著者が逝って12年、最後のメッセージをテープから起こして編集した文字通りの遺著である。
『市民科学者として生きる』(高木仁三郎、岩波新書、1999)には書ききれなかった思いが、このほんとうの最後の本にはこもっている。著者の執念と気迫が読者にも迫ってくるのを感じるはずだ。
著者の故高木仁三郎氏は、原子力関係者に多い「物理屋」ではなく「化学屋」である。この点が、著者の見る視点にユニークさをもたらしているようだ。
現象を数値計測し観察するのが「物理屋」の世界であれば、モノとしての放射能に直接かかわるのが「化学屋」の世界である。
シミュレーションによる設計からはもれ落ちてしまう放射能というリアリティ。バーチャルな世界ではなく、リアルな世界で放射能とかかわってきた著者の、実体験から語った日本の原子力技術が誕生当初から抱えている問題点については説得力がきわめて大きい。
いかなる産業であれ組織であれ、その後の性格はその誕生時点で大きく規定されてしまうものだが、1950年代における日本における原子力産業の誕生が財閥企業復活の原動力ともなったことには大きな注意を払う必要があるだろう。この側面にかんしては書いている人も少なくないが、著者のように、その当時の「空気」まで語れる人はそう多くはない。
つまり、原子力産業には「出生の秘密」があるというべきなのだ。
「輸入技術としての原子力」という視点も鋭い。
原子力産業とは、明治以来の日本近代化をそのまま凝縮したようなものとさえいえるものだ。けっして自然発生型の技術ではなく産業でもないという点が重要である。
また、各財閥グループ企業から技術者を寄せ集めてつくった組織という点にも、原子力産業における他人まかせの無責任体制が誕生時点から内在していたことが理解される。まさに「押しつけられた運命共同体」だったわけだ。
日本における原子力産業の誕生からかかかわってきた著者が語るところを聞けば、そもそもの誕生の時点で原子力産業が大きな問題を抱えていたことが手に取るように実感される。
そもそも、営利事業であるビジネスと技術はお互いにとって異物なのであるが、とくに原子力という技術はその最たるものでることが理解される。
本書は、「組織と個人」の問題、「技術と倫理」の問題にも大きく踏み込んでいる。「企業の社会的責任」をクチにする以前に、「技術の社会的責任」を理解しない技術者たちの存在に言及している本書の指摘に、原子力産業だけでなく、ひろく技術者のみなさんも真摯に受け止めて欲しいと思う。
アカウンタビリティは「説明責任」ではない、ほんとうは「結果責任」と訳すべきなのだ。こう語る著者の気迫が「3-11」後によみがえったことはたいへんよろこばしい。
技術者そうでない一般市民も高木仁三郎氏の声に耳を傾けてほしいと思う。そして、日本は「先進国」とは何がどう違うのかを考えてみてほしいと思う。
<初出情報>
■amazon書評「 「市民科学者」の最後のメッセージ。悪夢が現実となったいま本書を読む意味は大きい」(2012年3月26日 投稿掲載)
*再録にあたって加筆した(2012年7月22日)
目 次
はじめに
1. 議論なし、批判なし、思想なし
2. 押しつけられた運命共同体
3. 放射能を知らない原子力屋さん
4. 個人の中に見る「公」のなさ
5. 自己検証のなさ
6. 隠蔽から改ざんへ
7. 技術者像の変貌
8. 技術の向かうべきところ
あとがきにかえて
-友へ 高木仁三郎からの最後のメッセージ/高木さんを送る
高木仁三郎・年譜
著者プロフィール
高木仁三郎(たかぎ・じんざぶろう)
1938年、群馬県前橋市生まれ。東京大学理学部化学科卒業。理学博士(東京大学)。専門は核化学。日本原子力事業でエンジニアとして勤務したのち、東京大学原子核研究所、東京都立大学助教授、マックス・プランク核物理研究所客員研究員をへて、原子力資料情報室の設立に参加。1987年から1998年まで同代表。原子力発電、とりわけプルトニウム利用の危険性について、専門家の立場から警告を発し続けた。2000年10月没(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものに筆者が増補した)。
<書評への付記>
正直なところ、もし「3-11」で福島第一原発で原発事故が起きなかったら、高木仁三郎の本を読むことは、一生なかったかもしれない。
「市民」と名のつくものに、少なからぬ違和感を感じていたからだ。「市民」という名をかたったいかがわしさといってもいいだろうか。「市民」といいながら、ある種の「政治」がからんでくるいかがわしい「市民派」。
だが、『原発事故はなぜくりかえすのか』(高木仁三郎、岩波新書、2000)を読んで、高木仁三郎氏は、そういったいわゆる「市民」派とは、まったく関係のない、ほんとうの意味での「市民」であることを知った。知るのが遅すぎたのかもしれない。死後10年以上たって、はじめてその意味を悟ったということだ。
あわせて読んでおきたいのが、『市民科学者として生きる』(高木仁三郎、岩波新書、1999)である。この本は、「市民」と「科学者」をどう両立させて「市民科学者」として生きることになったかを、包み隠さず語っている自伝である。この本で書ききれなかったことが、『原発事故はなぜくりかえすのか』として最後のメッセージになったのである。
癌で亡くなった高木仁三郎氏。おそらく、原発の現場のエンジニアとして働いていた時代の被曝が原因の一つなのであろう。その意味では、象牙の塔のなかという安全地帯で発言する学者とは異なる人であった。
『原子力神話からの解放-日本を滅ぼす九つの呪縛-』(高木仁三郎、講談社+α文庫、2011)も、テーマと内容は重なる点も多いが、あわせて読んでおきたい。
「原子力村」は「世間」論の観点から、大いに検証すべきである。なぜ、人間は、とくに日本人は、個人としてはまともな考えをもっているのにもかかわらず、集団になると、利害関係のある組織に属すると、とたんに思考停止状態になってしまうのか?
意志決定論で有名な議論に、グループ・シンクというものがある。ケネディ政権時代のキューバ危機における意志決定について研究されたものだが、アメリカ人ですら集団のなかでは空気に流されがちなのだ。いわんや、日本人をや、ということか。
「3-11」という未曾有の危機に直面し、歴史が一変した世界に生きる日本人。本書は、自分で考え、自分で行動するためのよきテキストとなる本である。
いかなる立場に立つのであろうとも、かならず一度は考えながら読むべきである。
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皇紀2670年の「紀元節」に、暦(カレンダー)について考えてみる・・「出生の秘密」(status nascens)というライプニッツのコトバ
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