2009年7月29日水曜日

『新世紀 エヴァンゲリオン Neon Genesis Evangelion』 を14年目にして、はじめて26話すべて通しで視聴した




1995年にTV放送されてからなんと14年目にして、初めてかの有名なアニメ作品『エヴァンゲリオン』をみた。

 設定は2014年、主人公の碇(いかり)シンジは14歳の設定、意図したわけではないが、なにやら暗合めいた話ではないか。

 4日間かけて全26話を見終わった。総計13時間近くなる。どうせなら最初から28話にして14時間で設定すればよかったのでは?

 放送当時から、とくに主人公のひとりである綾波レイ(写真)のフィギュアがちまたにあふれていたが、アニメそのものはいまだ見たことがなかったし、1995年当時すでに30歳代の大人(?)がアニメについて話すのは、なんだかオタク扱いされかねないので避けていた、ということもあるような気もする。

 それまでのロボットアニメの常識を覆した難解な作品であること、はそのとおりである。その意味では大人でも十分に楽しめる。すでに古典か?


 このアニメが制作・放送された1995年は、私の認識においては、それは「終わりの始まり」の年であった。

 阪神大震災にオウム・サリン事件、キリスト教的伝統のない日本であるにもかかわらず、「終末論」的幻想が世の中にエーテルのようにみちみちていた

 1995年こそエヴァンゲリオン的にいえば、「セカンド・インパクト」の年だったように思える。

 「終わりなき日常」をむりやり終わらせるチカラとしての「終末論」、オウムの場合は「予言の自己成就」的性格が強かったのだが・・・時代の雰囲気としてはそういうものであった。

 2009年のいまは、ただひたすら生命力の衰退している日本ではあるが・・・もはや暴力的な形での終末ではなく、「終わることにない衰退」か? 宮台真司流にいえば「底が抜けてしまっている」状態だから。

 1995年の制作・放送なので、携帯電話ではなく緑の公衆電話(!)にテレホンカード、i-Podもなく、カードリーダーも非接触型というよりもかなり旧式・・・となんだか笑ってしまう。
 制作時点での考え得る限りの最新テクノロジーも、実際の開発スピードとシンクロすることは絶対にないようで、これはまあご愛嬌か。

 この作品については放送開始以来、世界中で(!)膨大なコメンタリーが作成されているようだが、こういった批評はいっさい参照せず、虚心坦懐に予備知識一切なしで見てみることとする。
 したがって、以下に書いたことはすべて私の感想であり、別に論争に参加するつもりもないし、すでに言い尽くされていることでもあろう。


 今回初めて通しで見た『新世紀 エヴァンゲリオンNeon Genesis Evangelion』は、米国版DVD Platinum Complete Set で、サブ音声の日本語+英語字幕で見た

 第21話から第24話までは、Director's Cut バージョンが別に用意されている。今回はこちらを見ることにした。どうせ見るなら、監督の意志に近いバージョンに近い方がいいだろう。

 日本語音声で英語字幕という形の視聴をしていて気になるのは、日本語で「使徒」が、英語では大文字の「Angel」になっていること。Angel のもともとの意味は「使者」だから、正確に把握した翻訳だといえようか。

 ヒト(人)とシト(使徒)は、日本語のセリフを耳で聞いてりう限り、なんだかダジャレのようなかんじもするが、あえてそういう設定にしたようにも思える。
 もちろん Evangelion とは、福音を意味する Evangel (Gospel, Good News)からつくった造語だろうが、一方、Adam に対する Eva の含みもあろう。このロボットそのものが何度も暗示さえているように、なにもかも飲み込もうとする母胎の暗示か、自他融合して一体になろうという意志か?
 
 英語版音声や、英語字幕はアメリカ人がつけているが、英語で考えるとこの作品の意味もわかってくる。日本語のわからない英語人の把握は、もしかすると若干違うのかもしれない。
 Genesis だから、「新世紀」というより「新・創世記」なのだろう・・・
 「人類補完計画」は Human Instrumentality Project ・・・Complementality ではなく Instrumentality ・・


 オープニング映像にあるユダヤ神秘主義カッバラーの生命の樹、そしてユダヤ=キリスト教的世界観に違和感なく(?)どっぷりと漬かっていながらそれと気づかない現代日本人、これはオウム真理教も同様であった。

 主人公のひとりアスカ・ラングレー惣流がいつもいらだっているが、主人公の少年シンジがやたら口にする「仕方がない」というセリフが多く、英語では It can be helped. There is no choice. となっていること。これはいかにも日本人的な発想ではないか?
 しかし、主人公の碇シンジの優柔不断さは、よくいえば誠実さといいかえることもできるだろう。いや内向的というべきか。
 14歳くらいの男の子はこんなものだ。女の子にくらべて精神年齢ははるかに低く、実は優柔不断な存在である。自分がそうだっただけに(いまもそうか?)、少なからず共感はある。割り切れない性格。自分を自分として受け止めることができない。
 しかし14歳の思考の限界を超えてしまっている、いや無意識の領域に入り込みすぎてしまっている、というべきか?

 英語のセリフをみていると "I" が自明の存在であることを前提にしているので精神病者のセリフのような奇妙な響きをもつが、日本人の発言としては、そもそも「自分」は自明の存在ではないのではないか?

 そもそも「使徒」とは何なのか?
 なぜこうまで波状攻撃をかけてくるのか?
 そしてなぜ14歳の子供なのか?

 全26話のうち前半の13話までは、ロボットアニメのカテゴリーの作品として、ある意味安心してみていることができたが、折り返しの14話以降、急速にストーリーが複雑化する。またここで14か・・14からすべてが本当に始まるという暗示なのか・・
 ある程度意味は解読可能だが、子供がみても知的に解読することは不可能だろうし、もし自分が14歳のとき見たらトートロジーの悪夢にうなされそうな感じがする。感覚的には理解できるだろうから。

 目的と存在意義が不明瞭なままの状態での自己選択、自己意識のゆらぎ、存在意義のゆらぎ、死への誘惑、潜在意識レベルの浮遊、意識の変容、自他意識境界の消滅・・・
 そもそも内面について語るのは、平安時代の日記文学以来の国文学の伝統だし、別にユングなどに言及しなくても、日本人にとっては奇妙でもなんでもない。
 そして内面において自他意識の融合、自他の消滅が起こるのも不思議ではない。
 自己啓発セミナー?

 居場所を求めて苦しむ現代の14歳の物語、といっていいのだろうか? そして成長の物語?
登場人物の大半が何らかの形でトラウマを負った存在。
 複数の現実、自分がみたいと思っている現実、他人が見ている現実・・・・・
 そもそも自分はどうして自分なのか・・・

 そもそもこの物語自体が現実だったのか、別次元の現実だったのか?



<追記>
 南極で「セカンド・インパクト」が発生し人類の半分が失われたのが2000年、物語は2014年に設定されている。やはり14年だ。この14という数字は何なのか?
 14という数字をめぐるシンクロ(ニシティ)?? (2009年7月31日)


 監督の庵野秀明は1960年生まれ、私よりは年上ですが、まあ同世代といってよい。なるほど、彼の作品世界との親和感を感じるのも不思議ではないわけだ。
 さすがに26話続けてみたので「エヴァンゲリオンのオープニング主題歌:残酷な天使のテーゼ」(YouTube動画、音声でるので注意!)がアタマにこびりついて離れない kensatoken です。

(2009年8月1日)


 





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(2012年7月3日発売の拙著です)










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