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2018年4月29日日曜日

麻賀多神社の本宮まで行ってきた-樹齢1400年の「大杉」のパワーを浴びる(2018年4月28日)

(麻賀多神社の樹齢1400年の「天然記念樹」の「大杉」 筆者撮影) 


「成田山開基1080年」に際して成田詣でをした際、時間に余裕があったので、京成電車の宗吾参道駅で下車して義民・佐倉惣五郎を祀った佐倉霊堂まで行ってみた。じつはいまのいままで行ったことがなかったのだ。 

駅前から続く1.0kmに及ぶ長い参道を歩いてたどりついた宗吾霊堂は、正直なところ、ちょっと拍子抜けというか、思っていたほどではなかった。江戸時代初期に生き、農民の苦境を直訴して処刑されたという佐倉惣五郎は、「義民」として庶民信仰の対象として篤く信仰されたが、あまりにも伝説的人物である。 


(宗吾霊堂の正門前 筆者撮影)

そこでさらに歩き続けて、麻賀多神社まで行ってみることにしたのだ。距離にして約1.9km、時間的余裕があったからであり、脚力に余裕があったからでもあるが、なにかに導かれるようにして足が向かったのかもしれない。宗吾霊堂から西印旛沼に至る「義民ロード」すなわち佐倉惣五郎一行の直訴の道の沿道に麻賀多神社があるのだ。 


(京成電鉄の宗吾参道駅から印旛沼までつづく「義民ロード」)

その筋、つまりスピリチュアル系では有名な「麻賀多神社」。 

「麻賀多」と書いて「まかた」と読む。勾玉(まがたま)の最末尾の「ま」を取って「まかた」としたらしい。印旛沼の東側から南にかけて、つまり千葉県成田市から佐倉市にかけてしか分布していない珍しい名前の神社だ。全部で18社あり、成田市台方の麻賀多神社が本宮となる。 祭神は、ワクムスビ(和久産巣日神)。

佐倉城下にて、はじめて麻賀多神社の存在を知り、初詣をしてきたのは2013年の正月のことであった。佐倉の人間ではないので麻賀多神社の存在そのものを知らず、そもそも読み方すら知らなかったのだ。その後、本宮は成田にあることを知った。 いつかは成田の本宮に行ってみたいと思っていたが、ひょんなことから実現したことになる。 

前後から走ってくる自動車に気を使いながら歩き続けると、うっそうと繁った森のなかに入っていく。しばらくすると朱色の真垣が目に入ってくる。神域に入ってきたのだ。自動車が何台も停車しているスペースが目に入る。そこが麻賀多神社の正門であることを知る。 


(麻賀多神社の正門の鳥居前。鳥居には菊の紋章 筆者撮影)

「大杉」の存在をそこで初めて知った。わたしは事前にあまり情報を入れないで、いきなり対面する行き当たりばったりなタイプの人間なので、現地情報を何よりも重視している。先入見に惑わされずに、現地で驚きたいのだ。 

社殿はえらく新しい檜造り。あとで調べたら、2017年末に完成したばかりの新社殿なのだ。300年ぶりの新造だそうだ。 


(麻賀多神社の新社殿 筆者撮影)

まずは取り急ぎ「大杉」を見に行く。これが麻賀多神社のメインなのだ これほど大きく、樹齢も長い杉の大木に対面するのは、だいぶ前のことだが屋久島で「縄文杉」を仰ぎ見て以来だ。麻賀多神社の大杉は「東日本一大杉」だそうだ。 「天然記念樹」という。



花粉症患者の杉に対する思いは複雑なものがあるが、すでに花粉症の季節も終息しており憂いなし。 

40mもの高さを見上げて感嘆し、9mもある太い幹の周りをぐるりと時計回りに回ってまた感嘆一周するとふたたびしたから下から巨樹を見上げてさらに感嘆する。巨樹・巨木は、神の依代(よりしろ)にしてご神体なのである。聖徳太子までさかのぼるのだという。まさに1400年のパワーを全身に浴びる


(麻賀多神社の「大杉」は幹周り9m 筆者撮影)

麻賀多神社がスピリチュアル系の世界で有名なのは、この神社の境内社の天日津久(あめのひつく)神社で、「日月神示」(ひつきしんじ)なる神示(しんじ)が示されたからである。大東亜戦争末期の1944年のことだ。 

(2017年末に完成した新社殿 右奥に天日津久神社 筆者撮影)


わたくしは、とりたてて霊感が強くないためか、境内社の天日津久(あめのひつく)神社の前では拝礼したものの、とくに感じるものはなかった。写真も撮らなかった。合理主義者であるからかもしれない。見たいと願っている者には見えるものも、そうではない者には見えてこない。スピリチュアルというのは、そういうものだ。 

正直いって、樹齢1400年の大杉のほうにパワーを感じるのは、わたしの感性のありかの問題であろう。 1400年ものあいだ、山火事や落雷で焼けることもなく、台風にも暴風にも耐え抜いてきた生命力。この生命力そのものが霊力であるのだ。

スピリチュアル系でない人も、麻賀多神社の参詣は大いに薦めたい。なぜなら、そこに「大杉」があるからだ。屋久島までいかなくても、大杉のパワーをいただくことができるのである。

地元の人間とスピリチュアル系の人間にしか知られていないのは残念なこと。もっと広く一般に知られるべき神社だと思う。








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2013年の初詣は麻賀多神社(まかた・じんじゃ)にいってきた(2013年1月3日)

・・佐倉城下の麻賀多神社への参詣

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初詣は飯綱神社(千葉県八千代市萱田)にいってきた(2017年元旦)-神社の境内に鐘楼があるのは明治維新の際の「神仏分離令」以前の名残り
・・境内にイチョウの巨樹がある

市川文学散歩 ①-葛飾八幡宮と千本いちょう、そして晩年の永井荷風




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「成田山開基1080年記念大開帳」の初日に成田山新勝寺に参詣(2018年4月28日)-運の良いことに「お練り行列に遭遇!


(沿線の京成電鉄お駅に貼られているポスター)

「成田山開基1080年記念大開帳」の初日に成田山新勝寺に参詣してきた(2018年4月28日)。10年に1回に機会であり、奥之院などが「開帳」されるのだという。


ちょうど28日は「お不動様のご縁日」。その4月28日から「成田山開基1080年」が一ヶ月の期間で始まるのは、意図したものだろう。成田山新勝寺は真言宗豊山派。いうまでもなく不動信仰がその重要な要素である。

そしてまた「1080」という数字も単なる偶然という気がしない。煩悩は108あるといわれるが、とすると1080は煩悩の10倍ということになる。そのことにかんする言及はまったくないが、どうも気になってしまうものだ。

4月28日の11時から「お練り行列」があると成田山のウェブサイトにあったので、すこし早めに入ることにした。


運の良いことに「お練り行列に遭遇!

参道を歩き始めると、旗を持って歩く参拝団の人たちが目に入ってくる。その背中には「南無大師遍昭金剛」の文字が。いうまでもなくお遍路さんで有名なフレーズだ。真言宗は弘法大師空海を祖としている。



ゆっくりとしたペースで参道を歩いている参拝団の人たちを追い越して歩いて行くと、お練り行列が目に入ってきた。山伏姿の修験者が先導している。



烏帽子と水干姿の従者が差しかける色鮮やかな和傘、そして練り歩く高僧たち。いまから1080年前は紀元939年(天慶2年)、平安時代である。

成田山新勝寺は、関東地方で台頭した平将門の乱の鎮圧を祈願して開基された寺院だ。新勝寺というネーミングがそれを物語る。ちなみに遣唐使が廃止されたのは894年のこと。摂関政治の時代である。まだ古代であった。




紫の袈裟姿の高僧、オレンジ色の舞と雅楽風の衣装。まさに平安時代。時代祭のような感じ。その後ろからスマホで写真を撮りながら、お練り行列と平行して歩いて行く。



少し先回りして正門の前に回り込むと、お練り行列が境内に進んでゆく様子を見る。プラカードをもった女子高生が先導、導師は龍を乗せた金の天蓋とともに移動してくる。




その後、式典が行われたが、これについては省略することとしよう。



(「成田山開基1080年」の初日の成田山新勝寺 筆者撮影)


■「特別開帳」で奥之院へ

ひさびさに「奥之院」を参拝する。前回は、断食修行のために滞在していたのがちょうど成田祇園祭りの最中だったので開帳されていた。それ以来のことなので8年ぶりとなる。


(特別開帳の奥之院の入り口 筆者撮影)

奥之院は、天井の低い岩室で、入ったとたん、早速アタマを天井にぶつけてしまった。

一通り境内を回って参拝をすませたあと帰途につく。

参道を歩きながら、米屋総本店に入って土産物を購入。成田といえば米屋の羊羹が定番。ひさびさに羊羹を購入した。このほか、地酒の長命泉の蔵本で日本酒を購入。


(米谷総本店で土産を買う)

この日の成田山は、正月の初詣ほどではなかったが、たいへんな混雑ぶりであった。

午前中にほぼ参拝を済ませてしまったので、いままでいったことがなかった宗吾霊堂に参拝することにして、京成電車で宗吾参道駅に移動した。

つづきは、麻賀多神社の本宮まで行ってきた-樹齢1400年の大杉のパワーを浴びる(2018年4月28日) で。





<ブログ内関連記事>


深川不動堂(=成田山東京別院)で「お練り歩き」に遭遇(2017年12月15日)-お不動様の御利益か!?


成田山新勝寺の 「柴灯大護摩供(さいとうおおごまく)」に参加し、火渡り修行を体験してきた(2014年9月28日)


成田山新勝寺「断食参籠(さんろう)修行」(三泊四日)体験記 (総目次)


不動明王の「七誓願」(成田山新勝寺)-「自助努力と助け合いの精神」 がそこにある!


「1日で巡るお遍路さん in 丸の内」に参加してきた-四国八十八か所霊場ご本尊の77年ぶりの「出開帳」(2013年4月18日)

「秋季雅楽演奏会」(宮内庁式部職楽部)にいってきた(2012年10月19日)


書評 『平安朝の生活と文学』(池田亀鑑、ちくま学芸文庫、2012)-「王朝文化」を知るために





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2018年4月24日火曜日

JBPress連載コラム第24回目は、「歴史を実学として生かしきった稀代の政治家に学ぶ-世界を救った “歴史家” チャーチルの言葉の力」(2018年4月24日)


JBPress連載コラム第24回目は、歴史を実学として生かしきった稀代の政治家に学ぶ-世界を救った“歴史家”チャーチルの言葉の力(2018年4月24日) ⇒ http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/52908

2017年に英国で製作されて大ヒットした『ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男』という映画が日本でも上映中だ。ご覧になった方も多いのではないだろうか。 

(映画『ウィンストン・チャーチル』英語版ポスター)

今回は、チャーチルが首相に就任してから究極の決断を下して実行に至った数日間を描いたこの映画を、現代史の文脈のなかに位置づけ、現在の日本人が視聴すべき意味を考えてみたい。 


映画はエンターテインメントとして純粋に楽しめばいいのだが、背景知識があれば「有事のリーダーシップ」についてより深く読み込むことが可能になるだろう。 

つづきは本文にて  http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/52908







<実学としての歴史>

歴史に関するチャーチルの名言を紹介しておこう。それは、"The longer you can look back, the farther you can look forward."(=過去を長く振り返るほど、将来を長く見通すことができる)というものだ。 

チャーチルはこうも言っている。“Study history, study history - in history lie all the secrets of statecraft.”(歴史を学べ、歴史を学べ - 政治的手腕の秘訣はすべて歴史にある)。先見性を養うためには、なによりも歴史を学ぶことが、「急がば回れ」の王道なのである。単なる「教養」としてではなく「実学」として歴史をフル活用したチャーチルは、現在のような見通しのきかない激変期にこそ振り返るべき存在だといえる。


<関連サイト>

『ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男』(日本版 公式サイト)


<ブログ内関連記事>

書評 『大英帝国衰亡史』(中西輝政、PHP文庫、2004 初版単行本 1997)-「下り坂の衰退過程」にある日本をどうマネジメントしていくか「考えるヒント」を与えてくれる本

書評 『大英帝国という経験 (興亡の世界史 ⑯)』(井野瀬久美惠、講談社、2007)-知的刺激に満ちた、読ませる「大英帝国史」である

映画 『マーガレット・サッチャー-鉄の女の涙-』(The Iron Lady Never Compromise)を見てきた
・・チャーチルのリーダーシップと、サッチャーのリーダーシップは比較してみると面白いだろう。ともに、妥協を拒否するという点において「非」英国的であったことは共通している

映画 『英国王のスピーチ』(The King's Speech) を見て思う、人の上に立つ人の責任と重圧、そしてありのままの現実を受け入れる勇気
・・チャーチルが首相に就任した際の国王はジョージ6世。その人を主人公にしたのが『英国王のスピーチ』


『「経済人」の終わり』(ドラッカー、原著 1939)は、「近代」の行き詰まりが生み出した「全体主義の起源」を「社会生態学」の立場から分析した社会科学の古典
・・チャーチルは、ドラッカーの処女作『経済人の終わり』を高く評価し、大いに推奨


■「有事のリーダーシップ」

「ハーバード リーダーシップ白熱教室」 (NHK・Eテレ)でリーダーシップの真髄に開眼せよ!-ケネディースクール(行政大学院)のハイフェッツ教授の真剣授業


■「実学としての歴史」

書評 『ヨーロッパとは何か』(増田四郎、岩波新書、1967)-日本人にとって「ヨーロッパとは何か」を根本的に探求した古典的名著
・・このブログ記事に書いた<書評への付記-"実学としての歴史学"->をご参照いただきたい

書評 『米中戦争前夜-新旧両大国を衝突させる歴史の法則と回避のシナリオ-』(グレアム・アリソン、藤原朝子訳、ダイヤモンド社、2017)-「応用歴史学」で覇権交代の過去500年の事例に探った「トゥキディデスの罠」
・・「応用歴史学」(Applied History)の成果。過去の歴史からケーススタディを導きだし、パターンを抽出、いかにして危機回避を行うかについて具体的な検討を行う


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2018年4月22日日曜日

「韮山反射炉」を見に行ってきた(2018年4月21日)-日本人なら一度は見学しておきたい反射炉は、まさに「百聞は一見にしかず!」の産業遺産

(韮山反射炉は高さが15.6m 筆者撮影)

昨日(2018年4月21日)のことだが、「韮山反射炉」を見に行ってきた。世界遺産に登録されている「幕末・明治の産業革命」の遺産の一つだ。 

幕末の歴史を見ていると、やたら「反射炉」というものが登場する。有名なところでは藩主・島津斉彬の薩摩藩、藩主・鍋島閑叟の佐賀藩など全国各地の藩や幕府で取り組まれた。

「反射炉」は大砲の鋳造を主目的に建設された金属融解炉のことだ。 燃焼室で発生させた熱を、天井や壁で「反射」させて炉床に熱を集中させ、そこで金属の融解を行う。

明治時代になると、いきなり「転炉」の時代になって、「反射炉」の「は」の字も目にすることがなくなる。だからだろう、困ったことに「反射炉」とは何かという説明が、ほとんどなされることがないのだ。

「反射炉」ってなんだ?  なぜ「反射炉」なんだ? 

やたら出てくる割には、現在の製鉄技術とどう関係するのかよくわからない。そんなことが、ずいぶん昔から気になっていた。 

「韮山反射炉」は、韮山の代官で技術官僚の江川太郎左衛門(=江川英龍、坦庵)が主導して建設した幕府側のものだ。現在まで残る唯一の「反射炉」である。

というわけで、意を決して(!)見に行ってくることにしたのだ。長年の疑問を解決するために。 


■韮山は伊豆半島の真ん中に位置

韮山は、静岡県の伊豆半島の真ん中に近い伊豆の国市にある。関東からならムリすれば日帰りも可能だ。今回は、あたらしく開設された「新宿バスタ」から高速バスで行ってみた。座席指定で事前に要予約、往復で4510円なので、鉄道を利用するより安い。 

朝9時15分の便で出かけて、16:00現地発の便で帰るという日帰りの強行軍。土曜日なので満席だ。時刻表では2時間強で到着することになっているのだが、東名高速が混んでいるので定刻より1時間以上の遅れ、片道で3時間以上もかかった。したがって、現地滞在時間は3時間程度しかないので、観光案内所でレンタサイクルを借りて走りまくった。 

目的地は2つ。まずは「韮山反射炉」、そして「江川邸」。江川邸とは、反射炉を建設した江川太郎左衛門の屋敷のことである。

巡回バス(300円)という選択もあったが(観光案内所ではそちらを推奨していた)、レンタサイクル(500円)を選択。自転車のほうが機動力があるので正解だった。

スマホをナビに変速ギアの自転車で走りまくった。なんといっても富士山の裾野だから、天気は快晴で富士の白嶺を見ながらのサイクリングは最高だ! 


(反射炉から江川邸に向けて走る。目の前には富士山! 筆者撮影)


■なぜ韮山に反射炉なのか?

韮山反射炉は、1853年に建設が開始され、ここで大砲が製造された。この1853年というのはペリー艦隊が「黒船」として「開国」を求めて来航した年だ。翌年の2度目の来日で日米和親条約が締結されることになる。

そもそものきっかけは、1840年のアヘン戦争のインパクトである。当の中国ではなく、日本の武士を中心とした知識階層に大きな危機感を呼び覚ますことになった。江川太郎左衛門は、伊豆半島の治める代官であり、海防にはきわめて大きな危機感を感じていた一人であった。

世界的大都市の百万都市の江戸にとっての江戸湾、そして伊豆半島の地政学的重要性から、海防のための大砲による備えは喫緊の課題であったのだ。

当時の最先端ハイテク地域は鍋島公が藩主の佐賀藩で、江川太郎左衛門は佐賀藩の協力のもとに反射炉の建設と大砲製造を行ったらしい。そもそも佐賀藩自体、オランダ語の専門書だけ読んで建設に取り組んで成功しているのだから、驚きとしかいいようがない。 

「反射炉」の時代があっという間に終わったのは、同時代の英国はまさに「産業革命」の真っ最中で、日本で洋書を頼りに自前で反射炉の製造に取り組んでいた時期には、英国では最新鋭のベッセマー法が発明されていたからだ。

明治維新以後は、高給で雇った外国人技術者をフルに活用することになる。つまるところ、時間をカネで買うという戦略に転換したわけだ。 


(反射炉の説明書き 筆者撮影)

技術史的に見れば、「反射炉」は過渡期の製造技術であったわけだが、専門書を読んだだけで自前で創ってしまう日本人というのは、現在から見てもとてつもない人たちであったとしか言い様がない。 

2015年にはめでたくも「世界遺産」に登録されているが、わたしが訪問した時には、外国人観光客は皆無であった。「世界遺産」というのは外国人観光客を呼び込むためのものというよりも、権威付けによって日本人の関心を喚起するために利用されている仕組みなのだな、と思うのであった。

別に皮肉で言っているわけでない。世界遺産に登録されたことで予算が付き、遺跡を保護しようという地域住民の意識が高まり、しいては地域振興につながるという「効用」があるからだ。

まあ、そんなことはさておいても、日本人なら一度は見ておきたい「韮山反射炉」165年前の産業遺産が、原型を保ったまま保存されているのは素晴らしいことだ。 

まだ見たことがない人は、ぜひ見るべきだと力説しておきたい。









<ブログ内関連記事>

「日米親善ベース歴史ツアー」に参加して米海軍横須賀基地内を見学してきた(2014年6月21日)-旧帝国海軍の「近代化遺産」と「日本におけるアメリカ」をさぐる
・・慶応3年に幕府が建造したドライドック(・・なんと現在でも現役で使用!)、旧帝国海軍の建造物各種(・・これまた米海軍がそのまま現役で使用!)など

幕末の佐倉藩は「西の長崎、東の佐倉」といわれた蘭学の中心地であった-城下町佐倉を歩き回る ③

書評 『山本覚馬伝』(青山霞村、住谷悦治=校閲、田村敬男=編集、宮帯出版社、2013)-この人がいなければ維新後の「京都復興」はなかったであろう

書評 『渋沢栄一-日本を創った実業人-』 (東京商工会議所=編、講談社+α文庫、2008)-日本の「近代化」をビジネス面で支えた財界リーダーとしての渋沢栄一と東京商工会議所について知る

日本が「近代化」に邁進した明治時代初期、アメリカで教育を受けた元祖「帰国子女」たちが日本帰国後に体験した苦悩と苦闘-津田梅子と大山捨松について





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