2010年8月25日水曜日

書評『ヒトラーの秘密図書館』(ティモシー・ライバック、赤根洋子訳、文藝春秋、2010)ー「独学者」ヒトラーの「多読術」




独学者ヒトラーの「多読術」。蔵書によって知るヒトラーの精神形成と蔵書の運命

 本好きの人間がよそのお宅にお邪魔したとき、まず目に跳び込んでくるのが、その家の住人の書棚であり蔵書である。

 どんな本を持っているのか、どんな本を読んでいるのかが非常に気になるのだ。そして一瞬にして直感的に掴んでしまう。あえて、その話題をクチにすることはないとしても。

 なぜなら、個人の蔵書を見ることは、その人の頭の中身を知ることに等しいからだ。

 人は蔵書によって、頭の中身をハダカでさらしているようなものだ。本の選択によって、趣味もセンスもすべてが露わになってしまう。

 よっぽどのことがない限り、自分の蔵書は人には見せたくないし、見られたくないという気持ちが働く。だから、著名人の本棚拝見という雑誌企画は、いつの時代でもかならず一定量の読者を確保するのである。

 さて、本書『ヒトラーの秘密図書館』(ティモシー・ライバック、赤根洋子訳、文藝春秋、2010)によれば、独裁者アドルフ・ヒトラーは読書家であった予想以上に多読家であり、しかも自らの蔵書票(ex libris:右下の写真)まで作成していた蔵書家であった。そしてまた、口述筆記ではあるが自ら本を書いて出版した人でもある。『わが闘争』(マイン・カンプ)である。


 多読家のヒトラーは、毎晩数時間を読書の時間にあて、ときには明け方まで読書にいそしんでいたという。 

 分厚いハードカバーに下線を引き、ときには欄外に書き込みを残しながら勉強する生活習慣。

 この習慣は、第一次大戦に志願して出征し、復員して政治運動に関わるようになって以来、ベルリン陥落によって自殺する直前まで続いていたらしい。

 高等教育を受ける機会に恵まれなかったヒトラーは、身につけた知識を読書によってさらに確実なものとし、独学によって自分を作り上げた人であることが本書を読むと手に取るように理解できる。

 独裁者は「独学者」であった(!)のだ。

 「ヒトラーは読書というプロセスを、自分がもともと抱いている観念という「モザイク」を完成させるための「石」を集めるプロセスにたとえている」(P. 190)、つまりヒトラーは自分の考えを補強するために本を読み、自分に必要な知識と考えを取り入れては、自分の考えを補強し増強し、その結果、多くの人たちが証言しているように、バツグンの記憶力を誇っていたらしい。

 ただし、ヒトラーの抱いていた考えが、すべて正しいものであったとはとてもいえないのは、本の選択をみれば自ずから理解できる。

 本書は、米国人の歴史家が、米議会図書館から発掘された、現在所在が明かなヒトラーの旧蔵書(・・残念ながら蔵書全体の1割程度に過ぎない)の一点一点について、実際に実物を手にとって調べ、ヒトラーの伝記的事実とを詳細に照合するという、地道な精密な作業のうえにたって検証した労作である。

 取り上げられた本は以下のとおりである。『ベルリン』(マックス・オスボルン)、『戯曲ペール・ギュント』(ディートリヒ・エッカート)、『我が闘争』第三巻(アドルフ・ヒトラー)、『偉大な人種の消滅』(マディソン・グラント)、『ドイツ論』(ポール・ド・ラガルド)、『国家社会主義の基礎』(アロイス・フーダル)、『世界の法則』(マクシミリアン・リーデル)、『シュリーフェン』(フーゴ・ロクス)、『大陸の戦争におけるアメリカ』(スヴェン・ヘディン)、『フリードリヒ大王』(トマス・カーライル)。

 著者は、本書を構想し、執筆するにあたって、ドイツ系ユダヤ人の文芸評論家ヴァルター・ベンヤミンの「蔵書の荷解きをする」というエッセイを導きのカギにしている。ナチスドイツによって死に追いやられるという運命をたどるベンヤミンであるが、ヒトラーとベンヤミンという取り合わせは著者ならではのものである。感想はいろいろあるだろうが。

 ベンヤミンが引用している「本にはその本自身の運命がある」(habent sua fata libelli)というラテン語の警句は、蔵書の運命がその持ち主の運命と深いかかわりをもっている事を示している。ベンヤミンとその蔵書も、ヒトラーとその蔵書も、その後それぞれの運命をたどることになる。

 知的好奇心を大いに刺激される歴史ノンフィクション作品、本好きな人間にはとくにすすめたい。



<初出情報>

■bk1書評「独学者ヒトラーの「多読術」。蔵書によって知るヒトラーの精神形成と蔵書の運命」投稿掲載(2010年8月23日)

*再録にあたって、字句の一部を修正と加筆を行った。





<書評への付記>

 原書は、Ryback,Timothy W., HITLER’S PRIVATE LIBRARY: THE BOOKS THAT SHAPED HIS LIFE, 2008 


目 次

BOOK ONE 芸術家の夢の名残-マックス・オスボルン『ベルリン』
 第一次大戦の激戦下、勤勉な働きをみせていた伝令兵。彼の楽しみは、休暇に首都ベルリンを観光することだった。
BOOK TWO 反ユダヤ思想との邂逅-ディートリヒ・エッカート『戯曲ペール・ギュント』
 敗戦の混乱のなかで、元伍長は自分を導く師に出会った。そして師も、彼に眠っていた扇動の才能に魅入られていった。
BOOK THREE 封印された『我が闘争』第三巻-アドルフ・ヒトラー『我が闘争』第三巻
 「あの本が出版されなくてよかった」後に彼は側近に語る。出版社の金庫にしまいこまれたまま、それは忘れ去られた。
BOOK FOUR ユダヤ人絶滅計画の原点-マディソン・グラント『偉大な人種の消滅』
 アメリカを移民制限に導いたその書は、彼の『聖書』となり、ナチスが政権をとると、ユダヤ人の根絶計画の礎となった。
BOOK FIVE 総統の座右の思想書-ポール・ド・ラガルド『ドイツ論』
 「本当は、ニーチェはあまり好きではないのです」では誰が、彼の思想の源となり、ナチスドイツの原則となったのか。
BOOK SIX ヴァチカンのナチス分断工作の書-アロイス・フーダル『国家社会主義の基礎』
 キリスト教への弾圧を続けるナチス。彼らと反共で手を結べると信じた司教は一書をしたため彼に献じたが。
BOOK SEVEN オカルト本にのめりこむ-マクシミリアン・リーデル『世界の法則
 天才のなすことに理由は要らない――。オカルト本の主張に背を押されるようにして、彼はポーランド攻撃を命じた。
BOOK EIGHT 参謀は、将軍よりも軍事年鑑-フーゴ・ロクス『シュリーフェン』
 彼の蔵書の半数7000冊は、軍事に関わるものだった。詰め込んだ知識で彼は対立する将軍たちと渡り合おうとする。
BOOK NINE 老冒険家との親密な交友―スヴェン・ヘディン『大陸の戦争におけるアメリカ』
 彼にとって生涯の英雄だった探検家ヘディン。目下の戦争のさなかドイツを擁護する書を世に問い、彼を感激させる。
BOOK TEN 奇跡は起きなかった-トマス・カーライル『フリードリヒ大王』
 ベルリン陥落前夜、彼はかつてのプロイセン王に身を重ねる。敵国の女王が死に、からくも救われた奇跡の大王に。


 個人蔵書をみれば、その人物のひととなり、少なくともアタマの中身はだいたい想像できるものだ。
 アナール派歴史学の歴史家に、修道院の蔵書から、中世の精神世界を再構築する研究もあると聞いたことがある。論文のタイトルと執筆者がわからないのだが。

 ヒトラーもまた然り。ただ蔵書はドイツ敗戦の際に占領軍兵士たちによって戦利品として持ち去られsんいつしてしまったというのは残念。約1割が米議会図書館に手つかずのまま残されていたという。その蔵書をベースに、著者は徹底的な分析を行ったうえで、この実に面白い歴史ノンフィクションに仕立て上げた。

 ヒトラーという大悪のアタマのなかを、善悪の彼岸にて、脳外科医がメスで切開するようにオペをする。こういう科学的分析法が本書の魅力である。

 本書は、実用書として読むという読み方も可能だ。「多読術」実践編として。

 原書は見ていないが、日本語版は本文に挿入された写真のデザインが素晴らしい。
 グラフィック的にもよくできた本である。何よりも本の現物を写真ではあれ見ることができるのはうれしいものだ。


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