(韮山反射炉は高さが15.6m 筆者撮影)
昨日(2018年4月21日)のことだが、「韮山反射炉」を見に行ってきた。世界遺産に登録されている「幕末・明治の産業革命」の遺産の一つだ。
幕末の歴史を見ていると、やたら「反射炉」というものが登場する。有名なところでは藩主・島津斉彬の薩摩藩、藩主・鍋島閑叟の佐賀藩など全国各地の藩や幕府で取り組まれた。
「反射炉」は大砲の鋳造を主目的に建設された金属融解炉のことだ。 燃焼室で発生させた熱を、天井や壁で「反射」させて炉床に熱を集中させ、そこで金属の融解を行う。
明治時代になると、いきなり「転炉」の時代になって、「反射炉」の「は」の字も目にすることがなくなる。だからだろう、困ったことに「反射炉」とは何かという説明が、ほとんどなされることがないのだ。
「反射炉」ってなんだ? なぜ「反射炉」なんだ?
やたら出てくる割には、現在の製鉄技術とどう関係するのかよくわからない。そんなことが、ずいぶん昔から気になっていた。
「韮山反射炉」は、韮山の代官で技術官僚の江川太郎左衛門(=江川英龍、坦庵)が主導して建設した幕府側のものだ。現在まで残る唯一の「反射炉」である。
というわけで、意を決して(!)見に行ってくることにしたのだ。長年の疑問を解決するために。
■韮山は伊豆半島の真ん中に位置
韮山は、静岡県の伊豆半島の真ん中に近い伊豆の国市にある。関東からならムリすれば日帰りも可能だ。今回は、あたらしく開設された「新宿バスタ」から高速バスで行ってみた。座席指定で事前に要予約、往復で4510円なので、鉄道を利用するより安い。
朝9時15分の便で出かけて、16:00現地発の便で帰るという日帰りの強行軍。土曜日なので満席だ。時刻表では2時間強で到着することになっているのだが、東名高速が混んでいるので定刻より1時間以上の遅れ、片道で3時間以上もかかった。したがって、現地滞在時間は3時間程度しかないので、観光案内所でレンタサイクルを借りて走りまくった。
目的地は2つ。まずは「韮山反射炉」、そして「江川邸」。江川邸とは、反射炉を建設した江川太郎左衛門の屋敷のことである。
巡回バス(300円)という選択もあったが(観光案内所ではそちらを推奨していた)、レンタサイクル(500円)を選択。自転車のほうが機動力があるので正解だった。
スマホをナビに変速ギアの自転車で走りまくった。なんといっても富士山の裾野だから、天気は快晴で富士の白嶺を見ながらのサイクリングは最高だ!
(反射炉から江川邸に向けて走る。目の前には富士山! 筆者撮影)
■なぜ韮山に反射炉なのか?
韮山反射炉は、1853年に建設が開始され、ここで大砲が製造された。この1853年というのはペリー艦隊が「黒船」として「開国」を求めて来航した年だ。翌年の2度目の来日で日米和親条約が締結されることになる。
そもそものきっかけは、1840年のアヘン戦争のインパクトである。当の中国ではなく、日本の武士を中心とした知識階層に大きな危機感を呼び覚ますことになった。江川太郎左衛門は、伊豆半島の治める代官であり、海防にはきわめて大きな危機感を感じていた一人であった。
世界的大都市の百万都市の江戸にとっての江戸湾、そして伊豆半島の地政学的重要性から、海防のための大砲による備えは喫緊の課題であったのだ。
当時の最先端ハイテク地域は鍋島公が藩主の佐賀藩で、江川太郎左衛門は佐賀藩の協力のもとに反射炉の建設と大砲製造を行ったらしい。そもそも佐賀藩自体、オランダ語の専門書だけ読んで建設に取り組んで成功しているのだから、驚きとしかいいようがない。
「反射炉」の時代があっという間に終わったのは、同時代の英国はまさに「産業革命」の真っ最中で、日本で洋書を頼りに自前で反射炉の製造に取り組んでいた時期には、英国では最新鋭のベッセマー法が発明されていたからだ。
明治維新以後は、高給で雇った外国人技術者をフルに活用することになる。つまるところ、時間をカネで買うという戦略に転換したわけだ。
(反射炉の説明書き 筆者撮影)
技術史的に見れば、「反射炉」は過渡期の製造技術であったわけだが、専門書を読んだだけで自前で創ってしまう日本人というのは、現在から見てもとてつもない人たちであったとしか言い様がない。
2015年にはめでたくも「世界遺産」に登録されているが、わたしが訪問した時には、外国人観光客は皆無であった。「世界遺産」というのは外国人観光客を呼び込むためのものというよりも、権威付けによって日本人の関心を喚起するために利用されている仕組みなのだな、と思うのであった。
別に皮肉で言っているわけでない。世界遺産に登録されたことで予算が付き、遺跡を保護しようという地域住民の意識が高まり、しいては地域振興につながるという「効用」があるからだ。
まあ、そんなことはさておいても、日本人なら一度は見ておきたい「韮山反射炉」。165年前の産業遺産が、原型を保ったまま保存されているのは素晴らしいことだ。
まだ見たことがない人は、ぜひ見るべきだと力説しておきたい。
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