アルゼンチンといえばタンゴ、元大統領夫人をミュージカル化した『エビータ』、「神の手」でアルゼンチンをワールドカップで優勝に導いたサッカー選手マラドーナ、「世界の穀倉地帯」で放牧にたずさわる牧童ガウチョといったイメージだろうか。
現在なら、欧州以外でははじめて選出された現在のローマ教皇フランシスコ一世ををそれに加えるべきかもしれない。フランシスコ教皇の本名はホルヘ・マリオ・ベルゴリオ、イタリア系移民の家族に生まれたカトリックである。マラドーナもまた、イタリア系移民の家族に生まれた人だ。
『母を尋ねて三千里』という物語は、イタリアの国民作家デ・アミーチスの『クオレ』のなかに挿入されているものだが、貧しかったイタリアからアルゼンチンに出稼ぎにでかけた人が多かった時代の作品である。そのアルゼンチンは、現在では累積債務に苦しむ経済となってしまっている。
だが、アルゼンチンの首都ブエノス・アイレスには、「精神分析の都」という側面もあることを教えてくれるのが『精神分析の都-ブエノス・アイレス幻視-(新訂増補)』(大嶋仁、作品社、1996)である。わたしはこの本の存在を、 『ユダヤ人の思考法』(大嶋仁、ちくま新書、1999)で知った。
1987年から3年間ブエノスアイレスに滞在していた著者によれば、南米のブエノスアイレスは、北米のニューヨークとならんで「精神分析の都」なのだという。精神分析といえばフロイト。フロイトはいうまでもなくユダヤ系である。ニューヨークは、一名ジューヨークと呼ばれるほどユダヤ系人口の多い都市である。イタリア系の多いアルゼンチンであるが、ユダヤ系人口が多いことは意外と知られていない。
統計数字でみておこう。ユダヤ系人口がもっとも多いのはイスラエルであるのは当然のことして、アルゼンチンもまた多いことは注目に値する。アルゼンチンは、ユダヤ系人口が世界で7番目(!)に多い18万人を数えている。
1. イスラエル 5,309,000
2. アメリカ 5,275,000
3. フランス 492,000
4. カナダ 373,000
5. イギリス 297,000
6. ロシア 228,000
7. アルゼンチン 184,000
8. ドイツ 118,000
9. ブラジル 96,000
10. オーストラリア 88,831
(出所:wikipedia項目「ユダヤ人」日本語版 2015年7月現在)
スペインの植民地であったアルゼンチンは、カトリックのイタリア系移民が多数派だが、ロシアにおける迫害から逃れてきた移民を中心としたユダヤ系市民は首都のブエノスアイレスに集中している。ブエノスアイレスのイスラエル大使館が自爆テロの標的になったのは1992年のことだ。
アルゼンチン出身のユダヤ人でもっとも著名なのは、ピアニストで指揮者のダニエル・バレンボイムであろう。ロシア出身のユダヤ系移民の両親のもとにブエノスアイレスで生まれた。
ピアニストのマルタ・アルゲリッチも母方の祖父母がロシアからのユダヤ系移民である。ユダヤ系の音楽家は世界中に多いが、アルゼンチンもまたその一翼を担っている。
さて、本書の主題である「精神分析の都」に触れておこう。
著者は、精神分析は、ユダヤ人が西欧文明のなかで「同化」するなかで体験してきた葛藤を克服するために開発されたものだとしている。南米のアルゼンチンもまた西欧文明の延長線上にあるが、西欧そのものではない。この点が重要だ。
旧大陸での精神分析への文化上の抵抗は、新大陸ではあまり見られなかった。とくにニューヨークやブエノスアイレスのように、種々雑多な人種が次から次へと移民してきたような雑居地域では、ユダヤ人だけでなく非ユダヤ人までもが精神分析を喜んで受けるという事態が起こったのである。それは、伝統のない自由な新世界には旧社会の偏見がなかったから、ということではない。むしろ、移民やその子孫たちが、旧世界の伝統から離脱した一方で、新世界にも馴染めぬ宙ぶらりんの人間となったこと、その宙ぶらりんの状態が彼らをして言い知れぬ孤独と不安に陥らせた、ということによるのである。精神分析は、そういう社会と伝統を喪失した不安定な個人に、一種の自己構築作業を施すことで、心的安定を与える役目を果たしてきたのである。(P.11)
この文章にすべてが言い尽くされている。アルゼンチンの日系人について、精神分析を受けたなら日系人もユダヤ人のようにアルゼンチンで活躍できるのにと著者は書いているが、ひじょうに示唆的な発言である。
本書では著者自身による精神分析体験についても具体的に紹介されているが、著者は精神分析の効能について、「言語化」というキーワードで説明している。
著者によれば、精神分析とは、無意識を意識レベルに引き上げて、それを言語化することで意識に統合する作業である。それは言語化されていない深層意識(・・井筒俊彦的にいえば「言語アーラヤ識」とでもいうべきか)にうごめく想念を、言語化することによって、意識化することである。
この作業は、見たくないこと、考えたくないことを意識化させる行為であり、できれば避けたいと思うのが人間のさがである。しかしながら、この作業を行わない限り、宙ぶらりん状態がえんえんとつづくことになり、精神的な不安は解消されないのである。
アルゼンチンの日系人だけでなく、日本本国に生きている日本人もまた、「無意識の言語化」を避ける傾向がきわめて強い。自分のことをキチンと見つめようとしない日本人、反省しない日本人、敗因分析をしない日本人、失敗経験から学ばない日本人。思い当たるところは多々あるではないか。
フロイトが開発した精神分析には、もちろん限界があるが、たとえ精神分析そのものを体験しなくても、見たくないものを見ること、考えたくないことを考えること、無意識レベルを言語化し意識化することは、振幅の激しい経済社会に生きる現代人にとっは、精神的な安定をたもつうえで重要であることは否定できない。
こうした考察をつづった本書を読んでいると、理論から出発するのではなく、実体験を「言語化」す著者の姿勢におおいに共感するとともに、アルゼンチンについて複眼的に見る視点を与えてくれる貴重な一冊であるという感想ももつ。
どれだけ読まれた本であるか知らないが、このまま埋もれてしまうには惜しい本だ。タイトルにもう一工夫があったらよかったのに、と思うのだが。
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目 次
Ⅰ 精神分析の都ブエノス・アイレス
Ⅱ ディヴァン(長椅子)からの思索
Ⅲ ブエノス・アイレス絵画幻想
Ⅳ 哲学者集団BAAB
Ⅴ 五年後のいま
あとがき
著者プロフィール
大嶋 仁(おおしま・ひとし)
1948年生まれ。1980年東京大学大学院博士課程(比較文学比較文化)修了。バルセロナ、リマ、ブエノスアイレス、パリで教鞭を執った後、現在福岡大学人文学部教授。専攻は比較文学(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。
<関連サイト>
Museo de la Deuda Argentina (The Museum of Foreign Debt)
・・ブエノスアイレス大学構内にある「債務博物館」。経済変動の激しいアルゼンチンでは、1827年のデフォルト(=債務不履行)以来、累積債務問題が国民を苦しめている。こうした経済状況が精神的ストレスを生んでいることもある
(2015年7月18日 項目新設)
<ブログ内関連記事>
書評 『ユダヤ人の思考法』(大嶋仁、ちくま新書、1999)-ユダヤ系フランス人にとっての「西欧近代」と日本人にとっての「西欧近代」
・・『精神分析の都-ブエノス・アイレス幻視-』の著者による本
書評 『アルゼンチンのユダヤ人-食から見た暮らしと文化-(ブックレット《アジアを学ぼう》別巻⑨)』(宇田川彩、風響社、2015)-食文化の人類学という視点からユダヤ人について考える
・・本ブログ記事を執筆後に出版されたもの。ただし、この本には『精神分析の都-ブエノス・アイレス幻視-』への言及はいっさいない
■アルゼンチン関連
600年ぶりのローマ法王と巨大組織の後継者選びについて-21世紀の「神の代理人」は激務である
・・欧州以外からはじめて選出された新教皇フランシスコ一世は、アルゼンチンのイエズス会出身者
書評 『幻の帝国-南米イエズス会士の夢と挫折-』(伊藤滋子、同成社、2001)-日本人の認識の空白地帯となっている17世紀と18世紀のイエズス会の動きを知る
・・ブラジルとアルゼンチンの緩衝地帯であったパラグアイで成功したイエズス会ミッション
映画 『マーガレット・サッチャー-鉄の女の涙-』(The Iron Lady Never Compromise)を見てきた
・・フォークランド紛争で英国に敗れ去ったアルゼンチン。現地ではマルビナス諸島というが、もともとアルゼンチンは英国文化の影響圏である
書評 『ポロ-その歴史と精神-』(森 美香、朝日新聞社、1997)-エピソード満載で、埋もれさせてしまうには惜しい本
・・英国文化の影響のつよいアルゼンチンではポロは国技となっている
映画 『ハンナ・アーレント』(ドイツ他、2012年)を見て考えたこと-ひさびさに岩波ホールで映画を見た
・・ユダヤ人虐殺の責任者であるアイヒマンは、逃亡先のアルゼンチンでイスラエルの情報機関モサドによって拘束されイスラエルに連行された
『エンデの遺言-「根源」からお金を問うこと-』(河邑厚徳+グループ現代、NHK出版、2000)で、忘れられた経済思想家ゲゼルの思想と実践を知る-資本主義のオルタナティブ(4)
・・エンデに大きな影響を与えた「忘れられた経済思想家」のシルビオ・ゲゼルは、アルゼンチンに渡って実業家として成功したドイツ移民で、景気変動の激しいなかで破産もせず生き残った人である
■ユダヤ関連
書評 『ユダヤ人が語った親バカ教育のレシピ』(アンドリュー&ユキコ・サター、インデックス・コミュニケーションズ、2006 改題して 講談社+α文庫 2010)
本の紹介 『ユダヤ感覚を盗め!-世界の中で、どう生き残るか-』(ハルペン・ジャック、徳間書店、1987)
・・この本の著者も、日本語に堪能な日本在住ユダヤ人
書評 『未来の国ブラジル』(シュテファン・ツヴァイク、宮岡成次訳、河出書房新社、1993)-ハプスブルク神話という「過去」に生きた作家のブラジルという「未来」へのオマージュ
・・ウィーン出身のユダヤ系小説家が夢見たブラジルの未来
書評 『ロシア革命で活躍したユダヤ人たち-帝政転覆の主役を演じた背景を探る-』(中澤孝之、角川学芸出版、2011)-ユダヤ人と社会変革は古くて新しいテーマである
・・アルゼンチンのユダヤ人の多くは、迫害を逃れてロシアから移民してきた人たち
書評 『日本近代史の総括-日本人とユダヤ人、民族の地政学と精神分析-』(湯浅赳男、新評論、2000)-日本と日本人は近代世界をどう生きてきたか、生きていくべきか?
・・社会科学の分野では小室直樹と双璧をなすと、わたしが勝手に考えている湯浅赳男氏。この本は日本人必読書であると考えている。民族の「精神分析」というアプローチが興味深い
(2015年7月17日、11月12日・15日 情報追加)
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