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■いよいよ満願成就、楽しみの重湯もいざ食べれると思うと気持ちがだんだん重くなってくるのはなぜだ?
昨日はカラダが軽くなってきたとはいえ、一昨日と同様に昼間も寝過ぎているので、いざ消灯で床についてからもなかなか寝付けなかったが、朝は4時半に眼が覚めた。
同宿者のスシ職人のおじさんがごそごししていたからだ。それまで気がつかなかったというこおとは、いちおうは眠っていたということなのだろう。眠りは浅かったが。
いよいよ最後の朝、まるまる三日間、断食を続けてきたのだ。
お腹は全然すいていない。
5時からの掃除のお勤めに、5時半からの朝護摩。ああこれで最後かと思うかと、やはりなにかしら感慨深い。6時半には重湯の接待があるので、朝護摩が終わってから15分くらい境内を散策。大本堂前からいったん参籠堂に下りてしまうと、もう階段を上がることはないだろう。
参籠堂に戻り、いよいよ待ちに待った重湯だが、いざ食べられると思うとすでに満腹感がでてきた。楽しみにしていた重湯も、いざ食べれると思うと気持ちがだんだん重くなってくるのはなぜだろう?
そんなことがありながらも、重湯をいただくと・・・
こうして 成田山新勝寺「断食参籠(さんろう)修行」(三泊四日)体験記 (1) こんなうまい食事は滅多にない、に書いたように、最高にうめー梅(うめ)で食べる重湯をいただいて、断食は満願成就となった。
■あとは立ち去るのみ
さて、食べ終わったあとは部屋に戻り、立ち去る準備に入る。
布団を片付け、シーツをはずし、枕カバーもはずす。
荷物をまとめ、薬罐(やかん)と湯飲み茶碗を洗い、まず世話係の部屋に戻しに行って、参籠堂を去る挨拶をする。
そしてまた部屋に戻り、六泊七日にあと一日残した同宿者に別れを告げた。朝の7時である。
山門をくぐって、三泊四日のあいだ籠もっていた境内を去り、表参道をカロリー不足で重い足取りでひたすら登る。断食明けに、これはけっこうつらい。修行はまだ終わってないのだ。
朝の京成電鉄で自宅に戻る。カラダは軽いが、カロリー不足のカラダでは混雑した特急に乗って、立ったままでいるのも難儀なことだ。断食明けが土曜日だったこともあり、急いではないので各駅停車に座る。
重湯を口にしてカラダを動かしたせいだろうか、自宅に戻ると三日間してなかった排便をした。宿便がとれただろうか?
■断食後に体験の意味を考察してみる
忙しくて全然食べないまま一日が終わったということは、これまでも何回か体験はしている。それでも、その日のうちに何かしら口にはしていたはずだ。むかしはよくカロリーメートや、エナジーバーなどかじって仕事していたこともある。
三泊四日というまとまった期間の断食(ファスティング)は、生まれてはじめてであったが、結論からいったら、これは体験してよかったという一言に尽きる。
何事も、人に聞いた話や本で読んだ話はあくまでも二次情報であって、自分で体験してその場にいない限り一次情報を得ることはできない。自分のカラダをつうじて、断食とは何かということについて、かなり正確な認識をはじめてもつことができた。
その内容は、このブログに、できるだけ時系列にそって再現したとおりである。話題がいろいろなところに展開しているので読みにくいと思われたかもしれないが、人によってはまた別の過ごし方があってもいい。
以下、繰り返しもあるが、断食参籠修行の意味を整理しておきたい。
■人間存在にとっての水のもつ意味
人間は食べなくても死にはしない、しかし水を飲まなかったら死んでしまう、という厳然たる事実を確認した。
抗議のためのハンスト(=ハンガーストライキ)に入っても、水を飲まないと脱水状態になって、あっけなくノックダウンされてしまうことはよくある。水さえ飲んでいれば、人間は30日くらいは生きていけるようだ。
よく戦争映画で負傷兵が「水、水・・」と叫び、水筒を手につかむやいなやドクドクを飲み干すシーンがある。何よりも人間は水を欲しているのである。
成田山新勝寺の断食参籠修行では、むかしは初日と二日目は水を飲めなかったらしい。三日目になってようやく口をぬらす程度、これで最低六泊七日の断食を行っていたらしい。
こういう形で、人間にとって水のもつ意味を悟らしめるのは、さすがに現在では医学的に問題があるだろう。
食べなければ胃が収縮し、水さえ飲んでいれば空腹感はなくなるのである。
成田山新勝寺で断食参籠修行をするキッカケとなたのは、比叡山の「千日回峰行」の光永大阿闍梨の本をたまたま読んだことにあったが、光永師は先輩から聞いた話として、断食中に大便すると一気にチカラがなくなってしまう語っている。
つまり排便しなければ、大便からも栄養を再吸収するということだろう。尾籠な話で申し訳ないが、私は子供の頃、野良犬ばかり食住に満ち足りたはずの飼い犬までもが、人間の大便をうまそうに食っているのを何度も目撃している。
また私の母がいっていたが、昔は農家が人糞を買いにきたという。肥料として畑に撒くからだ。それだけ人糞には有機肥料として栄養があるということだ。もっとも、そのせいで昔は生野菜など食べられなかったのだが。虫がついているので。
衣食住に満ち足りた現代人の大便には栄養があるということだ。だから、水さえ飲んでいれば、人間はしばらく生きて行くことができるのである。
私は光永師の教えを意識して断食参籠修行に臨んだが、それは全く持って正解だった。
■「三日・三月・三年」と目標設定の意味
断食始めてから二日目までが厳しいが、三日目になるとラクになってくる。私の場合は、断食入りの前に二日間の食事減量を始めていたが、完全絶食は断食入りしてからである。
腹は減らないが、カラダがだるくて重い。とくに二日目はだるさのピークだったようだ。
この意味でも、たとえ初体験であっても二泊三日ではなく、三泊四日を選択したのは正解だった。
重湯というエサを目標に、最低でも三泊四日の断食参籠修行を満願成就させる設定。受付日に何日やるかという設定をさせて、途中でリタイアは認めても延長はいっさい認めない固い態度。
成田山新勝寺の断食参籠修行は、これまでの膨大な体験者の観察をつうじて、経験知としての目標設定フォーミュラができあがっているのだろう。はやりの目標設定理論などとは、いっさい関係なく。
むかしからいわれているように「三日・三月・三年」(みっか・みつき・さんねん)が、ここでも顔を出すわけだ。以前ブログに書いた 三日・三月・三年 に断食参籠修行の事例も加えておかないといけないな。
まずは「三日坊主」から始めよ!というわけだ。
■仏教徒にとっての断食参籠修行の意味
私自身、ごくごくフツーの日本人で、お寺にもいけば神社にもいくという人だし、出家者ではなく、特定の宗派には属さない、しかもさほど熱心な仏教徒ではないのだが、自分がつねに動物や植物の生命を奪って、それを食べることで生きているという自覚はないわけではない。
食物連鎖(フードチェーン)のなかに位置しているのが人間であるという自覚。
子供の頃、ザリガニ獲りや魚獲りに熱中して、大量に捕獲してはバケツのなかで飼って、結局は意味もなく大量死させてしまうということを何度か経験してから、生き物をむやみやたらに殺してはいけないという気持ちが幼いながらも芽生えたのは、仏教的なメンタリティーの始まりだったのだろうか。
ハンティングのためのハンティングに対して強い違和感を感じるのは、こういう原体験があるからだ。
少なくとも、断食参籠修行のまるまる三日間、「殺生戒」(せっしょうかい)をおかすことはなかったのは幸いなことである。「殺生戒」とは、生き物を殺すことなかれとという戒律。なんせ、水しか飲んでいないのだ。「殺生戒」も犯しようがない。
誤ってアリなどの小さな虫を踏んでしまったかもしれないが、まったく食べていないので、間接的にせよ生き物を殺していないはずだ。
仏教徒の自覚があれば、「生きとし生けるものがみな仕合わせでありますように」という慈悲の心を発揮したいもの。その機会は、断食によって期間限定ではあるが保証されるわけなのだ。罪滅ぼしになったかどうか。
もちろん、娑婆にもどって一週間たった私は、肉も魚も食べているが、食べ物に感謝する気持ちだけは失いたくないものだと、ときどきは思うようにしたい。
■人間の欲望についての考察
滞在期間中に、人間の欲望について考えてみた。
人間の基本的な欲望には、「食欲」と「性欲」と「睡眠欲」の3つがある。
断食参籠修行は、この三大欲望のうち食欲について禁欲を実行することである。人間は飢餓状況になっても性欲は減退しない、むしろ種の保存の観点から性欲が昂進するという話も聞く。ただし、性欲と精力は同じではないので、カラダがもつかどうかはまた別の話である。
私の場合、断食によって「食欲」について禁欲した結果、欲望は「睡眠欲」によって大いに満たされることになったようだ。ネコではないが、一日12時間近く寝ていたようだ。
ヨーガ伝道師の藤本憲幸は、「睡眠欲」が満たされていると「性欲」が減退すると、多くの著書のなかで繰り返しいっている。
図式的にいえば、「食欲」を禁欲 ⇒ 「睡眠欲」で満たされる ⇒「性欲」の減退 ということになるのだろうか。私は断食期間中、食わずに寝てばかりいて、性欲を感じないという状態にあったことは確かなことだ。みなさんも自分で実験してみてほしい。
もちろん現在は、食欲・性欲・睡眠欲のバランスが十分にとれた状態に戻っている。
断食していても眠らないと性欲が昂進するのか、実験していないのでわからないが、仏教でもキリスト教でも禁欲修行を行うものが、さまざまな魑魅魍魎(ちみもうりょう)のイマージュによって精神をかき乱されるのは、このメカニズムが根底にあるのかもしれない。
先日ネット古書店から取り寄せて読んだ、藤本憲幸の『人間進化の術-平均点以上の肉体と精神づくりのために-』(情報センター、1989)は、タイの民主政治家チャムロン退役中将の会見記録から話を起こしている。
チャムロン氏は、戒律の厳しい上座仏教でも、かなり厳格なサンティ・アソークという新興宗教の熱心な信者だが、欲望のコントロールによって、自分の人生をすべて政治に捧げている。
欲望のコントロールを、断食参籠修行というような人為的な環境ではなく、自らの意思で思うままにできるようになったら、これは百人力なんてもんじゃないだろう。間違いなく成功する人間になるはずだ。これがヨーガ行者のパワーの源泉なのであろう。
■密教の断食修行と上座仏教の断食修行の違い?
私が参加した成田山新勝寺はいうまでもなく密教の真言宗で、欲望を全面的に肯定している密教だけあって、あまりうるさいことをいわないのがいいところだ。大乗仏教でも禅寺の座禅のような、なんだかリゴリズムともいうべき無意味な厳格さはない。
欲望を否定したら、生物である人間は生存が成り立たないわけであり、欲望を肯定したうえで、それを善なる方向に向けていけばよいという態度は、きわめて正しいものだと私は思う。
そのために、三大欲望の一つである「食欲」を禁欲させ、その他の欲望をコントロールする訓練につなげてゆくのは、メカニズムとして実に素晴らしい。
先日、日本でも実施されている、上座仏教の「瞑想&断食の会」の話を知人から聞いたが、そこでは一日一食で通いもOKなので、かえって参加前より太ってしまう人がいるらしい。瞑想がメインの修行の場合、カラダを動かさないためだ。
たしかに上座仏教圏では、出家者は午後はいっさい食べてはならないので、1日分のメシを一気にかっ込むことになりがちである。人間は食べられないとなると、食いだめする本能があるのだろう。
今年の三月に、ミャンマーのヤンゴンでお坊さんたちの食事風景を近くで観察する機会にめぐまれたが、ものごい食べ方で、まさに文字通り餓鬼(ガキ)のようだった。
これでは適切な欲望コントロール法とはいえないのではないか?
またイスラームでも太陰暦で断食月(ラマダーン)が設定されているが、太陽が沈めば食事を口にできるので、上座仏教のお坊さんとは時間帯は違うが、夜寝る前に一日一食で大量にメシをかっ込むこっとになるので、かえって太ることもあるらしい。
私の友人の日本人ムスリムによれば、旅行中は食べてもいいという例外規定があるので、お客さんの「ところへクルマで移動するときには昼食を食べるという。このほか、妊婦や病人などについての例外規定はある。
せっかく一ヶ月の断食期間があっても、一日一回食べているのであれば、これは本当の意味での断食にはならないし、絶対にダイエットにはならないのではないか?
欲望のコントロールとは、かくも難しいものである。
■実際問題、断食参籠修行のダイエット効果はてきめんだ!
娑婆に戻って体重を量ったら64.8kgであった。
つい2週間前まで 70kg 近くまで肥大し、膨張していた肉体である。
翌日には63.8kg おお奇蹟だ! ここ10年以上?実現しなかった65kg以下が実現したのだ!
断食参籠修行の目的は、「ご本尊不動明王のご加護のもと、不動の信念と心身の鍛錬を体得することにあります」とあるが、なんだかんだいっても、体重が減っているのを数値として確認できるよろこびは何事にも代え難い。
現在もベスト体重の65kg台をキープ、しかもリバウンドなし!
断食修行に西式健康法を会わせたら、向かうもの敵なしだな。朝食抜きで一日二食を説く「西式(にししき)健康法」はきわめて有効だと思う。
いまこれを書いている時点で、私の体重は 65.4kg、いままで念願だったベスト体重がキープできているのでいうことはない。
■断食修行は時期を選ぶべし、週末断食も可能だ
冬は寒く、朝起きるのがつらいし、夏は暑いがエアコンはおろか、扇風機すらない参籠堂。私が滞在していたのは梅雨の末期で、雨が降れば涼しくなるので助かったが、これが真夏だったら果たして・・・
断食参籠修行のベストシーズンは、やはり春か秋の気候のいい時を選ぶべきだろう。
最終日は朝の 7時には参籠堂をあとにできるので、三泊四日の日程であれば、金曜日から断食に入って、金土日と参籠堂で過ごし、月曜日の朝には重湯をいただいてから出勤するも不可能ではない。
ダイエット(減量)、デトックス(毒素排出)、スピリチュアル(密教の精神生活)の三点セット、いやオールインワンの断食参籠修行は向かうところ敵なしではないか!しかも、三泊四日で壱万円ポッキリ!
本来の主目的である、お不動様のパワーもいただいて、これ以上のものがあろうか!
これを読んで興味をもたれた方はぜひ、成田山新勝寺で断食参籠修行にトライしてみてください。
かならずや、その人なりに得るものが何かあるはずです。
もし参加されたら、お便りいただけると幸いです。
ここまで読んでいただきありがとうございました。合掌。
以上でこの連載は完結です。
ご愛読ありがとうございました。 (了)
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「成田山新勝寺 断食参籠(さんろう)修行(三泊四日)体験記 」全7回
・・連載の<総目次>をリンクつきで掲載しています
「半日断食」のすすめ-一年つづけたら健康診断結果がパーフェクトになった! ・・「断食」体験から一年後に執筆した記事です
書評 『修道院の断食-あなたの人生を豊かにする神秘の7日間-』(ベルンハルト・ミュラー著、ペーター・ゼーヴァルト編、島田道子訳、創元社、2011) ・・キリスト教カトリックの断食体験記。仏教の断食とよく似ています
本日よりイスラーム世界ではラマダーン(断食月)入り
・・イスラームの断食は仏教やキリスト教の断食とはまったく異なります
(2012年7月3日発売の拙著です)
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