2014年8月4日月曜日

書評『思想としての動物と植物』(山下正男、八坂書房、1994 原著 1974・1976)-具体的な動植物イメージに即して「西欧文明」と「西欧文化」の違いに注目する「教養」読み物



かつて中公新書から出版されていた、イメージから哲学にアプローチするテーマの二部作を合冊版として復刊したものである。それぞれ、『動物と西欧思想』(中公新書、1974)『植物と哲学』(中公新書、1976)である。

思想関連や哲学関連の本を読み慣れていない人にとっては、そこにでてくる抽象概念に難解な印象を受けて取っつきにくい、あるいは最初から食わず嫌いで敬遠してしまうことも多いだろう。

だが、西欧思想の根幹をなすキリスト教も、東洋思想の根幹をなす仏教も儒教も、人間が生み出した思想表現である以上、人間が生きてきた自然環境とのかかわりから大きな影響を受けていることはいうまでもない。そういった環境から受けてきた影響をイメージを介して抽象化したものが思想であり、哲学と考えれば取り組みやすくなるのでないかというのが著者の基本姿勢である。

一言でいえば、具体から抽象へという思考の流れを、再体験してみるということだ。具体的な事物に即してみることで、思想家や哲学者が使用しているコトバが、暗黙のうちに依存しているイメージがわかってくる。そういう観点で抽象的な思想や哲学をみれば、おのずから西欧文明の特質も限界も見えてくるということである。

とくに哲学との関係でいえば、「第2部 植物と哲学」が東西思想をほぼすべての項目にわたって比較しているので、西欧特有の思想、東洋特有の思想といった相違点でなく、意外と共通点が多いことが理解されるだろう。

新版のカバーにも描かれている「人間は逆立ちした植物だ」(プラトン)と「植物は逆立ちした人間だ」(アリストテレス)という命題が興味深い。植物は栄養を根っこから取り入れ、すみずみまでゆきわたらせるのだが、前者の命題は天上世界への志向性のつよいプラトンらしいもので、後者の命題は、生物学を中心とし地上中心的な現実主義的志向を示したアリストテレスらしい。この両者が西欧哲学の原点にある。

キリスト教神学の発展においては、まずはプラトン哲学が大きく利用され、中世においてイスラーム経由でアリストテレス哲学が導入されて強化されたのである。

とはいえ、正直いってこの「第2部 植物と哲学」はあまり成功しているとはいえない。あまりにもディテールに入り込んでしまっているので、哲学というよりも、たんなる知識の羅列に終わってしまっているという印象がつよく、読んでいてわずらわしい。

また、1976年という執筆された時代の制約のため、現時点からみるとあまり賛同できない主張も少なくない。1973年に高度成長が終わり、世界全体にも「成長の限界」などペシミズムが充満していた時代である。

(筆者所蔵の原著二冊)

これに対して「第1部 動物と西欧思想」にほうがテーマ性が明確に打ち出されているためはるかに面白いだけでなく、基本的枠組みは初版が出版されてから40年たっている現在でも新鮮である。西欧思想史を、メタファーとしての動物イメージによって三段階に区分するという構成が明確だからだ。

三段階は、①鹿、②羊、③馬(あるいは牛)、で表現される。

①鹿: 人類の「狩猟段階」における動物シンボル
②羊: 「牧畜段階」における動物シンボル
③馬(あるいは牛): 「農業段階」における動物シンボル

もちろんこれは西欧世界に適用したケースであって、人類史全体に普遍的なものではないことに注意しておきたい。

基本的にカバーされるのは古代から中世までの西洋史だ。古代と中世に西欧文明の核となる要素が形成された。この核をもとに大きく脱皮して跳躍したのが、いわゆる「西欧近代」である。

普遍的な「文明」を生み出した西欧が、じつはいかなる風土や環境にあったのか、「文明」からは切り落とされがちな「文化」の側面にも十分な目配りをすることによって、西欧文明の普遍性とその限界が明確になる。

まずは、「Ⅰ章 角のある神と魔女」で野生動物としての鹿を取り上げ、結局のところ家畜化できなかった鹿と人間のかかわりを、聖書や古代ギリシアと古代ローマ、英語を中心としてドイツ語、フランス語の語源を跡づけながら論じている。

キリスト教が普及していくなかで、ケルトやゲルマンの神々がキリスト教によって選別され、許容可能なものは吸収され、そうでないものは排除され撲滅された。これは601年に教皇グレゴリオ一世によって採用された「布教地における慣習順応」(accomodatio)によるものである。

だが、排除された神々は悪魔として西欧人の心性の奥底に生き残る。悪魔に角が生えているのは、鹿を神としてしていた古代信仰の名残りである。

「Ⅱ章 羊イメージ群とキリスト教」では、家畜化された動物の代表として羊を取り上げ、群れとしての存在の羊と羊飼いのイメージが、キリスト教のもとにおいては聖界と俗界の両面にわたっての支配のメタファーとして機能したことを明快に説明している。このメタファーは、旧約聖書と新約聖書のヘブライ的世界観だけでなく、古代ギリシアの世界観と共通するものであった。羊と羊飼いのメタファーにおいて、ヘブライズムとヘレニズムが融合しているのである。

「Ⅲ章 牛馬イメージと西ヨーロッパ世界」では、西欧における「農業革命」の結果、馬の食糧となる穀物生産能力が大幅に向上し、耕作に使用する馬が牛にかわって重要な役割を占めるにいたったこと、農業における馬の使用と同時に騎士階級にとっての馬が両立したのが西欧世界であったことが指摘される。

「Ⅳ章 馬から機械へ」では、動力源の変化が、馬から機械への転換を促し、その移行期においては馬のメタファーが使用されていたことが指摘されている。馬力(horse power)という英単語が端的にその事情を表現している。

もともとの新書版の紙数の関係からか、やや尻つぼみになっているのが残念だ。西欧を中心にして日本や中国にも目配りしているのはいいのだが、生態系の観点からはむしろ中近東を含んだユーラシア大陸の宗教であるイスラームについてもっと深く言及すべきであったろう。だが、これまた時代の制約があろう。1974年時点ではまだイスラームに対する知的関心は始まったばかりであった。

「第1部 動物と西欧思想」の「Ⅱ章 羊イメージ群とキリスト教」を読んだうえで、「第2部 植物と哲学」を読むと、初期キリスト教の「羊と羊飼い」のメタファーから、「ブドウ栽培」という耕作メタファーに移行することによって、ヨーロッパでのキリスト教布教がスムーズに進んだことが理解できる。

また、10世紀以降の森林の開墾が穀物生産を活発にさせる道を切り開いた。この中心として活動したのがベネディクト派系列の修道院である。いわゆる「開発主義」の元祖というべきであろう。

「第2部」はバラして「「第1部」に再編集したほうが、『動植物と西欧思想』として「第1部」のテーマを補強することになって、読み物としてもさらに面白いものになっただろうにと惜しまれるのである。

西欧世界におけるイメージについては、原著出版後には 『イメージ・シンボル辞典』(アト・ド・フリース、山下共一郞他訳、大修館書店、1984)などが翻訳出版されているので、個々の項目については的確な知識を得ることができるが、メタファーとして使用されてきた動植物イメージを思想の流れとしてたどることができるので、とくに「第1部」は現在でも興味深い内容だろう。



「第1部」は英語学習者にとっても「教養」を深めるうえで大いに役に立つはずだ。英語をその語源にまでさかのぼり、しかも西欧思想のエッセンスを知るための教養読み物としては価値があるといえるだろう。全編にわたって詳細に英語を中心に、ドイツ語、フランス語、ラテン語、ギリシア語が原つづりのままでてくるので、西欧語としての発想の共通性を知ることができる。

原著出版から40年後の現在は、すでに「工業時代」から「情報文明」に移行している。「情報時代」のメタファーは、はたして動植物イメージで表現可能か(?)という疑問もわいてくる。メタファーとしての動植物イメージは、もはや使い尽くしてしまったのではないか、と。

いまではもう手垢のついた表現になってしまったが、一時期さかんにクチにされたのが「ドッグイヤー」(dog year)という表現だ。技術進歩のスピードが人間の寿命ではかるよりも犬の寿命のスピードではかったほうがより正確だという趣旨によるものだ。

現代社会では、動植物も身の回りのものではなく、原生生物アメーバや動植物両方の特性を備えた粘菌、あるいはウイルスなどの細菌、そしてまた遺伝子としての DNA がメタファーとして多用されるようになっているのかもしれない。

現代は「生物学の時代」といわれているが、実態は分子生物学と遺伝子工学に代表される生物物理学の時代なのである。わたしが本書の続編を書いて再編集するなら、そんなメタファーを解説した内容になるだろうか。

こんなことを考えてみるのも面白い。





目 次

第1部 動物と西欧思想
 序章 思想とイメージ
 Ⅰ章 角のある神と魔女
 Ⅱ章 羊イメージ群とキリスト教
 Ⅲ章 牛馬イメージと西ヨーロッパ世界
 Ⅳ章 馬から機械へ
 結び 動物と革命思想
第2部 植物と哲学
 序章 農業段階の哲学
 Ⅰ章 植物と人間のアナロジー-観念論的場面で (1)
 Ⅱ章 人間の歴史と植物イメージ-観念論的場面で (2)
 Ⅲ章 哲学・宗教と植物イメージ-観念論的場面で (3)
 Ⅳ章 宇宙における植物と人間の位置-存在論的場面で
 結び エコロジーの思想史的意義
参考文献


著者プロフィール
山下正男(やました・まさお)
1931年、京都市生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。同大学人文科学研究所教授を経て名誉教授。専攻課題は論理と数理の比較思想史的研究。著書にはこのほか『思想の中の数学的構造』など。





PS キリスト教に吸収され、あるいは排除された古代ケルトや古代ゲルマンの神々

このテーマについては、ユダヤ系ドイツ人の詩人ハインリヒ・ハイネの『流刑の神々・精霊物語』(小澤俊夫訳、岩波文庫、1980)を読むといいだろう。

この本にインスパイアされて柳田國男は民俗学研究を本格的に進めることになったこともアタマのなかにいれておくといい。柳田國男はこの本をフランス語訳(?)で読んだらしい。

こういった近代初期までに排除され「撲滅」されたはずの古代ゲルマンの神々が蘇生され、猛威を振るったのが第一次世界大戦敗戦後のドイツであり、最終的にナチスによる欧州破壊にまで行き着くことになることは、まさかハイネも予測できなかったことであろう。

キリスト教によって鍛えられた「西欧文明」と、キリスト教がそのなかに取り込み、あるいは排除し抑圧してきた古代の神々もその要素である「西欧文化」の違い。キリスト教の支配力が弱体化するにつれて、古代的なものが復活してきたのは当然といえば当然であった。



<ブログ内関連記事>

書評 『ヨーロッパとは何か』(増田四郎、岩波新書、1967)-日本人にとって「ヨーロッパとは何か」を根本的に探求した古典的名著

書評 『封建制の文明史観-近代化をもたらした歴史の遺産-』(今谷明、PHP新書、2008)-「封建制」があったからこそ日本は近代化した!

書評 『正統と異端-ヨーロッパ精神の底流-』(堀米庸三、中公文庫、2013 初版 1964)-西洋中世史に関心がない人もぜひ読むことをすすめたい現代の古典

アッシジのフランチェスコ 総目次 (1)~(5)

映画 『シスタースマイル ドミニクの歌』 Soeur Sourire を見てきた

「祈り、かつ働け」(ora et labora)

修道院から始まった「近代化」-ココ・シャネルの「ファッション革命」の原点はシトー会修道院にあった


キリスト教と動物の関係

「近代化=西欧化」であった日本と日本人にとって、ヒツジのイメージはキリスト教からギリシア・ローマ神話にまでさかのぼって知る必要がある

西欧文明の根幹をなすキリスト教とヒツジの関係を考えるには、まずは『コンコルダンス』を開いてみることだ

書評 『動物に魂はあるのか-生命を見つめる哲学-』(金森修、中公新書、2012)-日本人にとっては自明なこの命題は、西欧人にとってはかならずしもそうではない


近代以後の西欧思想

書評 『オウム真理教の精神史-ロマン主義・全体主義・原理主義-』(大田俊寛、春秋社、2011)-「近代の闇」は20世紀末の日本でオウム真理教というカルト集団に流れ込んだ

書評 『現代オカルトの根源-霊性進化論の光と闇-』(大田俊寛、ちくま新書、2013)-宗教と科学とのあいだの亀裂を埋めつづけてきた「妄想の系譜」


■植物でも動物でもない粘菌という存在

"粘菌" 生活-南方熊楠について読む

(2015年9月13日 情報追加)


(2023年11月25日発売の拙著です 画像をクリック!

(2022年12月23日発売の拙著です 画像をクリック!

(2022年6月24日発売の拙著です 画像をクリック!

(2021年11月19日発売の拙著です 画像をクリック!

(2021年10月22日発売の拙著です 画像をクリック!

 (2020年12月18日発売の拙著です 画像をクリック!

(2020年5月28日発売の拙著です 画像をクリック!

(2019年4月27日発売の拙著です 画像をクリック!

(2017年5月19日発売の拙著です 画像をクリック!

(2012年7月3日発売の拙著です 画像をクリック!


 



ケン・マネジメントのウェブサイトは

ご意見・ご感想・ご質問は  ken@kensatoken.com   にどうぞ。
お手数ですが、クリック&ペーストでお願いします。

禁無断転載!








end