(いただいたオリジナル原稿をスキャンしたもの 1ページ目)
古田博司・筑波大学大学院教授から、産経新聞の「正論」コラム向けに書いた文章が掲載拒否されたので、その内容に賛同するのであれば、ブログにアップしてもらえないかという依頼がありました。
「内容が高度すぎて新聞向けではない」という理由で掲載を断られたとのことです。この掲載拒否にかんして、古田先生は、「新聞というものは、そこに書かれていることはすべて過去であり、未来にかんしては怯懦(きょうだ=臆病な、という意味)である」、という感想を強められたようです。
「掲載拒否された原稿」については、その内容にかんしては、わたくしも賛同しておりますので、「ブログへの掲載を快諾」した次第です。
■はじめに
いただいた原文をそのままアップしてますが、タテ書きの原稿をブログ用にヨコ書きに変換したため、読みやすくするために、以下の処理を行ってあります。
行替えを増やしたこと、漢数字をアラビア数字に変換したこと、ルビを( )のなかに入れたこと。それ以外には、「原文」にはいっさい手を入れておりません。
一読して理解しにくい用語などがあると思いますので、「原文」のあとに、必要最小限の「注釈」を「コメント&コメンタリー」という形で行ってあります。
あくまでも「解釈」は、「原文」に即して、皆さんご自身で行っていただきたいと思います。
では、「掲載拒否された文章」の「原文」に目を通していただきますよう。
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現代は先見と常識で生き抜こう 古田博司
《理想と理念の近代は終わった》
今日は、「先見」の有用性について語ろう。近代は理想と理念の時代だった。だが終わってみると、「社会主義」は収容所群島に成り果て、「開かれた国益」(2001年、外交理念)は北朝鮮からのミサイルに化けたではないか。我々は理想や理念にはもううんざりしている。
ならば先のことにうまく対処できる先見の方が、ずっと良いではないか。それにはいつも考えていることだ。コツは、「欠如・例外・近似」の三点把握である。「零戦にはなぜ防御板がないのか」(欠如)とか、「ダビデはなぜ地下水道からエルサレムを攻略したのか」(例外)とか、「前川喜平文科省前事務次官はなぜ断末魔のように吠えるのか」(近似)とか。すると、それを埋めるように直観が飛来する。
「あっ、そうか」と思うようなコマの到来があったら、未来過去にかかわらず、自分の「今」のカーソルをそこに当てるのである。なぜなら、外界に今はない。今があるのは私の体内時間(持続)なのだ。これが私の実存である。
そこから、カーソルを往復運動させて、記憶(自分の過去経験)と記録(他者の過去記述)の中からコマを切り出して並べ、因果の意味を見出すのである。
簡単に言えば、外の変化にサッと気づき、記憶と記録から関連のコマをパッパと切り出し、脈絡あるなと思ったら言語化する。そのとき自分の持つ未来像や俗説を色々修正し、外の変化の意味を人々に語るのである。天気予報や地震予報に似ているが、系(コマ)の中で物理法則が使えない。始まりは直観によるコマの到来になる。
《未来予測とは先見のことだ》
宮家邦彦さんは先見(フォーサイト)の達人だ。前川喜平氏の例で、「あれは日本官僚の断末魔だ」(近似)というコマに今カーソルを当て、官僚が自治王国を作ってきた過去のコマを次々と切り出す。
(1)大蔵省スーパー官庁の擬制、(2)族議員の養成、(3)勉強エリートの継続リクルートと、暴走しないようにコマはできるだけ少なく取る。こうして絶対服従と天下りと民間平均以上の生涯給与を保証することで、官僚王国の体内倫理が生まれた。
そしてこれをぶち壊したのが、2014年の内閣人事局設置だと、変異系のコマに今カーソルを大手のように当てるのである。これで官僚は次官ではなく、官邸に服従を誓わざるを得なくなった。
あとは論理的に未来を語る。今や優秀な人材は官僚を志向しない。彼らを行政府に取り込めない。民間にいる人材を政策過程に取り込むしかないだろう。(宮家邦彦「国際問題第75回 前川前次官は官僚王国ニッポンの黄昏」「週刊新潮」7月6日号)
哲学者のハイデガーが『存在と時間』の中で、訳の分からないことを言っていた。記録(資料や史料)は、書かれているのは過去のことだが、我々が向かうときは未来なのだ、という。意味が分からないので、私は何年も考え続けた。
ある日。直観が到来した。「あっ、そうか。記録の中でも先見(プレシャンス)を使うのだ。他人の記憶だから想起は使えない!」(欠如)。
《先見は歴史研究にも使える》
私は今、WILL という雑誌で、旧約聖書を社会科学するという実験を行っている。わざと勉強しないようにして直観と常識だけで読み解くのだ。
ダビデのエルサレム攻略のところで、変異系のコマが到来した。ダビデよ、「あなたはけっして、ここに攻め入ることはできない。かえって、めしいやあしなえでも、あなたを追い払うであろう」(サムエル記下5-6)と、敵のエブスという民族が言う。ここが変だ(例外)。
そこで私の今カーソルを記録の中で往復運動させ、関連のコマを切り出す。
(1)新約聖書のヨハネ福音書中、ベテスダという人工池で盲人、足なえが憩っている。(2)ダビデは攻めるときに、「めしいたち」を撃てと兵を鼓舞している。(3)ダビデはエブス人を滅ぼさず包摂した。ヒビという民族は、イスラエルに敗れて井戸水をくむ奴隷となったが、後に人工池を持つギベオン人になり、神の家が置かれる有力都市になった。
人工池を持つ町は有力都市だ。当時、この地方の池のほとりには、移動しにくい障碍者がいた。人は3日水を飲まないと死ぬ(常識)。ダビデは、エブス人が人工池を誇っていることに気づき、地下水道から兵をあげて攻めた。給水技術に優れた民族は滅ぼされず、包摂されたが強い民となって再生した。こんなことが「先見」でわかる。
つまり何を言いたいのと言えば、もっと「先見」と「常識」を使って、理想も理念も失われた近代以後を力強く生き抜こうという提言である。
最後に、理念や理想が、先見と常識に敗れる例を挙げておこう。
朝日新聞の社説「韓国民主化 歩み30年不断の進化を」(6月30日付)。韓国で、軍事政権に対し反体制勢力が「民主化宣言」を勝ち取り、その文脈で市民勢力が朴槿恵を弾劾・罷免した。民主化は30年間ふだんに進歩している、というのである。
どこの民主国家に大統領をやっつけて万歳し、次の大統領選挙で踊り狂っている国民がいるのか。常識がなさすぎるというものである。
(以上)
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(いただいたオリジナル原稿をスキャンしたもの 2ページ目)
以下の「コメント&コメンタリー」は、このブログのオーナーである、わたくしこと 佐藤けんいち によるものです。あくまでも個人的見解であることを、はじめにお断りしておきます。
■コメント&コメンタリー
正直いって、あまりにも圧縮された文章なので、一度目を通しただけでは理解しにくいかもしれません。ですが、虚心坦懐に2~3回繰り返して読めば、理解できる人も少なからずいるのではないでしょうか。
とはいえ、使用されている「用語」については、辞書を検索しても理解しにくいものがあるかもしれません。参考のために注釈を加えておきます。
●「コマ」?
正直いって、わたくしも「コマ」が何を意味しているのかよくわからないので、古田先生に直接質問してみました。
「系(コマ)について」は、『正論』(2017年9月号)に掲載予定の連載コラム 「近代以後 no.39 「先見」は理想に代わり得るか」に書いたので、参照して欲しい、とのことです。発売日は、2017年8月1日です。
「コマ」は「フィルムのコマ」のことです。「記憶の一齣」の「齣」(こま)のことですね。「齣」とは、「枠(フレーム)のあるなかの小区画」のことです。マンガの「コマ」や、授業の「コマ」という表現もあります。
●「過去」イコール「未来」?
「哲学者のハイデガーが『存在と時間』の中で、訳の分からないことを言っていた。記録(資料や史料)は、書かれているのは過去のことだが、我々が向かうときは未来なのだ・・・」 という文章が「原文」にありますが、「近似」という観点から、補助線を引いておきましょう。
この点にかんしては、わが恩師の阿部謹也先生も、「近似」したことを言ってます。「歴史発見のおもしろさというのは、異文化との接触といってもいいし、SF的なおもしろさといってもいい」、と。『ビジネスパーソンのための近現代史の読み方』(ディスカヴァー・トゥエンティワン、2017)より引用(P.24 より)。
さすがに「過去」は「未来」であるとまでは言ってませんが、「過去」だけでなく「未来」もまた、「現在」に生きる自分という存在から見れば、「異世界」であり「未知の世界」である点においては同等なのだ、という意味でしょう。「SF的なもの」とは「先見」でありますが、かならずしも「未来」についてだけあてはまるわけではないということですね。
もちろん、その「過去」の「記録」(・・そもそも「記録」というものは他者によるものであり、すべて過去に属する)に向かう際には、「近似」だけでなく「例外」、「欠如」を念頭に置いて考えてみると、「先見」が得られるかもしれませんよ。
あるいは「異文化」へのアプローチという方法論でもよいのかもしれません。自分が属する文化を軸にして、「近似」「例外」「欠如」のすべてを総動員して理解しようという知性の働きが、「異文化理解」だからです。
とはいえ、「先見」はさておき、「常識」の働かせ方がキモになるかもしれません。「常識」にとらわれず、しかし「常識」をフルに働かせるのは、意外と難しい課題ではありますからね。
「先見」と「常識」は、「ケーススタディ」分析の基礎とすべきものでありましょう。それは言い換えれば、「実学として歴史学」ということになるのです。
<ブログ内関連記事>
■古田教授の著書
書評 『ヨーロッパ思想を読み解く-何が近代科学を生んだか-』(古田博司、ちくま新書、2014)-「向こう側の哲学」という「新哲学」
書評 『使える哲学-ビジネスにも人生にも役立つ-』(古田博司、ディスカヴァー・トウェンティワン、2015)-使えなければ哲学じゃない!?
書評 『日本文明圏の覚醒』(古田博司、筑摩書房、2010)-「日本文明」は「中華文明」とは根本的に異なる文明である
書評 『「紙の本」はかく語りき』(古田博司、ちくま文庫、2013)-すでに「近代」が終わった時代に生きるわれわれは「近代」の遺産をどう活用するべきか
書評 『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(古田博司、WAC、2014)-フツーの日本人が感じている「実感」を韓国研究40年の著者が明快に裏付ける
■「原文」で言及されている関連事項
書評 『語られざる中国の結末』(宮家邦彦、PHP新書、2013)-実務家出身の論客が考え抜いた悲観論でも希望的観測でもない複眼的な「ものの見方」
■「実学としての歴史学」
書評 『ヨーロッパとは何か』(増田四郎、岩波新書、1967)-日本人にとって「ヨーロッパとは何か」を根本的に探求した古典的名著
・・一橋大学の「歴史学」は、明治時代の東京高商時代に「実学」から出発した
JBPress連載第4回目のタイトルは、 「トランプ陣営「2人の将軍」の知られざる共通点-マティス国防長官の座右の書は古代ローマの古典」(2017年7月18日)
・・実務家にとって歴史をたんなる「教養」に終わらせないために必要なこととは?
JBPress連載第5回目のタイトルは、「歴史家」大統領補佐官はトランプを制御できるか-ベトナム戦争の「失敗の本質」を分析したマクマスター氏(2017年8月1日)
・・歴史家としての専門トレーニングを受けて歴史学で博士号(Ph.D)をもつ将軍
(2017年8月2日 情報追加)
(2017年5月18日発売の新著です)
(2012年7月3日発売の拙著です)
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