つい先日のことになるが、2003年3月20日で「イラク戦争」の開戦から10年たったと報道されていた。しかも、同じ日にはオウム真理教の「サリン事件」から18年である。偶然の一致だとはいえ、なんだか不思議な感じがするのを覚えた。
いまとなっては、ネオコンのシナリオに沿って、虚偽の証拠によってでっちあげられた戦争であったことは明らかになっているが、10年前の今頃は少なからぬ日本人もイラク戦争に賛意を示したはずだ。独裁者サッダーム・フセインを倒すという大義名分があったからだ。
開戦以後、バグダッドにむけて快進撃をつづける米軍部隊の電撃作戦の戦況に興奮していたのはわたしだけではないと思う。バクダッド進撃まではまさに破竹の勢いだったからだ。
ところが、とんとん拍子で進んだのはバグダッド制圧とサッダーム・フセイン逮捕まで。その後の泥沼のイラク情勢は、同じく泥沼となったベトナム戦争、ソ連によるアフガニスタン侵攻の轍を踏んだ結果となった。
この間、戦争当事者として戦争を主導した米英では、世論は完全に逆転している。さまざまな映画も製作されてイラク戦争の真相も明らかになってきている。
当時、米国の政治を主導していたネオコンたちは、第二次大戦によって敗戦した日本再建の成功モデルをそのままイラクでも実行すると豪語していたが、結果については言うまでもない惨状である。
なぜ、アメリカはそんな夢想に引きづられてしまったのか、それにはイラクという国の成り立ちを考えてみなくてはならない。
■イラクはそものもの誕生の時点から「人工国家」である
イラクは、大英帝国によるオスマン帝国分割の結果うまれた「人工国家」である。なにごとも「誕生の秘密」を知れば、その後の歴史的展開は明確に理解できることになる。
「帝国主義」時代の末期は、第一次世界大戦の結果、オスマントルコ帝国だけでなく、ロシア帝国もドイツ帝国もハプスブルク帝国も崩壊したことによって、「民族国家」なるものを大量に生み出すことになった。いわゆる「民族自決」原則による「帝国分割」である。
このような情勢のなか、衰えつつあるとはいえ世界に君臨していた覇権国である大英帝国にとっては、インド植民地の存在が最も重要なものであった。
インド植民地をめぐるアフガニスタン、イラン(ペルシャ)、そしてイラクが建国されることになるメソポタミアという地政学的状況。その動向がドミノ倒しとしてインド植民地に影響を与える可能性のあるメソポタミアは、英国海軍にとっての死活的な燃料である石油供給基地として絶対に押さえておかねばならない地域であったのだ。
だからそのメソポタミアの地に、英国の息のかかったイラク王国が建国されることになる。本書はそのプロセスを、「イラクの母」となったガートルード・ベルという知識層の独身中年女性を主人公に描いている。
『大英帝国という経験 (興亡の世界史 ⑯)』(井野瀬久美惠、講談社、2007)の第8章 女たちの大英帝国」に描きだされているように、オスマン帝国崩壊後のイラク王国成立にかんしても、植民地での戦争に参加したのは男性だけではなく、看護婦(ナース)やそれ以外の形で現地におもむいた女性たちが多数存在したのである。
日本では昔から有名な「アラビアのロレンス」もかかわっているのだが、イラク建国はロレンスにとっては夢破れた結果であり、本書での扱いもあくまでも脇役である。
英国は、少数の支配層による統治を容易にするため、民族を分断して牽制させる政策である「分割して統治せよ」(Divide and Rule)を実行してきたことは有名だが、そのため現在に至るまでマレーシアやミャンマーといった旧植民地では民族間の紛争が絶えない。
イラクは植民地ではなく、建国当初から独立国として「設計」されたが、アラブ人のあいだでもスンニー派とシーア派という対立するイスラーム勢力、さらには分断民族であるクルド人の領土をくっつけて、そのうえに外から連れてきた国王を乗せて王国としたものである。
戦後になって王政は倒れてサッダーム・フセインの独裁と推移していくが、この構造はそのまま引き継がれて現在に至る。アラブ世界では、強力な指導者を欠いていては、このような国を統治することが難しいことは、カダフィー体制崩壊後のリビアでも同様である。
「近代国家」という概念にはまったくなじまない部族支配、錯綜するイスラームの宗派争い。英国本土、インド植民地のデリー、エジプトのカイロとあいだの激しい駆け引き。アラブ人に独立を確約しながら、サイクス=ピコ秘密協定をむすび、パレスティナでは」バルフォア宣言という英国の三枚舌の秘密外交。これら複雑な状況のなかで、かろうじてできあがったのがイラクという人工国家だったのだ。
そして、人工国家という蜃気楼の製作にかかわったガートルード・ベルもロレンスも、そのプロセスのなかで苦渋に満ちた想いをしたのであり、精神的にも肉体的にも疲弊しきってしまったのであろう。その後の人生は幸せに満ちたものであったとは言い難い。
(wikipedia 掲載のイラク地図)
■歴史に学ばないアメリカが繰り返す愚行・・・。そして大英帝国の負の遺産
2003年3月20日に開戦に踏みきった「イラク戦争」。10年たったいま振り返ればまさに愚行としか言いようがない。
アメリカの歴史家バーバラ・タックマンが生きていれば、その主著である『愚行の世界史』にあらたな一章を書き加えなければならなかったであろう。
アメリカは歴史の教訓を学んだのか? 学ぶだけのイマジネーションを欠いているのか?
アメリカの底の浅い知性は、英国と比較して深い洞察を欠いていると言いきってしまいたいところだが、その英国ですら、みずからが設計した「人工国家」は蜃気楼にすぎないことを知っていたというのがその真相であったことを本書によって知ることができる。
「大量兵器はなかった」という結論はすでに出ている。これもまた蜃気楼に過ぎなかったのだ。しかし、その真相はいまだに不明である。ネオコンが表舞台から消え去った現在においても、依然として英米アングロサクソの奥の院の闇は深い。
そして、現在に至るまで続いている大英帝国の「負の遺産」に目を向けるべきこと。アジアだけに限っても、インド=パキスタン問題、ミャンマーの少数民族問題、マレーシアの民族問題と大英帝国の「負の遺産」は払拭されたといえるのだろうか。
本書は、2012年に「オリンパス事件」の端緒をつくりだした、月刊誌 「FACTA」(ファクタ)を主宰する博覧強記のジャーナリストによる著作である。
なぜ金融を専門に取材してきた元日経記者が、『イラク建国』などというテーマで執筆したのか。著者のコトバを借りれば以下のような構想があったようだ。
もとの構想は、1991年湾岸戦争の引き金になった80年代イラクの大量破壊兵器調達網の形成と、それを陰ながら支援した米英独仏など先進国政府の「原罪」を人物、場所、日時を特定していちいち固有名詞で書くことだった。ロンドンの金融街(シティ)には黒目の異邦人が近づけない二大聖域-石油と兵器の資金調達-の「隠れた神々」の世界がある。その秘密の「裂け目」がイラクにある と知ったのがきっかけだった。(「あとがき」・・太字ゴチックは引用者=わたし)
歴史書でも、ルポルタージュでもない。現在進行形の「現代史」をジャーナリストが描いてみせたものだ。すぐれて現代そのものを描いたノンフィクション作品である。けっして色あせることのないアクチュアリティに満ちた作品だ。事実関係を確認しながらじっくり読むと、得るところのきわめて大きい作品である
出版されたのは、まさにイラク統治の失敗が明らかになった最中の2004年であるが、9年後の2013年現在でも「国家の不可能性」の条件には、いささかの変化もない。時の試練に十分に耐えうる内容である。
単行本3冊以上にも該当する濃縮された1冊である。それでも序論にしかすぎないようであるが・・・
<付記>
サイクス=ピコ秘密協定は、大学入試の二次試験の世界史の論述問題で書いた。18歳のときのことだ。そのおかげで大学には合格することができたと考えている。30年の歳月を経て明瞭に思い出す。船橋市の文化会館館で船橋在住(?)の映画解説者・水野晴雄の解説で映画 『アラビアのロレンス』を大画面でみたのは高校3年のときだったと思う。その後、岩波新書で中野好夫の著作によってロレンスの生涯をたどった。
<関連サイト>
イラクのナジャフにある世界最大級の墓地「平和の谷」(Gigazine 2008年02月13日)
http://gigazine.net/news/20080213_wadi_al_salam/
<ブログ内関連記事>
書評 『大英帝国という経験 (興亡の世界史 ⑯)』(井野瀬久美惠、講談社、2007)-知的刺激に満ちた、読ませる「大英帝国史」である
・・「イラクの母」となったガートルード・ベルもまた、知識層の独身中年女性の・・・であった。第8章 女たちの大英帝国(女たちの居場所、帝国に旅立つ女たち)を参照。「19世紀末の南アフリカにおけるボーア戦争や、オスマン帝国崩壊後のイラク王国成立にかんしても、植民地での戦争に参加した男性ではない、看護婦やそれ以外の形で現地におもむいた女性たちの視点がじつに新鮮な印象を受けるのだ」。
本年度アカデミー賞6部門受賞作 『ハート・ロッカー』をみてきた-「現場の下士官と兵の視線」からみたイラク戦争(2010年3月13日)
映画 『ゼロ・ダーク・サーティ』をみてきた-アカデミー賞は残念ながら逃したが、実話に基づいたオリジナルなストーリーがすばらしい
映画 『ルート・アイリッシュ』(2011年製作)を見てきた-近代世界の終焉と「傭兵」の復活について考える ②
書評 『新月の夜も十字架は輝く-中東のキリスト教徒-』(菅瀬晶子、NIHUプログラムイスラーム地域研究=監修、山川出版社、2010)
書評 『中東激変-石油とマネーが創る新世界地図-』(脇 祐三、日本経済新聞出版社、2008)
書評 『中東新秩序の形成-「アラブの春」を超えて-』(山内昌之、NHKブックス、2012)-チュニジアにはじまった「革命」の意味を中東世界のなかに位置づける
書評 『エジプト革命-軍とムスリム同胞団、そして若者たち-』(鈴木恵美、中公新書、2013)-「革命」から3年、その意味を内在的に理解するために ・・エジプトもまた大英帝国の植民地であった
書評 『田中角栄 封じられた資源戦略-石油、ウラン、そしてアメリカとの闘い-』(山岡淳一郎、草思社、2009)-「エネルギー自主独立路線」を貫こうとして敗れた田中角栄の闘い
・・エネルギー問題で「奥の院」の虎の尾を踏んでしまった田中角栄
書評 『持たざる国への道-あの戦争と大日本帝国の破綻-』(松元 崇、中公文庫、2013)-誤算による日米開戦と国家破綻、そして明治維新以来の近代日本の連続性について「財政史」の観点から考察した好著
・・米英アングロサクソン世界が牛耳る国際金融市場に敗れ去った大日本帝国
早いもので米国留学に出発してから20年!-それは、アメリカ独立記念日(7月4日)の少し前のことだった ・・1992年の湾岸戦争(The Gulf War)について、戦争期間中、わたしは交戦国である米国にいた
(2014年5月28日 情報追加)
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