「一寸の虫にも五分の魂」というコトワザを子どもの頃からたたき込まれている日本人。「動物に魂はあるのか?」という問いは、日本人にとっては、答えがわかりきっている、あまりにも自明な命題である。
なぜこんなことが西欧では問題とされてきたのか、一般的な日本人にはまったくピンとこないだろう。だが、日本人にとってはこの自明な命題は、20世紀にいたっても西欧人にとっては「常識」ではなかったのである。いや、いまだ常識ではないかもしれない。
本書は、「動物霊魂論」という聞き慣れないテーマを、それと真逆の関係にある「動物機械論」と対比させて描いた思想史である。そしてその思想史の素描をつうじて、現代における問題について示唆を与えることを意図したものだ。
その根底にあるのは、人間と動物の関係である。生物としての人間は動物であるが、しかしそうはいっても人間と動物をわかつものがある。これが現代の日本人にとっての常識的な見解だろう。自明といっても過言ではないだろう。
だが、西欧人は人間と動物を厳然と区分してきた。かつてヒューマニズムが「人道主義」と翻訳されていた頃には日本人は気がつかなかったが、ヒューマニズムをただしく「人間中心主義」と翻訳したとき、その意味が明らかになる。
人間を中心に据えたときに見えてくる劣った存在としての動物、動物を観察することによって見えてくる人間の優位性。つまるところ、「動物霊魂論」であれ「動物機械論」であれ、じつは「人間論」なのだ。
著者は、「動物霊魂論」の前史として、まずはアリストテレスの生物学にもとづく議論を紹介し、16世紀という中世から近代への移行期に生きた古典的人文学者モンテーニュの議論を経て、デカルト、ライプニッツ、ヴォルテール、そしてハイデガー、デリダまで哲学者の「動物論」を素描している。
「動物霊魂論」と「動物機械論」のせめぎ合いは、西欧思想史の問題としては下火となっていても、じつは主戦場をビジネスと研究開発の世界に移して、激しく倫理上の対立を続けていることが明らかにされる。
■「動物機械論」の登場と近代的思考の関係
17世紀から18世紀にかけてのフランスがその中心になったのは、「動物機械論」によって当事の西欧世界に衝撃的なインパクトを与えた哲学者デカルトの影響である。デカルトといえば「心身二元論」で有名だが、人間だけでなく、動物も機械とみなすことによってメカニズム(機構)の解明を推進した。
デカルトのインパクトがいかに大きかったかは、当事の知的中心の一つであったフランスのポール・ロワイヤル修道院では、動物を生きたまま生体解剖することが行われていたという事実をみれば歴然としている。
家畜の息の根を止めてから解体を行うのが屠畜においては常識だが、この修道院では純粋に知的好奇心を満たすために、生きたままの動物を解剖して心臓を取り出したりしていたらしい。現代人の目から見ると無慈悲な行為ではあるが、あくまでも「動物機械論」の立場から機械のメカニズムを解明するという立場から行われたのである。
デカルト自身、みずから動物の解剖を行って自説の補強を行っていたのである。動物を機械とみたてて、そのメカニズムを解明したいという発想によるものだろう。
このデカルトに対して、「動物霊魂論」の立場から異議を唱えたのが18世紀のライプニッツやその後のヴォルテールなどだが、「霊魂」にかんする説にかんしては、わたしにはライプニッツの議論に納得するものを感じる。
本書によれば、ライプニッツは人間と動物に大きな差異を認めず、すべての動物には「不滅の霊魂」があることを認める。ただし、動物は知覚は行っても思考はないとする。動物の思考能力については程度の問題ではあるが、現代の自然科学の知見とも両立可能ではないだろうか。ただし、現代科学においては、「霊魂」ではなく「意識」と表現されるだろう。厳密にいうと魂と意識はイコールではないのだが。
また、「生命原理」は偏在するが、「生きている状態になるのは、あくまでもそれが有機的身体のなかに属している限りにおいてである」という考えは、魂を考えるうえで大いに参考なる。個体レベルと、種としての全体についての話である。この考えは、なんだかユングの「集合無意識」仮説に類似している印象を受ける。ユングの動物観については知らないが。
こうして「動物機械論」が否定されることによって、その対極にある「動物霊魂論」の議論も18世紀末には下火になっていったという。冷戦構造崩壊によって政治的な左翼が退潮したことで、右翼もパワーだけでなく存在意義を喪失していったのと似ている。
とはいえ、現代社会は気づかぬところで「動物機械論」が猛威を振るっていることに著者は注意を促している。ほとんど工場生産のような家畜飼育、実験用に特化して飼育される実験用動物など、まさに動物を機械として扱っているのと変わりないのである。動物にかんする倫理学が、ビジネスと研究開発が主戦場となっているのである。
また、「動物の権利」(animal rights)や「動物の福祉」(animal welfare)といったアングロサクソン圏特有の議論もまた、「動物機械論」と「動物霊魂論」の思想史上のコンテクストで考えると理解しやすい。
「動物の権利」論のなかでは、「動物>人間」という過激な反ヒューマニズム思想に至っている人たちもいるくらいなのだ。「人間>動物」というヒューマニズム(=人間中心主義)を裏返しにして転倒させた議論である。
「動物>人間」という過激な反ヒューマニズム思想は、ナチスドイツにおいてユダヤ人虐殺を指揮したハインリッヒ・ヒムラーのエピソードを想起させる。毎日のように収容所のユダヤ人をガス室に送りながら、ペットのカナリヤに餌をやる「心やさしき男」としてのヒムラー。
自民族以外は「人間」とみなさないという思考停止状態。動物への愛が、異民族やホモセクシュアルや障害者に対する憎しみや差別と両立してしまうという難問。
著者がいうように、「動物霊魂論」と「動物機械論」の思想的対立構造は思ったよりも根が深い。近代化=西欧化した日本人の思考にも、知らず知らずのうちに浸透していることを考えれば、けっして対岸の火事ではないのである。
■「知識人の議論」と「一般人の感性」は異なるのではないか?
だが、本書を通読して思うのは、著者自身が「無意識に日本人をやっている」なあ、という感想である。
西欧思想史に登場する思想家や哲学者たちは、ことに近代においてはカトリックの権威に挑戦してきた知識人であるという視点の説明がないのは読者には不親切だ。西欧においては、依然として知識人と一般民衆の乖離は大きい。
本書にはまったく言及がないが、じつはキリスト教においては、「人間には魂があるが、動物には魂はない」としてきたのである。人間と動物のあいだには越えられない溝がある。それは魂の有無であるということだ。
魂をもっているから人間は救われるのであり、魂をもっていないから動物は救われない。だから、魂をもたない動物が死んでも、カトリックではミサがあげられることはない。これは日本人の知識の盲点になっている。キリスト教においては、人間と動物には厳然とした区分があるのである。
わたしがこのことを知ったのは、いまから10年以上前になるが、『死の発見-ヨーロッパの古層を訪ねて-』(松原秀一・養老孟司・荻野アンナ、岩波書店、1997)におけるフランス文学者の松原秀一氏の発言を読んでからだ。
松原氏自身はプロテスタントで、妻と娘がカトリックだそうだが、幼児洗礼を受けた娘さんが大切にしていたペットの飼い犬が死んだとき、死んだ犬のためのミサをあげたいと言ったそうだ。松原氏はこの個人的エピソードを引きながら、「日本にカトリックが入って何世紀になりますか、日本人の心性と合わないのではないか」と発言している。
カトリックでは、人間生命の誕生は受胎した瞬間、つまり受精した瞬間であり、この瞬間に「魂」が入ることになるので、人間の受精卵から採取した胚細胞を使用するES細胞には断固として反対してきたことは、日本でも比較的知られているのではないだろうか。だから、日本から生まれたオギノ式避妊法や iPS細胞はバチカンのお墨付きなのである。
現代ヨーロッパの一般人が、はたして動物に魂があると考えるのか、それともないと考えているのか、わたしにはよくわからない。知識人がアタマでは理解する議論も、一般人が感覚的に「常識」とみなしているものはイコールではないからだ。
ただ、これだけ日本のマンガやアニメが全世界的に普及していくと、すべてのモノには生命があるというフェティシズム的感覚、生き物にはすべて魂があるというアニミズム的な感覚も、知らず知らずのうちに浸透していく可能性がないとはいえないだろう。また人間に動物が憑依するシャマニズム的な感覚もまた同様だ。こういった感覚は、キリスト教普及以前の西欧でも当たり前であった。
これまた本書に言及がないのだが、人間と動物をわかつのは、コトバをもっているかどうかである。人間はコトバをもっているがゆえに思考することができるし、悩みもする。逆にいえばコトバがなければものを考えることもできないし、悩むこともない。これは「狼に育てられた少年」のエピソードを知っていれば納得することだろう。
大脳新皮質をもっているのは哺乳類だけである。人間以外の動物は哺乳類であっても、互いに音声信号を介したコミュニケーションを行っているものの、語彙と文法を備えた言語体系をもたない。したがって、たとえカラスのような思考能力をもっている動物も、コトバをもつ人間には及ばないのである。動物は、もっぱら匂いという嗅覚情報と画像イメージにもとづいてパターン認識を行っている。人間以上に知覚器官が発達しているので、考える力は弱くても、感じる力が強いことは確かなことだ。
最後に本書には触れられていないテーマが、「知能を備えた機械」としてのロボットである。その根底にあるのは、人間と動物の関係である。生物としての人間は動物であるが、しかしそうはいっても人間と動物をわかつものがある。これが現代の日本人にとっての常識的な見解だろう。自明といっても過言ではないだろう。
だが、西欧人は人間と動物を厳然と区分してきた。かつてヒューマニズムが「人道主義」と翻訳されていた頃には日本人は気がつかなかったが、ヒューマニズムをただしく「人間中心主義」と翻訳したとき、その意味が明らかになる。
人間を中心に据えたときに見えてくる劣った存在としての動物、動物を観察することによって見えてくる人間の優位性。つまるところ、「動物霊魂論」であれ「動物機械論」であれ、じつは「人間論」なのだ。
著者は、「動物霊魂論」の前史として、まずはアリストテレスの生物学にもとづく議論を紹介し、16世紀という中世から近代への移行期に生きた古典的人文学者モンテーニュの議論を経て、デカルト、ライプニッツ、ヴォルテール、そしてハイデガー、デリダまで哲学者の「動物論」を素描している。
「動物霊魂論」と「動物機械論」のせめぎ合いは、西欧思想史の問題としては下火となっていても、じつは主戦場をビジネスと研究開発の世界に移して、激しく倫理上の対立を続けていることが明らかにされる。
■「動物機械論」の登場と近代的思考の関係
17世紀から18世紀にかけてのフランスがその中心になったのは、「動物機械論」によって当事の西欧世界に衝撃的なインパクトを与えた哲学者デカルトの影響である。デカルトといえば「心身二元論」で有名だが、人間だけでなく、動物も機械とみなすことによってメカニズム(機構)の解明を推進した。
デカルトのインパクトがいかに大きかったかは、当事の知的中心の一つであったフランスのポール・ロワイヤル修道院では、動物を生きたまま生体解剖することが行われていたという事実をみれば歴然としている。
家畜の息の根を止めてから解体を行うのが屠畜においては常識だが、この修道院では純粋に知的好奇心を満たすために、生きたままの動物を解剖して心臓を取り出したりしていたらしい。現代人の目から見ると無慈悲な行為ではあるが、あくまでも「動物機械論」の立場から機械のメカニズムを解明するという立場から行われたのである。
デカルト自身、みずから動物の解剖を行って自説の補強を行っていたのである。動物を機械とみたてて、そのメカニズムを解明したいという発想によるものだろう。
このデカルトに対して、「動物霊魂論」の立場から異議を唱えたのが18世紀のライプニッツやその後のヴォルテールなどだが、「霊魂」にかんする説にかんしては、わたしにはライプニッツの議論に納得するものを感じる。
本書によれば、ライプニッツは人間と動物に大きな差異を認めず、すべての動物には「不滅の霊魂」があることを認める。ただし、動物は知覚は行っても思考はないとする。動物の思考能力については程度の問題ではあるが、現代の自然科学の知見とも両立可能ではないだろうか。ただし、現代科学においては、「霊魂」ではなく「意識」と表現されるだろう。厳密にいうと魂と意識はイコールではないのだが。
また、「生命原理」は偏在するが、「生きている状態になるのは、あくまでもそれが有機的身体のなかに属している限りにおいてである」という考えは、魂を考えるうえで大いに参考なる。個体レベルと、種としての全体についての話である。この考えは、なんだかユングの「集合無意識」仮説に類似している印象を受ける。ユングの動物観については知らないが。
こうして「動物機械論」が否定されることによって、その対極にある「動物霊魂論」の議論も18世紀末には下火になっていったという。冷戦構造崩壊によって政治的な左翼が退潮したことで、右翼もパワーだけでなく存在意義を喪失していったのと似ている。
とはいえ、現代社会は気づかぬところで「動物機械論」が猛威を振るっていることに著者は注意を促している。ほとんど工場生産のような家畜飼育、実験用に特化して飼育される実験用動物など、まさに動物を機械として扱っているのと変わりないのである。動物にかんする倫理学が、ビジネスと研究開発が主戦場となっているのである。
また、「動物の権利」(animal rights)や「動物の福祉」(animal welfare)といったアングロサクソン圏特有の議論もまた、「動物機械論」と「動物霊魂論」の思想史上のコンテクストで考えると理解しやすい。
「動物の権利」論のなかでは、「動物>人間」という過激な反ヒューマニズム思想に至っている人たちもいるくらいなのだ。「人間>動物」というヒューマニズム(=人間中心主義)を裏返しにして転倒させた議論である。
「動物>人間」という過激な反ヒューマニズム思想は、ナチスドイツにおいてユダヤ人虐殺を指揮したハインリッヒ・ヒムラーのエピソードを想起させる。毎日のように収容所のユダヤ人をガス室に送りながら、ペットのカナリヤに餌をやる「心やさしき男」としてのヒムラー。
自民族以外は「人間」とみなさないという思考停止状態。動物への愛が、異民族やホモセクシュアルや障害者に対する憎しみや差別と両立してしまうという難問。
著者がいうように、「動物霊魂論」と「動物機械論」の思想的対立構造は思ったよりも根が深い。近代化=西欧化した日本人の思考にも、知らず知らずのうちに浸透していることを考えれば、けっして対岸の火事ではないのである。
■「知識人の議論」と「一般人の感性」は異なるのではないか?
だが、本書を通読して思うのは、著者自身が「無意識に日本人をやっている」なあ、という感想である。
西欧思想史に登場する思想家や哲学者たちは、ことに近代においてはカトリックの権威に挑戦してきた知識人であるという視点の説明がないのは読者には不親切だ。西欧においては、依然として知識人と一般民衆の乖離は大きい。
本書にはまったく言及がないが、じつはキリスト教においては、「人間には魂があるが、動物には魂はない」としてきたのである。人間と動物のあいだには越えられない溝がある。それは魂の有無であるということだ。
魂をもっているから人間は救われるのであり、魂をもっていないから動物は救われない。だから、魂をもたない動物が死んでも、カトリックではミサがあげられることはない。これは日本人の知識の盲点になっている。キリスト教においては、人間と動物には厳然とした区分があるのである。
わたしがこのことを知ったのは、いまから10年以上前になるが、『死の発見-ヨーロッパの古層を訪ねて-』(松原秀一・養老孟司・荻野アンナ、岩波書店、1997)におけるフランス文学者の松原秀一氏の発言を読んでからだ。
松原氏自身はプロテスタントで、妻と娘がカトリックだそうだが、幼児洗礼を受けた娘さんが大切にしていたペットの飼い犬が死んだとき、死んだ犬のためのミサをあげたいと言ったそうだ。松原氏はこの個人的エピソードを引きながら、「日本にカトリックが入って何世紀になりますか、日本人の心性と合わないのではないか」と発言している。
カトリックでは、人間生命の誕生は受胎した瞬間、つまり受精した瞬間であり、この瞬間に「魂」が入ることになるので、人間の受精卵から採取した胚細胞を使用するES細胞には断固として反対してきたことは、日本でも比較的知られているのではないだろうか。だから、日本から生まれたオギノ式避妊法や iPS細胞はバチカンのお墨付きなのである。
現代ヨーロッパの一般人が、はたして動物に魂があると考えるのか、それともないと考えているのか、わたしにはよくわからない。知識人がアタマでは理解する議論も、一般人が感覚的に「常識」とみなしているものはイコールではないからだ。
ただ、これだけ日本のマンガやアニメが全世界的に普及していくと、すべてのモノには生命があるというフェティシズム的感覚、生き物にはすべて魂があるというアニミズム的な感覚も、知らず知らずのうちに浸透していく可能性がないとはいえないだろう。また人間に動物が憑依するシャマニズム的な感覚もまた同様だ。こういった感覚は、キリスト教普及以前の西欧でも当たり前であった。
これまた本書に言及がないのだが、人間と動物をわかつのは、コトバをもっているかどうかである。人間はコトバをもっているがゆえに思考することができるし、悩みもする。逆にいえばコトバがなければものを考えることもできないし、悩むこともない。これは「狼に育てられた少年」のエピソードを知っていれば納得することだろう。
大脳新皮質をもっているのは哺乳類だけである。人間以外の動物は哺乳類であっても、互いに音声信号を介したコミュニケーションを行っているものの、語彙と文法を備えた言語体系をもたない。したがって、たとえカラスのような思考能力をもっている動物も、コトバをもつ人間には及ばないのである。動物は、もっぱら匂いという嗅覚情報と画像イメージにもとづいてパターン認識を行っている。人間以上に知覚器官が発達しているので、考える力は弱くても、感じる力が強いことは確かなことだ。
人間ではない動物、人間ではない機械。動物と機械はともに人間とはなにかを考えるための鏡というか参照系のようなものだが、ロボットという思考軸を導入することによって、「動物機械論」と「動物霊魂論」という思想史上の議論がさらに深まるはずだ。もちろん、これは本書の枠内ではなく、別個に考えるべきテーマである。
人間が動物を擬人化したり、動物に人間的感情を投影するのとは別に議論してほしいと思うのだが、著者もまた擬人化しやすい典型的な日本人であるようで、対象との距離を突き放した議論が徹底していないのが残念だ。
動物を擬人化するのではなく、動物と人間の共通性と差異を徹底的に究明する必要がある。そしてロボットと人間についてもまた。これは遠い将来ではなく、喫緊の問題である。クローン人間と「魂」の問題もまた同様だ。
目 次
序章 動物の方へ、人間のために
第1章 動物論の前史
第2章 デカルトの衝撃
第3章 魂-物質と非物質の間
第4章 <常識派>への揺り戻し
第5章 論争のフェイド・アウト
第6章 現代の“動物の哲学”
終章 <動物霊魂論>が浮き彫りにするもの
あとがき
文献表
人名索引
著者プロフィール
金森修(かなもり・おさむ)
1954(昭和29)年、札幌市に生まれる。86年、東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学、博士(哲学・パリ第一大学)、筑波大学講師、東京水産大学助教授などを経て、東京大学大学院教育学研究科教授。専攻、フランス哲学、科学思想史、生命倫理学(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。
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(2014年8月5日 情報追加)
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end