2013年2月28日木曜日

エル・グレコ展(東京都美術館)にいってきた(2013年2月26日)-これほどの規模の回顧展は日本ではしばらく開催されることはないだろう



エル・グレコ展(東京都美術館)にいってきた。文字通り、国内最大の規模のエル・グレコ展である。今回は大阪についで東京で開催される。今回のエル・グレコ展は、没後400年を記念したものだ。

かつて、東京で開催されたエル・グレコ展に行ったが、それからどれくらいの時間がたっただろうか。正確な日付がわからないが、じつにひさびさである。この規模の回顧展は、今後も最低10年以上は日本で開催されることはないだろう。

わたしはカトリックでもキリスト教徒ではないのだが、なぜかエル・グレコは好きで、むかしからいろいろ見てきた。倉敷の大原美術館は3回、エル・グレコが「終の棲家」と決めたスペインのトレドには1991年に1回、マドリーのプラド美術館は1991年と1999年に2回訪れてエル・グレコ作品を堪能してきた。

うねるような大胆でダイナミックな構図、光と影の巧みな処理、宗教画でありばがら官能的でもあるマリア像・・・。カトリックやキリスト教徒ではなくても、圧倒的な迫力に魅せられるのは、宗教画の域を超えて美術作品として絶対的なものがあるからだろう。


日本人の大くがスペイン的だと思っている「光と影のコントラスト」もエル・グレコの特徴である。ベラスケス、ゴヤとつづいてゆくものだが、エルグレコはスペイン人として生まれたのではない。ギリシア人としてクレタ島に生まれた人である。

本名はドメニコス・テオトコプーロスという。いかにもギリシア人といった名前である。日本人にとってはじつに覚えにくい名前だ。わたしもすぐに忘れてしまう。

これはスペイン人も同じだったのだろう。エル・グレコはスペイン語で「ギリシア人」という意味だ。定冠詞の el をつけることによって「そのギリシア人」と特定の人を指す。英語でいえば The Greek である。『その男ゾルバ』(1964年)という映画があるが、英語のタイトルは Zorba the Greek である。当時のスペインでは、エル・グレコ(=ギリシア人)といえば、かの有名な画家のことを意味するほど有名だったということだろう。


エル・グレコの時代は地中海の覇者スペインの絶頂期であった

エル・グレコ(1541~1614)が活躍したのは1600年前後、大航海時代にあたる。第一次グローバリゼーションの字時代である。スペインはドンキホーテの作者セルバンテスの時代、英国のシャイクスピアの時代である。日本でいえば、まさに戦国時代末期、信長・秀吉・家康の時代である。

1492年に完結したレコンキスタによってイスラーム教徒、そしてユダヤ人が追放されて「純化」(・・現在風にいえばエスニック・クレンジングとなる)されてからのスペインは絶頂期を迎えることにあんる。

そして、16世紀初頭にドイツではじまった「宗教改革」に対抗するカトリック勢力の一大中心地として
「対抗宗教改革」(Counter-Reformation)を推進したのもまたスペインであった。1545年のトリエント公会議において、カトリックの伝統的な信心である贖宥、巡礼、聖人や聖遺物への崇敬、聖母マリアへの信心などが霊的に意味のあるものとして再び認めらたことが、エルグレコの宗教画の背景にあることをまずは押さえておきたい。美術史的にいえばバロック、そしてマニエリスムの時代である。

この時代はまた、スペインのハプスブルク家統治下の地域においては、厳しい異端審問が実行された時代でもある。フェリペ二世時代の統治下で絶頂期であったが、ユダヤ人追放による悪影響は知らず知らずのうちにスペインをむしばんでいた。絶頂期はまた衰退期のはじまりでもあるのだ。

20世紀最高の歴史家といわれるフェルナン・ブローデルの大著 『地中海』 の正式タイトルは 『フェリペ二世時代の地中海と地中海時代』 という。それはエル・グレコの時代でもある。

(16世紀半ばの地中海世界 右からクレタ島⇒ヴェネツィア⇒ローマ⇒スペイン)

さきにも書いたようにエル・グレコはギリシア人である。クレタ島はいまではギリシアであるが、当時はヴェネツィア共和国の統治下にあった。ヴェネツィアとトルコの中間地点にあるクレタ島は交通の要衝としてヴェネツィア共和国にとっては死活的な意味をもっていたのである。

わたしは1992年にクレタ島を訪れたことがあるが、北はギリシア、南はエジプトを結ぶ交通の要衝として古代から独特のポジションを占めていたことにも注目しておきたい。ギリシアといっても、北部の山岳地帯とは違う、地中海のなかに位置する多文化の交差点なのである。

そんなクレタ島に生まれ、ヴェネツィア、ローマを経てスペインに渡ったエル・グレコはまさに「地中海人」というべきだろう。20世紀でいえば、スペイン語の歌も歌うギリシアの歌姫ナナ・ムスクーリをわたしは想起する。

東方正教のクレタ島でイコン(聖画)職人としてキャリアを開始したエル・グレコだが、ギリシア語を母語としながらも、終の棲家となったスペインではスペイン語で読み書きしていたようだ。今回の展示資料に、書き込みされた蔵書の写真があったが、書き込みはスペイン語によってなされていた。

ギリシア人ならギリシア正教徒だろうが、なぜカトリック世界を描き続けたのかという疑問は前々から抱き続けてきたのだが、正教徒からカトリックに改宗したと考えるのが理にかなっている。これは、今回の美術展のカタログに収録されら論文を読むと納得がいく。

ヴェネツィア共和国領のクレタ島からヴェネツィアに向かうのは自然なことである。ヴェネツィアでのルネサンス絵画の修業後、ローマでも修行をしている。当時のローマは、1517年のローマ劫掠で破壊されたのちのローマである。エル・グレコはスペイン領となっていた南イタリアにはいかずに、そのままスペインに移動している。


■美術展について

エル・グレコの作品は、同時代の日本の仏教美術と同様、あくまでも信仰目的のために制作されたのであり、この当時のスペインの対抗宗教改革時代のカトリック近代化についての理解を抜きにして理解はむずかしい

その意味では、純粋に絵画を鑑賞するだけでなく、作品につけられたキャプションをよく読むといい。それが、「見えないもの」を描いて可視化したエル・グレコの世界を理解するための糸口の一つとなる。

逆にいえば、キリスト教、とくにカトリック世界の入門としてもおおいに役にたつ美術展といえるだろう。エル・グレコは聖書の物語世界を、いまそこにある人たちを描くような手法で可視化したのである。

もちろん、画科としての技量の高さと、クレタ時代、ヴェネツィア時代、ローマ時代、そしてトレド時代とその変遷についての展示は面白い。

また、同時代人のパトロンに支持された肖像画家としての人気の高さ、年譜によれば支払いをめぐっての依頼主との訴訟の多さ、内縁の妻(・・カトリックなのに?)がモデルともいわれる肖像画の存在など、エル・グレコの知られざる側面と、絵画の技量のずば抜けた高さを実感することもできる。

教会インテリアの装飾プランナーとしてのエル・グレコについても知ることができるのは、今回の美術展の啓蒙的な側面でもある。

マドリーのプラド美術館やトレドに存在する作品だけでなく、世界各地の美術館からあつめられた作品を堪能することができるが、今回のクライマックスは、エル・グレコ晩年の大作 「無原罪のお宿り」(1607~13年)である(・・上掲のポスターに採用されているもの)。

高さ3メートルを超えるこの祭壇画は本来は教会堂で拝むべきものだが、「美術品」として鑑賞することがいまは可能となった。ぜひ、さまざまな角度から「見上げて」いただきたい。

こんな大規模なエルグレコ展は、今後は日本ではなかなか開催されることもないと思われるので、カタログを購入しておくことを薦めたい。2,400円とやや高価ではあるが、目録としてだけでなく、収録された研究論文も読みごたえがある。

繰り返すが、これほどの規模の回顧展は、日本での次回の開催がいつになるかはわからない。ぜひ万難を排してでも見に行くことを薦める次第である。





<関連サイト>

エルグレコ展(没後400年)
-大阪展: 2012 年10月16日(火)~12月24日(月・休) 国立国際美術館
-東京展: 013年1月19日(土)~4月7日(日) 東京都美術館

大原美術館のエル・グレコ「受胎告知」の解説


<ブログ内関連記事>

ひさびさに倉敷の大原美術館でエル・グレコの「受胎告知」に対面(2012年10月31日)

聖なるイメージ-ルブリョフのイコン「三位一体」、チベットのブッダ布、ブレイクの版画
・・ルブリョフ(1360年頃~1430)は、エルグレコより1世紀前にモスクワで活躍したイコン画家。エル・グレコが若き日に製作に従事していたイコンはビザンツ風だろうが、イコン画家から出発した点は押さえておきたい


バロック美術

『カラヴァッジョ展』(国立西洋美術館)の初日にいってきた(2016年3月1日)-「これぞバロック!」という傑作の数々が東京・上野に集結!
・・・・同時代人だがカラヴァッジョ(1571~1610)より30歳年上のエル・グレコ(1541~1614)

「グエルチーノ展 よみがえるバロックの画家」(国立西洋美術館)に行ってきた(2015年3月4日)-忘れられていた17世紀イタリアのバロック画家がいまここ日本でよみがえる! 
・・同時代人だがカラヴァッジョ(1571~1610)より20歳若いグエルチーノ(1591~1666)


カトリック関連

「免罪符」は、ほんとうは「免罪符」じゃない!?
・・受胎告知は英語で Announcement であり、これは理解しやすいカトリック要語。ちなみに、森鴎外訳で有名なアンデルセンの『即興詩人』の主人公アヌンツィアータは受胎告知の意味。




スペイン関連



オペラ 『ドン・カルロ』(ミラノ・スカラ座日本公演)
・・舞台設定はフェリペ二世(・・オペラはイタリア語版なのでフィリッポ二世)統治下のスペイン王国

書評 『歴史入門』 (フェルナン・ブローデル、金塚貞文訳、中公文庫、2009)-「知の巨人」ブローデルが示した世界の読み方
・・大著『フェリペ二世時代の地中海』の著者フェルナン・ブローデル


ギリシア関連

書評 『物語 近現代ギリシャの歴史-独立戦争からユーロ危機まで-』(村田奈々子、中公新書、2012)-日本人による日本人のための近現代ギリシア史という「物語」=「歴史」
・・当時ヴェネツィア共和国領であったクレタ島生まれのエル・グレコ。クレタ島の歴史についても解説あり


■初期近代(アーリー・モダン)

世界史は常識だ!-『世界史 上下』(マクニール、中公文庫、2008)が 40万部突破したという快挙に思うこと

「500年単位」で歴史を考える-『クアトロ・ラガッツィ』(若桑みどり)を読む

書評 『1492 西欧文明の世界支配 』(ジャック・アタリ、斎藤広信訳、ちくま学芸文庫、2009 原著1991)-「西欧主導のグローバリゼーション」の「最初の500年」を振り返り、未来を考察するために

(2015年7月9日、2016年4月17日 情報追加)


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2013年2月25日月曜日

映画『ゼロ・ダーク・サーティ』をみてきた-アカデミー賞は残念ながら逃したが、実話に基づいたオリジナルなストーリーがすばらしい


映画 『ゼロ・ダーク・サーティ』(ZERO DARK THIRTY) をみてきた。T​OHOシネマズで上映中。

タイトルの「ゼロ・ダーク・サーティ」とは、軍事用語で午前0時30分を指すらしい。ドキュメンタリータッチのアクション・スリラーエンターテインメント作品というべきか。同じリベンジものとしては、イスラエルによるテロリスト暗殺作戦を描いたスピールバーグ監督の『ミュンヘン』を超えたといっていいのではないかと思う。

アカデミー賞受賞作品の『ハート・ロッカー』の監督キャスリン・ビグローにとっては、今回は主人公は女性CIA分析官である。前回はイラク、今回はパキスタンとアフガニスタンが舞台の中心だ。いずれも最前線の人間ドラマであるが、後方支援的な任務の遂行といっても、つねに死の危険にあることには変わりない。

2001年の「9-11」は、まさに世界を激変させた出来事であった。その首謀者と目されていたアルカーイダのリーダーであるウサーマ・ビン・ラディン(・・CIA内部では UBL という略称)を最終的に追い詰め、2012年5月2日、海軍特殊部隊のネイビー・シールズによる強襲作戦で殺害に成功するまでを描いたリアリティあふれるハードファクトを描いた作品である。

まさにこのビンラディン殺害作戦の成功によって、CIAは組織として完全に復活したといえるであろう。作戦の一部始終をオバマ大統領以下の関係閣僚がモニターうをつうじてウォッチしていたことが報道されていたが、まさにいまという時代のアメリカを象徴しているシーンであった。

過酷な拷問、スパイ活動、賄賂による買収などさまざま方法と最先端の情報技術を活用した情報収集と分析活動によって、ついにビンラディンの居場所を確定し、最終的な作戦発動が意思決定されていく緊張感。まさに、その決定的瞬間のために費やされた、紆余曲折に満ち満ちた11年間であったのだ。


主人公の女性CIA情報分析官は感情移入しにくい人物であるが、映画の設定ではハイスクール卒業後18歳でリクルートされ(・・CIAは大卒だけではないのか!)、ビンラディン追跡に7年間をささげたことになっている。最終作戦の発動時には30歳ということになる。

組織人であれば、同じ年頃の女性でなくても、いろいろ思うこともあるだろう。自分の意思を貫き、猪突猛進とも見える正義感(?)で突き進む主人公。執念にも似た追求は、組織人としてのあり方を逸脱しがちでもあり、煙たく思う上司や同僚も存在する。しかし、主人公を理解する上司や同僚を巻き込みながら、最終成果にたどりつくのである。

全員一致でないから意思決定するという、CIA長官のトップの意思決定プロセスとそのスタイルも面白い。またCIAの上司のなかには、ムスリムのアメリカ人がいることもさりげなくシーンとして挿入されている。過激派のアルカイダと穏健なイスラーム教徒をいっしょくたにしてはいけないのである。

特殊部隊といえば陸軍のリーンベレーやデルタフォースが思い浮かぶが、なぜ陸上の作戦に海軍特殊部隊のネイビー・シールズが投入されたのか? その点にかんする解答がないのだが、敵のレーダー網をかいくぐってのステルス強襲作戦、超低空飛行でアフガンから無断で国境を超えてパキスタンに潜入はじつにスリリングである。

ヘリコプターが一機墜落するというアクシデントに遭遇しても、つぎの手順が決まっているという米軍の危機管理システムにも感心する。

映画は、スピルバーグの『ミュンヘン』のような感傷に流されることなく終わる。余計な説明を排した余韻のある終り方をしているが、このCIA女性分析官のその後はどうなったのだろうかと見ていて思ってしまう。

目的を喪失してバーンアウトしてしまったのだろうか、それとも現在でもあらたなミッションを遂行しているのか? いずれにせよ、もはや二度とパキスタンに入国することはできまい。女性監督が、「組織人である女性」の主人公を描いた作品である。過剰な感情移入は排した描き方だが、男性とは違う視点も感じないわけではない。




実際のロケ地はインド北部。パキスタンでの撮影はもとより不可能である。かつてインド北部のラダック地方を旅したことを思い出しながら見ていたが、映画を見終わったあと無性にカレーが食べたくなって本格インドカレーの店でセットメニューを食べた

映画そのものとは直接は関係ないが、2010年にチュニジアではじまった「アラブの春」と呼ばれた民主化運動のあと、すでにビン・ラーディン流のテロの時代は終わっていたという論評がなされたのだが、先日のアルジェリアのテロ事件もふくめ、その時代認識が間違っていたのである。いったいなんであったのかという感じにとらわれてしまう。

アカデミー賞主要5部門ノミネートされているが、『ゼロ・ダーク・サーティ』がアカデミー賞の受賞を逃したのは残念であった。おなじくCIAがらみの『アルゴ』であったが、『ゼロ・ダーク・サーティ』は見るべき映画である。





<参考文献>

『秘密戦争の司令官オバマ』(菅原 出、並木書房、2013)

無人機を使った暗殺作戦、特殊部隊を使った対テロ作戦、そしてサイバー攻撃など、秘密の戦争をエスカレートさせたのである。ノーベル平和賞を受賞した黒人初の大統領は、いかにして米国史上もっとも過激な「秘密戦争の司令官」に変わっていったのか? オバマ政権の軍事戦略や秘密諜報活動を詳細に追いながら、オバマの戦争の実像を描く」(書籍紹介から)。 

CIAの指揮のもとで海軍特殊部隊が実行にあたったのがビンラディン殺害作戦。かつて犬猿の仲であったラングレー7(=CIA)とペンタゴン(=国防総省)はオバマ政権における戦略転換のもと、対テロ戦争において共同作戦を行うようになっていった。

コストパフォーマンスの観点からいって、大規模展開よりも効果的であることが、特殊作戦を推進させる要因となっている。





映画のなかで CIA関係者が tradecraft というコトバをひんぱんにつかっている。経験をつうじて獲得したスキルのこと。とくにスパイ技術をさしているようだ。

tradecraft (n)
skill acquired through experience in a trade; often used to discuss skill in espionage; "instructional designers are trained in something that might be called tradecraft"; "the CIA chief of station accepted responsibility for his agents' failures of tradecraft"
WordNet® 3.0, © 2006 by Princeton University.


<関連サイト>

国際政治のプロたちは必見といわれるビン・ラディン暗殺映画『ゼロ・ダーク・サーティー』 CIAが異常なまでに映画制作に協力 (菅原 出、日経ビジネスオンライン、2013年1月10日)

ノーベル平和賞の大統領が仕掛けた戦争 『秘密戦争の司令官オバマ』の著者・菅原出氏に聞く(上) (瀬川 明秀、日経ビジネスオンライン、2013年1月17日)

「アルジェリア・テロ」で見えてきた“新しいリスク”『秘密戦争の司令官オバマ』の著者・菅原出氏に聞く(下) (瀬川 明秀、日経ビジネスオンライン、2013年2月8日)

ウサーマ・ビン・ラーディンの死(wikipedia日本版)
Death of Osama bin Laden (wikipedia英語版 はるかに詳細)


ZERO DARK THIRTY - Official Trailer - In Theaters 12/19 (英語 字幕なし)

Zero Dark Thirty Official Site (公式サイト 米国版)

ゼロ・ダーク・サーティ 公式サイト

Navy Seals (ネイビー・シールズ 1990公開 主演:チャーリー・シーン)

ビンラディン暗殺を遂行した特殊部隊「ネイビーシールズ」 現役隊員“ローク少佐”にインタビュー(「ガジェット通信 2012年6月12日)

Act Of Valor (2012) Official Trailer (日本公開タイトル『ネイビー・シールズ』 2012)



<ブログ内関連記事>

本年度アカデミー賞6部門受賞作 『ハート・ロッカー』をみてきた-「現場の下士官と兵の視線」からみたイラク戦争

書評 『民間軍事会社の内幕』(菅原 出、 ちくま文庫、2010)-近代世界の終焉と「傭兵」の復活について考える ①

映画 『ルート・アイリッシュ』(2011年製作)を見てきた-近代世界の終焉と「傭兵」の復活について考える ②
・・舞台はイラク

書評 『グローバル・ジハード』(松本光弘、講談社、2008)

書評 『ウィキリークスの衝撃-世界を揺るがす機密漏洩の正体-』(菅原 出、日経BP社、2011)

「9-11」から10年の本日は、「3-11」からちょうど半年にあたる(2011年9月11日)

映画 『ローン・サバイバー』(2013年、アメリカ)を初日にみてきた(2014年3月21日)-戦争映画の歴史に、またあらたな名作が加わった
・・アフガンを舞台にネイビー・シールズの偵察作戦とその失敗を描いた映画

(2014年3月26日 情報追加)



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2013年2月24日日曜日

「飛騨の円空 ー 千光寺とその周辺の足跡」展(東京国立博物館)にいってきた(2013年2月24日)


「飛騨の円空 千光寺とその周辺の足跡」展にいってきた。会場は、東京国立博物館の本館である。

会期: 2013年1月12日(土) ~ 2013年4月7日(日)
会場: 東京国立博物館 本館特別5室(上野公園)
開館時間: 9:30~17:00(入館は閉館の30分前まで)
(ただし、3・4月の金曜日は20:00まで、4月6日(土)、7日(日)は18:00まで)
休館日 月曜日
主  催: 東京国立博物館、千光寺、読売新聞社、NHK、NHKプロモーション
特別協力: 高山市、高山市教育委員会
後援: 岐阜県

円空(1632~1695)は、放浪僧で仏師。江戸時代後期の文人・伴蒿蹊(ばん・こうけい 1733~1806)の『近世畸人伝』にも登場する「畸人」である。この「畸人」は奇人変人の奇人であるが、最大のほめ言葉であると考えるべきである。それはこの本に収録された有名人・無名人の言行を読めば納得できることである。

『近世畸人伝』には、「円空もてるものは鉈(なた)一丁のみ。常にこれをもて仏像を刻むを所作とす」とある。「包丁一本さらしに巻いて」渡世する板前にも似た、遊行(ゆぎょう)する奇才の仏師であった。東北からさらには蝦夷地にまで足を伸ばしている。


(岩波文庫版 『近世畸人伝』 P.102~103)


『近世畸人伝』の挿絵に描かれているのは、乾燥した木ではなく、生木にはしごを掛けて仏像を刻んでいる円空の姿である。展覧会の解説文によれば、これは事実を反映しているのだという。

事実、円空は千光寺に滞在中に、境内に並んで根を張っていた2本のセンノキに阿吽(あうん)二体の金剛力士(仁王)立像を彫刻した。その後、文化5(1808)年に根が腐朽したため切断され、二体は通常、同寺の円空寺宝館に安置されている。

生木に彫刻するという発想そのものがフツーではない。タイのアユタヤには、生木の太い幹の根元に仏像の顔が鎮座しているので有名だが、これは生木に彫刻したものではなく、仏像に木が絡まってできあがったものだ。

さて、今回の企画展の内容だが、主催者によるものを引用させていただくのが最善であろう。なお、太字ゴチックは引用者(=わたし)によるもの。


飛騨の円空仏100体が一堂に
現在知られている約5000体の円空仏のうち、1500体以上が岐阜県にありますが、飛騨高山には、とりわけ多彩な円空仏が残されています。「千手観音菩薩立像」(清峰寺)、「柿本人麿坐像」(東山神明神社)など、高山市内の14の寺社が所蔵する100体を東京で初めて一堂に紹介します。
飛騨高山の森、上野に出現
円空は、木を割り、鉈(なた)や鑿(のみ)で彫って像を作りました。その表面には漆や色を塗っていません。木目や節が見え、円空仏が「木」であることを強く印象付けます。展覧会の会場には、ほとけの形をした木が100本林立することになります。これらの木はすべて高山の木に違いありませんから、飛騨高山の森が上野に出現することになるのです。

パンフレットの表紙につかわれている円空の代表作が、両面宿儺(すくな)坐像(1686年)である。岐阜県高山市の千光寺蔵。記念としてマグネットを購入した(600円)。


(両面宿儺坐像 岐阜県高山市千光寺蔵 1686年)


「千光寺でも7年に一度しか公開されない」という秘仏「歓喜天立像」((かんぎてんりゅうぞう)の特別公開も楽しみのひちうだろう。秘仏のご開帳というわけだが、歓喜天とはインドに起源をもつ秘仏で、雌雄の象が抱き合う姿ものだ。だが、事前に想像していたものと違ってえらく小さく、エロチックというよりもかわいらしい感じの木像であった。

仏像というよりも、神社で配布される人形(ひとかた)のような印象のある素朴な観音立像もある。庶民の信仰のあり方を感じる意味でも興味深い。庶民信仰といえば、明治維新後の「神仏分離」と「廃仏毀釈」(はいぶつきしゃく)以前は「神仏習合」が当たり前であったことに注意しておきたい。

円空仏をっして素朴な味わい、庶民のための芸術といったされかたがなされることもあるが、その仏像の表情は全般的に「拈華微笑」(ねんげみしょう)という仏教表現を思い出す。怒りよりも微笑をもって日々暮らすべしと静かにさとしているような趣だ。

なかには、日本のものというよりも、韓国古寺の石仏のような微笑みを感じるものもある。もともと仏像は朝鮮半島経由で日本に渡来したものが基礎になっているのだが、隔世遺伝的に円空仏に現れ出たのだろうか。円空は東日本しか歩いていないのだが。

神の宿る樹木から、生命ある仏像を彫り出したのが円空である。樹木は神の依り代(よりしろ)であった。鉈(なた)による一刀彫りによるもので、ある意味では大理石の彫刻にも似ていなくはない。ミケランジェロは「大理石から魂を救いだす」というネオ・プラトニズム的な表現をつかっていたと思うが、円空の木彫りは石よりもはるかにぬくもりを感じる。いや、アフリカのプリミティブ・アートを思わせるものもある。縄文なのである。

哲学者の梅原猛氏は、木彫りの仏像は神仏習合のたまものであると主張している。密教においては大きな意味を持っていた仏像だが、鎌倉新仏教以降は仏像製作の必要性が大きく減退していた。円空は、泰澄・行基の伝統の復活なのであると。

どうしても現代人は円空のものに限らず仏像を美術品としてのみ見てしまう傾向がなきにしもあらずだが、その弊害を避けるためには仏像の裏側も見てみるといい。そこには文字が書かれているものがあることに気がつくだろう。梵字による祈祷文も含まれている。円空は仏師であり、あくまでも仏教僧なのである。

お寺においては、これだけまとまった形で円空仏をみることはない。いい機会なので、東京で円空仏のぬくもりを体感してみるのもいいのではないかと思う。


<関連サイト>

東京国立博物館140周年 特別展「飛騨の円空―千光寺とその周辺の足跡―」

『近世畸人伝』 円空 (国際日本文化研究センターデータベースに挿絵つきで全文収録)



<参考文献>

『円空佛-境涯と作品』(五来 重、後藤英夫=写真、淡交新社、1968)
『円空と木喰』(五来 重、淡交社、1997)
・・前著の『円空佛』と『微笑佛-木喰の境涯』の合本。円空と木喰(もくじき 1718~1810)は比較してみたいもの。円空死後に生きた木喰であるが、木喰のセルフポートレートの木彫り作品(一番右の写真のひげのある木像)は、国立博物館の常設展示にも一体ある


『歓喜する円空』(梅原猛、新潮社、2006 文庫版2009)
・・「梅原生きるにあらず、円空わが内にて生きるなり」と語る哲学者によるあらたな円空像。豊富なカラー図版と独創的な解釈。梅原日本学の成果であり、五来重説の徹底批判である。円空を白山信仰をもとにした修験者であるとする





<関連サイト>

円空 微笑み物語(円空連合のウェブサイト)


<ブログ内関連記事>

「没後50年・日本民藝館開館75周年-暮らしへの眼差し 柳宗悦展」 にいってきた
・・柳宗悦は木喰(もくじき)の仏像を「民藝運動」のなかで発見し、蒐集していた

書評 『近世の仏教-華ひらく思想と文化-(歴史文化ライブラリー)』(末木文美士、吉川弘文館、2010)・・明治維新以前の仏教にあらたな光をあてた概説書

庄内平野と出羽三山への旅 (7) 「神仏分離と廃仏毀釈」(はいぶつきしゃく)が、出羽三山の修験道に与えた取り返しのつかないダメージ・・明治維新以前の神仏習合について。梅原猛は円空は白山信仰の修験者であったとする

特別展 「五百羅漢-増上寺秘蔵の仏画 幕末の絵師・狩野一信」 にいってきた

「白隠展 HAKUIN-禅画に込めたメッセージ-」にいってきた(2013年2月16日)


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2013年2月23日土曜日

「植物学者 牧野富太郎の足跡と今(日本の科学者技術者シリーズ第10回)」(国立科学博物館 東京・上野)にいってきた


つい先日(2013年2月15日)のこと、ロシアに落下した巨大隕石のニュースを知って以来、隕石の実物が見たいので、じつにひさびさに上野の国立科学博物館に行ってみたのだが、なんと小学校時代のあこがれの人であった牧野富太郎博士の特別展示があることを知った! 

昨年(2012年)が生誕150年ということで企画されたようだ。この特別展示をまったく知らなかったので、偶然の結果として見ることができたのは大いなる喜びであり、また隕石の導き(?)かもしれないとも思うのであった。

小学校時代からの理科少年で、とくに自然観察に没頭していたわたしは、植物、動物、魚介類その他もろもろが大好きで、毎日のように自然観察と図鑑に読みふけることを交互に繰り返していたのだが、植物の世界では牧野富太郎博士、魚介類の世界では昭和天皇(・・当時はまだ今上天皇であった)を尊敬していた。とくに牧野富太郎博士は「あこがれの存在」であったような気がする。

『牧野日本植物図鑑』といえば、それほど有名なものはないといえるほど重要な図鑑、小学生には絵よりも字のほうが多くて、しかもきわめて高価であった『牧野日本植物図鑑』は手の届かないものであったが、その存在は現在にいたるまで脳裏に刻み込まれた存在である。

牧野富太郎は、その全生涯をかけて日本の植物を徹底的に収集、観察し、じつにうつくしいアートともいえるような精密な植物画を作成し、植物研究者として後世に名を残したのである。ゆえに日本の「植物の父」とたたえられているのである。


その牧野富太郎博士の特別企画展である。昨日は金曜日で入館時間が20時までというのも幸いした。入館料は600円で特別料金をとられないというのもありがたい。その前を通っても、ひさしく入館していなかった科学博物館に入ってみる。

なによりもまず「植物学者 牧野富太郎の足跡と今」の会場に向かい、展示品をひととおり見て回った。

年譜に記載された、「14歳で小学校を自主退学」という一行がじつにインパクトがあるものだ。牧野博士は65歳で理学博士となったのであるが、小学校すら退学しているので「最終学歴はなし」ということになるのだろうか。

しかし、これは勉強ができないからでなく、学校に飽き足らず「自主退学」したということであろう。この点は、高知(土佐)の牧野富太郎博士(1862~1957)だけでなく、おなじく四国は徳島の世界的民族学者・鳥居龍蔵 博士(1870~1953)も同じだ。ほぼ同時代を生きた鳥居龍蔵 博士も、学校の勉強には飽き足りないので小学校を中退している。

学力がないとか、学費がないという理由ではない。学校という制度がイヤだから行きたくないという意向がそのまま通った時代なのであった。明治時代はまだそんな時代だったのだ。というのも、近代的な義務教育制度とはまったっく異なる、寺子屋という学習機関の影響が濃厚に残っていた明治初めであればのことだろう。

わたくしごとだが、徳島生まれの祖父もまた、「学校は面白くないからイヤだ」と親にいったら、「ああ、そうかい」ということで尋常小学校卒業で終わっている。師範学校の校長を歴任したような親ですら、そういう態度を子どもに対して示しているというのが面白い。

その頃にくらべると、現在はなんと窮屈でイヤな時代になったものだと思うのである。純粋に知りたい、学びたいという欲求に、いまの学校制度はどこまで対応できているのであろうか?



ところで、先に名を出した昭和天皇もまた生物学全般にかんする多大な興味から植物についても研究をしておられたことは有名だが、昭和23年(1948年)には「ご進講」という形で牧野富太郎との対面が実現している。昭和天皇はその機会を心待ちにしておられたという。

かつての自然観察少年少女はもちろん、自然観察とはなにかを感じ取りたい人、日本の民間学の水準の高さと裾野の広さを知りたい人だけでなく、ひろく日本人一般に、「純粋に知的探求を行う精神」とはなにかを知ってほしい。

そのためにも、この巨大な先人の軌跡をぜひ見てほしいと思うのである。人間の本質は学びにあるからだ。

なお、この企画展の解説を記した小冊子が会場にて無料で入手できることを付け加えておこう。








<関連サイト>

植物学者 牧野富太郎の足跡と今(日本の科学者技術者シリーズ第10回)(国立科学博物館)

国立科学博物館 アクセス・利用案内


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2013年2月22日金曜日

書評 『東京裁判 フランス人判事の無罪論』(大岡優一郎、文春新書、2012)-パル判事の陰に隠れて忘れられていたアンリ・ベルナール判事とカトリック自然法を背景にした大陸法と英米法との闘い



いわゆる「東京裁判」、すなわち極東軍事法廷にかんする本は、それこそ無数に出版されている。当事者の回想録だけではなく、東京裁判史観を否定するものも少なくない。

東京裁判のA級戦犯たちは無罪であると堂々と主張したのが、大英帝国の植民地であったインド出身のパル判事であったことはよく知られている。

だが、パル判事の陰に隠れて忘れられていたフランス人判事がいたということを教えてくれたのが本書だ。これまでとは異なる角度から、きわめて重要なポイントを明らかにしてくれる本であるといっていいだろう。

米英を中心にしたアングロサクソン諸国という「勝者による裁き」がその本質であった「東京裁判」の判事には、米英やオーストラリア・ニュージランドだけでなく中国もソ連も加わっていた。そこにはフランス人判事も参加していたのである。

法律の世界では、大陸法(Civil Law)と英米法(Common Law : コモンロー)という二大潮流があることは、多少とも法律をかじったことのある人にとっては常識であろう。日本は、明治維新後の近代化=西欧化のなか、法体系はフランスとドイツという、ともに大陸法の国々をモデルにして構築したのであった。敗戦後は、独占禁止法や労働法制、会社法においては英米法の要素も入ってきているが、基本は大陸法である。

東京裁判でただ一人のフランス人判事であったアンリ・ベルナールは、いうまでもなく大陸法であるフランス法の世界に生きてきた法律家である。しかも、「植民地帝国フランス」の海外植民地アフリカの司法官僚としてキャリアのほぼすべてを過ごした人であった。インドのパル判事とは真逆の立ち位置である。

しかも、18歳で第一次大戦に志願して参加するまで、イエズス会の神学校に10年間も通った経験をもつ熱烈なカトリック。戦争からの帰還後、法律を学んで司法官僚となった人だが、当然のことながらカトリックの法思想のもとにあったようだ。それは「中世神学的自然法観念」である。

それが「自然法」を背景にした「正義」についての発想の源泉になっていたようだ。戦争が正義であるか否か、それは一義的に決定されるものではない。人間を超越した神の法で考えなければならないというのがアンリ・ベルナール判事の思想であったようだ。その息子は父親のことを、「中世に生きていたような人だ」と回想しているそうだが、第二次大戦終結後の1940年代後半においても、そのような人が存在していたということが興味深い。

「東京裁判」は、法実証主義が主流の英米法主導の裁判であった。大陸法の世界にいたアンリ・ベルナール判事はその意味ではまったくの少数派であったわけだ。植民地の司法官僚フランス人からみた「東京裁判」は、これまでとは異なった視点から見ることを可能としている。

わたし自身は、「勝者による裁き」であった「東京裁判」には否定的なスタンスをもっているが、そういう立場を別にして、英米法と大陸法との「法思想の戦い」でもあったという点から見ることを可能にしてくれた内容でもある。またフランスという国の特異性について考える材料を提供してくれる内容の本でもある。

そういう観点から読むこともできる本である。いままでとは異なる視点による「東京裁判」論としても一読の価値がある。





目 次

プロローグ
第1章 忘れられたフランス人判事
第2章 「神の法」とは何か
第3章 正しい戦争、不正な戦争
第4章 「判定は正当なものではあり得ない」
エピローグ
おわりに

主要参考文献

著者プロフィール  

大岡優一郎(おおおか・ゆういちろう)
1966年東京都生まれ。慶應義塾大学法学部政治学科卒業後の1991年、NHKにアナウンサーとして入局。フランス・リヨン第三大学大学院にて国際政治学を専攻後、1996年にテレビ東京に移る。主に報道番組のキャスターを務め、現在は編成局アナウンス部長(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。




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「免罪符」は、ほんとうは「免罪符」じゃない!?




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2013年2月17日日曜日

「白隠展 HAKUIN ー 禅画に込めたメッセージ」にいってきた(2013年2月16日)



「白隠展 HAKUIN-禅画に込めたメッセージ-」にいってきた。今回の白隠展は東京だけの開催だという。会場は、渋谷の Bunkamuraザ・ミュージアムである。西洋絵画の展示が多いミュージアムだけに意外な感がある。

禅僧の禅画というと地味な展示会のイメージなのだが、意外なことに来場者がひじょうに多いのには驚かされた。晴れた土曜日の午後だからというだけでもなさそうだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<開催日> 2012年12月22日~2013年2月24日 *2013年1月1日除く
<会場> Bunkamuraザ・ミュージアム(山手線渋谷駅下車)
<ウェブサイト> http://www.bunkamura.co.jp/museum/exhibition/12_hakuin/index.html ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

白隠の禅画はインパクトがある

岡本太郎は、「なんだこれは!」と思うようなものが芸術だといったが、白隠のインパクトもそれに近いような気もする。

彩色が施されている達磨大師の禅画(下図)は有名だが、これは例外であr、ほとんどは墨一色による水墨画である。


今回の展示でとくに気に入ったのが、あたらしく発見されたという40歳代の作品で、禅宗の祖である達磨大師(ダルマだいし)を描いたもの。その濃い容貌はまさにインド人。

そして、大燈国師。乞食のなかにまじって暮らしていたという高僧は、1970年代風にいえばまさにヒッピーだろう。こういう禅画を見ていると、なぜアメリカで禅仏教が普及していったのかがよくわかる。

白隠とは何かについて触れておく必要があるだろう。wikipediaの記述を引用させていただこう。


白隠 慧鶴(はくいん えかく)(1686年~1769年)は、臨済宗中興の祖と称される江戸中期の禅僧である。諡は神機独妙禅師、正宗国師。
駿河国原宿(現・静岡県沼津市原)にあった長沢家の三男として生まれた白隠は、15歳で出家して諸国を行脚して修行を重ね、24歳の時に鐘の音を聞いて悟りを開くも満足せず、修行を続け、のちに病となるも、内観法を授かって回復し、信濃(長野県)飯山の正受老人(道鏡慧端)の厳しい指導を受けて、悟りを完成させた。また、禅を行うと起こる禅病を治す治療法を考案し、多くの若い修行僧を救った。
以後は地元に帰って布教を続け、曹洞宗・黄檗宗と比較して衰退していた臨済宗を復興させ、「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」とまで謳われた。 現在も、臨済宗十四派は全て白隠を中興としているため、彼の著した「坐禅和讃」を坐禅の折に読誦する。
現在、墓は原の松蔭寺にあって、県指定史跡となり、彼の描いた禅画も多数保存されている(*太字ゴチックは引用者。内観法との関連で白隠は記憶されていることも多かろう)。

(ノイローゼ対策としてのイメージ療法である白隠の内観法)

白隠の禅画をみてインパクトを受けるのが第一段階、そしてその禅画の背景に暗示的に示されたメッセージの意味を知るのが第二段階ということになろう。なぜなら、白隠は画家ではなく、あくまでも仏教者であったからだ。

その意味では、『白隠-禅画の世界-』(芳澤勝弘、中公新書、2005)をあわせて読むといっそう理解が深まることは間違いない。著者の芳澤勝弘氏は、今回の『白隠展』の監修者をつとめている白隠研究の第一人者で禅学を専攻している。目次は以下のとおり。

序章 白隠という人
第1章 富士山と白隠
第2章 キャラクターとしてのお多福と布袋
第3章 多様な画と賛
第4章 さまざまな仕掛け
第5章 南無地獄大菩薩―白隠の地獄観
終章 上求菩提、下化衆生

白隠を考えるうえで重要なことは、中国生まれの臨済禅を日本に定着させた禅僧であること、子どもの頃に地獄への恐怖感から出家を志したこと、富士山の裾野にある東海道の街道筋の沼津に生まれ育ち、終生そこで生きた人であること、大悟してのちはひたすら民衆教化につとめたことである。

白隠の禅画とは、いっけん出光佐三が愛した仙崖(せんがい)のような戯画にみえても、仙崖のような洒脱さを旨としたのではなく、あくまでも仏教の教えに基づいて、民衆教化のメディアとして絵画を活用したということにあるわけなのだ。

法話という聴覚に訴えるメディアだけでなく、画賛という絵と文字をあわせた視覚に訴えるメディアも活用したということである。しかも、それを見る者を巻き込む involving media (マクルーハン)すら開発していた白隠。

わたし自身は座禅はしないが、江戸時代の一般民衆もまた座禅はしなくても禅画をつうじて、仏教の教えを知ることも少なくなかったのだろうとと思うのである。

白隠は、インパクトがあるだけでなく、なかなかにして深いのである。





<関連サイト>

白隠学 (花園大学国際禅学研究所 白隠学研究室)

白隠の優れた通訳者でありたい(前篇) 禅学者・芳澤勝弘 (WEDGE 2009年12月18日)
白隠の優れた通訳者でありたい(後篇) 禅学者・芳澤勝弘 (WEDGE 2009年12月20日)
・・このインタビュー記事はめちゃくちゃ面白い! 「とことん自分の目で見て自分の頭で考えてみんと納得できん悪い癖」の持ち主である芳澤氏が、ひょんなことから研究者になって白隠に取り組むことに。人生に無駄なし。


<ブログ内関連記事>

書評 『近世の仏教-華ひらく思想と文化-(歴史文化ライブラリー)』(末木文美士、吉川弘文館、2010)

特別展 「五百羅漢-増上寺秘蔵の仏画 幕末の絵師・狩野一信」 にいってきた

『酒井抱一と江戸琳派の全貌』(千葉市美術館)の初日にいってきた-没後最大規模のこの回顧展は絶対に見逃してはいけない!


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