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2019年4月29日月曜日

「吉原」は日中に歩いてみよう ー 江戸時代の「エロスとタナトス」が集約的に表現された吉原界隈をイマジネーションを駆使して散策する

(吉原神社で購入したパンフレットより)

「吉原」を日中に歩いてみる。「江戸文化の発信地・吉原」を、イマジネーションを駆使して「散歩」してみるのもいいのではないだろうか。

現在では、東京の高級ソープランド街の代名詞として全国的に有名な「吉原」だが、「吉原」といえば江戸時代には「遊郭」として、それこそ全国的な知名度を誇っていたことは、日本史の常識といっていいだろう。

江戸時代初期は、井原西鶴の『好色一代男』に代表されるように、経済と文化の中心地は上方の大坂であったが、江戸時代中期以降は、将軍のお膝元である政治都市の江戸が文化都市としての存在を強くしていく。その一翼を担ったのが吉原遊郭だ。そして吉原の花魁(おいらん)は、まさに「江戸文化の発信者」であった。

正確にいえば、「吉原」ではなく「新吉原」というべきなのだが、というのも、もともと日本橋にあった「吉原」は明暦の大火のあと、浅草方面に移転した。だが、一般に「吉原」といえば、「新吉原」のことを指している。

現在では、残念なことに「吉原」という地名はすでに存在しない。番地でいえば、「台東区千束4丁目」が該当する。だが、幸いなことに、この街区の区割りは、江戸時代の「吉原」そのものだという。


(新吉原=千束4丁目 パンフレット「吉原細見」より)


吉原は、「北枕を避ける目的から東西南北をずらして街路が構成されたため、いまでも隠し里然とした雰囲気が残る」と、『赤線跡を歩く-消えゆく夢の街を訪ねて-』(木村聡、自由国民社、1997)の「吉原」の項にある。

「土地の記憶」というフレーズがあるが、江戸時代の遊郭の地が、現在でもソープランド街であるのは、ある意味では当然のことである。だがそのために、その目的のない人にとっては、夜は歩きにくいかもしれない。だからこそ、日中に歩いてみることを薦めたいのだ。


(日中のソープランド街 筆者撮影) 

現在、かつての「吉原」を想起させるものといえば、「吉原大門」(おおもん)の跡に立つ標柱や、その名を残している吉原神社など、数えるほどしかないが、JRの入谷駅や三ノ輪駅方面、あるいはさらに南千住方面まで散策の範囲を拡げれば、当時をしのぶよすがが散在していることに気づくはずだ。


(「よし原大門」の標柱 筆者撮影)

先日のことになるが、日中に用事があって台東区千束を訪れた際、ついでというわけで吉原を歩いてみた。吉原は、最寄りの駅からは徒歩で10分ないし15分程度は歩くことになる。だから、現在の吉原のソープランドでは送迎サービスが当たり前となっているわけだ。


(千束稲荷神社の境内の樋口一葉記念碑 筆者撮影)

東京メトロ日比谷線の三ノ輪駅から歩いて南下していくと、千束稲荷神社の境内に樋口一葉の胸像と記念碑がある。そう、ここは近代日本の女流作家の第一号となった樋口一葉が一時期暮らしていた地域であり、名作『たけくらべ』などが生まれたきっかけになった土地なのである。もう少し歩くと旧竜泉寺町であり、そこには「樋口一葉旧居跡」の碑が立っている。


(旧竜泉寺町にある樋口一葉旧居跡の碑 筆者撮影)

吉原の地名をそのまま現在に残しているのが吉原神社だ。観光案内には「吉原神社のご祭神は、稲荷神である倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と弁天様である市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)で、開運、商売繁昌、技芸上達などのご神徳」とある。吉原神社は、吉原遊郭ゆかりの神社である。

(吉原神社 筆者撮影)

吉原神社の境内には、「吉原今昔図」が掲示されていて、歴史的な変遷を知ることができる。「吉原今昔図」は社務所で販売されているので、興味のある人は購入したらいいだろう。私は、「吉原細見」というパンフレットを購入した。パンフレットには、英語版もある。



吉原の周辺もあわせて散歩しておきたい。三ノ輪駅の近くには、「投げ込み寺」として有名な三ノ輪の浄閑寺(じょうかんじ)がある。浄土宗のお寺である。

ここには、身寄りのない吉原の遊女たちの遺骸が投げ込まれたという浄閑寺には、「新吉原総霊塔」があり、そのなかには無数の骨壺がぎっしりと詰め込まれている。ずいぶん昔にお参りして以来の対面だ。


(「新吉原総霊塔」の内部 筆者撮影)

境内の墓所には、このほか永井荷風の詩碑もある。浅草をこよなく愛した荷風散人は、向島の私娼窟を描いた『墨東綺譚』で有名である。失われ行く江戸情緒を描いた作家だ。浄閑寺にはふさわしい。


(永井荷風の詩碑 筆者撮影)

「エロスとタナトス」(性と死)というフレーズがあるが、吉原遊郭ほど、そのコントラストがくっくりと現れている土地は、ほかにはないのではないか。

「吉原遊郭」だけでなく、その周辺まで脚を伸ばしてみて、はじめて感じ取ることのできるものであると言っておこう。 

三ノ輪の浄閑寺をお参りしたあとは、さらに歩いて南千住まで行ってみるといい。そこはかつて江戸時代の処刑場跡の小塚原(こつかっぱら)と呼ばれる土地である。

 小塚原(こつかっぱら)とは「骨か原」を意味している。掘り返すと、頭蓋骨だけ、あるいは首のない骨が出土するのは、江戸時代の処刑は首切りだったからだ。そこには、供養のために首切り地蔵がある。 

江戸時代の為政者は、「エロスとタナトス」(性と死)が隣り合わせの存在であることを十分意識して、土地政策を実行していたのであろう。






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