『正統と異端 ー ヨーロッパ精神の底流』(堀米庸三、中公文庫、2013 初版 1964)は、いまから30年以上前の高校時代に中公新書版で読んで大きな影響を受けた本。この名著が文庫版として復刊されたのはまことにもって喜ばしいことだ。
名著の復刊が実現したのは、ことし2013年は、600年ぶりのローマ教皇の退位と新教皇選出という出来事があったからためだろうか。バチカン関連の本としても読むべき一冊といえよう。
「正統と異端」というタイトルは宗教学のように聞こえるかもしれない。だが本書は基本的に歴史学の立場から書かれたものだ。題材は著者の専門である西洋中世史、12世紀に活発化した「宗教運動」と、その動きに対するローマ教皇庁の政治的対応をときの教皇インノケンティウス3世(=イノセント3世)を中心に取り上げ記述したもの。
「正統」とは中央集権組織として西欧世界に君臨していたキリスト教。「異端」とはキリスト教の枠組みのなかでキリストに帰れという、ある種の原理主義的性格を帯びた運動のことである。清貧を説いたアッシジのフランチェスコがその代表であった。
みずからを「正統」とみなす立場の主流派が、それに異なる見解を言動によってチャレンジされたとみなしたときの対応は二つに一つしかない。
「異端」として拒絶し排斥するか、あるいは「正統」を補強するものとみなして抱き込むか、である。これは組織防衛のために不可欠の政治的判断であり行動である。
あるいは免疫系のアナロジーで語ることも可能かもしれない。「異物」に対する免疫反応は拒絶して排除するか、内部に取り込んで自分と一体化してしてしまうか、である。生体を維持するためには二つに一つしか選択肢はない。折衷的な対応はありえないのだ。生き物としての組織もまた同じである。
この「排斥」(=拒絶)と「抱き込み」という政治的選択の原理の原型を、西欧12世紀のキリスト教世界に見ることができるのである。キリストの原点に戻ることを主張したフランシスコ会とドメニコ会がローマ教皇庁によって「正統」のお墨付きを得て托鉢修道会として取り込まれたのたのは「抱き込み」。これに対して4世紀後の16世紀、ルターの段階ではついに徹底的に排除され、同時に「異端審問」の嵐が吹き荒れることになる。
ここで老婆心ながら注意しておきたいのは、日本語ではおなじ「せいとう」であるが「正統」(orthodoxy)は「正当」(legitimacy)とは違うということだ。「正統」はかならずしも「正当」である必要ではない。デファクトで主流になった状態が「正統」なのである。「正統」は「異端」とは相対的な関係にあるので、力関係によってはそれが逆転することもある。
「第2章 正統と異端の理論的問題」につぎのような文章があるので確認しておこう。
異端はどこまでも正統に対する異端であって、異教ではない。・・(中略)・・正統と異端はあくまでも根本を共通にする同一範疇(はんちゅう)・同一範囲に属する事物相互の対立なのである。
・・(中略)・・
政治の領域において、正統と異端の対立は最も明瞭であるとはいいながら、社会主義国家内における正統と異端の問題も、正統と異端とが、政治的現実に従って、つねに相関的にその内容を変えているので、何が正統であり、何が痛んであるかを一義的・不変的にきめることはむずかしい。
・・(中略)・・
あらゆる正統と異端の問題の出発点には、預言者ないし始祖の言葉=啓示が、正統の根本的テーゼとして必要である。・・(後略)・・
初版が出版された1964年は、冷戦構造の真っただ中であったことにも注意しておきたい。
私がこの本を読んだのは、いまでも所有している新書版の書き込みによれば1979年であるが、その年はソ連崩壊の第一歩となったアフガン侵攻が行われた年であった。
この本を読みながら、ソ連を中心とした共産主義国における共産党が、なぜ反対派を汚名を着せて除名したり、粛清したりするのか理解するための必読書だなと、つよく思ったことを覚えている。その意味で、小室直樹の『ソビエト帝国の崩壊』とともに高校時代に大きな影響を受けた一冊なのである。
このように本書は、政治現象の理解はもちろんのこと、それ以外の組織などにおける政治現象の理解にも資するところが大きい。冷戦崩壊後の現在でも、共産党以外でも、合併と分裂を繰り返す政党の動きをみるうえで大いに参考になるはずだ。
「世界最古の組織であるカトリック教会」で使用された用語は軍隊用語に引き継がれ、さらには経営用語にも引き継がれている。ミッション(mission =伝道、使命)、ドグマ(dogma =教義)やプロパガンダ(propaganda =福音宣教)、インドクトリネーション(indoctorination=教化)など枚挙に暇がない。この原型は、以後ヨーロッパ人の精神的形成に大きな影響を与えることになる。
その意味でも、現代に生きる日本人にとっても本書で取り上げられた問題設定はけっして無縁ではないし、古びてもいないのである。西洋中世史に関心がない人もぜひ読むことをすすめたい現代の古典である。
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目 次
まえがき
Ⅰ 問題への出発
第1章 ローマ法王権の負い目
第2章 正統と異端の理論的問題
第3章 キリスト教的正統論争の争点―秘蹟論
Ⅱ 論争
第4章 グレゴリウス改革と秘蹟論争
第5章 グレゴリウス改革と秘蹟論争(続)
Ⅲ 問題への回帰
第6章 グレゴリウス改革と十二世紀の宗教運動
イノセント三世と宗教運動
史料と参考文献
年表
文庫版解説(樺山紘一)
著者プロフィール
堀米庸三(ほりごめ・ようぞう)1913年2月、山形県に生まれる。東京帝国大学西洋史学科卒業。北海道大学文学部教授等を経て、56年から東京大学文学部教授。73年退官、東京大学名誉教授。75年12月死去(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。
<関連サイト>
St Francis Before the Pope
・・映画 『ブラザーサン シスタームーン』(1972年、フランコ・ゼッフェレッリ監督)のラストに近いシーンで、アッシジのフランチェスコがバチカンでインノケンティウス3世に謁見し「抱き込まれる」シーンに注目! その宗教政治的意味が見事に映像化されている。
(『ブラザーサン シスタームーン』のシーンから)
<ブログ内関連記事>
■西洋中世史
書評 『西洋史学の先駆者たち』(土肥恒之、中公叢書、2012)-上原専禄という歴史家を知ってますか?
・・「『正統と異端』という名著の著者で、東大の西欧中世史をリードした堀米庸三が、若き日に衝撃を受けたという上原専禄の仕事は、歴史家としては当たり前の「あくまでも原史料に基づいて研究する」という態度を西洋史研究において貫いたことにある」
東大西洋中世史をリードしたのが堀米庸三。ちなみに歌手の加藤登紀子氏は東大文学部西洋史学科で堀米庸三氏のもとで学んでいる。一橋大学の歴史学は西洋中世史であっても異なるバウグラウンドがある。
書評 『ヨーロッパとは何か』(増田四郎、岩波新書、1967)-日本人にとって「ヨーロッパとは何か」を根本的に探求した古典的名著
・・付録の「実学としての歴史学」で上原専禄についても触れている。上原専禄の師匠であった歴史家で銀行頭取でもあった三浦新七はドイツ留学時代にランプレヒトの助手をつとめていた。その三浦新七がウィーンでドープシュに師事するよう命じたという。
書評 『封建制の文明史観-近代化をもたらした歴史の遺産-』(今谷明、PHP新書、2008)-「封建制」があったからこそ日本は近代化した!
・・「レジスタンスの戦士ととして斃れた悲劇の歴史家マルク・ブロックも、古典的名著『封建社会』(堀米庸三監訳、岩波書店、1995 原著は 1939)で・・」
■カトリックの「異端」とローマ教皇庁
書評 『神父と頭蓋骨-北京原人を発見した「異端者」と進化論の発展-』(アミール・アクゼル、林 大訳、早川書房、2010)-科学と信仰の両立をを生涯かけて追求した、科学者でかつイエズス会士の生涯
・・フランス人司祭でイエズス会士のピエール・テイヤール・ド・シャルダンは「進化論」の主張により「異端」とされ、その著作は「禁書」扱いとなった
アッシジのフランチェスコ 総目次 (1)~(5)
・・「正統」のなかに抱き込まれたフランチェスコ
書評 『バチカン近現代史-ローマ教皇たちの「近代」との格闘-』(松本佐保、中公新書、2013)-「近代」がすでに終わっている現在、あらためてバチカン生き残りの意味を考える
■共産主義と共産党へのアナロジー
『ソビエト帝国の崩壊』の登場から30年、1991年のソ連崩壊から20年目の本日、この場を借りて今年逝去された小室直樹氏の死をあらためて悼む
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