ここのところ、ふたたび近辺を歩き回っては石碑など見ている。カネを払って遠くにいく必要はない。とくに名所旧跡ではなくても、歩ける範囲でいろんなものがある。
というわけで、千葉県北西部の船橋市に居住する「あまのじゃく」なわたしは自宅周辺を散策する。犬も歩けば棒に当たる。現代人はスマホを手に持って、google map を頼りに歩く。 歩けば石碑など、なにかしらあるものだ。
(船橋市高根にて筆者撮影)
写真は、江戸時代後期の「十九夜講」の石碑。月齢で19夜(=寝待ち月)の夜に女性たちが集まって供養し、安産など祈ったらしい。このほか、「二十三夜」などに集まる講があったようだ。一般庶民の信仰、民俗仏教である。
このほかよく目にするのが庚申塔や馬頭観音。それについて知ったからといって、とくに役に立つわけでもないが、純粋な好奇心というものは、抑えることはできないもの。もっと知りたい思うから関連文献を読む。
(船橋市薬円台の倶利伽羅不動尊境内の「庚申塔」 筆者撮影)
ずいぶん以前に入手していながらまだ読んでなかった『庚申信仰-庶民宗教の実像』(人文書院、1989)と『日待・月待・庚申待』(人文書院、1991)を読んだ。いずれも著者は飯田道夫氏で二部作。外資系航空会社のサラリーマンやりながら、まとめた研究成果。
ただし、京都在住なので関西の事例が中心となる。 庚申塔が多く残っている関東についての言及はそれほど多くない。サラリーマンと二足のわらじでは、それは難しかろう。とはいえ、庚申塔が関東に多く残っているのは、関東が信仰の中心だったことを意味しているわけではない。結果として、石碑が多く残されたというだけである。
庚申待ちや日待・月待といった庶民信仰は、月齢にもとづく特定の日に集まって行われたものだ。大都市部を除いて娯楽の少なかった江戸時代後期の民衆たちにとっては、飲食をともなう集会は、手軽に楽しめる娯楽の機会でもあったわけだ。
こういった庶民信仰が石碑という痕跡を残して消えていったのは、明治維新の際の「神仏分離令」にともなう「廃仏毀釈」が原因だったようだ。淫祠邪教を禁じるという、明治政府の宗教政策の断行が招いたものである。
著者もいうように、この本がでた1990年前後には、庚申信仰や月待などは、ほぼ消滅の間際だったというから、30年後の現在2020年代には消滅したといってもいいのだろう。もちろん、生活環境が激変して娯楽なんていくらでもあるので、昔ながらの生活習慣が生き延びるはずがない。
とはいえ、いまから150年前の江戸時代までは当たり前のように存在したものを、それがすでに消滅してしまった現在から、残された資料をもとに想像によって再構成するのは難しい。
石碑にこめられた庶民の喜怒哀楽の思いに想像をめぐらしてみるだけだ。そう、石もまた記憶媒体なのだ。アナログの。
PS あらたに庚申塔の写真を追加した。(2024年3月24日)
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