2013年9月8日日曜日

『ある明治人の記録 ー 会津人柴五郎の遺書』(石光真人編著、中公新書、1971)は「敗者」の側からの血涙の記録。この本を読まずして明治維新を語るなかれ!

(『北京籠城』時代の柴五郎陸軍中佐)

柴五郎(1860~1945)は、会津藩出身だが陸軍大将までのぼりつめた人である。だが、けっして驕り高ぶることのない謙虚な人柄で、つねに理知的で冷静沈着な言動に徹した人であった。

柴五郎が世界中に名をはせたのは中佐時代の42歳、1900年の「義和団事件」の際であった。

義和団事件は北清事変ともいうが、清朝末期に北京で勃発した大規模な事件で義和団という排外的な民衆運動を利用して清朝が「西洋列強」に対して宣戦布告したことではじまった。

柴五郎は、公使館付武官として北京の日本公使館に駐在していたが、英国・米国・ロシア・フランス・ドイツ・オーストリア=ハンガリー・イタリアと日本の8カ国のなかでは最先任士官であったこともあり、実質的な連合軍総指揮官として2カ月に及んだ「北京籠城戦」を戦いぬいたのである。

陸軍士官学校3期生という日本陸軍の草創期の士官であった柴五郎はフランス語に堪能で、このほか英語や中国語にも精通していたために列強各国との意思疎通に大きな貢献を果たしたことも大きかったようだ。このため、北京籠城戦の終了後に世界中から絶賛されたのである。『北京の55日』というハリウッド映画があるが、これは北京籠城戦をテーマにしたものだ。

そんな柴五郎がひそかに書き遺した「手記」が、本書『ある明治人の記録 ー 会津人柴五郎の遺書』(石光真人編著、中公新書、1971)の第一部である「柴五郎の遺書」である。

公表を目的としたものではない。会津戦争で非業の死を遂げ、生き残っても塗炭の苦しみを味わうことになった親族、そして会津藩士たちを弔うため、80歳を過ぎてから執筆し、死を前に菩提寺に納め門外不出としたものである。だから「遺書」と編者は名付けたのである。

その編者とは、日本国民の必読書である 『石光真清の手記 四部作』(中公文庫)を編集して出版した石光真人氏である。

石光真清の子息である石光真人氏は、柴五郎と石光真清が親友であったことから、その「遺書」の存在を知り、筆写させてもらい、内容について補足説明を生前の柴五郎から聞き取ったうえで文章を整理、柴五郎の死後36年目にして中公新書として出版したのであった。

だから、『会津人柴五郎の遺書』は、『石光真清の手記 四部作』とともに読むべき本なのである。この二つの手記を誰もが読める形として整理し、出版していただいたことを、後世に生きる日本人は石光真人氏に感謝しなくてはならない。

さて、『会津人柴五郎の遺書』だが、編者による整理のおかげで読みやすくなっているとはいえ、全文が文語体であり、現代人にはややなじみにくいかもしれない。だが、流れるようなリズミカルな文章である。冒頭の文章からすこし引用しておこう。

いくたびか筆とれども、胸塞がりて涙さきだちて綴るにたえず、むなしく年を過して齢(よわい)すでに八十路(やそじ)を越えたり。・・(中略)・・
 
過ぎてはや久しきことなるかな、七十有余年の昔なり。郷土会津にありて余が十歳のおり、幕府すでに大政奉還を奏上し、藩公また京都守護職を辞して、会津城下に謹慎せらる。新しき時代の静かに開かるるよと教えられしに、いかなることのありしか、子供心にわからぬまま、朝敵よ賊軍よと汚名を着せられ、会津藩民言語に絶する狼藉を被りたること、脳裏に刻まれて消えず。・・(中略)・・
  
落城後、俘虜となり、下北半島の火山灰地に移封されてのちは、着のみ着のまま、日々の糧にも窮し、伏するに褥(しとね)なく、耕すに鍬(くわ)なく、まことに乞食にも劣る有様にて、草の根を噛み、氷点下二十度の寒風に蓆(むしろ)を張りて生きながらえし辛酸の年月、いつしか歴史の流れに消え失せて、いまは知る人もまれとなれり。

悲運なりし地下の祖母、父母、姉妹の霊前に伏して思慕の情やるかたなく、この一文を献ずるは血を吐く思いなり。


まさに血涙の記録である。80歳を過ぎてから70年前を回想した文章であるが、この遺書を涙なくして読める者がいたとしたら、それは日本人ではない。

この「遺書」は、会津戦争当時10歳であった少年が突然の運命の変転にもてあそばれ、その後15歳で陸軍幼年学校に合格して苦難を脱するまでの日々をつづった手記である。

その内容は、さきに引用した冒頭の一文にあるとおりだが、「悲運なりし地下の祖母、父母、姉妹の霊前に伏して・・」と書いているのは、武家の一家のなかで男子であった柴五郎少年を言葉巧みに脱出させたあと、祖母・母・姉と妹の5人が自害し果てたことを指しているのである。

柴五郎の家もまた、家老の西郷頼母一家もそうであったように、武家の女性は「生きて虜囚の辱めを受けず」として自死を選んだのである。だからこそ余計に「血を吐く思い」以外のなにものも感じることができないのであろう。

この本が中公新書として出版された1971年は、「明治維新百年」が祝われた1968年(昭和43年)に3年後にあたる。明治維新政府の公的な歴史から抹殺されつづけてきた、会津藩というオルタナティブ・ヒストリー(=もう一つの異なる歴史)に一条の光をあてる内容として世に出たのだということを知っておきたい。

1971年に出版されてからすでに42年以上も読まれてきた本書だが、1970年代、1980年代、1990年代、2000年代、2010年代ではおのずから読者の受け止め方も異なってきたことであろう。

ことし2013年には、NHK大河ドラマ『八重の桜』によって、ようやく会津の歴史が全面的に取り上げられ、旧会津藩士たちのその後の苦闘にも光があてられることになった。

ドラマのなかには柴五郎はでてこないが、ぜひこの機会に『ある明治人の記録-会津人柴五郎の遺書』に目を通していただきたい。山川大蔵や佐川官兵衛といった会津藩士たちも実名で登場する。

原文のリズミカルで流れるような文体をそのまま味わいたいものだが、現代語訳してひろく若い人たちにも読んでもらうといいのではないかと思う。どんな劣悪な状況にあっても誇りを失わず、生き抜いていく少年の物語だからだ。文庫化される際にはぜひそうお願いしたい。

読めばその苦しみを著者とともに追体験することになるが、逆説的にだが、読めばかならずや元気と勇気をもらえる「遺書」である。


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目 次

本書の由来

第一部 柴五郎の遺書

血涙の辞
故郷の山河
悲劇の発端
憤激の城下
散華の布陣
狂炎の海
絶望の雨夜
幕政最後の日
殉難の一族郎党
不慮収容所へ
学僕・下男・馬丁
地獄への道
餓死との戦い
荒野の曙光
海外か東京か
新旧混在の東京
わが生涯最良の日
国軍草創の時代
会津雪辱の日
維新の動揺終る

第二部 柴五郎翁とその時代(石光真人)

遺書との出会い
流涕の回顧
翁の中国観
会津人の気質
痛恨の永眠
柴五郎氏略歴

編者プロフィール

石光真人(いしみつ・まひと)
明治37年(1904年)東京で生まれる。昭和5年(1930年)早稲田大学文学部哲学科卒業。同7年、東京日日新聞(毎日新聞)編集局勤務。昭和17年以降、日本新聞会、同連盟、同協会本部を経て、1963年より日本ABC協会専務理事。1975年8月逝去。編著書 『石光真清の手記』(中央公論社)奥付記載情報による)。


■「北京籠城」の55日(付記)

『北京籠城』(平凡社東洋文庫、1965)には、「北京の55日」のドキュメントが柴五郎自身による講演録として収録されている。

激しい銃撃戦がつづいた籠城戦の様子が、臨場感あふれる当事者ならでは語りでディテールにいたるまで語られている。とくに鉄砲や大砲につういての記述がじつに細かい。

機会があればぜひこの文章も読んでいただきたいと思う。口語体なので読みやすい。




陸軍と砲術とフランス語(付記)

柴五郎(1860~1945)は陸軍士官学校3期生だが、同期には日本騎兵隊の父・秋山好古(1859~1930)がいる。

ともにフランス語畑であったのは、陸軍草創期においてはドイツ式ではなくフランス式の教育がフランス語で行われていたためである。

柴五郎は陸軍では砲兵科を選択した。同時代のフランスでおこった「ドレフュス事件」(1894年)は、ユダヤ系の砲兵大尉アルフレッド・ドレフュス(1859~1835)が反逆罪で逮捕された冤罪事件である。

ドレフュスと柴五郎とは直接の関係はないが、一歳違いでフランス式の砲兵教育を受けた存在である点に、まったくの偶然の一致であるが、不思議な縁を感じる。砲兵科は数理系な術科であり、理知的な性格がそれによって培われるといっていいのだろうか。

ちなみに秋山好古が旧藩主のお供としてフランスで騎兵術を学んでいたのは1887年から1891年にかけてなので、ドレフュス事件の発生前のことになる。

明治維新後は京都府顧問として京都復興に尽力した会津藩出身の山本覚馬(1828~1892)は砲術師範の家に生まれた人だが、近代式の砲術をオランダ語をつうじて学んだ蘭学者でもある。

日本近代化と砲術の関係について考えてみるのも面白い。

『歴史のなかの鉄炮伝来-種子島から戊辰戦争まで-』(国立歴史民俗学博物館、2006)は、鉄砲伝来以降の歴史を知るうえでじつに貴重なレファレンス資料集である


PS 柴五郎について書こうと思ってからだいぶたつ。これでやっと肩の荷が少しおりたという気持ちでいっぱいだ。



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(2016年6月19日 情報追加)


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