旧刊書を読むシリーズの続きである。
今回は、米国出身の日本語作家・リービ英雄(Ian Hideo Levy)の処女作『星条旗の聞こえない部屋』である。
近年では、昨年度の芥川賞受賞者の中国人女性や、本年度は惜しくも受賞を逃したイラン人女性のように、日本語で書く外国人作家は別に珍しくもなくなったが、本格的な文学作品を日本語で書いて認められる存在になったのは、このリービ英雄氏がパイオニアともいえるだろう。
9-11事件を扱った『千々にくだけて』を読んだのがこの人の作品を読んだはじめである。9-11事件の際、米国に里帰りしていて作家は飛行機が飛ばなくなったので、二進も三進もいかなくなる。この経験を日本語で、私小説(ししょうせつ)として描いた作品だ。作家のアタマの中で、崩壊するツインタワーのことを考えたとき "千々にくだけて"という日本語が浮かんだという。そしてそれが作品執筆のきっかけとなった。
さすが、元スタンフォード大学教授で、万葉集の全訳を成し遂げた日本語力の持ち主である。日本の古典古文にも通じた人だからこそ、"千々にくだけて・・"なんてフレーズが自然とアタマに浮かんだのだろう。万葉集英訳のエッセンスである『英語でよむ万葉集』(岩波新書、2004)はおすすめである。
そんな作家の処女作がこの 『星条旗の聞こえない部屋』である。出版は1992年、しかし読んだのは今回が初めてである。そもそも私はあまり小説は読まないほうなので、話題になっている最中に小説を手に取ることはほとんどない。本書も古本で入手したまま読まずに放置していたものである。
この処女作もまた私小説である。米国の外交官の息子として日本に滞在する16歳のベン・アイザックが、家出をして新宿をさまよう、という物語である。要約してしまうと、味も素っ気もないな。
思うに私小説という、日本文学に独自の文学ジャンルは、日本語にフィットしたものかもしれない。日本人は別に文学好きではなくても日記を書くのが好きで、日本を代表する古典文学は平安時代の"おんなもすなる日記"(紀貫之)から始まっていることは、日本文学史の常識である。有名なものには右大将道綱の母による『かげろふの日記』、菅原孝標(すがはらのたかすえ)の娘による『更級日記(さらしなにっき)』などなど。こういった女性の本名が伝わっていないのは残念であるが。
また身辺雑記ともいうべき随筆には、いうまでもなく『枕草子』に『徒然草』。そして江戸時代に花開いた無数の随筆文学。
日本語の言語的特質とまでいえるかどうかわからないが、身の回りの事々を主観的に書くことは、他のいかなる言語にもまして日本語の得意とするところであるといえよう。中国人の日本語研究者がいうには、中国語ではとても表現できないような、感情のこまかな襞まで表現できる日本語はすばらしい、ということだ。
少なくとも英語に比べると、日本語のほうが意識の流れをそのままの形で表現できるといえるかもしれない。悪くいえばだらだらと垂れ流し的な文章になりがちということでもあるが。フランス語などラテン語系の言語は、動詞の時制が英語より細かいので、英語より細かく表現できるが、それでも西欧語は論理が前面にですぎて、感情や感性をそのまま表現するには、日本語と比べると難しいのかもしれない。
日本語でいうエッセイと英語でいう essay とは意味が大きく異なる。後者は日本語では随筆ではなく論文のことである。16世紀フランスはボルドーの人、モンテーニュの『エセー』が、日本語では随筆のことをエッセイと呼ばせる原因になったものと思う。
『星条旗の聞こえない部屋』も、主人公の思考と行動の流れをそのまま文字にして表現しようと試みており、英語の小説というより、間違いなく日本語の私小説である。こういった小説は、英語圏では文学とはみなされないだろう。構想力のある散文小説か、あるいは研ぎ澄まされた表現形態の詩、という形でしか許容されないのではないか。
もちろん、ユダヤ系米国人であるこの作家の母語は英語であり、大学教育を米国で終えたとはいえ、16歳のときに日本語に出会って以来、人格形成のかなり重要な部分を日本語をつうじて行っている。日本語で考え、表現することには、この作家にとっては主体的な意味もあるのだろう。
人間にとって言語というのは非常に重要な意味をもつ。私の場合も、経営コンサルティングの会社にいて経営用語にはなれていたとはいえ(・・20歳代は猛烈に仕事をし、かつ猛勉強の日々であった)、M.B.A.を米国の大学で勉強したので、経営関係は日本語よりも英語のほうがピンとくることも多い。英語で概念を理解しているからだ。
また経済学や、コンピュータ関係も、日本語による説明はあくまでも翻訳であるので、略語の意味が日本語ではわからない。いっそのこと最初から英語で勉強した方がアタマに入りやすいとはいえる。むしろ米国起源のこういった学問を、いかに日本語のコンテクストの中で二つの言語文化のギャップを意識しつつ、日本語環境にローカライズするというか、あらたに再創造するのかが、知的な意味で真に求められることなのである。この知的作業の意味がわからない日本人が多いので、米国でM.B.A.を取得して帰国しても、日本企業では"使えないヤツ"と見なされやすいのである。
昨日取り上げた石川好の『ストロベリー・ロード』は、1947年生まれの著者が、18歳になった1965年に伊豆大島からカリフォルニアに農業移民した日本人の青春記であった。
『星条旗の聞こえない部屋』は1950年カリフォルニア州バークレー生まれの著者が、子供時代を外交官の父親の任地であるアジア各地をへて、16歳になった1967年に日本に来て日本語に出会ったユダヤ系米国人の青春記である。
日米双方から方向は逆であるが、ほぼ同世代の人間が、自分にないものを求めてボーダーを越え、そして異文化体験を経て自分を見つけるというテーマは共通している。
意図して連続してこれらの本を読んだわけではないが、人間というのは一見すると似てはいないが、実は同じような経験をして、本当の自分を見つけるものなのだ、といま思うのだ。
自分の枠をでて異文化の中に入り込むという経験、これは必ずしも国外に出ることだけを意味するのではない。自分の生まれ故郷をでて東京に出ること、社会人になることも同様の経験といえるだろう。
これらはイニシエーションである。このイニシエーションというものは、楽しい経験というよりも、むしろ試練に満ちた経験である。試練をへてはじめて自分は自分になる。この体験を何語であれ言語で表現できるようになるには、最低でも20年近い歳月が必要なのかもしれない。
石川好は23年、リービ英雄は21年(・・雑誌発表は1986年)かかっている。この事実は、書くということの、人生のステージにおける意味を物語っているのかもしれない。
たとえ文字にしなくても言語化することで、イニシエーションとしての体験の意味づけが完了し、そしてそれ以降の人生、すなわち中年以降の人生を生きてゆくための出発点となるのであろう。
こういったことがわかるようになるには、長く生きるしかないのである。歳を取るのもけっして悪いことではない。
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・・伊豆大島からカリフォルニアに意味した戦後移民
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・・リービ英雄が生まれ育ったのはバークレー
日米関係がいまでは考えられないほど熱い愛憎関係にあった頃、多くの関連本が出版されていた-『誇りてあり-「研成義塾」アメリカに渡る-』(宮原安春、講談社、1988)
書評 『超・格差社会アメリカの真実』(小林由美、文春文庫、2009)-アメリカの本質を知りたいという人には、私はこの一冊をイチオシとして推薦したい
(2014年1月8日、1月24日、9月1日、2015年10月27日 情報追加)
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