■新しい考え方を普及させるためには必要なことは何だろうか-「目からウロコが落ちる」本■
キリスト教聖書の日本語への翻訳の歴史を、キリシタン時代からさかのぼり、とくに明治時代から最新訳聖書に使用されている日本語を徹底的に分析した本。
キリスト教の教義と思想そのものは、戦国時代末期のキリシタン時代にあっては当然のことながら、明治時代の日本人にとっても、まったく新しいものであった。
明治時代に行われた、聖書の日本語訳で使用されたキリスト教用語が、中国で出版された漢訳聖書(=漢語訳聖書)のものを多く引き継いでおり、このため明治時代の日本人にとっても受容しやすかったという指摘が興味深い。
これは、漢訳仏典をつうじて日本人が受容した大乗仏教と同様、キリスト教もまた漢訳聖書の影響を、最新訳の聖書に至るまで(!)大きく受けていることを意味しているわけだ。
江戸時代後期の国学者・平田篤胤(ひらた・あつたね)は、禁書であった漢訳聖書と漢訳キリスト教文献をひそかに入手し、影響を受けているらしい。
新しい思想を受容するに際しては、受容する側にその思想を理解するための回路を作らなければならないのだが、その際には従来からの思考の枠組みとコトバが多く利用されるわけである。
これは、キリスト教の布教といった狭い側面に限らず、新しい考え方を普及させるためには必要なことなのかもしれない。
原典であるヘブライ語とギリシア語から、旧約聖書と新訳聖書が翻訳がされるようになったのは口語訳聖書以降であって、現在の最新訳においても、漢訳聖書で使用されたコトバが生き残っていることが、著者の研究によって示されている。
キリスト教で使う神、精霊、天国、洗礼、愛といった単語は言うまでもなく、「目からウロコが落ちる」、「笛吹けど踊らず」などの日本語表現が、実は聖書の日本語訳に由来することを多くの人は知らないようだ。それくらい無意識に使用されるこれらの単語や表現が、知らず識らずのうちに現代日本人の思考を支えているというわけなのだ。
私は、明治時代の聖書翻訳者たちが漢訳聖書で使用されていた「天主」をそのまま受け入れなかったことを、たいへん残念に思っている。
天主教とはカトリックのことだが、プロテスタントが中心になった日本語訳聖書翻訳者たちが「神」という訳語を選択したために、その後いかなる混乱をもたらし、それが現在まで続いていることか。日本の首相が内輪の集会でクチにした「日本は神の国」という文言が、いかなる反発を招いたか、その経緯を思い出してみるとよい。
こういったことも含めて、近代日本語を豊かににしてきたとともに、問題のタネを撒いた「聖書の日本語」について知るための必読書である。
<初出情報>
■bk1書評「新しい考え方を普及させるためには必要なことは何だろうか-「目からウロコが落ちる」本」投稿掲載(2009年12月22日)
■amazon書評「新しい考え方を普及させるためには必要なことは何だろうか-「目からウロコが落ちる」本」投稿掲載(2009年12月22日)
*再録にあたって、大幅に書き換えた。
目 次
第1章 聖書の日本語訳事始め
第2章 聖書の中国語訳
第3章 中国のキリスト教書と日本語訳聖書
第4章 ヘボン訳と明治元訳の成立
第5章 改訳への痛み―「大正改訳」成立史
第6章 口語訳から共同訳へ
第7章 日本語と聖書語
むすび 中国経由のキリスト教という一面
付章 聖書と日本人
著者プロフィール
鈴木範久(すずき・のりひさ)
1935年生まれ。専攻、日本宗教史。立教大学名誉教授。内村鑑三の英文著作からの日本語訳者でもある
(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものを増補)
<書評への付記>
「日本は神の国」という文言をクチにしたのは、自民党の森元首相。神道関係の集会での発言であり、この発言じたいには問題はない。ただし、立場の違いによっては、絶対に受け入れることのできない人がいることは理解できる。
戦前のファナティックなまでの「神国」を想起させるからだ。
なお、キリスト教でいう「神の国」とは、古代キリスト教の教父アウグスティヌスの著書のタイトルである。ラテン語の Civitas Dei は、英語訳では The City of God となっている。この点にかんしては、Civitas Dei を「神の国」と訳したキリスト教関係者にも大いに問題がある。
英語では大文字で始まる God と 小文字で始まる god を区別しているというものの、あいまいであることは大きな問題である。大文字の God には単数形しかなく、小文字の god は複数形 gods がありうる。フランス語でもその他西欧語ではみな同じである。
キリスト教聖書の翻訳が、その言語の近代化に与えた大きな影響については、ドイツ語におけるルター聖書や、英語における King James Version など枚挙にいとまがない。
日本語においても、それは同じであった。
少なくとも日本語においては、日本語訳聖書には功罪両面あると言わざるをえない。日本語表現を豊かにしたという「功」の面と、ここに書いた「罪」の面。
PS 読みやすくするために改行を増やした。 (2014年2月5日 記す)。
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・・「異文化マーケティング」の先駆者に学ぶものとは
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■日本の「神」とキリスト教の「神」
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書評 『折口信夫―-いきどほる心- (再発見 日本の哲学)』(木村純二、講談社、2008)
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(2014年2月5日 情報追加と再編集)
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