2009年8月22日土曜日

書評『アメリカに問う大東亜戦争の責任』(長谷川 煕、朝日新書、2007)ー「勝者」すら「歴史の裁き」から逃れることはできない




「勝者」すら「歴史の裁き」から逃れることはできない

 昭和20年(1945年)、疎開先で竹槍での本土決戦を覚悟していた12歳の「少年」が人生で抱え続けた疑問、「大東亜戦争とはいったい何であったのか?」「アメリカには戦争責任がないのか?」に、のちに朝日新聞社記者となった74歳の「少年」が62年後に根本的に考え抜き、解答すべく試みた記録である。

 しかし、著者が後書きで述懐するように、「勉強すればするほど、考えれば考えるほど、あの戦争は不可解きわまりなく思えてくる。であるが故に筆者は今後もずっと、あれは何だったのかと考え続けていくほかない。日本人の間では多分、幾世代を超えてあの戦争への問いが絶えることはないのではないか」(P.187)。

 問いは決して終わることはない。

 本書は、したがって、何らかの結論を導き出す本ではない。著者が渾身の力を振り絞って書いた本書は、著者自身の追求の姿勢を示すことで、読者自身にも同じ問い繰り返すよう促している本である。

 著者の姿勢は、大東亜戦争の「勝者」となったアメリカが、日本占領中に、自分たちの好きなように振る舞った行動には、必ずや「歴史の審判」が下されるはずであるという予感、いや確信である。

 これは著者にとってだけでなく読者にとっても、戦慄にみちた予言であるとともに、ある種の救いともなるであろう発言だ。

 著者のいうことに耳を傾けてみよう。

 著者は、12歳のときに抱いた疑問を出発点に考えてきたので、文中でも自らを「少年」として記している。

・・・「勝者の裁き」を躊躇する判断力が連合国軍側にあったなら、長いこと歴史は彼らに味方しただろう。しかし、原子爆弾投下や東京裁判などを犯したために、米国あるいは連合国はやがて必ず歴史の裁きを、それも未曾有の断罪性を伴った形で受けることになると少年は確信している」(P.161)

 そして著者の追求は、米国を含む連合国の背後に、西洋文明そのもの野蛮性にも及ぶ。

・・そして調べるほどに、いずれの現象にも自身の主義、理念、文化を絶対視し、異質を否定するという共通性が貫いていることが分かってくる。第三章で見たように、人体実験を極大化してまで根こそぎ破壊手段の高度化に邁進しようとした米国の原子爆弾開発投下史も、自身を絶対化するこの衝動の延長線上にあるのだろう。連合国つまりは米国の日本占領史の頁を繰っていくうちに、少年はGHQの日本改造実験も西洋文明のこのような特質の現れでないかとみた」(P.174)

 しかし返す刀で、敗戦後占領軍におべっかを使い、醜悪な姿を見せていたた日本人へにも手厳しい批判のまなざしを向ける。

・・やがていつかは、あの絶対的軍事力に支配された被占領期の対米奴隷根性も日本人の間から消えるのだろう。しかし、その時に日本人は被占領期の先祖の姿に嫌悪をもよおし、GHQへの阿諛追従(あゆついしょう)も、対日無差別絨毯爆撃指揮者への勲一等叙勲も弾劾されずにはすまないと予感する」(P.99) 

 最期に著者はこういってと締めくくる。

日本人は過去を直視しないどころか忘れ去っているという評も日本の内外にあるが、冗談ではない。忘れるどころか、戦後半世紀以上も問い、直視し続けてきたし、今も将来もそうであろう。本を含めてさまざまな媒体があの戦争に迫ろうと努めている状況を観察しただけでもそのことは明瞭である。
 やがて、いつの日か世界の人々は日本人のこの一面に深刻な印象を受けるのではないか。そして世界の人たちも、あれは何だったのだろうかと考え始める時がくるように、筆者には思えてならない」(P.187)

 私にはこの著者の確信に満ちた予言が、かならず実現する日が、そう遠くないうちに来るのではないかという予感がある。

 勝利者といえども、「歴史の裁き」から逃れることはできないからだ。

 著者自身はその日のことをしっかりと見届けることはできないかもしれない。しかしこうして文字として後生に残したことは、きわめて意義のあることだ。

 そうだその通りだ、と受け止める人が、日本人にも日本人以外にも必ずや現れることだろう。



■bk1書評「「勝者」すら「歴史の裁き」から逃れることはできない」投稿掲載(2009年8月19日)




<書評への付記>

 元朝日新聞記者が、朝日新書という朝日新聞社系列の出版社から「大東亜戦争」と題した本を書く、このこと自体が実は興味深い。

 一般に朝日新聞というと産経新聞の対極にある新聞社とみなされているが、個々の記者についていえば、必ずしも特定の色に染まっているわけではないのである。

 これは朝日新聞出身の丸山静夫や稲垣武といったノンフィクション作家の作品を読んでみればわかる(・・稲垣武は朝日新聞的なものを徹底的に批判しているが)。

 本来ジャーナリストはかくあるべし、という理想をある意味で体現している良質な人たちなのであろう。もちろん今日のサラリーマン化した記者たちとは、まったくもって対極の存在である。



 著者が本書 『アメリカに問う大東亜戦争の責任』の中で触れている象徴的な問題が3つある。

 ①米内光政(よない・みつまさ)元首相・海相、②辻政信元大佐、③ヤルタ密約情報隠蔽疑惑、の3つである。

 ②についてはこのブログでも触れてきたので省略する。誤解があってはいけないが、辻政信的な極端な出世主義者の存在と、それを許してきた陸軍上層部組織に大きな問題があったことには、私もまったく異論はない。


「海軍という組織」の問題

 問題は①についてである。すでにブログでも書いたが、「海軍神話」の核のひとつが終戦工作にも関与したといわれる米内光政だが、大東亜戦争の開戦以前、陸軍が主張する中国国民党との和平工作継続を否定し、日中戦争拡大を推進、日本破滅の道を敷いた張本人として著者は糾弾している。この点については、「文藝春秋」での座談会を新書化した『昭和陸海軍の失敗』(文春新書、2007)で、1960年生まれの文芸評論家・福田和也が指摘しているように、米内光政と海軍という組織の問題であることは否定できない。

 福田和也が指摘するように、ひろく日本国民全体から徴兵された兵士によって構成された陸軍が、ある意味デモクラティックな組織であったことは当然といえば当然であろう。これに対して、少数精鋭の海軍は、将校以上と下士官以下を厳然と区別した英国流の階級社会を反映した文字通りの上意下達の組織であり、昭和時代には下克上の傾向すらもっていた陸軍と比較すると、デモクラティックとはほど遠い存在であったことも否定できない。

 しかも少ない人数の将校によって構成される海軍指導部が、きわめて内輪の論理によって動いていた閉じた組織であったことも、サイレントネイビーという表現に象徴される、内輪でのかばい合いという悪弊を生み出した原因の一つであるともいえる。

 戦後日本がものづくりによって復興し、経済成長を達成したのは、現場中心主義による、限りなく陸軍的な、デモクラティックな組織運営が背景にあったということもできるだろう。それだけ、日本人にはフィットした組織形態であるともいうるわけだ。

 これに対して海軍組織は、ボスがいっさいすべてを仕切り、参謀はボスのアシストをするための存在であり、命令系統が完全な上意下達型組織である米国の企業経営そのものである。日本人にはあまりフィットしない組織形態であることはいうまでもない。日本は上意下達の反対、すなわち下意上達、ふつうに表現すれば、現場で改善活動を行うボトムアップ型組織のほうがフィットしている。

 戦史にも詳しい、経営学者の野中郁次郎は、日本型組織の心髄は、ミドル・アップ&ダウンだといっている。ミドルマネージャーの力量ですべてが左右される組織形態である点、これは実は戦前の日本陸軍そのものである。トップリーダーが強く求められているというのが、マスコミの論調だが、実は日本の企業組織の大半は、ミドルが参謀として、またあるいは現場マネージャーとして企画立案、そして実行している組織がもっとも強い。

 日本ではトップが強いリーダーシップを発揮しなければならないのは創業段階のベンチャーか、せいぜい中堅中小企業段階までであろう。従業員のモチベーションを考慮に入れると、大幅な権限委譲を行い、まかせたほうが良好なパフォーマンスを示すことは、みな経験的に熟知していることだ。

 このときのトップの役目とは、最終責任をとる取ることに尽きる。それが器の大きなリーダーとして尊敬される要素であり、またトップの器次第でその組織の力量も決まってくる。

 とはいえ、戦前の日本陸軍の将軍によくみられたような、部下の少壮将校に任せっぱなしというのでは役割を果たしたことにはならない。こういうトップはおうおうにして、最終責任を回避して部下に責任をなすりつける者が多いことは旧軍だけではない。これも組織人なら経験から多く観察していることだろう。

 大きな方向性、すなわちグランド・ストラテジー(=大戦略)を指し示すのはトップの役割であること、これは洋の東西を問わず共通であるといえよう。
 
 書いているうちに、話は経営組織論にすべってしまったが、すべての行為は後世の「歴史の審判」の対象となること、これをしっかり意識した上で、事には臨みたいものである。




P.S. ちょうどこの投稿でマイ・ブログの100本目の記事となった。ある一定量を超えると、それが閾値(threshold)となり、量が質の転換を促すという「量質転換の法則」の存在が想起される。次の100本では、確実に質的レベルが向上することを期待したいものだ。いや、法則どおりならそうなっているハズである。

PS2 読みやすくために改行を増やし、引用文が明確にわかるようにフォーマットを変更した。この本は紙の本では入手できないが、電子書籍としては入手可能なので、ぜひ一人でもお王の人に読んでほしいと思う。著者の主張には右も左も関係ないのである。間もなくまた10万人以上の市民!)が死んだという3月10日の「東京大空襲」がめぐってくる (2014年3月1日 記す)


PS3 長谷川 煕氏は、やはり思った通りの硬骨漢であった! 2015年には『崩壊 朝日新聞』をワック出版から、2016年にはおなじく朝日新聞で36年間記者を続けた永栄潔との共著で『こんな朝日新聞に誰がした』をおなじくワック出版から出版している。朝日新聞だからすべての記者がダメなのではない。だが、個としてのジャーナリストが組織のなかでどう生きるかについて考えさせられる。(2017年8月15日 記す)







<ブログ内関連記事>

■西洋文明の野蛮性

映画 『アバター』(AVATAR)は、技術面のアカデミー賞3部門受賞だけでいいのだろうか?

書評 『1492 西欧文明の世界支配 』(ジャック・アタリ、斎藤広信訳、ちくま学芸文庫、2009 原著1991)-「西欧主導のグローバリゼーション」の「最初の500年」を振り返り、未来を考察するために

書評 『新大東亜戦争肯定論』(富岡幸一郎、飛鳥新社、2006)-「太平洋戦争」ではない!「大東亜戦争」である! すべては、名を正すことから出発しなくてはならない


■敗者の視点

「敗者」としての会津と日本-『流星雨』(津村節子、文春文庫、1993)を読んで会津の歴史を追体験する

『ある明治人の記録-会津人柴五郎の遺書』(石光真人編著、中公新書、1971)は「敗者」の側からの血涙の記録-この本を読まずして明治維新を語るなかれ!

いまこそ読まれるべき 『「敗者」の精神史』(山口昌男、岩波書店、1995)-文化人類学者・山口昌男氏の死を悼む

書評 『ワシントン・ハイツ-GHQが東京に刻んだ戦後-』(秋尾沙戸子、新潮文庫、2011 単行本初版 2009)-「占領下日本」(=オキュパイド・ジャパン)の東京に「戦後日本」の原点をさぐる


日本陸海軍の組織とその問題点

「海軍神話」の崩壊-"サイレント・ネイビー"とは"やましき沈黙"のことだったのか・・・

NHKスペシャル『海軍400時間の証言』 第一回 「開戦 海軍あって国家なし」(2009年8月9日放送)

本の紹介 『潜行三千里』(辻 政信、毎日新聞社、1950)-インドシナに関心のある人の必読書

書評 『経営管理』(野中郁次郎、日経文庫、1985)-日本の経営学を世界レベルにした経営学者・野中郁次郎の知られざるロングセラーの名著

(2014年3月1日 項目新設)


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