昨日のことだが、丸善のリアル店舗でレジ待ちをしているときに目に入ってきたのがこのトートバッグ(上掲の写真)。
おお、『人間失格』ではないか! いったい何度繰り返し読んだことか、この本は。これはいい!
税込み165円なら安いので即購入することに決定。トートバックに購入した本をいれてもらって帰宅した。
***
このトートバッグに引きつけられた理由は、「世間というのは君じゃないか」というフレーズが印刷されていたからだ。
そうか、太宰治は『人間失格』でそんな発言を主人公にさせていたのか! と。
帰宅してから、さっそく『人間失格』をチェックしてみることにした。
発表からすでに70年以上もたっているので著作権は切れているから、ネット上に無料公開されている「青空文庫」の出番だ(・・逆にいえば、そんなに昔の本なのに、いまだに読み続けられているというのもスゴイことだ)。
電子化されていることのメリットは、なんといっても検索できることにある。
「世間」で検索すると全部で28箇所あった。
「世間」ということばが連続して登場する場面があるので、まとめて取り出してみよう。
「しかし、お前の、女道楽もこのへんでよすんだね。これ以上は、世間が、ゆるさないからな」
世間とは、いったい、何の事でしょう。人間の複数でしょうか。どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。けれども、何しろ、強く、きびしく、こわいもの、とばかり思ってこれまで生きて来たのですが、しかし、堀木にそう言われて、ふと、「世間というのは、君じゃないか」 という言葉が、舌の先まで出かかって、堀木を怒らせるのがイヤで、ひっこめました。(それは世間が、ゆるさない)(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)(世間じゃない。あなたでしょう?)(いまに世間から葬られる)(世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?)汝は、汝個人のおそろしさ、怪奇、悪辣、古狸性、妖婆性を知れ! などと、さまざまの言葉が胸中に去来したのですが、自分は、ただ顔の汗をハンケチで拭いて、 「冷汗、冷汗」 と言って笑っただけでした。けれども、その時以来、自分は、(世間とは個人じゃないか)という、思想めいたものを持つようになったのです。 そうして、世間というものは、個人ではなかろうかと思いはじめてから、自分は、いままでよりは多少、自分の意志で動く事が出来るようになりました。 ・・・
「世間」は、一般に「世間の目」というフレーズで使われることも多い。いわゆる「視線恐怖」の原因である。「対人恐怖」である。
主人公は、「世間とは特定の個人のことだ」と認識することで、「視線恐怖」(=対人恐怖)から逃れるすべを身につけることができるようになったようだ。
世間。どうやら自分にも、それがぼんやりわかりかけて来たような気がしていました。個人と個人の争いで、しかも、その場の争いで、しかも、その場で勝てばいいのだ、人間は決して人間に服従しない、奴隷でさえ奴隷らしい卑屈なシッペがえしをするものだ、だから、人間にはその場の一本勝負にたよる他、生き伸びる工夫がつかぬのだ、大義名分らしいものを称ていながら、努力の目標は必ず個人、個人を乗り越えてまた個人、世間の難解は、個人の難解、大洋(オーシャン)は世間でなくて、個人なのだ、と世の中という大海の幻影におびえる事から、多少解放せられて、以前ほど、あれこれと際限の無い心遣いする事なく、謂わば差し当っての必要に応じて、いくぶん図々しく振舞う事を覚えて来たのです。高円寺のアパートを捨て、京橋のスタンド・バアのマダムに、「わかれて来た」それだけ言って、それで充分、つまり一本勝負はきまって、その夜から、自分は乱暴にもそこの二階に泊り込む事になったのですが、しかし、おそろしい筈の「世間」は、自分に何の危害も加えませんでしたし、また自分も「世間」に対して何の弁明もしませんでした。マダムが、その気だったら、それですべてがいいのでした。自分は、その店のお客のようでもあり、亭主のようでもあり、走り使いのようでもあり、親戚の者のようでもあり、はたから見て甚だ得態の知れない存在だった筈なのに、「世間」は少しもあやしまず、そうしてその店の常連たちも、自分を、葉ちゃん、葉ちゃんと呼んで、ひどく優しく扱い、そうしてお酒を飲ませてくれるのでした。自分は世の中に対して、次第に用心しなくなりました。世の中というところは、そんなに、おそろしいところでは無い、と思うようになりました。・・・
「世間」について見ていくと、「世の中」という類似語が登場してきた。「世の中」で検索すると17箇所みつかった。
「世間」と「世の中」は似ているが、ニュアンスの違いだけでなく、意味の違いもあって使い分けられていることがわかる。よく読んで確かめてみてほしい。
「世間」は具体的に想定できる範囲の人間関係であるのに対して、「世の中」は不特定多数の人間が構成している人間集団全体をさしていることがわかる。ただし、前者においても、後者においても、その範囲は漠然としていて明確な輪郭をもっているわけではない。
集合論的にいえば、「世間」は「世の中」に包含されていることになる。具体的な人間関係は、不特定の人間集団より小さいのは、当たり前といえば当たり前だろう。
ついでに、その他の関連語もみておこう。「世渡り」は4箇所だ。
かつて、『世間論』において、阿部謹也先生によって「世間」と対比的に説明された「社会」は、『人間失格』では 0箇所である。つまりただの1回も出てこないのだ。
資産家の息子として、帝大の大学生時代に「社会主義」にかぶれて左翼活動にかかわった太宰治であっても、最後の長編小説となった『人間失格』(1948年)においては、面白いことに「世間」はでてきても「社会」はまったく出てこないのだ。
トートバッグから始まった「世間」への関心の再発。こういう偶然のキッカケでいろいろ調べてみえるのも面白い。165円の出費が、思わぬ副産物をもたらしてくれたわけだ。
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