2013年11月12日火曜日

書評『私とは何か ー「個人」から「分人」へ』(平野啓一郎、講談社現代新書、2012)ー「全人格」ではなく「分割可能な人格」(=分人)で考えればラクになる



おおいに共感する内容の本です。人間関係に悩んでいる人現実に違和感を抱いている人自分に自信がもてない人など、ぜひ本書『私とは何か ー「個人」から「分人」へ』を読むことをすすめたいと思います。

「本当の自分」など幻想だ! 著者はこう言い切っています。ですから「本当の自分」を求めて「自分探し」することなど、じつは意味がないのです。

なぜなら、人格は分割可能だから。人によって違う自分を見せているのは、心理学でいうようなペルソナ(=仮面)を掛け替えているからではなく、自分と他者との関係において、それぞれ異なる自分が存在するからなのだ、と。

つまりすべての人に対して同一の自分があるのではなく、他者との関係ごとに異なる自分が複数あると考えたほうが自然ではないか、というのが著者の結論です。

著者はこれを「分人」(ぶんじん)と名付けました。「個人」に対して「分人」複数の「分人」があわさって一人の「個人」になる。「個人」は複数の「分人」のネットワークであると捉えることもできる。

「個人」は英語の in-dividual(分割不可能)が語源です。それ以上わけることのできない存在が「個人」なのであると。「分人」とは in のない dividual、つまり「分割可能」という意味です。

本書では触れられてませんが、歴史学者の阿部謹也によれば、西欧で「個人」が生まれたのは11世紀のことです。キリスト教の世界観のなかではじめて「個人」が誕生したわけですが、かならずしもスムーズに浸透したわけではなかったようです。「個人」が定着するまで、西欧でも人は「世間」のなかで生きていたわけです。

「個人」という概念が「近代化=西洋化」とともに明治時代に導入されましたが、これがずっと日本人を苦しめてきた根源にあることは、おそらく多くの人にとって納得のいくことでしょう。そもそも日本にはなかった概念だからです。全人格で捉えられる「個人」が息苦しいのです。

もちろん個体レベルでは人体は分割不可能です。全体があってはじめて一つのシステムとなるからです。肉体を分割したらバラバラになってしまい、全体としての生命を維持することはできません。

しかし意識はそうではない。意識は人格や魂と言い換えてもいいかもしれませんが、意識は分割可能だと考えても不思議ではないでしょう。そもそも意識は肉体とは違って目に見えない存在ですから。肉体が物質であるならば、意識は「情報」といいかえてもいいでしょう。

「分人」は、あくまでも他者との関係において、その相互作用の蓄積がつくりだすものだと著者は言ってます。親子のあいだ、高校時代の友人、恋人やパートナー、職場の関係などなど、それぞれ他者との関係が異なるのは当然ですし、関係の濃い薄いにも違いがありますし、また自分も他者も変化しつづけるのでその関係も変化していくのは当然といえば当然でしょう。

だからこそ、複数の場で異なる関係をつくっておけば、どれか一つの「分人」に依存しなくても済むので、その結果、精神的に煮詰まらずに済むわけです。心を病んだり、思いつめて死を選ぶ必要などなくなります。

わたし自身は、「分人」という概念をもちださなくても、「一にして多・多にして一」という人間の多面性が意識されていれば十分だと考えていますが、多くの人にとっては「分人」という考えの方が理解しやすく受け入れやすいかと思います。一つのものの見方として。

わたしとしては、この本は人間関係に悩んでいる人だけでなく、とくに会社など組織でしかるべきポジションにある人にも読んでもらいたいと思います。

そうでなくても日本人がつくる組織においては、見えない「世間」が組織内に入り込み、息苦しさを生んでいるわけですが、その理由が構成メンバーを全人格的に支配したくなる気持ちが、無意識レベルかもしれませんが、あきらかに存在するからです。そのほうが管理する側からみればラクだから。一元的管理への誘惑はきわめてつよいものがあることは否定できません。

ワークライフバランスという概念もありますが、組織にいて仕事をしているときの「分人」と、仕事を離れた私生活の「分人」が違ってもまったく問題はないはずです。いや、むしろそれは組織として積極的に促進すべきでありましょう。

たとえ「分人」という表現はつかわなくても、全人格を一元的に管理しようなどと考えなければ、従業員の息苦しさは解消されるでしょうし、うつ病が発生することもないでしょう。そして、そうであればあるほど自由にものを考え、あらたなアイデアもでてくるようになるはず。

職場にる自分もまた自分、職場を離れた自分もまた自分。これらがつねに同一でなければならない必然性などまったくありません。

「自分」は異なる「分人」の集まりである。そう考えれば、おおいに気が楽になることでありましょう。「個」も「組織」も。




目 次

まえがき
第1章 「本当の自分」はどこにあるか
第2章 分人とは何か
第3章 自分と他者を見つめ直す
第4章 愛すること・死ぬこと
第5章 分断を超えて
あとがき
補記 「個人」の歴史

著者プロフィール

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)
1975年、愛知県生まれ。小説家。京都大学法学部卒。1999年、在学中に文芸誌「新潮」に投稿した『日蝕』により第一二〇回芥川賞を受賞。以後、数々の作品を発表し、各国で翻訳紹介されている(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。


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・・まさに「分人」の実践!

(2014年6月5日 情報追加)


PS 「縁」という「相互依存性」の概念で捉えると、「個人」ではなく「関係」としての人間存在が理解可能となる

仏教でいう「縁」という概念は、人と人との「関係」、すなわち「相互依存性」と言い換えれることができます。そう捉えると、普遍的な概念として理解可能なものとなるでしょう。

「人格」や「個人」という西欧社会で確立した概念が、日本人の肌合いにはかならずしもフィットしていない。人と人との「関係」によって意識の志向性が変わり、それによって相互依存的な「個人」は、著者のいう「分人」としての様相も見せると理解しておけばよいでしょう。人間は、あくまでも関係性のなかに存在するとうのは、仏教に限らずユダヤ教でも同じようです。書評 『対話の哲学-ドイツ・ユダヤ思想の隠れた系譜-』(村岡晋一、講談社選書メチエ、2008)-生きることの意味を明らかにする、常識に基づく「対話の哲学」 を参照してください。

記事にも書きましたが、わたしは、かならずしも「分人」にこだわる必要はないと思います。「分人」と捉えたほうが理解しやすいし、説明もしやすいので著者の試みに賛同するわけです。いわば「方便」として。

(2013年11月13日 付記)


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