『株式会社の終焉』というタイトルは、ビジネスパーソンなら聞き捨てならないものがある。
これは読まないわけにはいくまい。というわけで 『株式会社の終焉』 を一読してみた(*)。
(*注)この文章は2016年に執筆されたものである。
感想はというと、まあこういう見方もあるだろうな、ということ。西欧に起源をもつ「近代資本主義」500年の歴史と、同じく西欧に起源をもつ「株式会社」200年の振り返りにかんしては、歴史をアタマのなかで整理するには最適だ。
「資本と国民の分離」とでも言うべき現象が、経済グローバリゼーションのもと進行している。上場企業の株価を維持するために ROE(自己資本利益率) を上昇させには、コストに占める人件費を削減する。ある意味では国民生活の犠牲のもとに上場企業の株価を維持する政策であり、資本原理主義ともいうべき経済グローバリゼーションが続いていることを示している。
この動きに対して、異議申し立てが国民中心主義でもあるナショナリズムの台頭という形で顕在化してきているのは周知のとおりだ。金融業が主導する経済グローバリゼーションとナショナリズムの対立である。
感想はというと、まあこういう見方もあるだろうな、ということ。西欧に起源をもつ「近代資本主義」500年の歴史と、同じく西欧に起源をもつ「株式会社」200年の振り返りにかんしては、歴史をアタマのなかで整理するには最適だ。
「資本と国民の分離」とでも言うべき現象が、経済グローバリゼーションのもと進行している。上場企業の株価を維持するために ROE(自己資本利益率) を上昇させには、コストに占める人件費を削減する。ある意味では国民生活の犠牲のもとに上場企業の株価を維持する政策であり、資本原理主義ともいうべき経済グローバリゼーションが続いていることを示している。
この動きに対して、異議申し立てが国民中心主義でもあるナショナリズムの台頭という形で顕在化してきているのは周知のとおりだ。金融業が主導する経済グローバリゼーションとナショナリズムの対立である。
勤労者の所得が減れば購買力も減少するわけだが、回り回れば企業の首を絞める行為ともなりかねない。この矛盾が放置されつづけることはありえないだろう。
■著者の分析は面白いが展望や提言には賛成しかねる
「近代資本主義」が機能不全状態に陥っているというところとまではいい。だが、どうもその先の展望や提言には賛成しかねるものがある。
おそらく著者が元証券会社のエコノミストということもあろう、著者のいう「株式会社」とは、株式市場に上場している「公開企業」を暗黙のうちに想定しているようだ。
「資本主義の機能不全 ⇒ 株式市場の機能不全 ⇒ 上場企業の機能不全」という図式は、比較的わかりやすいストーリーだ。
「近代資本主義」が機能不全状態に陥っているというところとまではいい。だが、どうもその先の展望や提言には賛成しかねるものがある。
おそらく著者が元証券会社のエコノミストということもあろう、著者のいう「株式会社」とは、株式市場に上場している「公開企業」を暗黙のうちに想定しているようだ。
「資本主義の機能不全 ⇒ 株式市場の機能不全 ⇒ 上場企業の機能不全」という図式は、比較的わかりやすいストーリーだ。
たしかにドイツでも日本でも、世界的企業の不祥事が後を絶たない。 単なる一企業の不祥事とは言い切れない構造的な問題が存在すると考えるのも不思議ではない。
ただ、これをもって 「株式会社の終焉」 とまで言えるかどうか?
日本に限らず、株式会社の圧倒的多数は「非上場」である。証券会社の視点からすれば「未上場」ということになるのだろうが、株式会社の枠組みを使用していても、最初から上場の意図がない企業が圧倒的多数を占めることを考えれば「非上場」というべきだ。この観点からすれば、株式会社という枠組みの有効性はまだまだ消えないのではないか?
あくまでもマクロの話であって、ミクロの話ではない。個々の株式会社の話ではない。
となれば、個々の企業レベルでは最善を尽くしてがんばるしかないわけだ。個人もまた同じ。いきなりすべてが「終焉」するわけではないからだ。
ただ、これをもって 「株式会社の終焉」 とまで言えるかどうか?
日本に限らず、株式会社の圧倒的多数は「非上場」である。証券会社の視点からすれば「未上場」ということになるのだろうが、株式会社の枠組みを使用していても、最初から上場の意図がない企業が圧倒的多数を占めることを考えれば「非上場」というべきだ。この観点からすれば、株式会社という枠組みの有効性はまだまだ消えないのではないか?
あくまでもマクロの話であって、ミクロの話ではない。個々の株式会社の話ではない。
となれば、個々の企業レベルでは最善を尽くしてがんばるしかないわけだ。個人もまた同じ。いきなりすべてが「終焉」するわけではないからだ。
「移行期」というものは、西洋史においては中世から近代への移行期も、古代から中世への移行期も、いずれも長期にわたるものであった。近代からそのつぎの時代への移行期もまた長期にわたるものと予想される。数十年から百年程度の移行期間がある。
■「閉鎖経済」ならモデルは西欧中世ではなく江戸時代の日本ではないか?
資本主義が機能不全となっているのは、もはや地球上には資本主義にとってのフロンティアが存在しなくなったことにある。フロンティア消滅によって、地球がそもそも閉鎖形経済となったのである。この議論は重要だ。
だが、最終章は違和感が残る。なぜ中世なのか?
著者の議論展開は、結局は西欧中心史観となっている。たしかに株式会社の歴史と近代資本主義の歴史は西欧近代そのものだが(・・米国やドイツ、日本はそのバリエーションである)、西欧中世などユーラシア大陸辺境のローカル経済に過ぎなかったという視点が欠けている。
西欧中世の時代、巨大な経済先進地帯であったイスラームの観点が欠如している。コンメンダ含め、商業関連の制度の大半は、イタリア商人が交易をつうじて高度先進地帯のイスラーム圏から導入したものだ。
わたし自身、大学学部時代に西欧中世史を専攻した人間だ。その立場からいえば、学ぶべきは西欧中世ではない。日本人なら江戸時代こそ学ぶべき要素が多いと言っておこう。なぜなら、江戸時代こそ、完全ではないものの、限りなく閉鎖形の経済であったからだ。モデルは身近に求めるべきである。
資本主義が機能不全となっているのは、もはや地球上には資本主義にとってのフロンティアが存在しなくなったことにある。フロンティア消滅によって、地球がそもそも閉鎖形経済となったのである。この議論は重要だ。
だが、最終章は違和感が残る。なぜ中世なのか?
著者の議論展開は、結局は西欧中心史観となっている。たしかに株式会社の歴史と近代資本主義の歴史は西欧近代そのものだが(・・米国やドイツ、日本はそのバリエーションである)、西欧中世などユーラシア大陸辺境のローカル経済に過ぎなかったという視点が欠けている。
西欧中世の時代、巨大な経済先進地帯であったイスラームの観点が欠如している。コンメンダ含め、商業関連の制度の大半は、イタリア商人が交易をつうじて高度先進地帯のイスラーム圏から導入したものだ。
わたし自身、大学学部時代に西欧中世史を専攻した人間だ。その立場からいえば、学ぶべきは西欧中世ではない。日本人なら江戸時代こそ学ぶべき要素が多いと言っておこう。なぜなら、江戸時代こそ、完全ではないものの、限りなく閉鎖形の経済であったからだ。モデルは身近に求めるべきである。
■たしかに資本主義にとってのフロンティアは地球上からは消滅したが・・
また、こういう主張だってありうる。地球(グローブ)に限界があるなら、宇宙(コスモス)にフロンティアを拡大していけばいいじゃないか!宇宙空間はそれこそ無限だ。もちろん、宇宙ビジネスが採算に乗るまでかなりの時間がかかるだろうが、方向性としては間違っていないとわたしなど考える。
おそらく著者がなにを言おうと、資本家は極限まで利益を追求するであろうし、そもそも「非上場企業」は、株価の動向には関係なく事業を続けるだけのことだ。
だが、その先に待っているのは、利回りが低下し、停滞した状態が続くということだ。つぎのブレークスルーがあるまでは。それを「移行期」といってもよいのではないか?
著者は、コンビニが飽和に近いまで普及している日本の現状を批判しているが、むしろ心配なのは、コンビニなどの社会インフラ、道路などの公共財のメンテナンスで発生する費用が捻出可能なのか、ということだ。いくら現在の日本が幸せだとしても、今後はさまざまなインフラが劣化していくことを考えると、とてもサステイナブルとは言いがたい・・・。
だが、その先に待っているのは、利回りが低下し、停滞した状態が続くということだ。つぎのブレークスルーがあるまでは。それを「移行期」といってもよいのではないか?
著者は、コンビニが飽和に近いまで普及している日本の現状を批判しているが、むしろ心配なのは、コンビニなどの社会インフラ、道路などの公共財のメンテナンスで発生する費用が捻出可能なのか、ということだ。いくら現在の日本が幸せだとしても、今後はさまざまなインフラが劣化していくことを考えると、とてもサステイナブルとは言いがたい・・・。
だからこそ、成長路線は捨てるわけにはいかないのだ、技術開発はやめるわけにはいかないのだ。われわれは「先進文明」を選択してしまった以上、もはや後戻りはありえないことを自覚しなくてはなるまい。
平日にはファストフードを食べ、休日にはスローフードでくつろぐ。これが望ましいライフスタイルではないか? すべての人が一様にスローダウンを選択する必要はない。真の意味での価値観多様化を進めるべきなのだ。
著者の主張は、ある種の「ユートピア思考」の匂いを感じる。ユートピアの末路については、歴史を振り返るだけで十分だ。死屍累々というべきことを知るべきである。
著者の主張は、ある種の「ユートピア思考」の匂いを感じる。ユートピアの末路については、歴史を振り返るだけで十分だ。死屍累々というべきことを知るべきである。
「ですます調」が読みやすいにもかかわらず、やたら引用文が多いのが鼻につく。その引用文が結局のところ、西欧の思想家のものばかりなので、知らず知らずのうちに「西欧中心史観のワナ」にはまっているのではないか、という印象をもたざるをえない。それが本書を残念な内容にしている。
とはいえ、本書はアタマの整理にはいいのではないかと思う。結論には賛成ではなくても、分析そのものは面白いからだ。
<関連サイト>
『資本の終焉』(出版社サイト)
新しい資金調達方法で「株式会社」は消えるかもしれない 野口悠紀雄 [早稲田大学ファイナンス総合研究所顧問] 【第4回】 2016年10月6日
http://diamond.jp/articles/-/103825
<ブログ内関連記事>
■水野和夫氏の著作
書評 『終わりなき危機-君はグローバリゼーションの真実を見たか-』(水野和夫、日本経済新聞出版社、2011)-西欧主導の近代資本主義500年の歴史は終わり、「長い21世紀」を生き抜かねばならない
書評 『超マクロ展望-世界経済の真実』(水野和夫・萱野稔人、集英社新書、2010)-「近代資本主義」という既存の枠組みのなかで設計された金融経済政策はもはや思ったようには機能しない
書評 『世界史の中の資本主義-エネルギー、食料、国家はどうなるか-』(水野和夫+川島博之=編著、東洋経済新報社、2013)-「常識」を疑い、異端とされている著者たちの発言に耳を傾けることが重要だ
■「移行期」について考える
書評 『21世紀の歴史-未来の人類から見た世界-』(ジャック・アタリ、林昌宏訳、作品社、2008)-12世紀からはじまった資本主義の歴史は終わるのか? 歴史を踏まえ未来から洞察する
「500年単位」で歴史を考える-『クアトロ・ラガッツィ』(若桑みどり)を読む
書評 『歴史入門』 (フェルナン・ブローデル、金塚貞文訳、中公文庫、2009)-「知の巨人」ブローデルが示した世界の読み方
政治学者カール・シュミットが書いた 『陸と海と』 は日本の運命を考える上でも必読書だ!
■「閉鎖形経済」の先進モデルは江戸時代であった
書評 『驕れる白人と闘うための日本近代史』(松原久子、田中敏訳、文春文庫、2008 単行本初版 2005)-ドイツ人読者にむけて書かれた日本近代史は日本人にとっても有益な内容
・・「原著のタイトルは、Raumschiff Japan. Realität und Provokation (Gebundene Ausgabe). Knaus Albrecht (Juli 1998)。直訳すれば、『宇宙船日本-その現実と挑発-』
「イフ」を語れる歴史家はホンモノだ!-歴史家・大石慎三郎氏による江戸時代の「改革」ものを読む
書評 『バイオスフィア実験生活-史上最大の人工閉鎖生態系での2年間-』(アビゲイル・アリング/マーク・ネルソン、平田明隆訳、講談社ブルーバックス、1996)-火星探査ミッションのシミューレーションでもあった2年間の記録
・・有人宇宙探査船もまた「人工閉鎖生態系」
(2022年12月23日発売の拙著です)
(2022年6月24日発売の拙著です)
(2021年11月19日発売の拙著です)
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