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2016年11月5日土曜日

最後の水戸藩主・徳川昭武の屋敷であった戸定邸(とじょうてい)をはじめて訪問(2016年11月4日)-「維新の負け組」は後世に向けて文化遺産を残す

(戸定邸内部にて 徳川慶喜(トクガワ・ケイキ)から昭武への電信 筆者撮影)

最後の水戸藩主・徳川昭武の屋敷であった戸定邸(とじょうてい)をはじめて訪問してきた(2016年11月4日)。戸定邸は、千葉県松戸市にある。松戸は、江戸から水戸への街道筋にあり、しかも江戸川の舟運もある交通の要所であった。

いまからちょうど2年前のことになるが、千葉大学園芸学部を訪れた際、キャンパス内にある西欧式庭園を見学しながらも、敷地のすぐ近隣にある戸定邸については、その重要な意味を知らないために訪問しないで通り過ぎてしまった。
  
それからしばらくして、戸定邸のことが気にかかっていたので調べてみると、それは最後の水戸藩主・徳川昭武の屋敷であったことを知り、たいへん残念なことをしてしてしまったと思いながら現在に至っていたのだ。

というのも、徳川昭武は最期の将軍・徳川慶喜の実弟であるだけでなく、幕末に慶喜の名代(みょうだい)としてパリ万国博覧会が開催されていた当時のフランスを訪問し、そのままフランス留学を続けていた人であったが、その昭武に会計担当として随行したのが、のちの「日本資本主義の父」となった渋沢栄一であることを鹿島茂氏の著書を通じて知ったからだ。

その意味では、徳川昭武もまた渋沢栄一周辺の人物の一人であったのだ。じつに迂闊なことであった。


だから、その事実を知ったとき「しまった!」と思ったが後の祭り、松戸を訪問する機会がなかなかなかったので、現在まで至ってしまったというわけなのだ。


■純和風の「戸定邸」と洋風の庭園という組み合わせの妙

さて、戸定邸は今回はじめて訪問したわけだが、訪問してみてじつにすばらしいところだとわかった。現在は千葉県松戸市が管理しているが、もともとは個人の邸宅である。

だが、ナポレオン三世の第二帝政時代という、フランスの絶頂期をパリで過ごしたフランス帰りにしては、あらたに建築した屋敷を洋館ではなく純和風住宅にしたということが興味深い。中庭は純和風である。

(戸定邸の中庭 筆者撮影)

だが、江戸川と富士山を望む庭園には芝生が敷き詰められており、和風建築でありながら洋風庭園という趣向が、変わっているといえば変わっているといえようか。異質の組み合わせだが、コントラストというよりも、不思議に違和感がない。しっくり溶け合っている。

(富士山を望む、芝生が敷き詰められた洋風庭園 筆者撮影)

ちょうどいまの季節は菊の花の盛り、丹精込めて栽培されている鉢植えの白菊がじつに美しい。これらが芝生に映えて、和風と洋風の折衷美ともいうべき風情を醸し出している。

(丹精込めて育てられた鉢植えの白菊の花 筆者撮影)

最期の将軍・徳川慶喜は将軍職を退いたのち30歳で隠居、弟の昭武も29歳で隠居している。いずれも、じつに長い、長い「晩年」を過ごした人たちだが、その長い「晩年」を意味あるものとして生きたということは、高齢化時代の日本人にとっても示唆するものが多々あるのではないかと思うのである。

(屋敷内部から庭園を見る 筆者撮影)

もちろん、最終的には生前に名誉回復し侯爵となった徳川慶喜も、その弟の昭武もその次男・武定が子爵となっており、一般庶民とはほど遠い存在ではあることは考慮に入れなくてはならないだろう。


「維新の負け組」となった慶喜と昭武だが・・・

併設の戸定歴史館では、ちょうど「企画展 公爵・徳川慶喜家」が開催されていたが、大英帝国がバックについた薩長に対して、フランスがバックについた徳川幕府であったが、岩倉具視らによる「王政復古クーデター」の結果、「大政奉還」を行い、戊辰戦争では敗れ去って「負け組」となってしまったのは、まことにもって残念なことであったとしかいいようがない。

(戸定歴史館にて「企画展 公爵・徳川慶喜家」)

明治維新は1868年であったが、そのわずか2年後の1870年に始まった「普仏戦争」の結果、フランスはビスマルク率いる新興のプロイセン王国に敗れ去って、1871年に第二帝政は終わることとなる。

パリにおいてプロイセン王国を中心としたドイツ帝国の誕生が宣言され、「ドイツ統一」が実現した。その後にパリが陥落、ナポレオン三世はプロイセンの捕虜なって退位した。じつに変転きわまりない。めまぐるしい推移である。ナポレオン三世もまた「負け組」として、その後のわずか一年という短い「晩年」を亡命先の英国で過ごすことになる。

そう考えると、「勝ち組」の薩長が率いる明治維新後の日本が、「勝ち組」の英国とドイツをモデルに近代国家への道を邁進したことは、ある意味では当然のことであったかもしれない。

しかし、その英国とドイツも、「英独建艦競争」を経て1914年に勃発した第一次世界大戦において激突、その結果は共倒れとなり、新興の米国と革命によって誕生したソ連が表舞台に躍り出ることになる。

「盛者必衰」と「禍福はあざなえる縄のごとし」というフレーズが日本語にはあるが、「勝ち組」もまた永久に「勝ち組」にあらず、である。ソ連はすでに崩壊し、米国もまた衰退過程のなかにある。そして中国共産党もまた・・・?

「負け組」もまた、永久に「負け組」なのではない「負け組」は政治経済の第一線から退くことによって文化面での担い手となることもある。その意味では、徳川昭武もまた後世に「戸定邸」という文化遺産を残してくれたことになる。

だからこそ、「負け組」とされた側にもまた、目を向けるべきなのである。人間世界に勝ち負けは必定であるが、その両者を公平にみなければ、真に歴史を理解したことにはならないからだ。






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(2012年7月3日発売の拙著です)







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