2021年3月27日土曜日

飯山陽氏の著書3冊を「逆回し」で一気読み-『イスラム教再考』(扶桑社新書、2021)・『イスラム2.0』(河出新書、2019)・『イスラム教の論理』(新潮新書、2018)

 
「イスラーム」と表記することが当たり前になっている現在の日本だが、それに異議を唱えて「イスラム教」とかたくなに表記する研究者がいる。 

「イスラム法」の研究で博士号を東京大学で取得した研究者で、アラビア語通訳の飯山陽(いいやま・あかり)氏だ。その孤軍奮闘ぶりは、 twitter で大いに発揮されている。 

3冊目となる新刊が出たので、ついでに3冊全部まとめて読んでみることにした。買ったまま「積ん読」となっていたからだ。読んだ順番は、最新刊の第3作から「逆回し」で第1作まで遡った。 


つづけて3冊読んだが、見解と主張は見事なまでに首尾一貫している。まったくブレがない。飯山氏の主張のエッセンスを、私なりに簡単にまとめておこう。 



■イスラム教の歴史1400年で「革命」としかいいようがない事態が発生

「神の法」が支配する「イスラム教の世界」は、日本人もそのメンバーである「近代世界」とは原理的に相容れない。なぜなら、後者の「近代世界」は「人間がつくった世俗法」によって支配されている世界だからだ。まったく異なる価値体系にもづく世界なのである。 

イスラム教の聖典である『コーラン』や『ハディース』に記されていることは、預言者ムハンマドを媒介にして神から啓示されたものであり、神のことばなのである。聖典に書かれている字句どおりにそのまま受け取ることが本来のあるべき姿なのである。これがイスラム教における原理原則だ。 

ところが実際には、イスラム法学者は世俗の権力者と癒着し、「神の法」を権力者の意向に沿って曲げて解釈してきた。問題が顕在化することはなかったのは、文字の読み書きを知らない一般民衆が、日々の暮らしに追われて疑問をもつことがなかったからだ。
  
これが、610年のイスラム教誕生以来、1400年にわたる長いイスラム史の実態である。 

状況が激変したのは、20世紀末から始まったインターネットと21世紀初頭以降の SNS の急速な発展である。これがイスラ世界でも「革命」ともいうべき事態を引き起こしたのである。

インターネットによって「聖典」に直接アクセスできるようになった結果、イスラム法学者によるイスラム教解釈の独占状態が崩壊してしまったのである。「聖典」に記されたことばはアラビア語で書かれているが、アラビア語が読めなければ自動翻訳機能をつかえばいい。 

ーー「なんだ、いままでイスラム法学者が説いてきたことと、聖典に書かれていることが違うではないか!」
--「いままで自分は騙されてきたのか?」 

そういった、心の奥底からの叫びがわき上がってくる人が急速に増えてきたのだ。

この状況をさして飯山氏はイスラム2.0」と命名している。 このネーミングはすばらしい。現象をじつに鮮やかに表現したキャッチーなものだ。『イスラム2.0-SNSが変えた1400年の宗教観』(河出新書、2019) は、その意味で必読書である。

イスラム教の歴史1400年のなかで、ほとんど「革命」としかいいようのない状況が発生しているのである。キリスト教の歴史における「宗教改革」(15世紀)に匹敵するといっていいだろう。「原理主義」の誕生である。

こうして「聖典」に直接アクセスした一般人による主張が、YouTube などをつうじて拡散し、非イスラム教徒に対する文字通りの「ジハード」(聖戦)を実行する人間が 生まれてきたわけだ。

都市の富裕層や教育を受けた知識階層、しかも若年層がテロの担い手の中心になっているのは、そういう背景がある。インターネットにアクセスできる人間は、イスラム世界ではまだまだ限られている

貧困層がテロの担い手ではないのだ。貧しいからテロが起きるのではない。 この状況は、飯山氏は言及していないが、かつての共産主義運動にも共通するものがある。



■日本の「イスラム研究 "業界"」関係者たちがまき散らしてきた「ウソ」

ところが、日本の「イスラム研究 "業界"」に属する人たちは、「イスラムは寛容で平和の宗教」という言説で、メディアをつうじてウソをばらまきつづけているというのが、飯山氏の主張だ。 

このウソを徹底的に暴き、メッタ斬りにしているのが最新刊の『イスラム教再考-18億人が信仰する世界宗教の実相』(扶桑社新書、2021) である。

「イスラモフォビア」(=イスラム嫌い)を徹底的に批判する言説その背後にある真の動機は、「反米主義」と「ポリコレ」(=ポリティカル・コレクトネス)

自分が批判対象としているものを、イスラムに仮託しているに過ぎないのである、と。これは日本でもそうであるし、フランスでもあそうであるようだ。いわゆる「左派リベラル派」が、イスラムを礼賛する理由は、そういう動機が背景にある。

勇気ある告発である。覚悟の上のことだろう。日本のイスラム研究者集団という狭い「世間」から村八分にされても、返す刀で敵を斬る。

いわゆる「学会ボス」が仕切る「イスラム研究 "業界"」の酷さは、池内恵氏もSNSで告発しているので、調べればすぐにでもわかることだ。そのあまりにも酷さには絶句するしかない。

具体的な名前とその発言を俎上に載せて「ウソ」を暴いているので、興味のある人は『イスラム教再考』を直接読んで確かめてみるといい。かなりの有名人も含まれているので、読んでみてのお楽しみに。 



■「共生」ということばは美しい響きだが・・

「共生」ということばの響きは美しい。だが、違いを認識していこそ「共生」は可能となる。イスラム教の世界観が、近代世界の世界観と相反していることを踏まえたうえで、どこでどう折り合いをつけるか、それを考えることなしに「共生」はあり得ない。

とはいえ、日本国内においては日本の法律が優先するのは当たり前だ。それが「法治国家」というものである。たとえイスラム教徒がイスラム法を重視しているといっても、日本国内に居住する以上、世俗法である日本の法と慣習には従ってもらうのは当然の話である。 

「他者」であるイスラム教徒イスラム教徒についてただしい認識をもつために、とくに最新刊の『イスラム教再考』と、前著『イスラム2.0』は、ぜひ読むことを薦めたい。虚心坦懐に耳を傾けるべき内容が説得力をともなって書かれている。 
 
今後ますます「移民」という形で、日本でもイスラム教徒が増えていくであろう。その状況に備えなくてはならないのだ。


*****





目 次 
はじめに-イスラム研究者が拡散させた「誤ったイスラム像」 
第1章「イスラムは平和の宗教」か 
第2章 「イスラム教ではなくイスラームと呼ぶべき」か 
第3章 「イスラムは異教徒に寛容な宗教」か 
第4章 「イスラム過激派テロの原因は社会にある」か 
第5章 「ヒジャーブはイスラム教徒女性の自由と解放の象徴」か 
第6章 「ほとんどのイスラム教徒は穏健派」か 
第7章 「イスラム教を怖いと思うのは差別」か 
第8章 「飯山陽はヘイトを煽る差別主義者」か 
終章 イスラム教を正しく理解するために
参考文献







目 次 
はじめに
第1章 イスラム2.0時代の到来 
第2章 ヨーロッパのイスラム化とリベラル・ジハード 
第3章 インドネシアにみるイスラム教への「覚醒」 
第4章 イスラム・ポピュリズム 
第5章 イスラム教の「宗教改革」 
第6章 もしも世界がイスラム教に征服されたら… 
第7章 イスラム教徒と共生するために 
あとがき
イスラム事件一覧
参考文献


『イスラム教の論理』(新潮新書、2018) 




目 次
まえがき
第1章 イスラム教徒は「イスラム国」を否定できない 
第2章 インターネットで増殖する「正しい」イスラム教徒 
第3章 世界征服はイスラム教徒全員の義務である 
第4章 自殺はダメだが自爆テロは推奨する不思議な死生観 
第5章 娼婦はいないが女奴隷はいる世界 
第6章 民主主義とは絶対に両立しない価値体系 
第7章 イスラム世界の常識と日常


<関連記事>


書評  飯山陽著 『イスラム教の論理』 新潮社(松山洋平、オリエント 61–1(2018):74–78)は、学術的な立場から、飯山氏のイスラム理解に誤りがあることが記されている。
本書は、クルアーンとイスラム法の論理を解説しながら、イスラム教の本来的な教義が、「イスラム国」をはじめとする「過激派」の活動の内在的要因であることを示すものである。
著者によれば、「イスラム国」の掲げる理想が「イスラム教徒全員にとっての理想」(4頁)であることは、イスラム教の教義を「正しく」理解したのであれば当然の帰結として導き出されるという。イスラム教の「異質性」、「対話不可能性」を示しながら、著者は、楽観的な態度で「イスラム教徒との共存」を可能と考える日本人に警鐘を鳴らしている。
本書の最大の特徴は,イスラム法の理論に依拠して議論を展開する点にある。著者は、イスラム教の教義とイスラム教徒による「テロ」や「暴力」との連関の有無を論じるためには、イスラム法学をはじめとするイスラム教の理論的枠組みに言及することが不可欠であることを十分に強調した上で(6–7頁)、イスラム教の「論理」を考察の中心に据えるスタイルを全体を通して貫いている。
著者の言うように、イスラム教の行為規範の主だった問題はイスラム法学の中で論じられる。したがって、イスラム教徒の行動の宗教的背景を説明する際にイスラム法の知識が求められるという著者の主張は極めて妥当である。この方針は、本書に高い画期性を与えていると評することができる。ただし、いくつか問題点も指摘できる
第一の問題点は,著者がイスラム法学の諸理論について正確な理解を欠いていることである──これは本書の基盤にかかわる重大な問題点と言える。イスラム法の論理に依拠して議論を進めるという本書の方針は、当然ながら、イスラム法学にまつわる本書の記述が正しく,正確であることで初めて実現する。しかし残念なことに,著者がイスラム法の論理に言及する多くの部分に、理解が誤っている部分や不正確な表現を見出すことができる。以下にいくつかの例を挙げる。(・・・中略・・・)
本書は全体にわたって種々の問題が散見される。そのため、イスラム法学の知識、 クルアーン解釈(tafsīr)の知識、昨今の「過激派」と「穏健派」の解釈の異同についての知識等を備えたうえで注意深く読まなければ、イスラム教についての誤った理解をもたらす可能性が高いと言わざるを得ない。」


(2023年12月1日、3日 情報追加)


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