「歴史にイフはない」というよく知られたフレーズがある。だが、このフレーズにこだわって禁欲的になりすぎるのは、あまり生産的ではないと思う。
たしかに、時間の流れというものは、未来からやってきた時間が現在を通過したその瞬間に過去になっていくので不可逆であるのだが、「もしかしたらありえたかもしれない可能性」について考えることはきわめて意味のあることではないだろうか。
なぜなら、歴史というものには必然性はないし、あたかもブラウン運動のように、個々の事象が玉突き現象のような形でランダムウォークする複雑な動きの軌跡と捉えるべきだと考えているからだ。それは複雑系でいう「カオス」であり、確率論が支配する世界だといってもいい。
マイブームというわけでもないが、ここのところ江戸時代関連のものばかり読んでいる。そのなかでも、日本経済史の大石慎三郎氏の著作はきわめつけに面白い。
『徳川吉宗と江戸の改革』(大石慎三郎、講談社学術文庫、1995)、『田沼意次の時代』(大石慎三郎、岩波現代文庫、2001)、『将軍と側用人の政治 新書・江戸時代①』(大石慎三郎、講談社現代新書、1995)と続けて読んでみたが、それぞれ重複しているものも多いとはいえ、ひじょうに新鮮な印象を受けている。
とくに興味深いのは田沼意次(たぬま・おきつぐ 1719~1788)の取り上げ方。賄賂政治家としていまだに糾弾されつづけている田沼意次だが、経済関連の官僚政治家としての構想力の大きさと実行力には目を見張るばかりだ。
田沼意次が実行した政策は、間接税としての流通税の導入、国内通貨統一(・・江戸時代は金銀複本位制だった)、北方開拓とロシア貿易、印旛沼干拓などあるが、スケールの大きさと先見性にはあらためて驚かされる。しかしながら、失脚によって政策の多くが中途で挫折したのはきわめて残念なことだ。通貨統一は明治4年(1872年)の「円」の誕生によってようやく完結、印旛沼干拓工事はなんと「戦後」の昭和21年(1946年)まで再開されなかったのだ。
田沼意次にまつわる悪評は、ほぼすべてが「抵抗勢力」をバックにつけて登場した松平定信によるものだと考えられている。まことにもって「男の嫉妬」は恐ろしい限りだが、田沼意次が失脚することなく政策が完全に実行されていれば、一世紀以上早く「近代化」していた可能性があるという大石氏の見解にはうなづかされるのである。近代化が全面的な西欧化ではなかった可能性もあったかもしれない。
「もし田沼意次が失脚していなければ・・・」について考えることはじつに面白い。そのようなことを書いている大石氏のことをさして、「イフを語れる歴史家はホンモノだ」と、わたしがいうのはそういうことだ。
歴史というものが直線的に進むものではなく、行きつ戻りつしながらジグザグに進んでいくものだ。これを十分に理解していれば、今後の日本についても過度の悲観論や楽観論をもつことが無意味なことも理解されることだろう。
わかっているつもりでいながら、じつは多くの人にとってよくわかってないのが江戸時代。もちろん、わたしも例外ではないが、だからこそ江戸時代について知ること、考えることは面白い。
著者プロフィール
大石慎三郎(おおいし・しんざぶろう)
1923年~2004。日本の歴史学者。専門は近世日本史。東京大学文学部国史学科卒業。学習院大学名誉教授。徳川林政史研究所長、愛媛県歴史文化博物館館長を歴任。近世農村史の研究から歴史研究に入り、その後、享保の改革を生涯の研究テーマとした。また、江戸時代が舞台となったNHK大河ドラマの時代考証を数多く担当した。著書多数。(wikipediaの記述に加筆)
What if ~ ? から始まる論理的思考の「型」を身につけ、そして自分なりの「型」をつくること-『慧眼-問題を解決する思考-』(大前研一、ビジネスブレークスルー出版、2010)」
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