2015年11月12日木曜日

書評『アルゼンチンのユダヤ人-食から見た暮らしと文化-(ブックレット《アジアを学ぼう》別巻⑨)』(宇田川彩、風響社、2015)-食文化の人類学という視点からユダヤ人について考える


フィールドワークをもとにした文化人類学的ユダヤ研究の成果である。それも食文化をつうじてのアプローチというのが新鮮だ。彼らが日常的に食べてきたもの、儀礼で食べるものをつうじて、ユダヤ人の特質に迫っている。

対象となっているのはアルゼンチン、しかも首都ブエノスアイレスに集中して居住するユダヤ系市民である。意外と知られていないが、アルゼンチンのユダヤ系人口は20万人で南米一、しかも世界的にみれば第8位になる。スペイン語を第一言語としている民族集団だ。

だが、ユダヤ人といっても出自はさまざまだ。もともとスペインの植民地だったこともあって古くは16世紀にまでさかのぼるが、大半は19世紀以降の移民である。ロシアや中東欧を中心としたアシュケナジームが中心となり、20世紀に入ってからはポーランドから、さらにホロコーストを逃れてドイツ・東欧・イタリアからも入ってきている。その他、さまざまな地域から移民してきており、出自からみれば雑多な集団である。ユダヤ民族という共通性はもちながらも、言語も文化・習慣も異なっていた

一言でいってしまえば、移民社会アルゼンチンにおける多様なバックグラウンドをもった民族集団ということになる。週一回の安息日や年中行事としての過ぎ越しの祭りなどにおける宗教儀礼をどこまで遵守しているかは、正統派や改革派などの宗派によって異なるし、個人レベルでも異なるのは日本人と同様である。

そんなブエノスアイレスのユダヤ人であるが、本書で取り上げられているのが日常食としてのゲフィルテイッシュ、安息日のハラー、そしてユダヤ人の味覚の中心にある苦味と甘みについてである。もちろんアルゼンチンであるから、ユダヤ人であっても牛肉は日常的に食べられている。

宗教と食事が密接な関係にあるのが安息日のハラーである。小麦粉からつくったパンであるが、興味深いのは安息日向けの特別なレシピによるものではない、ということだ。同じ事物でありながら特定の「時間」には聖別されるのがユダヤ的な思考法特定の「場所」を聖別する日本の神道とは異なる。

年中行事的な儀礼には、苦味のある食べ物をつうじて苦難の歴史を追体験し、ユダや暦の新年にはリンゴとハチミツという甘みを味わう。苦味と甘みはセットになっている。

日本語でも苦い経験や甘い記憶といった表現があるが、ユダヤ人は味覚をつうじた家庭内の個人的な身体経験を、民族全体の記憶として共有する仕組みをつくりあげているのである。これはある種の「食育」といってもいいのかもしれない。

何を食べるかにとって人間は変わってくる。それはただ単に生理学的な意味だけでなく、その食に込められた意味、食にまつわる記憶をつうじてである。だからこそ食文化なのであり、ある意味では文化そのものを超えた意味合いをもつ。

ユダヤ人の食文化という特殊なテーマではあるが、日本人みずからの食文化について振り返るヒントになるかもしれない。



目 次

はじめに
ユダヤ人とは誰か
一 アルゼンチンのユダヤ人
 1 アルゼンチンという国
 2 アルゼンチンのユダヤ人の来歴
 3 言語・教育
 小括
二 安息日のハラー
 1 安息日の食事
 2 ロミナ家の安息日の晩餐
 3 食餌規定と聖なるもの
 小括
三 苦菜と蜂蜜
 1 苦いものと甘いもの
 2 ジュディス家の過ぎ越しの祭
 3 言葉と食べ物
 小括
四 牛肉とアサード
 1 牛肉とアルゼンチン人
 2 お母さんの料理とユダヤ料理
 小括
五 食べ物がもたらすつながり
 1 「ホーム」と食べ物
 2 食べ物を分かち合うこと
 おわりに
注・参考文献
あとがき


著者プロフィール 

宇田川 彩(うだがわ・あや)
1984年、横浜市生まれ。東京大学総合文化研究科博士課程在籍。主要業績に、「似たものとしてのブエノスアイレスのユダヤ人─《私》から考えるユダヤ人アイデンティティ」『ユダヤ・イスラエル研究』2011年、第24号、"Spiritual Searchers without Belonging: through the case study of Buenos Aires Jews"『文化人類学研究』2014年、第14巻など。 (本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。



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