「終わりよければすべてよし」。日常会話では、「結果よければすべてよし」とか、あるいはよりスラング的な表現なら「結果オーライ」といった感じだろうか。
All's Well That Ends Well. (Shakespeare)
シェイクスピアのコメディのタイトルである。小田島雄志による日本語訳では『終わりよければすべてよし』となっている。英語の語調もいいが、この日本語の語調もクチに乗せやすく、耳にも心地よい。さすがに芝居の日本語を熟知している翻訳者による名訳である。
■「善ならざる動機が出発点」だった実業家シンドラーのユダヤ人救出
日本でも知名度の高いシンドラー。といっても、事故を起こして問題になったエレベーターのシンドラーではなく、スティーブン・スピルバーグ監督の作品で世界的に有名になった、強制収容所からユダヤ人を「合法的に」救いだした実業家シンドラーのほうである。つづりは同じだが。
ユダヤ系であるスピルバーグ監督の作品『シンドラーのリスト』に描かれたシンドラーは、やや理想化された傾向がなくもなかったが、ETV特集で昨年(2010年)10月24日(日)に放送された『シンドラーとユダヤ人-ホロコーストの時代とその後-』(第332回)で描かれた等身大のシンドラーは、救世主でも聖人でもなんでもない、成功を求めていた実業家(ビジネスマン)に過ぎなかったことが描かれている。たしか、ドイツで制作された番組だっと思う。
実業家としてのシンドラーは、ユダヤ人救出が目的だったのではない。カネ儲けが目的で、自分のビジネスを成立させるための有利な取引として、強制収容所に収容されていたユダヤ人たちを労働力として活用することにしたのだ。だから、初発の動機はけっして「善なるもの」だったわけではない。
製造業の経営者としての判断は間違っていたわけではない。たとえ「動機が善」ではなかったにしても。
しかし、ユダヤ人を労働者として使用しているうちに、自らのなかに義侠心というか、人間としての連帯感というか、そんな感情が芽生えてくる。たんなる使用人ではなく、同じ人間であるという意識が前面にでてくることになる。
これが、結果として、強制収容所からユダヤ人を「合法的に」救った英雄として、後世に祭り上げられることになったわけだ。けっして、ユダヤ人救出を目的に事業をおこしたわけではないのだ。
その後のシンドラーは、戦後アルゼンチンへ渡り事業を起こしたが失敗し、ドイツに帰国しても立ち上げた会社は倒産するなど、成功者とはいえない後半生を送ることになる。しかし、そんなシンドラーだが、恩義を忘れないユダヤ人からは、その死に至るまで熱いもてなしを受け続けたことが番組では紹介されていた。
動機そのものよりも、行為の結果で人は判断するという好例だろう。
アカウンタビリティ(accountability)というコトバが日本語でも使用されるようになってきたが、これは「説明責任」と訳すのはほんとうは適当ではない。「結果責任」と訳すべきだろう。アカウントというコトバが含まれていることが示しているように、基本的に企業業績の数字に対する責任のことである。
経営者だけでなく、政治家も求められるのは、動機の純粋さや善であることよりも、結果そのものである。もちろん、行動面における倫理性の遵守は必要だが、結果が意に反して悲惨なものであったら・・・である。
わたしが思い出すのは、The Road to Hell is paved with Good Intentions. という英語のことわざである。「地獄への道は善意で敷き詰められている」。
不純な動機から始まった企てが善なる結果をもたらすという話は、キリスト教でも仏教でも、宗教の世界では腐るほどある。動機が善であるかがどかが、すべてを決定するわけではない。
「善なる動機」が重要でないというのではない。より重要なのは「善なる結果」のほうなのだ。たとえ「動機が善」であっても、方向を誤ると「不善なる結果」がもたらされることもしばしばある。
極端な話、たとえプロセスに問題があったとしても、「終わりよければすべてよし」ということは、現実世界ではじつに多い。
■「浜岡原発運転停止要請」の件について
先日いきなり日本の首相から発表された「浜岡原発運転停止要請」の件についても、まさにそのとおりであるといってよい。
「浜岡原発運転停止要請」の件については、経団連会長を筆頭にいわゆる有識者たちからは、法律に基づくものでなく、しかも意志決定のプロセスが不明瞭で、政治的パフォーマンスに過ぎないという菅首相批判が批判がなされている。
意志決定に至ったプロセスが不明瞭という点はもっともだし、ビジネスマンとしてはわからなくもない。ただ、TVの映像で見た経団連会長の、あたかも国民を愚弄(ぐろう)したようなゴーマンな態度には、きわめて不快感を感じたのだが。
とはいえ、原発事故がさらに起きたときは、福島第一原発の比ではないといわれる浜岡原発が運転停止になることは、国民としては歓迎したいと正直に思う。
放射能を含んだ風や雨という、「死の灰」をかぶるのはごめん被りたいからだ。まずは、健康に生きていくこと、こちらのほうがカネ儲けよりもはるかにプライオリティ(優先順位)が高い。いくらカネをもらったとしても、放射能を浴びるのはごめん被りたい。
なぜ首相がその決断をくだしたのか、真の動機について現在もよくわからない。
歴史に名を残したいのか? あるいは自分の任期中に浜岡原発で事故が発生したら責任をとるのはイヤだということか? そんな勘ぐりもしたくなるが、たとえそうであったとしても、それはそれでいいではないか!
わたしは菅直人首相には一日も早く辞めてもらいたいと思っているので、「浜岡原発運転停止要請」の決断は評価しても、一国の総理大臣としての適性や能力を評価するものではないし、評価が変わることもない。
だが、国民の立場からみたら、判断を先送りするのをただ黙って見ているわけにはいかないだろう。
今後30年間で約90%弱の確率で必ず発生することが明らかな東海大地震に際して、大津波を防潮堤で防ぎ得たとしても、直下型地震の直撃をくらったら間違いなく原発事故になることがわかっているのだから。
この点についてのみは、首相の決断を評価する。あくまでも、是々非々(ぜぜひひ)である。
東電をはじめとする大手電力会社からの広告収入に大きく依存しているため、モノがいえない日本のテレビ局とは異なり、たとえばアルジャジーラではこんな番組も放送している。「日本の原発政策と日本のマスメディア」(音声英語、日本語字幕あり) マスメディアがなぜか取り上げない浜岡原発については、海外のマスコミをつうじていくらでも、一般人が情報を知ることのできる時代である。
また、今回の「浜岡原発運転停止要請」の件については、「広瀬隆 特別インタビュー 「浜岡原発全面停止」以降の課題」という記事が、「ダイヤモンド・オンライン」に掲載されており、ネット上では読むことができる。
このように、情報は知ろうと思えば知ることのできる時代なのである。
「浜岡原発運転停止要請」の件については、政治的な動機がどこにあるのか、意志決定のプロセスも不明瞭な点があるとはいえ、中部電力の経営陣がすみやかに「要請受け入れ」を行ったことは、ビジネス上の判断にとどまらず、国民としての義務を果たしたものとして、賞賛すべきものだと考えている。
もちろんすべてがそうだとまでは言わないが、 All's Well That Ends Well. (終わりよければすべてよし) 、現実世界ではこの格言めいた表現は大きな意味をもっている。
<関連サイト>
ETV特集で昨年(2010年)10月24日(日)に放送された『シンドラーとユダヤ人-ホロコーストの時代とその後-』(第332回)
映画『シンドラーのリスト』トレーラー(英語)
<ブログ内関連記事>
書評 『指揮官の決断-満州とアッツの将軍 樋口季一郎-』(早坂 隆、文春新書、2010)
・・杉原ビザでシベリア鉄道経由で満洲国に入国したユダヤ人に入国許可を与えたジェネラル・ヒグチ。彼にとっては人生のヒトコマに過ぎなかったが、救出されたユダヤ人たちにとっては
スリーマイル島「原発事故」から 32年のきょう(2011年3月28日)、『原子炉時限爆弾-大地震におびえる日本列島-』(広瀬隆、ダイヤモンド社、2010) を読む
「自然エネルギー財団」設立に際して示した、ソフトバンク孫正義氏の 「使命」、「ビジョン」、「バリュー」・・・
・・姉妹ブログ「佐藤けんいち@ケン・マネジメント代表 公式ブログ」に掲載
フィギュアスケートの羽生選手を金メダルに導いた映画 『ロミオとジュリエット』(1968年版) のテーマ曲
・・シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』
(2014年3月6日 情報追加)
Tweet