。

 イチョウは黄葉する。詩的にいえば金色(こんじき)である。金色の鳥のような形をして秋の空を舞うイチョウの枯葉。秋である。

 一方、強烈な匂いで地面に目を落とすと、そこら中にギンナンの実が落ちてつぶれているのを目にする。アスファルトの舗道であれば、一面に拡がる白い汚れがいやがおうでも目につくことになる。



 「う~む、臭い」と感じるとともに、「ギンナンか」とクチにしてみる。そして、鍋物にいれて食べる串刺しのギンナンの実を思い出す。

 臭いが旨い。臭いものは旨い。不思議な感覚である。

 ところで、イチョウは雄株と雌株にわかれている面白い植物だ。植物でありながら精子と卵子をもち、花粉からつくられた精子が卵子と受精する生殖活動を行う。そしてできるのがギンナンである。植物でありながら、限りなく動物に近い存在。

 そういえば英語では Ginkgo(ギンコ)というのも、音の響きがなんだか不思議な感じのする植物だ。

 何か気になることがあったら、まずは wikipedia で調べてみる。これは基本動作としたいものである。以下にイチョウの項目から一部引いておこう。

イチョウに関する最初の植物学的な記述は、ケンペルの『廻国奇観 (Amoenitatum exoticarum) 』(1712年)にある Ginkgo, Itsjo で、これは「銀杏」を「ぎんきょう」と読んだ上で、Ginkjo, Itsjo (ギンキョウ、イチョウ)と筆記したつもりのものが、製本時に誤植されてしまったのだとされる。
 しかしリンネは『Mantissa plantarum II』(1771年)にこのまま引用し、Ginkgo を属名とした。1819年には、ゲーテが『西東詩集』のなかで Ginkgo の名を用いている。Ginkgo は発音や筆記に戸惑う綴りでもあり、また植物命名規則73条に従うなら誤植などは訂正すべきだが、いまのところはそのまま用いられつづけている。

 なるほど、ケンペル(・・つづりは Kempfer なので正確にはケンプファー)の『・・』は、日本事情を書いた定番の書籍として欧州ではよく知られたものであったが、スウェーデンの分類学者リンネはケンペルからイチョウをしったわけだ。

 ついでだから、ゲーテの『西東詩集』(West-Osterlich Divan, )も見ておこうか。「いちょう葉」(Gingko Biloba:ギンコ・ビローバ)という学名をタイトルとした詩が収録されている。1815年の作である。

東の邦よりわが庭に移されし
この樹の葉こそは
秘めたる意味を味わわしめて
物識るひとを喜ばす

こは一つの生きたるもの
みずからのうちに分かれしか
二つのものの選び合いて
一つのものと見ゆるにや

かかる問いに答えんに
ふさえる想念(おもい)をわれ見いだせり
おんみ感ぜずや わが歌によりて
われの一つにてまた二つなるを

(出典):『西東詩集』(ゲーテ、小牧健夫訳、岩波文庫、1962)P.128


 イチョウの葉がふたつにわかれていることを詠み込んだ詩だが、「二つなのに一つ」というコンセプトは、プラトン的というか、錬金術的なニュアンスを感じる詩である。ゲーテが思いを寄せていたマリアンヌという人妻への愛を歌ったものでもあるらしい。ゲーテはこの詩を、二枚のイチョウの葉とともに自筆の書簡として贈っている(下の写真)。


 植物学者でもあった博物学のひとゲーテならではの愛の詩でもある。科学者としての側面を抜きにしてゲーテを語るのは片手落ちというものだ。まさにイチョウの葉のごとく、科学精神と文学はゲーテの両輪である。

 科学精神といえば、イチョウの精子を発見したのはなんと日本人である! よほどイチョウは日本人に縁が深い植物なのだな。イチョウの生殖は、高校の生物学の授業で習うことだ。

 種子植物であるイチョウにも精子があることを世界で初めて発見したのは、帝国大学理科大学(現・東京大学理学部)植物学教室に画工として勤務していた平瀬作五郎(1856~1925)で 1896年のことであった。そのことを記念した石碑が、現在は東大に所属する小石川植物園のなかにある。

 明治時代には、専門の教育を受けていない学者が大きな発見を行っている例が少なくない。この記念碑は、ぜひ一度たずねて見てほしいものだ。



 寒くなってきてそろそろ鍋の恋しい季節。ギンナンは鍋物で食べるか、あるいは焼いて塩をつけてビールとともに食べるか。

 「花より団子」ではないが、「枯葉よりギンナン」かな? 
 団子もギンナンも、串に刺すという点は共通しているしね。







<ブログ内関連記事>

「東京大学総合研究博物館小石川分館」と「小石川植物園」を散策

枯葉 Les feuilles mortes

キンモクセイの匂いが心地よい秋の一日

葛の花 踏みしだかれて 色あたらし。 この山道をゆきし人あり (釋迢空)

ルカ・パチョーリ、ゲーテ、与謝野鉄幹に共通するものとは?-共通するコンセプトを「見えざるつながり」として抽出する
・・今回のイチョウの記事では意図したわけではないが、奇しくも与謝野晶子とゲーテを一緒に扱ったが、この記事では配偶者であった与謝野鉄幹とゲーテを一緒に扱っている




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2011年10月26日水曜日

スティーブ・ジョブズの「読書リスト」-ジョブズの「引き出し」の中身をのぞいてみよう!


 先日56歳の若さで亡くなったスティーブ・ジョブズ氏は、会社経営者ではありましたが、独創性のかたまりで、ある意味では「革命家」といってもよい存在でした。

 若き日にインドを放浪し、仏教徒になって禅仏教に傾倒していたことは、最近よく知られるようになってきたといってよいでしょう。

 では、ジョブズ(・・以下、敬称略)の「発想の源泉」は、ほかにはどんなところにあったのか? 手っ取り早く知るには、どんな本を読んでいたかをみるのが一番ですね。

 「蔵書をみれば、持ち主のアタマの中身がわかる」とはよく言われるところです。

 残念ながらジョブズの蔵書は公開されていませんし、「断捨離」の ZEN ライフを実践していたジョブズのことですから蔵書はもたない主義だったかもしれませんし、電子ブックとして iPad でしか読まなくなっていのかもしれません。したがって、詳細は現在のところわかりません。

 ただ、面白い記事がウェブ上に公開されてますので紹介したいと思います。

 The Steve Jobs Reading List: The Books And Artists That Made The Man というタイトルの記事です。日本語なら「ジョブズの読書リスト-この男をつくった本とアーチストたち」となるでしょうか。

 この記事の冒頭に引用されているジョブズのコトバ "I like living at the intersection of the humanities and technology."(人文科学とテクノロジーのインターセクションで暮らすのを好んでいる)に端的に表現されているように、ジョブズがテクノロジーと人文学の両分野で本を読み込んでいたことがよくわかる読書リストです。

 では、この記事にあげられている書名について、具体的に一冊一冊について見ていくこととしましょう。

●Clayton Christensen's "The Innovator's Dilemma
『イノベーションのジレンマ-技術革新が巨大企業を滅ぼすとき-(増補改訂版)』(クレイトン・クリステンセン、玉田 俊平太=監修、伊豆原 弓訳、 翔泳社、2001)
・・これは言うまでもなく、研究開発型企業の関係者の必読本。ジョブズはなんどもなんども読み込んでいたようです。



Ron Rosenbaum's 1971 Esquire article "Secrets of the Little Blue Box"
・・これはウェブ上にアップされていますので、http://www.lospadres.info/thorg/lbb.html から読むことができます。また、“Secrets of the Little Blue Box”The 1971 article about phone hacking that inspired Steve Jobs. という記事も参照。

英文学
ジョブズのコトバが引用されています。
"I started to listen to music a whole lot, and I started to read more outside of just science and technology -- Shakespeare, Plato. I loved King Lear,"Moby-Dick" and Dylan Thomas'."

「サイエンスの外の世界-プラトン、シェイクスピアも読んだ。『リア王』、『モビー・ディック(白鯨)』、それにディラン・トーマスの詩が好きだ」(ジョブズ)
・・シェイクスピアのなかでも『リア王』が好きだという人はあまり聞いたことがないですが、「追放された王」というリア王の物語は、なんだか意味深な感じもしないでもありません。


Shunryu Suzuki's "Zen Mind, Beginner's Mind"
『禅マインド ビギナーズ・マインド』(鈴木俊隆 、松永太郎訳、サンガ、2010)

・・2010年に日本語訳がでました。鈴木俊隆老師は、サンフランシスコ禅センターを中心に活動していました。ジョブズの禅の先生の一人ですね。




Chogyam Trungpa's "Cutting Through Spiritual Materialism"
『タントラへの道-精神の物質主義を断ち切って-』(チョギャム・トゥルンパ、めるくまーる、1981)

・・チベット仏教の僧侶による英語の説教。日本語訳は入手不能です。「読書リスト」にはチベット仏教の本もこの一冊あげられていますので、ジョブズはあえて禅仏教を選び取ったのだということがわかります。米国では禅仏教とチベット仏教が仏教では二大勢力。後者ではリチャード・ギアが有名です。 




Paramahansa Yogananda's "Autobiography of a Yogi"
『あるヨギの自叙伝』(パラマハンサ・ヨガナンダ、森北出版、1983)

・・とくにこの本は、ジョブズが生涯のあいだに、なんどもなんども読み返し読んだ本だそうです。iPad2 に唯一ダウンロードしていた本だとか。わたしは読んだことがありませんが、amazon のレビューでは高評価を得ていますね。



"Be Here Now"
『ビー・ヒア・ナウ―心の扉をひらく本-』(ラム・ダス、ラマ・ファウンデーション、吉福伸逸/スワミ・プレム・プラブッタ/上野圭一訳、平河出版社、1987)

・・「いま、ここに」というのは、刹那を重視する仏教の教えでもあります。ジョブズのマインドセットを規定していた思考がうかがえます。



"Diet for a Small Planet" by Frances Moore Lappe
『小惑星のためのダイエット』(フランセス・ムーア・ラッペ)
・・日本語訳はまだないようですが、英語版はすでに出版から20年以上たっているようですね。ぜひ読んでみたい本です。



Arnold Ehret's "Mucusless Diet Healing System"
『無粘液ダイエット・ヒーリング・システム』(アーノルド・エアレット)
・・この本も、日本語訳はまだないようですね。わたしも中身については知りません。断食好きなジョブズらしいチョイスです。


 「ジョブズの読書リスト」、みなさんはどんな感想をお持ちですか?

 正直いって、かなり異質な「変わり者」ではないかという印象を受けませんか?

 禅仏教の本やインド関係の本など、とともに、いかにも1960年代から1970年代の西海岸の影響のなかにどっぷりと浸かっていた人だなあという印象を持ちますね。断食やダイエット関係の本もその延長線上にありそうです。

 若い日の読書として、プラトンの対話編や、シェイクスピアの『リア王』やメルヴィルの『白鯨』などの英文学もあがっていますね。これらはみな若い頃の読書です。

 つまるところ、ジョブズの発想の源泉はビジネス書ではない、ということですね。

 ビジネス書だけ読んでるようじゃ、ジョブズみたいにはなれないということですね。すくなくともジョブズのような独創的な発想はでてこない。もちろん、ジョブズは経営者でありながら、ビジョナリー的要素の強い人であったわけですが。

 ビジネス書をいくら読んでも、人間の中身は形成されないということでしょう。ビジネス書は、あくまでも「術」を書いた本にすぎませんから。人間の生き方にかかわる「道」を説いた本は、ビジネス書にはあまりないといっても言い過ぎではないでしょう。すくなくともジョブズが読んでいたのは、いわゆる「自己啓発本」ではありません。もっと深いレベルの本です。

 誰もがジョブズになれるわけではありませんが、「人文科学とテクノロジーのインターセクション」というジョブズのコトバ、ぜひ若い人たちには味わってほしいものだと思います。豊かな体験や、人文的教養があってこそ、ビジネスの発想力も生まれてくるのです。

 それにくわえて、経営学をはじめとする「社会科学」が加わってきますが、ビジネス書も自己啓発書は別として、経営書のレベルまでいけば、立派な社会科学書ということができるでしょう。

 くれぐれも、ビジネス以外の本はまったく読んだことがないという「つまらない人」になってしまわないように! ちょっと変わっているくらいでいいのです。

 ジョブズがいう "Think different" という発言の背景に何があるのか、すこしでも参考になったのであれば幸いです。



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2011年10月22日土曜日

「リスボン大地震」(1755年11月1日)後のポルトガルのゆるやかな 「衰退」 から何を教訓として学ぶべきか?



 ひさびさにポルトガル料理を食べて、赤ワインを心ゆくまで飲んだ。大学学部のゼミナールのメンバーたちと。

 ポルトガル料理店マヌエル四ッ谷店。マヌエル・カーザ・デ・ファド。ファドの家である。

 渋谷店は何度もいったことがあるが、四ッ谷店ははじめただ。渋谷店が家庭料理をコンセプトに出しているのに対し、四ッ谷店のほうはファドの生演奏をコンセプトにしている。ただし、昨夜は演奏はなかったので、かえって会話に集中できてよかったが。

 シーフードをたっぷり使った料理は日本とよく似ている。というより、日本化した西洋とはポルトガルのことかもしれない。もうそれともわからないくらい日本化してしまっているのかも。

 この原稿は、「3-11」から2ヶ月たっていない、今年の5月にアップすべく準備したのだが、その後忙しくなってほったらかしになってしまっていた。この機会にあらためて、全面的に書き直してアップすることとした次第だ。


ポルトガルは物価も安くてのんびりした風土が心地よい

 個人的にはポルトガルという国も、リスボンという街も大好きで、1999年には10日くらい滞在していたことがある。ユーラシア大陸最西端のロカ岬までいって、認定証にもサインしてもらっている。

 リスボンはある意味、タイのバンコクのようにゆるやかな空気の流れた街で、しかもシーフードが安くて旨いときたら、ついつい長期滞在というより、「沈没」したくなってしまうのもムリはない。作家の檀一雄が晩年に一年間、ポルトガルの漁村サンタ・クルスに移り住んだのも納得できるものがある。

 とはいえ、いやだからこそ、あまり長居するとヤバいなと思ったわたしは、リスボン滞在は切り上げて帰国することにしたのだった。いまから12年前のことである。

 そういえば、わたしがリスボン入りしたその当日、まさに奇しくもファドの女王、ポルトガルの至宝であったアマーリア・ロドリゲスが亡くなったのだった。1999年10月6日である。それから3日間がポルトガルは喪に服していたのだった。

 いま、ファドの女王といわれたアマリア・ロドリゲスのCDをいかけながら書いているが、漁師町で夫の帰りをまつ女性の心情を歌ったファドを聞いていると、東北の三陸海岸とどうしてもオーバーラップしてしまうのを感じる。下の写真は、リスボン滞在中に Virgin Megastore で買ったもの。滞在中は毎夜、赤ワインを飲みながら、持参した CDプレーヤーで聴きこんでいた。



 ドイツの映画作家ヴィム・ヴェンダース監督のロード・ムービー『リスボン物語』(1995年)。これに出演しているポルトガルのバンド、マドレデウスもまたファドの影響を受けていて心地よい。

 衰退した国家の、のんびりとしたライフスタイル。観光客としてポルトガルを訪れる限り、これはけっして悪いものでもないな、と思ってしまう。そう思うのは、わたしだけではないだろう。



「リスボン大地震」(1755年)とその後のポルトガルのゆるやかな衰退

 リスボンでは、1344年、1531年、1755年に大地震が発生して大きな被害をもたらしてきたが、とりわけ 1755年の大地震はリスボンに壊滅的打撃を与えたものとなった。

 まずは、「1755年リスボン地震」がどんなものであったのか、そしてポルトガルの首都リスボンは、はどう復旧、復興し、あるいは復興できなかったのか、ゆるやかな「衰退」をたどることになるポルトガル史の一断面として見ておきたいと思う。

 「リスボン大地震」(1755年)という wikipedia の項目から、ちょっと長くなるが引用させていただこう。
 
「1755年リスボン地震」は、1755年11月1日に発生した地震。午前9時40分に西ヨーロッパの広い範囲で強い揺れが起こり、ポルトガルのリスボンを中心に大きな被害を出した。津波による死者1万人を含む、5万5000人から6万2000人が死亡した。推定されるマグニチュードはMw8.5。「リスボン大震災」ともいう。リスボンは地震の後、津波と火災によりほぼ灰燼に帰した

 これによりポルトガル経済は打撃を受け、海外植民地への依存度を増した。ポルトガルでは国内の政治的緊張が高まるとともに、それまでの海外植民地拡大の勢いはそがれることとなった。

 また震災の悲報は、18世紀半ばの啓蒙時代にあった西ヨーロッパに思想的な影響を与え、啓蒙思想における弁神論と崇高論の展開を強く促したといわれる。それまで存在した「予定調和的世界」が崩壊してしまったのだ。

 「1755年リスボン地震」によって思想的に大きな変化を蒙った思想家にはヴォルテールがいる。これについては、ブログ記事「自分の庭を耕やせ」と 18世紀フランスの啓蒙思想家ヴォルテールは言った-『カンディード』 を読むを参照されたい。

 「1755年リスボン大地震」は当時の西欧世界においては、2011年の「3-11」級のインパクトがあったということだろう。アタマでは知っていた知識も、じっさいに大地震を体験したことで、日本人としてアクチュアルなものと感じることができるようになった。

 今回の「東北関東大震災」が発生する前のことだが、NHKの番組でこういう内容のものを見たのを思い出した。「リスボン大地震」の痕跡が、当時から残っている民家の壁を分析することによって明らかになるというような内容だったと思う。

 さて、引き続き、wikipediaの記述によって、リスボン再建と新生のプロセスについて見ておこう。

震災後

 国王一家は幸運なことに震災で怪我ひとつしなかった。ジョゼ1世らは当日未明にリスボンを出て日の出の時刻にミサに出席した後、王女の願いを聞いて街から離れて祭日を過ごそうとしていた。地震の後、王は壁に囲まれた空間に対する恐怖症となり、破壊された宮殿には戻らず、宮廷を郊外のアジュダの丘に立てた大きなテント群に移した。ジョゼ1世の閉所恐怖症は死ぬまで治らず、娘のマリア1世の時代に木造幕舎が火災に遭うまで宮殿は造られなかった(テント宮殿の焼け跡にマリア1世はアジュダ宮殿を建て、今日まで残っている)。

 宰相のセバスティアン・デ・カルヴァーリョ(後のポンバル侯爵)は王室同様に地震を生きのびた。彼は地震直後「さぁ、死者を埋葬して生存者の手当をするんだ」と命じたと伝えられる。
 彼は、後年ポルトガルに君臨した時と同様の実用主義をもって、すぐさま救命と再建に取りかかった。彼は消火隊を組織し、市街地に送って火災を鎮め、また疫病が広がる前に数千の遺体を処理せよと軍隊に命令した。

 教会の意見や当時の慣習に反し、遺体ははしけに積まれてテージョ川河口より沖で水葬された。廃墟の町に無秩序が広がるのを防ぐため、特に略奪を防ぐため、街の周囲の丘の上に絞首台が作られ、30人以上の人々が処刑された。ポルトガル軍は街を包囲して強壮な者が街から逃げるのを防いだが、これにより廃墟の撤去に多くの市民を駆り出すことができた。

 震災から間もなく、宰相と王は建築家や技師を雇い、1年以内にリスボンから廃墟は消え、至るところが建築現場になった。王は新しいリスボンを、完璧に秩序だった街にすることにこだわった。大きな広場と直線状の広い街路が新しいリスボンのモットーとなった。当時、こんな広い通りが本当に必要なのかと宰相に尋ねた者もいたが、宰相は「いずれこれでも狭くなる」と答えた(現在のリスボンの交通混雑は、彼の知恵が現実になったことを示している)

 当時、宰相の指揮下で建てられたポンバル様式建築は、世界最初の耐震建築でもある。まず小さな木製模型が作られ、その周りを兵士が行進して人工的な揺れを起こし、耐震性が確かめられた。
 こうしてリスボンの新しいダウンタウン、通称「バイシャ・ポンバリーナ」(ポンバルの下町)が作られ、新興階級であるブルジョアジーが都市中心部に進出していった。アルガルヴェ地方のスペイン国境付近にあるヴィラ・レアル・デ・サント・アントニオなど、ポンバル侯爵のリスボン都市計画を応用して再建された都市はポルトガル各地にある。

 いやな連想はもちたくないが、ポルトガルはその後二度と覇権国になることはなかった。ポルトガルが味わった「短い黄金時代」は、植民地支配と収奪によるものだが、黄金時代の短さにかけては日本と同じかもしれない。

 この大地震のあと、リスボンはまったく新しい都市として再生したが、植民地依存型経済のポルトガルはブラジルも失い、衰退への道をたどっていくことになる。現在のポルトガルは、財政破綻した小国家にすぎない。

 とくに2008年の「リーマンショック」以降は、南欧の・・国として、債務不履行すれすれの状態、国の将来に見切りを付ける若者が増えているという報道もある。書評 『ユーロが危ない』(日本経済新聞社=編、日経ビジネス人文庫、2010)を参照していただきたい。 

 司馬遼太郎の『街道をゆく 23 -南蛮のみちⅡ』(朝日文庫、1988)に収録された「ポルトガル・人と海」によれば、作家・詩人の木下杢太郎こと太田静雄医学博士は、若い頃の南蛮趣味が高じて、キリシタン研究も趣味の域を超えていたようだが、若き日の憧れの地であるポルトガルに中年になってからはじめて訪れたリスボンは、喧噪が甚だしく、「大地震」以前の古いもの建築物が残っていないのであまり興味をひかなかったらしい。

 あえてポルトガルを代表する詩人フェルナンド・ペソアのリスボン案内記『ペソアと歩くリスボン』(近藤紀子訳、彩流社、1999)を引き合いに出さなくても、リスボンは坂の多い、じつに魅力的な街だ。司馬遼太郎も気に入っていたようだ。



「高校地図帳」からわかる日本とポルトガルの共通性

 日本の東北とポルトガルの海岸線は、距離的にはほぼ同じ400km である。

 「3-11」の大津波の被害のあった東北太平洋岸の海岸線が 400km という話をきいてピンときたので、さっそく高校の地図帳を取り出してみたら、なんとあらかじめ図ったかのように、ポルトガル沖に日本列島をうすいピンク色でプロットされているではないか!

  以下にスキャンしたのは、『新詳高等地図-最新版-』(帝国書院編集部編、帝国書院、2006)である。高校の地図帳ほど役にたつものはない。



 そういえば緯度もほぼ同じ、同じく漁業国で「海洋国家」。この二つの国には、共通点があまりにも多すぎるのだ。

 リスボン大地震の震源は、イベリア半島南西沖のようだ。おなじく wikipedia から、震源地をプロットした画像を引用させていただこう。



 そしてまたあかるのは、「1755年リスボン大地震」では、津波が同心円状に拡がっていったことだ。おなじく wikipedia から、津波の拡散状況をの画像を引用させていただこう。



 この地図からもわかると思うが、ポルトガルは地中海諸国ではないのだ。ヨーロッパでは唯一、大西洋にのみ面した国である。アメリカ大陸ををはさんで、ポルトガルと日本とは隣国といえる。これは地球儀で確認できることだ。

 じっさい、米国東海岸の漁師には、アゾレズ諸島などから漂流して居着いたポルトガル系の人間が多いとも聞く。東海岸のビーチを歩いていると、肌が浅黒く、あきらかにアングロサクソンではない風貌をよく見かける。

 そしてまた、ユーラシア大陸の両端に位置しているのが日本とポルトガルである。ユーラシア大陸はユーラシア・プレートのうえに乗っている。

 wikipedia の「プレート」という項目に掲載されている地図を加工して、ユーラシア・プレートを中心に再構成してみると、3つのプレートがぶつかる日本ほど危険ではないが、ポルトガルもまた沖合で2つのプレートがぶつかりあう危険な地帯であることがわかる。



 日本が「日出づる国」であれば、ユーラシア大陸の西端に位置するポルトガルは「日沈む国」である。対岸北アフリカのマグリブと緯度は違うが軽度はほぼ同じだ。



衰退の作法-ポルトガルの場合

 「大英帝国の興亡」は日本でも大きな話題になるが、おなじく「海洋帝国」であった「ポルトガルの衰退」は、なぜか話題になることは少ない。

 「大航海時代」を切り開いたのは、ユーラシア大陸西端の国家ポルトガルであり、その旗振り役を果たしたのがエンリケ航海王子である。

 インドのゴア、現在のマレーシアのマラッカ、そして中国のマカオを極東の拠点にして日本とも往来するに至ったのは、現在ではもともと存在したイスラーム商人の交易ルートに取って替わったものであると了解されるようになっている。とはいえ、爆発的なエネルギーが根底にあったことは間違いない。

 それに加えて、「進取の気性」の強いのがポルトガル人だろう。 『ルズ・ウジアダス』(ポルトガルの人々)で有名なポルトガルの国民詩人カモンイス(1524年頃~1580年)は、一節によれば、なんとマカオまで足を伸ばしていたという。

 伝統的に海外にでかける人間が多いポルトガルは、本国とは縁が切れて「土着化」してしまっている者もきわめて多い。

 ブラジルでも、インドのゴアでも、マレーシアのマラッカでも、東ティモールでも、現地人と混血して「土着化」が進んでいる。人間も混血すれば、料理も土地の料理と融合してあらたなジャンルを生み出すに至っている。『南蛮料理のルーツを求めて』(片寄眞木子、平凡社、1999)は、土着化したポルトガル人の末裔の料理におけるクリエイティビティをよく描いた本でおすすめだ。

 日本には、ポルトガルの元海軍士官で、外交官として神戸に駐在していたモラエスのような人もいた。モラエスは後半生を徳島に隠棲して過ごしている。

 日本にかんする記事の文筆活動で生計を支えていたモラエスは、ポルトガル本国との縁は切らなかったようだが、現在ではポルトガル国内でも知る人は少ないようだ。

 リスボンに行った際、観光案内所でモラエスの旧家について場所を訊ねたところ、わからないという回答が帰ってきただけでなく、「モラエスとは誰か?」と逆に聞かれてしまった。ある意味では、海外に土着し、その土地の土となって、本国に住み人間からは忘れ去られた人であるのかもしれない。

 海外に出て「土着化」しやすいのは日本人も似ているような気がする。それはそれで、いいではないか。

 徳川幕府の三代将軍家光のときに「鎖国令」がでてから、海外在住の日本人は帰国できなくなり、在住先に土着化し歴史のなかに消えていった。こういう点は、移住先にチィナタウンをつくる中国人とは大きく異なるようだ。

 「鎖国」した日本とは異なり、17世紀以降も、ゆるやかに衰退しながらも 「海洋国家」 でありつづけたポルトガルは、最初で最後の「植民地帝国」として、「1755年リスボン大地震」以降は、国内経済の衰退を植民地への経済的依存で乗り切った。先にも書いたように、ポルトガルは1974年の革命で海外植民地ほほぼすべて放棄したが、マカオは最後の最後まで維持しつづけた。

 わたしがリスボンに滞在していた1999年10月は、旧ポルトガル領の「東ティモール独立運動」がピークに達していた頃だ。音楽による東ティモールへの支援活動も行われていて、バンドの名前は忘れたが、わたしもシングル盤のCDをリスボンで購入している。

 東ティモールは1999年8月に国民投票で独立を選択し、2002年にはようやくインドネシアから独立を勝ち取ることができた。1997年の 「IMFショック」後の弱体化した経済と混乱する政治状況のなか、激しい闘争ののちに勝ち取った独立であるが、陰に陽にポルトガルが支援していたことも記憶しておくべきだろう。インドネシアは、東ティモール以外は大半がオランダの植民地であった。

 そして、1999年12月20日、ポルトガル最後の植民地マカオは中国に返還された。1997年の香港返還の影にかくれて忘れられがちだが、英国が香港を放棄した時点でマカオの運命も決まったといってよい。

 できれば、返還される前にマカオに行きたかったのだが、残念ながらそれはかなわなかった。数年後にようやくマカオにはいくことができたが、予想に反して街中にはポルトガル語表記の看板が生き続けていた。

 まあ、こんなことを考えていると、うまい衰退の仕方が重要なのではないか、と思うのである。大英帝国も、オランダも、フランスも、スペインもポルトガルも、植民地を放棄したかつての覇権国はいずれも、歴史の表舞台から主役を降りた後は、ゆるやかに衰退する道を歩まざるをえないでいる。これは、いい悪いといった次元の話ではなく、歴史的事実である。

 「衰退」という二文字には夢がないというなかれ。 日本はここにきてやっと大人の国に脱皮する重要な時期を迎えつつあるのではないか。

このブログでも、NHKによる「坂の上の雲」ドラマ化に距離をおいて、衰退論として大英帝国に言及した記事を書いているが、重要なのはどのような衰退の仕方を選択するかということではないだろうか。

 衰退の比較論をするにはブログ記事だけではとても書ききれないが、大英帝国も、オランダも、フランスも、スペイン、ポルトガルについて、衰退過程が始まってからの歴史的推移をキチンとトレースすることが重要である。

 海外にでて土着化するもよし、国内に踏みとどまって生きてゆくのもよし。 

 要は、この日本もまた短い黄金時代を享受したのち、間違いなく始まっている衰退過程にあるという歴史的事実から目をそらすことなく、まずは自分自身の生き方を決めて行動していくことが大事なのである。

 他人の行動を非難したり、吠えたりするのはお門違いだというべきだろう。あくまでも自分の人生、他人の発言に右往左往すうることなく、信念を貫いて生きてゆくべきである。



<関連サイト>

大地震はそれまでの楽観論を覆した-18世紀、リスボンの地震が起こした思想界の激震(上)
・・しかし一七五五年に、リスボンとは遠く離れたケーニヒスベルクの町で大学の私講師になったばかりのカントにとっては、この事件は神の摂理の問題でも、弁神論の問題でもなく、まず地球力学の問題だった。

旧植民地に頼るポルトガル(FINANCIAL TIMES の翻訳記事 2010年1月18日)

イタリアとスペイン国債が下落-ポルトガル格下げで危機拡大を懸念 2011年7月6日



<参考文献>

『ポルトガル史』(金七紀男、彩流社、1996)
『街道をゆく 23-南蛮のみちⅡ-』(司馬遼太郎、朝日文庫、1988)
『ポルトガルへ行きたい(とんぼの本)』(菅原千代志/日埜博司他、新潮社、1995)
『ポルトガルを知るための55章 第2版(エリア・スタディー)』(村上義和/池俊介=編著、明石書店、2011)がつい先日、2011年10月に出版されたが、驚いたことに、1755年の「リスボン大地震」の記述が項目としてたてられていない。「3-11」後の日本ではもっとも大きな話題である「大地震」を、ポルトガルはどう乗り切ったか、乗り切れなかったのかという記述を欠いているのは理解できない。編者たちも出版社も、時代状況が読み切れずに、ピンぼけしているのではないか?









<ブログ内関連記事>

「自分の庭を耕やせ」と 18世紀フランスの啓蒙思想家ヴォルテールは言った-『カンディード』 を読む

We're in the same boat. 「わたしたちは同じ船に乗っている」

書評 『ユーロが危ない』(日本経済新聞社=編、日経ビジネス人文庫、2010)
・・「ポルトガルがさらに衰退する可能性の岐路にたっている記述を読むと、他国のことながら暗澹(あんたん)とした気持ちになる。若者に夢のない国として、母国に見切りをつける動きがでているらしいのだ」

『檀流クッキング』(檀一雄、中公文庫、1975 単行本初版 1970 現在は文庫が改版で 2002) もまた明確な思想のある料理本だ
・・ポルトガルの漁村で晩年の一年間を過ごした檀一雄の『檀流クッキング』には、ポルトガルの庶民料理も登場する。

「500年単位」で歴史を考える-『クアトロ・ラガッツィ』(若桑みどり)を読む
・・1543年鉄砲伝来、1549年キリスト教伝来。ともにその役割を担ったのは「大航海時代」のポルトガル人であった

NHK連続ドラマ「坂の上の雲」・・・坂を上った先にあったのは「下り坂」だったんじゃないのかね?

秋山好古と真之の秋山兄弟と広瀬武夫-「坂の上の雲」についての所感 (2) 

書評 『大英帝国衰亡史』(中西輝政、PHP文庫、2004 初版単行本 1997)




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2011年10月21日金曜日

「自分の庭を耕やせ」と 18世紀フランスの啓蒙思想家ヴォルテールは言った-『カンディード』 を読む


 「自分の庭を耕やせ!」

 18世紀フランスの啓蒙思想家ヴォルテール(1694~1778年)は、『カンディード』という哲学小説の末尾に近い箇所で、作中人物にそう語らせている。

 フランス語の原文は Il faux cultiver notre jardin. フランス語を学び始めて3ヶ月で理解できる、きわめて平易な文章だ。

 「われわれは、自分たちの畑を耕さねばならない」。

 意味については、あらためて説明するまでもあるまい。フランス語の cultiver(耕作する)は、culture のもとになったコトバだ。耕すことは文化につながる。

 『カンディード』(Candide)という小説のタイトルは、主人公の名前からとっったもの。英語でも candid とは率直な、とか正直なという意味だ。この小説の主人公は文字通り素直な人物である。

 17世紀ドイツの『阿呆物語』にもよく似た、遍歴物の体裁をとっている寓話のような哲学小説である。

 主人公カンディッドは、ドイツからオランダ、英国を経て、ポルトガルに足を踏み入れた日に「リスボン大地震」に遭遇、その後、スペインから地中海に抜けて南米を経巡り、エルドラードに飽きた主人公は欧州に戻り、ヴェネツィアを経てオスマントルコのコンスタンティノープル(=イスタンブール)へ。そして最終的に、イスタンブール近郊の農村に落ち着くことになる。


 諸国遍歴の末、故郷の地に戻ってきたカンディードがしみじみとつぶやくセリフが「自分の庭を耕せ」。 耕すべき土地はここにある。幸福はいま、ここにある。そういう意味だろう。

 しかしそれは、諸国を遍歴してみてはじめてわかったことだ。「風が吹けば桶屋が儲かる」式の予定調和的因果関係を順々と説く師匠のパングロスの発言をさえぎって言う "Yes, but" 。それはまさに「意思のチカラ」によるもので、「意思の表明」以外のなにものでもない。

 岩波文庫の新しい訳では次のようになっている。

「お説ごもっともです」と、カンディードは答えた。
「しかし、ぼくたちの庭を耕さなければなりません」

 同じくフランスの文学者サン・テグジュペリの『星の王子様』(Le Petit Prince)で、主人公の王子様が「自分の星に戻ってバラに水をやらないと」とつぶやいたことを思い起こす。

 あるいはベルギーのフランス語作家メーテリリンクの『青い鳥』(L'Oiseau bleu)もまた。「幸福の青い鳥」は自分の家にいたのだ。
 
 「人間万事塞翁が馬」、「万物流転」などさまざまなコトバが思い浮かぶ。また、「回り道の重要性」、「ムダの重要性」について語ったコトバにも思える。

 人生には何一つムダなどない。回り道をしてこそ発見できる気がつくものがあるのだ。


「理屈をこねずに働こう。人生を耐えられるものにする手立ては、これしかありません」

 「自分の庭を耕せ」のコトバの前には重要なセリフがあるので紹介しておきたい。最終的にトルコに腰を落ち着けることになった主人公カンディードに対して、土地に根付く農民が答えたセリフだ。

「わたしの土地はわずか20アルパンにすぎません」と、トルコ人は答えた。「その土地を子どもたちと耕しております。労働はわたしたちから三つの大きな不幸、つまり退屈と不品行と貧乏を遠ざけてくれますからね」(岩波文庫版 P.456 太字ゴチックは引用者=わたしによる)

 18世紀当時のオスマントルコは、欧州よりもはるかに寛容な地であった。15世紀末にスペインから追放されたユダヤ人たちを全面的に受け入れたのもトルコだし、その後も革命家など多くの亡命者を受け入れてきた歴史がある。

 「自分の庭を耕せ」のコトバの後にはさらに重要なセリフがあるので紹介しておきたい。

「理屈をこねずに働こう」と、マルチンが言った。「人生を耐えられるものにする手立ては、これしかありません」。
 小さな共同体の仲間は、こぞってこの賞賛すべき計画に加わった。それぞれが自分の才能を発揮しはじめた。ささやかな土地は、多くの収穫をもたらした。確かに、キュネゴンドはひどく醜かったが、しかし菓子作りの名人になった。パケットは刺繍(ししゅう)をし、老婆は下着類の手入れをした。ジロフレー修道士にいたるまで、役に立たない者はいなかった。彼は腕っこきの指物師(さしものし)だったばかりでなく、礼儀をもわきまえた人物になった。(P.458 太字ゴチックは引用者=わたし)

 「理屈をこねずに働こう。人生を耐えられるものにする手立ては、これしかありません」、「それぞれが自分の才能を発揮しはじめた・・役に立たない者はいなかった」。じつに説得力のあるセリフではありませんか!
 
 幸せは、働くことによってのみ得られる。目の前にある仕事に専念する、足下の泉を掘る。なんだか東洋人の悟りのような感じもするではないか。ヴォルテールはこの達観めいたセリフを主人公に語らせるため、あえて舞台設定を東洋世界のトルコにしたのかもしれない。

 1755年の「リスボン大地震」を知って、それまであったライプニッツ的な予定調和の世界がもろくも歩解していくのを痛感し、その後の「七年戦争」の荒廃のなかで前半生から訣別したのがヴォルテール。人生の酸いも甘いも舐め尽くしたヴォルテールが書いたのが『カンディッド』である。

 『カンディード』を出版したのち、有名な『寛容論』が書かれることになる。『カラス事件』(冨山房百科文庫)というタイトルで出版されていたものが、このたび中公文庫から『寛容論』(中川信訳、中公文庫、2011)として復刊された。

 「わたしは、君の言うことに反対だが、君がそう主張する権利は死んでも守る」という、しびれるようなセリフを吐いたのがヴォルテールだ。このセリフは、寺山修司の本でみた記憶があるがまさに「寛容の精神」を身を以て示した先人である。

 こういう不寛容の嵐が吹きまくっているグローバル時代には、ふたたびアクチュアルな作家・思想家として取り上げたい。

 「3-11」の大地震と大津波、そして原発事故を体験したわれわれは、ヴォルテールとおなじ位置にたっているのだから。







<関連サイト>

film "il faut cultiver notre jardin"
・・2010年製作のフランス語映画


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書評 『独学の精神』(前田英樹、ちくま新書、2009)・・コメ作りの農を讃える

本の紹介 『阿呆物語 上中下』(グリンメルスハウゼン、望月市恵訳、岩波文庫、1953)
・・17世紀ドイツのピカレスクロマン、遍歴小説。

書評 『1492 西欧文明の世界支配 』(ジャック・アタリ、斎藤広信訳、ちくま学芸文庫、2009 原著1991)
・・アタリが引用するオスマントルコ皇帝のコトバに注目




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2011年10月20日木曜日

青いみかんは旬の果物-野菜に季節感がなくなったいまも果物には旬がある!



 9月並の陽気が一転して、11月並の寒さになったり、それこそ猫の目のようにクルクルと天気がかわっていますが、風邪など引いていませんか?

 わたしは、先々週引いた風邪がまだ完治せずにいるところです・・

 ところで、フルーツの世界ではすでに 「選手交代」

 世界一うまいフルーツである日本梨の季節も終わりに近づき、いまの旬は「青いみかん」。写真は、熊本産の早生(わせ)のみかん

 みかんといえば、愛媛産や和歌山産が日本では常識ですが、この青いみかんは熊本産です、

 青いというよりも緑色と黄色のまだら模様といったほうが正確ですが、甘すぎず酸っぱい味が、この季節ならではのものですね。まさに「旬のもの」というべきでしょう。

 ハウス栽培が当たり前になって、野菜から季節感が失われて久しいですね。またグローバル経済のなか、輸入される野菜も増えています

 一年中トマトもきゅうりも食べられるようになったことはありがたいのですが、日本の野菜から季節感が消えてしまったのは残念なことです。

 そんななか、一年である特定の時期にしか食べることのできないのが果物

 日本の梨は言うまでもなく、早生の青いみかんもまた、一年のうちのごく短い期間だけ食べることのできる季節感あふれた果物だと言うことができます。

 一年をとおして入手できる利便性を犠牲にしても、一年のうちのごく短い期間だけ食べることのできるフルーツ。季節感を大いに味合わせてくれる貴重な存在だと言えるでしょう。



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イスラエル産スウィーティーの季節

"あきづき" という梨の新品種について

     


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2011年10月18日火曜日

三宅一生に特注したスティーブ・ジョブズのタートルネックはイタリアでは 「甘い生活」(dolce vita)?!


 Facebook や Twitter などの SNS でいろんな人たちとやりとりをしていると、ときどき面白い発見をすることがあります。

 誰かのあるひとつのつぶやき(tweet:さえずり)を偶然みて、そのなかに書かれていた内容がタグとなって、自分のアタマのなかの「引き出し」を刺激し、連鎖反応的にイモヅル式にさまざまな知識や情報を引き出してくることがあるのですね。「ユーレカ!」体験というのか、「ピン!」体験というのでしょうか?


タートルネックはイタリアでは 「甘い生活」(dolce vita)?

 今回はそんな話の一つとして、先週 56歳で亡くなったスティーブ・ジョブズから始まる話です。

 イタリアの首都ローマ在住の平島幹さん(@Harishuma)のツイートに目がとまりました。実名公開されているツイートですので、そのまま引用させていただきましょう。なお太字ゴチック部分はわたしによるものです。

タートルネックのことをイタリアではdolcevita、ドルチェヴィータっていうんですけど、ジョブスがdolcevitaを三宅一生に注文、というようなタイトルで一瞬何が何だか分かりませんでした。世界的に巡ったんですね。このニュース。ちなみにやっぱりフェリーニからの命名ですって。

 このツイートをみてすぐにピンときたわたしは、このつぶやきをすぐにリツイートして、平島さんにはこう返事を書いて送信しました。

『甘い生活』ですね。ローマの!

 この返事にいただいた返事はこういうものです。

そうです、そうです。マルチェッロが映画で着ていたタートルネックが人気を博し、「ドルチェヴィータ」と呼ばれるようになったんだそうです。

 というわけで、スティーブ・ジョブズ ⇒ ジョブズといえば黒のタートルネックにジーパンがトレードマーク ⇒ ジョブズが三宅一生に500着を特注 ⇒ イタリア語ではタートルネックのことを docevita という ⇒ フェリーニの dolcevita ⇒ 日本語では『甘い生活』として公開 ⇒ 主人公のマルチェッロ・マストロヤンニ ⇒ かの有名なトレヴィの泉のシーン.... と連想が拡がっていくわけです。

 まさか、スティーブ・ジョブズからフェデリーコ・フェリーニの傑作『甘い生活』に連想がいくとは、思いもつかないことでしょう。

 これは、たまたまわたしが Twitter やっていて、たまたまタイムラインにあるツイートに反応し、ジョブズの映像をなんども見てその印象が焼き付いており、しかもむかし『甘い生活』という映画を見たことがあり、イタリア語も多少はわかる、といったさまざまな前提条件がその一点においてスパークしたということなわけです。

 三宅一生の件は正確にいうと、すでに生産停止された商品であったにもかかわらず、ジョブズが気に入っていた一着をサンプリングさせてまで「特注」したということのようです。500着あれば一生分困らないだろうということで。



 手持ちのイタリア語の辞書を引いてみました。『小学館 伊和中辞典』(小学館、1983)の項目 dolce には、dolce vita として以下のように説明されています。

dolce vita 甘い生活。(◆本能のまま自由に遊び暮らす生活を指す。Fellini 監督の映画 "La Dolce Vita"(1959)から一般化)。

 説明はこれだけで、タートルネックの説明は書いてありません。ファッション用語辞典で見たらいいかと思いましたが、前回の引っ越しの歳に古本屋に売り払ってしまったことを思い出して残念。

 試みに doce vita と turtleneck でキーワード検索すると、じっさいにファッション関係のサイトがたくさんでてきます。Dolce-Vita Turtlenck でひとつづきの表現のようです。たとえば男性ファッション誌 GQ のサイトには Top ten Italian style on screen と題した記事があって、In Italian a turtleneck jumper is called a "Dolce Vita" jumper after the looks sported by Marcello Mastroianni in this film. と書かれています。

 そもそもタートルネックは英語の turtle neck で、日本語に直訳したら「カメの首」。そのものずばりで面白い表現ですが、イタリア語の dolce vita のほうがシャレてますよね。

 マルチェッロ・マストロヤンニが『甘い生活』のなかで着ていたというタートルネック、どんなものか見てみたくてひさびさに DVD で視聴してみました。

 ほとんど20年ぶりくらいに見る『甘い生活』は有名なトレヴィの泉のシーン(・・上掲のDVD画像)以外はほとんど何も覚えていないことに驚かされましたが、もしかしたら偽りの記憶として、見たつもりになっていたのかもしれません。

 それは冗談として、今回じっくりと見てみて、これはまったくもって傑作だと再認識した次第です。

 舞台設定は 1960年のローマのセレブの世界と上流社会ですが、戦争から15年たったローマでは古代ローマさながらの『虚栄の市』(Vanity Fair)ともいうべきか、乱痴気騒ぎと終わったあとの虚しさの繰り返し。フェリーニはもともと『バビロン紀元二千年』というタイトルを考えていたというのも頷ける話でです。

 セレブたちに群がるパパラッツィ。そうか、主人公の友人でカメラマンのパパラッツォが転じてパパラッツィ(paparazzi)というコトバが生まれたのだったか。流行語を生み出したのは、タートルネックだけではなかったわけですね。

 現代人の倦怠と孤独を描いたこの映画をいま見て楽しめるのはは、わたし自身の年齢によるのかもしれません。「バブル時代」を経験してるものの、20年近くたったいまなら客観的に突き放して見ることもできるわけです。

 ところでマストロヤンニ自身はその『マストロヤンニ自伝-わが映画人生を語る-』(押場靖志訳、小学館、2002)のなかで、『甘い生活』を機会に米国人からつけられた「ラテン・ラヴァー」(Mr. Latin Lover)というニックネームにずっとつきまとわれていたのには、心底ウンザリしていたことを述懐しています。

 『自伝』には、タートルネックについてのマストロヤンニ自身による言及はありませんが。


三宅一生に特注したスティーブ・ジョブズの黒のタートルネック

 若い頃に ZEN に傾倒し、カリフォルニアで日本人の禅僧から親しく教えを受けていたスティーブ・ジョブズの黒いタートルネック姿には、なんだか枯れた禅僧のような雰囲気を感じるのですが、そのジョブズと「甘い生活」が結びつくとは、さすがにイタリア人でもどう思うのだろうかと考えてしまいます。

 あるいは、dolce vita は、たんなる普通名詞として、何も考えないでクチにしているのかもしれません。日本語でも、元の意味はとうの昔にわからなくなったまま使われているコトバはいっぱいありますからね。

 偶然ツイートを見ることから始まった「アタマの引き出し」の旅これこそセレンディピティというべきかもしれません。

 セレンディップというスリランカの王子に由来するセレンディピティ(serendipity)とは、何かを探しているときに、探しているものとは別の価値あるものを見つける能力のことを意味しています。

 偶然のキッカケから別の価値あるものを見つけるためには、アタマのなかに「引き出し」が不可欠という事例になっているかもしれませんね。

 わたしにとっては、じつに面白く楽しい旅でした。







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グラフィック・ノベル 『スティーブ・ジョブズの座禅』 (The Zen of Steve Jobs) が電子書籍として発売予定

巨星墜つ-アップル社のスティーブ・ジョブズ会長が死去 享年56歳 (1955 - 2011)

カリスマが去ったあとの後継者はイノベーティブな組織風土を維持できるか?-アップル社のスティーブ・ジョブズが経営の第一線から引退

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・・教授は学生に『Zen and the Motorcycle Maintenance』という哲学書を読めと強くすすめていたことを思い出した。

バイエルン国王ルードヴィヒ2世がもっとも好んだオペラ 『ローエングリン』(バイエルン国立歌劇場日本公演)にいってきた-だが、現代風の演出は・・・・・フェリーニと並んでイタリア映画の黄金時代を築き上げたヴィスコンティ監督の『ルードヴィヒ 神々の黄昏』に触れている





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2011年10月14日金曜日

グラフィック・ノベル 『スティーブ・ジョブズの座禅』 (The Zen of Steve Jobs) が電子書籍として発売予定


 「スティーブ・ジョブズと禅僧の交流を描く、グラフィック・ノベル 『The Zen of Steve Jobs』 が今秋発売!」 という記事が、虚空山彼岸寺(こくうざん・ひがんじ)という、ネット上の無宗派の仏教関連サイトにアップされています。

 以下、この記事などをもとに、米国における禅仏教というコンテクストから、わたしなりの解説を加えておきましょう。

 グラフィック・ノベルというのは直訳すれば「絵入り小説」となりましょうか。まあ、コミックといってしまってもいいと思うのですが、「座禅」(The Zen)というのは、わたしのダジャレです。

 つねに 「本質」 を徹底的に探求し、最低ぎりぎりまでそぎ落とした「シンプル」なデザインを追求したジョブズの発想の根底には、いま流行の「断捨離」 にもつうじる禅仏教の教えが色濃く反映しているようです。日本的ミニマリズムにも通じるデザイン発想でしょうか。

 この記事によれば、若き日にアメリカで禅の指導に当たっていた日本人僧侶の乙川弘文(おとがわ・こうぶん)師のもとで禅を学んだそうで、その様子がグラフィック・ノベルとして描かれています。ジョブズと乙川師は終生友人関係を続け、乙川師は 1991年に行われたジョブズの結婚式も司ったそうです。

 なお、上掲のイラストは、出版元のビジネス雑誌 Forbes(フォーブス)のウェブサイトに掲載された記事 Introducing The Zen of Steve Jobs: A Graphic Novel から持ってきたものですが、岩の上で座禅しているのは乙川弘文師、くってかかっているのは若き日のスティーブ・ジョブズ。

 米国では、D.T.Suzuki の "An Introduction to Zen Buddhism"(禅仏教入門)という本はペーパーバックで簡単に入手できます。もちろん、日本でもアマゾン経由で購入できます。スイスの臨床心理学者 C.G.ユングによる、やや長めの序文がついています。ロングセラーですね。 

 D.T.Suzuki とは、じつは鈴木大拙のことですね。いっけんクリスチャンネームのように見えるミドルネームですが、Daisetsu Teitaro Suzuki(大拙・貞太郎・鈴木)の頭文字をとったものです。禅を中心とした仏教学の大家ですから、当然仏教徒です。

 ジョブズは、おそらくフツーの日本人よりは、はるかに禅につうじていたのではないでしょうか? もちろん、日本語をつうじてではなく、英語を通じてですから日本人のように感覚面だけではなく、まずはロジックからはじまり、そして座禅や瞑想をつうじて、さらにロジックを超えた次元で没入したようです。それまでの葛藤もこのグラフィック・ノベルに描写さえれているようです。

 没後、ジョブズについては、直接に面識のあった人たちが回顧していますが、大病を患うまでのジョブズは、そばにいるだけでピリピリするような完璧主義の "独裁者"であったようです。

 ジョブズも、禅のもつ「何者にもとらわれない自由」の影響が圧倒的に強かったようですね。ドラッグを使わずに、座禅というメディテーションによって「自由」を獲得できるという意味において。

 米国人で禅仏教に傾倒したアーチストの多くが、この面に大いに感銘したようです。たとえば、京都の禅寺でも修行した詩人のゲイリー・スナイダー『ザ・ダルマ・バム』(The Dharma Bums)という小説を書いている作家ジャック・ケロアックなどの、いわゆえる「ビートニク世代」。

 そういえば、わたしが大好きなカナダ出身の詩人で作家、シンガーソングライター、レナード・コーエンもまた長年にわたって禅仏教の修行を続けている人です。

 がんが発覚して移植手術を起こってからは、ジョブズはそれこそ一皮むけて「一段うえのステージ」にあがったと回想している人もいます。人間の命には限りがあって、前に進むだけではなく、退くことも大事だと悟ったのでしょう。すべてこの世は「無常」(=常ならず)という仏教の教えをカラダで感じとるに至ったのでしょう。

 有名なスタンフォード大学卒業式のスピーチでの発言には、そんなジョブズの死生観が色濃く表れているように思います。はじめてこの映像をみて音声を聞いたとき、米国人でありながらしゃべっている内容がきわめて仏教的だなと思ったものです。

 なお、このグラフィック・ノベルは電子書籍としてのみ出版されるとのこと。日本語版が出版されるかどうかは現時点ではわかりません。

 『スティーブ・ジョブズの座禅(The Zen)』(笑)、ぜひ読んでみたいですね。







<関連サイト>

「スティーブ・ジョブズと禅僧の交流を描く、グラフィック・ノベル 『The Zen of Steve Jobs』 が今秋発売!」
・・虚空山彼岸寺(・・ネット上の無宗派の仏教関連サイト)

Introducing The Zen of Steve Jobs: A Graphic Novel
・・Forbes(フォーブス)のウェブサイトに掲載された記事

ジョブズ氏の革新に影響を与えた思想とは-日本の禅僧と長年の交流(CNN)



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スティーブ・ジョブズの「読書リスト」-ジョブズの「引き出し」の中身をのぞいてみよう!

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2011年10月10日月曜日

『酒井抱一と江戸琳派の全貌』(千葉市美術館)の初日にいってきた-没後最大規模のこの回顧展は絶対に見逃してはいけない!


 『生誕250年記念展 酒井抱一(さかい。ほういつ)と江戸琳派(えど・りんぱ)の全貌』(千葉市美術館)の初日(2011年10月10日)にいってきました。

 没後の最大規模の回顧展だという。これは見逃してはいけません!

●会場:千葉市美術館
●会期:2011年10月10日~11月13日

 酒井抱一(さかい・ほういつ)といっても知らない人も多いでしょうから、展覧会の案内文をそのまま引用させていただくこととしましょう。

 酒井抱一(1761-1828)は、譜代大名・酒井雅楽頭家の二男として江戸に生まれました。文芸を重んじる酒井家の家風を受け、若き日より俳諧や書画をたしなみ、二十代で狂歌や浮世絵などの江戸の市井文化にも手を染めた抱一は、三十七歳で出家して自由な立場に身を置きます。
 そのころから、宗達、光琳が京都で築いた琳派様式に傾倒し、江戸後期らしい新たな好みや洗練度を加えた、今日「江戸琳派」と呼ばれる新様式を確立していきます。
 風流で典雅な花鳥画を得意としながらも、風俗画や仏画、吉祥画や俳画などさまざまな主題や作風に対応しうる柔軟性を持ち、多くの文化人との関わりながら、独自の世界を作り上げました。
 抱一の没後も江戸琳派は実に一世紀近く命脈を保ち、特に高弟の鈴木其一(1796-1858)や、池田孤邨(1801-1866)らの幕末期の活躍は、近年大きな注目を浴びているところです。
 本展は、抱一の生誕250年を記念し、代表作の《夏秋草図屏風》(重要文化財)をはじめとする優品の数々や、琳派展の文脈では視野から外されていた多様な作品を新出資料も含め多数紹介し、その画業を回顧します。あわせて、鈴木其一ら後継者たちの個性も紹介し、江戸琳派の流れと近現代まで伏流となって生きつづけるその美意識を探ろうとするものです。
 出品総数は300点以上で、うち抱一作品は約160点、其一作品は約60点です。会期中には二回展示替えを行います。酒井抱一展として過去最大の規模、総合的な江戸琳派展としては初めての機会となります。

 「花鳥風月」(かちょうふうげつ)という日本的美意識を完成の域にまで高めた、江戸時代後期の画家・酒井抱一と彼がその祖となった 「江戸琳派」 につらなる人たちの大回顧展です。

 「琳派」(りんぱ)とは、本阿弥光悦と俵屋宗達が創始し、尾形光琳・乾山兄弟によって発展させ日本美術史上の流派のこと。「江戸琳派」においても、絵画だけでなく工芸品もふくめた幅の広い流れですね。

 キ-ワードは、粋(いき)と雅(みやび)。遊郭のあった吉原に代表される江戸の「粋」と王朝時代の「雅」(みやび)の融合。 「江戸琳派」にいたって、ほぼ日本画の技法と描く世界が完成に域にとうたつしたといっても言い過ぎではないでしょう。

 譜代大名の家に生まれながらも、なかなかたいへんな人生を送った酒井抱一。いや、そういう家に生まれたからこそというべきでしょうか。

 37歳で浄土真宗から出家したのも、背景にはさまざまな理由があったようですが、この当時の出家が文字通り「家を出る=自由になる」ことを意味したことに注目したいと思います。出家することで、身分制度の枠外にでる。このことが当時のアーチストに、いかに大きな意味をもっていたかも考えてみたいものです。

 今回の回顧展には、酒井抱一による各種の仏画も展示されており、観音菩薩や地蔵菩薩のほかに、青面金剛(しょうめんこんごう)を描いた仏画は、チベット仏教のタンカ(仏画)を思わせるものもあります。

 また、オランダ商館長ヅーフによるオランダ語に賛も書き込まれた医聖ヒポクラテス像は洋画風の作品で、酒井抱一がいかに各種の技法を研究し取り入れていたかもわかります。

 また、「江戸琳派」は工芸デザインとしても粋と雅な作品の数々を送り出しています。この側面も見逃したくないものです。



 とはいっても、最大の見所は豪勢な「屏風絵」と「十二ヶ月花鳥図」です。見事な屏風絵もガラスケース越しにしか見られないのはたいへん残念なことですね。ぜひ広い畳の部屋で心ゆくまで眺めたいものですが、それは贅沢というものでしょう。

 作品保存の観点などから、入れ替えによって展示期間は限定されていますので、千葉市美術館のウェブサイトにアップされている「出品目録」で事前に確認されることをお奨めします。

 大きな展示替えは、10月25日 と 11月1日の2回です。わたし自身も、あと一度は足を運ばねばと思っています。ポスターに掲載されている「夏秋草図屏風」は、11月1日~13日の展示ですので、この時期にはかならず再訪しなくては。

 また、今回の大回顧展の図録(カタログ)兼書籍、『酒井抱一と江戸琳派の全貌』(松尾知子/岡野智子=編集、酒井抱一展開催実行委員会、求龍堂、2011)もぜひ購入すべきです。


 じつに手のかかった、それ自体が豪勢で、しかも重量も重い大型本です。美術書専門の求龍堂が出版しており、市販されていますので、会場で購入して持って帰るよりも、amazon などのネット書店で購入して無料配送してもらうことをお勧めします。

 千葉市美術館の現在の館長は、美術史家の小林忠氏。なるほど次から次へとすばらしい企画を打ち出してくる秘密はそこにあるわけです。

 しかも、東京や京都のメジャーな美術館ではなく、地方の美術館のネットワークで全国で巡回展を実施するというのはすばらしいことです。初日の朝から多くの入場者であふれていましたした。話題の美術展なのですね。

 酒井家ゆかりの「姫路市美術館」(2011年8月30日~10月2日)はすでに終了していますが、「千葉市美術館」のあとは、ふたたび関西では京都の「細見美術館」(2012年4月10日~5月13日)で開催されます。

 関東では、千葉市美術館だけの開催になりますので、ぜひ一度は足を運んでいただきたく思います。





<関連サイト>

『生誕250年記念展 酒井抱一(さかい。ほういつ)と江戸琳派(えど・りんぱ)の全貌』(千葉市美術館)


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「生誕130年 橋口五葉展」(千葉市美術館) にいってきた
・・千葉市美術館は館長に美術史家の小林忠氏がいるので、じつによい企画が多い。これもその一つ

美術展 「田中一村 新たなる全貌」(千葉市美術館)にいってきた
・・百貨店でよく取り上げられる田中一村だが、きちんと美術館で正当な評価を行ったことはすばらしい

特別展 「五百羅漢-増上寺秘蔵の仏画 幕末の絵師・狩野一信」 にいってきた







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「辛亥革命」(1911年10月10日)から100年-ジャッキー・チェン製作・監督の映画 『1911』 が待ち遠しい!


 1911年10月10日、革命家・孫文たちによる 「辛亥革命」(しんがい・かくめい)が始まった。いまからちょうど 100年前のきょうだ。

 この日から約2ヶ月後に清朝は滅亡し、翌年 1912年1月1日に、孫文を臨時大総統(・・大統領ではない、"大総統")にして中華民国が成立することになる。

 これを記念して、ちょうど100作目となる映画『1911』を製作・監督したのがジャッキー・チェン(李成龍)だ。カンフー映画でも、アクション映画でもなく、歴史、しかも中国現代史を描いた超大作である。100作目の映画が、ちょうど革命から100年目というキリのいい数字と重なる

 構想10年、総製作費30億円という歴史エンターテインメント超大作 は、中華圏ではすでに9月29日(木)から公開されている。

 ところが、日本公開は、11月5日(土)までおあずけ。なんてバカなことをしているのだ、日本の興行界は!?

 革命記念日である10月10日にあわせて公開しなくちゃダメじゃないか! 10月10日は、台湾(=中華民国)では「双十節」という国慶日(=建国記念日)で、しかも今年は「中華民国建国百年」あるから、中国共産党に配慮したということだろうか? 憶測は意味はないことだが。

 日本版の予告編と中文版の予告編を比較してみると、日本版の予告編は、あいもかわらぬ情緒的、感傷的な日本人向けコピーに充ち満ちている。「歴史に残らなかった<命>の物語」だそうだ。映画の宣伝プロモーションにはその市場向けのローカライズが必要とはいえ、なんだかよくわからないコピーである。

 中国では、歴史イコール政治、政治イコール命がけ、ということがどこまでわかっているのだろうか? 映画の見方は一つだけではないのだが、それにしてもこのコピーでは、さらなる誤解を日中間で再生産するだけなのではないだろうか?

 とにかく、予告編を比較してみておくことをお奨めしたい。以下に列挙しておいた。

日本版予告編(YouTube映像)

外国版予告編(英文・中文字幕)(YouTube映像)

香港版(中文字幕)(YouTube映像)


 基本的に歴史エンターテイメント作品なので、見るのを楽しみにしているのだが、この作品を見ることによって、製作・監督にあたった香港人ジャッキー・チェンの歴史観・政治観を知ることもできるだろう。

 「辛亥革命」以後の100年とは中国現代史であるとともに、日中関係の歴史でもある

 そして、孫文と辛亥革命というシンボルは、現在台湾にある中国国民党にとっても、中国本土を統治する中国共産党にとっても、共通のシンボルである。事の是非は別にして、「国共合作」というコンセプトの根拠ともなりうるシンボルなのだ。

 歴史を知らないで現代を語るのはきわめて危険である。繰り返すが、現代中国史とは日中関係の歴史でもあり、近現代の中国史は、日本人にとってはけっして無縁なものではない。
 
 革命にために膨大な軍資金を提供した実業家・梅屋庄吉をはじめ、玄洋社の頭山満(とうやま・みつる)や宮崎滔天(みやざき・とうてん)など、多くの日本人が直接かかわった「辛亥革命」。1911年は明治44年である。

 「辛亥革命」への日本人のかかわりが、ジャッキー・チェンの映画ではどう描かれているのかいないのか、香港・日本の合作映画 『宋家の三姉妹』(1997) との違いはなど、気になるところだ。

 とりあえずは、一ヶ月後の 11月5日の日本公開を待つこととしよう。





<関連サイト>

宗家の三姉妹(宗家皇朝 The Soong Sisters)
SOONG SISTERS_Trailer


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特別展「孫文と日本の友人たち-革命を支援した梅屋庄吉たち-」にいってきた-日活の創業者の一人でもあった実業家・梅屋庄吉の「陰徳」を知るべし
・・「革命」を資金で助けた「陰徳」の人・梅屋庄吉と孫文の友情

ひさびさに宋文洲さんの話をライブで聞いてきた!-中国人の「個人主義」について考えてみる
・・孫文の『三民主義』について書いておいた




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2011年10月9日日曜日

リヒャルト・シュトラウスのオペラ 『ナクソスのアリアドネ』(バイエルン国立歌劇場日本公演)にいってきた


 10月第2週の土曜日のきのう、リヒャルト・シュトラウスのオペラ 『ナクソスのアリアドネ』(バイエルン国立歌劇場日本公演)にいってきた。

 このオペラはいい! 21世紀にオペラが生き残るとしたら、いやすでにオペラというジャンルが終わっているのだとしても、こういう方向性なら「古典芸能」ではなく、「現代歌劇」として成立しうるのではないかと思わされた。

 演出もまたすばらしい。文句なしにこのオペラはすばらしかった。

 会場は上野の東京文化会館。先週も、ドニゼッティのオペラ『ロベルト・デヴェリュー』を見に行ってきたばかりだが、上野の森は「芸術の秋」には、とくに美術とオペラにはふさわしい。落ち葉を踏みしめながら歩くこと自体に秋を感じることができるから。

日時: 2011年10月8日(土)15:00
会場: 東京文化会館
時間: 15時~17時40分 合計演奏時間130分(幕間休憩1回30分)原作:ホフマンスタール
作曲:リヒャルト・シュトラウス
指揮:ケント・ナガノ
演出:ロバート・カーセン
歌唱: ロバート・スミス(バッカス/テノール歌手役)
    ダニエラ・ファリー(ツェルネビッタ役)
    アドリエンヌ・ピエチョンカ(アリアドネ/プリマドンナ役)
    アリス・クート(作曲家役)



作家ホーフマンスタールと作曲家リヒャルト・シュトラウスのコラボレーション


 『ナクソス島のアリアドネ』は、リヒャルト・シュトラウス(1864~1946)の 1916年の作品。

 バイエルン王国のの首都ミュンヘンに生まれ育って、その地を活動の中心にしていたリヒャルト・シュトラウスの作品を取り上げるのは、バイエルン国立歌劇場としては当然といえば当然というべきなのだ。

 シュトラウスのオペラといえば『薔薇の騎士』だが、この『ナクソス島のアリアドネ』もまた、世紀末ウィーンを代表する作家フーゴー・フォン・ホーフマンスタール(1874~1929)との共作である。

 今風にいえば作家と音楽家とのコラボレーションということになろうが、ただし、ホーフマンスタールの台本に音楽家が曲をつけたという単純な共作ではなく、芸術論にかんする激論をまじえた共作関係であったようだ。
 
 現在でもミュンヘンとウィーンでは、かなりの距離がある。手紙以外に電話もつかってコミュニケーションを行っていたのかどうか。


「ナクソスのアリアドネ」というギリシア神話とは?

 アリアドネは、つい先日までやっていたTVドラマのタイトルでもあるが、「迷宮から救い出す」という神話的な意味で用いられたものだ。

 神話とはギリシア神話、迷宮(ラビリントス)とは冥界につながると信じられていたクレタ島の洞窟(迷宮)のことを意味している。事件が迷宮入りするという迷宮であり、ドイツ文学者の種村季弘が著作集ににつけたラビリントスである。

 ナクソス(Naxos)といえば、廉価版のクラシック音楽レーベルを想起するが、エーゲ海に浮かぶギリシアの小島である(・・下図のまんなか、A の矢印がついている島)。



 アリアドネについては、wikipedia の項目から該当部分を引用しておこう。ただし、ギリシア語表記の長音はわずらわしいので、すべて短音に直しておいた。なお、クレタ島を意味するクレーテーではわからないのでクレタに変換しておく。

クレタ王ミノスは、息子アンドロゲオスがアッティカで殺されたため、アテナイを攻めた。こうしてアテナイは、九年ごとに七人の少女と七人の少年をミノタウロスの生贄(いけにえ)としてクレタに差し出すこととなっていた。テセウスはこの七人の一人として、一説ではみずから志願して生贄に加わってクレタにやって来た。

迷宮とアリアドネーの糸

アリアドネはテセウスに恋をし、彼女をアテナイへと共に連れ帰り妻とすることを条件に援助を申し出た。テセウスはこれに同意した。アリアドネーは工人ダイダロスの助言を受けて、迷宮(ラビュリントス)に入った後、無事に脱出するための方法として糸玉を彼にわたし、迷宮の入り口扉に糸を結び、糸玉を繰りつつ迷宮へと入って行くことを教えた。
テセウスは迷宮の一番端にミノタウロスを見つけ、これを殺した。糸玉からの糸を伝って彼は無事、迷宮から脱出することができた。アリアドネは彼とともにクレタを脱出した。

クレタよりの脱出後

クレタより脱出後・・(中略)・・これ以降のアリアドネの運命については諸説がある。・・(中略)・・別の説では、アリアドネーはナクソス島に至り、ひどい悪阻(つわり)であったため、彼女が眠っているあいだにテセウスに置き去りにされたともされる。されたともされる。あるいはこの後、ディオニュソスが彼女を妃としたともされる。


 概略は以上のような話である。アリアドネは英雄テセウスと一緒に語られる存在である。ここにでてくるダイダロスは息子イカロスとともに迷宮から脱出するが、ご存じのとおりイカロスは墜落してしまう。ミノタウロスは、牛頭の半人半獣である。

 そういった雑多な話はさておき、このオペラに関係するのは、ディオニュソスが彼女を妃としたともされる」という別説のほうだ。

 ギリシア神話のディオニュソスはローマ神話ではバッカス、ここでようやくホフマンスタール原作の台本にたどりつくことになる。ホフマンスタールは、この別伝承をもとに創作したようだ。

 ハンガリー出身の神話学者ケレーニイの『ギリシアの神話-英雄の時代-』においても、アリアドネの神話には伝承によって多くのバリエーションがあることが示されており、どれがもっとも正統なものであるかは決めるのは難しい。なぜなら、それぞれの島ごとに伝承が異なるのは、島民にとっての真実はそれぞれ別物であるからだ。これは日本の『古事記』や『日本書紀』でも同様である。

 したがって、後世の文学者がいかように解釈しようが問題ないだろう。そしてまた男と女の関係というものは、永遠のテーマである。

 これさえわかっていれば、アリアドネにまるわるギリシア神話の詳細はほんとうはどうでもいい話だ。おそらく、上演当時の観客たちも、ギリシア神話の細かい話など知らなかったに違いない。


オペラ『ナクソスのアリアドネ』

 いつ始まったのかよくわからないような演出、これもまた斬新な演出である。

 オペラなのか、レヴューなのか、文学キャバレーなのか、オペレッタなのか、ミュージカルなのかよくわからないドタバタ喜劇のような「プロローグ」のあと第一幕となる。このオペラはプロローグと第一幕だけの二幕構成で、今回は幕間なしの2時間強の上演であったが、合計2時間40分くらいが、人間の生理的感覚からいっても、長すぎず短すぎずでよいのかもしれない。

 このオペラは19161年の作品で、第一次大戦中の作品であることに注意しておきたい。

 戦争が始まったのは1914年、ドイツの敗戦で終わったのは1919年である。1916年の時点では、戦線は膠着していても、まだ敗色があらわになっていなかったのか? シュトラウスのバイエルン王国も、ホーフマンスタールのオーストリア=ハンガリー二重帝国(・・いわゆるハプスブルク帝国)も、この戦争の結果、消滅した。

 このオペラも、その意味では、第一次大戦後に流行したキャバレーなどの流行を先取りして取り入れたものとなっていたのだろうか。ライザ・ミネリ主演のハリウッド映画『キャバレー』の世界は、1930年代前半のベルリンである。

 1916年当時は、もはやすでにオペラの時代ではなくなりかけていたのであろう。そういった過渡期の時代に、自虐的(?)な傾向もなくもない作品だが、オペラのようなブルジョワ階級の芸術と大衆芸能を交錯させ、融合させることに、実験的に着手したのだろか。そう考えると、このオペラ自体が、現代風演出を先取りしていることになる。

 はじめて上演されてから今年で95年目、とはいえ第一次大戦前後は「現代史」のまさに渦中の歴史として、遠い昔だという気がしないのが不思議なことなのだ。だから、このオペラは作成され上演された時点からすでに現代ものなのである。演出もいくらでも現代風にしたらいい。

 ところで、「日経ビジネスオンライン」の記事「詳細なデータなしで原発廃止を提言した報告書-「原子力リスクの分析を技術者だけに任せてはいけない」と判断したドイツ人(下)(熊谷 徹) 2011年10月7日(金)には、以下の記述があるので採録しておく。

・・(前略)・・バイエルン州立歌劇場は今年9月23日から10月上旬まで東京と横浜でワグナーの「ローエングリン」などを上演している。しかし団員400人のうち約100人が、日本への出張を拒否した。
 歌劇場のニコラウス・バッハラー総裁と音楽総監督ケント・ナガノは事前に東京を訪れて情報収集をした後、団員に状況を説明。この結果、約4分の3の団員が日本公演に参加したが、残りは日本に行かない道を選んだ。私はドイツ人のリスク意識の高さや、事故発生直後のドイツのマスコミのセンセーショナルな報道を考えれば、総裁はよく300人の団員を説得できたと思った。それでも、団員の4分の1が「代打」では、熱心な日本のオペラファンの中には、不満を感じる人もいるのではないか。・・(後略)・・


 こういう事情があったにせよ、今回の来日公演は成功に終わったといってよいだろう。

 とくに『ナクソスのアリアドネ』の、ツェルネビッタ役のダニエラ・ファリーへの拍手の大きさは格段のものがった。みな同じように感じているのだ。

 ライブ公演は文字通りなまものであり、どんな突発事件が発生するかフタをあけてみるまではわからないという怖さがあるものだ。

 その意味では、今年は最後の最後まで、たいへんなことだっただろうと察するが、この『ナクソス島のアリアドネ』もまた、気まぐれなご主人の意向に翻弄されるアーチストたちのドタバタを描いた作品である。ある意味、もっとも適切な演目の選定であったかも(笑)

 今年は奇しくも「日独交流150周年」にあたるそうだ。その意味でも記念となる公演であったといえるだろう。あと一日(10月10日)の公演を残してフィナーレとなる「バイエルン国立歌劇場日本公演」、有終の美を飾っていただきたいものである。


<関連サイト>

バイエルン国立歌劇場「ナクソス島のアリアドネ」(Richard Strauss ARIADNE AUF NAXOS, Oper in einem Aufzug nebst einem Vorspiel, Text vom Hugo von Hoffmansthal)
・・主催者のNBSによる投稿映像。この映像で雰囲気を感じ取っていただきたい

日本舞台芸術振興会の「バイエルン国立歌劇場2011年日本公演」
・・演目とその解説記事


<参考書>

『ギリシア・ローマ神話辞典』(高津春繁、岩波書店、1960)
『ギリシア神話-美術と伝説にみる世界-』(呉茂一編著、社会思想社、1972)
『ギリシアの神話-英雄の時代-』(カール・ケレーニイ、植田兼義訳、中公文庫、1985)

『ホーフマンスタール(ロロロ・モノグラフィー叢書)』(ヴェルナー・フォルケ、横川滋訳、1971)

『Bayerische Staatsoper 2011 バイエルン国立歌劇場日本公演カタログ』(日本舞台芸術振興会、2011)


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