「アタマの引き出し」は「雑学」ときわめて近い・・日本マクドナルド創業者・藤田田(ふじた・でん)に学ぶものとは?

◆「アタマの引き出し」つくりは "掛け算" だ : 「引き出し」 = Σ 「仕事」 × 「遊び」
◆酒は飲んでも飲まれるな! 本は読んでも読まれるな!◆ 
◆一に体験、二に読書、その体験を書いてみる、しゃべってみる!◆
◆「好きこそものの上手なれ!」◆

<旅先や出張先で本を読む。人を読む、モノを読む、自然を読む>
トについてのブログ
●「内向きバンザイ!」-「この国」日本こそ、もっとよく知ろう!●

■■ 「むかし富士山八号目の山小屋で働いていた」全5回 ■■
 総目次はここをクリック!
■■ 「成田山新勝寺 断食参籠(さんろう)修行(三泊四日)体験記 」全7回 ■■ 
 総目次はここをクリック!
■■ 「庄内平野と出羽三山への旅」 全12回+α - 「山伏修行体験塾」(二泊三日)を中心に ■■
 総目次はここをクリック!


「個」と「組織」のよい関係が元気をつくる!

「個」と「組織」のよい関係が元気をつくる!
ビジネス寄りでマネジメント関連の記事はこちら。その他の活動報告も。最新投稿は画像をクリック!



ご意見・ご感想・ご質問 ken@kensatoken.com にどうぞ。
お手数ですが、コピー&ペーストでお願いします。

© 2010~2016 禁無断転載!



2012年12月31日月曜日

書評 『西洋史学の先駆者たち』(土肥恒之、中公叢書、2012)-上原専禄という歴史家を知ってますか?

(肖像写真の右から二番目が上原専禄)

上原専禄(うえはら・せんろく 1899~1975)という歴史家の名前を知っている人は、いまやそう多くはないだろう。

阿部謹也(1935~2006)の読者であれば、とくに名著 『自分のなかに歴史をよむ』の読者であれば、「わかるとは変わること」「それをやらねければ生きていけないようなテーマ」といった名文句を吐いた歴史家として記憶のなかにあるかもしれない。

もちろん、わたしも上原専禄の名を知ったのは、恩師である阿部謹也先生を通じてである。そして本書の著者であるロシア史の土肥恒之氏は阿部先生の弟子にあたる。つまり、上原専禄の孫弟子にあたる人なのである。

著者は、もともと上原専禄という歴史家についての関心から出発したと「あとがき」で書いている。

最晩年の著書 『死者・生者-日蓮認識への発想と視点-』(1974年)における「死者との共闘」という姿勢など、近年さまざまなかたちで上原専禄再発見の兆しが見え始めているが、著者は世界史像の再構築を提唱した論客としての上原専禄や、日蓮との実存的関係など戦後の上原専禄には踏み込んでいない。

あくまでも、近代歴史学が日本に移植されて、自前のテーマ設定によって研究が自立していく戦前と戦中に時代を区切り、専門の歴史学者として「禁欲的に」仕事に専念していた時代の上原専禄を取り上げている。史学史からのアプローチである。

『正統と異端』という名著の著者で、東大の西欧中世史をリードした堀米庸三が、若き日に衝撃を受けたという上原専禄の仕事は、歴史家としては当たり前の「あくまでも原史料に基づいて研究する」という態度を西洋史研究において貫いたことにある。

日本史や東洋史では当たり前のこの態度は、90年前の西洋史研究の分野では当たり前ではなかった。それは、現在では考えられないほど日本と西洋の距離は心理的にも物理的にも遠かったこともあるだろう。研究蓄積の層の厚みがなかっただけでない。マイクロフィッシュもなかった時代、そもそも西洋史の原史料には日本ではアクセスできなかったのだ。

京都西陣の商家に生まれ、旧制高校ではなく東京商科大学(・・現在の一橋大学)に入学した上原専禄がたまたまその世界に入ったのがドイツ中世史研究であったが、たまたま留学する機会を得ることになったウィーン大学では、今度はたまたまではなく、みずからの意思で社会経済史の泰斗アルフォンス・ドープシュ博士のゼミナールを選択したことにあることが、すべての出発点であることが、本書を読むとわかる。

ときは大正時代、関東大震災直後の1923年である。ヨーロッパが舞台となった大戦が終結してから4年、ハプスブルク帝国解体後の小国オーストリア共和国の首都ウィーンであった。

ドープシュ教授のゼミナールで当たり前のように行われていたのが、原史料をもとにした徹底的な史料読み込みの演習である。上原専禄は、2年間の留学をつうじて、日本人としての主体性を失うことなくヨーロッパを理解するためには、その方法しかないと深く心に刻み込んだようだ。ディテールを徹底的に深ぼりすることをとおしてしか、全体を理解することはできないということであったのだろう。

そしてその成果は日本で論文として発表され、同業の西洋史学者たちを大いに驚嘆させることになったのだという。「原史料への沈潜」という方法論は、日本の西洋史研究においてはそれほど画期的なものであった。

いまでは考えられないようなことだが、90年前はそんな状況だったのだ。

わたしが西洋中世史のゼミナールで勉強したのはいまから約30年前の1980年代前半だが、その時とくらべても2012年時点では日本人にとっての西洋は異なるものとなっている。

日本も変化し、西洋も変化したからではあるが、世界における日本のポジションが向上し(・・現在はまた下降プロセスにあるが)、西洋はもはや仰ぎ見るべき存在ではないということが大きいだろう。つまり、それは日本人の意識の変化である。

明治維新以降、「近代化」=「西洋化」を選択した日本と日本人が、いかに西洋文明の根源に迫るべく格闘したか。技術や法律など実学的なプラクティカルな分野だけではなく、文明そのものに迫る試みが歴史学という分野でもそれは行われたのである。そのプロセスは、考えようによってはきわめてスリリングなものがあるではないか。

本書は、上原専禄とそれ以外の忘れられた西洋史家たちを取り上げて、日本における西洋史学確立に貢献した歴史学者たちを掘り起こしたものだ。

おそらく本書に登場する歴史家の名前は、現在ではほとんど忘れられているであろう。きわめて地味な内容の本だが、先人たちがいかなる格闘をしていたのか努力の足跡をたどることは、きわめて意義のあることである。




(参考) 山内昌之(歴史学者・明治大特任教授)による書評から(2012年7月16日 読売新聞) http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20120709-OYT8T00404.htm

帝国大学だけでなく、慶応義塾や東京商科大学(一橋大学)の西洋史家たちが社会経済史の面で独特な学風を築いたことは、日本の歴史学の発展にとって幸いであった。ことに、著者の執筆動機となった上原専禄にそそぐ尊敬心と愛情はまことに好ましい。一九二三年からウィーンに留学してドイツ中世史を専門にした上原は、一次史料で欧州の中世史を学んだ第一世代といってもよい。人気教授の教室に出席して大入り満員ぶりに、「余り香しくない気持におそはれた」という上原の印象は、この碩学の器をよく表している。あまり学生のいないドープシュ教授に師事したことがその後の上原の大きなスケールと実証的学風の基礎となったのだろう。







目 次

序に代えて
第1章 ドイツ史学の移植-ルートヴィヒ・リースとその弟子たち
第2章 歴史の経済的説明-欧州経済史学の先駆者たち
第3章 文化史的観照を超えて-大類伸のルネサンス論とその周辺
第4章 「原史料の直接考究を第一義とすること」-上原専禄とドイツ中世史研究
第5章 近代資本主義の担い手を求めて-大塚久雄の近代欧州経済史研究
第6章 「大東亜戦争の世界史的意義」-戦時下の西洋史家たち
あとがき
参考文献
本文中図版引用出典
人名索引

著者プロフィール  

土肥恒之(どひ・つねゆき)
1947年生まれ。一橋大学大学院社会学研究科教授を経て、同大学名誉教授。専攻はロシア社会史・史学史。著書は、『ロシア・ロマノフ王朝の大地 (興亡の世界史)』(講談社、2007)、『岐路に立つ歴史家たち-20世紀ロシアの歴史学とその周辺-』(山川出版社、2000)その他多数(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものより)。


PS 上原専禄がウィーン大学でゼミナールに参加したアルフォンス・ドープシュ教授の主著が『ヨーロッパ文化発展の経済的社会的基礎』(創文社、1980)。1100ページを超える大著である。(2016年10月29日 記す)




<関連記事>

記者の目:上原専禄さんが現代に問うもの=田原由紀雄(毎日新聞) [2010年10月26日(Tue)] 2010(平成22)年10月26日(火) 毎日新聞
・・「死者との共闘」という姿勢など、近年さまざまなかたちで上原専禄再発見の兆しが見え始めているが、その件についてはこの記事(のさらなる再録)を参照

『チマッティ神父の手紙』(1926年、帰国船における日本宣教に出発したサレジオ会修道士たちとの出会い)
・・「今回、日本に向かう私たちと上原専禄という方と一緒に撮った写真を贈る。この善良な若い先生は、自発的に、神秘な日本語の美しさを教えてくれると提案してきた。み摂理は、なんと素晴らしい! 私たちは、もう結構なところまで進み、文章も少し分かるようになった。神に感謝! 願わくは、神様が信仰の恵みをもってこの恩人を報いてくださるように。」

Intermission 謎の銅像絵葉書 上原専禄??
・・「大正13年1月18日 ウィーン王立博物館前 マリヤテレサの銅像の下にて 専禄」と書かれた 絵葉書を購入した人による記事


<ブログ内関連記事>

「如水会講演会 元一橋大学学長 「上原専禄先生の死生観」(若松英輔氏)」を聴いてきた(2013年7月11日)

書評 『封建制の文明史観-近代化をもたらした歴史の遺産-』(今谷明、PHP新書、2008)-「封建制」があったからこそ日本は近代化した!
・・「隠遁後」の上原専禄についての言及がある。今谷明氏は上原専禄と同じく京都出身の歴史家。封建制論争で苦言を呈した上原専禄への敬愛が感じられる本だ

書評 『ヨーロッパとは何か』(増田四郎、岩波新書、1967)-日本人にとって「ヨーロッパとは何か」を根本的に探求した古典的名著
・・付録の「実学としての歴史学」で上原専禄についても触れている。上原専禄の師匠であった歴史家で銀行頭取でもあった三浦新七はドイツ留学時代にランプレヒトの助手をつとめていた。その三浦新七がウィーンでドープシュに師事するよう命じたという。

書評 『向う岸からの世界史-一つの四八年革命史論-』(良知力、ちくま学芸文庫、1993 単行本初版 1978)
・・ゲルマン世界とスラブ世界の接点であるハプスブルク帝国の首都ウィーンを舞台に「挫折した1848年革命」を描いた社会史の記念碑的名著

映画 「百合子、ダスヴィダーニヤ」(ユーロスペース)をみてきた-ロシア文学者・湯浅芳子という生き方
・・「上原専禄(1899~1975)は、湯浅芳子(1896~1990)の3歳下になります。宮本(中條)百合子(1899~1951)と上原専禄は同年生まれになります。上原専禄は、わたしの大学学部時代の先生であった阿部謹也先生のの、さらに先生にあたる人です。 直接の接点があったのかどかどうかわかりませんが、湯浅芳子と上原専禄は、ほぼ同じ頃に京都の商家に生まれ、青春時代と職業人生を東京で過ごした京都人という共通点がある」

書評 『知の巨人ドラッカー自伝』(ピーター・F.ドラッカー、牧野 洋訳・解説、日経ビジネス人文庫、2009 単行本初版 2005)
・・1909年ウィーンに生まれたドラッカーは、第一次大戦に敗戦し帝国が崩壊した都市ウィーンの状況に嫌気がさして17歳のとき(1926年)、商都ハンブルクに移っている。経済学者シュンペーターが頭取をつとめていたウィーンのビーダーマン銀行は、1924年の株価暴落による不良債権膨張で経営危機に陥り、解任され巨額の借金を負っている。上原専禄が留学で滞在していたの1923年から二年間のウィーンは、そういう状況であったシュンペータはのち東京商大を訪問しているが、その際の記念写真には上原専禄も映っている。 
http://www.lib.hit-u.ac.jp/service/tenji/amjas/pamph.pdf

書評 『正統と異端-ヨーロッパ精神の底流-』(堀米庸三、中公文庫、2013 初版 1964)-西洋中世史に関心がない人もぜひ読むことをすすめたい現代の古典

(2016年10月29日 情報追加)


(2012年7月3日発売の拙著です)





Clip to Evernote 


ケン・マネジメントのウェブサイトは
http://kensatoken.com です。

ご意見・ご感想・ご質問は  ken@kensatoken.com   にどうぞ。
お手数ですが、クリック&ペーストでお願いします。



end

2012年12月30日日曜日

書評 『「東洋的専制主義」論の今日性-還ってきたウィットフォーゲル-』(湯浅赳男、新評論、2007)-奇しくも同じ1957年に梅棹忠夫とほぼ同じ結論に達したウィットフォーゲルの理論が重要だ


ウィットフォーゲルと梅棹忠夫。生涯まったくかかわりのなかったドイツの社会科学者と日本の民族学者は、まったく別個のアプローチから出発したのであるが、奇しくも同じ1957年にほぼ同じ結論に達したのである。これは本書の第5章「ウィットフォーゲル理論の残したもの」に記されている、じつに興味深い事実である。

ウィットフォーゲルは「東洋的専制論」で展開した「水利社会論」によって、梅棹忠夫は「生態史観」によって。いまだマルクス主義のイデオロギーが学問世界で幅を利かせていた戦後のアカデミズムの世界において、両者はともに徹底的にたたかれた

梅棹の「生態史観」については知っている人も多いだろう。一方、ウィットフォーゲルといってもピンとこない人も大いに違いない。なぜなら、ソ連崩壊後のいまも、いまだに名誉回復がいまだになされていないまま黙殺されつづけたのがウィットフォーゲルだからだ。

本書は、ウィットフォーゲルの復権のために力を注いできた著者による渾身の一冊である。

ユダヤ系ドイツ人で元共産党員であったウィットフォーゲルは、その主著である『オリエンタル・デスポティズム』(東洋的専制主義)で、水利社会論から中国社会の本質を解明している。残念ながらこのわたしは大著を読んではいないのだが、翻訳者でもある著者の解説によって、そのおおまかなことを知ることができる。

ウィットフォーゲルの理論の原点には、文明を風土との関係でみる視点がある。着目したのは「水の管理」という観点である。これによって、遊牧、牧畜、天水農法、灌漑農法が区分され、灌漑農法のもとにおいては官僚制による管理が成立する。その典型が中国であり、これはユーラシア内陸部にあるロシアもまた「東洋的専制主義」そのものであることが指摘される。

つまり、生態系(エコシステム)でものを考える視点から出発しているといってもよい。この点もまた梅棹忠夫と同じである。

とかく人間は近視眼的にものを見がちだが、スパンを長くとれば、人間よりも生態系、地理学、地質学でのアプローチが重要となる。そういえば、マルク・ブロックと並んで、アナール派歴史学を主導したリュシアン・フェーヴルは地理学者であり歴史学者でもあった。第2世代にあたるフェルナン・ブローデルもまた歴史学者ではあるが地理学の成果を全面的に取り入れている。

自然科学の知見に基づかない風土論がいかに虚妄にみちたものであるかは、『梅棹忠夫 語る』に収録された、「(『風土』を書いた)和辻哲郎はスカタン」という梅棹忠夫の放言に端的に表現されている。

ウィットフォーゲルが理論化した「亜周辺」という概念はきわめて有効である。この概念を駆使した湯浅赳男氏の仕事については、書評 『日本近代史の総括-日本人とユダヤ人、民族の地政学と精神分析-』(湯浅赳男、新評論、2000)-日本と日本人は近代世界をどう生きてきたか、生きていくべきか?を参照されたい。

いちおう説明しておくと、「亜周辺」というのは、ウィットフォーゲルの理論をもとにした分析フレームワークである。「中心(core)-周辺(margin)-亜周辺(submargin) という三層」で文明を論じたもので、日本は「亜周辺」に位置づけられる。著者自身の表現を引用しておこう。

<亜周辺>とは文明史において、その文明を成立させた地域の外側で、その文明の強制を受けることなく、その文明の諸要素を自由に受け入れた地域、具体的にはユーラシア大陸の西端の西ヨーロッパと東端の日本を指すものである(ウィットフォーゲル)。そこでは、中心の文明に教条的に制約されることなく、先行する社会を下敷きにして、独自な文化を展開させることができた。この前近代の歴史において観察される文明のメカニズムから近代文明の未来を考える上でのヒントとして利用できるものがある。(出典:「亜周辺と知識人-『「東洋的専制主義」論の今日性』を書き終えて-」(2008年4月1日 「本と社会」 新評論社のニューズレターより 太字ゴチックは引用者=さとう)

中国社会の研究者であるウィットフォーゲルは、「日本は東洋的世界ではない」としているのである。

さらに湯浅氏は、「封建制」と「武人社会」がもたらした多元的社会は、専制国家である中国・コリアとは根本的にことなることを強調している。封建制が「亜周辺」である西ヨーロッパと日本においてのみ出現したことの意味を考えるヒントがこのフレームワークにあるのだ。海洋国家日本とユーラシア大陸の根本的な違いと言い換えてもいいだろう。

「封建制」をめぐる議論においても、ウィットフォーゲルの「東洋的専制論」と梅棹忠夫の「生態史観」は、ほぼ同じ結論を導き出しているのである。この点については、書評 『封建制の文明史観-近代化をもたらした歴史の遺産-』(今谷明、PHP新書、2008)-「封建制」があったからこそ日本は近代化した!も参照いただきたい。梅棹忠夫は、「日本文明」は「中国文明」とは異なると主張している。

梅棹忠夫のフィールドワークはモンゴル(=内蒙古)から始まったものだが、中国大陸のほぼ全域はみずから観察している。ウィットフォーゲルも梅棹忠夫も中国研究というコア(核)を発想の根本に据え、遊牧民の世界史的役割を熟知していたことも共通しているのだ。

以上、梅棹忠夫の「生態史観」とのかかわりを中心にウィットフォーゲルについて書いてみたが、ウィットフォーゲル復権のために書かれた本書は、著書の学問への情熱と真理探究への思いの結晶ともいえる内容である。そしてこれは、異なるサイドから梅棹忠夫の「生態史観」を補強することにもつながる行為である。

正直いって、マルクス主義陣営のこまごまとしたエピソードなど、わたしだけでなく多くの読者にとってどうでもいいような話題だろうが、ソ連という「東洋的専制国家」崩壊以前、いや崩壊後もいまだに残滓を引きづっている日本の社会科学が戦後どのような状況にあったのか、その「時代の空気」を感じ取ることもできる内容にもなっている。

またウィットフォーゲルの亡命先であったアメリカの政治状況や知的風土もいまから振り返ると異常な状態であった。とくにモンゴル研究者で中国研究の権威であった米国人オーウェン・ラティモアがいかなる人物であったかを徹底的に明らかにしたことに本書の意義があるといえる。マッカーシー旋風という赤狩りのなか、命運をわけた中国専門家の二人であるが、『アジアの解決』(1945)で示したラティモアの反日姿勢は記憶しておくべきだ。

文明の相互関係を「中心-周辺-亜周辺の三重構造」にまで突きつめたウィットフォーゲルの「東洋的専制論」は、日本に生きる日本人にとって、東アジアの「中国大陸-朝鮮半島-日本列島」間の関係を考えるうえで大きな示唆を与えてくれるものである。

社会主義でありながら市場をフル活用した「国家資本主義」を推進する中国は、まさにウィットフォーゲルのいう「中心」世界であり「東洋的専制国家」以外のなにものでもない北朝鮮も韓国もまた「周辺」世界であり、「亜周辺」の日本とは異なる世界である。

「東アジア共同体」などという安直な発想にくみしないためのには知的鍛錬が不可欠である。そのためにもぜひ押さえておきたいのがウィットフォーゲルの理論と湯浅氏の解説だ。





目 次

まえおき
本書の要点
第1章 今なぜウィットフォーゲルなのか?
 1. ウィットフォーゲルに対する歪曲・中傷
 2. ウィットフォーゲル再評価の契機
第2章 ウィットフォーゲル理論の到達点
 1. 風土と文明・・「水力社会」論、「征服王朝」論、ロシアの東洋的専制主義
 2. 文明の類型
 3. 単一中心性と多数中心性
第3章 ウィットフォーゲルの学問の展開(1)-『中国の経済と社会』まで
 1. 青年時代
 2. ドイツ共産党員として
 3. 歴史像とマックス・ウェーバー
 4. ドイツ共産党の転換と中国革命
 5. 「アジア的生産様式」)
第4章 ウィットフォーゲルの学問の展開(2)-『オリエンタル・デスポティズム』まで
 1. 共産党の拘束衣のなかで
 2. ファシズムとの闘い
 3. アメリカに定住
 4. 共産党との決別と研究の進展
 5. ロシアとスターリニズム
 6. ロシアへのアプローチ
 7. 激浪のなかでの理論的確立
第5章 ウィットフォーゲル理論の残したもの
 1. 梅棹とラティモア
   ウィットフォーゲルと梅棹の世界史上における先駆的発見
   ウィットフォーゲルとラティモアの生き方の違い
 2. イデオロギーの役割

あとがき
概念・事項索引
固有名詞索引


著者プロフィール  

湯浅赳男(ゆあさ・たけお)
1930年、山口県生まれ。文学青年。サラリーマン時代、1956年のハンガリー事件で感動し、歴史学を志す。フランス革命研究で学問的登攀訓練を行ったのち、ロシア革命の真相解明をめざし、その勝利が国内戦によるものであることを明らかにした『革命の軍隊』(1968、三一書房)を処女出版。新潟大学名誉教授(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。


<ブログ内関連記事>

書評 『日本近代史の総括-日本人とユダヤ人、民族の地政学と精神分析-』(湯浅赳男、新評論、2000)-日本と日本人は近代世界をどう生きてきたか、生きていくべきか?
・・社会科学の分野では小室直樹と双璧をなすと、わたしが勝手に考えている湯浅赳男氏。この本は日本人必読書であると考えているが、文庫化されることがないのはじつに残念なことだ

梅棹忠夫の『文明の生態史観』は日本人必読の現代の古典である! 

書評 『海洋国家日本の構想』(高坂正堯、中公クラシックス、2008)-国家ビジョンが不透明ないまこそ読むべき「現実主義者」による日本外交論
・・京都大学教授であった国際政治学者の高坂正堯(こうさか・まさたか)氏は1964年に発表した論文で日本のことを「東洋の離れ座敷」と表現している。「島国として大陸から距離があることを、著者は「東洋の離れ座敷」と表現しているが、この地理的条件のおかげで、中国文明、西洋文明、アメリカ文明の圧倒的影響を受けながらも、日本人による取捨選択を容易にしただけでなく、直接国土を蹂躙(じゅうりん)されることもなく今日までやってこれたのである。」

書評 『銃・病原菌・鉄-1万3000年にわたる人類史の謎-(上・下)』(ジャレド・ダイアモンド、倉骨彰訳、草思社、2000)-タイトルのうまさに思わず脱帽するロングセラーの文明論
・・環境という切り口から人類史と文明史を考察した大きな構想の本

書評 『日本文明圏の覚醒』(古田博司、筑摩書房、2010)-「日本文明」は「中華文明」とは根本的に異なる文明である

書評 『封建制の文明史観-近代化をもたらした歴史の遺産-』(今谷明、PHP新書、2008)-「封建制」があったからこそ日本は近代化した!
・・ライプツィヒ大学では歴史学者ランプレヒトの弟子であったウィットフォーゲル。上原専禄の師匠であった三浦新七はランプレヒトの高弟で助手をつとめていた。いろんなことが見えないところでつながっている

書評 『革新幻想の戦後史』(竹内洋、中央公論新社、2011)-教育社会学者が「自分史」として語る「革新幻想」時代の「戦後日本」論
・・戦後日本を支配した「空気」がいかなるものであったか

書評 『紳士の国のインテリジェンス』(川成洋、集英社新書、2007)-英国の情報機関の創設から戦後までを人物中心に描いた好読み物
・・「第Ⅱ部 祖国を裏切ったスパイ」に共産主義シンパとなった英国人エリートについての記述あり

書評 『100年予測-世界最強のインテリジェンス企業が示す未来覇権地図-』(ジョージ・フリードマン、櫻井祐子訳、早川書房、2009)-地政学で考える ・・「地政学」の認識枠組みと、梅棹忠夫の生態史観、ウィットフォーゲルの東洋的専制主義論を重ね合わせて考えてみると面白いだろう

書評 『自由市場の終焉-国家資本主義とどう闘うか-』(イアン・ブレマー、有賀裕子訳、日本経済新聞出版社、2011)-権威主義政治体制維持のため市場を利用する国家資本主義の実態
・・「国家資本主義」の中国。資本主義と民主主義がイコールだという「近代」の常識を裏切るのが中国という「東洋的専制国家」

書評 『語られざる中国の結末』(宮家邦彦、PHP新書、2013)-実務家出身の論客が考え抜いた悲観論でも希望的観測でもない複眼的な「ものの見方」

(2014年4月9日、2015年6月4日 情報追加)





(2012年7月3日発売の拙著です)





Clip to Evernote 


ケン・マネジメントのウェブサイトは
http://kensatoken.com です。

ご意見・ご感想・ご質問は  ken@kensatoken.com   にどうぞ。
お手数ですが、クリック&ペーストでお願いします。



end

書評 『梅棹忠夫-未知への限りない情熱-』(藍野裕之、山と渓谷社、2011) -登山と探検という軸で描ききった「知の巨人」梅棹忠夫の評伝



2010年に90歳で亡くなった「知の巨人」梅棹忠夫にかんする本格的な評伝である。500ページにもおよぶ大冊であるが、飽きることなく最後まで読みとおすことができる内容だ。

著者は山とアウトドア関係の雑誌記者として梅棹忠夫に接しロングインタビューを何度も行ってきた人だ。みずからを登山家、探検家としていた梅棹忠夫自身も、山と渓谷社から出版される本書の完成を心待ちにしうていたそうだ。だが、残念ながら生前には間に合わなかったのだという。

副題のさらに副題に Desiderium Incognita なるコトバが書かれている。デジデリウム・インコグニタと読むこのラテン語は、本文でも説明があるが「未知への欲望」とでもいうべき内容だろうか。自らの内から湧き上がってくる抑えようのない情動のことであろう。

国立民族学博物館という研究組織の運営上はきわめて合理的に振る舞った梅棹忠夫も、個人レベルにおいては「知りたい」という子どものよう情熱は最後まで失われることはなかったようだ。きわめてつよい内発的動機といってもいいかもしれない。

低山ながらも山に囲まれた京都に生まれ、登山をつうじて昆虫少年から生物学に目覚め、大学では動物生態学を専攻することになった梅棹忠夫は、ラテン語の学名を理解するために、かなり早い時期からラテン語を習得していたらしい。そもそもが文理融合の人だったわけだ。

すでにさまざまな関係者が梅棹忠夫については書いているが、登山と探検という軸で描ききった「知の巨人」梅棹忠夫の評伝は、戦前から戦後を連続して生き抜いた主人公をめぐる大河ドラマのような印象がある。著者の藍野氏は、梅棹忠夫の聞き書きの「声」をそのまま活かしながら、ブレもなく、よくこれだけのボリュームをまとめあげたものだと思う。

そしてまた、あらためて振り返りたいのは、梅棹忠夫をめぐる「知の巨人」たちの群像である。先駆者としての今西錦司、西堀榮三郎といった同じ京都一中の登山家の先輩たちや、「知的生産の方法論」の分野においては戦後のビジネスパーソンに多大な影響を与えたKJ法の川喜田二郎の名も忘れてはなるまい。

とくに忘れてはならないのは、パトロンとしての渋沢敬三の存在である。敗戦後に日銀総裁を務めた渋沢敬三は渋沢栄一の孫であり経済人であったが、私財を投じて民族学と民俗学の発展に尽くしただけでなく本人もまたすぐれた学者であった。渋沢敬三が蒐集した民具のコレクションがみんぱくのコレクションの一部として引き継がれたことは知っておきたいことだ。

弟子筋にあたる人たちはその多くが学者やジャーナリストだが、梅棹忠夫の真骨頂は「知的生産」を一般大衆に開放したことにあることから考えると、本書のように直接の弟子ではない、しかも学者ではない人が書いた評伝もまた意味あるものといっていいだろう。

梅棹忠夫のファンであれば、個々の事実関係についてはすでに知っていることはあっても、大河ドラマとして大いに楽しみながら読むことのできる評伝である。






目 次

序章 梅棹資料室
第1章 京都-山城三十山
第2章 三高山岳部-雪よ岩よ
第3章 京都探検地理学会-最後の地図の空白部
第4章 西北研究所-モンゴル遊牧民
第5章 ヒマラヤ-マナスル登頂計画
第6章 AACK-文明の生態史観
第7章 東南アジア-カカボ・ラジ登頂計画
第8章 京大人文研究所-アフリカとヨーロッパ
第9章 日本万国博覧会-人類の進歩と調和
第10章 国立民族学博物館-比較文明学
終章 再び梅棹資料室
あとがき

著者プロフィール 

藍野裕之(あいの・ひろゆき) 1962年東京都生まれ。法政大学文学部卒業。広告制作会社、現代美術のギャラリー勤務の後、フリーの雑誌記者に。『サライ』『BE‐PAL』『山と溪谷』などの雑誌で取材と執筆に携わる。自然や民族文化などへの関心が強く、日本各地をはじめ南太平洋の島々など、旺盛に取材を重ねている(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。



<ブログ内関連記事>

書評 『梅棹忠夫 語る』(小山修三 聞き手、日経プレミアシリーズ、2010)
・・最晩年の放談集。日本人に勇気を与える元気のでるコトバの数々

書評 『梅棹忠夫-「知の探検家」の思想と生涯-』(山本紀夫、中公新書、2012)-「最後の弟子」による読みやすい梅棹忠夫入門

書評 『梅棹忠夫のことば wisdom for the future』(小長谷有紀=編、河出書房新社、2011)

書評 『梅棹忠夫-地球時代の知の巨人-(KAWADE夢ムック 文藝別冊)』(河出書房新社、2011)

書評 『梅棹忠夫-知的先覚者の軌跡-』(特別展「ウメサオタダオ展」実行委員会=編集、小長谷有紀=責任編集、千里文化財団、2011)

梅棹忠夫の『文明の生態史観』は日本人必読の現代の古典である!

梅棹忠夫の幻の名著 『世界の歴史 25 人類の未来』 (河出書房、未刊) の目次をみながら考える

『東南アジア紀行 上下』(梅棹忠夫、中公文庫、1979 単行本初版 1964) は、"移動図書館" 実行の成果!-梅棹式 "アタマの引き出し" の作り方の実践でもある

書評 『回想のモンゴル』(梅棹忠夫、中公文庫、2011 初版 1991)-ウメサオタダオの原点はモンゴルにあった!

梅棹忠夫の「日本語論」をよむ (1) -くもん選書からでた「日本語論三部作」(1987~88)は、『知的生産の技術』(1969)第7章とあわせて読んでみよう!

梅棹忠夫の「日本語論」をよむ (2) - 『日本語の将来-ローマ字表記で国際化を-』(NHKブックス、2004)



(2012年7月3日発売の拙著です)





Clip to Evernote 


ケン・マネジメントのウェブサイトは
http://kensatoken.com です。

ご意見・ご感想・ご質問は  ken@kensatoken.com   にどうぞ。
お手数ですが、クリック&ペーストでお願いします。

禁無断転載!



end

書評 『梅棹忠夫-「知の探検家」の思想と生涯-』(山本紀夫、中公新書、2012)-「最後の弟子」による読みやすい梅棹忠夫入門



2010年に「知の巨人」であった梅棹忠夫が90歳で亡くなってからすでに2年、この間に古巣である大阪・千里の国立民族学博物館では「ウメサオ・タダオ展」が開催され、関連する書籍も多数出版された。

また、この展覧会は東京では科学未来館で開催された。後者の会場も、つねに知のフロンティアを探検しつづけた梅棹忠夫にはふさわしい会場であった。

書評 『梅棹忠夫-「知の探検家」の思想と生涯-』(山本紀夫、中公新書、2012)は、梅棹忠夫から「最後の弟子」といわれた、アンデスをフィールドとする民族学者による梅棹忠夫入門である。

「二番せんじは、くそくらえ、だ!」と言い放ち、登山家として、探検家として、民族学者として、つねにみずからが開拓者(パイオニア)であり続けただけでなく、アジテーターとして後進の若者たちを焚きつけつづけた「知の巨人」。

本書は、梅棹自身による文章と、関係者の証言をうまくつかいながら、しかも身近で接触していた期間のみずからの経験もまじえた文章は読みやすい。

著者自身、京大では農学部に籍を置きながらも、梅棹の「私塾」に通ううちにアジテーションに乗せられて民族学の道を歩んだという。アジテートされた側の人なのである。学生時代に山登りに熱中し、理系から民族学に転じた学者という点は梅棹忠夫と共通しており、その意味で適任かもしれない。

とくに面白いのは、著者が国立民族学博物館に就職して以降の経験談だ。「耳どおし」による編集と校正作業など、目が見えなくなって以降の著作集編集のプロセスにかんする述懐はひじょうに興味深い証言である。

梅棹忠夫というとロングセラー『知的生産の技術』(岩波新書、1967)しか知らないという人にとっては、ぜひ『梅棹忠夫 語る』(聞き手 小山修一、日経プレミアムシリーズ、2011)とあわせて読んでほしい入門書である。

学問だけでなく、強靭な精神力によって大きな影響を与え続けて続けた梅棹忠夫は、まだまだ過去の人になったとはいいにくい。これからも影響を与え続けることであろう。





目 次

はじめに
第1章 昆虫少年から探検家へ
第2章 モンゴルの草原にて
第3章 ふたたびフィールドへ
第4章 東南アジアからアフリカへ
第5章 アジテーター
第6章 研究経営者
終章 未知の領域に挑んで
あとがき

著者プロフィール

山本紀夫(やまもと・のりお)
1943年、大阪府生まれ。京都大学農学部農林生物学科卒業、同大学大学院博士課程修了。1976年、国立民族学博物館助手、助教授、教授を経て、国立民族学博物館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授。農学博士。専攻・民族学、民族植物学、環境人類学、第19回大同生命地域研究奨励賞、第13回松下幸之助花の万博記念奨励賞、第8回秩父宮記念山岳賞受賞。著書は『ジャガイモとインカ帝国』(東京大学出版局、2004)他多数(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。



<ブログ内関連記事>

書評 『梅棹忠夫 語る』(小山修三 聞き手、日経プレミアシリーズ、2010)
・・最晩年の放談集。日本人に勇気を与える元気のでるコトバの数々

企画展「ウメサオタダオ展-未来を探検する知の道具-」(東京会場)にいってきた-日本科学未来館で 「地球時代の知の巨人」を身近に感じてみよう!

書評 『梅棹忠夫-未知への限りない情熱-』(藍野裕之、山と渓谷社、2011) -登山と探検という軸で描ききった「知の巨人」梅棹忠夫の評伝

書評 『梅棹忠夫のことば wisdom for the future』(小長谷有紀=編、河出書房新社、2011)

書評 『梅棹忠夫-地球時代の知の巨人-(KAWADE夢ムック 文藝別冊)』(河出書房新社、2011)

書評 『梅棹忠夫-知的先覚者の軌跡-』(特別展「ウメサオタダオ展」実行委員会=編集、小長谷有紀=責任編集、千里文化財団、2011)

梅棹忠夫の『文明の生態史観』は日本人必読の現代の古典である!

梅棹忠夫の幻の名著 『世界の歴史 25 人類の未来』 (河出書房、未刊) の目次をみながら考える

『東南アジア紀行 上下』(梅棹忠夫、中公文庫、1979 単行本初版 1964) は、"移動図書館" 実行の成果!-梅棹式 "アタマの引き出し" の作り方の実践でもある

書評 『回想のモンゴル』(梅棹忠夫、中公文庫、2011 初版 1991)-ウメサオタダオの原点はモンゴルにあった!

梅棹忠夫の「日本語論」をよむ (1) -くもん選書からでた「日本語論三部作」(1987~88)は、『知的生産の技術』(1969)第7章とあわせて読んでみよう!

梅棹忠夫の「日本語論」をよむ (2) - 『日本語の将来-ローマ字表記で国際化を-』(NHKブックス、2004)





(2012年7月3日発売の拙著です)





Clip to Evernote 


ケン・マネジメントのウェブサイトは
http://kensatoken.com です。

ご意見・ご感想・ご質問は  ken@kensatoken.com   にどうぞ。
お手数ですが、クリック&ペーストでお願いします。

禁無断転載!



end

2012年12月29日土曜日

書評 『終わりなき危機-君はグローバリゼーションの真実を見たか-』(水野和夫、日本経済新聞出版社、2011)-西欧主導の近代資本主義500年の歴史は終わり、「長い21世紀」を生き抜かねばならない


もはや資本主義にフロンティアはない! いま日本でミャンマーが最後のフロンティアとして喧伝(けんでん)されてるのはそのためだ。

もはやアメリカも自国内にフロンティアは存在しない! アメリカは自国の低所得者層を収奪したあげく金融破綻を引き起こしている。2008年のリーマンショックとは、低所得者向けの不動産ローン債券にむかったマネー暴走がもたらしたものであった。

そう、つまり近代資本主義がすでに行き詰まっているのだ。

これが利子率が低下したままになっている真の原因だ。著者はこの資本主義にとってのフロンティア状態をさして「世界史の終わり」が近付いているという。政治思想家のカール・シュミットに従った表現である。

この状態をさして経済史では「利子率革命」というが、日本でこの1998年続いているこの低金利という事態は、じつにヴェネツィアとライバル関係にあったイタリアの都市国家ジェノヴァ共和国以来の出来事なのだ。

ジェノヴァ共和国では、11年間(1611-1621)にわたった「利子率革命」が進行していた。そして同時期には西欧では「価格革命」が進行していた。つまるところ、その当時、もはやこれといった投資先がなくなっていたため、低金利状態が長く続いていたのである。つまり400年前もデフレ状態だったのである。

同様の状態にある日本も低金利状態はすでに14年以上続いており、著者の水野和夫氏は「21世紀の利子率革命」と名づけるべきだという。さらには金融危機後のアメリカも欧州も低金利政策を採用し、この政策が短期間に終わる見込みはまったくたっていない。この意味からいっても、いま世界経済は大転換期にあることは間違いない。

著者はこの状態をさいて近代初期の「長い16世紀」と、近代終焉後の「長い21世紀」として対比させて、「危機の予兆」「反転攻勢」「旧体制の危機」というダイナミズムを論じているが、問題は500年前とはちがって、21世紀の資本主義にはもはやフロンティアは存在しないことにある。存在しているとしても、開発されつくすのもそう遠い先ではない。

著者は、まえがきでこう書いている。

書名を『終わりなき危機 君はグローバリゼーションの真実を見たか』としたのは、ブルクハルトのいう「歴史における危機」は未だ中間点を過ぎたあたりで、これからも続く可能性が高いからである。危機が終わるのは数十年先であろう。(* 太字ゴチックは引用者=わたし)

本書は、現在の未曾有の世界的危機がなにを意味しているのか、16世紀以降の「500年単位の歴史」を近代欧米資本主義の歴史として徹底的に分析し、資本主義が主導したグローバリゼーションの興亡を詳細にみていくことによって、日本の立ち位置がどこにあるのかを考える500ページを超える大著である。

では、グローバリゼーションについて、近代西洋資本主義の流れにそって歴史的に振り返っておこう。


グローバリゼーションは与件ではない。資本主義が必要としたのだ

16世紀からはじまったポルトガルとスペインが主導した「大航海時代」は、実はイタリアのジェノヴァ商人とユダヤ商人が背景では主導権を握っていた大規模な投機経済である。これが大航海時代という「第一次グローバリゼーション」の波であり、その波は日本にまで押し寄せた。ちょうど戦国時代末期の頃である。

大航海時代の覇者ポルトガルが衰退し、覇権を握ったのはスペインであるが、その後オランダ、そして英国が勝利を収め、海洋帝国としてのグローバル・ネットワーク(=大英帝国)を築き上げていく。そのプロセスのなかで「産業革命」という「第二次グローバリゼーション」が始まる。

ここにあげたポルトガル、スペイン、オランダ、英国はみな植民地収奪によって富を蓄積したのである。一度も覇権国となったことはないものの、フランスもまたそのなかに含めるべきであろう。

米国の文明史家エマニュエル・ウォーラスティンのいう「近代世界システム」はこのプロセスのなかでを形成されていった。中心国が周辺国を従属化し、収奪することによって資本主義が進展するというプロセスである。中心国の資本主義にとっては周辺国が広大なフロンティアとして広がっていたわけだ。

その最後尾として、明治維新以降の近代日本がその流れに参加することになる。日本は第一次グローバリゼーションに巻き込まれたものの、その後はみずから離脱して西洋とは異なる歴史を歩んで三世紀に及ぶ空前絶後の平和時代を享受する。しかし、第二次グローバリゼーションの波には抗しきれず、積極的に巻き込まれることによってプレイヤーとして、植民地化されずに生き残る道を選択した。

世界の覇権国となった海洋帝国である大英帝国を受け継いだのが米国であるが、「海の時代」の覇者であった米国のパワーが衰退に転じたのは 1974年である。この年に粗鋼生産はピークを打っていることが著者によって示されている。前年の1973年に米国はベトナムに敗れ、膨張主義はストップをかけられた。いわゆるニクソン・ショックによって金とドルの交換が停止されたことは、覇権国としてのアメリカの衰退化を象徴した出来事であった。

そして、「第三次グローバリゼーション」は、ベルリンの壁が崩壊した1989年からはじまった。1992年にはソ連が崩壊し、旧東欧諸国が資本主義のとってのフロンティアとして登場したことも大きい。その前から暴走がはじまったマネー資本主義が2008年にはクラッシュしたものの、いまだにストップがかかることなく続いている。

つまり、グローバリゼーションは自然発生したものではない近代西洋資本主義が生き残るためのフロンティアを求めての運動であったということなのだ。


「海の時代」からふたたび「陸の時代」へ転換?

資本主義は、空間差と時間差を利用してその差異を縮小していく運動であるというのは名著 『ヴェニスの商人の資本論』(筑摩書房、1985 現在はちくま文庫)における岩井克人教授の説明だが、空間差を利用した資本主義は、もはや地理的な意味でのフロンティアがほぼ消滅したことで終わりに近付いているのである。

時間差にかんしても、インターネットの普及でリアルタイムでのビジネスが可能となった結果、いちじるしく差異が縮小してしまっている。パワーの中心は中国やインドなどいわゆる古い「新興国」に移転する流れは止めようがない。これが現在の状態である。

資本主義にとっての最後のフロンティアは内陸部にしかない。残されたフロンティアはアフリカ大陸とユーラシア大陸奥地。さすがに宇宙への拡大は、まだまだ技術レベルがそこまで達していないので、かなり将来的なものとなるだろう。あるいは想定には入れるべきではないかもしれない。

いま進行しているのが「海の時代」からふたたび「陸の時代」へ転換しているというのが著者の見立てである。陸海空を制した米国も、「9-11」以降はもはや空の安全だけでなく海の安全も完全に確保できないことが、2001年9月11日に明らかになってしまった。

「海の時代」のプレイヤーである日本もまたピークアウトしているだけでなく、安全保障を米国に依存してきただけに苦しい局面に立たされているのである。

ものづくり日本は製品の高度化で、金融立国にシフトした米国はレバレッジをつかうという「高さ」をつかった立体(=三次元)勝負を行ったが、日本のものづくりも米国の金融もともに敗退を喫したのである。


日本と日本人は「長い21世紀」をどう生きていくか

ビジネスパーソンにとってもっとも関心が高いのは、この苦境からいつどのようにして脱出できるのか、今後の世界経済はどういう方向に向かっていくのか、そのなかで日本と日本人はどう生きていけばいいのかということだろう。

著者は、この500年の歴史については、手を変え品を変え何度も何度も語っているのだが、ではこれからどうなるのかについてはほとんど語っていない。ビジョナリーではないエコノミストの著者にそれを期待するのは無理があるかもしれない。その点については、 『21世紀の歴史-未来の人類から見た世界-』(ジャック・アタリ、林昌宏訳、作品社、2008)を参照するべきだろう。

少なくとも本書から読み取れるのは、ユーラシア内陸国家のフロンティアも、21世紀で開拓されつくされる可能性が高いということだ。そう考えると、ほんとうに「陸の時代」といえるのか疑問を感じざるを得ない。そうだとしても長期的な話ではないというべきではないか。

地政学的なポジションからいって日本がユーラシア大陸に深入りすることがいかに危険な企てであるかは、第二次大戦での敗退によって痛いほど味わっているはずだ。日本という国家そのものが衰退する潮流にあるとはいえ「海洋国家」である以上、取り得る選択肢はおのずから限定されることを認識しなくてはなるまい。

同じ内容が何度も何度もでてくるのは、正直いって冗長であるという感は免れない。注をほぼすべてカットして本文を2/3程度に圧縮したら、もっと読みやすい本になったであろう。学術書ではないがぜひ索引をつけてほしかった。

そのような欠点はあるものの、エコノミストとして証券会社という資本主義の最前線にいた著者が書いた本書はじつに読み応えのある本である。膨大なページ数にめげず、時間をつくってぜひガップリと四つに取り組んでほしいと思う。





目 次

まえがき
第1章 陸と海のたたかい-地理的・物的空間と電子・金融空間
 1. 9・11、9・15、そして3・11の意味するもの-近代の終焉
 2. 何のための、誰のための景気回復か
 3. 21世紀は海の国に対する陸の国のたたかいの世紀
第2章 成長神話と米国幻想-「成長」自身が「収縮」をもたらす
 1. 1974年になにが起きたのか
 2. 「過剰」な近代
 3. 日本が手本にしたのは、日本に10年遅れの米国
 4. 米「資本の帝国」 VS. EU「理念の帝国」
第3章 ヨーロッパ史と世界史の融合は可能か-「長い16世紀」を超える21世紀の衝撃
 1. 21世紀のグローバリゼーションは過去とどこが違うのか
 2. 賃金下落をもたらす「利潤革命」
 3. 今、世界は「長い21世紀」のどのあたりにいるのか
 4. 普遍化のヨーロッパ史 VS. 多様性の世界史
第4章 「技術進歩教」神話の崩壊とヨーロッパ史の終わり-「膨張」のヨーロッパ史と「定常」の日本史
 1. 新興国インフレと先進国デフレ
 2. 欧米近代資本主義の「全地球化」の矛盾と限界
 3. 「永久革命」の終わりと止まらない蒐集
 4. 3・11原発事故の衝撃-「近代の自己敗北」と「歴史における危機」
あとがき
注記
参考文献

著者プロフィール

水野和夫(みずの・かずお)
埼玉大学大学院経済科学研究科客員教授。1953年生まれ。1977年早稲田大学政治経済学部卒業。1980年同大学大学院経済学研究科修士課程修了。八千代証券(国際証券、三菱証券、三菱UFJ証券を経て、現三菱UFJモルガン・スタンレー証券)入社。1998年金融市場調査部長、2000年執行役員、2002年理事・チーフエコノミスト、2005年参与・チーフエコノミスト。2010年9月三菱UFJモルガン・スタンレー証券退社。著書に、『100年デフレ』(日本経済新聞社、2003)、『人々はなぜグローバル経済の本質を見誤るのか』(日本経済新聞社、2007)、『金融大崩壊』(日本放送出版協会、2008)ほか(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。






<ブログ内関連記事>

「500年単位」で歴史を考える-『クアトロ・ラガッツィ』(若桑みどり)を読む 
・・水野和夫氏の著書について触れている

書評 『21世紀の歴史-未来の人類から見た世界-』(ジャック・アタリ、林昌宏訳、作品社、2008)-12世紀からはじまった資本主義の歴史は終わるのか? 歴史を踏まえ未来から洞察する

政治学者カール・シュミットが書いた 『陸と海と』 は日本の運命を考える上でも必読書だ!

書評 『歴史入門』 (フェルナン・ブローデル、金塚貞文訳、中公文庫、2009)-「知の巨人」ブローデルが示した世界の読み方

「宗教と経済の関係」についての入門書でもある 『金融恐慌とユダヤ・キリスト教』(島田裕巳、文春新書、2009) を読む
・・水野和夫氏の著書について触れている

書評 『新・国富論-グローバル経済の教科書-』(浜 矩子、文春新書、2012)-「第二次グローバリゼーション時代」の論客アダム・スミスで「第三次グローバル時代」の経済を解読

書評 『日本式モノづくりの敗戦-なぜ米中企業に勝てなくなったのか-』(野口悠紀雄、東洋経済新報社、2012)-産業転換期の日本が今後どう生きていくべきかについて考えるために

(2016年1月16日 情報追加)



(2012年7月3日発売の拙著です)





Clip to Evernote 


ケン・マネジメントのウェブサイトは
http://kensatoken.com です。

ご意見・ご感想・ご質問は  ken@kensatoken.com   にどうぞ。
お手数ですが、クリック&ペーストでお願いします。

禁無断転載!



end

書評 『21世紀の歴史-未来の人類から見た世界-』(ジャック・アタリ、林昌宏訳、作品社、2008)-12世紀からはじまった資本主義の歴史は終わるのか? 歴史を踏まえ未来から洞察する


2006年の原著出版から6年、日本語版出版から4年たった現時点で、日本の政治家たちの多くも目を通したという評判のこの本をはじめて読んだのは今年の3月のことである。

著者のアタリの予測の正しさを裏付けるように、原著出版後の2008年には「リーマンショック」が発生し、マネー暴走によるアメリカ型のマネー資本主義の終焉がまったくの絵空事ではなくなってきたようだ。

いまから読み始めることを決意した人は、本書の出版後に書かれた『金融危機後の世界』((ジャック・アタリ、林昌宏訳、作品社、2009)を先に読んでおくといいかもしれない。

いずれにせよ現時点では、本書の趣旨や内容にはとくに修正の必要はなさそうだ。


個人の欲望が世界史の原動力

フランス語の原題は『未来についてのある簡潔な歴史(あるいは物語)』(Une brève histoire de l'avenir, 2006)である。

資本主義と民主主義を人類史の中心テーマと捉え、過去を簡単に振り返って発展のパターンを抽出したうえで、大胆な予測を21世紀の人類史について行ったのが本書の内容だ。

アタリの歴史観の根幹には、個人のパワー拡大欲求こそが世界を動かしてきたという観点がある。世界を動かしてきたのは、宗教人・軍人・商人という三つの人間類型であるが、発展の主導力となったのは「商人」であり、商人が主導してきたのが世界史である。この視点はさすがである。

経済における個人の欲望が市場を発達させ、市場の発達が宗教人と軍人よりも商人層を支配者層に押し上げ、その結果として商人層が政治においては民主主義を発展させることになる。そして、20世紀の終わりから「マネー暴走」により市場は民主主義を凌駕するようになっていく。これがアタリの人類史の見取り図だ。

「市場 vs 民主主義」という図式にまとめることができるだろうか。

この図式に従えば、市場が生み出した民主主義も、まさにその市場のパワーによって危うくなりもともと民主主義国家ではない国家においても市場が優勢になっていくことも説明が可能になる。

成功するがゆえに、みずからの内部矛盾の増大によって自壊するというのは、十分に納得のいく予測だ。これが社会科学的なものの見方というものだ。弁証法的思考でもある。

「市場 vs 民主主義」という図式である以上、市場のパワーをどこまで制御できるかが、理想社会実現のカギなのである。


これまでの世界史、これからの人類史

第Ⅰ章は資本主義前史、第Ⅱ章は「中心都市」成立と資本主義の誕生、そして第Ⅲ章ではアメリカが絶頂を迎えるまでを扱っている。人類の過去の歴史を経済史の観点から振り返っておくことは、未来について考えるための前提である。

資本主義のはじまりをブリュージュから始める記述はあまり一般的ではないが、西洋経済史と西洋商業史を中心に据えた記述は、未来に適用されるパターンを知るためにもきキチンと読んでおいたほうがいい。

また、日本では言及されることの少ないイタリアの都市国家ジェノヴァついての記述は重要だ。日本では塩野七生氏の歴史小説の影響もあってヴェネツィア共和国への関心は深いが、資本主義の歴史においてはジェノヴァ共和国と国外で活躍したジョノヴァ商人の役割のほうがはるかに重要なのだ。

もちろん、『未来史』というタイトルをもつ本書の中心は第Ⅳ章以降にある。

第Ⅳ章は、21世紀に押し寄せる「第一波」として民主主義・政治・国家を破壊する「超帝国」について言及される。第Ⅴ章ではつぎの「第二波」として従来の戦争や紛争を超える「超紛争」が発生することが語られる。市場と民主主義、その興亡の未来史が「第一波」と「第二波」である。

現在も進行中の学校や軍事など公共サービスの民営化は、先進国が軒並み財政危機にあえぐなかでは、さらに推進されていくことは大いに予想されることだ。そこに出現するのは、市場の勝利と民主主義の敗北である。

そして最後に「第三波」として民主主義を超える「超民主主義」が出現するのだという。だが、あらかじめ著者自身も予防線張っているとはいえ、やや理想的に響くのは仕方かなかろう。なんだか『黙示録』の構造を想起するが、最後が正義が勝つ、ということか。

重要なことは、アタリ自身は明確に書いていないが、21世紀の「第二波」は「第一波」と同時進行で進展するのと同様、「第三波」も「第一波」と「第二波」と同時並行的に進行していくであろうということだ。

「第二波」として従来の戦争や紛争を超える「超紛争」が発生することが語られるが、この状況を考えるためには、「第二波」は現在のアフリカで見られるような混乱した状況になると考えればよいとアタリは言う。日本人であれば16世紀の「戦国時代」を想定してみればいいのではなかろうか。

ちょうど500年前の1492年にはじまった大変動期は、西洋世界とパラレルな関係にある日本においても、中世世界が崩壊し近世に転換する大激動期であった。21世紀の「第二派」に該当する戦国時代も、最終的には天下一統によって平和な時代へと転換することになる。ただし、西洋においては域内では平和、域外では資本主義的収奪が続いたことは、日本の江戸時代のパックス・トクガワーナ(=徳川時代の平和)とは異なる。

アタリの『1492』を読むと、近代資本主義がいかに域外を収奪しながら発展していったかがわかるだろう。1492年から500年で近代資本主義が限界にぶつかり、現在は中世から近世にかけての大激動期に匹敵する大転換期であるという自覚が必要なのではないかと思う。したがって、21世紀の「第二波」がかなり厳しい時代になることは避けられまい。わたしも「第二波」の到来は避けがたいものと覚悟しなくてはならないと考える。

「第三波」として民主主義を超える「超民主主義」が出現することについては、アタリ自身も「そう願っている」「そう期待している」という言い方で、願望を表明し、かつみずからが実践的に関与することでその動きを推進しようと奮闘している。

同時進行で利他主義にもとづいて「第三波」に向けて活動を続けることが、「資本主義」以降の未来を創るために不可欠であるのだ。

はたして、著者の言うように「利他主義」だけで可能なのか?
もしそうであれば、21世紀後半はブッダの世界になるのだろうか?
人間の欲望は尽きることないのか?

2012年の現時点では、まだ答えを出すのは早すぎるようだ。地球レベルでマネー暴走を制御するための装置をどのように設計するのかという点については、まだまだ道のりは遠い。


終わりに

著者のジャック・アタリは、ソ連崩壊後の中東欧など旧ソ連から独立した諸国を金融的に支援するための欧州復興銀行(EBRD)の初代総裁を務め、金融の世界にも詳しいだけでなく、思想家として数々の刺激的な本を書いてきた人だ。

全体的に国家規制が大好きな官僚国家フランスのエリートの発言であるという印象がなくもないが、アタリはフランスの植民地であったアルジェリアで宝石商の家に生まれたユダヤ系であることを知っておいてもいいだろう。「ノマド論」を最初にいいだしたのがアタリであることは、その出自からいっても不思議でもなんでもない。

ビジネスパーソンは、今後メインになるのが保険業と娯楽産業だという指摘はアタマのなかに入れておくといいだろう。その心は、プライバシーがなくなり監視がつよまる世界のなかで、ますます強まる不安を解消するニーズがさらにつよまるということだ。

本書は、ジャック・アタリにとっての総決算の書であるという訳者の評価はそのまま受け取っていい。未来予測であきらかになる困難な時代への覚悟を決め、そのなかで個々人がいかなる行動をすべきかについて考えるための必読書である。





目 次

21世紀、はたして日本は生き残れるのか?-日本語版序文にかえて
序文 21世紀の歴史を概観する
第1章 人類が、市場を発明するまでの長い歴史
第2章 資本主義は、いかなる歴史を作ってきたのか?
第3章 アメリカ帝国の終焉
第4章 帝国を超える“超帝国”の出現-21世紀に押し寄せる第一波
第5章 戦争・紛争を超える“超紛争”の発生-21世紀に押し寄せる第二波
第6章 民主主義を超える“超民主主義”の出現-21世紀に押し寄せる第三波
付論 フランスは、21世紀の歴史を生き残れるか?
21世紀を読み解くためのキーワード集

訳者あとがき
「訳者あとがき」のあとに-刊行後、1年を経て
追記:アタリ氏の緊急来日とその後の反響について


著者プロフィール

ジャック・アタリ(Jacques Attali)
1943年生まれ。わずか38歳で、フランスのミッテラン政権の大統領特別補佐官を務め注目を浴び、1991年、自らが提唱した「ヨーロッパ復興開発銀行」の初代総裁を務めた。1989年のドイツ再統一、1992年のEU成立の“影の立役者”と言われている。2009年、初のEU大統領選挙では、フランス側の有力候補となった。2010年10月、仏大統領の諮問委員会「アタリ政策委員会」が、フランスの財政再建戦略をまとめた「第2次報告書」を発表し、現在、激しい議論が戦わされている。この報告書は、本書『国家債務危機』の理念を基にまとめられた。「アタリ政策委員会」は、サルコジ大統領が、アタリ著『21世紀の歴史』(2006年刊)に感銘を受け、2007年、“21世紀フランス”を変革するための戦略づくりを、アタリに直接依頼した諮問委員会である。政界・経済界で重責を担う一方で、経済学者・思想家としても幅広く活躍し、まさに“ヨーロッパを代表する知性”として、その発言は常に世界の注目を浴びている。近年では、『21世紀の歴史』(2006年刊)が、翌年発生した「サブプライム問題」や「世界金融危機」を予見していたために、世界的な大反響を呼んだ。著書は多数あり、経済分析・哲学書・歴史書・文化論と幅広いが、主な邦訳書は以下である。『21世紀の歴史』『金融危機後の世界』(作品社)、『カニバリスムの秩序』『ノイズ-音楽・貨幣・雑音-』(みすず書房)、『アンチ・エコノミクス』『所有の歴史』(法政大学出版局)、『ヨーロッパ 未来の選択』原書房)、『1492 西欧文明の世界支配』ちくま学芸文庫)ほか多数(amazonの書籍紹介より転載)。

訳者:林 昌宏(はやし・まさひろ)
1965年、愛知県生まれ。名古屋市在住。立命館大学経済学部経済学科卒。翻訳家。アタリの金融関連書多数(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものに補足)。



(追記) アタリの『ユダヤ経済史』の日本語版が出版(2015年1月30日)

『ユダヤ人、世界と貨幣-一神教と経済の4000年史-』(ジャック・アタリ、的場昭弘訳、作品社、2015)として日本語版が出版された。訳者はマルクスの『資本論』の研究者。日本語版タイトルは、副題を除けばフランス語をそのまま訳している。訳文については直接手にとって見たわけではないので、この場での論評は差し控えておこう。(2015年1月31日 記す)




<関連サイト>

"欧州の頭脳" ジャック・アタリが世界のリスクと新秩序を大予言! (ダイヤモンド・オンライン、2016年1月4日)

(2016年1月4日 項目新設)


<ブログ内関連記事>

書評 『1492 西欧文明の世界支配 』(ジャック・アタリ、斎藤広信訳、ちくま学芸文庫、2009 原著1991)
・・ジャック・アタリの基本的歴史観が示された名著。このブログ記事には、ジャック・アタリにかんする詳細な解説をつけておいたので、ぜひ参照していただきたい。1492年にはじまった歴史は1989年前後に終わった

書評 『国家債務危機-ソブリン・クライシスに、いかに対処すべきか?-』(ジャック・アタリ、林昌宏訳、作品社、2011)-公的債務問題による欧州金融危機は対岸の火事ではない!

「500年単位」で歴史を考える-『クアトロ・ラガッツィ』(若桑みどり)を読む

書評 『警告-目覚めよ!日本 (大前研一通信特別保存版 Part Ⅴ)』(大前研一、ビジネスブレークスルー出版、2011)-"いま、そこにある危機" にどう対処していくべきか考えるために


法哲学者・大屋雄裕氏の 『自由とは何か』(2007年) と 『自由か、さもなくば幸福か?』(2014年)を読んで 「監視社会」 における「自由と幸福」 について考えてみる

(2016年5月15日 情報追加)



(2012年7月3日発売の拙著です)





Clip to Evernote 


ケン・マネジメントのウェブサイトは
http://kensatoken.com です。

ご意見・ご感想・ご質問は  ken@kensatoken.com   にどうぞ。
お手数ですが、クリック&ペーストでお願いします。



end

2012年12月28日金曜日

書評 『マネー資本主義-暴走から崩壊への真相-』(NHKスペシャル取材班、新潮文庫、2012 単行本初版 2009)-金融危機後に存在した「内省的な雰囲気」を伝える貴重なドキュメントの活字版


金融危機からまだあまり時間がたっていない2009年にNHKスペシャルとして4回にわたって放送された『マネー資本主義』の書籍化の文庫化である。番組を見てからすでに4年たつわけだが、読んでみて思うのは番組内容をあまり覚えていなかったということだ。

あらためて思うのは、番組の構成がじつによくできていることだ。金融危機にかかわったプレイヤーたちをカテゴリー別に4つに分類し、4つの位相からみている点である。この4つの視点が複眼的なものの見方を実現させているといっていい。その4つの位相とは以下のとおりだ。

① 投資銀行
② アメリカの金融財政政策
③ 年金基金などの機関投資家、ヘッジファンド
④ 金融商品をつくりだした金融工学者

①では、名門投資銀行のソロモンブラザーズで開発されたモーゲージ債がすべての出発点であったことが確認される。そして自己勘定取引の採用による投資銀行の基本からの逸脱株式会社による資金調達を利用したレバレッジなど、ソロモンではじまった投資銀行の「革命」から30年後に金融危機として破綻にいたったことが語られる。

②では、連邦準備制度理事会(FRB)のアラン・グリーンスパン議長の市場原理主義の思想的根源が小説家アイン・ランドにあったこと、ロバート・ルービン財務長官の「強いドル政策」によりアメリカの主要産業が製造業から金融へシフトしたこと、マネーの動きが大きく変わった1995年の背後には、つねにデフレ経済下の日本からの圧力があったこと、総称して「ミセス・ワタナベ」といわれていた日本人個人投資家たちのFX投資など、低金利の日本からあふれでたマネーが制御を失い、アメリカの金融政策の有効性を大きく減じたこと。

③では、高い利回りを求め続ける年金基金がヘッジファンドをさらにリスクの高い投資へと追い込んでいったことが明らかになる。ITバブル崩壊による損失をカバーするための需要が供給をつくりだすという関係だ。まさに「バブルのリレー」という綱渡りが繰り返されてきたのである。だが、かつてドラッカーが「年金社会主義」とネーミングした経済は金融危機後も変わることなく続いている

④では、アインシュタインによるブラウン運動(=ランダムな動きの確率論的把握)の理論化が引き起こした2つの「大爆発」は一つは原子爆弾という大量破壊兵器として、もうひとつは金融危機として人類に災厄をもたらしたこと。債券としてのCDO(債務担保証券)、保険商品としうてのCDS(クレジット・デフォルト・スワップ)の開発にかんしては、金融危機という大爆発を招いたものの、金融テクノロジー自体は価値中立的であることが示される。問題はつかう側にあるということだ。

本書では格付け会社の金融危機において果たしたネガティブな役割についてはあまり触れられていないが、金融商品を販売する側の投資銀行における需要が高い格付けという供給をつくりだすという関係であったことも指摘されている。

世界的に低金利によるカネあまり状況が続いている。問題の根本的解決がなされることなく、先送りされているのだ。2009年のリーマンショックはすでに過ぎ去った歴史ではない。いまだに続いている問題であり、なぜ金融危機が発生したかは理解しておく必要がある。

映像とは違って活字だと内容を考えながら読めるので、番組を見た人もあらためて読んでみるといいと思う。映像番組の取材と編集にかかるコストを考えれば、文庫本で520円(+消費税)という価格はじつにお得である。

金融危機後の2009年に出版された本書は、2012年のいまから読んでもひじょうに示唆にとむ内容である。文庫本あとがきに書かれているが、金融危機後に存在した「内省的な雰囲気」のなかでおこなわれた関係者の貴重な証言はきわめて価値がある。

ぜひ読むことをすすめたいドキュメントである。




目 次

まえがき
第1章 投資銀行-暴走はなぜ止められなかったのか
第2章 超金余り-カリスマ指導者たちの誤算
第3章 年金マネー-「安全第一」からヘッジファンドと手を組むまで
第4章 金融工学-ウォール街の“モンスター”
あとがき
インタビュー


<関連サイト>

NHKスペシャル 『マネー資本主義』(番組の公式サイト)

第1回 “暴走”はなぜ止められなかったのか~アメリカ投資銀行の興亡~
2009年4月19日(日)午後9時00分~ 総合
第2回 “超金余り”はなぜ起きたのか? ~カリスマ指導者たちの誤算~
2009年5月17日(日)午後9時00分~ 総合
第3回 年金マネーの“熱狂”はなぜ起きたのか
2009年6月14日(日)午後9時00分~ 総合
第4回 ウォール街の“モンスター” 金融工学はなぜ暴走したのか
2009年7月19日(日)午後9時00分~ 総合
最終回 危機を繰り返さないために
2009年7月20日(月)午後7時30分~ 総合
ウォール街の“モンスター” バブルは再び起きるのか
2009年12月20日(日)午後9時45分~ 総合


<ブログ内関連記事>

書評 『世紀の空売り-世界経済の破綻に賭けた男たち-』(マイケル・ルイス、東江一紀訳、文芸春秋社)-アメリカ金融業界の周辺部からリーマンショックに迫る人間ドラマ

CAPITALISM: A LOVE STORY ・・映画 『キャピタリズム マネーは踊る』

マイケル・ムーアの最新作 『キャピタリズム』をみて、資本主義に対するカトリック教会の態度について考える

映画 『ウォール・ストリート』(Wall Street : Money Never Sleeps) を見て、23年ぶりの続編に思うこと

『資本主義崩壊の首謀者たち』(広瀬 隆、集英社新書、2009)という本の活用法について

「宗教と経済の関係」についての入門書でもある 『金融恐慌とユダヤ・キリスト教』(島田裕巳、文春新書、2009) を読む






(2012年7月3日発売の拙著です)





Clip to Evernote 


ケン・マネジメントのウェブサイトは
http://kensatoken.com です。

ご意見・ご感想・ご質問は  ken@kensatoken.com   にどうぞ。
お手数ですが、クリック&ペーストでお願いします。



end

書評 『資本主義以後の世界-日本は「文明の転換」を主導できるか-』(中谷 巌、徳間書店、2012)-タイトル負けした残念な内容の本


2008年に出版されて話題になった 『資本主義はなぜ自壊したのか-「日本」再生への提言-』(集英社、2008)で、劇的な「転向」をとげた中谷巌氏に対しては、正直なところ違和感を感じたのを覚えている。それは、なによりも「規制緩和」時代の論客として「上から目線」で華麗な論陣を張っていた経済学者としての中谷氏を同時代人として見ていたからだ。

『資本主義はなぜ自壊したのか』を読んだ限り、その転向は本人にとっては必然的なものであったようだが、本人以外にとっては変節以外のなにものでもないと映りかねないものがある。マニ教からキリスト教に劇的に回心した聖アウグスティヌスはキリスト教からみれば聖者だが、反対側から見れば裏切り者であるのと同じことだ。

「自己増殖」をキーワードに、キリスト教的バックグラウンドをもった西洋資本主義のメカニズムを解析した本である『緑の資本論』(中沢新一、ちくま学芸文庫、2009)の書評記事で、わたしはこう書いている(2009年8月1日)。

『資本主義はなぜ自壊したのか』で、自らの言動を懺悔し、改悛するという経済学者・中谷巌のような道もあろう。
しかし、そこから果たして何がうまれるのか? せいぜいオルタナティブとしてブータンやキューバを礼賛し、ベーシック・インカムの導入を提言するのがせいぜいのところだろう。もちろん、それでも一歩前進ではある。

『資本主義はなぜ自壊したのか』が唐突にベーシックインカムの議論で終わっていることも、なんだかとってつけたような印象をぬぐえなかった。ベーシックインカム自体は、経済政策として採用される見込みはきわめて小さいものの、きわめて重要な考えではあることは否定しないが。いきなり論理が飛んでいるのである。

前著から4年目に出版された本書は、著者本来の専門である経済学からさらに越境して、歴史や思想の領域にまで踏み込んだものだ。

以前から、現在は「500年に一度の大転換期にある」と主張してきたわたしにとっては無視できない本である。「500年単位」で歴史を考える-『クアトロ・ラガッツィ』(若桑みどり)を読む (2009年6月8日執筆のブログ記事)このような巨視的な視点で政治経済を考える必要があるというのなら、中谷氏の認識の深まりを見てみたかったというのも理由の一つだ。

もちろん、いますぐに文明が転換するとはとても考えられない。すでに資本主義が崩壊したわけでもない。しかし人類が自滅への道を進んでいることは否定できないという危惧は、わたしも持ち合わせているし、「3-11」の福島第一原発の事故を体験した日本人なら同感だろう。

基本的に本書の立論は、『終わりなき危機』(水野和夫、日本経済新聞出版社、2011)に依拠していることが記されている。資本主義の歴史を産業革命以降ではなく、コロンブスの「新大陸」発見以降の西欧主導の歴史とみるのは、フェルナン・ブローデル、ウォーラースティン、そしてカール・シュミットを論拠とするものだ。

だが、『終わりなき危機』の水準の高さに比べたら、本書はエッセイ集という雑書扱いであるというべきだろう。『終わりなき危機』については近日中に書評記事を書く予定である。

「500年の歴史」が終わったというところまではよい。しかし、その先がどうなるのかについて、つまり「資本主義が終わったあとの世界」についての言及がほとんどない。イマジネーションも構想力も示されていないということだ。

その意味でも、ジャック・アタリの『21世紀の歴史-未来の人類から見た世界-』(作品社、2008)などとは比べようもない、残念な内容の本である。『21世紀の歴史』については近日中に書評記事を書く予定である。

また、『日本近代史の総括-日本人とユダヤ人、民族の地政学と精神分析-』(湯浅赳男、新評論、2000)のような緊張感もない。たとえ過去の日本を礼讃しようが、日本から一歩外にでれば弱肉強食のジャングルのような状態であることには変わりない。闘いぬいていく気迫も気概も感じられないのだ。書評 『日本近代史の総括-日本人とユダヤ人、民族の地政学と精神分析-』(湯浅赳男、新評論、2000)-日本と日本人は近代世界をどう生きてきたか、生きていくべきか?を参照。

「昔はよかったのに」というのはご隠居様のによる昔話めいた印象だし、感傷めいた筆致が目立つ。どうしても人間は安全地帯にいると、過去追想的思考に陥りがちだ。

しかも、今度の本では中国礼讃である。どうもこの人は、極端から極端にブレる傾向があるようだ。若いころのアメリカ礼讃も含め、この人はどうも思い入れで没入してしまう傾向がみられる。前著ではキューバとブータンであったが、今度は中国か?

もちろん、金融資本主義でもあるアングロサクソン型資本主義にかわるオルタナティブの探求は必要だが、それを中国に求めるという思考にはついていけないものを感じる。アメリカ礼讃の裏返しに過ぎないように思われる。

日本と中国の文明としての違いについての洞察もなく、東アジアでひとくくりにするきらいがなくはない。日本文明が中国文明とは似て非なる存在であることは、梅棹忠夫の『文明の生態史観』は日本人必読の現代の古典である! および 書評 『日本文明圏の覚醒』(古田博司、筑摩書房、2010)-「日本文明」は「中華文明」とは根本的に異なる文明である を参照。

著者の取り組みで評価できるのは、本書でも紹介されているが、現役の40歳代の日本の大企業のエグゼクティブ候補生たちに、文化教養というリベラルアーツの重要性をたたきこむ塾を開催していることだろう。日本のエリートの底の浅さには驚くばかりだが、教育しないよりもしただけでもましというべきか。だがエリート教育について学ぶべきは、まさに著者が否定したはずのアメリカである。

旧制高校というすぐれたエリート教育制度を廃止に追い込んだのはアメリカ占領軍であったが、そのアメリカではリベラルアーツ教育は強固な伝統として続いている。どうせなら、そこまで踏み込んだ議論が著者にはほしかったところだ。

残念ながら、内容的にも首尾一貫していない、あまりも雑駁(ざっぱく)な内容の寄せ集めのような残念な本であった。すでに最前線から下りてしまった人の発言なのである。むかしがよかったというようになたら、人間おしまいだ。すくなくとも現役のビジネスパーソンは絶対にクチにしてはならないことだ。

教訓としては、文化教養といったリベラルアーツは若い頃にたたきこんでおくべきものだということだろう。著者のように年をとって「転向」してからでは遅すぎるのではないか、ということだ。専門知識と雑学(あるいは教養)の掛け算が不可欠だというのはわたしの持論だが、気づくのは早ければ早いほどいい。

本書もまた、専門家の視野狭窄(しやきょうさく)の懺悔録と読むべきなのかもしれない。改宗者の信仰告白の第二弾である。そうであるならば、残念ながら前著ほどのインパクトはない。期待はずれの本であった。


(注) この記事を投稿したあと、関連書籍についてのブログ書評を2本執筆した。ご参考まで。

書評 『21世紀の歴史-未来の人類から見た世界-』(ジャック・アタリ、林昌宏訳、作品社、2008)-12世紀からはじまった資本主義の歴史は終わるのか? 歴史を踏まえ未来から洞察する

書評 『終わりなき危機-君はグローバリゼーションの真実を見たか-』(水野和夫、日本経済新聞出版社、2011)-西欧主導の近代資本主義500年の歴史は終わり、「長い21世紀」を生き抜かねばならない






目 次

まえがき
第1章 資本主義はやはり「自壊した」のか
第2章 資本主義はいかにして発展し、衰退したのか
第3章 「失われた20年」で日本はなにを失ったのか
第4章 中国の“資本主義”をどう理解すべきか
第5章 最高の社会資本としての「信頼」
第6章 「資本主義以後」の日本企業
第7章 戦略的・脱原発政策のすすめ
第8章 日本は「文明の転換」を主導できるか
参考文献

著者プロフィール 

中谷 巌(なかたに・いわお)
三菱UFJリサーチ&コンサルティング(株)理事長。一般社団法人「不識庵」理事長。「不識塾」塾長。一橋大学名誉教授。多摩大学名誉学長。1942年1月22日大阪生まれ。1965年一橋大学経済学部卒。日産自動車に勤務後、ハーバード大学に留学。1973年、ハーバード大学経済学博士(Ph.D)。その後、同大学研究員、大阪大学教授、一橋大学教授、多摩大学学長を歴任。細川内閣の「経済改革研究会」委員、小渕内閣の「経済戦略会議」議長代理を歴任(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。



<ブログ内関連記事>

500年単位の歴史

「500年単位」で歴史を考える-『クアトロ・ラガッツィ』(若桑みどり)を読む (2009年6月8日執筆のブログ記事)

書評 『1492 西欧文明の世界支配 』(ジャック・アタリ、斎藤広信訳、ちくま学芸文庫、2009 原著1991)-「西欧主導のグローバリゼーション」の「最初の500年」を振り返り、未来を考察するために

書評 『国家債務危機-ソブリン・クライシスに、いかに対処すべきか?-』(ジャック・アタリ、林昌宏訳、作品社、2011)-公的債務問題による欧州金融危機は対岸の火事ではない!

書評 『100年予測-世界最強のインテリジェンス企業が示す未来覇権地図-』(ジョージ・フリードマン、櫻井祐子訳、早川書房、2009)

書評 『砂糖の世界史』(川北 稔、岩波ジュニア新書、1996)-紅茶と砂糖が出会ったとき、「近代世界システム」が形成された!


資本主義の自壊?

『資本主義崩壊の首謀者たち』(広瀬 隆、集英社新書、2009)という本の活用法について


資本主義のオルタナティブ

資本主義のオルタナティブ (1)-集団生活を前提にしたアーミッシュの「シンプルライフ」について
 
『Sufficiency Economy: A New Philosophy in the Global World』(足を知る経済)は資本主義のオルタナティブか?-資本主義のオルタナティブ (2)

資本主義のオルタナティブ (3) -『完全なる証明-100万ドルを拒否した天才数学者-』(マーシャ・ガッセン、青木 薫訳、文藝春秋、2009) の主人公であるユダヤ系ロシア人数学者ペレリマン

書評 『緑の資本論』(中沢新一、ちくま学芸文庫、2009)-イスラーム経済思想の宗教的バックグラウンドに見いだした『緑の資本論』

エリート教育


書評 『エリートの条件-世界の学校・教育最新事情-』(河添恵子、学研新書、2009)






(2012年7月3日発売の拙著です)





Clip to Evernote 


ケン・マネジメントのウェブサイトは
http://kensatoken.com です。

ご意見・ご感想・ご質問は  ken@kensatoken.com   にどうぞ。
お手数ですが、クリック&ペーストでお願いします。

禁無断転載!



end

2012年12月27日木曜日

書評 『自由市場の終焉-国家資本主義とどう闘うか-』(イアン・ブレマー、有賀裕子訳、日本経済新聞出版社、2011)-権威主義政治体制維持のため市場を利用する国家資本主義の実態



かつて「国家社会主義」というコトバもあったが、21世紀のいまは「国家資本主義」というコトバにとって代わられている。

「国家資本主義」の担い手は現役の社会主義国もあれば、元社会主義国もあり、また社会主義国とは対極にある王政もまたそのなかにある。

その心は、権威主義政治体制である。具体的にいえば、現在でも社会主義の看板を下ろしていない中国、かつて社会主義であったロシア、そしてサウジアラビアを筆頭にしたペルシア湾岸の王政諸国である。また、中南米の左派政権であるベネズエラもそのメンバーの一人だ。みな権威主義政治体制にある国だといってよい。

国家がみずから所有する国営企業、国営の投資会社による資産運用、これらはあくまでも国家のための経済活動である。そしてその国家の中心にいる支配階層の利益のために富を蓄積するのが目的である。

いわゆる「国家資本主義」とは、著者の表現を借りれば、「政府が主に政治上の利益を追求するために市場を主導する仕組み」である。資本主義を否定するのではなく、可能な限り市場を自分たちの目的にそって利用しようとする姿勢をもっている。

リーマンショックというアメリカ発の金融メルトダウン以降、動きが加速しているのがこの国家資本主義だ。だが、金融危機以前からこの動きはあったことに著者は読者に注意を促している。いわゆる資源ナショナリズムにもかかわるこの動きは、1970年代から存在してものだ。

経済史的にいえば、国家が全面にでた国家資本主義は重商主義にも似ている。国益というカムフラージュを被った一握りの支配層にとっての私益追求という側面において、国家資本主義と重商主義はよく似ている。国家資本主義体制のもとにおいては、政商とよばれる資本家が存在することも似ている点だ。

こういった権威主義政治体制のもとにおいては、なによりも国内問題を意識し、体制維持のための財源が必要だからだ。王政のもとにおいては臣民、それ以外の政治体制のもとにおいての一般民衆、かれらをすくなくとも経済的に満足させておけば、体制転換という誘惑を回避させることができるからだ。そのために国家は富を蓄積する必要があるわけだ。

本書でもっとも多くのページがさかれているのは中国であるのは、その意味ではアメリカにとっても無視できない政治経済情勢であるということだろう。国営企業による中国市場支配が、アメリカの大企業の中国市場進出を阻んでいるという側面はある。

ただ、『自由市場の終焉』は、あくまでもアメリカの国益を前提に書かれた内容であり、「経済ナショナリズム」と「国家資本主義」の違いが明確になっていない。また中国の意味も、アメリカにとってと日本にとっては異なるものがあるが、日本人にとっての中国とはイコールではないのは当然であろう。

尖閣問題が原因となったレアメタル問題など、自由貿易体制を阻害するような政治的動きが歓迎されないという点においては日米で利害は共通しているが、日本にとってのより大きな脅威としては、資金力のある中国国営企業に買収される日本企業が増えているという点だろう。買収によって技術流出につながらないかどうか目を光らせる必要がある。

日本と日本人にとっての意味を考えるなら、理路整然と「経済ナショナリズム」と「国家資本主義」の違いを説いた経済思想書である  『国力とは何か-経済ナショナリズムの理論と政策-』(中野剛史、講談社現代新書、2011) とあわせ読むべきだろう。中野氏のこの本を読むと、ブレマーの言っている国家資本主義が定義としてはかなりあいまいなものに映る

中野氏が指摘しているように、アメリカ自身も「ウォールストリート=財務省複合体」の利益で動いている国であることは否定できない。イアン・ブレマーの問題意識がいまひとつわかりにくいのは、アメリカ自身を相対化する視点がないためであろう。

また、基本的に経済グローバリゼーションはアメリカの国益に適うという論調であり、グローバリゼーションの負の側面が国家資本主義の増大を促している点の指摘があるものの、グローバリゼーションそのものにはあまり疑いの目を向けていない印象を受ける。

権威主義的政治体制をとってきた国々に囲まれている日本にいるためだろうか、中国や北朝鮮という例外があるものの、韓国も台湾もかつて権威主義的政治体制のもとにあったことを知っていると、逆に状況はかつてよりよくなったのではないかという印象すらある。

ただし、東南アジアでみれば、「明るい北朝鮮」との異名をもつシンガポールはさておき、インドネシアやマレーシアにもこの傾向が残り、また中国と関係の深いラオスやミャンマーにまだこの傾向がつよいことは否定できない。これについては、書評 『中国は東アジアをどう変えるか-21世紀の新地域システム-』 (白石 隆 / ハウ・カロライン、中公新書、2012)-「アングロ・チャイニーズ」がスタンダードとなりつつあるという認識に注目!を参照されたい。

しかし、国家資本主義の中核をなす国営企業といえども、独占による利潤が現在は大きいとはいえ、いかなる経済環境においても業績を出し続けることができるわけではない。したがって、未来永劫にわたって市場支配力を維持することはできない

それよりも世界経済が「ブロック経済化」していくことのほうが、はるかに大きな問題ではないかと思うのだが。1930年代の轍を踏んではならないのである。






目 次

はじめに
第1章 新たな枠組みの興隆
第2章 資本主義小史
第3章 国家資本主義――その実情と由来
第4章 さまざまな国家資本主義
第5章 世界が直面する難題
第6章 難題への対処
謝辞
解説 斉藤惇(東証社長)
原註

著者プロフィール  

イアン・ブレマー(Ian Bremer)
ユーラシア・グループ社長。スタンフォード大学にて博士号(旧ソ連研究)、フーバー研究所のナショナル・フェローに最年少25歳で就任。コロンビア大学、東西研究所(East West Institute)、ローレンス・リバモア国立研究所を経て、ワールド・ポリシー研究所の上級研究員(現職)。2007年には、世界経済フォーラムの若手グローバル・リーダー(Young Global Leader)に選出される。1998年、28歳でニューヨークに調査研究・コンサルティング会社、ユーラシア・グループを設立(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。

有賀裕子(あるが・ゆうこ)
翻訳家。東京都生まれ。東京大学法学部卒業。ロンドン・ビジネススクールで経営学修士(MBA)取得(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。



<関連サイト>


Ian Bremmer, The End of the Free Market: Who Wins the War Between States and Corporations ?, Portfolio Hardcover, 2010
・・原著。amazon.com(米国)では、再び勃興しつつある「国家資本主義」(state capitalism)について、リーマンショックを予測して一躍脚光を浴びた経済学者・ヌリエル・ルービニ教授と one-on-one で論じあっているので、ぜひ目を通すことを奨めたい。

ユーラシア・グループ(Eurasia Group)(日本語版)
・・イアン・ブレマーが社長を務めるグローバル政治リスク分析会社

周到に準備された防空識別圏-日本は2016年まで孤立状態が続く (イアン・ブレマー、インタビュアー=石黒千賀子、日経ビジネスオンライン 2013年12月20日)


<ブログ内関連記事>

月刊誌 「フォーリン・アフェアーズ・リポート」(FOREIGN AFFAIRS 日本語版) 2010年NO.12 を読む-特集テーマは「The World Ahead」 と 「インド、パキスタン、アフガンを考える」
・・「インターネットは自由も統制も促進する-政治的諸刃の剣としてのインターネット-」(イアン・ブレマー)は、インターネット・テクノロジーは「さまざまな野心や欲望を満たす手段でしかなく、そうした欲望の多くは、民主主義とは何の関係もない」と、インターネット楽観論にクギをさす。米国人だけではなく、日本人も心しておくべき重要な指摘である。世界には民主主義を国是とする国家だけでなく、権威主義的で抑圧的な政策をとりながらインターネットを活用して世論をコントロールしている国家もある」(同記事に書いた文章から抜粋)。

書評 『アラブ諸国の情報統制-インターネット・コントロールの政治学-』(山本達也、慶應義塾大学出版会、2008)-インターネットの「情報統制」のメカニズムからみた中東アラブ諸国の政治学
・・権威主義的体制は、「情報統制国家」である

書評 『中国は東アジアをどう変えるか-21世紀の新地域システム-』 (白石 隆 / ハウ・カロライン、中公新書、2012)-「アングロ・チャイニーズ」がスタンダードとなりつつあるという認識に注目!

(2016年7月21日 情報追加)



(2012年7月3日発売の拙著です)





Clip to Evernote 


ケン・マネジメントのウェブサイトは
http://kensatoken.com です。

ご意見・ご感想・ご質問は  ken@kensatoken.com   にどうぞ。
お手数ですが、クリック&ペーストでお願いします。



end

2012年12月26日水曜日

書評 『国力とは何か-経済ナショナリズムの理論と政策-』(中野剛史、講談社現代新書、2011)-理路整然と「経済ナショナリズム」と「国家資本主義」の違いを説いた経済思想書


1989年からはじまった「第三次グローバリゼーション」は、米国がみずからの国益追求の観点から強力に推進したものであったが、結果としてマネーは暴走し 2008年にはリーマンショックとして破綻、その後もいっこうに止まることのないグローバリゼーションによって先進国の国民経済は疲弊しつつある。

本書はこの認識にたって、本来の経済主体である「国民経済」の意味について認識を深めることを説いた内容の本である。2008年に出版された本書の原本はリーマショック以前に書かれたものだが、2011年に発生した「3-11」も踏まえた内容として増補改訂されたという。

ナショナリズムという、やっかいだが不可欠な存在を扱った本書は、『国力とは何か-経済ナショナリズムの理論と政策-』というタイトルのとおり、教科書のような理路整然とした記述である。Youtube などの映像で見る、ややエキセントリックなパフォーマンスをみせる著者の言動とはだいぶ異なる印象を受ける。

ゲルナーやスミス、ベネディクト・アンダーセンといったナショナリズム論の論客の議論をベースに、経済ナショナリズムの意味を考察した本書は、経済書というよりも経済思想について書かれた本である。

重要なのは、「経済ナショナリズム」と「国家資本主義」はまったく異なるものであるということ。この両者の混同が、日本では経済主体であるはずの国民経済を軽視する論調につながってしまったと著者は嘆き、読者に「経済ナショナリズム」の重要性を喚起する。

ネーション(nation)は、民族、国民のことであり、国家を意味するステート(state)とはイコールではない。そして、ネーションがステートを必要とすることは、現実世界では当然のことだろう。だがステートが必ずしもネーションを前提としていないことは中世から近世の歴史を振り返ってみればわかることだ。太陽王ルイ14世の「朕は国家である」という名言にあるように、ステートはネーションのものではなかった。

ネーションとステートが合致するようになったのはフランス革命以後のことである。それをさして「ネーション・ステート」(nation state)、すなわち「国民国家」という。世界的にみてもネーションが成立している日本にいるとこの重要な事実に気がつきにくいが、ネーションとステートは似て非なる存在であることは、なんどクチを酸っぱくしても言い過ぎではないのだ。

近代に成立したネーション・ステート(国民国家)は、欧州では200年以上、日本でも140年以上の歴史をもつ。だが、第二次大戦後独立したアジア・アフリカの新興国では、たかだか50年程度の歴史しかもっていないだけでなく、現在においてもステートはあってもネーションがきわめて弱い国もある。

もちろん、「国民経済」も「国民国家」 ある種の「理念系」ではあるが、著者にしたがってネーションから生み出される政治力と経済力を「国力」と定義すれば、やるべきことはおのずから見えてくる。

グローバル経済のなかにある国民経済のパワーが弱まっているのが現実だ。国際通貨制度は、「国民経済の独立」と「国際経済のルール」の対立関係をいかに調整するかが課題であるが、ブレトンウッズ体制崩壊後の変動相場制においては、唯一の覇権国であるアメリカが経済的に弱体化し、不安定な状態がつづいている。

問題は、いかし利己主義的な動機から自国の通貨安による「近隣窮乏化政策」など、攻撃型・排外主義的な行動にかられる誘惑から逃れることができるのか、あるいは制御できるのかということに。独善的な行動にならないか 国際協調ができるかということである。

これが「ステートの支配力」強化の懸念である。国家資本主義にみられる新重商主義的な行動と言い換えてもいいだろう。「ネーションの能力」ではなく「ステートの支配力」、国内での富の生産ではなく、外から富を収奪する方向。中国やロシアは言うに及ばず、アメリカのようにネーションのチカラが弱体化しているステートにおいてはその傾向がある。

独りよがりの経済政策を実行するのではなく、ネーションの能力を強化しながら、国際協調も行っていくという姿勢が、とくに日本というネーション・ステート(国民国家)に求められるのである。

ひじょうに面白い内容の本である。思想の表明としても面白い。ただ、金融だけでなく製造業も小売業も複雑にからみあったグローバルなサプライチェーンのなかにある現在、ネーションの能力をあげるだけでは、弱肉強食の環境のなかでは生き残ることはできないのではないかという懸念も感じる。ステートとしてのチカラも同時に必要ではないか?

著者が経済官僚であるという点は、残念ながらマイナスイメージにつながっている可能性もある。官僚だから国家の観点からの発言なのかという邪推を生みかねないからだ。出版当時は経済産業省から文部科学省に出向中(・・京都大学準教授)であったが、現在は経産省に戻っている。著者は学者ではあるが現役の官僚である。

しかし、現実にただしい済政策が実行されるかどうかは、本書でも何度も留保されているように、理論どおりにはいかないものである。たとえ官僚であっても、政策の最終決定者でも最終実行責任者でもないからだ。

その意味では、「理念系」について語った思想書として受け取るべきだろう。内容はけっして異端ではない。





目 次

序 大震災という危機
第1章 危機に直面する世界
第2章 経済ナショナリズムとは何か
第3章 はじめに国家ありき
第4章 国力の理論
第5章 国力の政策
第6章 経済ナショナリズムとしてのケインズ主義
第7章 国民国家を超えて?
第8章 経済ナショナリズムと日本の行方
あとがき


著者プロフィール

中野剛志(なかの・たけし)
1971年、神奈川県に生まれる。東京大学教養学部(国際関係論)卒業。エディンバラ大学より博士号取得(社会科学)。経済産業省産業構造課課長補佐を経て、京都大学大学院工学研究科准教授。専門は経済ナショナリズム。イギリス民族学会 Nations and Nationalism Prize 受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。

<ブログ内関連記事>

書評 『ヤシガラ椀の外へ』(ベネディクト・アンダーセン、加藤剛訳、NTT出版、2009)-日本限定の自叙伝で名著 『想像の共同体』が生まれた背景を知る
・・ナショナリズム論の古典である『想像の共同体』について簡単な解説を加えておいた

書評 『新・国富論-グローバル経済の教科書-』(浜 矩子、文春新書、2012)-「第二次グローバリゼーション時代」の論客アダム・スミスで「第三次グローバル時代」の経済を解読

書評 『自由市場の終焉-国家資本主義とどう闘うか-』(イアン・ブレマー、有賀裕子訳、日本経済新聞出版社、2011)-権威主義政治体制維持のため市場を利用する国家資本主義の実態

書評 『日本近代史の総括-日本人とユダヤ人、民族の地政学と精神分析-』(湯浅赳男、新評論、2000)-日本と日本人は近代世界をどう生きてきたか、生きていくべきか?




(2012年7月3日発売の拙著です)





Clip to Evernote 


ケン・マネジメントのウェブサイトは
http://kensatoken.com です。

ご意見・ご感想・ご質問は  ken@kensatoken.com   にどうぞ。
お手数ですが、クリック&ペーストでお願いします。



end

2012年12月25日火曜日

書評 『新・国富論-グローバル経済の教科書-』(浜 矩子、文春新書、2012)-「第二次グローバリゼーション時代」の論客アダム・スミスで「第三次グローバル時代」の経済を解読


アダム・スミスの『国富論』、この経済学の著名な古典も、カール・マルクスの『資本論』とならんで膨大な著作であり、名前だけは知られていても読まれることのほとんどない古典であろう。

正式には『諸国民の富』と訳されるべき The Wealth of Nations は、1776年に出版された。経済学説史的にいえば、アダム・スミスに始まる「労働価値説」は、デイヴィッド・リカードを経てカール・マルクスが集大成することになる。もちろん、こういった予備知識はなくても、比較的気軽に読めるように工夫されている本だ。

本書は、アダム・スミスとリカードを案内役にグローバル経済について考えてみようという試みの内容だ。この二人は「第二次グローバリゼーション時代」を代表する英国の経済学者である。いろんな日本人が「国富論」をタイトルに入れた本を書いているが、この本は原典であるアダム・スミスをより意識した内容である。

スミスが生きていたのは産業革命時代にあたる「第二次グローバリゼーション」の時代。英国が世界の覇権を握り始めた時代である。「第一次グローバリゼーション」は大航海時代であり、「第三次グローバリゼーション」は最初の500年が終わった1989年以降に始まり、現在まで続いている。


(東洋文庫所収の原本の展示)



グローバル経済と国民経済の関係

グローバル化やグローバリゼーションといったコトバはあまり考えなしにつかうことが多いのではないだろうか。

実務家の観点からいえば、国境がなくなったわけではないのでグローバルといいうコトバにはうさんくささを感じるのだが、マクロ的にみればあきらかにグローバル市場が形成されているといってよい。まずはカネ、そしてモノ、最後にヒトまでグローバル化していった。

カネには色がつかないという表現があるようにもっともグローバル化しやすいモノも製造拠点が海外移転することによって簡単に国境を越えてしまう。

ヒトにかんしては、もっともグローバル化しにくい性格をもているが、じっさいに国際移動がなくても賃金が平準化されフラットになることによって、グローバル化に巻き込まれているのである。


「解体の誤謬」?

グローバル市場は、国内市場の総和ではない。国民経済をミクロと考えれば、グローバル経済はマクロの関係にあたるものだ。

従来の経済学においては、国民経済全体をマクロ経済で考えていた。個人や企業など個々の経済主体の活動がミクロ経済であれば、その総体をマクロ経済ととらえている。

ある意味では、二重の入れ子構造になっていると考えるべきかもしれない。個々の経済主体は国民経済のなかにあり、国民経済はまたグローバル経済のなかにある。つまり、グローバル経済をマクロと考えれば、国民経済もまたミクロの関係にある。

現在の問題は、個々の経済主体が国境を越えて複雑に絡み合っているために、国民経済の意味が不透明になってしまっていることにある。とはいっても、国境が消えたわけではなく、個々の経済単位は国境を軽く越えたとしても、経済政策の主体は国民経済単位でしか実行できない。これが現在のグローバル経済の問題なのだ。

経済学を勉強した人なら、「合成の誤謬」というのを習ったことがあると思う。ミクロをすべて足しあわせてもその総和がマクロにはならないというパラドックスのことである。部分の総和が全体ではない、と言い換えてもいいだろう。

浜矩子氏は、「合成の誤謬」に対して、「解体の誤謬」もまた存在するのではないかという興味深いことを述べている。グローバル経済を分解しても国民経済にはならないということだ。

聞きなれない表現ではあるが、グローバル経済の問題を把握するためには重要な概念である。


新・重商主義批判

だからこそ、一国繁栄主義である「重商主義」を批判したアダム・スミスが現在においても意味をもつのである。浜矩子氏もまた通貨安による「近隣窮乏化政策」などの収奪型の「新重商主義」を批判する。

それは、「第二次グローバリゼーション」の反動として発生した「ブロック経済化」がいかなる災難を全世界にもたらしたかを考えれば明らかだろう。ファシズムの台頭と第二次世界大戦による破壊にいたった歴史を忘れてはならない。

日本は1998年からゼロ金利政策により、市場にカネ余り現象を作り出してきた。さらにアメリカも、欧州もゼロ金利政策を採用し、世界中がカネ余り現象となっている。しかし先進国には需要がないので経済は好転せず、インフレの悪影響は新興国にでてくる。

だが、誰も借りないし、誰も使わない。これからさらなる金融緩和を行なって無制限に資金を供給したとしても、個人にも企業にもニーズがないから、実体経済には吸収されないのである。

この状況がいつまでもつづくわけがないのは自明の理で、本来なら恐慌発生によって経済的な自浄作用が行われるべきところ、むりやりダムをせき止めていると著者は言う。

理屈ではわかっても、大好況は誰しも望むところではないだろう。処方箋としては、論者によって大きく異なるのが経済学の分野であり、経済学の専門家であるからすべてが正しいというわけでもない。だから、一般国民は耳に心地よい発言に魅了されやすく、政治家もまたそのような発言しかしなくなる。

その結果、世界中で問題はひたすら先送りされ続けている。しかしこのまま現状維持で続くはずがない。


ではどうしたらいいのか?

現状分析まではいいのだが、本書の結論はやや拍子抜けの感がある。いきなり理想に飛んでしまうような印象を受けるからだ。すべての人にとって最適の処方箋を書くことは不可能なことはわかるのだが。

「教科書」というには、語り口がやや冗長で、内容的にもなんだか尻切れトンボのようであまりにも未完成だが、現在の「第三次グローバリゼーション」の問題がいかなるものであるか考えるのはいいかもしれない。

ただし、好き嫌いで好みがわかれる語り口であることは否定できないと付け加えておこう。





目 次

はじめに
第1章 グローバル経済のいま
-1. 世界は越えてはいけない一線を越えつつある
-2. グローバル経済はどのような壮年期を迎えるのか
-3. グローバル時代のアリとキリギリス物語
第2章 アダム・スミスの『国富論』から考える
-1. 『国富論』は "第二次グローバル化時代" への処方箋だった
-2. 労働・市場・貨幣は、スミスの時代の "ヒト・モノ・カネ"
第3章 グローバル市場における分業
-1. グローバル経済を理解するための新しい思考法
-2. 国破れて企業あり、企業栄えて国滅ぶ
-3. 「二国二財モデル」と「羊羹チャート」
-4. 「○○立国」で国は立たない
第4章 カジノ金融とマジメ金融のはざまで
-1. なぜ、金融が暴走する世界になったのか?
-2. グローバル・カジノの胴元、ニッポン
第5章 スミス先生と現代へ
-1. リーマンショックでミイラ捕りがミイラになった
-2. 出来の悪い魔法使いの弟子たち-『国富論』的見地から見たG20
-3. グローバル長屋はどこへ行く?
第6章 そして、「新・国富論」の幕が開く
-1. 審査員はスミス先生とリカード先生
-2. 第一次接近:問題の抽出
-3. 第二次接近:課題の整理
-4. 第三次接近:検討項目の設定
-5. 枠組みつくりへの挑戦
-6. パズルの中の物語を読む
あとがき


著者プロフィール 

浜 矩子(はま・のりこ)
1952年生まれ。一橋大学経済学部卒業。三菱総合研究所ロンドン駐在員事務所長、同研究所主席研究員を経て、同志社大学大学院ビジネス研究科教授。専門はマクロ経済分析、国際経済(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。


<ブログ内関連記事>

書評 『大英帝国の異端児たち(日経プレミアシリーズ)』(越智道雄、日本経済新聞出版社、2009)-文化多元主義の多民族国家・英国のダイナミズムのカギは何か?
・・『ネクタイを締めた海賊たち-「元気なイギリスの謎を解く-』(浜矩子、日本経済新聞社、1998)に言及している





(2012年7月3日発売の拙著です)





Clip to Evernote 


ケン・マネジメントのウェブサイトは
http://kensatoken.com です。

ご意見・ご感想・ご質問は  ken@kensatoken.com   にどうぞ。
お手数ですが、クリック&ペーストでお願いします。



end

2012年12月24日月曜日

書評 『世紀の空売り-世界経済の破綻に賭けた男たち-』(マイケル・ルイス、東江一紀訳、文芸春秋社)-アメリカ金融業界の周辺部からリーマンショックに迫る人間ドラマ


2008年のリーマンショックか4年以上たったが、世界経済はいっこうに回復する兆しもない。

そんななか、 『世紀の空売り-世界経済の破綻に賭けた男たち-』(マイケル・ルイス、東江一紀訳、文芸春秋社)を読んだ。原著も日本語版も2010年に出版されている。

アメリカ金融破綻を、逆張りで空売りに賭けた少数のアウトサイダーたちから描いた作品だが、読んでいて思ったのはアメリカ資本主義の行き詰まりにほかならない。

フロンティアを失っていたアメリカ資本主義が、ついには国内の低所得者層を巨大なフロンティアとみなして収奪の限りを尽くしたものの、壮大な「虚構」がついに崩壊してしまったという印象だ。

低所得者向けの住宅ローンを小口にして債券化したサブ・プライムローン証券の詳細については本書を読めば理解できるように書かれているが、その仕組みと意味について、金融業界内部のインサイダーたちもほとんど理解していなかったという事実がまた恐ろしいことなのだ。

その虚構に気付いたごく少数のトレーダーたちのアウトサイダーが賭けたのが「空売り」(ショート)であった。逆張りである。そしてその賭けに勝利するまでのドラマが、このノンフィクションの内容だ。

その反対側にいる投資銀行は「買い」(ロング)に賭けていた結果、無残にも惨敗。ベア・スターンズは破綻し買収され、名門投資銀行のリーマン・ブラザーズはこの世から姿を消した。

金融商品の仕組みを理解していない投資銀行、格付け機関のいい加減な格付け、規制し監督する立場にいながらなにも理解していなかった連邦準備制度理事会や財務省。まさに「財務省・ウォールストリート複合体」というインサイダーモラルハザードとしかいいようがない。

金融世界のインサイダーとアウトローの対比は、買い(ロング)と売り(ショート)という対比で、コントラストが鮮やかに描かれている。

1985年に名門投資銀行であるソロモン・ブラザーズが、会社形態を合資会社から株式会社に変換したことから金融世界の暴走が始まったのである。

1985年、これもまたメルクマールとなる年であったのだ。

わたしが金融系コンサルティング会社に入社して社会人となったこの年、著者のマイケル・ルイスは名門投資銀行ソロモン・ブラザーズの社員となっている。そしてその経験をもとに処女作『ライアーズ・ポーカー』を書き上げて世界的ベストセラーとなった。

オリバー・ストーン監督のハリウッド映画 『ウォール街』が製作公開されたのが1987年のことである。

原書のカバーは、釣針がドル札を巻き上げているイラストが描かれている。原書の副題にある Inside the Doomsday Machine は直訳すれば「世界の終わりの日をつくるマシーン内部」ということになる。

「世界の終わり」というドゥームズデイをつくってしまったアメリカの金融世界は、はたして正常化するのであろうかまたあらたなフロンティアをでっちあげるしか生きる道はないのだろうか?

それにしても、よくここまで詳細な取材を行ったうえで、迫真の人間ドラマに仕立て上げることができるものだと、著者マイケル・ルイスのストーリーテラーとしての手腕には驚くばかりだ。

読んでどうなるということもないのだが、読むとじつに面白い物語である。






<ブログ内関連記事>

書評 『ブーメラン-欧州から恐慌が返ってくる-』(マイケル・ルイス、東江一紀訳、文藝春秋社、2012)-欧州「メルトダウン・ツアー」で知る「欧州比較国民性論」とその教訓
・・『世紀の空売り』のあと。金融危機はアメリカから欧州へ、そしてアメリカに逆流

書評 『マネー資本主義-暴走から崩壊への真相-』(NHKスペシャル取材班、新潮文庫、2012 単行本初版 2009)-金融危機後に存在した「内省的な雰囲気」を伝える貴重なドキュメントの活字版

CAPITALISM: A LOVE STORY ・・映画 『キャピタリズム マネーは踊る』

マイケル・ムーアの最新作 『キャピタリズム』をみて、資本主義に対するカトリック教会の態度について考える

映画 『ウォール・ストリート』(Wall Street : Money Never Sleeps) を見て、23年ぶりの続編に思うこと

『資本主義崩壊の首謀者たち』(広瀬 隆、集英社新書、2009)という本の活用法について

「宗教と経済の関係」についての入門書でもある 『金融恐慌とユダヤ・キリスト教』(島田裕巳、文春新書、2009) を読む

書評 『ユーロ破綻-そしてドイツだけが残った-』(竹森俊平、日経プレミアシリーズ、2012)-ユーロ存続か崩壊か? すべてはドイツにかかっている

Bloomberg BusinessWeek-知らないうちに BusinessWeek は Bloomberg の傘下に入っていた・・・





(2012年7月3日発売の拙著です 電子書籍版も発売中!)







Clip to Evernote 


ケン・マネジメントのウェブサイトは
http://kensatoken.com です。

ご意見・ご感想・ご質問は  ken@kensatoken.com   にどうぞ。
お手数ですが、クリック&ペーストでお願いします。

禁無断転載!



end