『ヨーロッパとは何か』(増田四郎、岩波新書、1967)は、ロングセラー『大学でいかに学ぶか』(講談社現代新書、1966)の著者によるヨーロッパ論。
私がこの本をはじめて読んだのは今から30年近く前もだが、今から10年前に読み返したときも、また今回読み返しても、内容をとくに大幅に修正する必要のない、もはや古典といっても言い過ぎでない本になっていることを実感した。
長く読み続けられてきた本に特有のオーラがあるのだ。
「ベルリンの壁」がまだ存在した冷戦時代に書かれた本だが、政治的に線引きされた国境にとらわれず、ヨーロッパを根本的に理解するための視点を提供してくれる。
著者の問題意識は、あくまでも日本人にとって「ヨーロッパとは何か」という探求姿勢にある。
この問いに対して、著者は地理的要因から説明を始める。これがきわめて重要なのである。地理学者でかつ歴史学者であったフェルナン・ブローデルは「地中海世界」の全体史を描ききったが、これに対して著者は「アルプス以北」の世界の構造を明確化しようと試みる。
明治以降、西洋近代化への道を選択した日本に、文明レベルで大きな影響を与えたのは、アルプスより北に位置する西欧であった。だから、日本人にとってのヨーロッパは、何よりもまず「アルプス以北」なのである。
西洋中世史を主たる研究テーマにしていた著者は、フランク王国を知らなければヨーロッパとは何かを知ることはできない、という。
フランス革命以降成立した「国民国家」という枠組みにとらわれていては、ほんとうのヨーロッパは見えてこないからだ。戦争のたびに国境線が引き直されてきたということだけをいってるのではない、「国民国家」成立以前は、国家意識も現代ほど明瞭ではなかったのである。
ある意味、同じく著者の代表作である『都市』(ちくま学芸文庫、1994)と同様、社会学的な問題意識をもってヨーロッパ研究に取り組んだ、「比較社会史」志向の歴史書といえる。
著者は狭い意味の専門家ではなく、歴史学を真の意味での実学として研究してきた人であった。
こういう本をきちんと読んでおくと、イデオロギーにとらわれないもの見方が身に付くはずだ。必読の基本書である。
■bk1書評「日本人にとって「ヨーロッパとは何か」を根本的に探求した古典的名著」投稿掲載(2009年11月18日)
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<書評への付記>
◆"実学としての歴史学"
この本をはじめて読んだのは高校二年生で、行き帰りの通学電車の中で読んだ記憶がある。ほぼ10年おきに読み返してこれまで三回通読したが、感想は書評にかいた通りである。
その当時は、書評のなかでも触れているが、いまだソ連崩壊もドイツ統一も実現するなどとは、まったく考えることすらできないような時代だった。
だから、非常に新鮮な印象をもったのである。そしてこういう本を読んでいたおかげで、私はイデオロギーに目をくらまされないで済んだといえる。
私が大学に入った頃は、バブルの前兆のような時代であったと、あとから振り返るとそう思うが、まだまだ「唯物史観」(・・正確にいうと史的唯物論)が、歴史学だけでなく、社会科学の領域ではありとあらゆる分野で幅をきかせていた時代である。
ところで増田四郎という名前は面白い。かの有名な「島原の乱」の天草四郎は実は通称で、本名は益田四郎時貞であった。漢字は違うが、増田四郎という名前を耳できくと、天草四郎を想起するのは私だけだろうか。
とはいえ、自らを天草四郎の生まれ変わりと名乗る美輪明宏の美貌と比べると、増田四郎の風貌は、それとはまったく異なるものだ。奈良の農家出身の、朴訥で、骨太な印象を受ける。直接お会いしたことはないので、肖像写真を見ただけの、単なる印象であるが・・・
ちなみに私は、増田四郎の孫弟子ということになる。もちろん、学問の世界にいるわけではないので、不肖の孫弟子ではあるが。
わずらわしいので敬称はいっさい省略するが、私の大学学部時代の恩師である阿部謹也は、学部時代の指導教官は上原専禄(うえはら・せんろく)であったが、大学院時代は上原専禄が定年を待たずに退官し隠遁生活に入ってしまったので、指導教官が増田四郎となったのであった。
増田四郎は、のちに学長も務めているが、一橋大学として初の文化勲章受章者となった。一橋大学は、歴史学者が歴代の学長を務めるという、面白い大学である。
『大学でいかに学ぶか』(講談社現代新書、1966)でも語っているが、著者は、もともと東京商科大学(現在の一橋大学)の商業教員養成科に入った人である。
東京商科大学の前身である東京高等商業学校(=東京高商)は、そもそも近代的な商売人を養成するための学校であり、かつては、簿記・ソロバン・習字・行商実習等が全学生必修だった、と聞いている。
作家の伊藤整(いとう・せい)も行商実習を体験したらしいが、増田四郎はいまひとつ商売人には適性がないとの自覚があり、商業科の教員になるコースに入学したようだ。
増田四郎については、このほか文庫化された『都市』(ちくま学芸文庫、1994 初版1978)という本があって、阿部謹也が解説を書いている。
この解説を読むと、「商慣習の近代化」を通じて、近代的人間関係の定着を図る、というのが、東京高等商業学校の理念だったことが指摘されている。
増田四郎はもともと、幸田露伴の弟で社会経済史学者で、東西交渉史の専門家であった幸田成友(こうだ・しげとも)博士の下で日本史を勉強していた。幸田博士は東京商大と慶應義塾の教授を兼任していた。
増田四郎が大学を卒業したのは昭和7年(1932年)、商売人には向いておらず、しかも世界大恐慌後のどん底にあったので、就職は断念して研究者の道を進んだ、と『大学でいかに学ぶか』に記している。
日本近代資本主義のプロモーターであった、渋沢栄一の伝記執筆のための資料整理の仕事に参加させてもらいながら、迷いながらも自らの意志で幸田博士を振り切って、自分が本当にやりたかった西洋史の研究を始めたという経緯がある。
この事情については、『大学でいかに学ぶか』に詳しく書かれているので、ちょっと長くなるが江戸っ子であった幸田博士にまつわるエピソードとからめて引用しておこう。
増田四郎はこの後も、日本史と西欧中世史の二股をかけ、専門論文は後者の西欧中世史で書きながらも、つねに日本人にとってのヨーロッパとは何か、を追求した人であったのだ。
幸田成友の名著『江戸と大阪』(冨山房百科文庫、1995 初版1934年)は東京商科大学(現在の一橋大学)での講義録であるが、初版出版に際して、浄書は商学士増田四郎氏を煩わせたと、「緒言」に記している。増田四郎は、幸田成友のもとで、江戸時代の株仲間の研究をしていたのである。
阿部謹也につらなる一橋大学の歴史学を考えるうえで、上原専禄や増田四郎の先生であった、三浦新七博士という歴史学者がいたことを知っておいて損はない。
家業を継ぐために東京高商に入り、ドイツに留学してからは商学から歴史学に転換したうえで、文化史学の大家ランプレヒト教授のもとで助手として10年間過ごし、帰国してからは母校で経済史と文明史を講じただけでなく、大恐慌時代には、当時不良債権をかかえて苦境に陥っていた、実家の両羽銀行(・・現在の山形銀行)頭取を勤めあげ、再建を実現したうえで、昭和恐慌を乗り切った手腕を発揮した経営者でもあった。この後、ふたたび母校に学長として戻り、「文明史」を講じていたという人だ。
生涯にただ一冊しか本をだしていないが(・・しかも著者没後に編集された論文集一冊のみ)、膨大な講義録が現在延々と編纂されており、さすがに「博学時代」の学者はすごいものだと感心する。
生涯の一冊とは、『東西文明史論考-国民性の研究-』(岩波書店、1950)である。この本のなかに収録された、「アダム・スミスの体系なき体系」(1923年)という論文は、ビザンツ史の世界的権威である渡辺金一の授業で読まされた。著作権がきれているのでここで読むことができる。やや時代がかった文体で読みにくいのだが。
余談だが、私の在学当時、前期教養課程の歴史学関連の講義(・・講義名は失念)は、年齢順に渡辺金一・山田欣吾・阿部謹也の三人の持ち回りであったが、この三人の名前がいずれもキンで始まるので、学生たちは「三キン交代」とよんでいたものだった。
話を戻せば、三浦新七は、専門分化した現在の学問には期待しにくい、大きなスケールをもった歴史家であった。学問のための学問ではないのである。三浦新七には、ビジネスという"実学のバックグラウンドとしての歴史学"という姿勢が一貫していたようだ。いや、"実学としての歴史学"といったほうがより正確だろうか。もちろん、ここでいう実学とはハウツーのことではないことは、いうまでもない。
増田四郎はある年次の学部卒業生たちに対して、「虚学の琴線に触れることのできるビジネスマンたれ」というコトバを贈ったと、どこかで読んだ記憶がある。三浦新七とはニュアンスが異なるが、これもまた素晴らしいコトバである。
増田四郎は、一生にわたって「私は素人である」と発言してきたらしい。
この発言は非常に誤解を生みやすいが、狭い専門にとらわれた学問研究の批判といった意味合いもあるのだろう。この点については、阿部謹也もNHKのETV番組「こころの時代-われとして生きる-」のなかで語っている。
阿部謹也はまた、『西欧市民意識の形成』(増田四郎、講談社学術文庫、1995 初版1949)の解説で次のように書いている。
増田四郎の『西欧市民意識の形成』は、マックス・ウェーバーの社会学的な研究を、歴史的に肉付けしようとした研究、という阿部謹也による評価はまことに適切な要約である。
奈良の農村に生まれた増田四郎の問題意識は、日本と比較したとき、なぜ西欧社会のみ市民を中核メンバーとした「都市」と「市民意識」が発生したのか、にあった。これは生涯にわたって一貫している。
阿部謹也のコトバを借りれば、以下のような態度であった(・・『都市』の解説文より)。
増田四郎の「私は素人だ」という発言は、こういうバックグラウンドがあって、はじめてでてきたものなのである。
PS 読みやすくするために改行を増やし、写真を大判にした。 (2014年2月15日 記す)
<関連サイト>
一橋の学問を考える会 [橋問叢書 第十三号] 一橋歴史学の流れ 或いは 一橋の学風とその系譜 3 社会・歴史学 一橋大学名誉教授 増田四郎(昭和五十七年十月七日収録)
・・「(三浦博士が)当時四百余州の経輪を論じ合っていた日清戦争直後の学生の気風をおもしろくお話しになって、そのときには、よく、たとえば根岸先生のような例をひいて四百余州を論じていた学生時代を回顧され、それに続いて、「こうした空気の中に育ったものであるから、学問をするということは全く治国平天下というプラクティカルな目的を出ていない。だから自分は何と言われようとも、学問のための学問などということはその当時も、また今日いまも全然考えていない。歴史を学ぶといっても、それがどこまでも、自分の歴史が実用を離れないのはここに由来するのである。」こういうことを言われるわけです。私にとってはびっくりした経験でありますが、同じ経験をされた方もあるだろうと思います。
・・(中略)・・
「さきに挙げた福田・上田・幸田など話先生、つまり一橋の黄金時代における話先生の御研究には共通している面もあるし、もちろん違った面がありますが、大切なのは共通している面でして、これを俗っぽく申しますと、いわゆる帝国大学文学部史学科では、西洋史、日本史、東洋史、考古学というふうに分かれているわけでありますが、そういうものとは違って、何度も申しますように、社会や経済、商工業、農業、そういうものに重点を置くと同時に、いわば在野的精神といいますか、庶民生活に重点を置くと同時に在野的な精神を持っておられた。したがって三浦先生の一番好きな言葉は ″素人の歴史″だということでした。その素人というのは非常に自由なんで、そう狭いきめられた領域にとらわれないで自分の問題意識を勝手に提起できて、そこで自分で苦労することのできるという領域だから素人がいいんだと。その意味の素人であります。それが一つ、在野精神。これは幸田先生が根底に持っておられた姿勢であったと思います。 もう一つは、西洋の学会を非常に正しく知りながら、問題関心の中心はあくまでも実践的であって、日本社会の学問的位置づけ。その意味で大変高い次元での実学というものの実例を身をもって示されたんじゃないかと思います。」
一橋大学の学問的背景 縦と横の座標軸 (平成19年度一橋大学附属図書館企画展示 「阿部謹也と歴史学の革新」)
三浦新七博士記念館(公益財団法人三浦新七博士記念会 山形市)
(2013年10月19日 追記)
(2014年3月4日、2017年3月18日 情報追加)
<ブログ内関連記事>
書評 『西洋史学の先駆者たち』(土肥恒之、中公叢書、2012)-上原専禄という歴史家を知ってますか? ・・・上原専禄とその師であった文明史家・三浦新七。師弟関係について
書評 『封建制の文明史観-近代化をもたらした歴史の遺産-』(今谷明、PHP新書、2008)-「封建制」があったからこそ日本は近代化した!
・・上原専禄と三浦新七。そして福田徳三。ドイツの文化史学者ランプレヒトも登場
「自分のなかに歴史を読む」(阿部謹也)-「自分発見」のために「自分史」に取り組む意味とは ・・わたしがもっとも推奨したい一冊
書評 『歴史入門』 (フェルナン・ブローデル、金塚貞文訳、中公文庫、2009)-「知の巨人」ブローデルが示した世界の読み方
・・20世紀を代表するフランスの歴史家フェルナン・ブローデル
書評 『渋沢栄一 上下』(鹿島茂、文春文庫、2013 初版単行本 2010)-19世紀フランスというキーワードで "日本資本主義の父" 渋沢栄一を読み解いた評伝
・・日本史家の幸田成友博士が増田四郎商学士の手伝わせたのは渋沢栄一関連資料編集作業成であったことが『大学でいかに学ぶか』に書かれている
書評 『渋沢栄一-日本を創った実業人-』 (東京商工会議所=編、講談社+α文庫、2008)-日本の「近代化」をビジネス面で支えた財界リーダーとしての渋沢栄一と東京商工会議所について知る
・・「商慣習の近代化」を通じて、近代的人間関係の定着を図る、というのが、東京高等商業学校の理念であったが、それを卒業生としての実業人のあいだにも定着させようとしたのが「日本資本主義の父」であり一橋大学(=東京商科大学)の守り神であった渋沢栄一であった。その思いが卒業生組織に渋沢が命名した「如水会」というネーミングに端的にあらわれている。「君子の交わりは淡きこと水の如し」、である」
(2013年6月30日、2015年12月11日 情報追加)
この本をはじめて読んだのは高校二年生で、行き帰りの通学電車の中で読んだ記憶がある。ほぼ10年おきに読み返してこれまで三回通読したが、感想は書評にかいた通りである。
その当時は、書評のなかでも触れているが、いまだソ連崩壊もドイツ統一も実現するなどとは、まったく考えることすらできないような時代だった。
だから、非常に新鮮な印象をもったのである。そしてこういう本を読んでいたおかげで、私はイデオロギーに目をくらまされないで済んだといえる。
私が大学に入った頃は、バブルの前兆のような時代であったと、あとから振り返るとそう思うが、まだまだ「唯物史観」(・・正確にいうと史的唯物論)が、歴史学だけでなく、社会科学の領域ではありとあらゆる分野で幅をきかせていた時代である。
ところで増田四郎という名前は面白い。かの有名な「島原の乱」の天草四郎は実は通称で、本名は益田四郎時貞であった。漢字は違うが、増田四郎という名前を耳できくと、天草四郎を想起するのは私だけだろうか。
とはいえ、自らを天草四郎の生まれ変わりと名乗る美輪明宏の美貌と比べると、増田四郎の風貌は、それとはまったく異なるものだ。奈良の農家出身の、朴訥で、骨太な印象を受ける。直接お会いしたことはないので、肖像写真を見ただけの、単なる印象であるが・・・
ちなみに私は、増田四郎の孫弟子ということになる。もちろん、学問の世界にいるわけではないので、不肖の孫弟子ではあるが。
わずらわしいので敬称はいっさい省略するが、私の大学学部時代の恩師である阿部謹也は、学部時代の指導教官は上原専禄(うえはら・せんろく)であったが、大学院時代は上原専禄が定年を待たずに退官し隠遁生活に入ってしまったので、指導教官が増田四郎となったのであった。
増田四郎は、のちに学長も務めているが、一橋大学として初の文化勲章受章者となった。一橋大学は、歴史学者が歴代の学長を務めるという、面白い大学である。
『大学でいかに学ぶか』(講談社現代新書、1966)でも語っているが、著者は、もともと東京商科大学(現在の一橋大学)の商業教員養成科に入った人である。
東京商科大学の前身である東京高等商業学校(=東京高商)は、そもそも近代的な商売人を養成するための学校であり、かつては、簿記・ソロバン・習字・行商実習等が全学生必修だった、と聞いている。
作家の伊藤整(いとう・せい)も行商実習を体験したらしいが、増田四郎はいまひとつ商売人には適性がないとの自覚があり、商業科の教員になるコースに入学したようだ。
増田四郎については、このほか文庫化された『都市』(ちくま学芸文庫、1994 初版1978)という本があって、阿部謹也が解説を書いている。
この解説を読むと、「商慣習の近代化」を通じて、近代的人間関係の定着を図る、というのが、東京高等商業学校の理念だったことが指摘されている。
増田四郎はもともと、幸田露伴の弟で社会経済史学者で、東西交渉史の専門家であった幸田成友(こうだ・しげとも)博士の下で日本史を勉強していた。幸田博士は東京商大と慶應義塾の教授を兼任していた。
増田四郎が大学を卒業したのは昭和7年(1932年)、商売人には向いておらず、しかも世界大恐慌後のどん底にあったので、就職は断念して研究者の道を進んだ、と『大学でいかに学ぶか』に記している。
わたしの卒業したころのように不景気では、望んでも就職口はないのですから、みんなはそれぞれ勝手なことをしました。(P.60)
「おまえ、どうするんだ。」
「どこへもいくところがないんです。」
先生とわたしたちの会話は、おおむねこんな調子でした。(P.66)
日本近代資本主義のプロモーターであった、渋沢栄一の伝記執筆のための資料整理の仕事に参加させてもらいながら、迷いながらも自らの意志で幸田博士を振り切って、自分が本当にやりたかった西洋史の研究を始めたという経緯がある。
この事情については、『大学でいかに学ぶか』に詳しく書かれているので、ちょっと長くなるが江戸っ子であった幸田博士にまつわるエピソードとからめて引用しておこう。
「先生、せっかくのおことばですが、いろいろ考えたすえ、お断りいたしたいと思います。」
先生は、風呂から上がったばかりのところでしたが、当然引き受けると思っていたのが断りにきたものですから、雷のような声でどなられました。なんといわれたのかわからない。わかったことは、あんなにおこられた覚えは、あとにもさきにもないということです。
わたしにとっては一生の問題ですが、ああおこられては困ったことになった、と思って下宿に帰り、一日じゅうくさってました。ところがその翌日のこと、老先生がステッキをついて下宿をたずねて見えたのです。
「きのうおこったのをよく考えてみたら、おれが悪かった。あやまる。おまえのことを考えずに、自分の仕事のことだけでおまえを抱えこもうとしたことは、誤りだった。」
といって先生は帰られました。幸田先生にはそういう偉さがあり、それに触れえた私は幸運でした。それ以来、わたしの先生に対する尊敬の念は微動もしませんでした。このようにして、わたしのふたまたをかけた卒業後の仕事が始まったのです。(P.66-67)
増田四郎はこの後も、日本史と西欧中世史の二股をかけ、専門論文は後者の西欧中世史で書きながらも、つねに日本人にとってのヨーロッパとは何か、を追求した人であったのだ。
幸田成友の名著『江戸と大阪』(冨山房百科文庫、1995 初版1934年)は東京商科大学(現在の一橋大学)での講義録であるが、初版出版に際して、浄書は商学士増田四郎氏を煩わせたと、「緒言」に記している。増田四郎は、幸田成友のもとで、江戸時代の株仲間の研究をしていたのである。
阿部謹也につらなる一橋大学の歴史学を考えるうえで、上原専禄や増田四郎の先生であった、三浦新七博士という歴史学者がいたことを知っておいて損はない。
家業を継ぐために東京高商に入り、ドイツに留学してからは商学から歴史学に転換したうえで、文化史学の大家ランプレヒト教授のもとで助手として10年間過ごし、帰国してからは母校で経済史と文明史を講じただけでなく、大恐慌時代には、当時不良債権をかかえて苦境に陥っていた、実家の両羽銀行(・・現在の山形銀行)頭取を勤めあげ、再建を実現したうえで、昭和恐慌を乗り切った手腕を発揮した経営者でもあった。この後、ふたたび母校に学長として戻り、「文明史」を講じていたという人だ。
生涯にただ一冊しか本をだしていないが(・・しかも著者没後に編集された論文集一冊のみ)、膨大な講義録が現在延々と編纂されており、さすがに「博学時代」の学者はすごいものだと感心する。
生涯の一冊とは、『東西文明史論考-国民性の研究-』(岩波書店、1950)である。この本のなかに収録された、「アダム・スミスの体系なき体系」(1923年)という論文は、ビザンツ史の世界的権威である渡辺金一の授業で読まされた。著作権がきれているのでここで読むことができる。やや時代がかった文体で読みにくいのだが。
余談だが、私の在学当時、前期教養課程の歴史学関連の講義(・・講義名は失念)は、年齢順に渡辺金一・山田欣吾・阿部謹也の三人の持ち回りであったが、この三人の名前がいずれもキンで始まるので、学生たちは「三キン交代」とよんでいたものだった。
話を戻せば、三浦新七は、専門分化した現在の学問には期待しにくい、大きなスケールをもった歴史家であった。学問のための学問ではないのである。三浦新七には、ビジネスという"実学のバックグラウンドとしての歴史学"という姿勢が一貫していたようだ。いや、"実学としての歴史学"といったほうがより正確だろうか。もちろん、ここでいう実学とはハウツーのことではないことは、いうまでもない。
増田四郎はある年次の学部卒業生たちに対して、「虚学の琴線に触れることのできるビジネスマンたれ」というコトバを贈ったと、どこかで読んだ記憶がある。三浦新七とはニュアンスが異なるが、これもまた素晴らしいコトバである。
増田四郎は、一生にわたって「私は素人である」と発言してきたらしい。
この発言は非常に誤解を生みやすいが、狭い専門にとらわれた学問研究の批判といった意味合いもあるのだろう。この点については、阿部謹也もNHKのETV番組「こころの時代-われとして生きる-」のなかで語っている。
阿部謹也はまた、『西欧市民意識の形成』(増田四郎、講談社学術文庫、1995 初版1949)の解説で次のように書いている。
当時すでに東京商科大学には三浦新七、上原専禄といった錚々(そうそう)たる西洋史研究者を擁してはいたが、彼らも個別研究者としての西洋史研究者として自覚していたわけではない。わが国を近代化し、社会の合理化を果たすにはどうすべきかを考え続けていたのであり、東西両洋の歴史的・構造的研究こそは東京商科大学が自らに課した課題でもあったのである」(P.319)
増田四郎の『西欧市民意識の形成』は、マックス・ウェーバーの社会学的な研究を、歴史的に肉付けしようとした研究、という阿部謹也による評価はまことに適切な要約である。
奈良の農村に生まれた増田四郎の問題意識は、日本と比較したとき、なぜ西欧社会のみ市民を中核メンバーとした「都市」と「市民意識」が発生したのか、にあった。これは生涯にわたって一貫している。
阿部謹也のコトバを借りれば、以下のような態度であった(・・『都市』の解説文より)。
素直な心で歴史を見るという姿勢にある。それは簡単なように見えて至難なことである。自分の心に素直に従い、しかも資料に即し、歴史を見てゆくという態度であった。
自分を素人であると規定するところで日本の社会に対してなんらグループをつくることなく、いわゆる世間に与せず、自分の思うところを研究し、発表することができたのである。したがって著者にとっては都市と市民意識の問題は単なる研究テーマ以上のものであり、自分の存在をかけた問いなのであった(P.227)。
増田四郎の「私は素人だ」という発言は、こういうバックグラウンドがあって、はじめてでてきたものなのである。
PS 読みやすくするために改行を増やし、写真を大判にした。 (2014年2月15日 記す)
<関連サイト>
一橋の学問を考える会 [橋問叢書 第十三号] 一橋歴史学の流れ 或いは 一橋の学風とその系譜 3 社会・歴史学 一橋大学名誉教授 増田四郎(昭和五十七年十月七日収録)
・・「(三浦博士が)当時四百余州の経輪を論じ合っていた日清戦争直後の学生の気風をおもしろくお話しになって、そのときには、よく、たとえば根岸先生のような例をひいて四百余州を論じていた学生時代を回顧され、それに続いて、「こうした空気の中に育ったものであるから、学問をするということは全く治国平天下というプラクティカルな目的を出ていない。だから自分は何と言われようとも、学問のための学問などということはその当時も、また今日いまも全然考えていない。歴史を学ぶといっても、それがどこまでも、自分の歴史が実用を離れないのはここに由来するのである。」こういうことを言われるわけです。私にとってはびっくりした経験でありますが、同じ経験をされた方もあるだろうと思います。
・・(中略)・・
「さきに挙げた福田・上田・幸田など話先生、つまり一橋の黄金時代における話先生の御研究には共通している面もあるし、もちろん違った面がありますが、大切なのは共通している面でして、これを俗っぽく申しますと、いわゆる帝国大学文学部史学科では、西洋史、日本史、東洋史、考古学というふうに分かれているわけでありますが、そういうものとは違って、何度も申しますように、社会や経済、商工業、農業、そういうものに重点を置くと同時に、いわば在野的精神といいますか、庶民生活に重点を置くと同時に在野的な精神を持っておられた。したがって三浦先生の一番好きな言葉は ″素人の歴史″だということでした。その素人というのは非常に自由なんで、そう狭いきめられた領域にとらわれないで自分の問題意識を勝手に提起できて、そこで自分で苦労することのできるという領域だから素人がいいんだと。その意味の素人であります。それが一つ、在野精神。これは幸田先生が根底に持っておられた姿勢であったと思います。 もう一つは、西洋の学会を非常に正しく知りながら、問題関心の中心はあくまでも実践的であって、日本社会の学問的位置づけ。その意味で大変高い次元での実学というものの実例を身をもって示されたんじゃないかと思います。」
一橋大学の学問的背景 縦と横の座標軸 (平成19年度一橋大学附属図書館企画展示 「阿部謹也と歴史学の革新」)
三浦新七博士記念館(公益財団法人三浦新七博士記念会 山形市)
(2013年10月19日 追記)
(2014年3月4日、2017年3月18日 情報追加)
<ブログ内関連記事>
書評 『西洋史学の先駆者たち』(土肥恒之、中公叢書、2012)-上原専禄という歴史家を知ってますか? ・・・上原専禄とその師であった文明史家・三浦新七。師弟関係について
書評 『封建制の文明史観-近代化をもたらした歴史の遺産-』(今谷明、PHP新書、2008)-「封建制」があったからこそ日本は近代化した!
・・上原専禄と三浦新七。そして福田徳三。ドイツの文化史学者ランプレヒトも登場
「自分のなかに歴史を読む」(阿部謹也)-「自分発見」のために「自分史」に取り組む意味とは ・・わたしがもっとも推奨したい一冊
書評 『歴史入門』 (フェルナン・ブローデル、金塚貞文訳、中公文庫、2009)-「知の巨人」ブローデルが示した世界の読み方
・・20世紀を代表するフランスの歴史家フェルナン・ブローデル
書評 『渋沢栄一 上下』(鹿島茂、文春文庫、2013 初版単行本 2010)-19世紀フランスというキーワードで "日本資本主義の父" 渋沢栄一を読み解いた評伝
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・・「商慣習の近代化」を通じて、近代的人間関係の定着を図る、というのが、東京高等商業学校の理念であったが、それを卒業生としての実業人のあいだにも定着させようとしたのが「日本資本主義の父」であり一橋大学(=東京商科大学)の守り神であった渋沢栄一であった。その思いが卒業生組織に渋沢が命名した「如水会」というネーミングに端的にあらわれている。「君子の交わりは淡きこと水の如し」、である」
(2013年6月30日、2015年12月11日 情報追加)
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