2014年10月14日火曜日

書評『仏教学者 中村元 ー 求道のことばと思想』(植木雅俊、角川選書、2014)ー 普遍思想史という夢を抱きつづけた世界的仏教学者の生涯と功績を "在野の弟子" が語る

(カバー写真は中村博士がもっとも讃えていた初転法輪像)

中村 元(なかむら・はじめ、1912~1999)は日本語読者にとっては、なによりも岩波文庫から出版された『ブッダのことば』などの初期仏教経典の翻訳者として知られているのではないだろうか。

「お経」というと、なんだかよくわからないむずかしい漢字が羅列された、聞くだけであくびがでてくるようなものというイメージがあるが、そのお経を耳で聞いてもわかるような平易な日本語で訳した功績はきわめて大きい。その一方で、「ありがたいお経」から神秘のベールをはいでしまったという非難もまたあるようだ。毀誉褒貶あいなかばする存在でもある。

だが、もし中村元という「知の巨人」が日本にいなかったなら、日本人の多くは原点であるブッダその人の思想を知ることなかったかもしれない。日本仏教は、ブッダその人の思想よりも、鎌倉時代に登場した宗祖の教えを最重視する「新仏教」だからだ。中村元は、お寺の出身ではないので、特定の宗派に片寄ることなく、教義学からの距離を保つことができたのである。

本書は、若き日に物理学を専攻し、人生の悩みの解決を仏教に求め、中村元が東京大学退官後の1973年につくった東方学院で学んだ、在野の篤学の仏教思想研究者が描いた「中村元入門」ともいうべき本である。

東方学院は、アカデミズムの枠を超えて、学びたい人が学ぶことのできる「場」をつくるという「夢」を実現したものである。多くの大学から学長として招聘されたがそれらをすべて断り、第二の人生の活動拠点をおいた寺子屋学問は、世のため、人のためにあるという仏教精神にもとづいた使命を実現したものでもある。学校法人ではなく、あえて財団法人としたのは、活動が制約されるのを嫌ったからだという。

中村元には、『学問の開拓-「勉め強いること」に徹して-』(佼成出版社、1986 ハーベスト出版から2012年に復刊)という自伝がある。わたしもかなり前に単行本版で読んでいたが、残念ながら1986年から没年の1999年までが書かれていない。

ブッダその人もそうであったが、中村博士もまた最後の最期までリタイアということのない人であった。『中村元選集』全40巻(!)という偉業を完成させたのち亡くなったのである。しかも、心血を注いで完成した原稿を出版社が紛失したのち、再び書き上げたという『仏教語大辞典』の改訂作業も進めていたという。その最後の10年を、東方学院の熱心な聴講生として過ごしたのが著者であった。最前列に座り、中村元の講義を一言一句も聞き漏らすまいと筆記していた著者ならではの伝記である。

死の床にあってもなお学問に精進し、昏睡状態のなかで右手を動かして文字を書く動作をしていただけでなく、訪問看護師しかいない病床で昏睡状態で45分間の「最終講義」を行ったというエピソードが本書に紹介されている。やるべきことをやり遂げた生涯だが、それでもなお精進は止むことはなかったのである。

学問が好きで好きでしょうがない、そしてその学問を世のため、人のために役立てたいという熱い思いが伝わってくる。学者とはこういう人のことをいうのだ。87歳の長寿と膨大な業績は、中村元という人が、いかに強靱な精神力と体力をもちあわせた人であったかを示している。研究対象のインドには何度も訪れながら、まったく健康に問題がなかったという。

本書はまた中村元の人を元気にさせるコトバが満載である。

40歳で仏典に使用されているサンスクリット語を本格的に学び始めた著者を励ますコトバがいい。

植木さん、それは違います。人生において遅いとか、早いとかいうことはございません。思いついたとき、気がついたとき、そのときが常にスタートですよ。

物理学を専攻した著者に対して、逝去の一年前にはこんなコトバをかけられたという。

仏教学しかやっていない人には見えないものがあります。異なることをやってこられたからこそ見えるものがあります。それによって仏教学の可能性も開かれます。だから博士号を取りなさい。

異分野だからこそ見えてくるものがあること、肩書き社会の日本では博士号が必要なことをこのような形で励ましたのだという。

本書のタイトルには「仏教学者」とあるが、ほんとうは仏教研究とインド研究をベースにして、比較思想研究をつうじて普遍思想を探求した哲学者というのが、中村元という人の本質であった。本書を読めばそのことがよく理解できる。

独創的な研究、排他的な偏狭さを排したジャンル横断型知性。サンスクリット語、パーリ語、チベット語、ギリシア語、漢文、英語、ドイツ語その他多数を駆使していた語学の達人。この点においては、同時代を生きたイスラーム研究者で哲学者であった井筒俊彦と比較されるべき存在である。

東方学院という寺子屋をベースにした権威とは無縁の姿勢。制度としてのアカデミズムにもセクショナリズムにも囚われない在野の精神。「大乗非仏論」を唱えた18世紀大阪の独創的な町人学者・富永仲基(とみなが・なかもと)を、中村元も大きく評価していたことを本書で知ったが、富永仲基は官学の藩校ではなく、町人が有志でつくった懐徳堂(かいとくどう)という私塾で学んだ人であった。

地球レベルで生きる現代人のために、東西思想を超えた「普遍思想史」という「夢」を追った「知の巨人」の生涯。仏教でもっとも重要な「慈悲」をその中心においていた人生観。

膨大な業績のごく一部しか読んでいないわたしが言うのもおこがましいが、本書は「中村元入門」として読むことをすすめたいと思う。中村博士の業績が、今後ますます重要性をもってくるのは間違いない。


 
 
目 次

はじめに
第1章 生い立ちと学問への目覚め
第2章 東京帝大入学から博士論文の完成まで
第3章 『東洋人の思惟方法』で世界へ
第4章 念願のインドの大地へ
第5章 原始仏教の研究に見る中村の独創性
第6章 『佛教語大辞典』と「中村元選集」の刊行
第7章 「比較思想」の提唱
第8章 東方研究会・東方学院にかける理想
第9章 中村元と足利学校
第10章 研究の集大成
第11章 中村元の遺志の継承
第12章 この夫人ありて、中村元あり
あとがき
読書案内-中村元の主な著訳書
参考文献
中村元 略年譜


著者プロフィール

植木雅俊(うえき・まさとし)
1951年、長崎県生まれ。九州大学理学部。九州大学大学院理学研究科修士課程修了。理学修士。東洋大学大学院文学研究科博士後期課程中退。文学修士。79年からジャーナリストとして学芸関係の執筆・編集等に携わり、仕事の傍らで仏教学を研究。86年東洋哲学文化賞受賞。91年から東方学院で中村元博士からインド思想・仏教思想論などを学ぶとともに、サンスクリット語を受講。91年、インド・ニューデリーで行なわれた『法華経』についてのシンポジウムに参加。92年、小説『サーカスの少女』でコスモス文学新人賞受賞。93年、中村元博士の紹介で日本印度学仏教学会に所属。2002年9月30日、学位請求論文「仏教におけるジェンダー平等の研究──『法華経』に至るインド仏教からの考察」でお茶の水女子大学から男性としては初の人文科学博士(博乙第179号)の学位を授与される。日本ペンクラブ会員。日本印度学仏教学会会員。仏教思想学会会員。比較思想学会会員。(著者自身のサイトから)


<関連サイト>

仏陀の国(植木雅俊氏が管理人のサイト)

公益財団法人 中村元東方研究所 東方学院
・・「設立の目的: 当研究所は、東京大学名誉教授・日本学士院会員の故中村元博士によって創立され、「東洋思想の研究およびその成果の普及」ために活動する文部科学省所管の特例民法法人です。今日その活動は広く認められ、「特定公益増進法人」の指定を受けています。
基本理念: 創立者中村元が掲げた当研究所の独自性は、以下の3点です。 1. 生きた学問としての東洋思想研究 2. セクショナリズムを越えた東洋思想研究 3. 自発的・自立的な東洋思想研究」

中村元記念館 (島根県松江市)
・・「中村元記念館は故中村元博士の生誕100周年を記念して、博士の業績の顕彰、博士によって進展した東洋思想・文化の研究、啓発普及に寄与することを目的として設立されました。博士の生誕地松江市で、命日である10月10に開館しました。 故中村元博士のご遺族から寄贈された蔵書約3万冊を中心に多くの方々から寄贈された書籍を収蔵する図書館と、博士の著作と遺品を展示する展示室の運営と、博士の著作の販売を行っています」(公式ウェブサイトより)




<ブログ内関連記事>

『ブッダのことば(スッタニパータ)』は「蛇の章」から始まる-蛇は仏教にとっての守り神なのだ
・・中村元訳の『ブッダのことば スッタニパータ』(岩波文庫、1958)の紹介

書評 『井筒俊彦-叡知の哲学-』(若松英輔、慶應義塾大学出版会、2011)-魂の哲学者・井筒俊彦の全体像に迫るはじめての本格的評伝
・・井筒俊彦の最後の著書は『東洋哲学覚書 意識の形而上学-『大乗起信論』の哲学-』(中央公論社、1993)である

書評 『仏教要語の基礎知識 新版』(水野弘元、春秋社、2006)-仏教を根本から捉えてみたい人には必携の「読む事典」)

書評 『知的唯仏論-マンガから知の最前線まで ブッダの思想を現代に問う-』(宮崎哲弥・呉智英 、サンガ、2012)-内側と外側から「仏教」のあり方を論じる中身の濃い対談

「シャーリプトラよ!」という呼びかけ-『般若心経』(Heart Sutra)は英語で読むと新鮮だ

書評 『希望のしくみ』(アルボムッレ・スマナサーラ/養老孟司、宝島社新書、2006)-近代科学のアプローチで考えた内容が、ブッダが2500年前に説いていた「真理」とほぼ同じ地点に到達
・・中村元による原始仏教経典解説を読んで開眼した養老孟司氏と初期仏教のスマナサーラ長老との対談

書評 『チェンジメーカー-社会起業家が世の中を変える-』(渡邊奈々、日本経済新聞社、2005)-「社会起業家」というコトバを日本に紹介した原典となる本
・・日本人には「コンパッションが欠如しているのではないか」という痛切な指摘を受けた体験を「あとがき」に記している著者。「慈悲」の精神は、仏教国・日本には不在なのか!?

「無憂」という事-バンコクの「アソーク」という駅名からインドと仏教を「引き出し」てみる


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