2014年8月1日金曜日

「魂」について考えることが必要なのではないか?-「同級生殺害事件」に思うこと


少年少女による不可解な猟奇的殺人事件がまた発生した。長崎県で発生した「同級生殺害事件」の話である。

今度もまた被害者の名前が実名でさらされながら、加害者についての情報は伏されているという非対称的な取り扱い。「人権」とはいったいなんなのかという疑問をもつ。

「被害者は二度殺される」とよくいわれるが、突然の悲劇に見舞われた被害者の家族のみなさんの思いは想像を超えたものだろう。

だが、ここでいいたいのは「人権」についてではない。「被害者」や「遺族感情」についてでもない。愛でも憎しみでもなく、あたかも機械をバラスような感覚で同級生を殺害し、解剖しようとした16歳の女子高生という「加害者」は、いったい何者なのかという疑問についてである。

テレビの解説番組では脳科学者を名乗る人物や犯罪捜査にかかわる人物、そしてコメンテーターという肩書きの人々が、事件についていじくりまわしているが、さっぱり核心をついたコメントがなされていない。いわゆる「腑に落ちない」というやつである。

わたしが思うに、これは加害者についてのイマジネーションがあまりにもなさ過ぎるということだ。人間についての理解があまりにも浅いという印象を免れ得ないのだ。

これまでにも神戸連続児童殺傷事件の加害者である「少年A」の事件や、豊川市の高校生が老婆を殺害した事件など、少年少女による類似の事件は何度も発生しているというのに・・・。

「殺してみたいから殺した」という加害者の供述、わたしはこれはウソをついているのではないと思う。同じような供述は、過去にも何人もの少年少女がクチにしている。

少年少女はそもそも大人以上に残酷な存在であり、暴力性が自分に向かって自傷や自殺するか、他者に向かって暴力となることはよくあることだ。「14歳」前後の時期を生き抜くのは思った以上に困難なものがある。前近代社会においては、日本の元服など、大人になるためにの「通過儀礼」によって、子ども時代を象徴的に殺し大人として「再生」させていたことからもそれはわかる。次の状況への移行期というものは、つねに不安定な時期なのである。

知能指数の高い子どもには、感情面が欠如したままのケースもある。加害者は、そもそもきわめて知的好奇心のつよいタイプなのだろう。解剖にひじょうに興味があり、ネコを解剖してみたら、がぜん人間も解剖してみたくなったと供述しているらしい。知能が感情より勝っているのか、あるいは感情に欠落部分があるのか。

純粋に自分の知的好奇心を満たすためだけにネコを殺して解剖するのは、いわんや人を殺して解剖したいというのは常軌を逸しているという印象さえ受ける。ところが、17世紀のフランスのとある修道院では、生きたまま動物の生体解剖も行われていたという。デカルトの「動物機械論」の影響である。心身二元論である。

かつてはナチスドイツでも日本でもアメリカでも、その他の国でも広範囲に人体実験が行われていたという事実も想起する必要がある。これは、たかだか70年くらい前の話だ。

「親しい友人だから殺した」という供述も、それほど不思議ではない。殺しやすいということをアタマで考えたのかもしれないが、それだけではないかもしれない。加害者本人にも、どこまで自分のことがわかっていたか不明である。心の闇と片付けていいものかどうか。

1936年(昭和11年)に発生した阿部定(あべさだ)事件というものがある。

男を愛するあまり、他人の手に渡すならいっそのこと永遠に自分のものとしたいという思いから殺害し、カラダの一部を切り取って逃亡したという事件だ。この事件を題材にして大島渚監督は『愛のコリーダ』を製作している。いっけん猟奇的な事件で、一般常識を越えているのだが。

もちろん、阿部定と今回の「同級生殺人事件」とは性格は異なる。歪んだ愛にもとづくストーカー殺人事件とはまったく異なる。現時点ではわからないことだらけだ。

おなじく1936年に亡くなった作家の夢野久作は「猟奇歌」で次のような歌を詠んでいる。大作『ドグラマグラ』を完成させてから亡くなった夢野久作だが、「猟奇歌」とは、猟奇的なテーマを短歌形式で文字化した作家のイマジネーションの産物である。

誰か一人
殺してみたいと思ふ時
君一人かい…………
………と友達が来る

ブラックユーモアめいた内容である。だが、「殺してみたい」という衝動が一瞬たりとも浮かんだことがまったくないと言い切れる人も少ないのではないか。この戦慄すべき感情は、かならずしも一般人にとっても理解不能ではないだろう。

とはいえ、アタマのなかで思うことと、じっさいに人を殺すのはまったく別個のことだ。

「なぜ人を殺してはいけないか?」 こういう問いについて一度でも疑問を抱いたことのない人はいないだろう。根源的な問いである。哲学的な問いでもある。

そんなとき、いまは亡き哲学者・池田晶子氏の本でも読ませて、考えさせたらいいだろう。『14歳からの哲学-考えるための教科書-』という本がある。

14歳でもこの本を読むことは不可能ではない。ただし、誰もが理解できる日本語で書かれていても、答えが書かれている本ではない。問いと思索を文字化したものだ。考えさせるための本である。


池田晶子氏には『魂とは何か-さて死んだのは誰なのか-』という本もある。人間を人間たらしめているもの。肉体と精神、そして魂ボディ&マインド、そしてソウル。ここでいう精神(マインド)とはココロにもかかわるが基本的にはアタマのことである。魂は精神とは違う。魂は肉体でもない。心身とは違う「存在」だ。

魂こそ、人を人たらしめているものに違いない。人格と言い換えていいかもしれない。魂であれ、人格であれ、いずれにせよそれは「見えないもの」である。

神戸連続児童殺傷事件の加害者である「少年A」についても独特のコメントをしているのでぜひ目を通していただきたい。わたしにはじつに「腑に落ちる」内容だ。池田氏のような立ち位置の「哲学者」(・・ここでいう哲学者とは、大学にポジションをもつ哲学(史)研究者のことではない!)でしか書けない内容だろう。

知能レベルの高い子どもは、「目に見えないものは存在しない」と考えがちだ。アタマですべてを処理しようとするから、「感じる」という人間の自然な感情をできるだけ抑制し、排除しようとする傾向になる。感情面の発達が遅れて知性ととバランスがとれていないケース、あるいは最初から欠落しているケースもある。

臨床心理学者の河合隼雄氏が存命なら、きっと「魂が傷ついている」とか、そういうコメントをしたはずだ。河合氏は援助交際について、「たましいに悪い」という表現でコメントしている。これをはじめて読んだときは、わたし自身も違和感を感じなかったわけではない。臨床心理学者としても、じつに大胆な発言に踏み込んだものだ、と。

思うに、いくら心の教育専門家が「命の教育」をしようが、魂の存在について知らんぷりしているのではダメなのだ。魂について語り、考えさせなければダメなのだ。

だが、現代という時代、専門家として生きていくうえでは、「魂」という存在にについて語ることは命取りになりかねない。合理性の範囲内で「見えること」についてしか語らないというのは、暗黙のルールだからだ。これを逸脱すると専門家とはみなされなくなる。目に見えない魂については語らないという前提で、専門性が構築されているからだ。

魂不在の教育。魂不在の専門家たち。戦後の唯物主義教育の悪しき影響がもろにでているといわざるをえない。科学思考の限界についての認識も、まだまだ一般化していないのかもしれない。その科学信仰のうえに乗っかっているのが専門家という存在である。

魂について語ることができるのは、一般的には宗教家や哲学者であろう。かれらは「見えないもの」についての感受性を研ぎ澄まし、それについて考え、語ることができる存在である。だが、宗教家はそのフォロワーたちに自分で考えることを促すのではない。ドグマを伝えるだけである。それも特定の教義に基づいた、固定した教えに従うことを要求するだけだ。

だからこそ哲学が必要とされるのである。哲学的に自由に、かつ根源的に考えることが重要なのである。「見えないもの」について自分のアタマで考え、そして他者と語り合うこと。考えるだけでなく、哲学的対話、哲学問答が必要なのである。「見えないもの」について、いっさい斬り捨ててしまうのが「哲学研究者」という名の専門家である。それは「哲学者」ではない。

わたしは、ここから日本の教育を変えていかないと、根本的にはなにも変わらないと考えている。教養の核に哲学を据えなければならないのである。

他人より多くのことを知っているだけでは、知識が豊富というだけであり、けっして知恵のある人とはいわないのである。教養イコール知識という固定観念からみずからを解放し、自分のアタマで考え、感じ、他者と対話することつうじて学ぶことの意味をしらなくてはならない。

それじたいが専門用語である哲学用語ではなく、自分自身のコトバで語ること。自分のコトバで語ることができるまで考え尽くすこと。これが必要なのである。哲学の専門家というのはありえない。根源的なレベルまで考える人は、誰でもすでに哲学者になっているのだ。





PS 阿部定事件について(補足)

『阿部定手記』(前坂俊之編、中公文庫、1998)という本には、事件の本人自身が書いた『阿部定手記-愛の半生』(1948年)を中心に判決文や識者のコメントを収録した資料集だが、『阿部定手記-愛の半生』には以下のような一節がある。

昭和11年5月18日、愛する吉蔵を愛するがために手にかけたあの日、死ぬまで共にと吉蔵の魂を抱いたまま思いのままを居着く心安さで、その世は浜町公園のベンチに夜を明かした私でした。
吉蔵の魂を抱いたまま、吉蔵と一緒にいる気持ちの安らかさで、穢(きたな)いベンチも夜の帳(とば)りの恐ろしさも何も一つ怖いモノは無く、延び延びとした嬉しさで生まれて初めて野天で夜を明かしたのでした。(P.243 太字ゴチックは引用者=さとう)

こういう殺人もあるのだということをアタマのなかに入れておきたい。親しくなると愛していると、殺してしまいたくなるという感情である。そして「魂」というコトバをつかっていることにも。魂は不滅であるという確信がこの文章からはうかがい知ることができる。


PS2 ここに書いたことは、あくまでも2014年8月1日現在の公開情報に基づいたものなので、その後に知り得た事件関連情報は反映していおりません。(2014年8月4日 記す)。



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