(左は小川亮作訳、右は陳舜臣訳)
作家の陳舜臣さんが亡くなったというニュースを聞いた。2015年1月21日のことらしい。享年90歳。天寿を全うしたといってよいだろう。
国際都市・神戸に生まれ育った台湾人二世。中国関連を中心とした歴史小説作家というイメージのつよい陳舜臣さんだが、11世紀ペルシアの詩人オマル・ハイヤームの『ルバイヤート』の翻訳を出版していることはあまり知られていないかもしれない。
『ルバイヤート』の翻訳が出版されたのは2004年、この翻訳は「青春の思い出として封じ込めていたもの」だったが、80歳を過ぎてから最終的にリクエストに応じて、若き日に書いた原稿が出版されることになったということだ。
司馬遼太郎が大阪外語大学の蒙古語科出身で、モンゴルへの熱い想いを語っていることは比較的よく知られているだろうが、陳舜臣さんもまた大阪外語大学のインド語科の出身で、司馬遼太郎の一年先輩であった。わたしがこのことを知ったのは、『ルバイヤート』の翻訳を入手して以降のことである。
なぜインド語科なのにペルシア語なのか? それは、かつてインドの公用語がペルシア語だったからだ。英国によって植民地化される以前のインドの歴史を知ればわかる。
インドを代表する観光スポットのタージマハールは、ムガール帝国の皇帝が建造させたものであるが、ムガール朝は中央アジアのアフガニスタンから南下してインドを征服したイスラーム王朝であった。ペルシア語はこの地域での共通言語であったのだ。この事実は高校世界史の教科書に書いてありながら、日本人の常識となっているとは言い難い。
ルバイヤートは私の青春とともにあった。昭和17年、大阪外語インド語の二年生からペルシャ語の講義があり、太平洋戦争はすでにはじまっていて、外国から教材を購入することはできなくなっていた。すべてガリ版刷りであり、それも教師とわれわれ学生でなければ文字が読めないので、文字通り手づくりのテキストであった。
・・(中略)・・
戦時中の仕事なので、とくに忘れられない。死生観について、日常のことなので、いつも考えていた。同級生たちは大部分がすでに戦地へ行っていた。そのような状況のなかで私はルバイヤートを、辞書を片手に、それこそ精読していたのである。
そのころ私は、もし幸いにして命があれば、将来このような仕事を、ずっとつづけようと思っていた。・・(後略)・・
もともと学者志望であったという陳舜臣氏。神戸で生まれ育ったが台湾出身の陳舜臣氏は、日本の敗戦後に日本国籍を失い、国立大学での教員キャリアの道は断念したのだという。インド語やペルシア語の講義は国立大学でしか開講されていなかったからだ。
その後の変転する人生のなかでも、つねに『ルバイヤート』を意識の片隅にあったという。心の支えとなっていたのだろう。なんと80歳を過ぎて(!)、ようやく出版の踏ん切りがついたとのこと。それは2003年のことであった。
(『ルバイヤート』(陳舜臣、集英社、2004) マイコレクションより)
■ペルシア語原典訳『ルバイヤート』
日本でもっとも普及しているのは、1949年(昭和24年)に岩波文庫に集録された小川亮作氏の口語訳だろう。
ペルシア語の原典からの初の日本語訳であるが、岩波文庫版の「まえがき」によれば、作家の佐藤春夫のすすめで口語訳にしたのだという。「今日どんな教育のないイラン人にきかせても容易に理解されるような、現代口語とほとんど文脈の異ならない平易なもの」だから、だそうだ。これは大正解であったといえよう。
その昔、岩波文庫の末尾に記されていた読書案内に「人生」と題したテーマて、オマル・ハイヤームの『ルイバイヤート』とプーシキンの『オネーギン』などが紹介されていた。文学趣味をあまり「持たないわたしだが、この二作品はわたしの好みとなって今日に至っている。
『ルバイヤート』は、わたしは高校時代に岩波文庫の訳で読みふけっていたが(・・本格的に酒を飲むようになる以前のことだ)、ペシミステックでメランコリックで刹那的な無常観をもつ内容は、なぜか日本人的メンタリティにも訴えるものがある。短歌の分かち書きのような短い四行詩であることもその理由の一つだろう。
1 解き得ぬ謎
2 生きのなやみ
3 太初(はじめ)のさだめ
4 万物流転
5 無常の車
6 ままよ、どうあろうと
7 むなしさよ
8 一瞬(ひととき)をいかせ
陳舜臣さんが使用したテキストはよくわからないが、日本初のペルシア語原典訳である小川亮作氏の訳でも、2009年に出版された最新の岡田恵美子氏の訳でも使用されているヘダーヤト版ではないようで、集録されている詩はかなり異なるものがある。項目による分類もされていない。
このようにかなり独自の存在の『ルバイヤート』であるが、作家・陳舜臣の原点がペルシア語と『ルバイヤート』にあったことを知ると、陳舜臣文学の理解も深まるというべきであろう。中国はその西端においてイスラーム世界との接点をもっているのである。
不寛容な空気の漂う時代であるが、日本文明と中国文明の架け橋としての陳舜臣さんの存在に大きな意味があったことにあらためて思いを致している。
ご冥福をお祈りいたします。合掌。
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<関連サイト>
ルバイヤート RUBA'IYAT オマル・ハイヤーム 'Umar Khaiyam 小川亮作訳(青空文庫)
・・著作権切れにより全文がネットで公開。長文で詳細な「解説」はアップされてないので、岩波文庫で読む意必要がある
オマル・ハイヤームと訳者 小川亮作
・・「ルバイヤート」という商品名のワインをつくる丸藤ワイナリーの公式サイト。この記事によれば、ペルシア語からの初の原典訳を成し遂げた小川亮作(1910~1951)は、外交官としてペルシア(=イラン)とアフガニスタンで外交官を経験している人であった。残念ながらこの記事には、知られざる初期ロシア文学者グリボイェードフの『知恵の悲しみ』の訳者であることには触れられていない。グリボイェードフもまた小川亮作と同様に外交官として生きた人。ペルシアで殺害されている。
<ブログ内関連記事>
■イランとペルシア文明
書評 『失われた歴史-イスラームの科学・思想・芸術が近代文明をつくった-』(マイケル・ハミルトン・モーガン、北沢方邦訳、平凡社、2010)-「文明の衝突」論とは一線を画す一般読者向けの歴史物語
・・『ルバイヤート』の詩人として知られるオマル・ハイヤームの、数学者・天文学者としての卓越した業績について本書で知ることができる
銀杏と書いて「イチョウ」と読むか、「ギンナン」と読むか-強烈な匂いで知る日本の秋の風物詩
・・ゲーテもまたハイヤームと同様に科学者にして詩人であっただけでなく、エキゾチックなテイストの『西東詩集』なるペルシア詩の翻案本を出版している。ただし、オマル・ハイヤームについては知らなかったらしい
イラン系日本人ダルビッシュがベースボールをつうじてアメリカとイランの関係改善に一役買う可能性がある
映画 『ペルシャ猫を誰も知らない』(イラン、2009)をみてきた
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・・東京・白金台の台北駐日経済文化代表処公邸「芸文サロン」で開催された特別展
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