2013年12月29日日曜日

日本が「近代化」に邁進した明治時代初期、アメリカで教育を受けた元祖「帰国子女」たちが日本帰国後に体験した苦悩と苦闘-津田梅子と大山捨松について


1871年(明治4年)、日本初の国費による「女子留学生」として「岩倉使節団」とともに渡米した5人の少女たち。日本の「近代化」推進のため、先進的な教育制度に学ぶべく男子留学生たちとともにアメリカに送り出されたエリート候補生たちであった。

北海道開拓長官となった薩摩藩出身の黒田清隆の思いつきで発案されたのが「女子留学生」である。だが急募ということもあり、日本全国から「女子留学生」に応募したのは、たった5人(!)しかいなかったという。

たとえ国費による留学であるとはいえ、自分の娘を10年間(!)も遠い異国にやる親など、現在でもまずいないだろう。いまから140年前は、インターネットでリアルタイムにつながる現在からはまったく想像もできない時代だったのだ。

応募したのは、いずれも「維新の負け組」となった士族の娘たちである。応募者があまりにも少なかったので全員渡米することとなった。10年間の修学予定であったが、年長の2人はホームシックで体調を崩して初年度に帰国を余儀なくされる。結局、最後までアメリカで勉強をつづけたのは3人だけであった。

まずは英語を身につけなくてはアメリカでは生きていけない。そのため、3人一緒ではなく、べつべつにアメリカ人の家庭に預ける必要があると、薩摩藩出身で駐米代理公使であった森有礼(もり・ありのり)はホストファミリー探しに奔走した。在米留学生の監督がその主要任務であったからだ。

英語を日本の「国語」にせよなどという主張を行い、極端な「欧化主義者」であったとして過激な「国粋主義者」によって暗殺されることとなった森有礼。ネガティブなレッテルが貼られたままの森有礼であるが、英語が堪能でキリスト教の影響を深く受けていた彼がアメリカ東部のエリート層のあいだに築いたネットワーク、彼を中心に形成された日本人留学生ネットワークが日本近代化に果たした役割はきわめて大きい

「女子留学生」としてミッションを果たした3人の女性にとっても森有礼の存在と、渡米の際に途中まで行動をともにした「岩倉使節団」の一員であった長州藩出身の伊藤博文の存在は、日本帰国後に意味をもつのである。伊藤博文もまた幕末に密航して英国留学した経験をもつ開明派であった。



■津田梅子と大山捨松の勉強と帰国後の「逆カルチャーギャップ」

「女子留学生」のなかでもっとも有名なのが津田塾大学の創立者・津田梅子(1864~1929)であろう。

梅子が渡米したのはなんと満6歳(!)成長期の11年間をアメリカで過ごし、ハイスクールを終え18歳で帰国した頃には、すっかり日本語を忘れてしまっていたという。日本の家族とのコミュニケーションにも難儀したらしい。日本語は学び直さなくてはならなかったようだ。

11歳で渡米し名門ヴァッサー・カレッジをアジア人女性としてはじめて卒業(!)した会津藩家老の娘・山川捨松(・・のちの大山捨松 1860~1919)である。

捨松のほうは、もう一人の「女子留学生」益田繁子(・・のち瓜生繁子 1862~1928、三井物産初代社長・益田孝の妹)とヴァッサーカレッジで同窓で、イエール大学を卒業した兄・山川健次の厳命で毎日1時間は日本語会話する習慣をつづけていたので日本語を忘れることはなかったようだ。だが、生涯にわたって日本語の読み書きには苦労したらしい。

ちなみに、益田繁子はヴァッサーでは実技系の音楽を専攻し、卒業にこだわった梅子や捨松よりも一年前に帰国し、おなじくアメリカ留学組で、のちの海軍大将・瓜生外吉男爵と結婚している。帰国後はピアニストとして活躍していたようだ。

わたしは大学院時代にアメリカで教育を受けたが、英語でうけた教育内容は英語で理解していたものなので、それを日本語でどう表現するのかときに悩むことがある。日本帰国後もしばらくは苦労したことを思い出す。

20歳代後半の2年間ですらそうなのだから、多感な10代の時期に10年間もアメリカにいて英語漬けになっていた「女子留学生」たちの帰国後の苦労は、想像を越えたものと言わざるを得ない。

国費で留学した彼女たちはアメリカで勉強した成果をもって、祖国に貢献したかったからアメリカにとどまり続けるつもりはなかったのだ。そもそも出発前には皇后陛下(・・没後は昭憲皇太后)から激励されて送り出されたのである。

その彼女たちが日本帰国後に体験したのは、まさに浦島太郎のようなものだったのだろう。アメリカ流も英語もつうじない日本での苦労と苦闘がしのばれる。


(ヴァッサー・カレッジ時代の捨松 アーカイブより)

近代化が開始された頃に渡米してアメリカで教育を受けた女性たちの生涯を追っていくと、140年前のこととはいえ、まったく別世界の話という感じがしない。

異文化に適応しても帰国後に味わうことになる逆カルチャーショック、慣れ親しんだ英語と日本語とのコミュニケーションギャップ・・・。まさに「帰国子女」を先取りした存在といえるだろう。「帰国子女」は、当時でも現在でも日本社会においてはマイノリティの存在であることに変わりはない。

自分の思うこと、考えることが伝わらないという焦り、苦しみ。国費で留学して、いざ祖国日本のために貢献しようと意気揚々と帰国したのに、まったく期待されていないことを知った時の落胆、挫折感

同時期の男子留学生たちが官僚や学者としてエリートコースに乗っていったのと違い、戦略性のない単なる思いつきで送り出された女子留学生たち。日本帰国後の彼女たちがみずからの進む道を見出すまでは、失望以外のなに感じることができなかったのは痛いほどわかる。


みずからの内面は親しいアメリカ人に英語で語っていた

梅子や捨松が、みずからの心の内面を親しいアメリカ人にあてた手紙で英語で(!)つづっていたのは当然といえば当然だろう。英語なら自由に自分を表現できるが、日本語では意思疎通に問題があったからだ。

だがそれだけではない。明治初期においてはいまだ「国語」としての日本語、つまり「標準語」が確立していなかったのだ。大河ドラマではそれぞれが方言を喋りながらも意志疎通ができているという設定になっているが、はたしてじっさいはどうだったのだろうか。しかも、口語体でものを書くというスタイルは確立していなかったのだ。

ちなみに言文一致による日本初の小説『武蔵野』(山田美妙)が発表されたのは明治20年(1888年)のことである。森有礼が英語を日本の「国語」にせよなどという主張を行ったり、おなじく「明六社」メンバーの西周(にし・あまね)が日本語のローマ字表記化や日本の郵便制度の父・前島密が日本語のかなもじ表記を主張したり、日本語の表記体も確立していなかった時代でもあった。

ローマ字入力で漢字かな変換できるワープロ機能のある現在なら、梅子や捨松も比較的ラクに日本語を書くことができたであろう。わたしも日本語を学習した外国人とは、ローマ字化された日本語でやりとりすることもある。

だが明治初期は、英語をはじめとする西欧語の概念を日本語化するために、ローマ字化を主張した西周などの「欧化主義者」の啓蒙家たちによって、「和製漢語」が大量に作り出された時代でもある。

戦後の「国語改革」を経た現在の漢字仮名交じり文からは想像できないほど難読語の使用が多く、そうとう勉強をしなければ読み書きが自由にできない時代でもあった。

そういう時代であったこともまた、英語で教育を受けた彼女たちにとっては、英語のコミュニケーションのほうが、はるかに自分の内面や意志を伝えやすかったと考えてもまったく不思議ではない。

梅子や捨松の手紙が日本語の著作のなかで読むことができるようになったのは、関係者による伝記執筆によるところが大きい。

『津田梅子』(大庭みな子、朝日文芸文庫、1993 単行本初版 1990)は、1984年に津田塾大学の物置のなかから偶然発見された、ホストファミリーの育ての母ともいうべきアメリカ人女性にあててつづられた、膨大な量の英文の手紙をもとに執筆された伝記文学だ。

『鹿鳴館の貴婦人 大山捨松-日本初の女子留学生-』(久野明子、中公文庫、1993 単行本初版 1988)は、忘れ去られていた大山捨松の生涯を探索するなかで発見されたアメリカ人の親友にあてて書かれた英文の手紙をもとに執筆された伝記だ。

ほぼ同時期に出版された二冊の本だが、『津田梅子』の著者の大庭みな子氏が津田塾の卒業生であるなら、『鹿鳴館の貴婦人 大山捨松-日本初の女子留学生-』の著者の久野明子氏は大山捨松のひ孫にあたる人。ともに女性で、ともにそれぞれの人物にゆかりの人である。


NHK大河ドラマ『八重の桜』の登場人物でもあた大山捨松(=山川捨松)と津田梅子。せっかくの機会なので、買ったまま20年間(!)読まないままになっていた『鹿鳴館の貴婦人 大山捨松』と、ついでに入手した『津田梅子』をあわせて読んでみた。

はじめて気がついたが、似たような素材をもとに再現された二人の女性の生涯であり、文庫化されたのも1993年とまったく同じ年だ。しかも。津田梅子と大山捨松のあいだにはアメリカ留学に出発して以来、40年ちかく親しく付き合いのあった仲でもある。当然ながら二人で話すときは英語であったようだ。

『鹿鳴館の貴婦人 大山捨松-日本初の女子留学生-』を1993年に新刊として購入したのは、わたしが1992年にMBAを取得してアメリカから帰国した頃だったからだろう。



津田梅子と大山捨松の帰国後の「キャリア」(=軌跡)

『モダンガール論』(斎藤美奈子、文春文庫、2003)の単行本初版(2000年)は、副題に「女の子には出世の道が二つある」とあった。

立派な職業人になることと、立派な家庭人になること。職業的な達成(労働市場で自分を高く売ること)と家庭的な幸福(結婚市場で自分を高く売ること)は、女性の場合、どっちも「出世」なのである。したがって、女の子はいつも「二つの出世の道」の間で揺れてきた(単行本 P.8)

この分類にしたがえば、職業的な達成を目指しその道を切り開いたのが津田梅子であり、後者の家庭的な幸福を選択したのが大山捨松(=山川捨松)ということになる。

アメリカで芽生えた女子教育を日本で行うという捨松の夢は、帰国後の日本では実現にはほど遠いことを悟らざるを得ず、現実的な戦略に切り替える。

現実的とは、陸軍高官の大山巌と結婚し、上流階級の婦人として社会的な存在となり、そのポジションをつうじて利用してできることをキャリアとしたということだ。上流階級の一員として明治国家を支える形での貢献に姿を変えて自己実現をはかったといえるだろう。鹿鳴館での活躍もその一環であった。思い通りの人生とは言い難いものがあったにせよ。

そして本来の自分の夢は、津田梅子の志を陰に陽に助ける形で実行されることになる。ある意味で、それは「内助の功」といえるのかもしれない。今回この2冊の伝記を読まなかったら、その重要な事実を知らないで終わっていたかもしれない。陰徳というものは見えにくいからだ。

日本の女子高等教育における津田梅子の功績はあまりにも大きいが、いわば「内助の功」として陰に陽に支援を惜しまなかった大山捨松の貢献がいかに大きなものであったか。

アメリカで教育を受けた人ならではの高い「貢献意識」に打たれるものがある。What can you contribute ?(=あなたはなにを貢献できるのか?)という問いは、耳にたこができるほどアメリカで叩き込まれる

『モダンガール論』(斎藤美奈子)でも指摘されているが、「良妻賢母」は前近代のものではないのだ。あくまでも「近代イデオロギー」の産物だということには注意しておく必要がある。「良妻賢母主義」を国是とすべしと提唱したのは、伊藤博文内閣で初代文部大臣となった森有礼である(1885年)。

そもそも儒教が武士の倫理規範を越えて全国民的なものとなったのは、明治時代半ばの教育勅語と軍人勅諭の施行以降である。だからこそ、戦後日本では儒教道徳はあっけなく消え去ったのである。


(1871年 一番右が山川捨松10歳、ひざ上に津田うめ6歳 wikipediaより)


大山捨松と津田梅子は、ともに武士の娘である。そして、ともに家庭内で西洋と接する環境にあった。

捨松は会津藩国家老の娘、捨松の長兄・山川浩は幕末に幕府の使者と同行してロシアへ渡航、ヨーロッパ諸国を見聞して世界の大勢を知っていた人。次兄・山川健次は会津戦争後、捨松に先だって国費でアメリカのイエール大学に留学、物理学を専攻。

梅子の父・津田仙は幕臣、蘭学が奨励されていた佐倉藩士として生まれ、洋学や砲術を学び、その後は娘の影響でキリスト教徒となり青山学院大学の設立にもかかわった人。同志社大の創始者新島襄、人間の自由と平等を説いた東京帝国大学教授の中村正直とともに、“キリスト教界の三傑”とうたわれた、という。

大山捨松と津田梅子、ともに大学では生物学を好んで学んでいる。

捨松はヴァッサーカレッジではリベラルアーツを修めたが、生物学と生理学の授業を多くとっていたという。ヴァッサーカレッジはニューヨーク州のポーケプシーにあるが、この地名はおなじくニューヨーク州の州都オルバニーに近いトロイにいたわたしには懐かしい響きである。ハドソン川沿いの風光明媚な土地だ。

津田梅子は二度目のアメリカ留学でフィラデルフィア郊外のブリンマー・カレッジ (Bryn Mawr College) で生物学を専攻している。ブリンマーもリベラルアーツ・カレッジだが、のちにノーベル賞を受賞することになる教授と「カエルの卵の細胞分裂」について論文を執筆しているのだそうだ。

大山捨松と津田梅子、ともにアメリカでキリスト教の洗礼を受けている。

捨松は、森有礼の奔走でニューヘイブンの名士であった理想肌の会衆派(=コングレゲーションナル)の牧師ベーコンの家庭をホストファミリーとし、キリスト教の洗礼を受けている。牧師の娘アリスとは生涯にわたって親友として付き合いつづける。捨松が英語の手紙を送っていたのはアリスあてであった。

梅子もまた、森有礼の部下であったワシントン近郊ジョージタウンのアメリカ人家庭をホストファミリーとし、特定の宗派に属さないフィラデルフィアの独立教会で洗礼を受けている。梅子の父も洗礼を受けているのは、もともと蘭学をつうじて西欧文明に精通していたこともあろう。

捨松・梅子・アリスの3人は後々までも親友として、また盟友として交流を続け、日本の女子教育の発展に寄与していくことになる。1900年に梅子が私塾の女子英学塾を立ち上げ塾長となったとき、捨松は顧問として梅子を助けアリスは教師として2年間無給で(!)梅子を助けたのであった。


(左から梅子・アリス・瓜生繁子・捨松 1900年の日本での再会)


大山捨松と津田梅子は、「英語・アメリカ・キリスト教」、という三位一体的なフレーズで要約することも可能だろう。欧州諸国とは別個に、この太い流れが幕末と明治初期から一貫していることをあらためて知るべきなのだ。

日本ではキリスト教は洗礼を受ける者は少ないので、ある意味ではキリスト教の神は「見えざる神」として存在し続けているといえるかもしれない。

近代になってアメリカ発のキリスト教が日本にもたらしもののなかで特筆すべきものは、「人格」と男女平等」という概念であり、それを前提にした「女子教育」であったといえるのではないだろうか。

その理念を実学教育として実践したのが女子英学塾であり、のちに梅子を記念した津田塾と改名されることになる。



津田梅子と女子「英学」塾(=津田塾)-「実学」と「教養」

『津田梅子』を書いた大庭みな子という小説家のことは名前は知っていたが、これまで一冊も読んだことがなかった。

なぜか日本経済新聞社から全集が出版されたことは、ビジネスマンで日経新聞を読んでいたのでアタマの片隅にあったが、大庭みな子(1930~2007)という作家が1949年に津田塾に入学した卒業生であったことは、この本を入手するまでまったくしらなかった。、

文庫版にある「巻末エッセイ 二つの世界の人」で、評論家の鶴見俊輔氏は以下のように書いている。

生涯つづけた学習にもかかわらず、その日本語の力は、どれほどついたか。私はうたがいをもつ ・・(中略)・・ 彼女は、その生涯の終りまで、英語世界を内面にもって、一個のコスモポリタン=ナショナリストとして、日本でくらした人ではなかったか。

みずからも15歳から20歳という若年時にアメリカに滞在し、ハーバード大学を卒業している鶴見俊輔ならではの見解だろう。


(津田塾創立100年記念に制作されたCD 梅子の英語スピーチ音声が収録)

たまたま、津田塾創立100年記念」として2000年に制作されたCDを津田塾関係者からいただいて所有しているのだが、CDにはSPレコードに吹き込まれた梅子の肉声が復元されて収録されている。内容は以下のとおりである。


1. 卒業生への塾長式辞(5"57") The Principal's Address to the Graduates (1913) 津田梅子
2. 詩 The Building of the Ship の末節(1'50") 朗読: 津田梅子
3. 女子英学塾校歌 アルマ・マータ Alma Mater (2'46")  作曲: 不明(イギリスの民謡) 作詞: アナ・ハーツホーン 合唱: 一橋大学・津田塾大学混声合唱団ユマニテ女性有志

2000年にこのCDをいただいてさっそく聞いてみたとき、津田梅子のスピーチが英語だったのは、津田塾大学の英文科では、卒論は英語で執筆してタイプ打ちするのだと、大学在学中に津田塾の学生から聞いていたので、そういう背景なのだろうと思っていた。

津田梅子の肉声は YouTube などでは公表されていないのが残念だが、CDに収録された英語スピーチと詩の朗読の音声を聞くと、じつに流暢でうつくしいアメリカ英語であることがわかる。

英語による卒業式の式辞をレコードに吹き込んでも、日本語のものを遺さなかったのは、鶴見俊輔氏が書いているように、梅子が生涯にわたって日本語に自信がなかったためかもしれない。

女子英学塾は、女性の職業としての英語教師を養成するという実学志向の学校として出発、日本で女子教育を普及させるという津田梅子の夢を実現したものであった。

大庭みな子の『津田梅子』によれば、津田塾大学と梅子が二度目のアメリカ留学で学んだブリンマー・カレッジはよく似ているのだそうだ。郊外の小規模リベラルアーツ女子大学というコンセプトだけでなく、、キャンパスの雰囲気も似ているのだという。

津田塾大学のウェブサイトによれば、津田塾の建学理念は All-round Women だという。その心は、「1900年、創立者の津田梅子は開校式で専門知識を身につけることの大切さとともに、幅広い視野をもち、自立して社会に貢献できる「オールラウンドな女性であれ」と語りました」。

つまり英語を中核においた「実学」であり、実学をささえるのは幅広い「教養」(=リベラルアーツ)ということなのだ。

(1871年 外交官として米国駐在時24歳!の森有礼 wikipediaより)

さきにも触れたが、津田梅子のホームステイ先はワシントンの、初代代理公使として駐在していた森有礼の部下のアメリカ人の家庭であった。森有礼は、教育の重要性をひじょうに深く認識しておりのちに初代文部大臣となったことはすでに述べたとおりだ。アメリカ駐在から帰国後の1875年には、のちの一橋大学になる「商法講習所」の生みの親となっている。

商法講習所は、恩師の歴史学者・阿部謹也先生によれば、「日本を商慣習の点から近代化する」というミッションを実現するためにつくられた私塾であり、初期においては教育はすべて英語で行われていた。

一橋大学と津田塾大学は東京都小平市にあって近隣校として交流が深いが(・・現在は一橋大学前期課程は国立市に移動)、この両者のつながりが、そもそも1871年のアメリカにあったことを知ると、いろいろな感慨をもつのである。

津田塾と津田梅子についてはそれなりに知っているつもりであったが、津田梅子と大山捨松が自分の内面世界を英語で書きつづった手紙を読み解いた伝記を読んだことで、元祖「帰国子女」の日本人女性たちが生きた時代と、彼女たちが背負うことになった特異な人生を知ることができたのは幸いであった。

津田梅子、大山捨松(=山川捨松)、そして森有礼(・・洗礼は受けていなかったようだ)は、「英語・アメリカ・キリスト教」という共通点をもっている。あたらしい物事は、このような狭い人間関係のつながりのなかから生まれるものだろう。

かれらが「欧化主義」の側にありながらも、盲目的な西洋崇拝とは無縁な明治のナショナリストであったのは、いずれも士族出身者であったことも影響しているのであろう。当時の「小国日本」のために尽くした生涯を送っている。

津田梅子、大山捨松(=山川捨松)、そして森有礼という3人の名前は、ぜひセットとして記憶しておきたいと思う。






<関連サイト>

津田梅子大山捨松森有礼については、wikipedia の記述は正確でかつ充実している。とくに会津藩家老の娘である大山捨松については、山川きょうだいの一人であることもあって、じつによくまとまった読み物になっている

津田梅子については津田塾の創立者であり、津田塾大学のウェブサイトにさまざまな資料がある

Vassar College (捨松が卒業したヴァッサー・カレッジのウェブサイト)
・・このサイトから Sutematsu Oyama を検索するとアーカイブ資料を見つけることができる。ヴァッサーカレッジは、現在でも最難関のリベラルアーツ・カレッジである。1969年に女子大から共学化された。著名な卒業生にはメリル・ストリープ(女優)、ルース・ベネディクト(人類文化学者)など多数

Princess Oyama (Vassar Encyclopedia)
・・ヴァッサー・カレッジ卒業生(class of 1882’s)であった大山捨松(Stematz Yamakawa)にかんする詳細なバイオグラフィーがあり、アメリカ的な視点で滞米中の捨松を身近に感じられる内容になっている。

以下のような記述もある。

Several classmates claimed that she and Shige practiced their native language frequently, but she herself wrote in an essay on her return to Japan that she had nearly forgotten her Japanese and took a month to recover it. What is certain that she wrote home to her mother every day and also communicated with a sister at the Japanese embassy in Russia, though those letters were in French. 

この記述によれば捨松は、日本語は繁子とつかっていたが、帰国後に日本語を思い出すのに一カ月かかったこと、捨松は母親あての手紙と在ロシア日本大使館にいた妹あての手紙はフランス語で書いていたとある。

Sutematsu (Yamakawa) Oyama, Vassar Class of 1882, the first Japanese woman to receive a Bachelor of Arts degree; Vassar College Archives, Archives and Special Collections Library, Vassar College. 
・・ここに大学時代のポートレートがある


敵と同じくらい味方を作る、強烈な無邪気と情熱【悪姫 #2】  明治の女とは思えない天才・津田梅子、そのぶっ飛んだグローバル女子ぶりとは。(渥美志保、COSMOPOLITAN、 2017年5月19日)

(2022年3月6日 情報追加)


<ブログ内関連記事>

アメリカ留学関連

書評 『アメリカ「知日派」の起源-明治の留学生交流譚-』(塩崎智、平凡社選書、2001)-幕末・明治・アメリカと「三生」を経た日本人アメリカ留学生たちとボストン上流階級との交流
・・森有礼がアメリカで築いた人的ネットワーク、日本人アメリカ留学生とのあいだに形成され人的ネットワークの意味について

レンセラー工科大学(RPI : Rensselaer Polytechnic Institute)を卒業して20年
・・RPIはわたしが卒業した大学。ヴァッサーカレッジと同じくニューヨーク州のハドソン側沿岸にある。この地帯は水運が交通と物流の中心であった頃、先進地帯として発展の最中にあった

アンクル・サムはニューヨーク州トロイの人であった-トロイよいとこ一度はおいで! ・・ニューヨーク州トロイにあるRPIは1824年創立のアメリカ最古の工科大学。この町にあるトロイ・アカデミーにて目賀田種太郎(・・専修大学の創設者の一人)などの日本人留学生が勉強していたという


日本語と表記法

梅棹忠夫の「日本語論」をよむ (1) -くもん選書からでた「日本語論三部作」(1987~88)は、『知的生産の技術』(1969)第7章とあわせて読んでみよう!

梅棹忠夫の「日本語論」をよむ (2) - 『日本語の将来-ローマ字表記で国際化を-』(NHKブックス、2004)

書評 『国家と音楽-伊澤修二がめざした日本近代-』(奥中康人、春秋社、2008)-近代国家の「国民」をつくるため西洋音楽が全面的に導入されたという事実
・・西洋音階の導入により音声としての日本語を標準化し日本語を確立する課題を追求

讃美歌から生まれた日本の唱歌-日本の近代化は西洋音楽導入によって不可逆な流れとして達成された

福澤諭吉の『学問のすゝめ』は、いまから140年前に出版された「自己啓発書」の大ベストセラーだ!
・・「あるいは書生が「日本の言語は不便利にして文章も演説もできぬゆえ、英語を使い英文を用うる」なぞと、取るにも足らぬ馬鹿をいう者あり。按ずるにこの書生は日本に生まれて未だ十分に日本語を用いたることなき男ならん。国の言葉はその国に事物の繁多なる割合に従いて次第に増加し、毫も不自由なきはずのものなり。なにはさておき今の日本人は今の日本語を巧みに用いて弁舌の上達せんことを勉むべきなり」(十七編 人望論) 
明治初期はこういう時代であった。だが、日本語の表現能力に限界があったことは確かなことで、その後、啓蒙主義の運動のなかで漢字語が大量につくられることになる


「英語・アメリカ・キリスト教」

書評 『西洋が見えてきた頃(亀井俊介の仕事 3)』(亀井俊介、南雲堂、1988)-幕末の「西洋との出会い」をアメリカからはじめた日本

NHK大河ドラマ 『八重の桜』もついに最終回-「戦前・戦中・戦後」にまたがる女性の生涯を戊辰戦争を軸に描いたこのドラマは「朝ドラ」と同じ構造だ

讃美歌から生まれた日本の唱歌-日本の近代化は西洋音楽導入によって不可逆な流れとして達成された

書評 『国家と音楽-伊澤修二がめざした日本近代-』(奥中康人、春秋社、2008)-近代国家の「国民」をつくるため西洋音楽が全面的に導入されたという事実
・・アメリカ留学組の国家官僚・伊澤修二はキリスト教の影響を最小限にとどめようと努力した

いまこそ読まれるべき 『「敗者」の精神史』(山口昌男、岩波書店、1995)-文化人類学者・山口昌男氏の死を悼む

幕末の佐倉藩は「西の長崎、東の佐倉」といわれた蘭学の中心地であった-城下町佐倉を歩き回る ③
・・津田梅子の父・津田仙は佐倉藩士の子として生まれ、のち養子として幕臣になった人。蘭学から英学に切り替えた人である。そういう家庭に育ったのが津田梅子であった

書評 『新島襄-良心之全身ニ充満シタル丈夫-(ミネルヴァ日本評伝選)』(太田雄三、ミネルヴァ書房、2005) -「教育事業家」としての新島襄
・・「英語・アメリカ・キリスト教」という共通点だけでなく、「女子留学生」とはアメリカで直接の知り合いであった新島襄

書評 『新渡戸稲造ものがたり-真の国際人 江戸、明治、大正、昭和をかけぬける-(ジュニア・ノンフィクション)』(柴崎由紀、銀の鈴社、2013)-人のため世の中のために尽くした生涯
・・「英語・アメリカ・キリスト教」という共通点でつらなる人脈

内村鑑三の 『後世への最大遺物』(1894年)は、キリスト教の立場からする「実学」と「実践」の重要性を説いた名講演である

書評 『岩倉具視-言葉の皮を剝きながら-』(永井路子、文藝春秋、2008)-政治というものの本質、政治的人間の本質を描き尽くした「一級の書」
・・岩倉具視は息子をアメリカに留学させている


アメリカの本質

書評 『超・格差社会アメリカの真実』(小林由美、文春文庫、2009)-アメリカの本質を知りたいという人には、私はこの一冊をイチオシとして推薦したい

書評 『アメリカ精神の源-「神のもとにあるこの国」-』(ハロラン芙美子、中公新書、1998)-アメリカ人の精神の内部を探求したフィールドワークの記録
・・メインストリームのキリスト教とアメリカ人の関係を知らなければアメリカを理解したことにはならない

書評 『黒船の世紀 上下-あの頃、アメリカは仮想敵国だった-』 (猪瀬直樹、中公文庫、2011 単行本初版 1993)-日露戦争を制した日本を待っていたのはバラ色の未来ではなかった・・・

書評 『ワシントン・ハイツ-GHQが東京に刻んだ戦後-』(秋尾沙戸子、新潮文庫、2011 単行本初版 2009)-「占領下日本」(=オキュパイド・ジャパン)の東京に「戦後日本」の原点をさぐる

「人生に成功したければ、言葉を勉強したまえ」 (片岡義男)
・・「人生に成功をおさめるためにぜったいに欠かせない最大の条件は言葉に習熟することだ、という伝統的な考え方が、アメリカにはある。この考え方は、いまでもつづいている」(片岡義男・日系三世)


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