2014年4月26日土曜日

映画『アクト・オブ・キリング』(デンマーク・ノルウェー・英国、2012)をみてきた(2014年4月)ー インドネシア現代史の暗部「9・30事件」を「加害者」の側から描くという方法論がもたらした成果に注目!


映画 『アクト・オブ・キリング』(The Act of Killing)という映画をみてきた。直訳すれば「殺人行為」である。もっと平たくいえば「人を殺すということ」とでもなろうか。

100万人以上も虐殺されたにもかかわらず、現在でいまだ真相が闇の中のインドネシアの「9・30事件」(1965年)を描いた映画だ。わたしは「9・30事件」そのものへの関心から見ることにしたが、それ以上の感想をもつことになった。

見ている最中から思っていたが、なんとも不思議な映画である。「9・30事件」を題材にした映画だが、事件そのものの復元ではない。当時のフィルムが使用されるわけではない。あくまでも「現在」に生きるインドネシア人たちが登場するドキュメンタリーだ。


しかも「被害者」ではない。登場するのは「加害者」である。「加害者」とはインドネシア語で「プレマン」と呼ばれるチンピラやゴロツキのことだ。

プレマン(Preman)とは英語のフリーマン(freeman)がなまったものだと登場人物が映画のなかで語っている。つまるところ「自由人」ということだが、「かたぎ」から見れば定職につかない「たかり」ということだろう。

「9・30事件」事件を利用して政治の実権を握った権力者たちは、民兵組織やプレマンたちを使うことによって、自分たちの手を直接汚さずに政治的反対派を文字通り抹殺したのである。「共産主義者」というレッテルを張って100万人も殺害したのである。「反共」という大義名分のもとに。

多民族国家インドネシアにおいては、1949年にオランダから独立した際の建国五原則である「パンチャシラ」のもと、事実上「反共」が国是となってきた。だから「プレマン」たちは国民的英雄なのだ。現役の政治家たちも、「友人」として映画にそのまま登場してホンネをしゃべっているのはそのためだ。


「9・30事件」を「加害者」の側から描くという方法論

被害者への取材が当局から禁止されたことが原因らしいが、取材をつづけるなかで加害者たちと親しくなり、かれら自身を映画に撮影し語らせるという手法が「意図せざる結果」をもたらしたのである。「瓢箪から駒」というべきか、監督にとっても関係者たちにとっても、予想外の結果をもたらしたといえよう。



その手法とは、加害者たちが、自分たちがやった過去の行為の「記憶」を再現して、自分たちが主人公として映画に「記録」するという行為。アメリカ人のジョシュア・オッペンハイマー監督は映画製作をもちかけ、加害者たちは嬉々としてこの行為に没頭する。針金で首を絞めて殺すシーンの再現などリアリティがありすぎだ。

人間は有名になりたいセレブになりたいという欲望をもっている。加害者たちもこの欲望をもっているからこそ(・・しかも大の映画好きときている)、自分たちの演技が撮影されて映画になることを喜んでいるのである。それがリアルな殺人の再現であるにもかかわらず。

「犯罪者」がみずからの「殺人行為」を再現しているのだが、見ていてなんとも不思議な感じになる。かれら自身の自己認識においては、過去を再現して「記録」することによって、「歴史」として子々孫々に伝えるという動機があるからだ。

このドキュメンタリー映画は、劇的な展開があるわけでもなく、音楽が効果的に使用されているわけでもなく淡々と進行する。最初はプレマンたちの言動に笑ってしまう。インドネシアの現在は、なんだか昭和時代の日本(?)のような感じもするので。

同じようなシーンとセリフが何度もでてくるので眠気を感じてくる。だが、映画の最後に近づくにつれて、それまで積み上げられてきたシーンが臨界点に達したとき、突如として反転する感情が呼び覚まされるのである。主人公にも、観客にも。

記憶が想起され、過去が再現され、映像という形で「見える化」され、その映像を自ら見るとき、自分たちが自らの手をくだして行った行為の意味を見つめざるを得なくなってくるのだ。

「反共」という大義名分のため、「正義」の行為によって国を救ったという物語によって合理化してきた感情にすこしでも疑問が生じてくる。そのとき、いかなる感情を抱くのか? これは映画を見て確かめてほしい。

わたし自身は「9・30事件」そのものへの関心から見ることにしたのだが、さまざまな感想をもつのは当然というべき映画なのだ。だから、「9・30事件」に関心がなくても見る価値は大いにある


「9・30事件」(1965年)とスハルト体制

「9・30事件」とは、米ソの二極ではない「第三世界」のリーダーの一人であったスカルノ大統領の政権末期に起こった一連の事件のことだ。

スカルノ派によるクーデター計画を鎮圧して政権を奪取し、スカルノ派を一掃したインドネシア陸軍のスハルト(・・のちに大統領)が、「事件の黒幕は共産党だ」として大弾圧を行ったのである。

「共産主義者」というレッテルを張られたインドネシア人だけでなく、経済の実権を握っていた華僑華人がスケープゴートとして虐殺された。100万人以上が虐殺されたとされているが、真相は不明のままである。事件の背後には、「左傾化」する傾向にあったスカルノに懸念を抱いていた米国と日本もあったとされる。

米国は民主党のケネディ大統領の時代であった。「ドミノ理論」が語られていた時代だ。東南アジアの一国が共産化すると、周辺諸国もドミノ倒しのように次から次へと共産化されていくという理論である。

東南アジア共産化の恐怖にかられていた米国は、ベトナムへの軍事介入だけではなく、インドネシアでもタイでもフィリピンでも、「反共」という共通姿勢で軍事援助と経済援助をつうじて積極関与していたのである。

わたしは「9・30事件」については大学学部時代にはじめて知った。「華僑問題特別講義」というタイトルの講義で立教大学から出講してこられていた戴國煇(タイ・クオフェイ)教授から教えていただいた。

台湾出身の教授自身も華僑・華人であり、しかも客家(はっか)であった。エスニック・マイノリティとしての華僑・華人について論じた特別講義で、当然のことながら華僑・華人が虐殺された「9・30事件」も取り上げて論じられたのであった。

マイノリティだが経済を握ってきた華僑・華人は、1997年のアジア金融危機でも再び虐殺の対象となっている。いわゆるミドルマンとして、小売業をつうじて一般民衆とは直接の接点があるためスケープゴートになりやすいのだ。

1997年当時ジャカルタに駐在していた日本人ビジネスマンたちは、この事件の前後を「戦前・戦後」と表現している。インドネシアでは、旧ポルトガル領であった東チモール独立問題でも虐殺が行われたことを思い出す必要がある。

1997年のスハルト独裁体制崩壊とその後の混乱を経て、2010年代の現在では、アジアのなかでも民主主義が確立した国の一つとされる現在のインドネシアだが、経済不安が政治不安に結びつかないという保証はない。

なお、インドネシア現代史の研究者の倉沢愛子・慶應義塾大学名誉教授がこの映画の監修を行っているので、セリフの訳語についても安心して見ていいだろう。


なぜ人は人を平気に殺せるのか?

映画 『アクト・オブ・キリング』を見ていて、おそらく誰もが思うのは、「なぜこの人たちは、平気で人を殺すことができるのだろうか?」という疑問ではないだろうか。

「大義名分」があれば人はいとも簡単に人を殺すことができるのだろうか? 「敵」とみなした人は平気で殺すことができるのだろうか? 戦闘行為中ならまだしも、戦地でもないのに民間人が民間人を平気で殺すことができるというのは・・・。

直接そういう話を聞いたことはないが、小学生の頃に読んだ「少年ジャンプ」に連載されていた反戦マンガ『はだしのゲン』には、中国大陸の戦場で「千人斬り」や「試し斬り」をやったことを武勇伝として楽しげに語る元軍人たちが登場する。小学生にはまったく理解できないセリフとシーンであったので、つよく記憶に残っている。

マレー人の世界に存在する「アモック」なのだろうか? アモックとは、突然なにかに憑かれたように無差別殺傷を起こす狂躁状態をさした精神病理学用語だが、「9・30事件」でも集団狂躁状態に陥っていたのであろうか? しかし、「プレマン」たちによる殺害は無意識状態で行われたものではないのでアモックではなさそうだ。

関東大震災後の日本では朝鮮人虐殺が、日本軍による占領後のシンガポールでは華僑虐殺が発生している。ソ連における大量粛正、冷戦崩壊後にはバルカン半島でエスニック・クレンジング(民族浄化)という名の虐殺が、アフリカ中部のルワンダでの大量虐殺事件が発生している。

そう考えると、「インドネシアだけではない。アメリカもグアンタナモで・・・」という登場人物の一人の発言に一理あると思ってしまいかねないのだが・・・

今後もどこかでまた虐殺事件が発生するだろう。それにともなって難民も発生しつづけるだろう。

ナチスドイツでユダヤ人虐殺の担当者であったアイヒマンが、命令を実行していた凡庸な役人に過ぎなかったように、人間というのはいとも簡単に虐殺の当事者となってしまう。これは通称「アイヒマン実験」という社会心理学の有名な実験によって確かめられていることである。

「大義」に流されてしまっていないか? 一瞬立ち止まって冷静になることができればいいのだが・・・。われわれが持たねばばならないのは、相手にも家族があるというイマジネーションである。もちろん、個人にできることには限界がある。だが個人の自覚以外にほかに方法があるのだろうか。

アウシュヴィッツから半世紀以上たって、ようやくドイツでも「記憶」をつねに想起させるため、「見える形」で「記念碑」の建築を行った。首都ベルリンにある、ホロコーストにおけるユダヤ人犠牲者のメモリアルパークである。墓地に似せてつくられた「記憶」のための建造物である。

「被害者」と「加害者」の真の「和解」は、時間がかかる終わりなきプロセスである。インドネシアの場合はまずは「9・30事件」の事実関係の究明を行うことからだろう。すでに時効んあおで法的な訴追が行われることはないが、それでも加害者と被害者は真の対話を行わなくてはならない。

すべてはそこから始まるのである。ルワンダすらそれを行っているのだ。







<関連サイト>

映画 『アクト・オブ・キリング』 日本版公式サイト

映画『アクト・オブ・キリング』 Facebookページ(日本語)

英語版 公式サイト

映画 『アクト・オブ・キリング』 予告編

監督: ジョシュア・オッペンハイマー
共同監督: クリスティン・シン
製作: ジョシュア・オッペンハイマー、シーネ・ビュレ・ソーレンセン
製作総指揮: エロール・モリス


インドネシアの華人虐殺930事件 「アクト・オブ・キリング」が語るもの(福島香織) (日経ビジネスオンライン、2014年4月16日)

101 East - Indonesia's Killing Fields (YouTube
・・映画 『アクト・オブ・キリング』関連でインドネシア取材を行った「アルジャジーラ」(英語版)の番組(約25分、英語字幕あり)。たしかに100万人以上という虐殺の規模からいえばカンボジアの「キリング・フィールド」に匹敵するかもしれない。カンボジアでは120~170万人が虐殺されたと推計されている

(2014年6月1日 情報追加)



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(2014年8月10日、2015年11月7日 情報追加)


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