2014年9月6日土曜日

書評『大学とは何か』(吉見俊哉、岩波新書、2011)ー 特権的地位を失い「二度目の死」を迎えた「知の媒介者としての大学」は「再生」可能か?



「大学とは何か」というテーマで書かれた本は無数にある。だが岩波新書から出版された、このそっけないタイトルの本には類書とは違った特徴がある。

大学を「メディア」として捉えるのが著者の基本姿勢である。メディアとは媒介のことだが、大学は「知の媒介者」として、「知の生産者」と「知の消費者」をつなぐ機能を果たしてきたわけである。メディア学者の著者が書いたこの「大学の歴史」は、「メディアとしての大学」という視点を貫いており、ひじょうに興味深い。

西欧中世に生まれた制度である大学は、特権的地位を失って「二度目の死」を迎えている。これが著者による歴史認識である。大学史にかんする断片的なピースをうまくパズルの全体像のなかにはめこむことに成功しており読み応えがある。

著者は「カルチュラルスタディーズ」の研究者であるが、この新書では抑制して前面に出さないようにしているのは好感がもてる。カルチュラルスタディーズによる研究は、読んでいて鼻につくことも少なくないからだ。

本書は、あくまでも「大学人」、しかも東京大学教授という立ち位置からの発言として読むべきだろう。

以下、わたしなりに本書を材料にして、ヨーロッパ中世に生まれた「大学」という制度の近代以後の「再生」可能性について考えてみたい。

本書によれば、大学は初期近代における「誕生と死」、19世紀の国民国家時代における「再生」、そして21世紀のメディア革命による「二度目の死」を迎えているのである。


大学は二度死ぬ

「一度目の死」は、「16世紀メディア革命」によるものであった。
「二度目の死」は、「21世紀メディア革命」によるものであった。

「16世紀メディア革命」とは、活版印刷と書籍の流通によって、「知」が大学やキリスト教会から解放されたことを意味している。

「知が生産され消費される場は、クローズドな機関ではなく、生活人を中心とした「現場」に移行したのである。西欧近代に生まれた「主権国家」においては、それは軍事を中心とした実学志向となる。

中世の大学においては、イスラーム経由で流入したアリストテレスが幅をきかせたが、近代前期にはアリストテレスに代わって、プラトンの学園、すなわち「アカデメイア」が想起されることになる。フランスで生まれた「科学アカデミー」は、実学中心の工学と科学の研究機関であった。この時代、知識人は大学を離れ、書斎にこもって著作の執筆に専念し、書籍によって「知の流通」を図ることになる。

「21世紀メディア革命」とは、いままさに進行中のインターネット革命のことである。

「知」は大学や書籍から解放され、ネットを介して双方向性(インタラクティブ)のものとなった。「知の消費者」が同時に「知の生産者」となる。消費者と生産者の垣根はきわめて低いものとなる。

16世紀と21世紀、このあいだに横たわる500年とは、まさに「近代」という時代であった。「近代」がはじまった16世紀と、「近代」が終わって以後の21世紀を対比させる歴史観は面白い。まさに 「500年単位」の歴史である。

近代後期の19世紀、大学は「国民国家」とともに「復活」する。そう、現在の大学は中世の大学そのものではない。「大学の再生」である。「つくられた伝統」である。

国民国家(=ネーション・ステート)はフランス革命によって生まれた形態だが、フランス革命の影響を強く受けたのがドイツであった。当時のドイツは小国家分立状態であり、ドイツ語を軸にした民族国家としての統一がドイツ人にとっての悲願であった。

1848年革命が挫折に終わったあと、ドイツは1871年にプロイセン王国を中心にドイツ帝国として国家統一をなしとげるが、「新興国ドイツ」はフランスで生まれた「国民国家モデル」を採用する。

「新興国ドイツ」が人材育成の中核においたのが「大学」という制度であった。いわゆる「フンボルト型大学」という理想型である。これがその後の世界の大学のモデルとなる。

「新興国アメリカ」もそうであり、「新興国日本」もまたそのモデルを採用した。「新興国ドイツ」モデルは、同じく西欧世界の「新興国アメリカ」にとっても、非西欧世界の「新興国日本」にとっても魅力的だったということだろう。

これが「大学の再生」であるが、中世以来のオックス・ブリッジやパリ大学とは異なるのである。中世以来のオックス・ブリッジが、みずから「大学改革」を実行できずにながらく停滞していたことは、意外と知られていない。オックス・ブリッジが「復活」したのは、20世紀になってからのことだ。

「国民国家」モデルが衰退過程にある現在、大学もまた衰退過程にあるのは、ある意味では当然だろう。「知の媒介者」としての大学は、もはや "one of them"(ワンオブブゼム) に過ぎないのである。

「16世紀メディア革命」以降を振り返ってみれば、大学の「二度目の復活」はまだまだ先のことかもしれない。あるいは、想起されることもなく消滅するのかもしれない。 

ビジネスパーソンの観点からみれば、大学は、どう強み(=USP:ユニーク・セリング・ポイント)を明確にできるのかが問われているのである。


誰が「顧客」として大学を支えてきたのかに注目せよ!

おそらくわたしも含めた読者の最大の関心は、「21世紀メディア革命」の時代に "one of them" となった大学は生き残れるのか? どうしたら生き残ることができるのか? ということだろう。

あくまでも現在の問題からさかのぼって考えるという本書の姿勢はいいのだが、16世紀から19世紀初頭にかけての「大学が死んでいた時代」の記述をもっと深掘りしたほうが、「ふたたび大学が死んだ時代」の21世紀を考えるうえで面白かったのではないかと思う。

大学という制度を歴史的に捉える際に重要なのは、だれがパトロンであったのか、誰がスポンサーであったのかという視点である。大学のファイナンス(=財政)とモーラルサポートの両面である。

世界最古の大学ボローニャが典型的であるが、中世においては都市国家が大学のパトロンであった。これに対してパリ大学は神学が中心であり、ドメニコ会との関係が密接であった。

近代前期は王侯貴族が、近代後期のナショナリズム時代は国民国家(・・あるいは帝国)であった。さきにドイツの「フンボルト理念」についてみたが、これがアメリカで「大学院」(=グラジュエート・スクール)の発明につながる。

近代以後の現在は、国民国家の衰退と弱体化、グローバル世界における国民国家の相対的なパワー喪失によって、二人三脚であった大学も衰退の危機にある。

大学のパトロンが誰であったのかという点は、具体的な事例として日本について考えてみるのがいちばんだろう。

著者は現役の東大教授であるので、立ち位置はきわめて明確だ。「第Ⅲ章 学知を移植する帝国」と「第Ⅳ章 戦後日本と大学改革」 がそれに該当する。明治維新後に「近代化」に邁進した日本は、富国強兵路線を実行するために大学という制度を西欧から移植したのである。

初代文部大臣となって日本の近代化を、ナショナリズムと高等教育の観点から政策立案と実行を行ったのが森有礼(もり・ありのり)である。暗殺によって完成をみることはできなかったが、森有礼は帝国大学を中核においた高等教育の仕組みをつくりあげた最大の功労者である。

「大学令」がでるまえに、すでに「学びのネットワーク」としての大学が日本にはできあがっていたという視点は魅力的だ。幕末から明治にかけての「私塾」を積極的に評価している点には好感がもてる。福澤諭吉の慶応義塾など「私塾」からはじまった私学についての言及がそれである。

森有礼といえば、個人的には一橋大学の前身である商法講習所という「私塾」の開設者として親しみを感じているのだが、東大出身の著者にはその面での関心はどうやら薄いようだ。著者には、近代日本における「実学」についての考察が弱いと言わざるを得ない。

東大工学部の基礎をつくったスコットランド工学についての本書の記述には読むべきものがあるのだが、近代日本をビジネス面から支えた商学を教えた私学、近代日本を軍事面から支えた陸軍士官学校や海軍兵学校についての言及がないのは残念なことだ。

「フンボルト理念」を「教養教育」をリベラルアーツという形で継承し、専門分野を「大学院」という形で発明したのがアメリカ型大学であることは本書で強調されているが、日本においてはアメリカの実学専門教育を学部で行ってきたことが重要なのだ。

このようにみてくると、リベラルアーツ型の「教養教育」と、高度な専門職養成のための「実学教育」。この二つをどう結びつけるかが課題であることが、日本の大学が生き残るカギであることがわかるだろう。

研究と教育の一体化を志向しながらも、研究に重点をおくアメリカ型の高等教育がスタンダードであるなら、このモデルとの共通点と相違点を詳細に見ていったほうが、実りある議論になるのではないかと思うのである。


近代初期の「実学」をベースにした「私塾」的形態がカギになるだろう

本書を読んだわたしの感想は、著者の見解や思いとは違って、21世紀以降は中世型ではなく、近代初期(=近世)の「実学」をベースにした教育と研究が中心になるだろう、ということだ。

大学人である著者は、21世紀の大学はふたたび中世「的」だと言っているが、わたしはそれは違うのではないかと思う。「大学よふたたびよみがえれ!」という心情はわからなくはないが、「近代」後は中世そのものではない。西洋中世史を専攻したわたしはそう思う。

「21世紀メディア革命」の時代に "one of them" となった大学はどう生き残るか? この問いに答えるためことが必要だ。

大学のスポンサーが誰になるのかという点でみれば、基本的に企業と個人で考えるしかないだろう。需要サイドの事情を考えれば、実学志向がさらに強まるのは当然だ。

研究開発によるイノベーションが、企業だけではなく国家の命運も握っているのが現代という時代だ。研究開発のスピードが弱まることは考えにくい。研究開発のアイデアは研究者「個人」から生まれるものだが、それをバックアップするのは基本的に民間の研究機関という「組織」であり、研究型大学という「組織」である。

そして、「学び」(=ラーニング)という観点にたてば、「個人」の観点が最重要になることは言うまでもない。

本書の最大の問題点は、メディア論であるにもかかわらず、20世紀最後の四半世紀における「インターネット教育」の詳細が語られていないことだ。通信教育、遠隔教育、サテライト授業、大学講義のネット無料公開など、「学び」という視点に立つと、明らかにスポンサーは個人であることがわかるはずである。

大教室のブローキャステキング型授業は、完全にインターネットにとって代わられるのは間違いない。自宅でもいいし、ノマドとしてカフェで視聴すればいいのであって、わざわざ大教室に行かなければならない理由がまったくない。インタラクティブな授業もネットで可能なことは、「NHK白熱教室」で英米の名門校の授業を視聴すれば理解できるはずだ。

インタラクティブ、双方向性、対話(ダイローグ)。メディアの世界で使われているコトバだが、コミュニケーションの本質がこのコトバに集約されている。

個人がほしいのは、卒業証書(=ディプローマ)という大学ブランドと、大学同窓生という人的ネットワークに尽きるといっても過言ではない。経歴詐称問題やカネで学位を出すディプローマ・ミルがはやる理由はここにある。大学卒業後の人生のほうがはるかに長く、個人の「学び」も実社会におけるもののほうがはるかに大きい

では、個人が大学に期待するものは何か? 

わたしは日本人が大好きな文系理系といった区分にかかわりなく、数字を含めたコトバの運用能力と対人関係構築スキルの二つに尽きると考える。これは実社会で生きていくための基礎の基礎である。自分で考えるための思考能力と、自分で実行するために他者を巻き込むためのコミュニケーションである。

そう考えれば、今後も残るのは、人文社会科学系であれば少人数の「ゼミナール」、自然科学系と工学系であれば実験を中心とする「研究室」。大学の強みはここにしかない。フェイス・トゥー・フェイスの少人数授業である。全人格による学びあいの「場」である。ワークショップといってもいいし、「私塾」的形態だといってもいいだろう。

リアルな「場」における少人数教育は、視覚情報と聴覚情報に限定されたネット教育を越えた五感がフル動員される「場」であり、だからこそ存在意義があるのである。ゼミのあとは「交流の場」として飲食をともなうコンヴィヴィアルの機会をもつことも、参加メンバーのインタラクションのあり方としてはきわめて効果的である。

「実学」を深掘りする専門教育「実学」を幅広いパースペクティブに位置づけ、イマジネーションの力を高めるための「教養」という「リベラルアーツ」。

「実学」と「教養」の二つに分解すると、大学の未来像も見えてくるはずだ。「実学」×「教養」は、拙著『人生を変えるアタマの引き出しの増やし方』(こう書房、2012)で詳述したように、「専門」×「雑学」と言い換えてもいいだろう。この二つに本格的な取り組みができるかどうかは、大学単位や学部単位ではなく研究室単位となる。

著者も言及しているように、寺子屋をふくめた「私塾」は、もともと江戸時代の日本では当たり前の「学びの場」であった。それが大きなヒントになるはずだ。研究室を私塾と捉え直すのである。

以上、本書を材料にして私見を述べてみた。教えを提供する側の「大学人」ではなく、学ぶ側の「個人」に立ち位置をおけば、大学の将来像も見えてくるのではないかと思うのである。

そのためにも、大学という制度の変遷について歴史的に整理しておくことは大事なことだ。材料を提供してくれる本として読む価値はある。







<参考 出版社による内容紹介>

大学の理念を再定義するために (岩波新書編集部)
 大学はいま、十数年にわたる大改革を経て、様変わりすると同時に、かつてないほどの困難な時代を迎えています。現在の危機は何に起因し、これから大学はどの方向へ踏み出していくべきなのか―。学生や大学関係者のみならず、多くの市民がこの答えを求めているのではないでしょうか。いま必要なのは、「大学とは何か」という理念的で根源的な議論のはずです。本書は、社会学者の著者が真正面からそれに取り組んだものです。
 本書では、大学を〈知のメディア〉として捉え、中世ヨーロッパにおける誕生と死、近代国家による再生、明治日本への移植、そして戦後の再編という大きな歴史のなかに位置づけ直します。そして、そうした歴史的把握を通して、大学の理念の再定義を試みるという大胆で挑戦的な論考です。この新書をきっかけに、大学に関する本質的な議論が深まることを期待します。(出所: 岩波書店公式サイト)


目 次

序章 大学とは何か

第Ⅰ章 都市の自由 大学の自由  
 1. 中世都市とユニヴァーシティ
 2. 学芸諸学と自由な知識人
 3. 増殖と衰退-大学の第一の死 
第Ⅱ章 国民国家と大学の再生 
 1. 印刷革命と「自由な学知」
 2. 「大学」の再発明フンボルトの革命 
 3. 「大学院」を発明する-英米圏での近代的大学概念


第Ⅲ章 学知を移植する帝国  
 1. 西洋を翻訳する大学
 2. 帝国大学というシステム
 3. 「大学」と「出版」のあいだ
第Ⅳ章 戦後日本と大学改革  
 1. 占領期改革の両義性
 2. 拡張する大学と学生叛乱
 3. 大綱化・重点化・法人化
終章 それでも、大学が必要だ

あとがき
主な参照文献一覧



著者プロフィール

吉見俊哉(よしみ・しゅんや)
1957年東京都生まれ。1987年東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。現在は、東京大学大学院情報学環教授。社会学・文化研究・メディア研究。著書に『親米と反米-戦後日本の政治的無意識』 『ポスト戦後社会』(以上、岩波新書)をはじめ、『都市のドラマトゥルギー』(弘文堂、現在は河出文庫)、『博覧会の政治学』(中公新書、現在は講談社学術文庫)、『メディア時代の文化社会学』(新曜社)、『「声」の資本主義』(講談社)、『カルチュラル・スタディーズ』(岩波書店)ほか多数。(出版社サイトより)。



<関連サイト>

グーグルの逆説: 資本主義的でないものを追求し利益を上げる (小栁祐輔、ハーバード・ダイヤモンド・レビュー、2014年04月09日)
・・「違いを作り出せるような人は、「お金で買えないもの」を欲する。先生は、従来そういった人材が集まった場所として大学を挙げられた。そこには、自由で文化的な環境、社会的な尊敬、一緒に働いて面白い優秀な同僚などがある。それらは、大学よりも良い給料に加えて、グーグルが提供しているものに他ならない ・・(中略)・・ 結果的に従業員が、20%は自分の興味のあるプロジェクトをやり、いろんなイノベーションが起き、それが最終的に会社に戻ってきて、資本主義を標榜しないグーグルが、資本主義的にも最も成功した会社になってしまったという逆説なんですね。これが非常に面白い」  
ここに登場する「先生」とは、資本主義の本質に鋭い考察を行ってきた経済学者の岩井克人・東京大学名誉教授のこと。グーグルは、大学よりも大学らしい「キャンパス」で、最先端の研究からビジネスを生み出している。研究者にとっては、大学よりも刺激的な場となっているようだ

「教養? 大学で教えるわけないよ」 英国名門大、教養教育の秘密【前】 (池上 彰他、日経ビジネスオンライン、2014年6月24日)
・・東工大における「教養教育」の実践者ったいが英国流の「教養」について語り合う

「伊藤: 専門外の人に自分の専門をアピールするためには、単に分かりやすく伝えるだけではなくて、自分の専門が私たちの生きる社会とどのように結びついているか、その部分について相手に実感してもらう必要があります。なぜ、そういった会話が自然にできるのか。それは、イギリスの大学では、社会との関係を常にイメージしながら専門教育を進めているからです。そしてまさにこの部分をイメージする力が教養なのです。イギリスでは、教養は「専門外の知識」ではありません。「専門を活かすための知識」が教養なのです。
池上: なるほど。
伊藤:こうしたイギリスの教養観をひとことで表すのが「transferable skill」という言葉です。


大学はもう死んでいる?- 東京大学・吉見俊哉教授(academist journal 編集部 2018年10月18日)

(2019年12月14日 情報追加)


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書評 『教養の力-東大駒場で学ぶこと-』(斎藤兆史、集英社新書、2013)-新時代に必要な「教養」を情報リテラシーにおける「センス・オブ・プローポーション」(バランス感覚)に見る
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顧みるべき日本の伝統

書評 『独学の精神』(前田英樹、ちくま新書、2009)-「日本人」として生まれた者が「人」として生きるとはどういうことか
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(2015年7月17日、2016年1月5日 情報追加)


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