日本ナショナリズムの研究で膨大な業績を積み上げてきた小熊英二氏の「インド日記」である。
インドの体験記はそれこそ無数に書かれてきたが、著者の立ち位置はバックパッカーのものでもビジネスパーソンのものでもない。
客員教授として2ヶ月間滞在したインドで日本近代史を教えるという体験。この2ヶ月間をめいっぱい使って、自分の足で歩き自分の目で見て体験したことを、自分のアタマで考え、日本にいる配偶者あてに発信したメール通信を単行本化したものだ。
著者自身に語ってもらう形で本書の内容を紹介しておこう。「あとがき」からの引用に、わたしがコメントをつけるという形で。
2000年の1月から2月にかけて、国際交流基金の専門家派遣事業でインドのデリー大学に行き、 中国・日本研究科の客員教授として日本近代史を講義した。私は二ヶ月の滞在のあいだ、デリーをはじめインド各地を回り、近代日本 の歴史を講義して回った。その間の経験や観察、あるいは現地の人びとと話したことを、日記にしたためたのである」(あとがき)
インドの1月から2月にかけては過ごしやすい季節であるはずだ。それでも小熊氏には厳しい経験だったようだ。インドは5月が灼熱地獄である。わたしは、インドの5月は体験していないが、タイの3月よりもはるかに過酷なものだろう。
おりしも、インドは高度経済成長とグローバリゼーションに揺れ、急速な社会の変化や価値観の動揺、そして右派ナショナリズムの 台頭に直面していた。本書でも記したように、現在のインドは「コンピュータ・カフェの門前に牛が立ち、お寺が最新式の音響システ ムを使っている」といったかたちで、古いものと新しいもの、伝統と近代が入り混じった状態にある。インド人にむかって近代日本の 歴史を描いてみせ、その反応を聞くという経験もさることながら、こうしたインド社会の状況も十分に刺激的なものだった。(あとがき)
1991年に「経済改革」に踏み切ってから9年後の2000年のインドである。独立以来、インドの政治を牛耳ってきた国民会議派政権は、「ネルー・ガンディー王朝」とも呼ばれてきたが、長期政権につきものの腐敗がひどく、1998年には国民の支持を受けた BJP(=インド人民党)による政権交代が行われている。
著者がいう「右派ナショナリズム」とは、BJP に代表される「ヒンドゥー・ナショナリズム」のことである。その後、政権交代があってふたたび国民会議派の政権となたが、2014年にはナレンドラ・モディのもとで BJP が政権に復帰した。「インドは世界最大の民主主義国」であるとはこういうことだ。
著者の政治的な立場がリベラルであるため、「日記」の最初の頃は「右派ナショナリスト政党」の台頭への危機感(?)が吐露されているが、さすがに日本のナショナリズム研究の第一人者である。その知識には驚嘆すべきものがあり、「日記」を読み進むにつれ、なぜインドで「右派ナショナリスト政党」が台頭してきたのかについての分析が深まっていくことに気がつく。日本とインドを比較すると見えてくるものが面白い。読ませる内容である。
日記である以上、統一された主題というものはない。しかし書いたことは、結局のところ、日本にいたときから私が抱いていた関心 の延長に位置する。その関心とは、社会の変動と近代化のなかで、人間がどのように自己の位置とアイデンティティを定めてゆくのか、 またそうした人間のつくる社会のあり方はどのようなものなのか、その場合に国家と人間はどのような関係を築いてゆくのか、といった ものである。(あとがき)
インドから日本が見える。日本からインドが見える。日本近代とインド近代のパラレルな関係。その共通性と相違点。現代インドを考えることは、日本近代とは何だったのかを考えることでもある。近代化とナショナリズムの関係、そしてグローバリゼーションとナショナリズムの関係についても。ただし、インドには植民地体験がある点が日本とは異なる。
従来、私は近代日本の民族論やマイノリティの問題から、こうしたテーマを論じていた。本書でもインドのナショナリズムやマイノ リティ問題にしばしば言及しているが、日々の体験から書くという日記の脈絡のなさゆえに、より多様な角度からアプローチしている。 たとえば地域の自立性、伝統や宗教のあり方、文化の相互影響や革新、テクノロジーと社会変動、社会階層と意識などといったものが挙 げられる。(あとがき)
日常的なこまごまとした話から、社会や宗教、文化芸術、NGO、フェミニズムまで、テーマはじつに多岐にわたっている。だから、ディテールの記述には読ませるものがある。たとえ著者とは政治的立場が異なる人であっても、その点は同感することだろう。
印象論に終始しがちな体験記や日記とは異なるのは、著者には膨大な知識がバックグラウンドとしてあるからだ。著者の多産ぶりと、単行本一冊当たりの重量(!)から考えれば納得いくはずだ。『単一民族神話の起源』、『"日本人" の境界』、『<民主>と<愛国>』などの主著を大型書店や図書館で手に取ってみれば体感できるだろう。わたしは、いまだに『単一民族神話の起源』しか読めていないのだが・・・。
もっとも本書は、あくまでも日記である。研究書という形態ではなく、こうしたテーマを日々の出来事から語ることになったので、 読みやすいものになっていると思う。読者は、目次や本文中の小見出しなどをガイドに、それぞれの関心にそって、どこからでも自由に読んでいただければ幸いである。(あとがき)
とはいうものの、わたしは最初のページから読み始めるといいと思う。2ヶ月という比較的短期間の体験であるが、「日記」の最初のほうと最後のほうではだいぶトーンが異なっている。
そもそも著者のインド行きは、みずから希望したという内発的な動機ではなく、招待を受けたからという外発的なものであった。とはいえ本書が、「異文化体験」のドキュメントであることには変わりない。外発的なキッカケをどう実りある体験に変えることができるかは、本人のマインドセット次第である。
インドがわかったなんて、言うつもりはない。ただ僕はいま、インドから刺激を受けて、日本と自分自身を再発見しているんだ。
「日記」の終わり近くにでてくる一節である。
私が見たのはインドそのものよりも、インドを通して見えてきた何かだった。そしてその過程で問われたのは、私自身の想像力と、世界に対する姿勢だったといえるかもしれない。
「日記」の最後にでてくる一節である。
「わかるとは、かわること」というコトバがる。わが恩師の阿部謹也先生の恩師であった歴史学者・上原専禄のものだが、この「日記」もまた、「わかるとは、かわること」プロセスの事例になっているいることに気づく。著者自身の「気づき」や考察の深化が手に取るようにわかるのである。著者自身の、ある種の「自己変容」の記録にもなっている。
この「日記」は、メール通信としてインドから発信したものだという。いまなら「ブログ日記」として書かれるのが普通だろう。2014年にはふたたびナショナリスト政党のBJPが政権交代で復帰しているが、BJPが最初に政権をとった時期の、2000年当時のインドを知るうえでも貴重なドキュメントだといえるかもしれない。
著者は知識人にしてはサービス精神が旺盛だからだろうか、ディテールが細かすぎるという感もなくもない。それでもこの「日記」に切り取られた「現実」は、インドのほんの一部分にしかすぎないのである。
著者とともにインドを追体験してみると面白い。インド体験のある人は自分の体験と比較しながら、そうでない人は知的な体験記として読むと面白いと思う。ある意味では、近代化論とナショナリズム論入門書として気楽に読めるのではないだろうか。
目 次
第1章 「インドの右翼」
第2章 デリーで日本史
第3章 博物館は国家の縮図
第4章 映画・フェミニズム・共和国記念日
第5章 農村のNGO
第6章 カルカッタ
第7章 僧との対話
第8章 聖都ベナレス
第9章 学校見学
第10章 ビジネス都市バンガロール
第11章 観光地ケーララ
第12章 国境の町
第13章 スラムでダンス
あとがき
著者プロフィール
小熊英二(おぐま・えいじ)
1962年、東京生まれ。1987年、東京大学農学部卒業。出版社勤務を経て、1998年、東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学専攻博士課程修了。現在、慶應義塾大学総合政策学部教授。著書は、『単一民族神話の起源』や『“日本人”の境界』『<民主>と<愛国>』など多数。
<ブログ内関連記事>
『単一民族神話の起源-「日本人」の自画像の系譜-』(小熊英二、新曜社、1995)は、「偏狭なナショナリズム」が勢いを増しつつあるこんな時代だからこそ読むべき本だ
■BJP(=インド人民党)関連
「ナレンドラ・モディ インド首相講演会」(2014年9月2日)に参加してきた-「メイク・イン・インディア」がキーワード
書評 『ヒンドゥー・ナショナリズム』(中島岳志、中公新書ラクレ、2002)-フィールドワークによる現代インドの「草の根ナショナリズム」調査の記録
■ナショナリズム関連
書評 『ナショナリズム-名著でたどる日本思想入門-』(浅羽通明、ちくま文庫、2013 新書版初版 2004)-バランスのとれた「日本ナショナリズム」入門
書評 『ヤシガラ椀の外へ』(ベネディクト・アンダーセン、加藤剛訳、NTT出版、2009)-日本限定の自叙伝で名著 『想像の共同体』が生まれた背景を知る
・・ナショナリズム論の名著といえば『想像の共同体』
『大アジア燃ゆるまなざし 頭山満と玄洋社』 (読売新聞西部本社編、海鳥社、2001) で、オルタナティブな日本近現代史を知るべし!
書評 『日本近代史の総括-日本人とユダヤ人、民族の地政学と精神分析-』(湯浅赳男、新評論、2000)-日本と日本人は近代世界をどう生きてきたか、生きていくべきか?
梅棹忠夫の『文明の生態史観』は日本人必読の現代の古典である!
・・戦後日本の「健全なナショナリズム」の名著
書評 『国力とは何か-経済ナショナリズムの理論と政策-』(中野剛史、講談社現代新書、2011)-理路整然と「経済ナショナリズム」と「国家資本主義」の違いを説いた経済思想書
書評 『近代の呪い』(渡辺京二、平凡社新書、2013)-「近代」をそれがもたらしたコスト(代償)とベネフィット(便益)の両面から考える
『近代の超克ー世紀末日本の「明日」を問う-』(矢野暢、光文社カッパサイエンス、1994)を読み直す-出版から20年後のいま、日本人は「近代」と「近代化」の意味をどこまで理解しているといえるのだろうか?
(2015年8月24日、2016年3月7日 情報追加)
(2022年12月23日発売の拙著です)
(2022年6月24日発売の拙著です)
(2021年11月19日発売の拙著です)
(2021年10月22日発売の拙著です)
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