2014年3月16日日曜日

書評『近代日本の右翼思想』(片山杜秀、講談社選書メチエ、2007)-「変革思想」としての「右翼思想」の変容とその終焉のストーリー



『近代日本の右翼思想』というタイトル。このシンプルだが重いタイトルは、それを見た人を驚かし、あるいはひるませるものがあるのではなかろうか? いや忌避感を呼び覚ますというべきかもしれない。

そもそも「右翼」に思想などあるのか? 「思想」に値するような思想が右翼にあったのか? 戦後の「右翼」には「知的」という連想がまったくむすびつかないではないか?

「知性」よりも「行動」、「知性」よりも「心情」。そしてその心情は「近代」というよりも「前近代」的ではないかという理解。これが、たとえ好意的であったとしても一般的な理解ではないだろうか。

「革命」、「教養主義」、「時間」、「身体」、「超-国家主義」と「超国家-主義」、万世一系と「永遠の今」、「玉」・「恋闕」(れんけつ)・「崇拝」、「動と静の逆ユートピア」、「大正教養主義」、「錦旗革命論」、「中今」(なかいま)、「俗流西田主義」、「現人神」(あらひとがみ)・・・。

本書にでてくるキーワードをピックアップしてみた。はたしてこれらのキーワードでどのように「思想」が語られるのだろうか?


そもそも「右翼」に思想などあるのか?

「左翼」全盛時代の「戦後日本」においては、「右翼」は「反動」と同一視されてきた。こういった事情が、「右翼」には思想がないという評価の一因になっていることもあろう。

「右翼」を「反動」とみなす考えは現在でも払拭されているとは言い難い。これは「左翼」の側からみた「右翼」の蔑視と断罪であり、「上から目線」による批判のための批判でもある。

だが、「保守」と「右翼」は、じつはまったくの別物だ。「保守」と「反動」もまた別物だ。さらにいえば「右翼」と「ファシズム」も別物だ。

「右翼」は「左翼」と対(つい)になる政治的概念である。右翼は変革思想である点において左翼と共通しているのである。

違いはどこに軸を置くかにある。「戦前」に主流であったの右翼思想においては、「理想」をすでに消え去った「過去」を美化することに求めるものであった。「戦後」に主流であった左翼思想においては、「理想」をまだ見ぬ「未来」を美化することに求めるものであった。

「革新」といえば「左翼」を意味したのは「戦後」の話であって、「戦前」においては「革新」は「右翼」を意味した。日本近現代史に精通している人にとっては常識だろうが、「革新官僚」や「革新将校」といった存在が幅を利かせたのが1930年代の日本であったのだ。

戦前の右翼の「国家改造」とは「変革思想」そのものである。だが、「変革思想」だけが「右翼思想」なのではない。


「右翼思想」を「内在的右翼批判者」の立場で考える

著者は、「内在的右翼批判者」という表現で、先行世代を2つに分類している(P.72)。

「内在的右翼批判者」とは、超越的な「上から目線」からする批判のための批判ではなく、思想家によりそいながら思想の内側から内在的に理解したうえで批判すべきものは批判するという、健全な姿勢をもった思想研究者のことである。

「戦後」に素直になじめなかったのが「はぐれ者第一世代」。この世代の代表は戦中派の政治学者・橋川文三(1922~1983)である。日本浪漫派の研究でよく知られている。都知事を辞職したジャーナリストの猪瀬直樹氏は法政大学の大学院で橋川氏のもとで勉強していた。

戦前の超国家主義運動の思想と行軌の中に、問題解決の一つの方向を模索した「はぐれ者第二世代」。この代表は1946年生まれの団塊世代の松本健一氏である。松本氏は、仙谷由人元内閣官房長官の大学時代の友人であり、民主党政権において内閣官房参与(東アジア問題担当、2010年10月から1年間)を歴任している。

このほか、竹内好や渡辺京二もまた、著者によって「内在的右翼批判者」として位置づけられている。左翼でも右翼でもなく、近代とナショナリズムという思想に真正面から取り組んできた思想研究者であり思想家である。

わたしとまったく同じ世代で1963年生まれの著者は、「はぐれ者第三世代」(?)となるのだろうか。同じような関心でものを見ている人が同世代にいると知るのは、じつによろこばしい。「右翼」についても、批判のための批判ではない、内在的で知的なアプローチが必要だからだ。

こんなことを思って本書を購入してからすでに7年、このたびようやく読んでみることにしたのは、著者による 『未完のファシズム-「持たざる国」日本の運命-』(新潮選書、2012) 『国の死に方』(片山杜秀、新潮新書、2012) があまりにも面白かったからだ。まずは原点となる本書をよまずに、著者の思想を知ることはできないと思ったからでもある。

最初はとっつきにくいかなと思ったが、読みだすとこれがまたじつに面白い。

古いものでは1985年(・・いまだソ連が崩壊していなかった時代だ!)に執筆された論文も含まれているが、一冊の本としてよく構成され、ストーリー展開に淀みがないのはじつに見事であるとしかいいようがない。

「近代の右翼思想」というタイトルは、あくまでも「歴史事象」を指しているのであり、現代という時代を解剖するものではない。また、右翼思想の復権という意味でもない。「内在的右翼批判者」の立場で分析した「右翼思想」である。



日露戦争後の「喪失感」が右翼思想を「病的」にした

本書が扱っている「近代日本」は、日露戦争後から敗戦までに限定されている。

したがって、戦後日本の「右翼」から連想される靖國神社や三島由紀夫、日露戦争以前の西郷隆盛や頭山満、内田良平などの「伝統右翼」はいっさい論じられない。その意味では、『近代日本の右翼思想』というタイトルだが教科書的な記述ではないので、あらかじめ注意しておく必要がある。

日露戦争後の時代を、著者は以下のように説明している。

精神的な根無し草となった近代人らしい近代人が大挙して生まれ、日本の近代は精神史的に本当に近代らしくなってくる。・・(中略)・・ 日露戦争という大きな切れ目のあとにこそ、失われた過去も強く意識されるようになる。それまでの明治の右翼は、頭山満や内田良平のように、前近代の伝統とのつながりを自明とする、自信たっぷりな、大人風の右翼だった。それが日露戦争後には、何だかはっきりとは分からないけれども、とにかく頼れる過去が自分から消えてしまったという喪失感に苛(さいな)まれ、何をなくしたのかじつはよく認識できないのだが、それでも取り戻してみたい何かがあると叫びたくなる、言わば近代的で、橋川文三好みの表現を使えば、どこか「病的」なところのある右翼に入れ替わっていった。(P.14)(*太字ゴチックは引用者=さとう)

「精神的な根無し草となった近代人らしい近代人が大挙して生まれ」たことによって、「日本の伝統というものが、倫理道徳から細かな生活習慣にいたるまで急速に蒸散してしま」った時代。

日露戦争後の日本とは、司馬遼太郎の『坂の上の雲』につづく時代である。「何だかはっきりとは分からないけれども、とにかく頼れる過去が自分から消えてしまったという喪失感」とは、達成感のあとの虚脱感と言い換えてもいいかもしれない。

なんだかいまの日本人の気分でもあるような気もする。いや、時代はすでにその先に進んでいるというべきか。


近代日本における「右翼」と「躓きの石」としての天皇

日本という文脈に限定すれば、右翼と左翼の違いは天皇をどう見るかにある。この違いはきわめて大きい。

戦後の天皇は「象徴」となったが、戦前は「現人神」(あらひとがみ)とされていた。連綿としてつづく天皇制という制度は抽象的な存在だが(・・「天皇制」というコトバは「左翼用語」である)、天皇が生身の肉体と意志を備えた人間でもあること。

帯には、「躓きの石としての天皇 超克されざる「近代」-近代日本のパラドクス」、とある。まさに、天皇が現人神であるというそのことが、戦前の右翼思想を躓かせることになったのである。

その意味でも、戦前の「変革運動」の歴史は1937年(昭和12年)には終わっていたという著者の認識は重要だ。

1932年(昭和8年)に「変革の思想と運動体」としての「左翼」は壊滅、1936年(昭和11年)には二・二六事件のクーデター失敗で「変革思想と運動体」としての「右翼」も壊滅。天皇のために行ったはずの企てが、立憲君主としての天皇によって否定されるというパラドックス。

左翼思想も右翼思想も壊滅したあとに出現したのは、ほとんど思考停止状態といっても言い過ぎとは思えない無思想への転落。思想は思想であることをやめ、実質的に思想は死んだのである。

1931年から始まった日中戦争(・・いわゆる支那「事変」)は、以後ずるずると人命と国家予算を浪費しながら大東亜戦争へと突入し、最終的に国家じたいが壊滅することになる。


日露戦争後の「右翼思想」の流れと「右翼思想の死」

本書は、章立てとタイトルがあまりにもウマすぎる。最初から最後まで一貫した流れを読み取ることができるような巧みなストーリテリングである。

第1章 右翼と革命-世の中を変えようとする、だがうまくゆかない
第2章 右翼と教養主義-どうせうまく変えられないならば、自分で変えようとは思わないようにする
第3章 右翼と時間-変えることを諦めれば、現在のあるがままを受け入れたくなってくる
第4章 右翼と身体-すべてを受け入れて頭で考えることがなくなれば、からだだけが残る

「革命」「教養主義」「時間」「身体」というキーワード。最後の「身体」を除けば、一般には「右翼」からは連想されないものである。

各章の副題をそのままつづけて書いてみると、日露戦争後から大東亜戦争の敗戦までの右翼思想の流れがストーリーとなっているので面白い。

世の中を変えようとする、だがうまくゆかない。どうせうまく変えられないならば、自分で変えようとは思わないようにする。変えることを諦めれば、現在のあるがままを受け入れたくなってくる。すべてを受け入れて頭で考えることがなくなれば、からだだけが残る。

変革思想とその挫折、諦念と無力感。そして最終的に行きつくところは現状肯定という無思想。この流れは、戦前の右翼思想だけではなく、戦後の左翼思想にもあてはまると思うのだがいかがだろうか。

1980年代後半のバブル経済のなか、「左翼」が高度資本主義を肯定するにいたって消滅していったことを記憶している人も少なくないだろう。1991年のソ連崩壊によって「左翼」は最終的にとどめをさされたが、「反共」を旗印にしていた「右翼」もまた、同時に存在意義を失ってしまった。

「左翼」陣営では、共産主義という「赤」から、身体とエコロジーという「緑」に転化していったのは日本だけではない。

「スローフード」というイタリアの左翼から生まれて日本にも普及している思想があるが、グローバル資本主義がもたらす「ファストフード」に対抗するこの思想は、「過去を理想化」する点において、むしろ右翼的ですらある。右も左も混戦して違いが明確ではなくなってしまったのだ。


「ユートピア」がことごとく挫折した後の「閉塞感」

さきに司馬遼太郎の『坂の上の雲』について触れたが、NHKによってドラマ化され2009年から足かけ3年にわたって放送されたことも想起しておきたい。

製作者の意図がどこにあったか正確には知らないが、視聴者として思ったのは、よくできたドラマだが、原作の小説が発表された「高度成長時代」の日本とは異なり、ドラマ版においては「失われた過去」をなんとかよみがえらせたいという切ない(?)思いを感じさせたということであった。日露戦争当時の日本を、「過度に理想化された過去」としてあらたに語っていることになるのかもしれない、と。

「戦後」がすでに完全に終わった現在、それは「近代」が完全に終わった現在と言い換えてもいい。

消滅したはずの「左翼」は、残滓がまだあちこちに散在しているものの、ふたたび「右翼」が台頭してきたといわれることが多い。いわゆる「ネット右翼」に代表される排外主義と偏狭なナショナリズムである。

日露戦争後と同様、「健全なナショナリズム」というよりは「病的」に映ることは否定できないが、「右翼」をめぐる状況は日露戦争後とは性格は大いに異にしていることに注意しなくてはならない。

現在は、グローバル化が進展するなか、格差社会が拡大しつつあるだけでなく、日本全体もまた少子高齢化によって衰退しつつある。「閉塞感」が強まっているわけだが、衰退するがゆえの「追い込まれ感」と、膨張するがゆえの「押し込められ感」は、おなじ「閉塞感」であっても、方向性も内容もまったく異なるのである。

戦前日本の「右翼」が直面したパラドックスについて語った本書は、その後に出版された同じ著者による 『未完のファシズム-「持たざる国」日本の運命-』(新潮選書、2012) と  『国の死に方』(片山杜秀、新潮新書、2012) と同様、じつに読ませる内容の本であるが、本書からストレートに教訓をくみ取ることは難しい。それは本書の弱点でもある。

日本という国は明治維新という成功した「革命」後は、思想が現実に敗れ去る「思想の死」を、すでに「戦前の右翼思想」、「戦後の左翼思想」と二度にわたって体験している。

「衰退する日本」という現実への焦燥感が生みだす気分がいかなる思想を生み出すのか、それとも生みださないまま終わっていくのか、考えてみたくなるのだ。

すくなくとも思想が現実をリードするよりも、現実のほうがはるかに急速なスピードでわれわれを追いたて、追い込みつつあるのが現状だ。3年前の「3-11」さえ現実に押し流されて「無力感」がつのるばかりである。多くの人が社会を変えたい、変わってほしいと思っているのにかかわらず・・・。

繰り返すが、現在の「閉塞感」は、「ユートピア」がことごとく挫折した後の「衰退する日本」という現実に起因するものだ。だが、そもそもユートピアというものは挫折するものだ。ユートピアという「夢」は、つねに「現実」に裏切られる。ユートピアは白昼夢である。いや、薬物を使用しないハルシネーション(幻覚)というべきかもしれない。

ユートピアが幻覚に過ぎないを知ったうえでニヒリズム(虚無主義)に陥ることなく、ひたすら「いま、ここ」を出発点に、現実をみつめるリアリズムに徹することができるかどうかが今後の分かれ道だろう。現実主義と虚無主義はまったく異なるものだ。

しかし、リアリズムに徹するというのは、とかく情緒に流されやすい日本人には困難な課題である。もちろんわたしも日本人であるので、けっして例外ではない。厳しく自戒しなくてはならないことはいうまでもない。

社会変革は、右派の社会運動でも左派の社会運動でもなく、アメリカのグーグルやフェイスブックのように、ビジネスをつうじて実行するのがまっとうではないかと思うのだが・・・





目 次

はじめに
第1章 右翼と革命-世の中を変えようとする、だがうまくゆかない
 1. 「超-国家主義」と「超国家-主義」
 2. 万世一系と「永遠の今」
 3. 玉・恋闕(れんけつ)・崇拝
 4. 動と静の逆ユートピア
第2章 右翼と教養主義-どうせうまく変えられないならば、自分で変えようとは思わないようにする
 1. 「口舌の徒」安岡正篤
 2. 教学と維新
 3. 真我と至尊
 4. 日露戦争の真空
 5. 大正教養主義
 6. 錦旗革命論
第3章 右翼と時間-変えることを諦めれば、現在のあるがままを受け入れたくなってくる
 1. 文武天皇の「中今」(なかいま)
 2. 「老子伊福部教」
 3. 西田幾多郎の「慰安の途」
 4. 「俗流西田主義」
 5. 長谷川如是閑のプラグマティズム
第4章 右翼と身体-すべてを受け入れて頭で考えることがなくなれば、からだだけが残る
 1. アンポンタン・ポカン君の思想
 2. 手のひら治療
 3. 現人神(あらひとがみ)
おわりに

著者プロフィール

片山杜秀(かたやま・もりひで)1963年生まれ。思想史研究者、音楽評論家。慶應義塾大学大学院法学研究科後期博士課程単位取得退学。慶應義塾大学法学部准教授。著書に『音盤考現学』、『音盤博物誌』(ともにアルテスパブリッシング、この2冊で吉田秀和賞、サントリー学芸賞を受賞)、『近代日本の右翼思想』などがある(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものに情報追加)。


<付記>

■「1930年代の思想」全般を押さえるために

本書と同じ時代の「思想」を扱ったものに 『昭和思想史-暗く輝ける1930年代-』(荒川幾男、朝日選書、1989 初版 1971)という本がある。

この本で扱われている思想は、圧倒的に左翼思想のほうに重点が置かれている。知的な印象から、マルクシズムの立場に立った左翼思想のほうが、思想らしい思想であると感じるのも無理はない。「国家改造」をめぐる思想にかんしては北一輝、大川周明、安岡正篤などの右翼思想家も「第二賞 国家精神の政治的神話」として扱われているが、分量的には1/4にとどまっている。


「右翼思想」そのものを正面から扱った本

『近代日本の右翼思想』(片山杜秀、講談社選書メチエ、2007)は、タイトルから想像されるようなスタンダードな教科書ではない。

教科書的な記述を求めるのであれば、立花書房という専門出版社からでている警察官むけの実務書を読むべきだろう。

『わかりやすい極左・右翼・日本共産党用語集 四訂』(警備研究会、立花書房、2012)は、警察官の昇格試験用のテキストなので、読みやすくわかりやすくコンパクトに記述されている。

司法という、基本的に監視し、取り締まる側から書かれたものだが、記述は事実に即した公平なものである。つまりはファクトベースのリアリズムに立脚しているということだ。法治国家・日本の知られざる良書である。思想犯というのは扱いが難しいのである。

政府刊行物センター(霞が関)など全国主要都市の官報販売所で市販されているはずだが、一般書店では扱っているかどうかわからないので、ネット書店から購入するのがおすすめである。




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書評 『ナショナリズム-名著でたどる日本思想入門-』(浅羽通明、ちくま文庫、2013 新書版初版 2004)-バランスのとれた「日本ナショナリズム」入門

書評 『日本近代史の総括-日本人とユダヤ人、民族の地政学と精神分析-』(湯浅赳男、新評論、2000)-日本と日本人は近代世界をどう生きてきたか、生きていくべきか?
・・国家=民族? 日本国民=日本民族? 戦前も戦後も、この「国家=民族」というフレームワークから抜け出すことができないのが日本の右翼思想の問題点であり弱点はないかと思うのだが。国家主義と民族主義の違いについては、日本民族とは合わせ鏡の関係にあるユダヤ民族と比較検討すると、いろいろ見えてくるものがある。国家(ステート)もさることながら、民族(ネーション)として生き残るためにはなにが必要か、そのことは徹底的に真剣に考え尽くさねばならない。すくなくともユダヤ民族は、国家はおろか言語すらバラバラであっても一体性を保ちつづけたのである

映画 『バーダー・マインホフ-理想の果てに-』(ドイツ、2008年)を見て考えたこと
・・戦後ドイツの「1968年世代」による極左テロ。イタリアも日本も同様の歴史をたどる

マンガ 『テロルの系譜-日本暗殺史-』(かわぐち かいじ、青弓社、1992)-日本近現代史をテロルという一点に絞って描き切った1970年台前半の傑作劇画

沢木耕太郎の傑作ノンフィクション 『テロルの決算』 と 『危機の宰相』 で「1960年」という転換点を読む

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「ユートピア」は挫折する運命にある-「未来」に魅力なく、「過去」も美化できない時代を生きるということ


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