八幡の葛飾八幡宮からはじめた「市川文学散歩」、荷風ゆかりの地を散策したあとは、京成電車で市川真間駅まで移動し、そこからふたたび歩き始めることとする。
■真間手児奈(ままのてこな)伝説の市川真間に移動する
小学校5年生のときに千葉県に引っ越して、京成電鉄沿線に住んでいたので「市川真間」という駅名にはなじみがあった。
「市川真間」は、ひらかなで書くと「いちかわ・まま」である。
市川ママ? 市川パパ?・・などという言語連想が思い浮かぶが、子どもならみな似たようなものあろう。ネコ舌に対してイヌ舌とか、ネコばばに対してイヌじじとか(笑)
高校時代に古文の授業で、「真間手児奈」(ままのてこな)伝説というのを聞いた。万葉時代の伝説という。
「手児奈」(てこな)という名の美少女が、多くの男性から言い寄られたのですが、一人を選ぶとその他大勢の男たちを切り捨てなければならないというので悩みに悩み、自分が消えてしまえばいいのだと思いつめて、水に身投げして死んだという悲しい伝説だ。
高橋虫麻呂(・・これもまた不思議な名前だ)などの高名な歌人が詠んだ和歌が『万葉集』に収録されているという話であった。「真間手児奈」の「真間」が、地名として20世紀(・・高校時代はまだ20世紀だった)にも残っている、この事実にたいへん興奮したのはいつまでたっても忘れない。
だが、じっさいに真間手児奈の市川真間駅では下車したことはただの一度もなかった。
いつまでも千葉県に住んでいるかわからないし、「思い立ったら吉日」と出かけようとしてからまたさらに一年、二年。暑い時期や寒い時期はいやだな、なら春と秋しかないかと思っているうちにはや秋も晩秋に近づいている。
というわけで、思い切って「真間手児奈」探訪の散歩にでかけてみることにした。「いまでなければいつ?」という思いからだ。
■もともと海に面していた湿地帯であった
市川真間に行く前に、京成八幡駅のちかくでめずらしい碑をみつけた。
「改耕碑」という名前の碑で、市川市教育委員会による説明書がある、それによれば、真間川にも近いこの一帯はもともと入江で、葦(あし)や菅(すげ)が生い茂る、水はけの悪い湿地帯であったようだ。雨が降り続くとすぐに浸水する低地なのであったのだ。
そうか、この一帯は、もともと海がすぐそこまで迫ってきていた土地だったわけなのだ。一面に広がる葦原(あしはら)。葦原といえば、古事記や日本書紀すら想起する。つい明治時代の終わりまで古代が残っていたというわけなのだ。
真間手児奈が入水したというのも池や川ではなく、海に身を投げたということのようだ。どうも、自分が抱いていたイメージとはやや違うようだ。修正しておかねば。
このことを押さえたうえで、『万葉集』に収録された手児奈関連の歌をみておこう。高橋虫麻呂のほか、山部赤人、そして無名歌人が手児奈について歌っている。
■山辺赤人(やまべ・あかひと)と高橋虫麻呂(たかはし・むしまろ)が歌った真間手児奈
ではまず、山辺赤人(やまべ・あかひと)の歌を引いておこう。
勝鹿(かつしか)の真間娘子(ままをとめ)が墓を過(とほ)れる時、山部宿禰赤人がよめる歌一首、また短歌
0431
古(いにしえ)に ありけむ人の
倭文幡(しつはた)の 帯解き交へて
臥屋(ふせや)建て 妻問(つまどひ)しけむ
勝鹿の 真間の手兒名(てこな)が
奥津城(おくつき)を こことは聞けど
真木の葉や 茂みたるらむ
松が根や 遠く久しき
言のみも 名のみも我は 忘らえなくに
反し歌
0432
我も見つ 人にも告げむ
勝鹿の真間の手兒名が
奥津城ところ
0433
勝鹿の真間の入江に
打ち靡く玉藻苅りけむ
手兒名し思ほゆ
奥津城とは墓のこと。山部赤人がこれらの歌を詠んだ時点で、すでに真間手児奈伝説ができあがっていたことがわかる。彼は、真間手児奈の墓のありかを人にたずねているのである。
万葉集巻十四の東歌(あづまうた)にも、それに触れた作品がある。いずれも読み人知らずである。
3384
葛飾の 真間の手兒名を
まことかも 我に寄すとふ
真間の手兒名を
3385
葛飾の 真間の手兒名が
ありしかば 真間の磯辺(おすひ)に
波もとどろに
さて、高橋虫麻呂だ。長歌と反歌で対になっているのは、山部赤人と同じである。
勝鹿(かづしか)の真間娘子(ままをとめ)を詠める歌一首、また短歌
1807
鶏が鳴く 東の国に
古に ありけることと
今までに 絶えず言ひ来る
勝鹿の 真間の手兒名(てこな)が麻衣(あさきぬ)に 青衿(あをえり)着け
直(ひた)さ麻を 裳には織り着て
髪だにも 掻きは梳らず
履(くつ)をだに はかず歩けど
錦綾(にしきあや)の 中に包(くく)める
斎(いは)ひ子も 妹にしかめや
望月の 足れる面(おも)わに
花のごと 笑みて立てれば
夏虫の 火に入るがごと
水門(みなと)入りに 舟榜ぐごとく
行きかがひ 人の言ふ時
幾許(いくばく)も 生けらじものを
何すとか 身をたな知りて
波の音(と)の 騒く湊の
奥城に 妹が臥(こ)やせる
遠き代に ありけることを
昨日しも 見けむがごとも 思ほゆるかも
反し歌
1808
勝鹿の真間の井
見れば立ち平し
水汲ましけむ
手兒名し思ほゆ
■手児奈ゆかりの地を歩く
さきに引いた山部赤人と高橋虫麻呂、そして無名の歌人が詠んだ東歌にみられる手児奈の奥津城は、手児奈霊堂となっている。
縁結びや安産子育て祈願の場として、現在でも厚く信仰されている。
これは、境内を歩けば一目瞭然だ。投身自殺した手児奈の霊を慰め、そして御利益を願う場となっているのである。いつの時代もかわらぬ一般庶民の切実な願いである。
「勝鹿の真間の井 見れば立ち平し 水汲ましけむ 手兒名し思ほゆ 真間の井」と高橋虫麻呂が詠んだ真間の井は、現在も涸れることなく水を出し続けている。現在は亀井院というお寺のなかにある。
真間(まま)とママ、語呂合わせというわけでもないでしょうが、現代のママさんたちにも人気の霊場であります。ちかくには真間山弘法寺(ままさん・ぐほうじ)というお寺もあります。こんなこともあって、現代の「ママさん」たちにも人気の高い場所となっているわけです。
弘法寺は、真間ぜんたいを見下ろす高台のうえにあり、周囲を一望することができる。すでに国府台の台地となっている。
■上田秋成の『雨月物語』を代表する「浅茅が宿」は市川真間が舞台
真間手児奈を踏まえた物語にとどまらず、日本という空間においては、物語は重層的に積み上げられてゆくものである。
大坂に生まれた国学者で小説家上田秋成もまた、そのうえにひとつの物語を積み重ねた一人である。
古典を読みこなし、古文だけでなく漢文もよく読んでいた秋成の代表作は、『雨月物語』という怪奇小説集であるが、最初から三番目に置かれているのが「浅茅が宿」(あさぢがやど)という一篇。
「浅茅が宿」は『雨月物語』のなかでも、もっとも有名な一篇であるので、知っている人も多いと思うが、金儲けだけでアタマが一杯になった男が美貌の妻を故郷を捨て京に上るが、かなりの年月がたってから妻と故郷のことを思い出し、戻ってきてようやくのことで家を探し出し・・・・という物語である。
その舞台は、市川の真間。真間手児奈伝説を踏まえて創作されたものだ。
主人公が物語で最後に詠んだ歌が、
いにしへの 真間の手児奈を
かくばかり 恋てしあらん 真間のてごなを
このように、真間という地名が喚起するものは、時代を超えて重層的に堆積してゆくのである。
だからこそ、地名は安易に変えるべきではないのである。地名という土地の名前が喚起するもの、これは計り知れないものがあるといっていいからだ。
土地の歴史は地層と同じく、過去のうえに堆積し、さらにそのうえに堆積したものに他ならないのである。
■万葉といえば折口信夫、またの名を歌人・釋超空
国文学者で民俗学者であった折口信夫は、『万葉集』の4,500首がすべてアタマのなかに入っていて暗唱できたという。
その折口信夫には『萬葉集辞典』(大正8年、1919年)という著書がある。折口信夫32歳のときの著作である。【真間】と【真間手児奈】という項目があるので、引用しておこう。
パソコンもない時代に、友人たちの助けを借りたとはいえ、一人で辞典をまるごと一冊執筆してしまうというのだから驚くべきことである。( )内のカタカナは原著に付されていたルビ、ひらかなはわたしがつけた読みである。(出典:『折口信夫全集 第六巻 萬葉集辞典』(中公文庫、1976) P.331 ただし、漢字は新字に直した)。
まゝ【眞間】下総國葛飾郡。此地、昔は海に面してゐた。此地に手児奈(テコナ)と言ふ女があつた(次條を見よ)。又、相模國足柄上郡。所在未詳。
まゝ-の-てこな【眞間ノ手児奈】競婚伝説の中、競争者を特定の人とせずに、多数の男とした点、注意すべきである。下総の国府に近い所にゐた女だけに、東国官人等の注意に上がってゐた為、都迄も伝つたと思はれる。巻十四「足の音せず行かむ馬もが(三三八七)と言うたのは、恐らく其等の都人だらう。鄙処女の美しいのが、時々出て水を汲むと言ふ場合に、衆人の注目する処となつて、求婚者の多いのに堪へず、水に投じたのである。此は恐らく、孤立古塚伝説の一つだつたのであらう。現在では、江戸期式の臭双紙化を受けて、烈女の一人とせられてゐる。
(補)崖の裁り落した処を言ふ地名で、相模國足柄上郡には ○(注:土偏に盡)下と言ふ処がある。巻十四「あしがりのままの小菅(三三六九)のまゝはこれで、岨(ソヒ)などに似た地形を言ふ方言であるのだらう。即、足柄地方にまゝとといはれた大きな崖の、半固有地名であつたものと思はれる。下総國の眞間も、国府台高地の崖の上にあつたからの名であらう。伊豆國田方郡には、○(注:土偏に盡)ノ上をまゝのうへと読む地名のあるのも、やはり崖の上の義で、下野國の間々田・下総國の缺眞間(カケママ)、皆、此種の地形を持つた土地だからであらう。
「てこ」というコトバも一緒に引いておこう。
てこ【手児】嬰児にも、娘にも言ふ。前者はごと濁り、後者はこと清むのが常である。石井の手児などと言ふ。娘をてこと言ふのは、当時から、東語であらう。
てこな【手古奈】てこに親しみのなをつけたのであらう。眞間の手古奈は著名なものである。
真間(まま)というのは、「崖の裁り落した処を言ふ地名」だと折口信夫は書いている。まさに、真間山弘法寺のある国府台は台地であり、その台地を西にむかってしばらく歩いて行くと、国府台城跡という崖にいたるのである。
真間の手児奈が身を投げたのがどこかはわからないが、国府台城跡の崖から飛び降りたと考えるのが自然かもしれない。
■万葉学者・中西進博士の真間の手児奈論
現代を代表する万葉学者の一人である中西進博士に『旅に棲む-高橋虫麻呂論-』(中西進、中公文庫、1993 初版 1985)という著書がある。そのなかに「入水する女」という章があり、真間手児奈について・・されている。入水と書いて、じゅすいと読むか、にゅうすいと読むかは、読者次第であろう。
中西氏の緒論を簡単に要約すれば、手児奈とは、国府近くの作業場で働いていた縫製に従事する女性集団の総称と考えるのが自然なようだ。
高橋虫麻呂自身も、上総から下総にかけての東国の土着の出身ではなかったか、と。官位の低い挫折した貧しい官吏であったがゆえに、夢想する歌人であったと。
「入水する女」というと、森鴎外の『山椒大夫』に登場する安寿と厨子王のうち姉にあたる安寿を思い浮かべる人も少なくないだろう。万葉にも兎原処女(うはらのおとめ、うないおとめ)など数多く、源氏物語にもつながるテーマ「入水する女」。
入水する女はまた、折口信夫のテーマである「水の女」でもある。シェイクスピアのハムレットに登場するオフィーリアもまた「水の女」である。
■郭沫若なる「政治的文学者」の記念館
ついでなので郭沫若記念館まで足を伸ばす。郭沫若(かく・まつじゃく 1892~1978)とは中華人民共和国で毛澤東のもと副総理までつとめた要人だが、日本で20年間過ぎしていた、いわゆる「知日派」とされる人物である。
郭沫若は、市川に居住していたのであった。
むかし、『創造十年・続創造十年』という半自叙伝と岩波文庫で読んだことがあるので、郭沫若については知っているが、正直いって好きな人物ではない。
文化大革命を生き延びて、周恩来や毛澤東よりも2年長生きをして天寿を全うした人物といえば、何をいいたいかがわかるだろう。もちろん、中国においては文学も政治である以上、みずからのサバイバルのために、郭沫若が政治的人物を貫いたことが悪いというつもりはない。
しかし、日本女性と結婚し子どももいながら、妻子を捨てて中国の革命運動に身を投じたのいうことが、はたして美談であるかどうか。しかも、中国に渡ってすぐに中国女性と結婚し、子どもをもうけている節操のなさをどう評価するのか。
当時は日中間で法的拘束力があったかどうかは知らないが、あきらかに重婚である。郭沫若に対してわたしが快く思っていない理由が、わかっていただけるであろう。「日中友好」という美名に隠してはならない事実である。これは強調しなくてはならない。
ただし、記念館じたいは大正時代の日本家屋をよく再現しており、訪れる価値はある。それと郭沫若の評価とは別物であるとは、はっきり書いておく。しかも入場無料である。
さて、やや後味のあまりよくない郭沫若記念館を足早に去ったあと、ひたすら西に向けて国府台に向けて歩き続けることとする。
市川文学散歩 ③-国府台(こううのだい)城跡から江戸川の対岸を見る につづく
<関連サイト>
伝説のヒロイン“真間の手児奈”(千葉県市川市 文化・観光・国際情報)
・・リンク多数。文芸作品もたくさん製作されてきたことがわかる
手児奈霊神堂(公式ウェブサイト)
<ブログ内関連記事>
市川文学散歩 ①-葛飾八幡宮と千本いちょう、そして晩年の永井荷風
市川文学散歩 ②-真間手児奈(ままのてこな)ゆかりのを歩く
市川文学散歩 ③-国府台(こうのだい)城跡から江戸川の対岸を見る
書評 『アースダイバー』(中沢新一、講談社、2005)-東京という土地の歴史を縄文時代からの堆積として重層的に読み解く試み
・・「第2章 湿った土地と乾いた土地 新宿~四谷」が参考になる
地層は土地の歴史を「見える化」する-現在はつねに直近の過去の上にある
「理科のリテラシー」はサバイバルツール-まずは高校の「地学」からはじめよう!
書評 『土の科学-いのちを育むパワーの秘密-』(久馬一剛、PHPサイエンス・ワールド新書、2010)
(2023年11月25日発売の拙著です 画像をクリック!)
(2022年12月23日発売の拙著です 画像をクリック!)
(2022年6月24日発売の拙著です 画像をクリック!)
(2021年11月19日発売の拙著です 画像をクリック!)
(2021年10月22日発売の拙著です 画像をクリック!)
(2020年12月18日発売の拙著です 画像をクリック!)
(2012年7月3日発売の拙著です 画像をクリック!)
end