冒頭に掲載したのは、ヘルメス(マーキュリー)の羽のはえた杖にからまる二匹の蛇です。
ギリシア神話のヘルメスは、オリュンポス十二神の一柱です。商売の神であり、泥棒の神であり、もともとは旅人や羊飼いの守護神であり、神々の伝令役を務める役割もつとめています。ヘルメスは「つばさのはえたブーツ」を履いた姿で描かれます。
1980年代に文化人類学者の山口昌男が流行らせたトリックスターの典型でもありますね。それはヘルメスのもつ越境性という属性そのものであります。日本の道祖神のように、古代ギリシアでは境にはヘルメス像が設置されていました。
ヘルメスは商売の神であり、泥棒の神であることが示しているように、知恵を体現した神であるわけです。ヘルメス(Hermes)は、フランスの高級ブランドであるエルメスでもあります。フランス語はHの音を発音しないので、ヘルメスがエルメスとなるのです。
(一橋大学=東京商科大学の校章 CCは Commercial College の頭文字)
ローマ神話ではメルクリウス(=マーキュリー)ですが、もともとは東京商科大学であった現在の一橋大学の校章「マーキュリー」は、商売の神であるヘルメス(=マーキュリー)の杖から由来しているのです。1887年から校章として使用されているとのことです。
(バチカンのキアラモンティ美術館所蔵のヘルメス像)
ヘルメスのもつ杖はカドケウスといいますが、なぜ蛇が二匹からまっているのでしょうか?
日本のしめ縄も、じつは雌雄の蛇が絡み合っている姿を模したものだといわれていますが、おそらくカドケウスの蛇もまた雌雄の蛇なのでしょう。雌雄が対になることによって完全とか調和を象徴しているのかもしれません。
あるいは、マーキュリー(mercury)が、水銀や水星など、いずれも水からみのものであるように、水と縁の深い蛇がかかわっているのかもしれません。あくまでも推測ではありますが。
(一橋大学の卒業生クラブである如水会館(旧館)のレリーフ)
ヘルメスのもつ杖カデケウスは、医療関係のエンブレムとしても目にすることが多いと思います。
しかし、それはヘルメスの杖ではなく、医術の神であるアスクレピオスの杖 なのです。しかし、もともとアスクレピオスの杖にからまる蛇は一匹であったようです。
しかしながら、医療機関でも二匹の蛇がからまった杖がエンブレムになっているものも少なくありません。おそらくヘルメスの杖と混同されて二匹になったのでしょう。
ヘルメスにおいても、アスクレピオスにおいても、蛇は知恵の象徴であることは間違いないようです。
このアスクレピオスは医術を専門とする教団として古代地中海世界では覇権を握っていたのですが、新興のイエス教団に敗れ去ってしまいます。このいきさつについては 書評 『治癒神イエスの誕生』(山形孝夫、ちくま学芸文庫、2010 単行本初版 1981) をお読みいただければと思います。
(医神アスクレピオス 左手に蛇のからまる杖)
その結果でしょうか、キリスト教世界においては、蛇はアダムとイブに知恵の実であるリンゴを食べるようにそそのかした悪魔の手先として定着してしまいます。
(ドイツの画家デューラーによる「アダムとイブ」 1507年)
その後、蛇が悪魔の象徴として忌み嫌われる存在になっていることは、キリスト教とではない日本人にとっても、いわば常識となっていることでしょう。
歴史学者の阿部謹也先生の名著 『自分のなかに歴史をよむ』に、少年時代に修道院で体験したこんなエピソードが紹介されています。ある日本人修道女が、「蛇は悪魔なのだから殺していいのよ」と言ってのけ、自分で棒をもって蛇を追い回した、というのです。
いきつくところまでいってしまった、という感にとらわられますね。フツーの日本人ならそんなことはとてもできません。罰(ばち)があたりますから。
このようにキリスト教の普及によって、蛇が悪魔とされてしまったのですが、キリスト教以前は蛇は悪魔どころか知恵の象徴として信仰されていたことは、ギリシア神話のヘルメスと医術の神アスクレピオスを想起していただければ容易に理解していただけることだと思います。
ところで面白いことに、蛇を悪魔とみなすキリスト教国であるはずのアメリカには、二匹の蛇がからまったアスクレピオスの杖をエンブレムにしている医療機関が多数あります。
キリスト教徒との医療関係者がこのことをどう考えているのか、じつに興味深いものがありますね。
もちろん、キリスト教は知識として知ってはいても、キリスト教徒ではない日本人のわたしは、蛇は忌み嫌われがちな存在だとしても、畏怖すべき存在であることは十分に承知しております。
蛇にまつわるさまざまなタブーを聞かされて育ってきましたから。現代に生きる日本人も、蛇信仰をもっていた古代日本人の末裔であります。
ヘルメスの杖とアスクレピオスの杖にからまる蛇について、いろいろ見ておきました。
<ブログ内関連記事>
書評 『治癒神イエスの誕生』(山形孝夫、ちくま学芸文庫、2010 単行本初版 1981)
『蛇儀礼』 (アビ・ヴァールブルク、三島憲一訳、岩波文庫、2008)-北米大陸の原住民が伝える蛇儀礼に歴史の古層をさぐるヒントをつかむ
『龍と蛇<ナーガ>-権威の象徴と豊かな水の神-』(那谷敏郎、大村次郷=写真、集英社、2000)-龍も蛇もじつは同じナーガである
『ブッダのことば(スッタニパータ)』は「蛇の章」から始まる-蛇は仏教にとっての守り神なのだ
蛇は古代日本人にとって神であった!-独創的な民俗学者であった吉野裕子の名著 『蛇』 を読んでみよう
大神神社(おおみわ・じんじゃ)の「巳(み)さん」信仰-蛇はいまでも信仰の対象である!
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