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2014年7月31日木曜日

アンクル・サムはニューヨーク州トロイの人であった-トロイよいとこ一度はおいで!

(Uncle Sam)

君はアンクル・サムを知っているか?

英語で書けば Uncle Sam、日本語でいえば「サム叔父さん」ということになる。冒頭に掲げたポスターで君に向かって指さしている人物のことだ。陸軍の志願兵募集ポスターに登場する人物である。

アンクル・サムは実在の人物だったのだ!
アンクル・サムはニューヨーク州トロイの人であった!

じつはわたしもその事実を知るまでは、アンクル・サムはアメリカ合衆国を擬人化した架空の人物だと思い込んでいた。Uncle Sam の頭文字をとって略すと US となる。そう、United States の US と同じだ。アメリカ合衆国のことだ。

いまはもうほとんどつかわないが、かつて典型的な英国人がジョン・ブル(John Bull)と擬人化して呼ばれていたように、フランス女性の擬人化がマリアンヌと呼ばれているように、アンクル・サムもそのようなものだと思い込んでいたのだ。

わたしがアンクル・サムが実在の人だと知ったのは、彼が住んでいたニューヨーク州トロイに住むことになったからだ。その地にある米国最古の工科大学であるレンセラー工科大学(通称 RPI)に、MBA取得のため留学したからである。いまから24年前の1990年のことだ。

アンクル・サムは本名をサミュエル・ウィルソン(Samuel Wilson)という。1776年9月13日にマサチューセッツ州アーリントンに生まれたスコットランド系移民の出身。トロイに移住して兄弟と精肉業者(meat packer)として独立、成功した起業家となり、地域の発展に大いに貢献した人物だ。その結果、存命当時からサミュエル・ウィルソンはアンクル・サムとして土地の人から慕われていたという。

(1990年にトロイで購入したポストカード)


アンクル・サム伝説が生まれたのは、1812年の米英戦争(・・第二独立戦争ともいう)がキッカケである。

精肉業者のアンクル・サムは米国陸軍への大口の食肉供給契約を受注した。それはハドソン川沿いのトロイという土地が、水運が物流の中心であった当時においては物流の結節点であったからである。アンクル・サムの精肉会社が供給する食肉は新鮮で品質が高かったという。

肉をつめた樽には EA-US と刻印されていたそうだが、トロイ出身の兵士たちは US を United States ではなく Uncle Sam のことだと思ったらしい。それがアンクル・サム伝説が生まれることにつながったという。偉大なる勘違いというやつである。

サミュエル・ウィルソンがトロイで亡くなったのは1854年7月31日。享年 87歳。本日(2014年7月31日)は、没後160年ということになる。


ニューヨーク州トロイはオランダ人が入植して開発した

アメリカ産業革命発祥の地トロイ(Troy)は、ハドソン川沿いの交通の要衝。風光明媚な土地である。

トロイとはトロイの木馬のトロイのことで、古代ギリシアの都市のことであり、シュリーマンが少年時代の夢を実現するため私産を投じて発掘した都市のことである。詳細は自叙伝の『古代への情熱』に詳述されている。

(ハドソン川からみたトロイ wikipediaより)

現在は物流の中心は航空貨物と鉄道とトラックによる陸運が中心になっているが、19世紀前半のアメリカにおいては水運が中心であった。またエネルギー源は石炭火力から19世紀末には水力発電に移行しつつあった。

ハドソン川がニューヨークのマンハッタンと縁が深いことを知っている人は多いと思うが、ハドソン川をすこし北にさかのぼれば、ドイツのライン川のような風光明媚な土地になることは、あまり知られていないかもしれない。陸軍士官学校のウェストポイントはハドソン川左岸の台地に立地している。ハドソン川流域は、とくに秋の紅葉シーズンが美しい!

(ハドソン川とモホーク川が分岐する地点にトロイがある wikipeiaより)


ハドソン川の上流に位置するトロイは、対岸の首都オルバニーにも近く、運河が掘削されて五大湖の一つエリー湖ともつながっているトロイは物流の結節点に位置していたのである。現在ならニューヨーク・シティからもボストンからも、クルマで3時間くらいの距離である。

(トロイ周辺図 wikipediaより)

トロイ周辺には、先住民のネイティブ・アメリカン風の地名が痕跡として残存している。たとえばモホーク(Mohawk)というのはじつに美しい響きだから、そのまま地名として残されたのだろう。モホーク族のモホークである。北海道に残るアイヌ語が起源の地名と似ているのかもしれない。

初期のアメリカ文学を代表する作家にワシントン・アーヴィング(Washington Irving)という人がいる。『スケッチブック』という短編集に、「リップ・ヴァン・ウィンクル」という作品がある、アメリカ版浦島太郎のような伝説を小説にしたものだ。主人公はオランダ系移民に設定されている。

「リップ・ヴァン・ウィンクル」の舞台がハドソン川沿いのキャッツキル(Catskill)という山中のことなのだが、この kill というのは川のことをさす表現のようで、もっぱらニューヨーク州のみで使用される方言らしい。語源はオランダ語だそうだ。(kill (noun) Chiefly New York State. a channel; creek; stream; river: used especially in place names: Kill Van Kull. Origin: 1660–70, Americanism; &; Dutch kil, Middle Dutch kille channel)。

このようにハドソン川流域はオランダ人が入植して開拓した土地であった。そもそもニューヨークはニューアムステルダムと呼ばれていたのである。最初に入植したのはオランダ人であったが、その後アメリカは英国の植民地となった。

わたしが留学したレンセラー工科大学のレンセラー(Rensselaer)とは、創立者であったオランダ人入植者の大地主 スティーヴン・ヴァン・レンセラー(Steven Van Resselaer 1764~1839)から命名されたものだ。当時は全米で第10位の資産家。政治家でもあり、みずからの資産で、その後レンセラー工科大学となる実科学校(ポリテクニーク)を1824年に創立したのである。ポリテクは、ナポレオンがつくった理工系の実科学校がモデルである。

プラグマティックなオランダ人らしい実学志向の学校であり、この工科大学モデルが人材育成をつうじて「アメリカ産業革命」に大きく貢献したことはいうまでもない。アメリカ的な実学志向は、アングロサクソンだけではなく、オランダ的なものも、その源流にあったことがわかる。

アメリカ産業革命の発祥の地であるトロイも、その後の産業中心地の西への移動によって一時期は衰退していたが、現在はベンチャーの孵化器であるインキュベーションセンターとテクノロジーパークの設置が成功したことにによって、地域再活性化モデルとしての重要性が再確認されるに至っている。

わたしが留学したのは、日本ではまだインキュベーションの重要性があまり認識されていなかった頃のことだ。四半世紀たって状況が大幅に変化したことは、まことにもってうれしい限りだ。



明治時代初期にトロイで学んだ日本人がいた!

専修大学の創設者の一人となった目賀田種太郎(めがた・たねたろう)などの日本人留学生がトロイ・アカデミーという学校で勉強していたという。これはニューヨーク州トロイのことである。

専修大学の関係者ではないので、たまたまトロイ関連で検索に引っかかったのでその存在を知った。目賀田種太郎という人物は、じつにすごい経歴の人なのだ。

目賀田種太郎(1853~1926)は、wikipeiaの記述によれば、専修学校(・・現在の専修大学)の創始者の一人であるだけでなく、東京音楽学校(・・現在の東京藝術大学)の創設者の一人でもある。政治家・官僚・法学者・裁判官・弁護士・貴族院議員・国際連盟大使・枢密顧問官・男爵という、なんともすごい経歴。官職としては、司法省附属代言人、判事、大蔵少書記官、大蔵省主悦官、横浜税関長、韓国政府財政顧問、枢密顧問官を歴任している。旧幕臣の出身だが、少年時代は神童と謳われていたという。

(目賀田種太郎 ハーバード大学蔵)

大学南校第1回国費留学生となってハーバード法律学校(・・現在のハーバード大学)を卒業しているが、ハーバード入学前にトロイで学んでいたらしいのだ。

「専修大学を生んだ若い4人の夢と志」 によれば、こうある。

目賀田はニューヨーク郊外トロイのアカデミーやボストンで語学を身につけると明治5年(1872)、ハーバード法律学校(現・ハーバード大学)に入学。必須条件とされた「キリスト教徒であること」に対して一歩も譲らずに意を述べて、入学許可を得た。


専修大学出身の作家・志茂田景樹氏が『専修大学創立者物語(仮題)』取材の一環としてトロイを取材したらしい。専修大学育英会のサイトに「アメリカ取材を終えて」というインタビュー記録が掲載されている。すこし長いが貴重な証言なので引用させていただこう。

- 大変精力的に取材をされましたが、一番印象に残っていることはなんでしょうか。 

志茂田先生: 訪ねたどこにも無駄な場所はなかったけれど、取材後半で訪ねたトロイでのことが一番でしょうか。ここは本当に予想以上の収穫でしたね。
このトロイという所は、目賀田種太郎がハーバード大学の Law School に入学する前に、英語や普通科を学んだ学校があるんだけれど、その学校のあった場所が現存しているかどうかも分からない状態で訪ねたんですね。そこで偶然見つけた観光協会のようなところで、歴史協会を教えてもらったの。1870年代という昔のことなら、とね。
それこそ、アポイントなしの突撃取材だったのですが、そこで分かったのは、これまで目賀田が通っていたのは「トロイのアカデミー」と大学の記録にはありましたが、正式名称は「トロイアカデミー」だということや、場所も特定できたんです。今は「HEALTH BUILDING」という建物になっていましたが、そこは、ゆるやかな丘の上にあって、実におだやかで静かな印象でした。当時の目賀田も、こんないい環境の中で学んだのだと思います。その頃すでに作られていた教会が今も現存しており、実際に訪ねてみました。多分、目賀田も通ったのではないかと思います。歴史を感じさせる教会でした。
調べていただいた歴史協会には、その頃の地図や住所録(電話帳のようなもの)があって、そこから確認できたのですが、本当に予想外の展開で、僕もワクワクしてしまいました。 (*太字ゴチックは引用者=さとう)

ちなみに明治時代の政治家では、目賀田種太郎のほか金子堅太郎がハーバード・ロースクールを卒業している。ただし、目賀田種太郎はLLB(=Bachelor of Law)であり学部レベルの学位である。

志茂田景樹氏は作家的想像力を発揮して、「その頃すでに作られていた教会が今も現存しており、実際に訪ねてみました。多分、目賀田も通ったのではないかと思います」と語っているが、キリスト教徒でないにもかかわらずハーバードへの入学を認めさせたという記述と矛盾しているのだが・・・。

『専修大学創立者物語(仮題)』は、最終的には『蒼翼の獅子たち』というタイトルで河出書房新社から2008年に出版されている。志茂田景樹氏というと、一時期は奇抜なファッションでテレビに登場するカゲキな人として有名であったが、歴史小説も執筆しているわけだ。この本のことは、専修大学の関係者なら周知の事実だろう。


トロイよいとこ一度はおいで!

先日、レンセラー工科大学(RPI)を卒業してから22年ぶり(!)に、日本人留学生や客員研究員(visiting scholar)として滞在されていた面々と東京の居酒屋で同窓会を行った。もちろん話題はトロイの話ばかり。きわめてローカルな話題に終始したことはいうまでもない。

そのときの話題は「トロイはいい」という懐旧談に終始したことだ。だが、これだけはじっさいに住んでみないとわからないことだ。トロイには古き良き赤レンガの建築物やウォーターフロントの倉庫群が残っており、日本でいえば小樽や舞鶴のようなレトロな風情もある。

トロイをロケ地に使用した映画には Most Popular Titles With Location Matching "Troy, New York, USA" によれば、現在39本のタイトルが列挙されている。

わたしが卒業する寸前にはスコセッシ監督の『エイジ・オブ・イノセンス』(1993年公開)の撮影が赤レンガの倉庫街を利用してで行われていた。1870年代のニューヨークが舞台だが、その当時の雰囲気を残しているのがトロイのダウンタウンだからだ。ちょうど目賀田種太郎が語学学校に通っていた頃だから、彼はリアルタイムで体験していたことになる。

毎年のように 大学からは reunion(=同窓会)のインビテーションがメールで来ているのだが、残念ながら卒業以来一度も再訪していない。2024年の建学200年祭(!)にはぜひかけつけたいと思っている。いまから10年後が楽しみだ。

トロイよいとこ一度はおいで! アンクル・サムの町トロイへようこそ!






PS トロイの対岸のオルバニーについて

トロイの対岸のオルバニーは、オランダ植民地時代には毛皮交易の中心地としておおいに栄えた場所。オルバニーにはオラニエ砦というものがあったそうだ。このことは、『毛皮と人間の歴史』(西村三郎、紀伊国屋書店、2003)を読んではじめて知った。

ハドソン川を北にややさかのぼったコーホーズでハドソン川とモーホーク川は分岐する。モーホークはいうまでもなく先住民の部族名である。ハドソン川の河口はマンハッタン。現在のニューヨークはかつてはニューアムステルダムであった。オランダ西インド会社(West India Company)が関与していた。オランダ人による入植についてはwikipediaの記述を参照。

オランダ人が撤退したあとは、フランス人と英国人が中心となる。この地域は英国領となった。



(ニューネデルラントの紋章は高級毛皮のクロテン wikipediaより)


オランダ植民地時代の「ニューネーデルラント」(New Netherland)については、wikipediaの記述が参考になる(英語版)。そのなかに以下のような一節がある。

The inhabitants of New Netherland were Native Americans, Europeans, and Africans, the last chiefly imported as enslaved laborers. Descendants of the original settlers played a prominent role in colonial America. For two centuries, New Netherland Dutch culture characterized the region (today's Capital District around Albany, the Hudson Valley, western Long Island, northeastern New Jersey, and New York City).

そういう土地柄なのである。東部のリベラルな風土は、オランダが持ち込んだ宗教に寛容な姿勢をベースにしたものだ。清教徒(ピューリタン)のような排他的で原理主義的な姿勢とはまったく異なるものである。

(17世紀のオランダ人入植者たちの居留地 wikipediaより)

Manifested, and occasionally embraced, as multiculturalism in late twentieth-century United States, the concept of tolerance was the mainstay of the province's mother country. The Dutch Republic was a haven for many religious and intellectual refugees fleeing oppression as well as home to the world's major ports in the newly developing global economy. Concepts of religious freedom and free-trade (including a stock market) were Netherlands imports. In 1682, the visiting Virginian William Byrd commented about New Amsterdam that "they have as many sects of religion there as at Amsterdam".

RPIの創立者スティーヴン・ヴァン・レンセラーもまた、Manor of Rensselaerswyck という大規模な土地を所有していた、オランダ系植民者の末裔として、地域の発展に大いに貢献したのである。実用性を重視したオランダ人らしい学校創立であった。

(2016年5月12日 記す)



<関連サイト>

Welcome to the City of Troy, NY | Official Website

Samuel Wilson (wikipedia英語版)

Harvard in the 1870s  Tanetaro Megata at Harvard, 1872-1874 (Harvard University Archives Research Guides)

ニューネーデルラント(wikipedia)
・・オランダ植民地時代のアメリカ東海岸についての記述。





(2016年5月12日 情報追加)


<ブログ内関連記事>

レンセラー工科大学(RPI)

レンセラー工科大学(RPI : Rensselaer Polytechnic Institute)を卒業して20年

『レッド・オクトーバーを追え!』のトム・クランシーが死去(2013年10月2日)-いまから21年前にMBAを取得したRPIの卒業スピーチはトム・クランシーだった

早いもので米国留学に出発してから20年!-それは、アメリカ独立記念日(7月4日)の少し前のことだった


アンクル・サムのビジネスであった精肉業関連(ミート・パッカー)

書評 『世界屠畜紀行 The World's Slaughterhouse Tour』(内澤旬子、解放出版社、2007)-食肉が解体される現場を歩いて考えた自分語り系ノンフィクション

書評 『牛を屠る』(佐川光晴、双葉文庫、2014 単行本初版 2009)-「知られざる」世界を内側から描いて、働くということの意味を語った自分史的体験記


アメリカ東部(東海岸)

書評 『アメリカ「知日派」の起源-明治の留学生交流譚-』(塩崎智、平凡社選書、2001)-幕末・明治・アメリカと「三生」を経た日本人アメリカ留学生たちとボストン上流階級との交流

日本が「近代化」に邁進した明治時代初期、アメリカで教育を受けた元祖「帰国子女」たちが日本帰国後に体験した苦悩と苦闘-津田梅子と大山捨松について






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2014年7月30日水曜日

書評 『世界屠畜紀行 The World's Slaughterhouse Tour』(内澤旬子、解放出版社、2007)-世界中の食肉解体現場を歩いて考えた自分語り系ノンフィクション


「家畜が解体されて食肉になるまで」のプロセスを、文章とイラストで微に入り細にわたって描いた自分語り系ノンフィクション作品である。屠畜と書いて「とちく」と読む。一般には屠殺(とさつ)として知られている食肉解体プロセスのことだ。

現在は文庫化もされているが、わたしが読んだのはオリジナルの単行本版。本文二段組みで367ページもある大作だが、面白いので一気に読んでしまった。

肉食が本格的に「解禁」されてから百数十年。「まだ」というべきか、「もう」というべきかはさておき、日本にもすっかり食肉文化が定着している。だが、意外なことに食肉解体の世界がどうなっているのか知られていないし、知ろうとしない人が多いのも否定できない事実だ。

-動物を殺すのはかわいそう・・ 
-じゃあ、肉食べるのやめたら。

-魚を丸ごと一匹さばいたことはないな。 
-それじゃ、ますますリアル感覚がなくなるね。

解体処理済みの肉や刺身だけを食べているのでは、生き物を殺して自分の生命を維持するということの意味をほんとうに理解できない。もちろん、肉や魚はいっさいクチにしないという完全なベジタリアンとして生きる道はある。

だが、圧倒的多数の日本人は、肉を食べ魚を食べている。自分以外の生き物をの生命をいただいて生きていることに、ときには感謝しなくてはならないのは当然というべきなのだ。

そして、食肉解体のじっさいを知ることもきわめて重要なことだ。自分が食べているモノがどうつくられているのか知ることは、リアリティ回復のための第一歩でもある。

動物の息の根を止めて、皮を剥(む)き解体するプロセス。たとえ家畜や狩りの獲物を解体することなくても、魚を丸ごと一匹さばいて内蔵を処理した経験があれば類推は可能だろう。あるいは高校の生物の授業で牛の目玉やヒヨコの解剖を体験しているかもしれない。家畜と鳥や魚ではだいぶ違うのだが、それでも共通していることも多い。

ほんとうはじっさいに解体する場面を見学したほうがいい。それがムリなら映像で。すくなくとも枝肉としてぶら下がっているシーンくらいはテレビでも見ることもあろう。解体シーンを映像で見るのに心理的抵抗があるなら、まずは本を読む。その意味では、一般向きに書かれたこのルポを読むのがいい。

それにしても、まあよくここまで世界中を、しかも自腹を切って取材し回ったものだと感心する。訪れた国も、牧畜文化圏はほぼ網羅している。もともとバックパッカーであった著者ならではのフットワークの軽さといっていい。

取材対象地として韓国が多いかなという気はするが、「近くて遠い国」は、日本とは違って食肉解体の歴史が長い肉食文化圏、しかも犬肉を食する文化圏であることは考慮にいれるべきだろう。その犬肉のルポも詳細でよい。わたしも犬肉は数回食べたことがある。

牧畜文化圏といえば、ユーラシア大陸のほぼ全域に分布している。本書で取り上げられているモンゴル、エジプトを含んだイスラーム世界、インド、そして中欧のチェコもまた。モンゴルとイスラーム世界は羊、チェコはブタの世界である。そういえばチェコはビールが旨いが、肉料理ばっかりだったなと思い出した。

わたし自身は、チベットの高地で羊の解体作業を目撃したことがある。腹を割いたばかりの羊からは血に染まった内蔵が丸見えであるが、それはさておき、冷たい外気のなかでは羊から湯気が立っていたことが印象にのこっている。たいへん貴重な経験であった。

基本的にモンゴルもチベット文明圏であるので、似たようなものだろう。モンゴルにはまだいったことがないのが残念だが・・・。

面白いのはマジョリティがブタは禁止のイスラーム圏であっても、マイノリティのためのブタの食肉解体はムスリムによって行われているという現実だ。こういうことは、わたしもこの本を読むまでまったく知らなかった。

そしてその他のアジアでは、バリ島に沖縄。ともにブタ食文化圏である。伝統的な共同体の力の強い地域でもある。バリ島におけるブタの丸焼きの描写や、沖縄におけるブタとヤギについての記述も興味深い。韓国もまたブタ文化圏である。

このほか、日本の芝浦屠場(とば)のルポが詳細をきわめている。時間をかけてじっくりと人間関係を構築したうえで、いろんな話を聞き出すことに成功している。内部関係者ではなく、外部のライターである以上、それは必要な取材プロセスといえるだろう。

もっとも東京の芝浦に立地しているので、コトバの問題も含めて取材費の制約にあまりとらわれることはない。地の利というやつだ。

内部体験者の記録である作家・佐川光晴氏の『牛を屠る』と読み比べてみると有意義だろう。機械化の進んだ芝浦と、佐川氏が勤務していた頃の大宮とではかなり異なることは、佐川氏自身が『世界屠畜紀行』を読んだ感想を『牛を屠る』に書いている。

最後に著者は、いままで避けてきたアメリカに取材を行っている。時まさに狂牛病(BSE)が猖獗していた頃の話である。芝浦の記述を読んでからアメリカの状況を知ると、日本サイドの要求がかなりムリのある話であることもわかる。もちろん、アメリカの状況を是認するつもりはないが、事実は事実として捉えることも必要だろう。

著者は、もっと取材をしたかったと書いているが、分量的にも取材費の関係からも断念したようだ。やたら「ウチザワ」という形で本人の感想やコメントが入るのがうっとおしいと思う人もいるかもしれないが、「自分語り系ノンフィクション作品」として割り切って読めばいい。

そもそもルポやノンフィクションは執筆者の主観抜きではあり得ないものだし、事実関係に間違いさえなければ主観的な感想やコメントに問題はない取材と執筆を行うモチベーションは、まずなによりも個人の好奇心から出発するものである。この姿勢に共感するにせよ共感しないにせよ、ここまで歩き尽くし、観察し尽くし、食べ尽くし、書き尽くしたノンフィクション作品はなかなかない。

肉を食べる人であるなら、読んで損のない大冊である。一気に読める内容だから安心して読み始めるといい。





目 次

まえがき
第1章 韓国: カラクトン市場の屠畜場/マジャンドンで働く/差別はあるのかないのか
第2章 バリ島: 憧れの豚の丸焼き/満月の寺院でみた生贄牛
第3章 エジプト:  カイロのラクダ屠畜/ギザの大家族、羊を捌く
第4章 イスラム世界: イスラム教徒と犠牲祭
第5章 チェコ: 屠畜と動物愛護/ザビヤチカ・豊穣の肉祭り
第6章 モンゴル: 草原に囲まれて/モンゴル仏教と屠畜
第7章 韓国の犬肉: Dr.ドッグミートの挑戦
第8章 豚の屠畜 東京・芝浦屠場:  肉は作られる/ラインに乗ってずんずん進め/それぞれの職人気質/すご腕の仕事師世界
第9章 沖縄: ヤギの魔力に魅せられて/海でつながる食肉文化
第10章 豚の内臓・頭 東京・芝浦屠場: 豚の内臓と頭
第11章 革鞣し 東京・墨田: 革鞣しは1日にしてならず
第12章 動物の立場から: おサルの気持ち?
第13章 牛の屠畜 東京・芝浦屠場: 超高級和牛肉、芝浦に結集/枝肉ができるまで/BSE検査と屠畜
第14章 牛の内臓・頭 東京・芝浦屠場:  内臓業者の朝
第15章 インド: ヒンドゥー教徒と犠牲祭/さまよえる屠畜場
第16章 アメリカ: 屠畜場ブルース/ 資本主義と牛肉
終章  屠畜紀行その後
あとがき/主要参考文献一覧


著者プロフィール

内澤旬子(うちざわ・じゅんこ)
1967年東京都生まれ。ルポライター、イラストレーター、装丁家。緻密な画風と旺盛な行動力を持つ。異文化、建築、書籍、屠畜などをテーマに、日本各地・世界各国の図書館、印刷所、トイレなどのさまざまな「現場」を取材し、イラストと文章で見せる手法に独自の観察眼が光る(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。



<関連サイト>

クジラを食べ続けることはできるのか 千葉の捕鯨基地で見た日本人と鯨食の特別な関係(連載「食のニッポン探訪」)(樋口直哉、ダイヤモンドオンライン、2014年9月3日)
・・日本人は家畜の解体には違和感を感じても、マグロやクジラの解体には違和感を感じないのは「文化」によるものであり、「慣れ」の問題でもあろう。【動画】外房捕鯨株式会社 鯨の解体 は必見!

(2014年9月3日 情報追加)


<ブログ内関連記事>

「生命と食」という切り口から、ルドルフ・シュタイナーについて考えてみる
・・ You're what you eat ! シュタイナーはすでに狂牛病について予言していた

書評 『牛を屠る』(佐川光晴、双葉文庫、2014 単行本初版 2009)-「知られざる」世界を内側から描いて、働くということの意味を語った自分史的体験記

書評 『食べてはいけない!(地球のカタチ)』(森枝卓士、白水社、2007)-「食文化」の観点からみた「食べてはいけない!」
・・羊と羊肉について

サッポロビール園の「ジンギスカン」を船橋で堪能する-ジンギスカンの起源は中国回族の清真料理!?

「馬」年には「馬」肉をナマで食べる-ナマ肉バッシングの風潮のなか、せめて「馬刺し」くらい食わせてくれ!

固有の「食文化」を守れ!-NHKクロースアップ現代で2012年6月6日放送の 「"牛レバ刺し全面禁止" の波紋」を見て思うこと

書評 『イルカを食べちゃダメですか?-科学者の追い込み漁体験記』(関口雄祐、光文社新書、2010) ・・食文化は地方(ローカル)の固有文化である!

書評 『鉄砲を手放さなかった百姓たち-刀狩りから幕末まで-』(武井弘一、朝日選書、2010)-江戸時代の農民は獣駆除のため武士よりも鉄砲を多く所有していた!
・・「猟師だけでなく農民もまた獲物は食べていたようだ。明治になるまで肉食はなかったというのも、どうやらあやしくなってくる。もちろん、獲物がとれない限り、肉をクチにすることはなかったであろうが」

書評 『ぼくは猟師になった』(千松信也、リトルモア、2008)-「自給自足」を目指す「猟師」という生き方は究極のアウトドアライフ
・・こちらはいわゆる「ジビエ」(gibier)の世界

『バロック・アナトミア』(佐藤 明=写真、トレヴィル、1994)で、「解剖学蝋人形」という視覚芸術(?)に表現されたバロック時代の西欧人の情熱を知る
・・こちらは動物としての人体解剖

アンクル・サムはニューヨーク州トロイの人であった-トロイよいとこ一度はおいで!
・・アンクル・サムの本名はサミュエル・ウィルソン、精肉業者(meat packer)であった

(2015年7月1日 情報追加)




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書評 『牛を屠る』(佐川光晴、双葉文庫、2014 単行本初版 2009)-「知られざる」世界を内側から描いて、働くということの意味を語った自分史的体験記


『牛を屠(ほふ)る』という本は、単行本が出版されたときに話題になっていたと記憶している。文庫化されたと知ってさっそく読んでみた。

一気に読んでしまうだけの迫力と魅力に満ちた本であった。

「牛を屠る」とは、食肉解体の世界で働いた10年半の日々を回想してつづった体験記だ。家畜の息の根を止め、皮を剥(む)き、解体して食肉に加工するためのプロセスと、職場で働く同僚たちとの日々が描かれている。

食肉解体の世界という「知られざる世界」。自分が食べるものがどう処理されているのか知るのはきわめて重要なことだ。この本は「知られざる世界」を外部のノンフィクション作家が描いた作品ではなく、その内部でじっさいに働いていた人が書いた本だ。そこが最大のポイントである。

いわば参与観察法によるフィールドワークの記録といってもいいいのだが、だが著者自身は作品を書くために食肉加工の世界の世界に飛び込んだのではないことを再三にわたって強調している。

「おめえみたいなヤツの来るところじゃねえ!」、という先輩職人のキツイ一発からはじまった日々。大学の法学部を卒業して中小出版社に就職しながらも一年で辞めた著者は、職人の世界にあっては最初はインテリ以外の何者でもなかったということだろう。

ひょんな偶然でこの世界に入ることになったのだが、カラダをつかった仕事で生(せい)を実感したいという思いが無意識のうちにあったようだ。だから内発的な動機に促されたのだといえよう。

最近の若者にも農業や林業などへの志向が見られるが、人間というものは生きているという実感を感じたいのである。働く意味をしっかりと自分で確認したいのである。そうでないと人間は安心できないのだ。

文庫版の帯にあるように、「ここで認められる人間になりたい」という承認欲求。これが満たされることは、カネよりも重要なことだ。人間とはそういう存在なのである。


食にかんするエッセイストの平松洋子氏との文庫版オリジナル対談が収録されているが、この本は知られざる世界を描きながら、働くということの意味を具体的に語っている。そのことを平松氏は著者からうまく引き出している。

著者は、わたしと同世代のようだ。「社会史」がブームとなっていた頃、阿部謹也や網野善彦をよく読んでいたと書いている。

「社会史研究者の中で、私は良知力(らち・ちから)が大好きだった」と著者は書いている。ああ、だから「向う岸からの世界史」なわけか。単行本は、「向う岸からの世界史」といいうシリーズの一冊として解放出版社から出版されている。

「こちら側」の人が知らない「向う岸」にある世界。その「個別具体的」な世界を体験者が内側から描くことで、働くことの意味という「普遍的」なものを知らず知らずに語っている。そんな本である。

ぜひ読むことをすすめたい。そして若者に薦めてあげてほしい。仕事で成長するとはどういうことかを語った本でもあるからだ。





目 次

<巻頭イラスト> 佐川光晴が2001年まで働いていた大宮市営と畜場(当時)の牛の作業場
はじめに
1. 働くまで
2. 屠殺場で働く
3. 作業課の一日
4. 作業課の面々
5. 大宮市営と畜場の歴史と現在
6. 様々な闘争
7. 牛との別れ
8. そして屠殺はつづく
単行本あとがき
文庫版オリジナル対談 佐川光晴×平松洋子 働くことの意味、そして輝かしさ
文庫版あとがき

著者プロフィール
佐川光晴(さがわ・みつはる)
1965年東京都生まれ。北海道大学法学部卒業。出版社、屠畜場勤務を経て、2000年「生活の設計」(『虹を追いかける男』所収)で新潮新人賞を受賞しデビューする。『縮んだ愛』で野間文芸新人賞、『おれのおばさん』で坪田譲治文学賞を受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。


PS この投稿でブログ記事は1414本目となった。いよいよ、である。(2014年7月30日 記す)。


<関連サイト>

クジラを食べ続けることはできるのか 千葉の捕鯨基地で見た日本人と鯨食の特別な関係(連載「食のニッポン探訪」)(樋口直哉、ダイヤモンドオンライン、2014年9月3日)
・・日本人は家畜の解体には違和感を感じても、マグロやクジラの解体には違和感を感じないのは「文化」によるものであり、「慣れ」の問題でもあろう。【動画】外房捕鯨株式会社 鯨の解体 は必見!

(2014年9月3日 情報追加)



働くということの意味

コンラッド『闇の奥』(Heart of Darkness)より、「仕事」について・・・そして「地獄の黙示録」、旧「ベルギー領コンゴ」(ザイール)
・・・「なにも僕が仕事好きだというわけじゃない。・・(中略)・・ただ僕にはね、仕事のなかにあるもの--つまり、自分というものを発見するチャンスだな、それが好きなんだよ。ほんとうの自分、--他人のためじゃなくて、自分のための自分、--いいかえれば、他人にはついにわかりっこないほんとうの自分だね。世間が見るのは外面(うわべ)だけ、しかもそれさえ本当の意味は、決してわかりゃしないのだ (中野好夫訳、岩波文庫、1958 引用は P.58-59)

「自分の庭を耕やせ」と 18世紀フランスの啓蒙思想家ヴォルテールは言った-『カンディード』 を読む
・・「労働はわたしたちから三つの大きな不幸、つまり退屈と不品行と貧乏を遠ざけてくれますからね」「「理屈をこねずに働こう。人生を耐えられるものにする手立ては、これしかありません」
社会史

書評 『向う岸からの世界史-一つの四八年革命史論-』(良知力、ちくま学芸文庫、1993 単行本初版 1978)
・・ゲルマン世界とスラブ世界の接点であるハプスブルク帝国の首都ウィーンを舞台に「挫折した1848年革命」を描いた社会史の記念碑的名著

「自分のなかに歴史を読む」(阿部謹也)-「自分発見」のために「自分史」に取り組む意味とは
・・わたしがもっとも推奨したい一冊。「自分史」を「人類史」に位置づける

(2015年7月1日、7月7日 情報追加)




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2014年7月28日月曜日

「第一次世界大戦」の勃発(1914年7月28日)から100年-この「世界大戦」でグローバル規模のシステミック・リスクが顕在化

(1914年当時の軍事同盟 wikipediaより)

本日(2014年7月28日)は、第一次世界大戦が勃発してから100年になる。だが最初から「第一次世界大戦」という名称だったわけではない。まさか「世界大戦」になるとは、その時点では誰も予想すらしていなかったのだ。

1914年6月28日、オーストリア=ハンガリー二重帝国(=ハプスブルク帝国)の皇太子夫妻が暗殺された。あらたに帝国の版図に編入されたバルカン半島のセルビアの首都サラエボで銃撃を受け暗殺された。いわゆるサラエボ事件である。

それから1ヶ月後の7月28日、ついにハプスブルク帝国はセルビアに対して宣戦布告する。懲罰的な対セルビア10箇条要求を7月23日につきつけ、48時間以内の回答をを求めたが、セルビア側は条件付き承諾を回答、オーストリアは7月25日に国交断絶に踏み切ってから三日後のことであった。

だが、まさかこの皇太子暗殺という事件が(・・それはけっして、ささいなものではないが)、「世界大戦」にまで発展するとは、誰も考えることはなかっただろう。

連鎖的に同盟関係と敵対関係にあった欧州各国を戦争に巻き込み、さらには遠く日本や米国まで巻き込んで文字通り「世界大戦」と化していったのである。もう少し、「世界大戦」に至る数日間のプロセスを簡単にたどっておこう。

1914年7月28日にセルビアに対して宣戦布告したオーストリアだが、そのセルビアの後見人となっていたのが、おなじスラブ民族のロシアであった。この構造は、冷戦構造崩壊後の20世紀末に勃発したユーゴ紛争とおなじである。

ロシア帝国の軍部は戦争準備を主張、皇帝ニコライ2世を突き上げる。その結果、ロシア帝国は7月31日に総動員令を発令、ドイツ帝国による動員解除要請には応じなかった。

オーストリアと秘密軍事同盟である「三国同盟」(Triple Alliance 1888年締結)を結んでいたドイツは(・・もう一カ国はイタリア)、その翌日の8月1日に総動員を発令8月2日にはロシアに対して宣戦布告、さらに8月3日にはフランスに対して宣戦布告する。

一方、フランスはそれぞれロシア帝国と大英帝国とのあいだの二国間関係をベースにした「三国協商」(Triple Entente)にあり、8月1日に総動員令を発令する。大英帝国は、ドイツ軍のベルギー侵入を確認すると、8月4日にドイツに宣戦布告する。

7月28日から8月4日までの8日間で、欧州の主要大国が戦争に突入したのである。「つながり」があるゆえに引き起こされた惨事、これはまさにシステミック・リスが顕在化したというべきだろう。

しかも、戦争が始まったとき、それは「第一次世界大戦」ではなかった。「世界大戦」ですらなかったのである。「第一次」という接頭語がついたのは、次の「世界大戦」が20年後に勃発したからだ。それ以前は、名称は定まっていなかったらしい。「第一次世界大戦」の前には「世界大戦」は存在しなかったのである。

最初はオーストリアとセルビアのあいだの戦争が、同盟関係や協商関係などのアライアンスを結んでいた国に飛び火して「欧州大戦」となり、これに植民地が動員され、さらには日英同盟にもとづいて日本が参戦し、最終的にはアメリカも参戦に踏み切ったことで、文字通りの「世界大戦」となったのである。

まさにシステミック・リスクの顕在化といえるのではないか。システミック・リスクとは、一部の不具合や機能不全がシステム全体に連鎖的に波及するリスクのことをいう。おもに金融の世界でいわれているが、金融ネットワークに限らず、電力ネットワークやグローバル・サプライチェーンなど、ネットワークでつながったシステムで発生する可能性がある。

2011年の「3-11」という東日本大震災後のサプライチェーンの機能麻痺が部品調達が困難なため製造ラインがストップするという形で顕在化したことは記憶にあたらしい。おなじ年に発生したタイの大洪水においても同様であった。

「第一次世界大戦」においては、アライアンス関係を結んでいた国々が連鎖的に戦争に巻き込まれていった。わずか数日のプロセスである。

一国の皇太子が暗殺されるという事件は、けっしてささいなものではなかったが、それでもその事件がキッカケとなって勃発した「世界大戦」は、4年間で未曾有の大被害をもたらした。全世界で戦闘員の戦死者が900万人、非戦闘員の死者が1,000万人。負傷者は2,200万人と推定されているという。

戦没者だけでなく伝染病による死者も大規模にのぼっている。大戦末期の1918年に発生したスペイン風邪が人類史上初のパンデミッックとして世界的に猛威をふるい、戦没者を上回る病没者が発生している。戦闘による死と病没者には重複があるが、スペイン風邪による死者は全世界で5,000万人を超えたといわれている。グローバルな海運の発達が、インフルエンザの世界的大流行をもたらしたのであった。

「世界大戦」は全世界がネットーワークによってつながっているがゆえのことであった。さすがに「第二次世界大戦」も体験している以上、さらなる「世界大戦」の発生は抑止しなくてはならないというコンセンサスが世界的にできあがっているが、その危険がゼロになったとは言い難い。

100年前よりもさらに交通機関が発達し、情報ネットワークも密接につながっている現在、システミック・リスクの危険はさらに増大しているというべきだろう。

21世紀の現在に第三次世界大戦が勃発するとしたら、それは2つの世界大戦のような肉弾戦ではなく、静かな戦争となるであろう。だが、もたらされる被害は大惨事になると予想される。

それは、コンピュータ・ウィルスよるパンデミックや、サイバー攻撃によって原子力発電所や金融、そして経済社会活動全体を麻痺させ破壊するという、ネットワークをつうじたシステミック・リスクを織り込んだものとなると考えるべきではないだろうか。

戦争は静かに、そして密かに進行するが、もたらされる被害は壊滅的となる可能性がある。



<ブログ内関連記事>

「サラエボ事件」(1914年6月28日)から100年-この事件をきっかけに未曾有の「世界大戦」が欧州を激変させることになった

書評 『未完のファシズム-「持たざる国」日本の運命-』(片山杜秀、新潮選書、2012)-陸軍軍人たちの合理的思考が行き着いた先の「逆説」とは
・・「日本からみたら、遠い欧州が主戦場となった「第一次世界大戦」は、一部の軍人が戦死した以外は、国民が巻き込まれて犠牲になることながったため、どうしても印象が希薄となりがちなのである。・・(中略)・・じつは軍人たちは、第一次世界大戦にきわめて大きな衝撃を受けていたのである! 」

「天災は忘れた頃にやってくる」で有名な寺田寅彦が書いた随筆 「天災と国防」(1934年)を読んでみる

製造業ネットワークにおける 「システミック・リスク」 について

スワイン・フルー-パンデミック、すなわち感染症の爆発的拡大における「コトバ狩り」について

書評 『国家債務危機-ソブリン・クライシスに、いかに対処すべきか?-』(ジャック・アタリ、林昌宏訳、作品社、2011)-公的債務問題による欧州金融危機は対岸の火事ではない!

書評 『ブーメラン-欧州から恐慌が返ってくる-』(マイケル・ルイス、東江一紀訳、文藝春秋社、2012)-欧州「メルトダウン・ツアー」で知る「欧州比較国民性論」とその教訓

書評 『警告-目覚めよ!日本 (大前研一通信特別保存版 Part Ⅴ)』(大前研一、ビジネスブレークスルー出版、2011)-"いま、そこにある危機" にどう対処していくべきか考えるために





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サッポロビール園の「ジンギスカン」を船橋で堪能する-ジンギスカンの起源は中国回族の清真料理!?


かなり以前のことだが、札幌のサッポロビールのサッポロビール園の「ジンギスカン」を食べたことがある。

出張で札幌にいったとき、相手から「せっかくだから、飯でも食いましょう」という話になってサッポロビール園に連れて行っていただいた。屋外で食べるジンギスカンは旨かったという記憶がある。時期は冬であったが。

昨日(2014年7月27日)、ひさびさにジンギスカンを食べた。今回は札幌ではない。船橋である。サッポロビールの千葉ビール園は、千葉ではなくじつは船橋にある。船橋港の近くにビール工場が立地しており、レストランが併設されている。



暑気払いということで人数が集まったので、29日の「肉の日」ではないが、「ジンギスカン食べ放題、ビール飲み放題コース 2時間)をやってみた。

サッポロビールの経営だから、当然のことながらビールはサッポロビールである。大人数でワイワイいいながらなので、「男は黙って」と決めゼリフをクチにするわけにはいかないが(笑)。日曜日だが、ほぼ満員御礼状態であった。今場所(=名古屋場所)の大相撲並である。ジンギスカンは4人以上であらかじめ予約しておくことが必要だ。

内容は、ジンギスカン3種(=手もみラム、塩漬ラム、味噌漬ラム)食べ放題に飲み放題、料理3品がついたご宴会コース。

食べ放題とはいっても1時間も焼いて食べているともう満腹状態になる。20歳代であればもっと食べることができるかもしれないが、さすがに寄る年波には勝てないのか・・(残念)。一人当たり税込みで 4,900円。じっさいに食べてみて、この価格設定はなかなか巧みであるとわかった(笑)。



ところで、「ジンギスカン」という名称だが、これはモンゴル料理ではない。日本人が勝手につけた名称であることは、バイキングとおんなじだ。いずれも本国にはそんな料理はない(笑) wiikipedia英語版では、Jingisukan (ジンギスカン) is a Japanese grilled mutton dish prepared on a convex metal skillet or other grill. と説明されている。じっさいは、マトン(mutton) もあるが、ラム(lamb) のほうが多いと思うのだが。

では、どこの料理かといえば、中国の清真料理が起源らしい清真料理とはムスリム(=イスラーム教徒)の料理のことである。中国ではムスリムのことを回族といい、モスクである清真寺、イスラーム料理である清真料理店はどこにでもある。

wikipedia の記述によれば、「日本軍の旧満州(現中国東北部)への進出などを機に、満州で食べられていた清真料理の「烤羊肉」(カオヤンロウ)という羊肉料理が日本でアレンジされ、現在のような形式となったものとみられる」、とある。

おそらくそんなところだろう。ムスリムはブタ肉は絶対に食べないし、牧畜生活の中心はなんといっても羊である。だから羊料理としての焼き肉は、当然ながら存在する。肉といえばブタ肉を意味する中国では、清真料理という専用の飲食店がなければ、ムスリムは飲食が不可能なのである。

チベット、モンゴル、回族、ウイグル。いずれも大陸国家中国の辺境、あるいは内部にありながら、漢民族の中国ではない、さまざまな"少数民族"である。かれらは、草原の羊文化を共有している。

BSE(=狂牛病)問題でいっときラム肉が流行ったようだが、また下火になっているらしい。だが、来年2015年は未年(ひつじどし)。ふたたび業界をあげてブームを起こすべき時期にきているのかもしれない。羊肉はカラダにはいいし、とくにラムであれば匂いもきつくないのがいい。

羊肉を食べて、中国の少数民族問題を考える。といってもジンギスカンはハラールではないし、供されている羊肉は、おそらく豪州からの輸入ものだろうが・・・。

(レストラン内からも「南極探検船しらせ」の雄姿が見える)


<関連サイト>

札幌ジンギスカン倶楽部




<参考文献>

『世界ぐるっと肉食紀行』(西川治 文・写真、新潮文庫、2011)の「第4章 羊を食う」で、中国・モンゴル・トルコ・スペイン・モロッコの羊料理が紹介されている。(2015年1月7日 情報追加)




<参考文献>

中国の食文化について徹底的なフィールドワークを行った文化人類学者・石毛直道氏の『鉄の胃袋中国漫遊』(平凡社ライブラリー、1996)には、「精進料理と清真菜」という章があって、各種の清真料理が写真入りで紹介されている。





<ブログ内関連記事>

「生命と食」という切り口から、ルドルフ・シュタイナーについて考えてみる
・・ You're what you eat ! 

書評 『食べてはいけない!(地球のカタチ)』(森枝卓士、白水社、2007)-「食文化」の観点からみた「食べてはいけない!」
・・羊と羊肉についての記述がこの本にはある

書評 『世界屠畜紀行 The World's Slaughterhouse Tour』(内澤旬子、解放出版社、2007)-食肉が解体される現場を歩いて考えた自分語り系ノンフィクション

「マレーシア・ハラール・マーケット投資セミナー」(JETRO主催、農水省後援)に参加(2009年7月28日)-ハラール認証取得でイスラーム市場を攻略

本日よりイスラーム世界ではラマダーン(断食月)入り

「馬」年には「馬」肉をナマで食べる-ナマ肉バッシングの風潮のなか、せめて「馬刺し」くらい食わせてくれ!

秋空の下、BBQを楽しむ joie de vivre(生きる喜び)

書評 『帝国陸軍 見果てぬ「防共回廊」-機密公電が明かす、戦前日本のユーラシア戦略-』(関岡英之、祥伝社、2010)-戦前の日本人が描いて実行したこの大構想が実現していれば・・・
・・「チベット、モンゴル、回民(=回族、中国のムスリム)、ウイグル。いずれも大陸国家中国の辺境、あるいは内部にありながら、漢民族の中国ではない、さまざまな"少数民族"である」

書評 『回想のモンゴル』(梅棹忠夫、中公文庫、2011 初版 1991)-ウメサオタダオの原点はモンゴルにあった!

南極観測船しらせ(現在は SHIRASE 5002 船橋港)に乗船-社会貢献としてのただしいカネの使い方とは?
・・船橋港を母港とするしらせ

(2014年7月30日 情報追加)




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2014年7月26日土曜日

心頭滅却すれば 火もまた涼し(快川紹喜)-ありのままを、ありのままとして受け取る


暑いですね。風がないと、ほんとうに暑い・・・

夏だから暑いのは当たり前だとはいえ、やはり暑いのは暑いことに変わりない。

だからそんなときには、この句を思い出す。

「心頭滅却(しんとう・めっきゃく)すれば、火もまた涼し」。

快川紹喜(かいせん・じょうき)の辞世の句。和尚は、戦国時代の臨済宗の禅僧。寺が焼き討ちにあった際に残したのがこの辞世の句。

「暑い」(というよりも、この場合は「熱い」)なんて気持ちはアタマから消し去ってしまえばよい。そうすれば熱い火も涼しく感じるものだ」、という意味でしょう。

そう、熱いと思うから熱いのです。
暑いと思うから暑いのです。

苦しいと思うから苦しいのです。
つらいと思うからつらいのです。

とはいっても、暑くないと思うのもいけませんね。自己暗示ではありません暑いとか、暑くないとか、そんな妄念は消し去ってしまえ! 喝っ!

「ありのままを受け取る」という教えでありましょう。

夏は暑く、冬は寒い。自然とはそういうもの。ありのままを、ありのままとして受け取る。ただし、これは思考停止ということではありません

つまるところ、気持ちの持ち方次第ということですね。



暑中お見舞い申し上げます。

2014年7月26日 猛暑日



<ブログ内関連記事>

「家の作りやうは、夏をむねとすべし」 (徒然草)-「脱・電気依存症文明のために顧みるべきこと

暑くて湿気の多い夏の日をエアコンなしで、しかも安く過ごす方法とは?-赤ちゃん用品に要注目!

グラフィック・ノベル 『スティーブ・ジョブズの座禅』 (The Zen of Steve Jobs) が電子書籍として発売予定





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2014年7月25日金曜日

日清戦争が勃発してから120年(2014年7月25日)-「忘れられた戦争」についてはファクトベースの「情報武装」を!

(船橋大神宮境内にある「征清記念碑」)

本日(2014年7月25日)は、日清戦争が勃発してから120年。日本と清国(・・現在の中国共産党政権の前の「王朝」)との闘いです。明治27年(1894年)のことでありました。

日露戦争は、司馬遼太郎の『坂の上の雲』とそのドラマ化でひろく日本国民の「常識」となっていますが、その前の日清戦争については、あまりその内容は知られていないのではないかな??

いちおう歴史の教科書には掲載されてますが、「忘れられた戦争」になってしまっているのでしょうね。アメリカでも、ベトナム戦争の後遺症があまりにも大きかったので、朝鮮戦争が「忘れられた戦争」になってしまっています。The Forgotten War とはアメリカでは朝鮮戦争のことをさしています。

日清戦争は、日本と清国のあいだの戦争ですが、じっさいに主戦場となったのは日本でも清国でもなく朝鮮半島それと台湾。日露戦争でも、戦場となったのは日本でもロシアでもなく満洲でした。戦争当事国と戦場はかならずしも一致しないのです。

(日清戦争 1894~1895 の戦場 wikipediaより)

日清戦争から120年ということで、「尖閣問題」がらみで中国共産党政府がぐちゃぐちゃ言ってくるでしょうが、日本国民にとっての「正しい歴史認識」(!)に基づいて「情報武装」しておきましょう。そのためには wiikipedia 情報などを読んでみることもいいかもしれません。そもそも日本が戦ったのは清国であって中国共産党ではない!

写真は、千葉県船橋市の船橋大神宮の境内にある「征清記念碑」(せいしん・きねんひ)左隣の「日露戦役記念碑」と対(つい)になってます。「征清」の「征」とは、「征服」の「征」ではなく、「出征」の「征」のことでしょう。清との戦争に出征した、ということです。


(左が日露戦役記念碑、右が征清記念碑。 船橋大神宮にて)

明治時代の「近代日本」においては、はじめての大規模動員となったのが日清戦争。近代国家の根幹をなす徴兵制度のもと、日本全国津々浦々の若い男子が出征していったのです。

インターネットはおろかテレビもラジオもなく、新聞とクチコミ情報しかなかった時代、国民皆兵の意味を肌身を通じて実感した、それはインパクトの大きな事件であったのです。だからこそ、そのインパクトを記憶として共有するために石碑が建立されたわけです。

日本全国どの神社にもこの石碑があるはずです。みなさんも、お近くの神社で、散歩がてらこの石碑をあらためて眺めてみるとよいでしょう。

歴史的事件を地域コミュニティの共有記憶するために石碑が建立されたこと、そしてその記憶を保存するために、護国神社に限らず、全国津々浦々の神社が石碑を撤去しないでそのまま残していること。この意味も深く考えておくべきでありましょう。

それぞれ異なる方言とバックグラウンドをもった兵士たちが全国から動員され、大日本帝国の旗の下に戦った日清戦争。ここにはじめてナショナリズムが成立したのです。「国民」意識が生まれたのです。

まずは、ファクト(事実)ベースで、日清戦争とはなんであったのか知ることが第一歩なのです。






PS 日清戦争については外交責任者として講和条約まで関与した紀州藩出身の外交官・陸奥宗光(みつ・むねみつ)の『蹇蹇録(けんけんろく)-日清戦争外交秘録-』が、外交のリアリズムに徹した名著として有名である。あくまでも事実に立脚したリアリズムが、21世紀のいまも求められることは言うまでもない。




<関連サイト>

中国で沸騰、「なぜ日清戦争に負けたのか?」 120年前を起点に語られる民族復興のストーリー(東洋経済オンライン、2014年7月25日)
・・「中国において共産党の正統性を強調するためには、甲午戦争(=日清戦争)から始まる日本との戦いというストーリーが欠かせないのだ。・・(中略)・・日本の敗戦から70年めとなる来年夏に向け、中国は「歴史問題」を繰り返し提起してくるだろう。その根っこに日清戦争があることを日本人はもっと認識しておく必要がある」。


<ブログ内関連記事>

「石光真清の手記 四部作」 こそ日本人が読むべき必読書だ-「坂の上の雲」についての所感 (4)
・・石光真清は日清戦争の際は台湾に出征した

書評 『ナショナリズム-名著でたどる日本思想入門-』(浅羽通明、ちくま文庫、2013 新書版初版 2004)-バランスのとれた「日本ナショナリズム」入門
・・日本ナショナリズムの成立は日清戦争から

ルカ・パチョーリ、ゲーテ、与謝野鉄幹に共通するものとは?-共通するコンセプトを「見えざるつながり」として抽出する
・・鉄幹の「人を恋ふる歌」は李朝朝鮮王朝の首都京城(ソウル)の日本人学校教師として滞在していた与謝野鉄幹が、明治30年かの地にて詠んだ歌。日清戦争から3年後の朝鮮

書評 『忘却に抵抗するドイツ-歴史教育から「記憶の文化」へ-』(岡 裕人、大月書店、2012)-在独22年の日本人歴史教師によるドイツ現代社会論 ・・ユダヤ人虐殺の記憶の忘却に抵抗するため「記憶装置としての石碑」を首都ベルリンにど真ん中に建築したドイツ

ジャッキ-・チェン製作・監督の映画 『1911』 を見てきた-中国近現代史における 「辛亥革命」 のもつ意味を考えてみよう

宮崎滔天の 『支那革命軍談』 (1912年刊)に描かれた孫文と黄興の出会い-映画 『1911』 をさらに面白く見るために

特別展「孫文と日本の友人たち-革命を支援した梅屋庄吉たち-」にいってきた-日活の創業者の一人でもあった実業家・梅屋庄吉の「陰徳」を知るべし




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書評 『愉悦の蒐集 ヴンダーカンマーの謎』(小宮正安、集英社新書ヴィジュアル版、2007)-16世紀から18世紀にかけてヨーロッパで流行した元祖ミュージアム


ヴンダーカンマー(Wunderkammer)と、16世紀から18世紀にかけてヨーロッパで盛んに作られた博物館の元祖的存在のこと。ヴンダーなカンマー(=部屋)という意味だ。

ドイツ語の Wunder(=ヴンダー) とは英語の Wonder(=ワンダー)のこと。自然科学精神の根本には「センス・オブ・ワンダー」(sense of wonder)があるとよく言われるが、もちろんこのヴンダーカンマーもまた当時の王侯貴族たちの「センス・オブ・ワンダー」に充ち満ちているのである。まさにヴンダバール!(wunderbar != wonderful !)。

日本では一般的に、「不思議の部屋」とか「驚異の部屋」と訳されている。、好奇心の対象がごった煮になって詰め込まれた部屋のことだ。大人のおもちゃ箱というべきか。17世紀の王侯貴族たちは一人で楽しむだけでなく、来客者を驚かせて楽しんでいたらしい。

ヴンダーカンマーにあるのは、美術品や貴重品だけでなく、科学からガラクタまで、いわゆる珍奇なオブジェのオンパレードである。天球儀のある部屋に、ウミガメの甲羅にハリセンボン、ワニが天井からぶら下がっていたり、人魚の剥製、一角獣などなど。

わたしがコピーライターなら、「わけわからんのが面白い!」なんてコピーをつけてあげたい(笑) どこかで耳にしたような気もしますが・・。「わけわからん」とは、つまるところ分類基準が「近代人」にはよくわからないということ。というよりも、ほとんど理解不能である。

だが、このごった煮のわけのわからん空間は、一つの世界観、あるいは宇宙観といったものを表現した部屋であったのだ。ルネサンス的な万能主義。一切智。大航海時代以降のエキゾチズム礼賛。

それは、子どもが自分の世界を狭い空間のなかに表現するのと同じことだ。理路整然と整理された空間ではなく、すべてが未分離の、分節化されていない混沌としたカオス的空間。そしてそこからなにかが生まれてくるかもしれない予感。

ヴンダーカンマーがどんなものだったかについては、 Google で Wunderkammer とそのままドイツ語で画像検索してみてほしい。じつに多種多様な実例をみることができるはずだ。

ヴンダーカンマーに渦巻いているのは、子どものような「好奇心」とコレクションへの「情熱」である。自分にとって関心のあるものをとにかく集める。これは人間の本性に基づくものだ。わたしなら、雑学を「見える化」したものがヴンダーカマーだと表現したい。

わたしは小学生の頃から家でも学校でも、「机の上が整理されていないヤツはアタマが悪い!」といわれ続けてきたが、いまでも机上はぐちゃぐちゃだ。そんな人も少なくないと思うが、気にすることなかれ! 雑学人間にとって、ヴンダーカンマーはまさにヴンダバールな世界である。

日本にも、そんなヴンダーカンマーの最後のきらめきが痕跡として残されていることをご存じだろうか。東京丸の内の JPタワー学術文化総合ミュージアム インターメディアテクに足を伸ばしてみるといい。東京大学総合研究博物館の分館だ。

ヴンダーカンマー時代の痕跡が、19世紀の後半に設立された東京帝大にはほこりをかぶったまま残されていたのだ。日本は、ギリギリでこの時代に間に合って、ほんとによかったと思う。

すでにヴンダーカンマーの時代が終わった19世紀の後半に本格的に西欧の学門を導入開始した日本だが、ベースには江戸時代以来の収集癖があったというべきだろう。これは国立歴史民俗博物館にいけばその概略は知ることができる。西欧と似たような精神構造が好奇心のつよい日本人にも存在したのだ。

そもそもミュージアムというのは、博物館とも美術館とも訳されているが、その双方を兼ね備えたものであったのだ。だが、日本は近代化にあたって、すでに分離してしまった博物館と美術館をそれぞれ別個の存在として導入したため、それ以前の姿を知らないのが残念なことなのだ。

ヴンダーカンマーは、だから元祖ミュージアムなのである。17世紀か18世紀にかけての西欧は、日本人の認識の空白地帯となってしまっているため、なかなかその意味に気がつきにくいのだが・・・。

本書はカラー図版が満載の見て楽しい、読んでためになる一冊だ。ヴンダカンマー巡りで知られざる世界を一気に駆け抜けよう。 楽しみてあれ!





目 次 

現存する主なヴンダーカンマー関連施設地図
プロローグ
第1章 遊べ! ヴンダーカンマー
第2章 宇宙の調和を求めて
第3章 術のある部屋
第4章 ヴンダーカンマー縦横無尽
第5章 バロックの部屋にて
第6章 ヴンダーカンマーの黄昏
エピローグ
おわりに
参考文献
現存する主なヴンダーカンマー関連施設の所在地


著者プロフィール

小宮正安(こみや・まさやす)
1969年東京生まれ。横浜国立大学教育人間科学部准教授。東京大学大学院欧米系文化研究専攻博士課程満期単位取得。専門はドイツ文学、ヨーロッパ文化史(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。







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書評 『猟奇博物館へようこそ-西洋近代の暗部をめぐる旅-』(加賀野井秀一、白水社、2012)-猟奇なオブジェの数々は「近代科学」が切り落としていった痕跡
・・この本もぜひ。おなじく17世紀から18世紀にかけてのフランスを中心に

『バロック・アナトミア』(佐藤 明=写真、トレヴィル、1994)で、「解剖学蝋人形」という視覚芸術(?)に表現されたバロック時代の西欧人の情熱を知る
・・この本もぜひ。おなじく17世紀から18世紀にかけてのイタリア

「ジャック・カロ-リアリズムと奇想の劇場-」(国立西洋美術館)にいってきた(2014年4月15日)-銅版画の革新者で時代の記録者の作品で17世紀という激動の初期近代を読む
・・三十年戦争(1618~1648)という時代

書評 『ねじとねじ回し-この千年で最高の発明をめぐる物語-』(ヴィトルト・リプチンスキ、春日井晶子訳、ハヤカワ文庫NF、2010 単行本初版 2003)-「たかがねじ、されどねじ」-ねじとねじ回しの博物誌
・・「(ヨーロッパでは)「紳士にとって旋盤を回すことは、婦人にとっての刺繍のようなもので、18世紀の終わりまで趣味として人気を保っていた」(第5章)」ことを同時にアタマのなかにいれておくとよい

「東京大学総合研究博物館小石川分館」と「小石川植物園」を散策(2009年7月12日)
・・かつて東京大学総合研究博物館小石川分館には 常設展示の「驚異の部屋 -The Chambers of Curiosities」 があった。現在は丸の内の・・・・ビルに移転。入場料無料の常設展示

国立歴史民俗博物館は常設展示が面白い!-城下町佐倉を歩き回る ①
・・日本のヴンダーカンマーの痕跡は、ばらされて国立歴史民俗学博物館に整理分類されている

世の中には「雑学」なんて存在しない!-「雑学」の重要性について逆説的に考えてみる





(2017年5月18日発売の新著です)


(2012年7月3日発売の拙著です)









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2014年7月24日木曜日

書評 『猟奇博物館へようこそ-西洋近代の暗部をめぐる旅-』(加賀野井秀一、白水社、2012)-猟奇なオブジェの数々は「近代科学」が切り落としていった痕跡

(18世紀フランスの版画家G・ダゴティによる彩色解剖図)

猟奇はめぐるよ、どこまでも、といった趣(おもむき)の内容である。

フランスを中心に、イタリアやその他周辺諸国にもときおり足を伸ばしながらめぐる猟奇の旅。

いわゆる「猟奇博物館」をつぶさに歩き回った著者のうんちくが、ディテールにこだわりペダンティックなものでありながら、おどろおどろしさとは裏腹の軽妙な文章で、これでもか、これでもか、と連想が連想を呼び、次から次へと止まることなくどこまでも続いてゆく。読み始めたら途中で読み終えるのが難しい。

「猟奇」という二文字に惹かれて読み始めた読者は、「猟奇」という割にちょっとペダンティック過ぎるなと思いながらも、知の案内人たる著者に導かれて、猟奇の旅を経巡ってしまうことになる。だんだんとジェットコースターのように加速が入ってくるからだ。それが「近代」というものだ。

副題には「西洋近代の暗部をめぐる旅」、とある。「西洋近代」そして「暗部」。この文言もまたそそるものがある。

「近代知」とは、一言で言ってしまえば「視覚による欲望を合理化」したものだが、その上澄みの近代科学精神は、目に見える部分はじつは氷山の一角で、その下部には膨大な暗部を抱えていることが、著者の案内で猟奇博物館とその展示品をつぶさに眺めていくと了解されるのである。

猟奇博物館に展示されているものは、解剖図、解剖蝋模型、デカルトの頭蓋骨、腐敗屍体像、カタコンベ、奇形標本などだ。聖者信仰や心臓信仰にもさかのぼる、日本人には理解しがたい西欧人の無意識が反映した文化の所産なのである。中世以来の「メメント・モリ」(Memento mori)や旧約聖書の「伝道の書」のフレーズ「空の空なるかな」(Vanitas vanitatum)を体現したオブジェなのである。

猟奇博物館に渦巻いているのは、視線、欲望、好奇心、探求心、情熱、執着などである。これらはみな一筋縄でいかないものであることは、近代科学精神のもとにおいても、マッドサイエンティストがときどき登場することからも容易に理解できるだろう。好奇心といっても知的なものから下世話なものまで幅広いし、欲望にかんしてはあえて言うまでもない。

重要なのは「視線」である。バロックが視線の方向性をフルに活用した視覚芸術であるように、「近代」とはなによりも「視線の時代」なのである。

猟奇博物館は、近代医学に脱皮する以前の解剖学と、見せ物としてのアートとのはざまというか、その両者が未分離の状態というか、際どいところに存在するミュージアムなのだ。そもそも、ミュージアムは博物館という性格と美術館という性格をあわせもっている。

このように見ていくと、西欧文明は、膨大な西欧文化の海に浮かぶ氷山の一角、蒸留された上澄みであることが実感されるはずだ。猟奇博物館に保管されているオブジェは、19世紀以降の近代科学が斬り捨ててきた痕跡である。だが、これらの痕跡が完全に近代科学から払拭されているとは言い切れまい。

バロックが生まれたのはカトリック世界だが、革命前のフランスもまたカトリック世界であったことを想起しておくべきだろう。西欧のなかでも自由貿易の英国とならんで革命後のフランスが最先進地帯となったのだが、現在の「スカーフ問題」に端的にみられるように、共和制フランスは「聖俗分離」原則を徹底させていることは周知のとおり。

しかしながら、フランス革命もその渦中においては、さまざまな猟奇的副産物(!)を生み出していることに留意しなくてはならない。蝋人形館で有名なマダム・タッソーは、マリー・アントワネットをはじめギロチンで斬首された人々の血のしたたる生首から、蝋(ワックス)で型どりして蝋人形をつくっていた女性なのである!

猟奇的なテーマといえば、1960年代から1970年代にかけて活躍した澁澤龍彦のエッセーがあるが、本書は専門が哲学畑の人だけに、猟奇を単なる猟奇に終わらせない指向性というものを感じさせる。著者は、ソシュール言語学やメルロ=ポンティの哲学を研究してきた人だ。

この本で紹介された猟期博物館をすべて回るなど、常人にはとても不可能だろうが、他の書籍で取り扱われている猟奇博物館のくわしい背景を知るには、じつに重宝する参考書にもなっている。とにかく疑問に思ったことは万難を排しても調べ尽くすという著者の執着心と情熱には感心するばかりだ。

著者の情熱的な執着心はまた、猟奇博物館の展示品を作成したアーチストや解剖医や科学者たちにもつうじるものがあるといってよいだろうか。膨大な量の固有名詞が登場するが(・・索引がないのは残念)、それに怖じ気づくことなく、とにかく最初のページから読み始めてみることだ。

あまりにも面白いので、読み出したら止まらないはずだ。





目 次

 序
 ファインアーツと奇形の胎児 フランス国立自然史博物館
 見世物小屋とフリーク・ショー 「つやま自然のふしぎ館」から「ピクルド・パンク」へ
 視覚の迷宮から人魚まで 展覧会「むかしむかし、見世物小屋があったとさ」
 「パノラマ」と猟奇的視覚 ぬくぬくとした場所でカタストロフィーを眺める
 解剖学ヴィーナス スピッツネル博士の大解剖学博物館
 眠れるヴィーナス ベルギー画家ポール・デルヴォーのトラウマ
 フィレンツェの街から消える美少女たち スペコラ博物館とクレメンテ・スジーニ
 スジーニの後継者たち カレンツォーリ、カラマイ、そのジェンダー的視点
 崩壊する人体のパノラマ ガエターノ・ズンボと『死の劇場』
 ズンボの礼賛者たち サド侯爵、ゴンクール兄弟、メルヴィル、ホーソン
 「ヴァニタス」から「腐敗屍体像」まで メメント・モリ(死を想え)の伝統
 日本の「腐敗屍体像」 小野小町の九相図
 腐らない聖人の遺体 カトリーヌ・ラブレと聖ヴァンサン・ド・ポール
 ルルドより遠く離れて 聖ベルナデッタの美わしき遺体
 聖遺物崇敬の楽屋裏 トマス・アクィナス、アンセルムス、リンカーン司教ヒュー
 デカルトのちっぽけな頭蓋骨 哲学者の聖遺物
 パスカルのデスマスクとベンサムの首 繊細の精神とパノプティコン
 シチリア島の休日 骸骨寺とカプチン会のカタコンべ
 止まれ! ここは死の帝国だ。 パリのカタコンブと聖イノサン墓地
 髑髏のシャンデリア セドレツの納骨堂
 解剖学の父 アンドレアス・ヴェサリウス ヴェサリウスとペトリュス・ボレルのブラック・ユーモア
 解剖図、その内臓的な恐怖と華麗 ヴェサリウス、アルビヌス、ゴーティエ・ダゴティ
 二つの不思議な人体標本 ライモンド・ディ・サングロの「悪魔との契約」
 人骨と臓器のアレンジメント フレデリク・ライスの解剖学博物館
 フラゴナールの従弟 『黙示録の騎士』からロジェ・グルニエのキマイラ的想像力へ
 フランス革命裏話(一) フラゴナール、ダヴィッド、そしてタッソー夫人
 フランス革命裏話(二) グレヴァン蠟人形館とシャルロット・コルデーの首
 聖人の涙が隠すグロテスクな内面の恐怖 エコール・ド・サンテとパンソンの蠟模型
 知られざるパンソンの伝記 フリーメーソンとパレ=ロワイヤルの「驚異の陳列室」
 エフィシオ・マリーニと奇怪な人体テーブル パリ医学史博物館
 奇形と病理の魔界 デュピュイトラン博物館
 悪魔と天使のはざまに生きた男 ギョーム・デュピュイトラン
 パリ大学第三の「魔界」 デルマス=オルフィラ=ルヴィエール博物館
 イタリアの巨匠を越える男と二つの首 ジャン=バチスト・ローモニエ
 解剖学教室の見える家 ルーアン市立病院とプローベールの父
 「恐るべき子供」から大作家へ ギュスターヴ・フロベール
 サミング・アップ─死と誕生とのはざまで 出産模型と「世界の起源」
 あとがき
 参考文献


著者プロフィール

加賀野井秀一(かがのい・しゅういち)
1950年、高知市生まれ。中央大学文学部仏文科卒業。同大学大学院博士前期課程修了後、パリ第8大学大学院に学ぶ。現在、中央大学理工学部教授。専門は、哲学、言語学、フランス文学、日本語論、メディア論。主要著書に、『メルロ=ポンティ 触発する思想』(白水社)、『メルロ=ポンティと言語』(世界書院)、『知の教科書 ソシュール』(講談社メチエ)、『20世紀言語学入門』『日本語の復権』(共に講談社現代新書)、『日本語は進化する』(NHKブックス)、『日本語を叱る!』(ちくま新書)ほか。主要訳書に、メルロ=ポンティ『知覚の本性』『フッサール「幾何学の起源」講義』(共に法政大学出版局)、ドゥルーズ『哲学の教科書 ドゥルーズ初期』(河出文庫)、ミシュレ『海』(藤原書店)、ルピション『極限への航海』(岩波書店)などがある。(出版社サイトより)


<ブログ内関連記事>

『バロック・アナトミア』(佐藤 明=写真、トレヴィル、1994)で、「解剖学蝋人形」という視覚芸術(?)に表現されたバロック時代の西欧人の情熱を知る
・・ラ・スペコラの「解体されたヴィーナス」などをカラーで収録した写真集

書評 『身体巡礼-[ドイツ・オーストリア・チェコ編]-』(養老孟司、新潮社、2014)-西欧人の無意識が反映した「文化」をさぐる解剖学者の知的な旅の記録
・・心臓信仰などの実態に解剖学者が迫る

書評 『骸骨考-イタリア・ポルトガル・フランスを歩く-』(養老孟司、新潮社、2016)-欧州ラテン系諸国の「骸骨寺」めぐり

書評 『猟奇博物館へようこそ-西洋近代の暗部をめぐる旅-』(加賀野井秀一、白水社、2012)-猟奇なオブジェの数々は「近代科学」が切り落としていった痕跡
・・16世紀から18世紀にかけての初期近代(=近世)ヨーロッパの知られざる世界

Memento mori (メメント・モリ)と Carpe diem (カルペー・ディエム)-「3-11」から 49日目に記す

書評 『ラテン語宗教音楽 キーワード事典』(志田英泉子、春秋社、2013)-カトリック教会で使用されてきたラテン語で西欧を知的に把握する

「マリーアントワネットと東洋の貴婦人-キリスト教文化をつうじた東西の出会い-」(東洋文庫ミュージアム)にいってきた-カトリック殉教劇における細川ガラシャ
・・イエズス会の保護者でもあったカトリックの牙城ハプスブルク家出身のマリー・アントワネット

書評 『ねじとねじ回し-この千年で最高の発明をめぐる物語-』(ヴィトルト・リプチンスキ、春日井晶子訳、ハヤカワ文庫NF、2010 単行本初版 2003)-「たかがねじ、されどねじ」-ねじとねじ回しの博物誌
・・「(ヨーロッパでは)「紳士にとって旋盤を回すことは、婦人にとっての刺繍のようなもので、18世紀の終わりまで趣味として人気を保っていた」(第5章)」ことを同時にアタマのなかにいれておくとよい


日本の猟奇

「旧江戸川乱歩邸」にいってみた(2013年6月12日)-「幻影城」という名の「土蔵=書庫」という小宇宙
・・「猟奇」といえば江戸川乱歩!

夢野久作の傑作伝記集『近世怪人伝』(1935年)に登場する奈良原到(ならはら・いたる)と聖書の話がめっぽう面白い
・・猟奇的なエピソードが満載な『近世怪人伝』

・・「即身仏」は死んでから遺体処理を施されたのではないので「ミイラ仏」ではないこと、死後も内蔵は取り出さないので腐敗を防ぐため五穀断ち(・・コメなどの穀物を食べず、木の実や草の根などだけ食べる苦行)をしていたこと、腐敗防止のためさらに漆(うるし)を飲んでいたことが語られた。うるしは手はかぶれるが、クチビルはかぶれないそうだ。 こういう修行を千日なり二千日行った上で、土中入定(どちゅうにゅうじょう)し、竹筒からの空気と持ち込んだ水だけで過ごし、ひたすらお経を読みながら入滅を待つのである」  解剖を行わなかった時代の日本の猟奇

(2014年8月25日、2017年5月24日 情報追加)




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2014年7月23日水曜日

『ウルトラバロック』(小野一郎、小学館、1995)で、18世紀メキシコで花開いた西欧のバロックと土着文化の融合を体感する


バロックはヨーロッパのカトリック地帯を中心に17世紀から18世紀にかけて展開した。しかも、「新大陸」では異様な展開を示したこともアタマのなかに入れておきたい。

先に取り上げた 『バロック・アナトミア』(佐藤 明=写真、トレヴィル、1994)が出版された翌年には、ここに取り上げる 『ウルトラバロック』(小野一郎、小学館、1995)という本も登場している。

「ウルトラバロック」とは、著者の表現を借りれば、「(西欧から移植されたバロック)様式がメキシコに集められた世界中の様式をのみこみながら、さらには古代アメリカの土着の感性とも融合し、建築を閉所恐怖症とも呼べるように装飾でびっしりと埋めるように」なったものだ。

バロックとはポルトガル語の「歪んだ真珠」から来ているというのは定説だが、メキシコの「ウルトラバロック」は本家本元のヨーロッパのバロックよりも、さらに「歪んだ真珠」になっている。とにかくごちゃごちゃと、これでもかこれでもかとつくりこまれた過剰なまでの装飾空間

そもそも建築物というものは、そのなかに入って体感するものだ。音声や空気は断念するとしても、二次元の写真画像や、三次元であってもビデオカメラの視野では捉えきれないものがある。だが、この小型サイズの写真集に収録された写真をみていても、その過剰なバロックぶりには圧倒される。

かつて1ヶ月をかけてメキシコを回ったとき、わたしも多数の教会建築のなかに入ってみたが、まさにヨーロッパの合理と非合理が、コロニアル社会で土着文化と融合するとこんなものになるのかという印象を受けたものである。

どこの教会かは覚えていないのだが、カトリック信者たちの熱狂ぶりがロックコンサート並で、バチカンの比ではないという強烈な印象を受けたのもメキシコでのことだった。


(スペイン植民地のバロック建築と文化の流れ P.85より)


本書に挿入された 「本書のスペイン植民地のバロック建築と文化の流れ」という地図をみると、メキシコは圧倒的にスペインのハプスブルク家をはじめとするヨーロッパの影響下にあったことがわかるが、一方では太平洋をはさんでフィリピンのマニラを中心としたスペイン植民地との接点もあったことがわかる。

伊達政宗が派遣した支倉常長(はせくら・つねなが)率いる「慶長遣欧使節団」もまた、このルートをつかって、仙台から太平洋を横断し、メキシコのアカプルコ経由でヨーロッパに渡航したのである。長崎で殉教した「二十六聖人」の殉教画がメキシコのクエルナバカの教会に壁画として残されていることは有名である。この壁画は、わたしも見に行った。 

メキシコをテーマにしたソビエトの映画監督セルゲイ・エイゼンシュテインの『メキシコ万歳!』(¡ Que viva México ! 1932年)には、辺境で活動するフランシスコ会の修道士たちが賊の襲撃で壊滅するシーンがあったが、現在は米国領となっているカリフォルニアはフランシスコ会のミッションがつくったものだ。サン・フランシスコという地名は、フランシスコ会の創設者であるアッシジの聖フランチェスコ から来ている。

(『メキシコ万歳』のシーンより フランシスコ会士とメキシコを象徴する骸骨)

スペインの後押しを受けたフランシスコ会があとから新規参入してきて日本で宣教活動を行った結果、すでに活動を活発に行っていたポルトガルの後押しを受けていたイエズス会と激しい競争となり、結果として日本におけるカトリック布教活動が共倒れとなったわけだが、大局観を欠いた競争がいかに自滅的であるかを示した事例でもある。

「キリシタン禁教令」がでたのは1613年だが、もし、日本で「キリシタン禁教令」がでなければ、メキシコとは違った意味で日本の土着と融合した面白いバロックが展開していたかもしれないと夢想してみる。凡庸な歴史家は「歴史にイフは禁物」などとたわけたことをクチにするが、What-if (もし~かも)思考であり得たかもしれない可能性について考えることは、無意味なことではない。



装飾過剰な東照宮という日本型バロックの実例もあることだし(・・このキッチュさは霊柩車のごてごてした装飾に継承されたことは有名)、リアルタイムでヨーロッパ世界と全面的にかかわっていれば、面白い展開もあったのではないかな、と。

だが、1980年代後半のバブル期にも似た、黄金の安土桃山時代の豊臣秀吉が「蓑虫」(みのむし)だといって嫌ったフランシスコ会の「清貧」志向も、ある意味では「わびさび」という形で日本人にはあることも想起しておいたほうがいいかもしれない。

日本人もまた、その後の元禄時代やバブル期に全面開花したようなバロック的な過剰と、清貧志向のシンプルライフの両面が存在し、それが交互に交代しながら浮上しては引っ込みを繰り返している。大乗仏教でいえば、真言密教と禅仏教の対比といっていいかもしれない。

カトリックとの接点が二世紀以上にわたって消滅した結果、明治維新後は当時の最先端であった英米アングロサクソン世界というプロテスタントを基調とするキリスト教世界の影響を全面的に受けたことで、日本は近代化に成功して先進国となることができたのではあったが・・・。

これもまた「意図せざる効果」であったというべきか。まさか徳川幕府に先見の明があったわけでもあるまいが。不幸中の幸い(?)といえるかもしれない。

もちろん、これは21世紀の現時点でいえることであって、歴史解釈というものがつねに書き直されるのはそのためなのである。





<関連サイト>

Sergei Eisenstein: Que viva Mexico! (1931) (YouTube 85分弱)
・・エイゼンシュテインの『メキシコ万歳』


<ブログ内関連記事>

メキシコ関連

「メキシコ20世紀絵画展」(世田谷美術館)にいってみた(2009年8月18日)
・・メキシコといえば20世紀の「壁画運動」

「ルイス・バラガン邸をたずねる」(ワタリウム美術館)(2009年12月27日)
・・ルイス バラカンはメキシコの建築家。展示会で再現されていた寝室はフランシスコ会の修道士のような部屋であった


カトリックとバロック時代

書評 『幻の帝国-南米イエズス会士の夢と挫折-』(伊藤滋子、同成社、2001)-日本人の認識の空白地帯となっている17世紀と18世紀のイエズス会の動きを知る

フィリピンのバロック教会建築は「世界遺産」-フィリピンはスペイン植民地ネットワークにおけるアジア拠点であった

エル・グレコ展(東京都美術館)にいってきた(2013年2月26日)-これほどの規模の回顧展は日本ではしばらく開催されることはないだろう

ひさびさに倉敷の大原美術館でエル・グレコの「受胎告知」に対面(2012年10月31日)

『バロック・アナトミア』(佐藤 明=写真、トレヴィル、1994)で、「解剖学蝋人形」という視覚芸術(?)に表現されたバロック時代の西欧人の情熱を知る


「もし~かも」思考

What if ~ ? から始まる論理的思考の「型」を身につけ、そして自分なりの「型」をつくること-『慧眼-問題を解決する思考-』(大前研一、ビジネスブレークスルー出版、2010)

(2015年6月11日 情報追加)




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