■日本人を無意識のうちに支配する「見えざる2つのチカラ」・・・日本人は 「空気」 と 「世間」 にどう対応して生きるべきか?■
日本人を無意識のうちに支配する「見えざる2つのチカラ」、すなわち 「世間」 と 「空気」 について、自らのアタマで考え抜いて、しかもわかりやすくていねいな説明を試みた本。しかも処方箋つきだ。
著者は脚本家、演出家として、長い期間にわたって、さまざまな年齢層の日本人と接してきた。
若い人たちが「空気」を読めないために感じている苦しみにも多く接してきた。そしてまた、息が詰まる、うっとおしい 「空気」 の中でどう生きていくかとい
う、自分自身の悩みもあった。
著者が「空気」について考える中で出会ったのが、同じく日本人を無意識に支配している「世間」についてであった。
『「空気」と「世間」』(鴻上尚史、講談社現代新書、2009)において初めて、いままでまったく接点がないと思われていた阿部謹也と山本七平が合体したのである。
すなわち、ドイツ中世史を専門とする歴史学者であった阿部謹也の「世間」論と、評論家でかつ聖書学関連の出版社を経営していた山本七平の「空気」論である。
これによって、しっかりとした現状分析が可能となり、また解決策と処方箋も視野に入ってきた。
日本語を使い日本人社会に暮らす日本人は、誰もが避けて通ることのできない 「世間」 と 「空気」。これは海外にいても同じことだ。
「世間」はその中にいるとうっとおしく思う反面、その暗黙のルールに従ってさえいれば自分を守ってくれる、という2つの側面をもっている。
とくに経済的な安心感が精神面の安心感を約束していた時代には、「世間」は強固な存在であった。
「しかしながら世間は壊れている、しかも中途半端な壊れ方だ」、これは著者の基本姿勢である。
社会学者の宮台真司もフィールドワークをつうじて、すでに同様の指摘を行ってきたが、大都市だけでなく、地方都市でも「世間」はすでに壊れている。
とくに2000年以降、「年功序列」と「終身雇用」という日本的経営の重要な要素が崩壊を始め、その結果、「世間」としての会社がもはや従業員とその家族を経済的に守ってくれる存在ではなくなっている。 また2008年のリーマンショック以降の大不況は、さらに「世間」の崩壊スピードを加速させている。
壊れた「世間」にかわって現在の日本人、とくに若い人たちを支配して猛威をふるっているのが「空気」だという指摘は、実に納得いくものである。
安定した状態ではその組織なり人間関係の中で「世間」が機能するが、不安定な状態では「空気」が支配しやすい。 「世間」が長期的、固定的なものであるのに対し、「空気」は瞬間的、その場限りの性格が強い。
著者は、「空気」とは「世間」が流動化したものだ、という「仮説」を示しているが、これは卓見であろう。
では日本人は 「見えざる2つのチカラ」・・・日本人は 「世間」 と 「空気」 にどう対応して生きるべきか? ここから先の処方箋は、実際に本を手にとって直接目をとおしてほしい。安易な結論を求めがちな世の中だからこそ、著者の議論に最初のページからつきあってほしいのだ。
平易な表現で語りかけている本だからこそ、自分自身の問題として自分で考えるための「手引き」になるはずだ。
そして自分自身の処方箋を書いてほしい、と思う。
■bk1書評「日本人を無意識のうちに支配する「見えざる2つのチカラ」・・・日本人は 「空気」 と 「世間」 にどう対応して生きるべきか?」(2009年7月27日に"サトケン"にて投稿掲載)
■amazon書評「日本人を無意識のうちに支配する「見えざる2つのチカラ」・・・日本人は 「空気」 と 「世間」 にどう対応して生きるべきか?」(2009年7月28日に"左党犬"にて投稿掲載)
<書評に関する付記>
文中、阿部謹也と呼び捨てにしているが、これは客観性を担保するための措置であり他意はない。
実は、私は阿部ゼミナール出身なので、本当は「阿部先生」と書きたいのだが、あえて"禁欲的"に振る舞った。以下も敬称略で記す。
「世間論」になんらかのコメントをすることは、ある意味で、私の義務だと考えていたので、少しほっとしている。ユダヤ研究の続きを書かないのは怠慢ではあるが、現在の関心対象からは大きく外れてしまっているので、そのかわりとして今は亡き阿部先生には受け取っていただけたらと思う。
私自身は、中世ヨーロッパ研究そのものもさることながら、「"後期"阿部謹也」における「世間論」探求がもっとも重要な仕事であったと考えている。
私も含む日本語を母語とする日本人にとっての、実存そのものにかかわる問題だからだ。ヨーロッパ研究はそのための作業前提、別の言い方をすれば深いレベルで日本研究するための"鏡"の役割を果たしたといえるだろう。
鴻上尚史は、本書第4章の末尾で、阿部謹也と山本七平は生前には接点はなかっただろうと書いているが、実はこの二人には共通点がある。人生のすべてにわたっていたかは別にして、一神教であるキリスト教の神を実存レベルで知っていたことである。いいかえれば、現世とは異なる「向こう側の世界」を知っていたこと、これが彼らをして、ふつうの日本人には見えていない「世間」、「空気」を発見せしめたのである。
阿部謹也は中学生の頃、家庭の事情でカトリックの修道院に預けられ、将来は司祭になること嘱望されていたこと、山本七平は洗礼を受けたキリスト教徒で、聖書学関連の山本書店の創業者で経営者、旧約聖書にかんする知識を駆使して『日本人とユダヤ人』という本をイザヤ・ベンダサンというペンネームで出版したことは現在では周知の事実である。
鴻上尚史は、いわゆる原理主義的な福音派キリスト教徒が多数を占めるアメリカについて言及しているが、アメリカとヨーロッパの違いは特記しておかねばならない。
「神は死んだ」とニーチェが叫んでからすでに100年以上、日本並みにすでに世俗化が進行しているヨーロッパ(・・とくに西欧)とは違い、ヨーロッパでの迫害を逃れアメリカに渡った人たちの子孫である現在のアメリカ人は宗教的に覚醒しており、同じく宗教的に覚醒しているイスラームと同様の"熱さ"を発散している。一言で欧米というのは大きな間違いである。
敗戦以降、アメリカの圧倒的な影響下にあった日本と日本人(・・キリスト教に限定すれば、明治以降アメリカのプロテスタンティズムの影響が強い)にとって、アメリカ的なものである宗教に言及するのは当然だといえる。しかし「世間」を一神教の神になぞらえるのが適当かどうかはわからない。
鴻上尚史は、「空気」は「世間」が流動化したものだ、といっているが、これは卓見ではあるがあくまでも検証不可能な仮説である。そもそも「世間」自体が作業仮説であり、今に至るまで実証されたことはないし、教義体系も偶像もない「見えない存在」だ。エーテルのように遍在しているわけでもない。特定の人間集団内に形成されるある種の「共通感覚(コモン・センス)」のようなものであろうか。
一方、山本七平が「空気」といったものは、初期キリスト教におけるギリシア語「プネウマ」の援用である。風や息といった意味だが、キリスト教では重要な概念である「聖霊」を表すコトバでもある。
山本七平による、日本人の集団における「空気」の"発見"は、特筆すべき事項である。しかし、さすがに山本七平も現在ここまで「空気」が猛威を振るうとは想像はしなかったであろう。
私の処方箋は、複数の人間関係(ネットワーク)をもち、それぞれ別個の存在として、互いに関係をもたせないことにある。若者ではないが、「スタンスをとる」ことはきわめて重要な処世術である。コミットしすぎないこと。
発言している自分を観察するもうひとりの自分をつねに活性化させておくこと、「幽体分離」というよりも世阿弥的にいえば「離見の見」であろうか。工学的にいえば「自動制御装置」(built-in-stabilizer)の必要といってもいいかもしれない。
キリスト教徒でもムスリムでもない仏教徒の私は、絶対他者(=至高存在、あるいは神)の存在は否定しないが、状況的に振る舞うことは決して倫理にもとることとは考えない。
(以上)
PS 読みやすくするために改行を増やし、一部を太字ゴチックとした。文章の変更はいっさい行っていない。なおこの記事の執筆後に書き続けているブログ記事のなかから参考となるものを<ブログ内関連記事>として付け加えた。
ただし、わたし自身は、鴻上氏の主張はあくまでも「仮説」であり、「世間」というコトバはあまり聞かなくなったとはいえ、実体そのものが消滅したわけではないと考えている。とくに社会を知らない学生は、いまだ「世間」には触れていないので「空気」に敏感に反応する傾向があると考える。 (2013年11月5日)
<関連サイト>
「日本社会の二元的構造」 (講師:一橋大学大学名誉教授 阿部謹也、平成15年5月13日 於:如水会館、社団法人 如水会)
・・一橋大学の同窓会である如水会での講演録
(項目新設 2017年8月14日)
<ブログ内関連記事>
書評 『見える日本 見えない日本-養老孟司対談集-』(養老孟司、清流出版、2003)- 「世間」 という日本人を縛っている人間関係もまた「見えない日本」の一つである
書評 『醜い日本の私』(中島義道、新潮文庫、2009)-哲学者による「反・日本文化論」とは、「世間論」のことなのだ
書評 『緑の資本論』(中沢新一、ちくま学芸文庫、2009)-イスラーム経済思想の宗教的バックグラウンドに見いだした『緑の資本論』
・・山本七平の「空気」論は新約聖書に使用されるギリシア語プネウマにもとづく議論。プネウマは「息」や「空気」あるいは「聖霊」を意味する。三位一体の「聖霊」である
書評 『毒婦。木嶋佳苗 100日裁判傍聴記』(北原みのり、朝日新聞出版社、2012)-これは「女の事件」である。だから「女目線」でないとその本質はわからない
・・「都会と地方の違いは、さらに大きなものもある。「世間」という視線が集中する状態は、見知らぬ人の多い都会よりも地方のほうが、より強烈に存在するからだ。つねに視線を意識しなければならない「世間」はきわめてうっとおしいものだ。しかし、そうはいっても、視線を無視する姿勢をとることが、日本という世間においていかなるリアクションを誘発するのか、これもまた木嶋佳苗という人物を考える上で重要な観点だ」
映画 『es(エス)』(ドイツ、2001)をDVDで初めてみた-1971年の「スタンフォード監獄実験」の映画化
・・視線という権威、権力が支配する空間が「世間」。集団同調圧力は日本人以外にも働くのである
米国は「熱気」の支配する国か?-「熱気」にかんして一読者の質問をきっかえに考えてみる
映画 『偽りなき者』(2012、デンマーク)を 渋谷の Bunkamura ル・シネマ)で見てきた-映画にみるデンマークの「空気」と「世間」
・・「世間」も「空気」も特殊日本的現象ではない
・・プリンシプルをもった生き方とは日本人離れしたということ。つまり世間のしばりにとらわれない生き方だ
「空気は読むものじゃない、吸うものだ」(笑)
ネット空間における世論形成と「世間」について少し考えてみた
ネット空間における「世間」について(再び)
朝青龍問題を、「世間」、「異文化」、「価値観」による経営、そして「言語力」の観点からから考えてみる
書評 『ヨーロッパ思想を読み解く-何が近代科学を生んだか-』(古田博司、ちくま新書、2014)-「向こう側の哲学」という「新哲学」
・・阿部謹也と山本七平に共通していたのは、現世とは異なる「向こう側」の世界を感知する能力であった。両者はともにキリスト教信者であった
(2013年11月5日 項目新設)
(2014年3月4日、2015年6月15日 情報追加)
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