2009年8月17日月曜日

書評『ノモンハン戦争 ー モンゴルと満洲国』(田中克彦、岩波新書、2009)ー もうひとつの「ノモンハン」はソ連崩壊後明らかになってきたモンゴル現代史の真相




もうひとつの「ノモンハン」はソ連崩壊後明らかになってきたモンゴル現代史の真相

 1939年の「ノモンハン」とは、それについて考える人にとって、光を当てるとさまざまな方向に乱反射するプリズムのような事件である。

 なぜこれだけ多くの日本人にとって「ノモンハン」が気になるのか? すでに70年もたっているのに・・・

 現在でも多くの人が「ノモンハン」について書いてきた。

 たとえば村上春樹は 『ねじまき鳥クロニクル』のテーマそのものにかかわる重要なモチーフの一つとして描いている。

 また、大阪外語大蒙古語学科出身の司馬遼太郎は、長年取り組んできたノモンハンを題材にした小説をついに書くことなく世を去った(・・この件については、本書の「あとがき」で著者があるエピソードを紹介している)。

 満洲で勤務し現地で召集された経験をもつ作家・五味川純平原作の大作映画 『戦争と人間』は、「ノモンハン」の戦闘シーンで終わっていること・・・・などなど。

 このほかにも、まだまだ日本人による無数の「ノモンハン」があるのだろう。


モンゴル学者・田中克彦によるノモンハン(=ハルハ河戦争)

 あらたに刊行された本書は、社会言語学者でモンゴル学者の田中克彦が、分断された民族であるモンゴル人の視点から、 「ノモンハン戦争(=ハルハ河戦争)」を検証したものである。モンゴル人の視点からみる「ノモンハン」は、日本の視点でもソ連(現在ロシア)の視点でもない、きわめて重要な第三の視点である。

 著者は、1991年に東京で開催された「ノモンハン・ハルハ河戦争国際学術シンポジウム実行委員会」の代表をつとめ、ソ連・モンゴル人民共和国(現在はモンゴル国)・日本の研究者をつなぎあわせる役割を果たしている。戦争当事国の4カ国(日本・ソ連・満洲国・モンゴル人民共和国)で使用された、日本語・ロシア語・モンゴル語の三つの言語に精通し、学問をつうじてモンゴル人に限りない愛を注いできた人である。

 本書には、急速に進展しているモンゴル学の最新成果が惜しみなく注ぎ込まれている。とくに、ソ連崩壊後あらたに公開された事実による歴史の書き換え作業の成果が大きい。

 モンゴル人民共和国と満洲国の二国間に発生した国境紛争、そして二つの"傀儡"(かいらい)国家のそれぞれの背後にいたソ連と日本の真の動機をめぐる考察からみる「ノモンハン」は実に興味深い。

 本書は、1973年に刊行された、著者による幻の名著 『草原の革命家たち-モンゴル独立への道-』(中公新書、増補改訂版が1990年刊行)の続編として読まれるべき本である(・・長らく品切れ状態なのが残念だ)。

 辛亥革命による清朝崩壊後、宗主国である中国のくびきから脱した外蒙古(=外モンゴル)は、ソ連の力を借りてかろうじて独立を達成した。しかし民族として生き残るためソ連の衛星国として生きるという苦難の歴史を歩まざるをえなかった。

 満洲国の一部となった内蒙古(=内モンゴル)との統合によるモンゴル民族統一の夢は断念、しかしながらソ連の指示のもと「ノモンハン」に参戦し勝利を収め、またソ連による対日戦争に従うことでスターリンの信頼を確固たるものにし、第二次大戦後には国連にも加盟、ソ連が崩壊した1991年には文字通りの独立を勝ち得ることとなった。

 中国国内にある内モンゴルの遊牧地は、農耕民族である漢民族によって浸食され、民族を支える基盤としてのエコロジーが危機に瀕している。

 このことを考えると、満洲国ではなくソ連側につき、「ノモンハン」で勝利したモンゴルの選択が、長い目でみれば結果として成功であったことがわかる。

  かつて私は、安彦良和の『虹色のトロツキー』(中公文庫)を bk1 書評で取り上げている。

 主人公の日蒙二世の青年ウンボルトは満洲国の側に身を置き、同じモンゴル民族のモンゴル人民共和国軍の兵士とはノモンハンの戦場において向き合うことになる。

 本書はこの名作マンガをよむための参考書のひとつとして読むことも可能だ。モンゴルにかんするトリビアルな知識も楽しめる。


■bk1書評「もうひとつの「ノモンハン」-ソ連崩壊後明らかになってきたモンゴル現代史の真相」投稿掲載(2009年8月12日)


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目 次
第1章 「事件」か、「戦争」か 
第2章 満洲国の国境とホロンボイル 
第3章 ハルハ廟事件からマンチューリ会議まで 
第4章 抵抗するモンゴルの首脳たち 
第5章 受難のブリヤート人―汎モンゴル主義者 
第6章 汎モンゴル主義 
第7章 ソ連、モンゴルからの満洲国への脱出者 
第8章 戦場の兵士たち 
第9章 チョイバルサンの夢―果たせぬ独立 
第10章 誰がこの戦争を望んだか 

著者プロフィール
田中克彦(たなか・かつひこ)
1934年兵庫県に生まれる。1963年一橋大学大学院社会学研究科修了。現在、一橋大学名誉教授。専攻は言語学、モンゴル学。著書多数。(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)


<書評への付記>

 田中克彦は、NHK番組の『爆笑問題のニッポンの教養』で、お笑いコンビ「爆笑問題」の訪問を受けてTVに出たりしているので、一般には言語学者として知られているが、そもそもの出発点はモンゴル学である。

 履歴では一橋大学大学院社会学研究科卒とだけ記されることが多いが、学部は東京外国語大学のモンゴル語学科卒であり、地域研究をヨコ糸としたら、言語学をタテ糸として研究生活を続けてきた人である。

 私は大学入学以来、田中克彦の著書はほとんど読んできており、また学部での言語学の授業は受講しているので、現在まで大きな影響を受けてきた。残念だったのは、モンゴル学は大学院でのみ開講し、学部では一般言語学と社会言語学しか授業をもっていなかったことだ。モンゴル学の授業がもしあったら、私はモンゴル研究者になっていたかもしれない(?)、てなことはなかろう。

 私が属していた歴史学・西洋社会史の阿部謹也ゼミナールの阿部先生とは大学院時代の同期で、現在主流の米国流の社会科学とはまったく異なる、ある意味、古き良き時代のドイツ風の学問で鍛えられた学者である。

 ところで、阿部先生を「偲ぶ会」二次会での田中氏の挨拶は、出席者は長く記憶にとどめることになるだろう。私は田中氏のいわんとしたことは十分に理解できるのだが、少し酩酊していたとはいえ、その場の「空気」にはそぐわない発言だったようだ。その意味では、「"まわりに合わせる"という考えのないモンゴル文化」(宮脇淳子・・当ブログの「書評」を参照)を体現している人といえるかもしれない。

*****

 さて本書は、本来の専門であるモンゴル学の最新著書であるとして取り上げて、書評としてまとめておくこととした。タイトルの『ノモンハン戦争』から、おそらく大半の読者は、ノモンハンの全体像を新書版でコンパクトにまとめた本を想像するだろうが、そう思って読むと失望する恐れがあるだろう。

 「戦争」と銘打った本を出す以上、モンゴル民族以外にも、日本側、ソ連側について、軍事的諸事実をおさえた上で、全体像を描くのが筋というものだと思うが。タイトルで潜在読者を釣るのは、まあ出版社も本を売るためだから仕方ないか。

 本書は、副題になっている「モンゴルと満洲国」が主たる内容となっている。そう読むと実に面白い内容の本である。

 そもそも1991年にソ連が崩壊するまで、モンゴル自身も完全に独立した状態であったわけではなく、観光客だけでなく、研究者も簡単にアプローチできる対象ではなかったようだ。以来18年、ようやく「ノモンハン」の真相が明らかになりつつある段階であり、本書は今後またさらに部分的には書き直されていく性格の本だと考えた方がいいだろう。

 軍事史にかんしては、著者が編訳している『ノモンハンの戦い』(シーシキン他、田中克彦編訳、岩波現代文庫、2006)が、ソ連側からみた貴重なドキュメントとなっている。日本人の視点によるものでは、民間現代史家、自称"歴史探偵"の半藤一利による『ノモンハンの夏』(文春文庫)がもっともよいだろう。


 書評のなかで、村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』について触れているが、実はこの書評を書くまで読んだことがなかったのだ。書評のなかで触れる以上、中身を知らないわけはいくまいと思って、文庫本で3冊の長編小説を読み始めたのだが、読んでいるうちにすっかり内容にはまってしまった。なんだか自分のことが書かれているような気がしてならなかったからだ。

 これは村上春樹の多くの読者に共通する読書体験なのだろう。ノモンハンに対する村上春樹のこだわりは、『辺境・近境』(新潮文庫、1999)においてある程度触れられているので、こちらもぜひ読んでみるとよいと思う。


 私自身は、実はモンゴルには、前から行きたい、行きたいとは思っているのだが、いまだに実現していない。

 中国国内の内蒙古(=内モンゴル)も、1999年の夏に北京発モスクワ行きのシベリア鉄道で通過しただけで、しかも夜中だったので何もわからないまま通り過ぎてしまった。ロシアとの国境の街、満洲里(マンジョウリ)で、レール幅がロシア国内ではさらに広軌になるため、車輪つけかえのための数時間、駅で発車をまっていただけの滞在であった。

 満洲は1999年の夏、シベリア鉄道に乗るために北京に行く前に、遠回りになるが現地を踏んでみた。大連(満鉄、すなわち南満州鉄道株式会社の本社所在地)、長春(旧 新京:満洲国首都)、沈陽(旧 奉天:日露戦争陸戦の激戦地)、撫順(同じく日露戦争の激戦地)、哈爾浜(ハルビン)と見て回った。

 いずれ訪問すべき時が自ずからやってくるだろうと思うので、モンゴルはその時まで取っておくつもりだ。


 また書評の終わりで、安彦良和(やすひこ・よしかず)の『虹色のトロツキー』について触れている。

 私が読んで所有しているのはオリジナルの潮出版社版だが、このマンガは本当に面白い。なんといっても、合気道開祖・植芝盛平が実名で登場するのがうれしい。このほか、陸軍参謀の石原完爾、辻政信をはじめとして、フグ計画にかかわったユダヤ問題の専門家・安江陸軍大佐と犬塚海軍大佐、東洋のマタハリ川島芳子など、満洲にかかわった人間が多数実名で登場する。

 安彦良和はアニメーターとしてロボット・アニメ「ガンダム」にかかわった人だが、マンガ作品では歴史ものが多く、緻密な取材の上に大きな構想のもとに描いているので、歴史エンターテインメントとして一級品といってよい。何よりも、主人公のキャラクター設定が、このマンガが成功した最大の要因だろう。ただ構想が大きすぎて、作者が息切れしてしまったようだが・・・。

 作品にはほかに、『ジャンヌ・ダルク』、『クルドの星』など多数。

 参考のために、8年前に書いた書評を転載しておく。





虹色のトロツキー(全8巻)』(安彦良和、中公文庫、2000 原本1992~1997)
 
 ■大陸(旧満洲)に関心をもつ者なら、必ず読んでおくべき「知る人ぞ知る名著」
 サトケン
 2001/03/28 21:58:00
 評価 ( ★マーク )
 ★★★★★

 大陸(旧満洲)に関心をもつ者なら、必ず読んでおくべき「知る人ぞ知る名著」である。五族協和を謳う満洲国で、創立間もない建国大学に学ぶ日蒙二世の主人公ウンボルトを軸に、見えざる「裏主人公」トロツキーをめぐる血湧き肉躍る冒険マンガ。
 日本の大陸関与政策の実態、抗日パルチザン満蒙独立運動合気道フグ計画(ユダヤ資本の満洲国誘致計画)といった話題がてんこもりで、十分過ぎるほど楽しめる。実は、私は本書ではじめて「建国大学」の存在と、その創立構想に石原莞爾だけでなく、辻政信(本書では悪役の狂言回しを演じる)が関係していることを知った。
 マンガそのものは、あまりにも話が錯綜した結果、結局ノモンハン事件で、モンゴル民族どうしが敵(=モンゴル人民共和国軍+ソビエト赤軍)と味方(=満洲国軍+関東軍)にわかれて戦闘するシーンで終わる。五味川純平の大河小説『戦争と人間』の映画版が、ノモンハン事件で終わっているのと、偶然ながら一致した結果となった。  
 終わり方としては、ちと残念な気もするが、とはいえ全8巻、まさに大河小説のごとき読みごたえのあるマンガである。超おすすめ。(書評は以上)


 なぜトロツキーなのか? ちょっと種明かしをしておこう。

 満洲国で民族共和の理念を実現するための人材育成機関である建国大学を構想するにあたって、石原完爾は、教授陣にインド独立運動のガンディーやチャンドラ・ボース、そしてなんとメキシコに亡命中のロシア革命指導者レオン・トロツキー(!)を招聘することを真剣に考えていたらしいのだ。

 歴史人類学の名著『「挫折」の昭和史』(岩波書店、1995)の第8章「読書する軍人」で石原完爾を取り上げた山口昌男は、石原完爾の建国大学構想について詳しく触れているが、「既成の日本の大学教授、及びその教育と研究の方法は、完全に排除」という方針を掲げたことについて、全共闘による大学批判をはるかに先行していたとして高く評価している。

 トロツキー招聘については、実際にメキシコ駐在の日本の外交官が指令により秘密裏に接触したらしい。結局、招聘には成功しなかったのだが、確度としては高い情報である。何という文献か出所か思い出せないのが残念だが。

 建国大学では正課として合気道が採用されていた。大本教教主の出口王仁三郎とともに蒙古で死線をくぐった合気道開祖・植芝盛平もまた、満蒙とは浅からぬ縁の持ち主であった。

 1938年に開学し、1945年に廃校となった満洲の建国大学は、時代を突き抜けた実に壮大な構想であったのだ。日本の敗戦ですべてが潰えてしまったのはまことにもって残念でならない。     

(以上)
                       


PS 読みやすくするために改行を増やし、写真を大判にし、小見出しを加えた。本文には手を入れていない。あらたに<ブログ内関連記事>を加えて、この記事を執筆した以降のブログ記事を参照できるようにした。 (2014年2月15日 記す)

PS2 あらたに『ノモンハン戦争』の「目次」と「著者プロフィール」を付け加えた。(2024年8月13日)



<ブログ内関連記事>

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(2014年月15日 項目新設)
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