2009年7月31日金曜日

ネット空間における世論形成と「世間」について少し考えてみた


                  
 私がここ最近書評を投稿しているオンライン書店bk1のコラム「書評ポータル」の本日7月31日付の記事に、以下のコメントが載っているので転載させていただく(・・毎週更新されるコラムなので、過去の文章は消去されてしまう可能性が高いので、写真で記録しておくこととした)。 



「KY=空気が読めない」
という言葉に初めて遭遇した時、私は驚きと一種の不快感を覚えたものでした。周りの顔色をうかがうより自分の意見をしっかり持てよと、若い人たちに説教したい気持ちにかられたものです(笑)。しかし、「KY」を巡る社会的条件は実は結構複雑なのですね。日本人の対人意識をテーマにした鴻上尚史著『「空気」と「世間」』の書評の中で、“サトケン”さんはこのように書いておられます。「壊れた『世間』にかわって現在の日本人、とくに若い人たちを支配して猛威をふるっているのが『空気』だという指摘は、実に納得いくものである」「安定した状態ではその組織なり人間関係の中で『世間』が機能するが、不安定な状態では『空気』が支配しやすい。/『世間』が長期的、固定的なものであるのに対し、『空気』は瞬間的、その場限りの性格が強い」。なるほど。しがらみにがんじがらめになっているからではなく、逆に、人間関係が希薄だからこそ過剰に顔色をうかがうようになっているということですね。異論を挟むと相手が傷ついてしまったりするので言いたいことも言えなくなる・・・うーん、これはまずい。ものの言い方には気をつけなければいけませんが、言説を真摯に検討して批判的に評価することも、相手に対し敬意を払うことではないでしょうか。この書評コーナーが、自由と中身の濃さを併せ持つ「世間」形成の場になればなあ、と思ってしまうのです。

<2009.7.31 オンライン書店ビーケーワン販売部 辻和人>


 ネット空間において非難の応酬バトル、というより集中攻撃が展開される、いわゆる「ブログ炎上」については、すでによく論じられている現象であるが、リアル世界よりも匿名性が当たり前のネット空間では、より凝縮された形で発火炎上しやすい

 これを避けるためには、ある種の「節度をもった振る舞い」がネット空間においても求められる。

 bk1やamazonを含めたオンライン書店に投稿された書評は有用なものも多い一方、ただ単に著者が嫌いだとか、扱っている対象が嫌いだとか、取り上げた内容が気にくわないとか、一方的に切り捨てる形のネガティブなコメントも多々見られる。

 往々にしてこの種のコメントは、内容をまったく読まずに思い込みだけで書かれていることが多い。

 正直言ってこういうコメントは読んでいても気持ちよくならないのは確かだ。

 
 私が書評で取り上げた鴻上尚史の『「空気」と「世間」』について敷衍すれば、ネット空間における「ブログ炎上」現象とは、ある一定の秩序が形成される前のカオス状態での、瞬間風速的な「空気」の醸成と爆発炎上、とでもいえようか。

 「世間」がいいとは決していわないが、「世間」は属する人をうっとおしく拘束する反面、暗黙の掟(ルール)を、タテマエとしてであれ、侵犯さえしなければ安楽に生きていける、という両面をもっている。

 「世間」とはまあ、いってみれば日本語を母語とする日本人というコドモが、オトナとして生きるための"偽装"、"擬態"ではあるが、ネット空間ではオトナの仮面(ペルソナ)をかぶる必要がないので、内なるコドモが一気に浮上して前面にでてしまうのだろう。

 自らの内なるコドモは、あくまでも自分のココロの中にしまって飼い慣らしておかねばならないのだが・・・もっともあまり抑圧しすぎると「逆噴射」してしまうので、適度な減圧も必要ではある。


 「世間」や「空気」は、日本語を「母語」として受け入れた人間が日本語で生きていく限り、逃れ得ない宿命に近いものだと考えなくてはならない。

 母語とは英語で言えば mother tongue (ドイツ語なら Muttersprache)、つまり人間がこの世に生まれてから初めて話かけられ認識されるコトバの体系のことをさす。新生児にもっとも近い存在である母親のコトバ、すなわち母語、という。実際は出生以前、母親の胎内にいるときから母親のコトバを聴いていると考えるのが正しいだろう。

 社会言語学者でモンゴル学者の田中克彦は『言語の思想』(NHKブックス、1965)の中で、「人間は、このような不合理な運命づけによって、具体的にどれかのことばを母語としないかぎり人間になることはできない」といっている。至言である。

 これは、コンピュータ用語でいえば、日本語を母語として受け入れた人間は、日本語をOS(オペレーティング・システム)として、その上で様々なアプリケーションソフトを走らせるしか他に生きる道はない、したがって日本語世界から絶対に逃れることはできないのだ。

 もしいやなら初期化して、別の言語のOSを再インストールするしかないのだ。

 しかしこれは人間についてあてはめると、生命維持装置を解除するということなので、もちろんお奨めできません(・・いったん脳から記憶を完全消去しても、OSそのものは消去されないようである。記憶喪失から戻った人間がいきなり全く知らない言語をしゃべり出すということは観察されていない。脳科学的にどういう現象なのか知りたいものだ)。

 ネット時代においても、リアル世界と同様、「世間」についてきちんと考える必要があるのではないか。それが日本語による言説空間である限り。

 「世間」とは、福岡ハカセ的にいえば「動的平衡」の一形態といってもいいのだろうか?



PS ネット空間における「世間」について(再び) もご覧いただきたく
                
        




<ブログ内関連記事>

書評 『「空気」と「世間」』(鴻上尚史、講談社現代新書、2009)-日本人を無意識のうちに支配する「見えざる2つのチカラ」。日本人は 「空気」 と 「世間」 にどう対応して生きるべきか?

ネット空間における「世間」について(再び) 

書評 『見える日本 見えない日本-養老孟司対談集-』(養老孟司、清流出版、2003)- 「世間」 という日本人を縛っている人間関係もまた「見えない日本」の一つである

書評 『醜い日本の私』(中島義道、新潮文庫、2009)-哲学者による「反・日本文化論」とは、「世間論」のことなのだ

集団的意志決定につきまとう「グループ・シンク」という弊害 (きょうのコトバ)
・・グループシンクという「空気」がつくりだす「集団浅慮」のワナ

映画 『es(エス)』(ドイツ、2001)をDVDで初めてみた-1971年の「スタンフォード監獄実験」の映画化
・・視線という権威、権力が支配する空間が「世間」。集団同調圧力は日本人以外にも働くのである

映画 『偽りなき者』(2012、デンマーク)を 渋谷の Bunkamura ル・シネマ)で見てきた-映画にみるデンマークの「空気」と「世間」


・・「世間」も「空気」も特殊日本的現象ではない






(2014年1月9日 情報追加。なお本文には改行を増やし、太字ゴチック化など読みやすくした。内容にはいっさい手入れていない)





(2012年7月3日発売の拙著です)









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