2015年9月22日火曜日

書評『ハーバード大学は「音楽」で人を育てる ー 21世紀の教養を創るアメリカのリベラルアーツ教育』(菅野恵理子、アルテス、2015)ー 音楽は「実学」であり、かつ「教養」でもある



『ハーバード大学は「音楽」で人を育てる ー 21世紀の教養を創るアメリカのリベラルアーツ教育』は、音楽関係の書籍の専門出版社アルテスの新刊。

たまたま書店の店頭でみかけてすぐさま購入することにしたのは、「リベラルアーツとしての音楽」というテーマが、わたしには刺さるものがあるからだ。

「ハーバード白熱教室」の成功以来、ハーバードと冠につけた便乗本があふれている。だが、本書はそうではない。アメリカではじめて総合大学に音楽学科を新設したのがハーバード大学だからだ。ハーバード大学をはじめとするアメリカの著名な総合大学における音楽教育への取り組みを網羅的に取り上げて解説している。

ハーバード大学で音楽教育がはじまったのは、意外なことに1855年のことらしい。たかだか160年前に過ぎないのである。その後、イェール大学やコロンビア大学、スタンフォード大学など、名だたる総合大学が音楽学科を設置するようになって現在に至っているのだが、なんと MIT のような工科大学でも「音楽学科が設置されているのである! 音楽教育が、演奏家育成を目的にしたものだけでなく、広い意味でリベラルアーツ(・・いわゆる「教養」)に位置づけられているためだ。

日本では大学レベルの音楽教育といえば、もっぱら芸術系大学が中心となっているが、アメリカでは総合大学の音楽学部出身者の演奏家が少なくない。ジュリアード音楽院などの音楽大学を凌駕(りょうが)する勢いがあるようだ。音楽を演奏技術だけでなく、幅広いパースペクティブのもと、社会のなかに位置づけていることが大きな意味をもっているのだ。

さらにいえば、音楽を楽しむ層の裾野を広げるということも、総合大学の音楽大学の使命とされている。鑑賞するだけでなく、みずから演奏する楽しみである。もちろん基本となるクラシック音楽が中心であるが、ジャズやロック、民族音楽にも目配りは広い。

アメリカの音楽学部や音楽学科では、プロの演奏家志望の学生だけでなく、他学部の学生も履修可能である。演奏家志望の学生にとっては「実学」であり、そうではないが音楽を愛し楽しむ学生にとっては、現代社会に生きるための「教養」となる。ここで「教養」といったが、それはたんなる「知識」のことではないことは言うまでもないだろう。

音楽は、ラテン語でいえば、アルテス・メカニカエ(artes mechanicae)であり、アルテス・リベラーレス(artes liberales)でもある。後者は英語のリベラルアーツのことだが、アート(art)を「芸術」と訳したのでは本当の意味が見えてこない。アートは、芸術であり技術でもある。つまりは「術」ということがその本質である。

「第4章 音楽はいつから<知>の対象になったのか-音楽の教養教育の歴史」において、古代ギリシアから古代ローマ、そして西欧中世を経て、音楽の国ドイツからアメリカへの流れをくわしくトレースしているが、そもそも音楽をリベラルアーツとして位置づけてきたのが西欧文明なのである。

古代ローマから中世にかけて音楽は数学として理論的に捉えられてきたが、演奏技術と音楽理論の乖離(かいり)が存在したといえるかもしれない。近代以降、とくにルター改革を経たドイツでは「数学としての音楽」ではなく、「音楽としての音楽」が主流となり、その延長線上にアメリカの音楽教育があることが本書に記されている。具体的にいえば、ドイツ北部のゲッティンゲン大学に学んだアメリカ人教育者たちが、ハーバード大学においてその路線を継承したのである。

アメリカでは「音楽の知」という観点から、音楽が積極的に評価されていること。総合大学における位置づけは、本書によれば以下のようになる。

●ハーバード大学: 音楽で「多様な価値観を理解する力」を育む
●ニューヨーク大学: 音楽で「歴史をとらえる力」を学ぶ
●マサチューセッツ工科大学: 音楽で「創造的な思考力」を高める
●スタンフォード大学: 音楽で「真理に迫る質問力」を高める
●カリフォルニア大学バークレー校: 地域文化研究の一環として
●コロンビア大学とジュリアード音楽院: 単位互換から協同学位へ

古代ギリシアでは、集団間でのハーモニー(=調和)を生み出し、個としての人格陶冶(とうや)となるという観点から、音楽は「市民」(=自由人)のたしなみであったことが想起される。まさにリベラルアーツが、奴隷ではない「自由」人を「自由」人たらしめるものであることのよりどころであった。その意味では、西洋音楽を導入した日本が、音楽を音「学」ではなく、音「楽」として受容したことは意味あることであったと思うのである。

本書は、あらたな時代のリベラルアーツのあり方について、教育改革の最中にある日本の大学にとっても示唆するものが多いといえよう。また、音楽専攻を志している若者たちへの大きな動機付けにもなるだろう。

ただ、音楽を専攻していない人にとっては、やや理解しにくい点が多々あるのが残念だ。内容的には盛りすぎ、詰め込みすぎなので、やや読みにくいの。もうすこし内容を練ってストーリー性をもたほうが良かったのではないかと思う。「社会と音楽の関係」というテーマについては、テーマがテーマだけに社会学的な考察もほしい。

音楽学部が、演奏家育成という実技教育(あるいは「実学」教育)であり、かつリベラルアーツ教育(=「教養」教育)でもあるというその意味について、両者の複雑で微妙な関係についての突っ込んだ考察がほしいところだが、これは後日に期すべきことであろう。

「リベラルアーツとしての音楽」というテーマは、今後さらに重要になるといっていい。いまだに存在する「教養イコール読書」という旧来型の思い込みは、早く捨て去る必要がある。アメリカから学ぶべきことは、まだまだ多い。


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目 次

はじめに
第1章 音楽<も>学ぶ-教養としての音楽教育
 音楽はいつから大学の中にあたのか?
 ハーバード、スタンフォード、ニューヨーク大学-各大学で1000人以上が音楽を履修
第2章 音楽<を>学ぶ-大学でも専門家が育つ
 音楽学科はどこに属しているのか?
 音楽を中心に幅広く学びたい
 音楽の専門家をめざして
 なぜ大学で音楽を?
 大学と音楽院の提携プログラムから
 音楽院でも高まるリベラルアーツ教育の需要
第3章 音楽を<広げる>-社会の中での大学院の新しい使命
 大学から社会へ-どのように実社会へつないでいくのか
 実社会は音楽・芸術をどう見ているのか?
 社会から大学へ
第4章 音楽はいつから<知>の対象になったのか-音楽の教養教育の歴史
 リベラルアーツの未分化期
 リベラルアーツの広まり
 リベラルアーツの学位化
 リベラルアーツの近代化
 リベラルアーツの拡大化
第5章 音楽<で>学ぶ-21世紀、音楽の知をもっと生かそう
 グローバル時代に求められる人間像は?
 大学のリベラルアーツは変わるのか?
 未来世代はどのような音楽環境を迎えるのか?
おわりに-音楽の豊かなポテンシャルをみいだして
引用・参考文献
コラム
インタヴュー


著者プロフィール

菅野恵理子(すがの・えりこ)
音楽ジャーナリストとして世界を巡り、国際コンクール・音楽祭・海外音楽教育などの取材・調査研究を手がける。『海外の音楽教育ライブリポート』を連載中(ピティナHP)。著書にインタビュー集『生徒を伸ばす! ピアノ教材大研究』(ヤマハミュージックメディア)がある。上智大学外国語学部卒業。在学中に英ランカスター大学へ交換留学し、社会学を学ぶ。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会勤務を経て現職。ピアノを幼少・学生時代にグレッグ・マーティン、根津栄子両氏に師事。全日本ピアノ指導者協会研究会員、マレーシア・ショパン協会アソシエイトメンバー。(出版社サイトより)



PS ジュリアード音楽院とコロンビア大学の「コンバインド・プログラム」

コラムで世界的なヴァイオリニスト・諏訪内晶子のインタビューがあるが、くわしくは彼女自身の著書 『ヴァイオリンと翔る』(NHKライブラリー、2001 単行本初版 1998)を参照。ジュリアード音楽院とコロンビア大学の「コンバインド・プログラム」を受講し、コロンビア大学では政治学や政治思想史の授業を聴講したという。とくに日本人にとっては、西洋音楽が生み出されてきた背景についての深い知識が不可欠である。


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